林 房雄 はやし・ふさお(1903—1975)


 

本名=後藤寿夫(ごとう・としお)
明治36年5月30日—昭和50年10月9日 
享年72歳(文修院智照房雄居士)
神奈川県鎌倉市浄明寺2丁目7–4 報国寺(臨済宗)



小説家。大分県生。東京帝国大学中退。大学在学中〈新人会〉に入り労働運動にも参加。『林檎』『繭』などの小説を発表して注目された。プロレタリア文学運動の指導者として活躍、検挙・投獄されたが、転向し出獄。昭和7年『青年』を発表。戦後は公職追放処分を受けた。『乃木将軍』『壮年』『西郷隆盛』などがある。






 

 「人間を信用したまえ!」「もし、できればね。」「では、青年を信用したまえ!」「青年の気まぐれをですか。」「青年の純粋さを!理想のために死ねるのは青年だけです。」「理想?−−なぜ野心といわないのです。青年のめくら馬のような野心なら、ぼくも理解できますがね。」「きみは、人間を理解していない。青年をも、野心をも理解していない。そして、いちばんわるいことに、理想とはなんであるか、それを理解していない!」「じゃ、かけましょう!」ビイトは、とつぜん妙なことをいいだした。おどろかされた医師は、小さなメフィストのようにわらっている写真師の顔をみかえした。「え?」「かけるんですよ、金貨を。あなたは、あの青年たちを天使のように純粋だと信じているらしい。ぼくはその逆だ。かけが成立るじゃありませんか。」「わたしは、人間を天使だとも悪魔だともいったおぼえはない。」「ではなんといったのです?」「あの青年たちは理想につかまれている………」「つかまれている?」「そう、理想につかまれている。人は、とくに青年は、ときどき理想につかまれるのです。……あの青年たちは、きっと開国論の主張をつらぬくでしょう。つらぬけなかったら進んで死ぬでしょう。理想がかれらをつかんでいるからです。わしはそれを信している。」「ちょっとわかりかねますね。」「そうです、理想につかまれた経験のないものには、それはわかりかねます。」
                                                          
(青 年)



 

 昭和初期、権力の弾圧を受けた多くのプロレタリア作家は、共産主義思想の放棄を余儀なくされた。平林たい子、中野重治、佐多稲子、村山知義、島木健作、高見順、亀井勝一郎などと同じく林房雄も転向作家の一人であった。
 戦前のプロレタリア思想、戦中は日本回帰の思想を作品に表し、戦後は家庭小説という中間小説に身を置き流行作家となった。昭和38年『中央公論』に発表した『大東亜戦争肯定論』は、公職追放処分の因になった右翼思想の復活として大きな議論を呼んだ。
 昭和11年、プロレタリア作家廃業を宣言して以来住み続けた鎌倉市浄明寺宅間ヶ谷の自宅で、胃がんのため死去したのは、昭和50年10月9日の朝のことであった。



 

 古都鎌倉の夕暮れどき、滑川に架かる「華の橋」を渡って、旧華頂宮邸や林房雄の旧宅などがある宅間谷戸に入っていくと、通称竹寺と呼ばれる禅寺・功臣山報国寺がある。
 公孫樹の巨木が若葉を広げて、山門に鴬の声が聞こえてくる。6月の鴬に戸惑いながら「竹の庭」を周っていると、竹林の合間、塀の先に墓石の配列が覗いていた。
 奥域に鎌倉特有の谷戸の墓地風景があった。崖の前、歴代住職墓を背に、軽率で欠点の多い作家ではあったが、天才的なひらめきを持った作家。「林房雄墓」があった。
 墓誌刻に右翼運動の指導者、政界の黒幕と言われた男「児玉誉志夫誌之」とあるのはその思想的、経済的な友好の証なのだろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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