久世光彦 くぜ・てるひこ(1935—2006)


 

本名=久世光彦(くぜ・てるひこ)
昭和10年4月19日—平成18年3月2日 
享年70歳(釈顕光) 
東京都大田区西嶺町22–32 セントメモリアル西嶺浄苑 




小説家・演出家。東京府生。東京大学卒。昭和35年東京放送(TBS)入社。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などのテレビドラマを演出、ヒットさせる。舞台の演出も手がけるほか平成6年『一九三四年冬– 乱歩』で山本周五郎賞受賞。13年『蕭々館日録』で泉鏡花賞受賞。ほかに『聖なる春』『昭和幻燈館』『怖い絵』などがある。








 私は、ほんとうに狂っていたのかもしれない。みんなの見ている前で、もう一度しーちゃんを抱こうと思ったのである。力を漲らせて私がしーちゃんの前に立つと、しーちゃんは神様みたいに澄んだ微笑を浮かべて白い脚をゆっくりと聞いた。そこには凪いだ桜色の海が暖かそうな水を湛えていた。この海に漕ぎだせば、その先には七つの海がある。私の船の水夫たちは、一つの海を渡るごとに、船縁を叩いて一つずつ優しい歌を歌うだろう。—— 天井の染みの歌、エロ本の歌、教科書の歌、遊びの歌、犯罪の歌、輝かしい夢の歌、そして私たちが七つ目の最後の航海に歌うのが、早く昔になればいい、という歌なのだ。七つの歌に送られて、私は力強く、誇らしく、しーちゃんの海へ入っていった。ああ、ここは何という長閑な暖かさなのだろう。今朝散ったばかりの、幾万株の桜の花びらを積んだ花の山へ身を投げて、ほんの少しずつ、少しずつ、沈んでいくような——それは夢の中でもう一つ夢を見ている幸福だった。(中略)——私はいま、どんな顔をしているのだろう。鏡がないからわからないが、たぶん猿に似てお道化た嬰児の顔をしているのではなかろうか。まだろくに見えない目をしばたいて、今日からつづく長い長い日々を見ようとしているのだ。そう思ったら、私の中に言いようのない懐かしい思いがこみ上げてきた。私は、自分が懐かしかった。人の世に、生まれてきたことが、ただひたすらに懐かしかった、——私は水色の涙を浮かべ、首から上だけを残して、しーちゃんの中にいた。もうとっくの昔にしーちゃんの胎内にいる足の爪先が、笑い出したくなるくらいむず痒いのは、きっとそこからしーちゃんの血が流れ込もうとしているからに違いない。私はこうして、あんなに好きだったしーちゃんの、体の奥の桜色の一部になろうとしている。黄色い月の夜が明けて、明日になったら、私は私ではなく、しーちゃんになっているのかもしれない。

(早く昔になればいい)



 

 〈私には、ずいぶん以前から、命のなくなった私の体が、布団に寝かされている光景が見える。(中略)——夏である。広々とした日本間の真ん中に私はいて、私の向うに打ち水をした庭が見える。縁側には簾が風に揺れていて、軒先の風鈴がチリンと一つだけ鳴る。部屋には死んだ私のほかに、誰もいない。家人もいないし、坊さんもいない。——私の命日は、夏のある日なのだろうか。〉と記したことがある久世光彦。執筆に専念するようになった頃からは一日の睡眠を数回に分けるようになっていた。夜の10時に夕食をとったあとベッドに入り、午前3時頃には起き出して「お八つ」を口にして書斎に向かうのが常であったが、平成18年3月2日、「お八つ」の太巻きを喉に詰まらせて倒れ、運ばれた救命救急センターで午前7時、虚血性心不全のため急逝する。



 

 父も眠る久世家先祖代々の墓は富山市の西に連なる呉羽丘陵の長岡霊園、富山藩主歴代前田家の墓の奥にあるのだが、久世光彦の墓は世田谷の自宅からも近い峯の薬師と呼ばれる観蔵院の西側、小高い丘の上にある真新しい小さな霊園の松の木の下にある。長男烈氏が平成18年9月に建てた「久世家」の墓。香炉の左右にユーモラスな犬の置物と灰皿、台石の下段に法名碑があり、久世の法名と没年月日、俗名、行年が刻まれている。〈人は死んではじめてその座標が定まる。〉と久世は言う。まだまだ冬の寒さが残っていた春3月、夏を待たずに突然の幕切れを迎えた本人もさぞ無念だったことだろうが、〈早く昔になればいい〉と願った久世の座標は此処に定まってある。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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