山の雑記帳 14

 浅間山での遭難事故  1999.04.25 記

 ご無沙汰しておりました  1999.05.04 記

 ようやく山に行ってきました  1999.05.10 記

 少年時代 (ボーイズ・ライフ)  1999.05.25 記

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浅間山での遭難事故  1999.04.25 記

先週は仕事が結構忙しく、結局1日もこのホームページを更新することができなかった。
この間、 我がホームページを訪れて頂き、 更新されていないページに空振りした気分を味わった方々には 申し訳ないと思っている (それ程期待されてもいないか ?・・・)

さて、 この間に起こった山に関することの中で 一番の出来事と言えば、 やはり浅間山での遭難事故であろう。
お亡くなりになった方々はお気の毒と思うし、 その家族の方々の悲しみは大変深いものが想像される。 心からご冥福をお祈りしたい。

しかしである。 亡くなられた方々には申し訳ないが、 同じ登山をやっている立場の者として 今回の事故については遭難された方々の非を認めざるを得ない。

死者に鞭打つ気は毛頭ないが、彼らは山を甘くみていたとしか思えないのである。
標高 2,500mを越える山に登るのであるから、 春先とは言えそれなりの覚悟と装備が必要なのであるが、 以前に登った時の感覚にて この高山に登ることを簡単に考えていたのではなかろうか。

それは確かに好天の時に登る浅間山は頂上までの道がしっかり見渡せ、何の憂い (あるとすれば登山禁止区域に足を踏み入れているという 罪悪感のみ) もなく登ることができるのであるが、 一旦 自然がその牙を剥けば 想像のつかない厳しさが待っているものなのである。

先般登った標高 1,000mにも満たない多良岳でさえも、春状態の麓に比べて 頂上付近は完全な冷凍庫状態という極端な差がおこる訳であり、 ましてや悪天候時の 2,500mと言ったら、 もうその厳しさは想像がつかないものがあろう。
従って、 そういう状況も頭に入れた上での登山をしなければならないし、 装備ももって行かねばならないのである。

かくいう私も登山を始めた頃にはそれに気がつかず、色々な失敗を経ながら少しずつ山の厳しさを学んできた訳で、 大きなことは言えないのであるけれど、 それでも山を始めた頃から 装備だけは十分なものを持っていくように心がけていたのである (従って、余程の低山でない限り 38リットルのザックを背負っており、 さらにそのザックはかなり膨らんだ状態になっている)

時々私は、このまま山で野宿をしなければならなくなったら 今ザックの中にある装備で寒さを凌げるであろうかというようなことを 頭の中でのシミュレーションするようにしている。
常に最悪の場合を考え、 そのための最低の装備は持っていくべきであり、 今回の事故はやはりそれを怠ったことが一番問題であろう。

いやいや今回の事故は装備のせいだけではない。
私1人で今回のような天候状態に遭遇したのなら、 恐らく途中で引き返したのではないかと思う。
しかし、 何人かが集まると余程リーダーの方が断固たる決断を下さない限り、 集団心理からか、 先へ先へと進んでしまうのではないかと想像されるのである。 例え 1人1人の本心はもう止めて戻りたいと思っていてもである (これを確か アバリン・パラドックスと呼ぶ)

私は単独登山しかやらないから必要以上に臆病になっているのかもしれないが、慎重さはやはり必要であり、常に 途中で断念して戻ることも頭に入れておくことが大切なのである。
折角ここまで来たのだから ということは誰しも思うのであろうが、 やはりもっと冷静で的確な判断が必要なのである。

そして最後に体力の問題である。
自分が 60歳になった時の体力を想像することは難しいが、 その年になっても 頭の中ではきっと自分の体力の衰えを認識してはいないであろう。 でも、やはり身体は頭で考えるほどにはついてこれない というのが実際に違いない。

登山はじっくり時間をかけて登れば年齢に関係なく頂上に立つことができることから中高年層にも人気があるのであろうが、 一方で それは自分の体力に 変な自信を植え付けさせてしまっているのかもしれない。

