胡桃沢耕史 くるみざわ・こうし(1925—1994)


 

本名=清水正二郎(しみず・しょうじろう)
大正14年4月26日—平成6年3月22日 
享年68歳(胡桃沢耕史居士)
神奈川県横浜市金沢区富岡東3丁目23–21 長昌寺(臨済宗)



小説家。東京都生。拓殖大学卒。終戦から2年余モンゴルで抑留生活。昭和22年に復員。その後、清水正二郎の本名で、ポルノ小説を500冊以上執筆。52年胡桃沢耕史のペンネームで再スタート。『旅人よ』『ぼくの小さな祖国』『天山を越えて』で直木賞候補。『黒パン俘虜記』で58年度直木賞を受賞。







 ぼくらは船客用の固い枕を胸の下に抱いて腹這いになった。ウクライナがいった。
 「すまなかったな、乙幹さん、無理に誘ったりして」
 どうしても口に出して詫びたかったらしい。
 「なあに、十円ずつあれば、家に着くまでには何か喰える。ふかし藷でもいいさ。これまでの生活を考えれば、これぐらいが丁度いいのさ」
 ぼくの目の前で死んでいった人々のことが次から次へと浮んできた。
 正宗の短刀も、吉村隊の首吊りインテリも、その他何千人の死んで行った人も、みなそれぞれに哀れであった。だがバリトンの補充兵の死は特にいたましかった。
 それに比べてぼくらはこれから故郷へ帰れるのだ。明日の夜は多分、家族に囲まれての食膳が待っている。
急にまた腹がすいて来た。明日のタ方までの十円だ。まだ何か喰うわけにはいかない。しかし収容所の無限に続く空腹に比べれば、これは希望ある空腹であった。
 ともかく今は生きている。これからはもう死に脅やかされることはない。言葉ではとてもいい表わしようのない、幸せな思いが、温かく体中に拡がっていくのを、枕に頬をつけて、じっと味わっていた。
                                                             
(黒パン俘虜記)



 

 平成6年3月22日、「直木賞」受賞に執念を燃やした作家胡桃沢耕史は、多臓器不全のため横浜市金沢区の横浜南共済病院で生涯の幕を閉じた。
 本名の清水正二郎で性豪作家を欲しいままにして「ポルノのシミショウ」なる異名で呼ばれもしていたのだが、同人誌『近代説話』をともに立ち上げた仲間の司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾、伊藤桂一、永井路子らは皆、直木賞を受賞を果たした。なのに自分は、という思いがあったのだろうが、昭和42年、突然に世界放浪の旅に出発する。
 ——10年近くの沈黙の末、昭和52年、娘のくるみ、息子の耕史の名を取った胡桃沢耕史の筆名でカムバックしてから六年後、念願の「直木賞」を受賞、快哉と叫んでからさらに10年の歳月が流れていた。



 

 昭和11年頃に横浜海軍航空隊開設のあおりをくって、金沢文庫の鳥見塚にあった芋観世音菩薩(楊柳観音)が移され、祀られていることで名を知られる富岡山長昌寺。この寺にある直木三十五の墓が、昭和57年8月に裏山の崖上から観音堂の脇に改葬されたおり、胡桃沢はその左隣に墓地を確保したのであった。
 万が一「直木賞」受賞が不首尾に終わったときは、〈億斛の恨みをこめてここに眠る、特に名は記さず〉と墓石に刻むと友人に語っていたということだが、その思いは杞憂におわり、翌年、念願の栄誉に輝いた。
 彼の一周忌に建てられたその墓碑の頭部からズバッと斜めに切り下ろし、研磨された石面には「翔」という文字が誇らしげに彫り込まれていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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