このページでは、日々に感じた雑感を書いてます。
過去記事はことわりなく修正したり削除したりすることがあります。基本的に、このページは不特定多数の他人に読ませることを目しておりません。他のページもそうですが(^^;
なお、御意見を下さるのは歓迎しますが、その場合、「こういう意見をいただいた」という記述がこの日記に記されることもありますので、あらかじめご了承ください。



目次

09/24感染 05/08熱意 04/01ノーコメント 03/13ギターパンダ 10/23わかりやすい 10/13優先順位 09/17原発 08/01松島行った 06/09Jヴィレッジに関するデマについて 04/01清志郎について 03/26東北大地震は天罰か 03/12東北大地震 03/07カンニング問題 12/17ぐち 07/06鰻 03/16ディラン 02/24  01/25  12/3100-09の映画ベスト 10/27アメリカンウエイ他 05/01好きな音楽 11/18ポメラ 09/13ユースのサッカー 09/03清志郎 08/19音楽の趣味は難しい 07/21ポニョ 06/20ユーロ2008 06/07ボブ・ディラン 06/06高円寺でチモール 05/28SQLインジェクションの脅威 05/24サッカーの話いろいろ 02/01アラブ音楽 09/02coccoと鳩 06/09環境問題 02/03浅ましさについて 01/20映画『日本沈没』DVD 12/09映画『パプリカ』 12/04柏レイソルJ1復帰 10/12ジャーナリスト宣言について 08/06ゲド戦記 07/30日本沈没 07/29時をかける少女 07/19ミホミホマコト 04/02サッカー 12/14 12/14 11/12不愉快な出来事 08/01VIOLA生観戦 06/20コンフェデ・ギリシア戦勝利 06/12ある知人の本 06/06ピッピ隊ライブ 05/23ピッピ隊他 05/18 home表紙へ戻る

さらに古い雑感は下記を参照下さい。

04/02/03-05/05/05

03/05/24-04/01/24

02/04/09-03/05/07

01/04/01-02/04/09

00/06/15-01/03/26

99/09/04-00/06/12

99/05/12-99/09/04

98年12月某日-99年05月09日

某年某月某日-98年12月某日


17年06月24日感染

すごく久しぶりに日記を更新しようと思ったのは、先日録りためていたテレビ番組「タモリ倶楽部」の空耳アワードを見ていて、 ふと「妖精現実」の感染予防にかんする記述を思い出したからだった。
「妖精現実」は、インターネットのサイトで、専門的な技術情報などとともに、時折り情報の取扱いに関する有益な指摘が掲載されていたりして、時々参考にしていたのだった。
その中にあった「感染性のお年頃: 商用インターネット、11歳 」という記事は2009年に書かれたものらしいが、もう元のサイトには確認できない。 アーカイブしている人もいるが、オリジナルではない模様。まあでも、参考にサイトをお知らせする。 妖精現実
で、その記事については、こんなことが書かれていたのだった。

「人間は情報を持ち運ぶ容器であり、この入れ物の中には素晴らしい情報も、とんでもない情報 も入っている。入れ物自体は正しいわけでも間違っているわけでもない。 」
これを敷衍すると、自分が気に入らない言動をしている誰かに対して、その来歴をもって全否定せず、彼が発する情報の中に自分にとって有益な情報があれば、素直に受け入れ活用すべきである、ということになる。 これができないのが人間だから難しい。
ただ、タモリ倶楽部に気に入らない漫画家Uが出ていたんだけど、このことを思い出したのでわりと平静に番組を楽しめたのだった。その点について、ちょっと話し合いをした。
私「たとえば、すごく嫌いな会社の同僚がいた場合、その人がおいしいというランチを否定するのではなく、試してみるとか。そういう姿勢が大事だと思うのね」
相手「うん、でも人は感情で動くから、難しいと思いますよ」
そこから漫画家Uの所業がいやだなあ、という話から、ミュージシャンの話になった。
相手「じゃUさんが、ボブ・ディランをほめているのも気に入らないですか?」
私「いや、ディランはいい。あの人はもともと、真似から出てきたひとだから。真似のうまい人を、やはり真似ばかりしている人が好きになっても別にどうということはない」
相手「ふうん」
私はボブディランがとてもすごくたまらなく好きなんだけど、ここで本質的な話になったので、続けてこう言った。
私「ジョニ・ミッチェルがディランについて言った「あいつはにせもの」という言葉がずっと気になってて。ディランは確かに核みたいなものがなくて、 全部真似だと思ったりもするんだよね。だからあんな次々と曲風を変えて続けていける」
相手「そうなんだ」
私「でも清志郎の本のカバーにあいつが絵を描いたときは怒ったよ、お前何様のつもりだ、金に飽かせて好き勝手なことしてんじゃねえよって」
相手「はは。でもそれだけ評価されているじゃない、Uさんは。だからそういう話が来たんだと思うけど」
私「世間から評価されてるっていうけど、でもあいつの漫画でいいのってなにもないじゃん?」
相手「『マスター・キートン』はよかったよ?」
私「あれは原作付きだからね。『モンスター』も『二十世紀少年』も、風呂敷全然たためてなかったし」
相手「風呂敷たたむのは難しいからね」
私「たとえば手塚治虫が清志郎の本の絵を描くんだったら、喜んで読むけどさ。うん、たぶんUも、自分が偽物だって、どこかで知っているんだと思うよ、 あれだけネットとかで色々と言われているんだから、本人の耳に届かないはずはない。だから焦って、アトムの続き漫画なんかに手を出すんじゃないかな」
ちよっと話が逸脱してしまったけど、これだけネットなどでガセネタというか、いい加減で裏もとれていない情報が蔓延している昨今、行動や発言の基盤にすべき情報の吟味は 難しくなっているんではないか、と言いたいのだ。
特にネットでの情報は、わりといい加減な出自のものが吟味されずに蔓延し、時には炎上してしまう場合が多い。社会的にそうなってしまうのは止めようがない場合も多いけど、 自分の判断や行動を決める際に、そういったあいまいな情報をもとに決断するのは浅はかだと思う。特に現政権のふるまいを見ていると気を引き締めなくてはと思う。
直近で言えば、特に争点もないのに、自分の疑惑が追及されないように国会の冒頭で解散するとかいう、その姿勢だ。
今、現体制を支持している人たちも、個々の人は自分の生活があって、つつましく、あるいはひたむきに日々を過ごしている人が多いと思う。 そういう人たちが、なぜ自分がこういう判断をしたのか、どうしてこの政権の政策を支持しているのかとか、少しでも自分に顧みて、誰からでもなく、自分の判断で選択を してくれればいいなあ、と思った。
政治は何も変わらないと思う人も多いだろうけど、最近の選挙の投票率は五割程度で、そのうち半分、つまり25パーセントが自民党を支持している。 残りの75パーセントが今の政権にNOといえば、何かが変わるはず。

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12年05月08日紹介の熱意

マンガ「シャーロッキアン」の1、2巻を買って読んだ。なかなかおもしろかった。
シャーロック・ホームズを好きな大学教授と学生が織りなす日常の話。 日々起こるいろいろな出来事を、ホームズの作品にうまくシンクロさせていて、読んでいてさわやかな気分になれる。
週刊モーニングで鉄道マンガ「カレチ」を連載しているひとの作品だ。
「カレチ」同様、絵はあんまりうまくないけど、ホームズのうんちくが面白い。まあ強引な展開もあるし、女性の性格設定がすごく典型的だけど。マンガだから。
こういう漫画は許せるのに、なぜか「宇宙兄弟」とか「ワンピース」の成功は、どこか認められない。自分でも不思議に思う。
売れているからの嫉妬だろうか。それだけではないと言いたいが、なかなか言葉にできない。
「友情努力勝利」とか勧善懲悪とか、漫画の予定路線を逸脱しないマンガが、ただそれだけで駄目だというつもりはない。
だってサッカーマンガの「ジャイアントキリング」だって、私はサッカー好きだから気に入って単行本も集めているけど、サッカー好きじゃなければ大したことない、普通のマンガだ。
それはわかっているし、友達に薦めたいともあんまり思わない。
そういう漫画はそれなりに売れていればいいんだという気持ちがあるんだろうな。
「ワンピース」も正直「ジャイアントキリング」と大して構造は変わらないが、それでもすごく売れるのは、大勢の幻想を引き受けるような世界観とか構造があるからだろう。
「海賊」というキーワードと、出てくる世界やキャラクターの特殊能力が、空想の世界で楽しませてくれるし、ちゃんと予定調和の世界で娯楽として読者をひきつけてくれるからかも。
ただ大勢の人間をひきつけるということは、それだけ底が浅いということでもあるので、その点が気に入らないので熱中できないのかも。
私としては、空想の世界にしても、どこかしら自分の期待を外れた、ずば抜けたものを期待してしまうから、それで思い入れを持てないのかも。
ハードルが高いのかもね。