この雑記帳で何回も書いているが、少し自信がついたからといって技術も未熟でありながらいきなり 3,000m級の山に登ったり、 最悪の場合に対する準備を整えておかずに山に登る人が多く、 それで事故に遭っているのが大変残念である。

私も含め、中高年で登山を行う人の中には、今回の事故をニガニガしい思いで見ている人も多かろうと思う。
それは 中高年の登山者が皆悪いようにも解釈できる 報道の仕方にも問題があるのだが、 そうは言っても中高年の山岳事故は年々増加している訳で、 以前書いたように このままでは社会問題となって、 登山も年齢制限や許可制になってしまうかもしれない (冗談だが、ありえない話でもない)
私を含めた世の中高年登山者よ、 もっと慎重になろう。 そして技術磨こう。 山を甘く見てはいけない。

と ここまで書いてきて、 ふと朝日新聞に載っていた 丸山直樹氏の文章を思い出した (4月12日付夕刊の 「私空間」)

丸山氏にとって山とは 「神聖」 かつ 「崇高」 な存在であり、従ってその文章の中で 「百名山」 をきっかけとした今の中高年の登山熱を 痛烈に批判しておられる。
氏にとって山は 「レジャーや気晴らしではなく、畏怖の対象であり、 人生の師であり、 己の内面と対話する得難い機会」 なのであり、 従って 「体力を鍛え、衣食住のすべてを背にかつぎ、 自分の足で、自分の眼力だけで、登り切る」 のがまっとうだと考えておられるのである。

だから、そう言う氏は 「山小屋泊まりを当然の如く考え、山岳ガイドを雇い、ホテル並の料金と食事に疑問を持たず、 肥え太った体で整備された登山道を行列をなして登る」 ことが 「山を登った」 と言えるか という疑問を提起せざるを得ないのであり、 それは 「金で快適さを買う」 悪しき現代人の姿だと 痛烈な批判を投げかけざるを得ないのである。

このことに対し私は全く反論できないでいる。
人によっては 山に登ることをレジャーと考え、 このように厳格に考えることを笑う人もおられるかもしれないが、 私にとっての山は どちらかと言えば氏の考え方に近いのである。
だから、 氏が 「(今自分に) 山に登れるだけの体力と自分を律する厳しさがない」 ということで 「山に登らない」 と書いておられるのを読んだ時、 氏の言う 「怠惰な」 状況にありながら 平気で山に登っている自分が 本当に恥ずかしくなったくらいである。

それでも山は良いから、 そして好きだから 私は登るのであるが、 体力の充実を図ること、自分を律する厳しさを持つことに加え、 山を畏れることを忘れてはいけないのである。
山に対して甘い気持ちで しかも安易な装備で登るのは、 氏が最後に述べておられる言葉を借りれば 『山に対して失礼』 であろうと思う。

今回の事故を 他山の石 としたい。

結果的に死者を責めることになってしまいましたが、私の偽らざる気持ちです。 今回の事故は死者が出たことでも悲しいことですが、山に対する安易な気持ちがあったように思え、残念でなりません。

ご無沙汰しておりました  1999.05.04 記

本当に久々の更新となってしまった。
先々週に引き続き先週も仕事が忙しかったため、 帰宅後 ホームページの更新内容を考えることなどとてもできない状況で、 さらに 4月29日、 5月1日、 そして 5月2日の休みも仕事の残滓を家に持ち込んでしまったものだから、 山に行くことなどとてもできない状態であった。

そして気がついたらゴールデンウィークも中盤を過ぎており、さらに後半の天候の悪さをしきりに強調する天気予報と、 期間中の道路の混み具合を考えたら、 このゴールデンウィーク中の (自分の好みによる) 山行は諦めざるをえないことになりそうである。

とは言ったものの、実は昨日の5月3日、山に登ったことは登ったのである。
この山行は、 これまでゴールデンウィーク期間中に行ってきたような百名山登山とは違って 久々の家族との山登りであった訳で、 従って登る山も手応えのある山という訳にはいかず、 私にとってみればホンの足慣らし程度の山であった。
とはいえ 4月に 1回も山に登れなかったものだから 久々の山道歩きはやはり楽しく、 もっとドンドン山に登るべきだということを痛感した次第である。

