長谷川かな女 はせがわ・かなじょ(1887—1969)/長谷川零余子  はせがわ・れいよし(1886—1928)


 

本名=長谷川カナ(はせがわ・かな)
明治20年10月22日—昭和44年9月22日 
享年81歳(永光院文錦清照大姉)❖かな女忌・龍胆忌 
東京都杉並区堀ノ内3丁目48–58 福相寺(日蓮宗)


俳人。東京府生。私立松原小学校卒。明治42年富田諧三(零余子)と結婚。大正2年高浜虚子に師事。のち夫の主宰誌『枯野』を助ける。『ぬかご』を経て、昭和5年、『水明』を創刊、主宰。句集に『龍竜胆』『定本かな女句集』などがある。




本名=長谷川諧三(はせがわ・かいぞう)
明治19年5月23日—昭和3年7月27日 
享年42歳(清浄院零餘子日住居士)❖零余子忌 


俳人。群馬県生。東京帝国大学卒。高浜虚子に師事。『ホトトギス』の編集に携わる。大正5年『枯野』を創刊、主宰。句集『雑草』『零余子句集第二』のほかに『近代俳句史論』『蕪村俳句全集』などがある。




 



呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉

蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く

老の恋もあるものよ丘の曼珠沙華

戸にあたる宿なし犬や夜寒き

湯がへりを東菊買うて行く妓かな

(長谷川かな女)




あはれ鵜を使ひて見せよ鵜匠達

藤灯りぬ暮色月下を歩み去る

二階から降り来る月のあるじかな

(長谷川零余子



 昭和3年は悲しい年だった。7月27日、零余子が42歳の若さで腸チフスのために亡くなった。山陰旅行から帰京後、病の床に伏していたのだが、「立体俳句の講演がある。袴と草鞋を揃えて置いてくれ。」とのうわ言を遺して。その上、49日目の前夜、9月13日には東京・淀橋区柏木(現・新宿区北新宿)の家を火災で失ってしまった。かな女の悲しみを映した〈芭蕉裂く風にいつまで耐えゆことぞ〉は、やがて〈零余子忌大闇に湧く何の力〉となって俳誌『水明』を創刊し、主宰していくこととなるのだが、それから40年、昭和44年9月12日〈秋の蝉死は恐くなしと居士はいふ〉の句を遺稿として老衰による肺炎のため、零余子の待つ空にのぼっていった。



 

 環状七号線道路を絶え間なく行き交う車両の騒音を、チャコールグレーの空から舞い降りてきた霧雨がやわらかく遮っている。有吉佐和子の碑などもある日蓮宗の古寺・堀之内妙法寺の門前からは、近くの社の秋祭りだろうか、御輿の一行が賑やかに出発していった。笛と太鼓の音が一筋二筋と、雨のカーテンをふるわせ、ゆっくりと路地を辿って、奥まったこの寺の物静かな墓地にまで紛れ込んでくる。「長谷川家之墓」は失われた時を漂わせて薄墨の中にある。かな女の〈羽子板の重きが嬉しつかで立つ〉と零余子の〈木蓮に翔りし鳥の光り哉〉の句が彫られた碑。霧雨が揺れたら、さっきまで鳴いていたはずの虫の声が埋もれてしまった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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