山の雑記帳 13

 転んでもただでは起きぬ  1999.03.22 記

 山の住所録  1999.04.06 記

 富士の見える北限の山  1999.04.10 記

 KUMOさんに敬服  1999.04.19 記


転んでもただでは起きぬ  1999.03.22 記

3月19日の金曜日は長崎への出張であった。
週末に出張があるというのは私の場合滅多にないことであるから、 これを利用しない手はないということで、 早速土曜日に雲仙普賢岳に登る計画を立てた。

天気予報では、金曜日は雨であるものの土曜日は曇りのち晴れとのことであり、心はずむ中で大きなバッグに登山靴、 ナップザック、着替えなどを押し込み、 無論仕事の道具も何とか詰め込んで身支度を整え出発した。

結構重くなった荷物にヒーヒー言いながら何とか羽田空港までたどり着き、11時少し前に長崎空港に降り立った時には 雨は止んだ状態で、 これは明日の登山が期待できそうであった。

この日は18時に仕事を終え、そのまま大村市のビジネスホテルへ直行し、一応明日の知識を仕入れるべく、市内を歩き回った。

事前に聞いたところでは、大村市の隣にある諫早から雲仙行きのバスが出ており、雲仙からはさらにバスで仁田峠という所まで行って 普賢岳に登るのが一般的とのことであったが、 それだと雲仙で1時間以上も待たなくてはならなくなり、 この辺がどうにかならないか ということが一番の問題だったのである。

大村市内の本屋で情報を集めると (要するに立ち読み)、雲仙から登っても2時間ほどプラスされるだけだということが分かり 一応この問題は解決したので、 それではと ついでに諫早駅まで足を伸ばし、 駅前のバスターミナルまで行ってバスの時刻などを確かめたのであった。

翌日、朝早くにホテルを出て、6時27分の電車で大村から諫早へ向かったのであるが、どうも空の具合が良くない。
昨日は諫早で飯を食ってからホテルに戻ってそのまま寝てしまい 天気予報を聞いてなかったので、 この日は曇り後晴れになるとばかり思っており、 この状況は大変ショックであった。
風は強く、空を黒い雲がドンドン流れているといった状態で、 諫早に着いた頃にはポツリポツリではあるが 雨が降り出す始末であった。

慌てて公衆電話で天気予報を聞いてみると、午前中の降水確率は50%、午後から天候は回復するとのことで、本日の登山はどうなってしまうのかと 大変不安に駆られたが、 一応雲仙まで行くだけは行ってみようと、 午前7時15分発の雲仙行きのバスに乗り込んだ。

バスが愛野町を過ぎて橘湾沿いに小浜温泉に向かう頃になると雨は止み、しかも前方の空も明るくなってきたので、 これはシメタと思ったのであったが、 小浜温泉から道を左に折れてクネクネした山道を登り、 雲仙温泉郷に入るとそこは暗雲立ちこめる世界であった。

バスを降りると、雨は降っていないものの風がもの凄く強く、また冷たい風で体感温度を奪っていくといった状態で、 どうも一雨きそうな雲行きである。
バスの待合い所でウィンドブレーカー替わりに雨具を着用して 57号線を先に進んでいくと、 県営バスのターミナル横を過ぎる頃から強い風に雨が混じりだし、 国見町への分岐がある雲仙ゴルフ場に着いた頃には、 完全な雨になってしまったのであった。

この分岐の所から道路を離れて九州自然道が妙見岳の方へと伸びているので、雨は強かったものの折角ここまで来たのだからと 暫く登っていったのであるが、 強い風によって雨がたたきつけるようなり始め、 また先の山の方を見ればガスで全く見えない状況になっていたため、 暫くどうしようか迷ったあげく、 結局登山を諦めることにしたのであった。

初めての道であり、先行きの状況把握が全くできていないこと、このガスでは例え普賢岳頂上に登り着いても 平成新山と呼ばれる 先般の火山活動でできた新しい山を見ることは叶わないと思えたことから、 断念することにしたのである。
これが家から車でここまで来ており、 下山後もそのまま家に直行できるという気軽さがあるなら、 このまま頑張って登り続けたのかもしれないのだが、 下山後着替えてバス・電車を乗り継いで長崎空港まで行き、 20時発の飛行機にて横浜へ帰らねばならないことを考えると、 どうも気力が湧かなくなってしまったのである。

