本名=佐々木康子(ささき・やすこ)
昭和3年1月12日—平成21年10月20日
享年81歳(歓喜院釈浄光)
北海道札幌市豊平区平岸四条15丁目3–19 札幌霊堂
小説家。東京府生。釧路高等女学校(現・釧路江南高校)卒。昭和24年同人誌『北海文学』に処女作『冬の雨』を発表。以後も『サビタの記憶』で注目される。31年『北海文学』に連載していた『挽歌』が刊行されベストセラーとなり、映画化された。『聖母の鏡』『蝋涙』『海霧』などがある。
リツの血は千鶴が引きつぎ、千鶴からその子らにつたわることになる。ゆく河の末は見とどけようがないものの、さよは千鶴の子らがすこやかに育ってほしかった。
帯広をすぎると、さよも睡魔におそわれた。さよは、あやうく寝入りかけて目をひらいた。眠ってもよいが、海岸線に出る前に目ざめていたい。できれば霧を見たかった。
さいわい、向かいの座席で健太郎が雑誌を読んでいた。
「健ちゃん、すまないが、厚内のトンネルの前で起してくれんかね。海霧を見たくてな」
「海霧?あっ、承知しました」
厚内の短いトンネルをぬけると右手が太平洋である。健太郎も見知っている眺めだった。
さよは安心したのか、たちまち眠りに落ちた。健太郎は、厚内のトンネルを出てから車窓の外に目をやった。
海は濃霧にとざされていた。海霧はゆれうごく壁のようであり、沖から押し寄せる灰色の団塊のようでもあって、渚にくだける波の白さが目につくだけである。
健太郎は、さよに声をかけようとして思いとどまった。老女は、ほほえんでいるかのように、おだやかに寝入っていた。終着駅まで二時間足らずの海辺であった。
(海霧)
〈海から押し寄せるミルク色の濃霧と広大な湿原〉が原風景。石川啄木が〈しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな〉と詠んだ極寒の北辺の町で育った原田康子。
わら半紙にガリ版刷りの同人誌『北海文学』に昭和30年6月から1年間にわたって連載された『挽歌』は映画化などによって彼女を一躍注目の作家とし、以後、北海道に根ざした作品を数多く発表し続けたのだが、町の高台にある二間続きの家で始まった新聞記者同士の新婚生活も海霧の彼方。先に逝った夫の最期も自らの入院によって看取ることもできなかった。
晩年は脚の亀裂骨折など入退院を繰り返し、平成21年10月20日未明、札幌市内の病院で呼吸器疾患による呼吸不全で死去した。
森林に囲まれた市営平岸霊園の道を隔てた向かい側にマンションのような外装の九階建て札幌霊堂がある。墓所を設けず、ここに夫とともに眠るという6800余の納骨御仏壇を持つ新しいタイプの屋内納骨施設。受付を通り、エレベーターで上った先、照明のおさえられた厳かな聖域に夥しい仏壇がくっつきあって並んでいる。「佐々木家」とプレートがはめ込まれた仏壇に、ご本尊阿弥陀如来の掛け軸、原田康子の法名「歓喜院釋浄光」の白木位牌が置かれてある。黄金色に輝く仏壇、お鈴をたたくと涼やかな音色が空間のただ一人の訪問者を包み込んでゆく。市街を見下ろすガラス窓の外、日は暮れはじめ、すでに月も上がった。
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