ふと前出の「シャーロッキアン」つながりで関崎俊三の「ああ探偵事務所」を思い出した。やはりシャーロック・ホームズが好きな探偵の話。ただホームズの筋とは全然関係なく、町の色々なもめごとに「貧乏」とか「アンダーグラウンド」、いや「日影」の立ち位置で問題解決を図る探偵の話。
これも、そんなに熱中するほどの作品ではなかったんだけど、宝くじで一億円当たった看護師が大金の使い道に困り、じゃあいっそ「いいひと」にこのお金を配ってください、と主人公の探偵に依頼してきた回のエピソード(5巻に入っている)がとても気に入って、それで単行本買うようになったんだった。けっこう迫力があった。
関崎の次の作品「恋愛怪談サヨコさん」もまだ買っているから、その時のインパクトはまだ続いているということなのだろう。
宝くじエピソードに話を戻す。
探偵はOLの要望に沿って、街で見かけたいい人にお金を配って回るのだが、それが巷の話題になり、大騒ぎになる。
で、この舞台の金槌町では、「いいひとならお金がもらえる」と思った輩が、こぞって傍からみて「いいひと」にみえるよう、偽善的な振る舞いを繰り返す。そんな偽善的な人たちのデフォルメされた表情が、何というか、すごくインパクトがあったのだった。
当時掲載雑誌の「ヤングアニマル」を購読していたのだが、これだけで単行本買おうと思ったし、実際買った。
その後のエピソードも面白かったので後悔はしていないけど、まあきっかけとしてはそんなところだ。(テレビドラマ化はされたけど、できればいつかアニメ化されればいいのに、と思っている)
そういう圧倒的な画力や話の展開で、読者をひきつける魅力が、残念ながら今のヒットマンガにはないんだよなー。
筋やネタも底が浅くてついていけない。
ただ、マンガ自体読み解く能力が欠けている人が多いというから、そういうひとたちのためにもドラえもんとか基本の漫画は残っていてほしいので、そういう意味では残っててほしいんだけど、そういう浅い漫画ばかりヒットしている現状をみると、なんか違う、と感じずにはいられない。

えーと、何を言いたかったんだっけ。そうそう、マンガの魅力についてだった。
マンガとか小説とか、絵画や映画も含め、私は、熱意をもって勧められた作品につい反応してしまうという性癖がある。
それで「なるほど」と感動する場合もあるし、「何これ」と失望する場合もある。
でも失望した場合でも、勧めてくれた人を恨んだりはあんまりしない。
その人にとっては、確かに熱意をもって進めるだけの価値がある作品だったんだろうと思うから。
逆に、勧めてもらってよかった、と感謝したくなる作品もある。(たとえば「花もて語れ」とか西村ツチカ、市川春子の作品や小路啓之の諸作品とか。どれもすばらしい。)
だから自分と同じ様なひとがいるかもしれないと思ってこれを書いている。
熱意で伝えられた感動をひとしく共有できた時の喜びが大きいからだ。知らなかった世界を教えてもらったことにただ感謝する。
だから自分でも、そういう感動を伝えられればいいなあといつも思っている。

今回の記事では、たぶん何も伝わらないと思うけど、またいつか、そういう興奮や熱気を伝えられるような作品の紹介をできればいいなあと思っている。

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12年04月01日インチキ野郎が君の前に立ちはだかっている

今更だが清志郎の「瀕死の双六問屋」、復刊と完全版刊行はめでたい。
ただ、
表紙の絵については一言言いたい。
清志郎ともRCとも全然関係ない漫画家が、表紙で清志郎の下手なイラストを描いているのだ。
醜悪と幻滅。

なんでこいつは、ボブディランとか遠藤賢司とか、おれの好きなアーティストにいちいちちょっかい出してくるのかなあ、と思う。マンガ家なら、漫画だけ書いていればいいのに。
とはいえ、そもそもこいつの漫画は全然だめじゃん。
いくら世間で評価されてても、こころあるひとはみんな知ってるぜ、「風呂敷たためないやつだなあ」って。
「モンスター」期待したんだよなあ。でもあの終わり方はなんだよ。
「20世紀少年」みんなワクワクしたよなあ、であの終わらせ方はなんだ、とみんな言ってる。
モーニング読んでるから「ビリーバット」も読んでるよ。あの思わせぶりな展開は健在だが、実績からいって期待できない。またどこからも批判を浴びないような、こじんまりとした予定調和の結末が待っているんだろうと予測がつく。

みんな知ってる。
たぶん、みんな以上に自分が知ってるんだよな。
その後ろめたさをごまかそうとして、ちょこちょこと別ジャンルに出てくるんだろうかね。
気持もちょっとわかるけど、正直迷惑なんだよ。
風呂敷たためないのなら、もっとちまちました端切れの、パッチワークの手ぬぐいを広げてたためばいいんだよ。
そういう世界でやってればいいのに。世界の違うロックシンガーに手を出さないでほしい。
邪魔。
はずかしい。

30センチの物差ししか持ってないのに、体長20メートル超のクジラを測って、判断して、結論出して評論するのはやめてほしい。
そういうことされると、清志郎やボブ・ディランやエンケンが、30センチの存在だってみんなに思われてしまう。
すごい不幸。計り知れない損出だ。

もっとも最近は、そういう過去の遺産を「トリビュート」とか「リスペクト」という言葉で矮小化して、日々の流行の中に取り入れて消費しようとする風潮が蔓延しているから、そういう世情に合わせればしごくまっとうなのかもしれないけどね。
とすれば、その中のひとりの漫画家にいちいち文句言ってる自分が馬鹿馬鹿しく思えてもくる。
そういう時代なんだから仕方ないのかな。
でもクジラの実際を知っているひとたちは文句言うよ。「こんな半紙にシロナガスクジラの魚拓がとれるわけねえべ」ってね。

知らないものに対しては、できれば謙虚でいてほしい。わからない部分については素直にわからないと言ってほしい。
わからないけど、感動する、という言い方だってできるはずだし。
おそらく「双六問屋」については、売りたいがために出版社サイドから是非に、と指名があったのかも知れない。それで、「まあ好きな清志郎のためなら」と本意でないけどカバーイラストを描いたのかも知れない。
でもやっぱり違う。著作者本人が頼んだわけじゃないからね。売らんがための提案には、できればのらないでほしかった。たとえ売れなくても、それはそれでいい。漫画とは別の世界の話なんだから。それよりも自分の世界で、もっと風呂敷の畳み方を研鑽してほしいもんだよ。これだけ売れっ子の漫画家になったんだから、後世に残る作品を完成させてほしいもんだ。今のところ、そういう作品は皆無だけどね。

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12年03月13日ギターパンダの新譜「ロッキン・イン・ザ・パンダーワールド」

ギターパンダの新譜「ロッキン・イン・ザ・パンダーワールド」を聞いた。
ギターパンダの正体は、以前忌野清志郎がやっていたバンド 2・3'S(ニーサンズ)のギタリスト山川のりを。 2・3'S解散後はソロ活動をしていた・・・らしい。正直、このあたりの動向は知らない。ただ、いつの間にかパンダの着ぐるみを装着してギター弾いて歌う、このギターパンダとしてのライブ活動をはじめ、それが今日まで続けられている。
今年の四月に、都知事が花見自粛せよ、と発言したのを受けて映画評論家の町山智広が反発し、新宿御苑で花見をやる、と宣言し、大勢の賛同者が集まったのだが、その際に町山が声をかけて呼んだのがこのギターパンダ。パンダの着ぐるみに身をやつして登場し、顔を出した後は水玉模様のパンタロンでカルピス・プレスリーと名乗って変な曲を演奏したり。ネット中継でその様子を見ていて、初めてこのギターパンダを知った。清志郎つながりで「サマータイムブルース」とか演奏して、大いに盛り上がった。
ギターパンダのオリジナル曲ももちろん披露されてて、それがなかなか面白かったので、後日ネットでCD「ロックンロールパンダーワールド」を注文した。それが正式にギターパンダの曲に触れた最初だった。それから約一年、新作が発売された。
それがこの「ロッキン・イン・ザ・パンダーワールド」だ。
以下、その感想を書き述べる。
前作「ロックンロールパンダーワールド」に比べると、R&Bとかハードな曲調が増えている気がした。あと、やらしい歌詞が増えている。でもメロディは素晴らしい。歌詞を知らない外人だったら、こっちの方がいいというひとも多いかもしれない。
一曲目の「人類滅亡」は彼らしいいい曲だ。歌詞の説得力はいまいちだが、安心して聞ける。
二曲目「ランちゃんのTシャツ」は名曲。前作の「仲良くなれないのはなぜなんだろう」に匹敵する名曲だと思う。彼は少ない言葉の中に結構大きな思いを乗せて歌っていて、それがこの曲では圧倒的な説得力をもっている。
ギターパンダの曲は、すべて「かわいい」というフレーズがなぜか頭に思い浮かぶんだけど、その範疇の中でできるだけあがいて、伝えるべきことを伝えようとしている感じがして、それが心地よい。
三曲目の「大昔から」は、いい曲なんだけど、なんか途中でしりすぼみに終わっている気がする。あえて途中でカットしたのかも。フェイドアウトで聞けない三番の歌詞は、もっと過激なことを歌っているのかもしれないと思った。
四曲目の「お尻ブギ」は、くだらない内容なんだけど、曲は素敵。ブギといいなからロックンロール。とてもいい。
五曲目の「サボテン」もそうだ。R&Bの清志郎風なメロディラインと歌い方。歌詞の付け方もそうだ。すごく清志郎のテイストを感じるんだけど、剽窃や単なるコピーの場合には感じられる嫌味が全然ない。いったん自分の中で消化しているからだと思う。そこがなんだか心地よい。
ギターパンダの曲は、けっこうどこかで聞いたようなフレーズやメロディが多いが、オリジナルを想起させるよりも前に、彼の個性を主張するような歌い方やギターフレーズが聞き手を楽しませてくれる。
六曲目「17歳」は青春ぽい。昔のフォークのような。ちょっとどんとを思い起こさせた。
七曲目は、はじめまともで終わりがお遊び。こういうのも好きだ。
八曲目の「SEX」は歌詞がやはりやらしいけど、いい曲だと思う。歌詞が違っていれば、ギターパンダのスタンダードナンバーになっても不思議ではない。歌詞もやらしいなりに説得力があって聴きごたえがあるし。
九曲目の「無職の人」は、じわじわくる名曲。音はパンクだけど、それだけにストレートにメッセージが響いてくる。特に歌詞の「働きすぎて鈍感になった皆さまのおかげで俺は感じる、俺感じる」との言葉には深いものを感じる。
十曲目「金曜日」は、まさに「かわいい」曲。週末の情景を切り取ったスケッチを個人的な思いに引き寄せて、ダジャレでまとめていて、歌詞の意味を考えず、音の中に身をゆだねて楽しむタイプの曲。
ラストの曲はたぶん清志郎へのトリビュートだけど、よかった。ラブジェッツの曲をカバーしようというのが、まずいい。
なんかブルーハーツとか、カステラとか、あと全然違うんだけどビリーブラッグを思い起こさせる。こんなギターパンダがなかなか気に入っている。