そういう訳で、九州自然道を途中まで進んだ所で引き返し、そのまま先の島原バスの待合所まで戻ったのであった。
バス待合所にたかれていたストーブで冷えた身体を暖めながら、 この後どうしようかと考え、 結局雲仙では何も見ずに早く帰ることにし、 丁度10時5分発の島原城行きのバスがあったので それに乗ることにした。

島原に行くといっても、これもまた、登山という目的を果たせなくなってしまった今の状況では島原城等の観光地を見るつもりなど全くなく、 島原から島原鉄道で諫早に戻り、 早い飛行機が取れれば 早々に長崎を後にするつもりだったのである。

島原城行きのバスは、先ほどの雲仙ゴルフ場を過ぎ、普賢岳、妙見岳を中心とした雲仙岳の周囲をグルッと回るようにして進み、 例の水無川を横切って雨の中を島原に向かうというルートをとったのだが、 途中、雲仙岳方面を見ると、 山の中腹より上は相変わらずガスに囲まれており、 これでは登ってもしようがなかったな などと自分を納得させたのであった。

このように迷ったあげくに登山を断念すると、その後の天候が悪ければ悪いほど自分の決断を正当化できる訳で、いつのまにか もっと天候が悪化することを願っている自分に驚いた次第であった。

島原からは11時22分発の島原鉄道諫早行きに乗り、再び諫早へと向かったのであるが、波が荒れた島原湾を眺めているうちに眠ってしまい、 次に愛野駅付近で目が覚めた時には、 何と天候はすっかり回復していて、 日差しも車窓に差し込んできていたのであった。

こうなると、悔しさがこみ上げてくるのであるが、これはどうしようもないことで、あの時点での判断は間違っていなかった と自分に言い聞かせるしかないのである。

期せずしてグルッと雲仙一周の旅をすることになり、失意のうちに諫早駅経由で大村駅まで戻ると、駅のホームに 「黒木渓谷からの経ヶ岳、多良岳登山」 と書いた看板が目に付いたのであった。
そして、 今日の悔しい思いがあったからであろうか、 経ヶ岳や多良岳なら短い時間で登ってこれるのではないか、 折角重い荷物を担いで長崎まで来たのだから 山に登らなくては という思いが急に込み上げてきて、 急遽多良岳登山を思い立ったのであった。

早速まずは本屋に行って立ち読みをして情報を仕入れると、黒木という所から経ヶ岳まで1時間50分と出ており、 これなら往復 3時間チョイでの登山が可能であることが確認できたのであった。

次に、大村のバスターミナルに行って時刻表を見ると、13時30分発の黒木行きのバスがあることが分かり、 案内所で黒木発の最終便を聞くと 17時35分ということであった。
大村バスターミナルから黒木まで 50分ほどの所要時間というから、 黒木に着くのが 14時20分、 それから 3時間で往復すれば 17時35分の最終バスには間に合う訳で、 それに乗れれば 20時発の羽田行きも大丈夫ということになる。
ということで、 急遽経ヶ岳に登るべく黒木行きのバスに飛び乗ったのであった。

天候も回復し、明るい日差しの下、バスは山の中へとドンドン進んで行き、萱瀬ダムを過ぎて人家もまばらとなった所が終点の黒木であった。 着いたのが14時17分である。

経ヶ岳に直登するには、このバス停から少し戻った所にある駐車場から登ることになっているのであるが、その前にバス停で最終便の時刻を確かめようと バスの折り返し点より先にある時刻表を見に行ったところ、 その脇に多良岳まで 1時間50分と書いた案内板があったのである。

実は、経ヶ岳も多良岳も九州百名山として頭に残っていたので、登るにはどちらでも良かったことから、時間も限られた中では バス停から少しでも戻るという行為が何となくイヤだったので、 この時点で そのまま直進すれば良い多良岳に急遽目的地を変えてしまったのであった。
節操がないと言えばそれまでだが、 結局地図も何もない状態からの出発であるので どちらの山でも良かった訳で、 それなら戻る行為を避けることが決め手になった としても仕方がないであろう。

これから先のことは登山記に記すこととするが、周囲の天候が回復しているにもかかわらず山の方はこれまたガスがかかっており、 前途にやや不安を抱いたまま登り始めたのであった。

結論だけいうと、ピストン登山、しかも限られた時間の中の大変慌ただしい登山であり、コースは初級者コースであったといった諸条件にもかかわらず、 大変面白い登山であった。