登った山は、丹沢山塊の東に位置する仏果山 (ぶっかさん) で、コースは半原にある愛川ふれあいの村から登り始め、 高取山を経由して仏果山に至り、 そこからまた出発地点の愛川ふれあいの村に下山するものであった。

本当は仏果山からさらに南に足を伸ばし、経ヶ岳を経てから厚木津久井線 (国道 412号線) の半僧坊前に下り、 半僧坊前からバスで半原まで戻って 愛川ふれあいの村に止めた車の所まで辿り着くつもりであったのだが、 仏果山までの行程で根を上げた妻と子供達によって、 呆気なく計画は変更されたのであった。

従って、登山もアッという間の短いものに終わり、早朝5時過ぎに家を出て、愛川ふれあいの村にある駐車場から歩き出したのが 6時10分、 そして再びこの駐車場に戻ってきたのが 10時20分で、 家に着いたのが 11時17分という超スピード登山であった。

私自身は大いに物足りなかったのであるが、妻や子供達にとっては丁度良いものだったらしく、また下山時にすれ違った多くの人々との会話から察するに、 仏果山往復、 あるいは高取山プラス仏果山登山というのは 1つの登山ルートとして立派に認知されたものであるらしい。

この仏果山の名の由来は、 仏果山の南に位置する煤ヶ谷にある正住寺の開基、 仏果上人がこの山で座禅修行を行ったことからついたのだそうで、 当時頂上近くにあって座禅を行った岩は 今は転落してしまって麓の石切場にあるとのことである。

また、この仏果山は半原富士という別名もあるのだそうで、なるほど場所によってはそれなりに富士山のような形に見えなくもない。
但し、 富士山の名はあっても標高は 747mと低く、 隣の高取山も 705mで、 登山というよりはハイキングコースといった感じであった。

こうした山の低さ故に、先ほどから登山としての物足りなさを嘆いてきたが、頂上からの展望はなかなか素晴らしいものがあり、 今や完全に湖となってしまった宮ヶ瀬湖や 反対側の半原の町並み、 中津川の流れなどを眺めることができてなかなか楽しいものであった。
そして、 高取山、仏果山それぞれの頂上にある展望台に登れば、 360度のパノラマを得ることでき、 丹沢の山並みや遠く東京都心の高層ビルを見ることができるのである (生憎この日は曇り空で、 遠くはガスがかかったようになって見ることができなかったが・・・)

また、これまで残雪の山ばかりに登っていたものだから、1ヶ月のインターバルをおいた今回の登山で、新緑に燃えた山に出会えたことは大変嬉しく、 ウキウキとした気分になったのも収穫であった。

なお、仏果山の頂上は結構周囲の樹林が伸びていてガイドブックに書かれているほどの展望は得られない状態であり、 高取山の方がずっと素晴らしい展望を得られたのであったが、 先に述べたように、 両山ともその頂上にある高さ 10m程の展望台によって 申し分のない展望が得られるようになっていた。
頂上に人工物があるというのは 私の趣味に合わないのであるが、 低い山であるならば 頂上にこうした展望台を設置することによって その価値が数倍にも上がるということで、 まあ良しとすべきであろうか。
しかし、 両山とも周囲から眺めるとその頂上の展望台が目立ち、 美観的には興ざめであることは間違いない。

ところで、 良く考えたらこの仏果山そして今回登り損ねた経ヶ岳は、 山登りを始めて丹沢に集中していた頃、 登ろうと考えていた山の 1つであった。
その後、 高い山や丹沢以外の山々にも魅力を見い出すようになってからは、 月 1回程の登山のチャンスを、 このような低山に使ってしまうのはもったいないと思うようになり すっかり忘れていたのであったが、 こうした家族との山登りで再び目を向けることができたのは 嬉しい限りである。

さらに 1ヶ月以上も山から離れていたため忘れかけていた山に対する感覚が今回の登山で蘇り (それ程大げさではないが・・・) また再びドンドン山に登らねばとの気持ちになったのだから、 今回の登山は大変良かったと思う。