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11年10月23日 わかりやすい話

9/17に、今回の原発事故を人災だとする報道番組があった、という話をここで書いた。人災だったということにしたいひとがいるのかな、とも書いたんだけど、わかりやすいことに、そういう人たちの意見広告が読売と朝日に出ていたらしい。
朝日の広告は自分で確認した。「選ぶべき道は脱原発ではありません」だそうだ。国家基本問題研究所という団体によるものだ。
リンク先で議論など読んでいる限り、真剣に考えているらしいのはうかがえた。だが、日本の原発技術が仮にすごく高度であって、今回の事故はすべて人災であり女川原発のように、対応を誤らなければ事故は防げた、としても(これは彼らの主張であって、自分はそうは思っていないけれど、ともかくそうであったとしても)、実際にこれだけの事故が起きてしまった。
これは誰も否定しようのない事実だ。
で、そういう国が世界に向けて「日本の原発は安全です」と言ったって、誰が信用してくれるかね。
輸出される農産物は、すべて疑惑の目で見られ、まともに出荷できないだろうし、自動車とか工業製品でさえ、港で放射能検査される現状だ。しかも「人災」とされた今回の事故の責任追及もあいまいなままだ。東電自身が人災ではない、防ぎようのない天災だった、とか言ってるぐらいだしね。そのあたりの整理もつけずに、なぜ今原発容認なのか、理解に苦しむ。
結局経済なんたらが大事だから、それ以外はどうでもいい、故郷を失った双葉郡の人々はどうでもいい、関東にまで達した放射性物質の汚染もどうでもいい、除染すればいいことだろ、がたがた騒ぐな・・・ということだよね。
違うのかね。

じゃ順番が違うだろうが。

今、脱原発は間違っているとかいうんじゃなく、まずは失われてしまうかも知れない国土の保全や回復に集中するのが筋だろう。それが終わらないうちに、「やっぱ原発は大事だよね」とか言って世論誘導を図るのは卑怯だ。せめて福島でそういう声をあげてみろ、と言いたい。

最近イライラするのは、当事者意識がないくせに今の体制を支持するのがカッコいいと思っている輩の跋扈だ。小泉政権のころからあったけど、現状維持とか体制を支持するのがかっこいい、というよくわからないスタイル。主張があってそうするわけではなくて、ただ現状に苦痛を感じて声を上げる人たちに対して、いちいち中傷や差別で批判するひとたち。今回の件だって、「原発なくなったら、今の経済レベルは保てなくなる」とか「海外との貿易に頼る日本はどうなるのか」とかいうし。現状への不満が出た時、それを左翼だのなんだのと言って全否定するんではなく、「それはこうすればいいんじゃないの」と代替案を提示するとか、あるいは「それは確かに間違っている、君の意見に賛同する」とかいうのは全然なしなのね。わけがわからない。

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11年10月13日 国の優先順位

漫画家の青山景が自殺した。ちょっと前には音楽評論家で月刊誌「ミュージックマガジン」創刊者の中村とうようも同じ死に方を選んだ。
最近自殺するひとが本当に増えている。社会に絶望したんだとしたら、すごくよくわかる。今の日本は本当にひどいよ。被災地対策と原発対策、放射能対策とか、すべてを差し置いてもやらなくちゃならないことがあるというのに。

内田樹が雑誌『SIGHT』の総力特集「私たちは、原発を止めるためには日本を変えなければならないと思っています」の対談記事で言ったように、国土の保全と国民の健康。それこそが国家が国民に保証すべき最初の約束だと思う。それが破られたなら、もう死に物狂いでこの二つを正常に戻すのがまっとうな国であり、それができないなら、もう国家としての存在意味はない。
国民から離反されたり絶望されたりしても当然だ。
そのぐらいの姿勢で難局に立ち向かう姿勢を見せてほしいのに、それが全然ない。政権党であれ、野党であれ、おんなじだ。すごくがっかりしている。というか、内田の言葉で目が覚めた気になっていた自分も、今まで何をやっていたんだろうなあ、といらだつ気分がある。
今日も横須賀線やほかの路線で人身事故(という名のたぶん自殺)があった。たぶんどんどん増えていくと思う。その自殺の順番待ちの列に、自分も入っているのかも知れないと思ったりもする。

、 内田 優先順位は何かって。1番、国土の保全。2番、国民の健康。3番ぐらいが通貨の安定。 (中略)この3つがクリアできたらね、あとはなんとかなるんだよ。国土が保全されていて、国民が健康であれば、なんとかなるよ。だから、なんとかなることは後回しにして、最優先のことから手をつけるべきでしょ。でも、今、話が逆でしょ。優先順位1番が金なんだもの。

最近の日本人の中には、デモしたりして自分の立場を大声で主張するひとは少なくなっているかもしれない。でもだからって、これをいいことにまた原発推進とか変なことをいう奴が出てくると、みんな黙って絶望して自殺するよ、きっと。
労働者のいない、空っぽの工場で、それでも原発は日本の経済のために必要だ、なんていうのかね、たとえばテレビメーカーのシャープの社長さんは?
原発が必要かどうかなんて、もう問題じゃなくて、今この国のあちこちにふりかかっている災厄をどう処理するか、どうやって除染や疎開で国民の健康を守るか、という次元の話になっているのに。なぜそれがわからないんだろうなあ。

いっそ日本全体で国民投票してくれないかな。原発賛成派と反対派で。
で、国を半分に分けて。好きな方に移住できるようにする。
原発賛成派は、絶対事故を起こさない。経済的発展を保証する、というのを旗印にして、反対派は、原発使いませんが、すごく貧乏になるし不便な生活を強いられます、それでもよければどうぞ、という政策をとる。
国民ひとりひとりが、どっちかを選択する、という。
以後鎖国して、両国は一切行き来ができない、とかいう縛りがあってもいい。私は貧乏な暮らしの方がいい。


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11年09月17日 原発

先日、福島第一の事故は、一号機から四号機まで、対応を間違えなければすべて防げた、いわば人災の側面が強い、との内容をまとめた報道番組があった。
見ればなるほど、と思う部分もあったんだけど、「人災だ」とすることで、原子力は制御できるエネルギーなのだ、と実は主張しているのかなあ、と思ったりした。
まだ原発を続けたいと思っている人(たとえばシャープの社長とか)がたくさんいるのは知っているが、こうした番組を見て、ほらやはり原発は使い方次第なんだ、とか言うようだったら、不愉快だし、それは違う、と断言したい。

ミスがなければ、今回の原発事故は防げたかも知れない。
でも実際に起きてしまって、テレビ番組「鉄腕Dash!」のDash村のある浪江町とか、多くの農村や町が、もう当分人の住めない場所になった。いったん事故が起こればこういう状況になってしまう。
しかも、今後何十年も被爆の不安を抱えながら生きていかなくてはならない。
住民をそこまで追い込んで、それでもなお原発を推進しようというやつらは、もう人間としてどうかしている。
人間はミスをする生き物なんだから、絶対ミスをしないことを前提に作られるシステムは間違っている。
原発に依存した暮らしを続けていると、それに頼り切って、それなしでは生存できないような社会的弱者が現れるという。
その真偽はともかく、だったら原発なしでもどうにかそういう人たちが生きていけるようなシステムを作るのが先決だろう。
桜島もまた最近噴火で活発化している。また日本のどこかで大地震が起きても不思議ではない。
原発を推進する人たちは、それでもなお、必要だと言い続けるのだろうか。

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11年08月01日松島観光

先週の水・木と有給をとって仙台に行ってきた。水曜の夜に行われるJリーグのサッカー観戦だったのだが、翌日は松島まで足を延ばして観光してきた。今回はその話。

仙台から仙石線で松島へ。車窓の風景は、ほとんど津波の爪痕を感じさせないほど復興していた。
塩釜など、ニュース映像で見たときには全然違う。よくぞここまで、と感動した。
だがもちろん、松島から先の線路はまだ止まっているし、ここより北はたぶんずっとひどい状態のままなのだろう。

ときどき電車は少し揺れた。普段からそうなのかもしれないが、線路を復旧した時に、改めて敷いた砂利がまだうまくなじまないからかな、と勝手に推測してしまった。

30分ほどで松島海岸駅に着いた。松島駅では、その先に向かう人のための臨時接続バスの案内があり、その一方で松島を目指してきた観光客向けに遊覧船の客引きがいて、駅前の券売所へと客を呼び込んでいた。遊覧船の券売所では、60分松島一周コースのチケットを売っていた。1400円。時間がうまくあったので、乗ることにした。
チケットを買ってから、船着き場まではちょっと歩いた。
くねくねした道を回っていって、観光地らしいにぎわいはあったけど、時折、ブルーシートやベージュの布で覆われている店があり、覗き込むと隙間からは砂混じりの床とか、ガラスが割れて吹きっさらしになっている側面などが垣間見られる。もっともそういう店はごくわずかで、震災のことを考えていなければ、あ、たまたま改装中なのかな、とすぐに忘れてしまうような感じではあった。
近くの定食屋では、メニューのカキフライ定食について「ただいま広島産のカキになります」と但し書きがあった。