先日、ゲーム感覚の登山 ということをこの雑記帳で書いたが、1,000mに満たない多良岳とは言え、この日はその変化の激しさに驚きの連続であった。
強風の中の車道歩き、 雨上がりの杉の植林帯、 途中で受けた暖かい日差し、 また樹林越しに見える大村湾の展望、 中腹では残雪を踏み、 そして途中から木々に付いた水滴が雨のように落ちる中を進むようになり、 鎖場を乗り越えて頂上直下の最後の尾根道に入ると 何とそこは真っ白な霧氷の世界であった。

朝方までの雨は頂上付近では雪となり、そして強く冷たい風によって枯れた木々に白い花が咲いたのであろうが、 尾根を越えた瞬間に現れたその世界は 全くの氷の世界で大変驚きであった。

雲仙普賢岳登山はこけてしまったが、 転んでもただでは起きぬということで 急遽登った多良岳は大正解で、 往復 3時間の短い登山であったが 満足ある山登りができたと思う。

大村駅から何も考えずに長崎空港に向かい、そのまま帰らなくて本当に良かった。
それにしても 自分でもあきれる位の山バカぶりを露呈してしまった1日であった。

もう一度雲仙普賢岳に登るチャンスを得たいものであるし (しかも出張 = 会社の費用で) 計画通り山頂に立てることを望みたいものである。


山の住所録  1999.04.06 記

3月24日付の日本経済新聞の文化欄に、武内 正さんという方が 『「山の住所録」 ただ今更新中』 という文を寄せておられたが、 読まれた方も多いことであろう。

この方は無線機器店を経営する傍ら、国土地理院発行の二万五千分の一地図 (2.5万分図) の全国分 (4,400枚ほどある) を1枚1枚くまなく目を通し、 そこに記されている 『山』 を抜き出して山の住所録を作成されたのであり、 無論登山愛好家でもいらっしゃる。

山名、標高、山の住所とともに、緯度・経度も地図の上で丹念に計算しており、それらをパソコンに入力してデータ整備を図っておられるのであるが、 2.5万分図上にある山が 16,700余り、 これに各市町村に山の読み方確認した際に紹介された 2.5万分図に掲載されていない山 1,300座を加え、 合計 18,000余の山を網羅しておられるそうである。

これだけでも大変な作業であるが、毎月 60枚ほど出される 2.5万分図の更新版についても更新の度にチェック行い、 しかもどこが更新されたかが明示されていないから 初めから作業をやり直すという 気の遠くなるような根気のいる作業を行ったというのである。

また、緯度・経度の計算は正確を期すためにそれぞれ 2回ずつ行ったということで、つまり合計 72,000回も地図に定規を当てる作業を 行ったことになるのだから、 全くその忍耐強さ、 根気強さには驚くとともに、 頭が下がる思いである。

データはパソコンに入れているから色々な条件でデータを引っぱり出せる訳で、武内さんによれば、標高が日本一低い山は大阪の天保山。 標高は何と 4.5mとのことである。

また、山名で最も多いのは 『城山』 で全国に 276座もあり、次いで 『丸山』 (158座)『愛宕山』 (111座) と続いているいるとのことである。

また、20世紀の最後となる西暦 2000年と同じ標高の山は、静岡市と山梨県早川町にまたがる 『行田山 (大谷嶺)』 だけで、 武内さんはそのことを早川町に知らせたところ、 町では 「2,000mの山」 を材料に町おこしを始めるとのことである。

このように素晴らしいデータを整理された訳であるが、 この労作は嬉しいことに 本になって我々にも入手できるようになっている。 『日本山名総覧』 というタイトルで 白山書房 からこの 3月に出版されたのである。

実を言うと、私はこの新聞記事を読んだだけで楽しくなり、是非とも入手したいと思っていたところ、たまたま立ち寄った八重洲ブックセンターの地下 (山関係の書籍コーナー) に積まれているのを見つけ、 早速購入してしまったのである (税別 1,700円)

昨日購入したばかりでまだ内容を良くみていないのだが、各県別の山のデータに加え、日本難読山名、奇名珍名の山、 低順 200山 など、 楽しいデータが満載されている。

これでまた山に関するデータを眺めて色々思いを馳せるという楽しみができたのであるが、これを機に、日本百名山だけではなく 一等三角点の山だとか、 各都道府県別最高峰 だとかいった少し角度の違ったこだわりを持って 山に登ってみるのも面白いかもしれない。