低山とは言え、それなりに得るところのある山行であった。

ところで余談であるが、1988年当時の 山と渓谷社 のアルペンガイド 『丹沢』 を見ると、今回登った高取山が高旗山になっている。
初めは誤植かとも思ったのだが、 よく地図を見ると経ヶ岳の南にも高取山 (521m) という山があることから、 高旗山と言う名も間違いではないような気もする。
どうして名前が変わってしまったのであろうか・・・。


ようやく山に行ってきました  1999.05.10 記

4月は1回も山に登れず、またゴールデンウィーク中も何やかんやでホンの少し山を囓っただけであったため 欲求不満が高まっている状況の中、 ようやくこの8日の土曜日に山に登ってくることができた。

例によって登る山を決めるのに些か迷ったのであるが、もしかしたらまだゴールデンウィークが続いている人も大勢いるかもしれず、 そうなると渋滞が懸念される高速道路を避けた方が良かろうと思い、 高速道路を使わないで行ける山に的を絞ることにしたのであった (結果的には考え過ぎだったようであるが・・・)

そうなると第一に候補に上げられるのが、山梨県北都留郡丹波山 (たばやま) 村から後山林道 (うしろやまりんどう) に入って終点まで進み、 そこから三条ノ湯、 三条ダルミを経て雲取山に至り、 その後雲取山から三条ダルミまで一旦引き返して、 今度は飛竜山まで進んでそこから再び三条ノ湯へと下るコースである。

このコースは奥秩父の原生林を満喫できるコースとして前から登りたいと思っていたのであるが、以前 「山の雑記帳」 に書いたように、 林道の状態が分からず 普通車しか持っていない私には行程が些か不安だったこと、 林道終点に駐車スペースがあまりない と言われていることが心に引っかかっていることから、 行くことを躊躇していたコースなのでもあった。

しかしその後ある方から 『林道は普通車で問題ありません。 ただし、舗装はしてなかったと思います。 駐車場らしきものは 5−8台位しかおけませんが、 林道のエンドの 「ここはユーターンするスペースなので駐車しないで下さい」 というところに、 5−10台ぐらい車が置いてありました。・・・』 との親切なメールを戴いたことから、 雪がない季節となったら是非行かねばと決めていたのである。

この雲取山・飛竜山以外に候補として上げた山としては菰釣山があるのだが、ここのところ高さが 1,000m台の山が続いていたこともあって、 折角良い季節になったのだから 2,000mを越える山に登りたいと考え、 雲取山・飛竜山の方に登ることに決めたのであった 『勝手に 神奈川二十五名山』 を選んだ手前、 その中の1つである菰釣山へはいつか登らねばと思っているのだが、 この分だとまた冬までお預けか と思う)

しかしである、ゴールデンウィークがまだ続いているのではないか という頭があるものだから、心配性の私としては三条ノ湯に前日から泊まる人たちが 駐車場所を占めてしまっているのではないか、 大勢の人たちが登りに来て駐車スペースがないのではないか などといった考えが浮かび、 最後まで少し躊躇 (ためら) うところがあったことも事実である。
従って、 その解決手段としては早く現地に着くことが重要と考え、 4時12分に家を出るという 久々の早期出発を行い、 国道 16号線から青梅街道 (国道 411号線) に入って 奥多摩湖の横を抜け丹波に至るという行程を取り、 林道終点に着いたのが 6時30分とまあまあの時間に着くことができたのであった。 しかしである、 何と懸念した通り 駐車スペースはもうほんどない状態でだったのである。 懸念を持っていたとは言え、 これには本当に驚いてしまった。

路肩に止まって登山の準備をしている方に無理にお願いして少し車をバックしてもらい、ようやく駐車スペースを確保することができたのであるが、 もう少し出発をゆっくりして到着が遅くなっていたらと思うと ゾッとした次第である。

もっとも、林道終点に止められなくても少し林道を戻ればスペースはあるので、これからこのコースを利用しようと思っていらっしゃる方は それ程神経質にならなくても良い。
登山口まで林道を利用するというのは 宮崎にいた頃には結構あったものの、 林道利用で駐車スペースに苦労する ということなど全くなかったことから 私にとっては驚きが大きく、 やや大袈裟に述べているだけなのであって、 少々の林道歩きを厭わなければ問題ないのである。

