本名=藤田正俊(ふじた・まさとし)
明治37年10月17日—昭和32年12月21日
享年53歳(火野葦平命名の戒名・豆腐院此処何処白獏居士)❖豆腐忌
福岡県柳川市奥州町32–1 福厳寺(黄檗宗)
東京都品川区小山1丁目4–15 長応寺(法華宗)
小説家・児童文学者。福岡県生。福岡師範学校(現・福岡教育大学)卒。昭和4年上京して浅草小学校に勤務の傍ら『白墨』などの同人誌に参加し、14年に発表した『あさくさの子』で芥川賞受賞。また『春の童謡』などの児童文学を書いた。ほかに『虹の立たない国』や北原白秋をモデルにした『からたちの花』『邪宗門』などがある。
福岡県柳川市・福厳寺
東京・長応寺
教室を出て階段を下りかけた。私は自分のこの複雑した感情を、冷やかに確かめたい気で鏡の前に立った。自分の顔を自分で見るいつものてれ臭さはなかった。私ははりつめた自分の顔にけしかけるように、両手で額から頬にかけて、ぶるんぶるんと幾なでもした。すると頬にも血がみちて来るような気がする。その時私は、はからずも自分の鼻孔に白い鼻毛が一本のさばり出ているのをみつけた。左の手の栂指と人差指の爪ではさもうとしたが、なかなかうまくいかなかった。鼻孔をぐっと押しつけ、辛うじてはさんでぴゅっと引いてみた。毛根がちくりと痛んだ。痛みの中にも私は自分の年齢を考えさせられた。そして年と共に冷えていく児達に対する情熱を、皮肉にも諷刺されているように受取ると、なにを、といったような反撥心をも手伝って、思いきり引抜いた。
抜かれた白毛の根元をぐぐっともみつけ、私はふっと吹きとばし、水栓を開いて手を洗った。その時校庭から軟かなラジオ体操のメロディーが流れて来た。私は取急ぎ階段を下りきって外に出た。生気にあふれた児達は、朝の寒さにもめげず既に上衣を取り、両手を活撥に動かしながら、体操をつづけていた。私もつい釣込まれて、四肢を思う存分に屈伸しはじめた。ここにも私の愛すべき児達がいたのだ。私はよねによってさらわれた朝のすがすがしさを、その児達に取返してもらったように、全身の血液が躍動しはじめるのであった。
(あさくさの子供)
小学校の教師をしながら当時の教育界に挑戦するかの如く書いた『あさくさの子』は芥川賞を受賞したが、中国戦線が拡大していく戦雲に、反戦思想や文学にも圧迫が強化されていった年代に出発したことは長谷健にとって不運なことであった。戦後の混迷も一段落し、郷里柳川の大先達北原白秋を題材にした「白秋三部作」のうち第一部『からたちの花』、第二部『邪宗門』も既に書きあげ、第三部『帰去来』を執筆中であった昭和32年12月19日の深夜、教育ペンクラブの忘年会からの帰途、西大久保の大通りで交通事故にあい、頭蓋損傷、全身打撲、骨折などの重傷を負い、意識不明のまま近くの国立第一病院に入院するも意識は戻らず、12月21日午前8時死去。白秋三部作最後の『帰去来』は未完に終わった。
教育文学の発展に寄与し、〈文学と教育のよきかけ橋だった〉と賞賛された長谷健の墓は柳川藩藩主立花家の菩提寺・梅岳山福厳寺にある。この寺の墓地には檀一雄の墓もあり、芥川賞と直木賞受賞者の墓が同時にあるという極めて珍しい寺だ。正式かどうか、豆腐好きで〈酒が入ると「ここはどこだ」を連発。また「しばらく」を「しらばく」と言ってしまう剽軽な癖〉をもじって火野葦平から「豆腐院此処何処白獏居士」なる戒名を命名したという。葦平の書になる「長谷健」墓、九州地方の墓碑文字には金色を施してある墓が多いのだが、この墓には少し色あせてきてはいるがエメラルドグリーンの色が施してある。細やかな葉を揺らしているまだ花をつけていない秋桜が数十本、秋になれば何色の花を咲かせて墓所を彩るのであろうか。
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