遊覧船の船着き場に到着。全然普段と変わりない風景だ。平日ということもあって客はまばらだが、外人の姿もある。白人や、言葉から中国系と思われる人々。自分も同じ観光客ではあるけれど、こういう時に、あえて来てくれたことに、なんだか感謝したい気持ちになった。

遊覧船は、二階席がグリーン席ということで別料金を取る。まあめったに来ないから、と追加料金600円を払い、二階席に入った。

遊覧船から見る風景は、震災の影響などまるで感じさせない、やはり絶景のオンパレードだった。

こうした岩々が、津波を緩衝して被害を食い止めたのだとは聞いていたけれど、そういう津波をもろに受けたにしては、松などの木々がそのまま残っているのには、びっくりだ。被害がなかったのか、それから復活したのかはわからないけれど、やはり自然はすごいと思った。
時折、島の風景で、人家がある場所が見られたのだが、そこではまた、津波の爪痕が残る場所もあった。
もちろん船内アナウンスではそういうことには触れなかったけれど、やはりここでも被害が少なかったとはいえ、大変な思いをしてきたんだろうなあ、と思った。

遊覧船から降りた後は、帰りの電車の時間を見つつ、五大院と瑞巌寺をめぐった。瑞巌寺は震災とは関係なく改修工事に入っていて、そのせいで一部しか公開されていなかったけど、それでもなかなか面白いものが見られた。伊達家の位牌とか、大きくて豪華で、おもしろかった。 一方でいくつか倒れたままの仏像などもあり、心が痛んだ。

昼は牡蠣カレーパン。カキが三つも入っていておいしかった。広島産かどうか知らないけど、これで300円なら安いと思った。
その後松島海岸駅に戻り、仙台に向かった。

ところで仙台でも松島でも、がんばろう東北、がんばろう宮城といったのぼりや垂れ幕があちこちに見られ、テレビでも、番組やCMで、そういったメッセージが流れている。だが、東京でいう同じメッセージとは違って、地に足のついた、被災者のそばに寄り添うようなやさしさが感じられて心地よかった。うまく説明できないんだけど、東京で同じスローガンに感じたよそよそしさがまったくなかった。勝手な思い込みかもしれないけど。

御覧の通り、ただの観光旅行であって、ボランティアしたわけでもないし、好きなチームのサッカーの試合を見に行って、負けた憂さ晴らしに観光しただけの話なんだけど、多少なりとも地元でお金を消費することができてよかったと思っている。
被災地の復興に向けて、いろいろなやり方があるだろうし、ひとそれぞれでできることも違うと思うけど、こういう方法もありなんでないかと思い、長々と旅行記を書かせてもらった。

毎年サッカーでは、一回だけアウェイの試合を見ることにしていて、今年は本当なら名古屋に行くつもりだった。成田からプロペラ機でセントレアに向かうという便があって、それを使うつもりだった。
だが、地震があってから急きょ予約を入れていた便をキャンセルし、代わりに仙台の試合を見に行くことにした。
まあ偽善かもしれないけど、後悔はしていない。
生の被災地を見たわけでもないし、ボランティアツアーに参加して、泥を掘り起こしたり汗を流しているひとに比べれば何もしていないに等しいかもしれないけど、でもやはり、仙台に行ってみてよかったと思っている。
私同様、何もできないと思っているひとや、自分にできることが何か迷っている人たちにも、何か参考になればいいなあと思う。

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11年06月09日Jヴィレッジにかんするデマについて

木村元彦が福島県楢葉町にあるサッカーのナショナルトレーニングセンターJヴィレッジ探訪記をサッカー批評51号に寄せていた。現在この施設は原発対応で常駐する自衛隊員や関係者の宿泊施設になっているが、変なデマが飛んでいることについて、下記のように書いている。

Jヴィレッジは部屋を汚されたくないから、命懸けで働く自衛隊員を通路で雑魚寝させているという一部報道があったが、どこを見てもそんな事実は無かった。
木村は、これぞ風評被害と語っている。
通路で雑魚寝していたのには理由があって、決して「部屋を汚されたくないから」ではない、とのこと。(その理由については本誌で確認してほしい。)
確かに四月ごろ、私もこの話を聞いて腹が立った。ひどい話だなあと思った。
でも木村の記事を読めば、心ないデマでJヴィレッジの関係者が非難されていたのは気の毒だと感じた。

「Jヴィレッジ 自衛隊 雑魚寝」という言葉で検索すると、まだこのデマに踊らされているページがいっぱいある。
そこで、ささやかなからここで木村の記事をここで紹介した次第。
もちろん自分がJヴィレッジに行ったわけではないから、木村が嘘をついている可能性もあるだろう。
だが、実際現地に行って写真も撮り、こうして記事にした木村の方が信用に値すると私は思う。
そもそも木村元彦の記事と、誰かの飛ばし記事とのどちらを信用するかといえば、サッカーにかかわる人間なら自明のことだろう。

残念なことだが、悲惨な状況ではそれを誰かのせいにしたり、状況が改善されないのを誰かが無能だったり非道なことをしているせいにしたり、面白がって燻製ニシンをみんなの鼻先にぶら下げようとするやからがいるものだ。
騙されてもしょうがないが、気付いた時には訂正したいし、反省もしたいと思う。
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11年04月01日いま、清志郎を語るとか

今朝のニュースではRCの「ラブミーテンダー」が取り上げられていた。最近youtubeでよく再生されている、とのこと。
微妙に「原発」を避けていたけど、やはり東電にたいするうっ屈した気持ちがこういう企画になったのかな。

今になって、清志郎の曲を全部聞いておけばよかったなあ、と後悔している。
というのは、全部聞いてしまったらもうおしまいだからと、あるアルバムを買わずにいたのだ。
いつかは聴くにしても、まだ自分の中で清志郎をおしまいにしてしまいたくない、という気持ちがあった。それが裏目に出たみたいだ。

こんな状況になった以上、今そのアルバムの曲を聴いても、どうしてもフラットな気分で聴けないだろうな。

そもそもRCのかつてのヒット曲を聴いても、もう別の意味を歌詞に感じてしまうようになってしまった。
たとえばアルバム「ビートポップス」の中でも
「離ればなれNo No Baby プールサイドではぐれた」という詩とか、
「家の中は水浸し 手がつけられない」とか
「ほらみてごらん続きがあるのさ、どんどんすごくなる」とか。
フラッシュバックのように、一瞬で震災の風景が脳裏に浮かぶ。
それ以外にも 「昨日は車の中で寝た。あの娘と手をつないで」だけでも、そう。アルバム「夢助」の曲「激しい雨」なんぞは、今の惨状を予言していたみたいな歌詞があるし。
素直なラブソングとしてはもう聞けない。聞くことができるようになるまでには、ずいぶん時間がかかりそうなのだ。
その理由といえば清志郎が、折に触れ原発の危険について警鐘を鳴らし続けていたからに他ならない。
もちろん、すべての曲に彼がそういう思いを込めていたわけないけれど。 清志郎が真剣に訴えていた姿を思い出すと、どうしても歌詞のセリフにかぶさってきてしまうのだ。

結局日本社会は彼の孤独な叫びを無視し続けていた。その構成員のひとりとして自分がいる。それが罪ならば、同じようにかぶるべき立場だ。もっと××しておけばよかった、とか過去を悔いる便利な言葉だけど、そう吐くことで免罪されるわけではない、ということをもっと自覚しなくては。

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11年03月12日石原慎太郎の「天罰」発言について。

東京都知事である石原慎太郎の「今回の震災は天罰だ」というものの言いには、かなり腹が立った。絶対許せないと思った。
本人もまずかったと思ったのかすぐに撤回して陳謝した。
それでも怒りは収まらなかったんだけど、少し冷静になって考えてみると、石原はたぶん動揺していたんだと思う。
何でも思うがままにできると思っていた人間たちの社会に対し、突然不条理な自然災害がふりかかってきた時、なすすべもなく途方に暮れた人びとは、やはり罰があたった、と口にしてしまうのではないか。
日本人って、もともとそういう思想があったと思うんだ。
知り合いが、今回の災害を日本人のカルマだと言っていて、その発言にも落ち込んだんだけど、それも同じものかもしれない。
自然の力に対して謙虚さを失って生活してきた、という自省は、生き残った人たちがみんな、この先胸の中にしっかり刻みこんで生きていくべきではないかとも思う。

ただ、シーシェパードのやつらが言うセリフは、なんか外から安全な場所で能書きをほざいている感じがしてあんまり好きになれない。
たとえそういう側面があったとしても、それを外部の絶対安全地帯からどうこう言われたくはない。
石原もそういう立場で言っているならやはり批判したいが、そうではないように感じるし、そうでないと信じたい。
石原発言が被災した当事者としてのものであるのなら、彼の政治的スタンスは大嫌いだし賛同できないけれど、ことこの「天罰」発言に限っては、支持する。
そして、こういう思いは、被災者の犠牲に対する冒涜では決してないと強調したい。

すっかりこころが弱ってしまって、今でも被害者や残された家族の話を見聞きするたび、すぐ泣きそうになる自分だけど、今はそう思っている。
強くなれなくてもいいし、自分のペースで回復すればいい。
だけど、こっちが正しいですよ、と誘導する人たちには常に懐疑の目を向けていたいし、追いつけない人たちの邪魔をしないようにしたい。
今はそう思っている。