しかしそれにしても、すぐ上に三条ノ湯があるということを割り引いても、早朝から 20台近い車がこのような辺鄙 (へんぴ) な場所に集まるというのは 奇異な感じがする訳で、 登山ブームの高まりをこうしたことにも感じた次第である (もっとも前日から止まっていた車もあると思うが・・・)

話は飛ぶが、 下山後 14時20分頃に帰路につくと、 途中で林道を歩いてくる多くの人たちとすれ違うことになった。
彼らはこの 10qになんなんとする林道を歩いてきたのだろうか ?、 あるいはずっと先の方に車を止めて歩いてきたのだろうか ?、 三条ノ湯に泊まるか その下にあるスペースでテントを張るのであろうが、 すれ違った人たちの合計はおよそ 50人程にもなっていたのには本当に驚かされた。 最近の登山ブームが本物であることを このことでも実感した次第である。

さて、肝心のこの後山林道から雲取山に至る登山コースであるが、 あるガイドブックに 『グレード:初心者から』 と書かれていたように、 道は険しい所もなく、 本当に楽に登れる優しいコースであった。

詳細はいずれ登山記にアップするが、少々苦労するのが三条ダルミから雲取山までの登りだけで (ややキツイ)、あとは楽に登れるし、 途中水場もあって休憩のペースも掴み易く、 時折聞こえるウグイスの声に耳を傾けながら 新緑の中を登るのは大変楽しいものであった。

また、雲取山から飛竜山への縦走コースもほとんどが平坦か緩やかな勾配しかない道のため歩き易く、全面笹の中を歩くと言っても過言ではないこの道は その原生林とともに奥秩父の雰囲気を十分に堪能させてくれるものであり、 さらに時々樹林が切れて目の前に拡がる奥秩父の山々に 心弾む思いであった。

ただ残念だったのは、薄曇りでモヤがかかったような天候だったために、この辺の山域を歩く際に欠かすことのできない 富士山の姿をほとんど見ることができなかったことである。
三条ダルミに着くと、 南面が開けて大菩薩方面の山々を見ることができたのであるが、 富士山はと言うと全く目に入ってこず、 カメラを雁ヶ腹摺山に向けた時に その後ろにうっすらと白い固まりが認められ、 初めて富士山がそこにあるのに気づいた という程の状況であった。
富士山がそういう状況であったから 何となく画竜点睛を欠くという気がしないでもなかったが、 久々の登山を大いに堪能したのであった。
やはり山は良いし、 人の手が入らない自然が多く残っている所は素晴らしいと つくづく感じさせられたのであるが、 今回の登山に問題がなかったという訳でもない。

その問題というのは自分自身のことで、自分の腹周りに肉というか脂肪が大分付いてきたのがハッキリ感じられ、それが大変疎ましく、 時には登りの邪魔にさえ感じられたことである。
この頃の食欲は自分でも驚く程で、 一方でエネルギーを使うことが少ないのだから 肉や脂肪が付いてしまうのは当たり前なのだが、 それにしてもこれはショックであった。
山が楽しかった一方で、 この腹周りをスッキリさせることを考えなくては と真剣に考え込んでしまったのであった。

ところで、 林道の駐車スペースの件であるが、 先に述べたように家へと戻る際に多くの人たちとすれ違ったことで、 駐車スペースの少ない場所にたった 1人で 1台分のスペースを占領してしまったことに やや罪悪感のようなものを感じてしまった。 こんなことを考えるのは少々人が良すぎるだろうか。
6人で 1台の車を使っても、 1人で 1台の車を使っても 駐車スペースは 1台分なのであるから、 大勢の人に山を楽しんでもらうという意味で、 何となく申し訳ないような気がしたのである。
駐車スペースの少ない場所へ 1人で出かけるのは これからは出来るだけ避けようと強く思ったのであった。