この武内さんの労作である 『日本山名総覧』 を眺めながら、少し毛色の変わった山のグループ分けをしてみようと思う。

ところで、私にも1つだけこだわりたい山がある。

よく、その年の干支が山名に入っている山に登るということを聞かれたことがあると思うが、結構この干支の山に関して 興味を持っておられる方は多いようで 『十二支山の会』 というグループまであるやに聞く。
今年は 卯年であるから、 できたら南アルプスの 兎岳に登ればハッピーといったところであろう。

また、一方でその年 (西暦) と同じ高さの山に登る ということにこだわっていらっしゃる方もおられる。 今年は 1999年であるから 長野県嬬恋にある 破風岳 (破不岳 ?) が唯一該当する山になるとのことである。

来年の 2000年は、先に述べた 行田山 (大谷嶺) しかないとのことであるが、四捨五入などの関係で 長野県嬬恋の 土鍋山も該当するのではないかと思う (土鍋山は 1,999mと書いてある地図もある)

さて、ここまで書くと、 私が何を言わんとしているかお分かりであろう。 そう、西暦と同じ高さを有し、 かつその年の干支を山名に持っている山にこだわっているのである。

とはいっても、もう 2000年はそこまで来ているのだから、2,000m以上の山でその年の干支が山名に入っている山は そうそう見つかるものではない。

しかし、存在するのである。
富山県にある 駒ヶ岳は 2,002m、 そして西暦 2002年は 午 (うま) 年なのである。

実はこの山も越後駒ヶ岳のように 2,003mという説もあって、事実いくつかの地図には 2,003mと記されている。
2,002.5mなどと書いた地図もあり、 折角大発見をしたと思っていたことが崩れてしまいそうになったのだが、 今回購入したこの 『日本山名総覧』 では 2,002mと書いてあったので、 ホッと一安心している次第である。

出来得れば、この 2002年にこの駒ヶ岳の頂上に立ちたいと考えているのだが、登山道があるような、ないような・・・。
もう少し色々調べる必要があるが、 2002年まではまだまだ十分に余裕があるので、 じっくり研究してみたい。

なお、これ以降の山で西暦と干支が合致する山は、当面のところでは 竜喰山 (埼玉県 2,012m) しかない。 2012年における体力が心配な気もするが、 意外と山頂に立てるかもしれない。


富士の見える北限の山  1999.04.10 記

日本経済新聞の社会面左下にある 「窓」 というコラムの 4月9日付版に、福島県の岩代町観光協会が募集している 「富士山を撮れれば10万円」 という記事が掲載されていた。

これは 富士山が見える北限の山とされている、地元の 日山 (ひやま 1,057m) をPRしようと、まだ成功例のない 同山からの富士山撮影に成功したら、 岩代町観光協会が懸賞金を出すというものなのである。

この記事によれば、富士山と 日山は直線距離で約 299kmあり、パソコンによる試算では 日山の山頂から南南西の方角に 富士山の一部が見えるのだそうである。
しかし、理論上では見えても、 実際に富士山の姿をカメラに収めた例はまだないのだそうで、 日山の標高に因んだ 105,760円の懸賞金をかけて写真募集するとともに、 「富士山の見える北限の山」 を実際に証明しようという目論見があるようである。

これはなかなか面白いと思い、早速インターネットで岩代町のホームページを覗いてみると、しっかり 「富士山の写真大募集」 というページが設置されていたのであった。
募集要項を下記に書くと

(1) 応募写真は、「日山」で撮影したものに限る。

(2) 応募写真は、ポジフィルムで撮影したものとそれをカラープリントしたもの、及び富士山方面だけの写真ではなく、周囲をパノラマ的に撮影した写真も提出すること。

(2) 応募写真は、未発表のものに限る。

(4) 合成写真やフィルムに加工、修正を加えたたものは受け付けない。

(5) 応募写真は、焦点距離200ミリ以上のカメラで撮影すること (写真を提出されても確認できない可能性があるため)。

となっており、 応募締切は 第1撮影者が認定されるまで (第1撮影者とは岩代町観光協会に郵送などで到着した受付順で、 最初に日山から富士山を撮影したと認定された者) ということだそうである。

賞品は先ほど述べた賞金 105,760円の他に、認定証の発行、そして副賞として 町特産品や山岳・天体シミュレーションソフト 「パソコン山望 Ver 5.2」 (ハンフリー) そして 「百名山からの展望」 (東京新聞社刊) などが貰えることになっている。

またご丁寧にこの募集要項を記したホームページには、『パソコン山望』 を使って 日山山頂から撮影のシミュレーションを行った結果まで表示されており、 それによれば、 真南から西へ36度の方向に、 重畳する山々から頭を出している 白い富士の姿が認められることになっている。