4/4の追記。
でも、石原が次期都知事になるのは全然支持しないけどね。そもそも、こういう発言する時点で、もう政治家としては失格だと思うし。石原の発言は、個人としては支持するけど、都知事としては問題ありありだと思うし、もうやめたほうがいいと思う。彼が出馬宣言した瞬間にあの地震があったように、当選したときにまた何か惨事が起こらないかと危惧してもいる。何もなくても、たぶん石原は今度の任期を務めることはできないと思う。何が彼をそこまで駆り立てているのかは不明だけど、もうこれ以上都政を籠絡するのはやめてほしいものだよ、まったく。
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11年03月12日東北大地震

なんとか無事だった。千葉の佐倉に住んでいるとはいえ、震度5弱とは思えないほどものすごい揺れだった。
たまたま休みで、揺れからちょっとして「これはいつもと違う」と思い、二階から一階にいる母の元に赴き、一緒に大黒柱のあたりで揺れをしのいでいた。かなりの揺れだったが、なんとか家は保ったみたい。
で、二階に戻ってみると、まずリビングのいろいろなガラス製品は粉々で、モエシャンドンのベルエポックロゼや、奮発して買った1934年のシャンベルタンの空き瓶とか、エジプトのホルス神の像とか全部パー。思い出があっただけに、ぞれぞれ惜しいけど、生きていただけよかった。
家のブラウン管テレビは倒れ、書斎は本で膝あたりまで埋め尽くされているような感じで。
ブラウン管テレビ倒壊の図書棚の本に埋もれた書斎
地震直後にこの部屋にいたら、多分死んでいたか大怪我していたなあ、とつくづく幸運だったと思った。
テレビはこの震災一色。テレビ東京までずっと報道特別番組をやっている。例外は千葉テレビぐらい(津波警報の画像を出しながらアニメやってた)で、あらためてこの震災の深刻さを感じた。

友人でひとり、福島の原発付近に住んでいるひとがいて、その彼の一家の消息がとても気になっている。18時時点の情報では、かなりあの近辺は大変なことになっているみたいなので。ちゃんと避難していると思うけど、すごく心配だ。
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11年03月07日ネットを使ったカンニングについて

Yahoo知恵袋を使ってカンニングをした受験生の事件。
すでに周知とは思うけど、この事件の顛末について、茂木健一郎さんがひどく怒っていて(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/03/post-6403.html)、twitterでは『あれしきのことで逮捕はひどい、京大は死んだ』とまで言ってるのを読んで、最初は何バカなことを、と思っていたんだけど、よく考えればもっともだ。

学問の自由の場を官憲に侵された、ということではないか。ゆゆしき事態。

警察に大きな借りを作ったこの件で、今後大学内でのちょっとした反体制的なあらゆる行動(たとえば学食値上げにちょっと不満があって、署名運動するとか、そういう些細なことでも)が大きく監視され、規制されることになるかもしれない。禍根を残したのかも。

そもそも大相撲賭博もそうだったけど、マスコミが大騒ぎしたとたん腰砕けになって、犯人捜しにきゅうきゅうとする、という対応はいかがなものか。
毅然として「学内でまず調査する」とか言って、まずカンニングをした学生のに呼び掛け、名乗り出るよう促すなど、穏便な対応から始めるべきではなかったのか。
彼の護送される車の映像などみるに、確かに未成年で顔も名前も出なかったとはいえ、犯罪者としてさらしものにするまでのことはなかったんではないか。業務妨害程度の罪状での逮捕も釈然としない。

ただ、そういう昨今の犯人探し、ずるしたやつを探すとか、変な奴をみんなで糾弾するとか、そういう異質なもの探しの風潮には、自分もどっぷりつかっていて、なかなかその快楽から逃れられない。
今回も、茂木さんがああいう風に怒ってくれなかったら、全然反省しないまま同調していただろうなあと思う。雰囲気というやつは恐ろしいし、そういうものに巻き込まれてしまう自分の怠惰も恐ろしい。昔はもっといろいろと自分でモノを考えたもんだったが。

あるTwitterのつぶやきでは
「いやだって、カンニングかどうかなんてわからないわけですよ、初発の段階では。印刷所や関係者から漏れたのなら大問題ですから、捜査機関に通報するのは当然です。」とか
「今回のは「カンニングを刑事事件にした」のではなく、「業務妨害の犯人を捕まえたら動機がカンニングだった」のです。間違っちゃいけない。」
とか言ってたけどやはり納得できない。(そもそもタイトルに反して、この発言者は法曹の専門家として話しているわけではないみたいだしね。紛らわしいのでまとめたひとには訂正を強く望みたい。だって、法学者の定見だと思われてしまうじゃないの、これでは。)
自分同様のひともいるらしく「結局はおおっぴらにカンニングがバレた大学が、面子保つために望みの薄い情報漏えいの線で被害届け出したってのを強弁してるようにしか見えないなあ」とか
「「印刷所や関係者から漏れた可能性」なんてのを主張するのは一体どんなギャグなんだろう?試験前に問題を入手できていたのに、試験始まってからネットに問題文載せて答えを募集する可能性って。」とか言ってる人もいる。
あと、高橋源一郎も別の場所で自説を述べている。
高橋源一郎の小説は、初期の数作以降全然好きではないけれど、この件については彼の言うことの方がなじむし、納得できるし、正しいと思う。

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10年12月17日ちょっとした愚痴
こういうウェブの記事がいつまで残っていくものか、などと考えることがある。自分が死んだり、何らかの理由で更新ができなくなった場合、どうなるのか、と考える。
まあここではたいしたことは書いていないし、なくなったらそれはそれでいいのかも知れないけど、零細ウェブとはいえ、時々は読んでくれているひともいるわけで、ちょっとは気にかかる、というか気にしている。
私は、こことは別に調査研究系のサイトを主催していて、その分野ではそれなりに有名になっているのだが、そこで先日、ちょっとした発言をした。
さっき述べたような動機からだったのだが、その趣旨は隠したまま、この研究の中心にはもう、自分は立たない、という宣言をしたのだ。
具体的には、その研究材料を提供していただいても、それを自分が独占的に使用することはしない、すべてネットで公表するし、私個人のためだけにくれる情報はもういらない、というような感じ。
とたんにメールや情報提供が減ってしまった。まあ無理もないんだろう。突然突き放されたようにみんな感じたのかも知れない。
でも、自分の健康状態などを考えると、そのサイトが研究の中心にあるのはいずれ問題を発生させると思えたし、できれば誰でも自由にこのサイトの情報を使ってほしいし、そういう場所を可能な限り提供したい、とそう思っていたのだった。もともとこのサイトを立ち上げた動機もそこにあったから、今でもその発言には後悔していない。
これは検索エンジンにも言えることだけど、どこかに情報が集中すると、どうしてもそこを前提にみんな頼ってしまう。でも、そこがダウンしてしまったらどうするのか、とか、そこが意図的に自分に都合のいい情報を垂れ流した時に、その真偽をどうやって判定するのか、という部分には、みんな、あまり思いが行かないみたいだ。
ひるがえって、私のサイト。研究サイトであるからには、研究の助けになる情報を提供するべきだ、と私は思ったので、できるかぎり著作権フリーにして、そのサイトにある情報を誰もが気軽に使用できるようにしたいと考えた。サイトにあるリストは、色々な人からの情報で構築されたものだから、そのあたりをどうクリアしていくかという問題はあるんだけど、とりあえず、このリストが誰にでも自由に使えるようにしたい、と思っていて、正直それが今の私の最大の目標になっている。誰もがこのリストの情報を利用して、研究やその他の目的に利用できればいいなあ、と思っている。
そうなれば、たとえ私のサイトが閉鎖されても、情報だけはネットの世界に残り、ずっと新しい誰かのために使われ、役に立っていくことだろう。そういう未来を考えると、私は愉快な気分になる。陶然として笑いたくなる。
いきなりああいう宣言をしたことで、たぶん多くの人は私のことをよく思っていないんだろうとは思う。言い訳はしない。だから、関係のないこのページに思いのたけを書いている。中途半端であれだが、まあ「いいかげんとふまじめ」がこのページの趣旨だから、いいでしょ、たまにはぐちも。(何のことが分からん人は、スルーしてください。)

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10年07月06日鰻でいっぱいのホバークラフト
ここ一年、昼間は浜離宮公園で食事することが多い。
入場料がかかるから、ぷらっと来るには敷居が狭いけど、年間パスが1200円なので、これを買うと一年自由に出入りできる。
逆に言うと、一定人数以上の人が来ないので、落ち着いて時間を使える、という利点がある。時々は団体観光客とか来ることもあるけど、おおむね平和。なもんで、よく使っている。

ところで先日、いつものように浜離宮に行ったんだ。七夕飾りがあった。
訪問者がそれぞれ好きなメッセージを書けるようにおかれていたんだけど、その飾りをみたら
「私のホバークラフトは鰻がいっぱいです」
というのがあった。
何だこれ、と後でネットで調べたところ、けっこう有名な言葉らしい。
マック用のソフトであるFetchのマニュアルにも日本語版の中で登場しているという(なつかしいが覚えてない)。
さらに調べたら、どうも起源はモンティバイソンにあるらしい。辞書片手に変な言葉をしゃべる男の話。スケッチ自体は覚えがあるが、そんなせりふだったなんて、全然覚えていなかった。

浜離宮の短冊は、縦書きで伸ばす字を横向きにしていたので、もしかしたら本当に外人が書いたのかもしれないが、微妙。字がきれいすぎるので。いずれにしても面白い話ではあるが。 私も何か書いてこようかな。でも何がいいかな。All your base are belong to usとか書くか。

