栗原貞子 くりはら・さだこ(1913—2005)


 

本名=栗原貞子(くりはら・さだこ)
大正2年3月4日—平成17年3月6日
享年92歳(釈尼貞鏡) 
広島県広島市安佐北区可部町勝木1228 共同墓地



詩人。広島県生。可部高等女学校(現・県立可部高等学校)卒。アナーキスト栗原惟一と結婚。戦時中に反戦詩を書くが昭和20年被爆。夫と「中国文化連盟」を結成し機関誌「中国文化」創刊。原爆特集号に詩『生ましめんかな』を発表するほか反戦詩集『黒い卵』を自費出版。その後も原水爆禁止運動に取り組んだ。ほかに『私は広島を証言する』『ヒロシマ・未来風景』などがある。







私の想念は無精卵のように、
いくらあたためてもあたためても
現実の雛とはならないのか、
私の胸底深く秘かにあたためている黒い卵よ、
お前がその羽をはばたかせて
飛ぶ日は来ないのか、
お前がその固い殻を破ってはばたく時
人々はどんなにお前を讃美することだろう
極楽鳥のように幸いを約束する鳥よ
はばたけ、はばたけ。

 

(黒い卵)



 

 平成17年3月6日、栗原貞子は老衰のため激烈で長い闘いの人生を終えた。昭和20年8月6日午前8時15分、この日、この時こそ、彼女を激しく生かしめた瞬間であった。原爆の閃光は戦時中さえも抵抗の詩を書いていた彼女の強靱な精神力をなお一層強くしたのだ。彼女は叫ぶ、〈死者たちよ 安らかに眠らないでください 石棺を破ってたちあがり 飽食の惰眠に忘却する 生きている亡者を はげしくゆすって 呼びさませてください〉。壊滅した広島の地獄図は彼女の原風景、あるいは原点となって反戦、反核の詩を書いた。広島の詩を書いた。原爆の詩を書いた。疑問の詩を書いた。人間の詩を書いた。そのことによって僕らは立ち上がっただろうか、僕らは抵抗しただろうか。僕らは過ちを正しただろうか。



 

 栗原貞子が暮らした祇園町長束の町を縫って走るローカル電車は、かつて彼女が通った女学校のある可部駅に着いた。駅前から乗ったバスが停車した太田川の支流段丘の停留所から川向いの山裾にある玉縄神社の木立が見えた。その後方にある共同墓地は畑の間の細い坂道をのぼった先の平地に僅かな数の墓碑を並べて鎮まっている。昭和47年5月に夫唯一と建立した「俱会一処」と彫られた栗原家碑の側面に貞子の法名と俗名に並んで彼女を支え、7年後に76歳で亡くなった長女真理子の名前も見える。傍らに平成3年2月、真理子が父唯一と母貞子に献げた「護憲」碑が敢然と佇んで、裏面に刻まれた日本国憲法の第二章戦争の放棄・第九条の文言がくっきりと読み取れる。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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