この 日山が 「富士山の見える北限の山」 ということになったのは、山岳雑誌 『岳人』 の1994年3月号に掲載された ハンフリーさん (「パソコン山望」の生みの親) 「富士山を望む限界の山を求めて」 という記事の中で、この日山を 「富士の見える北限の山」 と紹介したことが発端で、 これ以降 岩代町は 「富士山の見える北限の町」 として町役場の上に看板を取り付け、 日山の頂上には展望台まで作ったそうなのである。

もちろん、パソコンのシミュレーション結果だけで 「富士山の見える北限の町」 と名乗るはずもなく、ハンフリーさん自身が 自分のシミュレーション結果を確かめるべく 1992年にこの 日山に登って 富士山の写真を撮ったという事実があったからなのである。

では、何故冒頭に述べた新聞のコラムに 「日山からは実際に富士山の姿をカメラに収めた例はまだない」 と書かれていたかというと、 実はハンフリーさんが 1992年に撮影した富士山の写真は、 その後 1996年に富士山型をした白河市の関山 (せきさん 618.5m) だったことが判明したからである (それを発見したのもハンフリーさん)

従って、未だ 日山から富士山を撮影した者はいないということなのであるが、ここら辺の顛末はハンフリーさんのホームページ 詳しく書かれていて大変面白い。
是非ご一読頂きたい。

さて、パソコンによる山岳展望のシミュレーションと言えば、 『カシミール (Kashmir) 3D』 を思い浮かべる訳で、 早速 日山から南南西 (真南より36度西) の展望をシミュレーションしてみた。

その結果、一応富士山の姿が見えることは確認できたものの、私が使っている地図が 250mメッシュのフリー数値地図であるためにリアリティに欠け、 ここではちょっとお見せできるものではない。
やはり、国土地理院が発行する 『50mメッシュ (標高)』 数値地図を購入してシミュレーションを行う必要があるようである。

それではと、 カシミールが持っている 山岳展望機能の中の 「2点間の見通しのシミュレーション」 を試して確認してみることにした。
これは 日山から富士山が見えるかどうかを一発判定してくれるもので、 下記のように見る基準ポイントを 日山とし、 判定ポイントを富士山として判定すると、 アッと言う間に 「見える」 との判定が下されたのであった。


ついでに、 日山から見える山をシミュレートさせると、 富士山の他に雲取山 甲武信山丹沢山大室山などといった お馴染みの山が表示され、 約 300kmの隔たりがあるにもかかわらず、 その展望距離の長さに驚かされた次第である。


但し、やはりこれはあくまでシミュレーション上のこと、実際に見えるのはよほどの好条件が整わなければ見ることは出来ないであろう。
岩代町のホームページにも書いてあったように 「展望に適した時期は、11月から1月までの空気の澄んだ日で、 夕方、特に日没の 20、30分後がチャンス」 ということだそうであるから、 気温が高くなるこれからの時期は大変苦しいであろう。

私は参加する気はないが (望遠レンズなどの装備もない)、是非富士山撮影者第一号が出現して欲しいものである。


KUMOさんに敬服  1999.04.19 記

17日の土曜日は天気予報も晴れを報じていたし、当然久しぶりに山に登るつもりであった。
しかし その前の週は仕事が結構忙しく、 会社から帰宅後一旦寝床に入ってから夜中に起き出しては仕事をし、 朝方の 4時頃に再び床につくという、 私の中高生の頃のようなことを 2日間もやってしまったため、 疲れがあったのであろう。 結局土曜日の朝に寝床から出ることができず、 山に行くことはできなかったのである。

『勝手に 神奈川二十五名山』 に選んだ 石老山 (694m) ぐらいなら、日が高くなってからでも登りにいくことはできたのであるが、 何となく身体がだるいこともあって気乗りがせず、 また翌日の日曜日は雨であったことからこれも登山は無理で、 結局 無駄な土日を過ごすことになってしまったのであった。

もし今週の土日 (24、25日) を逃せば、4月中は山に登ることが苦しくなり、折角 1月から毎月 1回は登山していたことが 途切れてしまうというピンチに陥ることになる。

さらに、例年なら恐らく 4月29日から 5月5日までの 7連休となったであろうゴールデンウィークも、今年は新橋勤務になったことで カレンダー通りの休みになってしまい、 平日利用の山登りが叶わない状況となっているから、 4月30日も使えずますますピンチである。