写真でも撮ってこようと用意して、別の日にまた浜離宮に行ったんだが、もう短冊が増えすぎていて、以前のものが判別できなくなっていた。残念。意味不明だから取られたのかもしれないけどね。

その日の夜、家でモンティバイソンのDVDを久しぶりに見た。シーズン2の12話に、確かにそのスケッチはあった。
ハンガリー人が、翻訳ポケットブックを持ってタバコを買いに来る話。だが、そこに書いてある対訳がめちゃくちゃで、騒動になる、というもの。たぶん「たばこがほしいのですが」という言葉を、このポケットブックが鰻の話に書きかえていたのだろう。
ただ、日本語吹き替えでは「鰻にょろにょろ」とか言ってて、その言葉は使っていない。
そこで英語版の音声に切り換えてみると、言ってた!
「my hovercraft is full of eels」って。
なるほど。
でも、だとすると、日本人は全然こんなの知らないわけだから、なぜこの日本語がこんなにネットで広まったのか、疑問が残るけどね。

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10年03月16日ディラン来日について
いよいよライブが近付いたので、みうらじゅんの「DylanがRock」を買った。この選曲は、本当に素人向け。でもマニアも、CDになっていない数曲のために買うんだろう。実際、その曲を既に持っている自分も買ってしまったわけで。はは。でも付属のポスターはなかなかよかったからいいや。

選曲はともかく、自分でも同様のコンビレーションを作るとしたら、どんな感じになるだろうか。考えてみた。
ライク・ア・ローリング・ストーン
追憶のハイウェイ61
アイ・ウオント・ユー
わが道を行く(偉大なる復活のライブ)
ジョーカーマン
グルームズ・スティル・ウェイティング・アット・ジ・アルター
エブリ・グレイン・オブ・サンド(ブートレッグ収録の方)
ブラインド・ウイリー・マクテル
雨の日の女(デッドとやったやつ。アルバムになってないけど)
ミシシッピ
シング・ハブ・チェンジド
イン・ザ・ガーデン
ゴッタ・サーブ・サムバディ
ラブ・シック
ディニティ
ナッティ・ムーア
ポー・ボーイ
ライフ・イズ・ハード
やせっぱちのバラード
ハッティ・キャロル
ミスター・タンブリンマン
これでやっと21曲だ。後絶対外せない「ブルーにこんがらがって」もあるけど、それ入れても22曲。
うーん、みうらじゅんはすごいなあ。
ただ、アルバム「血の轍」は、アルバムそのまま、全部いいので、ベスト盤に入れずに、別に買ってよ、と言いたい。
全曲が名曲。はっきり言って、自分の思い入れ以外の何物でもないけどね。

2001年の来日の時には、ここで特集ページを作ったけれど、もう今では、昔のようにディランをずっと聴き続けていたりしない。
たぶん誰しもそうだと思う。
集中して聞かないと伝わらない何かがディランにはある。
あった、ではなく、たぶん今でもあるはずなのだが、それが分からない。じっくり聞けないからだ。
聴けない理由は何だろうな。
年齢のせいもあるだろう。
常に人の気をそそる刺激的な情報が巷にあふれ、なかなか立ち止まってはいられない状況になっているから、というのもあるだろう。
そういう状況に肩までつかって、それが当たり前になってしまった受け身の姿勢である自分のせいでもあるだろう。
だが、その当のディランはまだまだ盛んだ。もう70歳にもならんとしているのに、まだ曲のアレンジを変える、というのがすごい。
「ブルーにこんがらがって」も、2009年7月のライブでまたがらりとアレンジを変えている。正直、うまくいってるとは思えないけれど、あれだけ完成された曲を、この期に及んでまだ変えようというのがすごい。
だって、同じアレンジでやっても客は大満足なんだよ。
それでもあえて、変える。
すごい。すごすぎる。
音楽に取りつかれている業、みたいなものかも知れない。そして、それを味わいにいく我々は、同じ業の炎の周りに集まる蛾のようなものかもね。
ディランの曲は、ディラン以外の誰も歌わない。いや、同じようには歌えないし、たぶん彼がいなくなったら消えてしまうものだと思う。その点は清志郎とおんなじだろう。だからこそ、今この瞬間に、出来る限り記憶に焼き付けておきたいと思ってファンはコンサートに行くのかも知れない。ファンでないひとにも勧めておきたいけどね。
ディランみたいなすごいひとは、たぶん今後絶対現れない。声が気に入らないとか、歌がよくわからないとか言い訳つけないで、みんな見に来ればいい。私が最初に聞いた時、全然分からなかったのと同様に、今は分からなくてもいつかきっと、ディランのよさ、すごさが分かる時が来るよ。
保証しないけどね。
ただそれは、分かる時がくるかどうかについてであって、ディランのすごさは保証するまでもないけどね。
ライブが楽しみだ。早く見たいという気持ちと、ずっと待ち遠しい気持ちを持っていたいという気持ちがある。

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10年02月24日音楽の話
しばらくはライブに行くディランの強化月間にしようと思ってて、ディランの曲ばっかりずっと聴いていようと思ってた。なにしろ曲がいっぱいあるし、アレンジ変えて演奏するもんだから、事前に予習(笑)しておかないと、本番でうろたえてしまうから。

でも我ながらあきれるぐらい色々なことに興味があるもんだから、たまたまネットで気に入った曲を、手に入れてまた聴いている。
三沢洋紀というひとは、今まで全然知らなかったんだけど、ボーカルのフォークっぽい感じと、バックの音の本格的な対比が素敵だ。正直ボーカルの音質はあんまり好きな歌い方ではないんだけど、新鮮でありながらオーソドックスなメロディと絡み合った時のその感じが、とてもいい。「レインボウ レインボウ」とか、「レースの夜」とか、とても素晴らしい。すごく楽しんで音楽やっている、という感じが伝わってくるし。
こういう音にふれあうきっかけを与えてくれたサイトOOPS!の「西日本ロック紀行」には感謝したいね、うん。
あ、でもディラン聴かないと。あー、一日が36時間あればいいのに。仕事8時間して、移動や食事で6時間、睡眠6時間で残りは音楽聞きまくり、とかね。

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10年01月25日色々
ディランのライブも行くし、今年はとうとうサッカー、柏レイソルのシーズンチケットも買ってしまった。金がないのに。
でもそういう楽しみを先に作っておかないと、毎日がやりきれないのだよ、とか言いわけ。
ボブ・ディランは2001年だから9年ぶり。最新アルバムの声を聴く限り、あまり多くは期待できない。でも初めてのライブハウスツアーでもあるし、最初で最後の身近で見られる機会を楽しみたい。
先日MTVでハイチ救援ライブをやってて、スティングが出て往年の曲をやってた。声が全然出なくて唖然とした。でも年をとると、みんな当然そうなるんだよなあ。
だからディランにもそういうものを期待してはいけないのかな。分からない。最近のアルバム、確かに声は出ないけど、それでも曲自体はうまくその辺がマイナスにならないように歌ってたし。とにかく三月のライブを楽しみに待ちたい。

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09年12月31日2000年代の映画ベスト

適当に書いてみた。()内がコメント。
パンズ・ラビリンス(ダークファンタジーの傑作)
夕凪の街 桜の国(単なる被爆反戦映画ではない。麻生久美子が死ぬ時に、原爆投下者に向かって『(私が)死んでうれしい?』と問いかけるシーンは今までなかったすごいシーンだと思う)
太陽(敗戦時の天皇を描くことが日本の映画ではできなかった、ということを踏まえてのもの。)
茶の味(地味だけど、すごいと思う)
マインド・ゲーム(アニメ。スピード感が決め手)
ドニー・ダーコ(大作ではないけど、80年代のニューウェーブ系の音楽が好きだったひとたちには是非。あと、時間のやり直しとかSFめいた設定も素晴らしいと思う)
バタフライ・エフェクト(続編はひどいけど、この作品は必見といっていい。話せば話すほどネタばれになってしまうのがもどかしいのだが、タイムスリップものとしても秀逸。)
回路(世界がどんどんだめになっていく、というホラーとして。自分の悪夢に近いので)
AI(感想は、すでに書いているので割愛。もっと評価されるべきだ)
レクイエム・フォー・ドリーム(ものすごく後味悪い、いやな映画だけど、この時代を象徴する作品ではあると思うので入れた)
ロード・オブ・ザ・リング(偉大な原作を映像化するとたいていこけるのだが、これは別。すごいです。三部作は長いけど、見る価値が十分ある)
ほしのこえ(素人がひとりで作ったアニメの名作。こういうことができるようになったのがすごいとういうか。)
(カイバ)(アニメ。映画ではないので別枠。でも面白かったよ)
(妄想代理人)(アニメ。映画ではないので別枠。でも面白かったよ。パプリカの事前練習みたいな感じか)
パプリカ(筒井康隆のアニメ化。ものすごい悪夢の世界を見せつけられた)
時をかける少女(アニメ。これも筒井作品が原作だけど、すばらしい脚色。)
サウスパーク劇場版(アニメ。ただ、日本のアニメとは全然別の世界でもちろんディズニーとも違う世界。諧謔精神が素敵)
ベンジャミン・バトン(ずっとしみじみ心に残るラブストーリー)
マトリックス(とくに第一作。三部作全部見ると色々あるけど、これを映像化したのはやはりすごい)
チーム・アメリカ(人形劇でこれほど笑わせてもらったのは久しぶり)
スキャナー・ダークリー(ディックのSFで、映像化無理と思ったんだけど、こういう方法もあるのか、と感心した)
ホテル・ルワンダ(隠れた歴史に光を当てた部分に)
銀河ヒッチハイクガイド(やはり人間を超えた永遠に近いものにはあこがれてしまうのだった)
崖の上のポニョ(あっち側に行って帰ってこないという、宮崎アニメの新境地)
千と千尋の神隠し(映像技術でいえば、宮崎アニメの最高峰。ストーリーもすばらしい。)
レスラー(見終わった後、すごく嫌な気持ちになるけれど、この十年でやはり意義のある映画)
隠された記憶(これも見終わった後、嫌な気持ちになるけれど、意義深い映画)
愛のむきだし(年末ぎりぎりにDVDで見た。快作。)