少年時代 (ボーイズ・ライフ)  1999.05.25 記

徒然パソコン記に書いたように、 この土曜日も寝坊をしてしまい、 山に行くことをあきらめてしまった。
先月もこれと同じような失敗をしてしまい、 結局 4月は1回も山に行けないことになってしまったのであるから、 今回の寝坊についても 当分は自分を責める日々が続きそうである。

山登りを趣味とし、山に関するホームページを開いている者が山に行かなかったら、それは陸に上がった河童のようなもので、 これでは山に関する記事を発信できる訳がない。 従って 山に関するネタ不足の日々が次回の山行まで続きそうであるが、 ここは窮余の策、 少し自分の子供の頃に遊んだ風景を思い起こしてみたい。

以前、 この雑記帳で 『遠足の行き先』 という文を掲載したが、 そこで少し触れたように 私が子供の頃は人工的に作られた公園など殆ど周囲にはなく、 ましてやテレビゲームの類など影も形もない時代であったから、 遊び場といえば自然相手とならざるをえず、 かなり野山を駆け回っていた記憶がある。

私は東京の三鷹市に通算 25年半住んでいたのであるが、三鷹市の南西部に大沢という地区があって、その名の通りそこは沢が多く、 ザリガニや沢ガニを求めて遊び回った日々が懐かしい。
この地域は沢や沼が多く、 子供心にもこの地域には 『冒険』 があると思っていたのであるが、 その後そこはゴルフ場となり、 さらにその後公園になってしまった。 今はどうなっているのであろうか・・・。

この 『冒険』 の地であった大沢は単に自然が沢山あっただけではなく、子供にとってロマン溢れる多くのものが存在したのであった。
例えば、 戦争の遺産である防空壕もそこかしこに見られ、 上級生の人たちに手を引かれながら暗い洞穴の中を懐中電灯 (だったか、蝋燭だったか ?) の明かりを頼りに奥まで入っていったことがあり、 今でもその時のドキドキした気持ちを思い出す。

また、ザリガニの宝庫であった野川 (のがわ) は、縄文時代の遺跡の宝庫でもあり、道路拡張のために周辺が掘り起こされた時に出土した土器片を求めて その地区に日参したのであった。
拾った土器片の中で 1つだけ気に入ったものがあり、 確か渦巻き模様がハッキリ付いていて、 わざわざ小金井公園にある郷土博物館まで持っていって調べてもらい、 加曽利式土器だと教えてもらった記憶がある。

また、この大沢地区の北には国際基督教大学があり、その敷地は旧中島飛行機三鷹研究所の跡地であったことから、ボロボロになった飛行機の格納庫跡や 空からは見えないように半分地下に埋められた格納庫、 またかつては滑走路だったのであろう、 平らに続くコンクリートが打たれた広い敷地、 そしてそこに粉々に散っていた分厚いガラス片など、 子供心を刺激するものが沢山あったのだった。

こうした 『冒険』 の地 大沢で遊び回ることで 自然に大いに親しんだ訳であるが、もう中学生になる頃には先ほど述べたように 大沢のその場所はゴルフ場となってしまい、 道路拡張によって防空壕は埋められ、 中島飛行機跡地はキレイに整備されて、 それに伴って私自身もほとんど大沢へは足を運ばなくなり、 そして 「自然と遊ぶ」 ことから遠ざかるようになったのであった。

しかしそれから20年後、突如として山登りに目覚め、そして今日に至っているのであるが、幼い頃に野山を駆け巡った記憶や 冒険心を培ったことが 山登りにのめり込ませる触媒になっていることは間違いない。

そういう意味では現在の都会に住む子供たちは可哀想で、自然に触れ合う機会も少なく、先に述べたように遠足の行き先も人工物が多い場所となって、 自然の素晴らしさを感じる機会は ほとんどなくなっている。

たまに近くの山に連れていっても、地上では見られない、圧倒するような自然の SOMETHING がない限りは その後も引き続き山に行こう などという気にさせるのは難しいようである。
頂上に登ったという達成感や 頂上から見える下界の景色だけでは、 子供たちを納得させることはできないのであり、 従って丹沢のように都会に近く、 下界では絶対にお目にかかれない自然の造形物があるという訳でもない山は、 登っても彼らにとって感動は薄いのである。

