蔵原伸二郎 くらはら・しんじろう(1899—1965)


 

本名=蔵原惟賢(くらはら・これかた)
明治32年9月4日—昭和40年3月16日 
享年65歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園15区1種17側 



詩人。熊本県生。慶應義塾大学中退。萩原朔太郎の『青猫』に衝撃を受け詩作をはじめる。昭和14年第一詩集『東洋の満月』で詩壇に。『四季』同人。戦時中に発表した戦争詩に対して、戦後に指弾を受け、『朝鮮人のいる道』など贖罪的な詩を書いた。『戦闘機』『天日の子ら』『乾いた道』『岩魚』などの作品がある。







冬日がてつている
いちめん
すすきの枯野に冬日がてつている
四五日前から
一匹の狐がそこにきてねむつている
狐は枯れすすきと光と風が
自分の存在をかくしてくれるのを知つている
狐は光になる 影になる そして
何万年も前からそこに在つたような
一つの石になるつもりなのだ
おしよせる潮騒のような野分の中で
きつねは ねむる
きつねは ねむりながら
光になり、影になり、石になり雲になる
 夢をみている
狐はもう食欲がないので
今ではこの夢ばかりみているのだ
夢はしだいにふくらんでしまって
無限大にひろがってしまつて
宇宙そのものになつた
すなわち
狐はもうどこにも存在しないのだ
                          
(『岩魚』老いたきつね)



 

 第一詩集『東洋の満月』は悠遠な東洋の詩想世界を文字に写して一躍、詩人蔵原伸二郎の名を詩壇に馳せた。戦時下における数多くの戦争詩によって戦後は孤立を余儀なくされ、困窮しながらも『朝鮮人のいる道』などの詩を書いて償いの気持ちを示したのだった。
 昭和39年、〈野狐の背中に 雪がふると 狐は青いかげになるのだ…〉と追憶を雪原の果てに追いやった巻頭6編からなる『狐』の詩を掲げた詩集『岩魚』を発表。翌40年、読売文学賞詩歌俳句賞を受賞した。
 体調悪化により前年から北里研究所附属病院に入院していた蔵原伸二郎は、口述による受賞の言葉を呈したのみで授賞式に出席すること叶わず、3月16日死去した。



 

 〈一匹の狐が河岸の粘土層を走っていった それから後に その粘土層が化石となって足跡が残った その足跡をみると、むかし狐が何を考えて走っていったかがわかる〉と書いた詩人「蔵原家之墓」は、武蔵野の天地と風の中に建っている。墓誌には熊本、阿蘇神社の神官であった父惟暁と北里柴三郎の妹であった母イクに次いで本名蔵原惟賢の刻がみえる。
 かつて詩人は考えながら走っていたのだ。ちぎれちぎれの夢をふくらませて。〈狐は知っている この日当たりのいい枯野に 自分が一人しかいないのを それ故に自分が野原の一部分であり 全体であるのを 風になることも 枯草になることも そうしてひとすじの光になることさえも〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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