こんな感じかな。ここ十年、ひどい映画もあったけど、それなりに面白く楽しませてもらった映画も多い。

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09年10月27日アメリカン・ウエイ他

映画「アメリカン・ウェイ」のDVDをやっとの思いで手に入れた。
発売日に店頭に行かなかったせいなのか、どこを探しても見つからず、アマゾンも品切れという状態だった。
HMVもWAVEも山野楽器も全滅。 ほとんど諦めかけていたのだが、秋葉原の某DVD店ならもしかしたら、と思って出かけたら、やっと見つけたのだった。ただ、見つけにくいDVDで、最初は見落としてしまったぐらい。まあ買えたからいいけれど。
この映画はデニス・ホッパー主演で、日本では80年代に確かシネセゾンで上映されたものだった。
アメリカ上空をB-29で巡回飛行しながら、アメリカ本土で海賊放送をする、というもの。ソープドラマを見ている老夫婦のテレビに、いきなり彼らの「SMTV」が映り、ハードロックやベトナム戦争のシーンを流し、無理やり見せる、という。
そのころ、ちょうど鷹派の大統領候補が選挙に出馬していて、その女性の演説を聴いていたホッパー船長が「あの女は危険だ」ということで選挙妨害したりして、それにたいして彼女がミサイルを使って報復したりなど、かなり誇張が多くて、劇場で観た時はとても楽しかったのを覚えている。
それ以来、ビデオにはなったものの、全然DVD化されず、ずっとみたいと思ってたのが、このほどやっと手に入ったというわけだ。
ただ、このDVD、解説のリーフレットや映像特典がないだけではなく、ディスクにチャブターすらないのはどうなんだろう。本当に海賊版みたい。 まあそういう意味では、この作品にふさわしい体裁なのかもしれない。なかなか手に入らなかったけど、何とかみられて良かった。

あと、「かげふみさん」で(一部では)有名な漫画家小路啓之の新刊「来世であいましょう」が出てたので買ってきた。
やっぱりいいなあ、このタッチ。
今期待できる漫画家ってほとんどいないんだけど、この人はその数少ない例外。
寡作だけど、細々とでもいいから続けていってほしい。
来世の人物に惚れたから、現生の男を自殺させようとする、というプロット自体なかなか思いつかないし、絵がかわいいし、背景に色々と遊び心があって目が離せない。(「かげふみさん」では、スーパーで売ってる弁当のかつ丼がかつ丼を考案した中西某の名前で書かれているなど、かなりマニアックな背景)

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09年5月1日好きな音楽

自分の中では一、二を争う好きな作家ジョナサン・キャロルの新刊が出たので買った(それにしても高い。これじゃ本を買う人はどんどん減ってしまうと思うんだが、まあ、それは別の話)。
その中で、主人公がとても好きなバンドをよみがえらせるシーンがあって、そこで彼はビートルズを復活させて、彼らのオリジナル曲以外にも、自分の好きな曲を色々とやらせるという光景があった。キャロル、だめだなあ、ビートルズなんて、ちょっと大衆に迎合しすぎなんじゃない?と思ってふと顧みると、自分でもそういう対象があんまり見つからない。
クラシックの音楽家を出すのは反則だろう。あくまでも、ポップスやロックで、しかも自分が聞いたことがないミュージシャン、という縛りを加えると、けっこうこれが、難しい。
ディランの「血の轍」のころ、というのは反則だし、リンダ・ロンシュタットの「アリソン」も反則。こうしてみると、けっこう生き残っている人が多いんだなあ、と感心したり。でもシド・ヴィシャスとかイアン・カーティスのパフォーマンスは、見たいとは思うけど、それほど真剣には求めていない。

で、結局考えたのがジャニス・ジョプリンの全盛期。ジミヘンもいいんだけど、歌唱という点でジャニス。あと、サム・クックとオーティス・レディングもいいかも。
そもそも、自分に音楽的な常識が少ないからこんな風にいいかげんなことを言えるのかも知れない。だが、それ以上に世間では音楽的なバックグラウンドを気にしない人たちが増えているんだなあ、いう気持ちはあるなあ、やはり。
ロッテのCMのFITSをきいた時、あれがオオカミ少年ケンの曲だって、たぶん誰も分からないんだし。
いや、私も実は妻に言われるまで分からなかったんだけどね、ははは。

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08年11月18日ポメラ

久しぶりに、買い物をした。ポメラという。ポケットメモライターの略で、文庫本サイズで色々とメモをとれる、というか、メモを取るだけしかできないデジタルもの。この潔さが気に入って、いろいろ悩んだんだけど、二万ちょっとの この製品をネットで買ってしまった。
で、届いたのを色々といじって遊んでいるんだが、とても面白い。何と言っても、開いて二秒で起動して、すぐに書き込めるのがいい。キーボードも小さいなりに よくできているし、ATOKまで入っているので、文字変換能力は十分だ。
これが気に入ったのは、いつでもどこでも、できるだけ思考の速さに近い速さでデータを入力できるデバイスがほしい、という気持ちがあったからだった。実際使うかどうかはともかく、そういう手段を持っているかどうかということが大事。でも多くの人は、そういうことは考えない。歯牙にもかけない。
だからこの製品はたぶん、ニッチ商品で、あんまり大ヒットはしないと思う。でもそれなりに、私のような人間にはウケていて、一部の世界で売れたり、改良されたりしていくんだろうと思う。
他の人はどう思うかわからないし、妻にさえそれほど同意してもらえなかったけれど、私は今、とてもすごい武器を手に入れたような気分になってる。言葉とか文章に執着している人たちになら、もしかしたらこの気持ちが分かってもらえるかもしれないが、別に分かってもらえなくても構わない。
もしインターネットがなかったら、パソコンの進むべき道は、たぶんこのポメラにあったんだろうと思う。そのくらい思い切りのある、インパクトのある製品だと思っている。

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08年9月13日ユースサッカー

秋津サッカー場というところに、ユースの試合を見に行った。
流通経済大柏対柏ユース。高円宮杯のユースサッカーだ。
指宿、工藤、酒井といった選手がやはり良かった。
なんかすごいレベルが違っていて、相対評価ができないが、レイソルユースが圧倒していた。
後半はお互い〇点で、帰りに流通経済大の保護者らしき人が惜しかった、と言ってたけど、だいぶ気温が高くて暑かったから前半飛ばして後半手を抜く作戦だったんだと思うよ、レイソルは。それがまんまとはまったという感じではないかな。

秋津は京成で言うと谷津と津田沼駅の間にあり、どちらからも徒歩二〇分ぐらいだ。けっこう歩くが、谷津からの場合、途中に谷津干潟があり、楽しめる。行きは干潮、帰りは満潮で、二度楽しめた。
サッカー場は、メインスタンドだけの小さなものだが、見やすくてよかった。芝もきれいで、スタンドとピッチが近いから、芝のいいにおいがする。また機会があれば来たいかも。

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08年9月3日「ブルーノート・ブルース」

忌野清志郎のDVD「ブルーノート・ブルース」を買ってみた。
今のところ、最新の映像が入っている。
癌の再発を告白する直前、最後のライブになったふぁんくらぶでのライブも入っている。
泣ける。
特にふぁんくらぶでの演奏は、もう明らかに、その、何だ。
こんなのまで映像にしたのに腹立たしいような、でも見られてうれしいような、複雑な気持ちだ。
ライブを細切れにしたのは、いいアイデアだと思う。だって、時系列でもしたどっていたなら、最後がこのふぁんくらぶの映像になるわけで・・・とても耐えきれない。

RCバー「チモール」でみたのと同じ「マザー」が見られたのは良かったなあ。
清志郎、多少おれの健康を寄付して、それであんたが回復するんなら、喜んでそうするんだけど。そう思っているひとはたくさんいそうだから、それがかなえばあんたは百二十歳まで生きられるぞ。
…何でいいひとばかり、ひどい目にあうようにできているんだろう。SF作家のディックが自分の猫や親しいひとを亡くした時に、神に文句を言ってたのが、とってもよくわかる。

おれの猫を奪った上に、こんどはおれのガールフレンドまで奪ったな。どういうつもりなんだ? おい、聞けったら聞けよ! あんたのやってることはまちがってるぜ。
清志郎、ブルースは続いているんだっけね。この先どんなになろうと、おれも生きている限り、このブルースを続けていくよ。この年になると、身近にもあんたと同じようにブルースに取りつかれているひとが何人も出てきている。そういう知り合いや親友にたいしても、できれば同じ道を歩んでいる仲間として、変わらず付き合い、変わらず馬鹿な話をして、はしゃいだりふざけたりしていきたいな、と思っている。
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08年8月19日音楽の趣向