山が好きになるとちょっとしたことでも感動を覚えるものであり、あるいは自然に対する感性が磨かれている人なら、 初めて山に登った時から 自然の素晴らしさを満喫できるであろうが、 テレビゲームなどの人工的刺激に慣れている子供たちに それを理解しろというのも酷であろう。

苦労して登り詰めると、そこには桃源郷が待っていたとまではいかなくとも、地上では絶対に見られない素晴らしい自然の造形物が見られ、 心に深く刻み込まれる感動を得られれば良いのであるが、 そういう所は登りが本当に大変で、 たいていの子供たちは きっとそこまでの登りに嫌気がさして 山が嫌いになってしまうであろう。

そして、阿蘇山の噴火口、蔵王の御釜といった素晴らしい自然の造形物などは、今や車やロープウェイなどでいとも簡単に 近づけてしまうようになっており、 これでは感動はなかなか得られない。
何と嘆かわしいことであろう。 苦労に比例した感動がないと面白くないのである。

やはり小さいときから自然に親しみ、自然に対する感性を養っておくことが大切で、それが心のどこかに因子として残っている場合と 全く影形もない場合とでは、 大人になった時に大変な違いが出るのではなかろうか。
その因子が突然大人になって頭をもたげだし、 私のように山にのめり込むようになることもあろう。
親として 子供たちに自然に触れさせることは義務であると思うし、 学校ももっと自然に親しむ機会を与えることを 考えるべきである。 この頃自分の子供たちを見ていて つくづくそう思う次第である。

ところでなぜ、 急にこのような昔のことを書くようになったかというと、 決して年をとって懐古の情が増してきたという訳ではない。
無論 上記で述べたようにネタ不足のせいでもあるが、 実は最近読んだ小説に負うところが大きいのである。

この小説は ロバート・R・マキャモン『少年時代』 で、1995年度の 『このミステリーがすごい !』 と週刊文春 選出の 1995年度ミステリーベストテン 両方で第 2位にランクされたので すでに読まれた方も多かろう。
いつか読みたいと思っていたら、 この春 文芸春秋から文庫となって発売され、 上下2巻の長編であったけれども 一気に読み進んでしまったのであった。

小説の内容をここでとやかく述べることはルール違反であると思うので避けるが、1960年代前半のアメリカの良き時代が描かれており、 主人公と父、 そして友との関係、 そして子供の持つ感性に 少なからず感動と郷愁を覚えるものである。

作者がこの小説の冒頭で書いているように、人は気づく気づかないは別として 少年時代には感じることが出来た 『魔法』 に対する感性が、 歳をとるに連れて遠いものとなっていくことに 一抹の寂しさを感じているのかもしれない。 そういう自分では気づいていない心の寂しさに うまく入り込んでくる素晴らしい小説である。

何となくこの小説を読んで、ジョン・フォードの映画 (西部劇ではない) を思い出してしまったり、映画 & 小説 『スペンサーの山』 を思い出してしまった。 もし読まれていない方がおられたら、 是非お読み頂きたい。

(余 談 1)
この小説の舞台である 1960年代前半の古き良きアメリカを十分堪能する一方で、 ほぼ同年代を描いた狂気の小説、 ジェームズ・エルロイの 『ホワイト・ジャズ』 読むのも面白い。
ちょうど同じ頃に文庫化されたので 私は同時期にこの 2つの小説を読んだが、 同じアメリカを描きながら両極端にある 2つの小説に戸惑うばかりであった。

(余 談 2)
『少年時代』 の原題は 『ボーイズ・ライフ』 であるが、 この 『ボーイズ・ライフ』 と聞いて 30年以上前に小学館から発刊されていた 月刊誌を思い出してしまった。
漫画は2本位しかなく (さいとう たかを 「007シリーズ」 横山光輝 「片目猿」 佐藤まさあき 「Zと呼ばれる男」 など ・・・ 記憶間違いもあるかもしれません 読み物中心の雑誌であった。
ウィンクアウルで有名な 『平凡パンチ』 を買うには低年齢過ぎる者にとっては、 この月刊誌は結構貴重だった気がする。


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