あとは、24日、25日、29日のいずれかの日が晴れることを願うのみであるが、その前に家族の都合も聞いておかねばならず、 今回の 17日を逃したことは大変痛手である。
さてどうなることやら・・・。

という訳で、 ボーッと無駄な時間を過ごした今回の土日であったが、 先日購入した 武内 正さんの 『日本山名総覧 (1万8000山の住所録)』 をじっくり眺めることができたという点では 良かったと思われる。

しかし読めば読むほどこの 『日本山名総覧』 は労作であることを思わざるを得ない。
この本に記載の山(18,000余山) の構成については先般書いた 『山の住所録』 をご覧頂きたいが、 この本が労作であることを知って頂くために その記述内容を少し紹介してみたい。

本書は、都道府県別に 2.5万分図に記載された山 (プラス 1,300余山) が記されており、各都道府県の最初のページには、

(1) 2.5万分図名と位置
(2) 当該の都道府県における最高峰の写真
(3) 当該の都道府県における標高 高順データ (2.5万分図記載の山のみ)
(4) 同じく標高 低順データ (2.5万分図記載の山のみ)
(5) 同じく難読山名データ (2.5万分図記載の山のみ)
(6) 同じく市町村山数順位データ (2.5万分図記載の山のみ)

が掲載されていて、その次のページから当該の都道府県における貴重な山データがズラッと並ぶという構成になっているのである。

ここで、そのデータの記述内容を私の大好きな 甲斐駒ヶ岳を例にとって引用させて頂くと、

山 名ヨ ミ標 高所在
市町村名
三角点名 山干 支地形図名
駒ヶ岳
(甲斐駒ヶ岳)
コマガタケ
(カイコマガタケ)
2,967白州町、
長野県長谷村
100甲斐駒ヶ岳

といった具合になっている。

ここで感激させてくれるのが、 という項目に対する数字表示である。 これは頂上までの道の状況を示しているもので、 0 は不明、1 は道あり、 2 は踏跡程度の道あり、 3 は道なし というように分類されているのである。
なお、三角点の項は 一等三角点を本点 (△)、 補点 (▲) で表しており、 名山の項は 日本百名山、 日本二百名山、 日本三百名山 を表している。

前にも書いたように、これらのデータを 18,000余の山に対して集めたのであるから本当に恐れ入る訳で、 武内さんはこれらのデータを 2.5万分図から 1つ 1つの山について丹念に集められ、 それをパソコンにて整理をされたのである。
そしてそのデータベースソフトを、 当初はフロッピーディスク版 『日本山名一覧』 としてだけ販売されるおつもりだったようであるが、 日本の山名データをより多くの人に活用してもらおうと、 このように本の形でも出されるようにしたのだそうである。
このデータ収集の努力に敬意を表するとともに、 本として出版されたことに本当に感謝したい。

ところでこれだけの労作を見せられると、 武内さんというのはどのような人なのかということにも 興味が湧いてくる。

『日本山名総覧』 の最後に簡単なプロフィールが載っていたのでその一部を引用させて頂くと、「・・・10代の頃から奥秩父を中心に山歩きを始める。 現在は中部山岳が中心。 少ない休日で南北アルプスの奥深くへ入るために 昼夜兼行登山が多く、 睡魔の果ての幻覚幻聴のとりこになっている。・・・」 のだそうである。

そして、同じく 『日本山名総覧』 の作者あとがきの最後ところに 武内 正 (KUMO) と書かれていたのだが、この KUMO というハンドルネーム を見てハタと思い出したことがある。

今も愛用させて頂いている 石井 光造氏の著書 『山DAS』 の中に 「頂上標識にこだわる」 という項があって、 その中に 山頂で見かける標識で気に入ったもの2つを取り上げておられたが、 その1つがこの KUMOさんのものだったことを思い出したのである。

茶色の板に、白い字で山名と小さく KUMO と書かれているものがそれだそうで、イメージとしては下記のようなものだろうか。

そういえばどこかの山で1度は見ているような気がするではないか。

この 「頂上標識にこだわる」 にも先のプロフィール同様この KUMOさんの登山スタイルが書かれていたが、この KUMO(武内) さんは夜も歩き続ける夜間登山者で、 泊まるために重い道具を背負うのがいやという理由で 夜も歩くのだそうである。

1941年生まれの年齢を考えると、根気のいるデータベース作成の偉業とともに、この登山スタイルにも敬服せざるをえない。
私のように ちょっと眠いからといって寝床から出られないような、 (やわ) な山好きとは全く違うのである。

私も見習わねばと大いに反省した土日でもあった。


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