いろんな音楽を好きでいることは難しいことだよ。
何と言っても情熱と財力が必要。他の趣味にかける金は、すぐに底をつく。だって広く浅くだと、いずれ満足できなくなるからね。
好きな音楽なのに、なんで一枚しかアルバム持ってないんだ、もっと聞きたい、そうだ、二枚目のあれはすごいらしいし、ベストアルパムにしか入ってないあの曲は、聞かないわけにはいかない…となるし。
しかも、そういう人は他人と連帯できない。ビリーブラッグが好きだ、という人が、必ずしも朝日美穂を好きだとは限らない。
『誰、それ?』
『ビリーとどういう関係?』
『全然違う音楽じゃん?』
『悪い、俺には分からないよ』となるわけ。
もちろん、全然違う音楽なんだけどね。
で、仕方ないから朝日美穂を好きな別の知り合いを探すわけだ。すごい手間暇かけて。
そういうのが次々と出てきて、いつかは体力も何もかも追いつかなくなる。そこでふと、我に帰ったりして。
いろんな音楽が好きなだけなのに、なんでこんなに苦労しなくちゃならないんだ、と。
これはかなり楽観的な見方なんだが、もっと現実的に考えると、ボブ・ディランを好きな人がRCサクセションを好きだとは限らない。というか、まず一致しない。
そういう場合、どっちのファンも、『何? RCぃ?』とか『ぶっ、ボブディランかよぉ』といった言葉で、いきなりその趣味を否定にかかる。
自分の好きなAという音楽を自分同様に好きでいてくれるひとが、同じぐらい好きなBという音楽を頭ごなしに否定する、という体験。これはけっこう、きついぞ。
実際、好きな音楽っていうのは当人の歴史そのものだったりする。どういう経緯でその音楽が好きになったのかは、ひとそれぞれだろうが、その道筋の一部が一致しないだけで、それほどまでに反発してしまうものなんだろうか。
もっとも私は音楽に対する抵抗力がたぶん全然ないんだろうとも思う。いい音楽はいい音楽として、好きな部分があればそれだけで夢中になったりする。八方美人なんだろうな。
こういう人間にとっては、iPodをはじめとする音楽プレイヤーの普及は非常に喜ばしい。ランダムでかければ、色々な曲が次から次へと耳の中に飛び込んでくる。今私の持っているCreativeZenプレイヤーには、7063曲入ってる。これをかける時はたいていランダムモードで聞いている。みんないい曲だ。でも、もっとこの中に入れたい曲はたくさんある。たぶん普通のひとだって、本当は聞きたい曲が数千曲ぐらいあったって不思議じゃない。そういうのをお互いに打ち明けあって、好きな曲を更に広げていくのが理想なんだけど、・・・やっぱり難しいことなのかな。
これって音楽だけのことではない。やっぱり年をとると、色々と融通が利かず偏狭になる。自分ルールを社会正義と重ね合わせたり、ささいな過ちを大げさに糾弾したり。他人の違いを許さないようになるみたいだと思う。自戒も含めて、考えなくちゃなあ。

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08年7月21日「崖の上のポニョ」

「崖の上のポニョ」を見てきた。おもしろかったけど、「千と千尋」にあった懐の深さがなくなっていて、「ゲド戦記」のあたりで休んだせいで、作り方が退化してしまったのかな、と思った。
「ラピュタ」とか「トトロ」とか、そういうのと本質的に同じ。まあ本人が「アニメは駄菓子だ」といっている以上、それでいいのかもしれないが、「千と千尋」は、誰もが楽しめる本筋の他に、意味が重層的に絡み合っていて、色々なとらえ方ができるのがすごかった。 「ポニョ」は分かりやすすぎて、多面的に楽しめない、と思ったのだが、竹熊健太郎の感想(http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html)などを見ていると、どうもみんなが分かりやすい映画だとは思っていないらしい。
アバンギャルドな悪夢か。悪夢といえば、「エヴァンゲリオン」の劇場版を見た時などには確かにそう思ったけど、この映画でそういう感想が出るのかな。
たとえば竹熊氏は人面魚であるポニョに、ほとんどの登場人物が恐怖や驚きを感じないことに違和感がある、というが、アニメの文法って、そもそもそういうものだと思っていた。違うのかな? じゃあ等身大の服を着たネズミが表情ひとつ変えずに高い声でしゃべり、踊っている様をそのまま受け入れている浦安のあたりの遊園地に出かけるひとたちも、みんな変だってことになる。宮崎アニメでは「紅の豚」だって「魔女の宅急便」だってそうだよね。
夢、というならともかく、悪夢と言ってしまうのはなぜなんだろう。私としては、そっちの方が分からない。
理解できないものにたいする本能的な不安や拒否感とか、そういうものだろうか。
まあ私が分かりやすいといっても全然誤解している可能性もあるし、上から目線で批判しようというつもりもないが。

このアニメ、登場人物が実はみんな死んでいる、という噂がたっていて、せりふや描写を検証して、その仮説を例証しようとしている人たちもいる。そこからすると、本筋とは別にみんな何か変なものを感じ取っているのかもしれない。この噂自体、「トトロ」の女の子が実はふたりとも死んでいるらしい、という噂があったから出てきたものかもしれないけど。 不気味に思える部分が、そういう不安を見た人に呼び起しているのかもしれない。
ただ、こういう世界を悪夢と言ってしまうことは、やはり私にはできないな。あの海の映像の素晴らしさは、見もので、宮崎アニメが技術的には決して退化していないどころか、どんどん新しい映像美を作り出していることを示している。

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08年6月20日ユーロ2008・ドイツ対ポルトガル

久しぶりのユーロサッカーテレビ観戦は、ほとんど録画で見ていたけれど、この準々決勝ドイツ対ポルトガルは早起きして生中継を見た。
前半ドイツはかなり飛ばしてきて、圧倒的にボールを支配していた。後半はかなりポルトガルに押し込まれていたけれど、それでも追加点を奪うのはさすが。 バラックのゴールは微妙だったけど、そういうのも含めてドイツの強さなんだろう。
ポルトガルを応援しているものだから、この結果は残念。特にヌーノ・ゴメスは、ぜひトルコ戦に出て、かつての監督テリムと再会してほしかった。
WOWOWの中継の奥寺氏はドイツよりの解説で、時々アリバイのようにポルトガルを応援していて、なんだかなあと思った。
ロスタイムはなかなか面白かった。3-1のままだったらつまらなかったので、その点は盛り上がってよかったと思う。

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08年6月7日若者向けのボブ・ディラン-「血の轍」ライナーノーツ

以前、ディランのアルバムをひとに勧めた時のライナーノーツを書く。
その時は、気恥ずかしかったので結局アルバムだけ渡したのだけれど、たまたま同じアルバムを手にしたひとが、どう思うのか気になったりしたもので。
ここで取り上げるのは、「血の轍」Blood on tracksというアルバムで、それ以外の曲については全然語っていない。
でも、それでも書くことが何か意味があるかもしれないと思って書いているわけだ。われながら、よく分からない感情だ。
でも、まあいいや。持っているひとも、そうでないひとも、ひっかかるのなら適当に読んでくださいな。

ライナーノーツとして、この『血の轍』について書こうと思ったのは、以前に色々な音楽を勧められたおかげで、音楽の興味の範囲が広がったことについて、今でも多くのひとに感謝しているからだ。
たとえば当時付き合っていた恋人とか、尊敬していた先輩とか、友人とか。
色んなひとが、ことあるごとに「このアルバムいいよ」と色々なアルバムを勧めてくれたものだった。

たまたま御茶ノ水にある貸しレコード屋「ジャニス」で借りてきたレコードを、何の気なしに流している時、遊びに来てくれたひとが「これは感動の名作やね」と(大阪弁で)興奮して絶賛してくれたりとか(Kさんありがとう)、落ち込んでいる私に、「このレコードはいいよ」と勧めてくれたアルバムを何度も聞いているうちに、とっても好きになったりとか(Sさんありがとう)、「これはいいアルバムだから、あげる。いいよ、二枚持ってるから」とわざわざもらったりとか(Tさんありがとう)、そういう経験でもって、確かに私の音楽的な体験は充実してきた。
だから、いつかはそういうやり方で、誰かに自分の感動を伝えたい、などと思っていたんだけど、なかなかそういう機会には恵まれなかったのだった。 で、たまたま、もしかしたらそういうチャンスかもしれないと思いつつ、このCDを贈る相手に恵まれたというわけだ。

このCDは、学生時代、マーラーの第九と並んで、ものすごくたくさん聞いていた。
一時は毎日のようにかけていて、それでも全然飽きなかった。
どうでもいいことだが、自分が本当に好きな音楽かそうでないかは、最低でも20回は聞かないと判断できない、というのが私の持論だ。
このやり方で、ラフトレードから出ていたWeekEndというバンドの曲が本当は好きではないのだ、ということを理解したという経験もある。何か引っかかるんだよな、と思いつつ、このアルバムも何十回となく聞いた。そのあげく、とうとう理解したのが、やはり好きではない、という結論だった。それ以来WeekEndは聞いていない。

たぶん、どんな音楽でも、その良さなり悪さがわかるまでには、それなりの時間が必要なんだろう。もちろん、そこまで真剣に音楽に関わりあう必要は全然ないし、それでたいていの場合、十分だろうと思う。

でも、二十回三十回と聞き込んでいって、それでもなお、心引かれる音楽にめぐり合った時、ひとはその幸運について感謝すべきだと思う。
そういう音楽が存在していたという幸運、そして、その音楽に、ついに自分がめぐり合ったという奇跡について、やはり感謝すべきだ。

私にとって、ボブ・ディランの「血の轍」は、そういう音楽なのだった。

最初は私も、全然気にしないで、ただ流していた。でも、一曲目「ブルーにこんがらがって」のアコースティックの美しい音色と、そこに絡み合うディランの歌声は、いつしか私のこころをとらえて離さなくなっていた。
このアルバムは、ディランが最愛の妻サラとの困難な関係を迎えていた頃のもので、その時のディランの、まるでカミソリの歯のような、寄って来る曖昧な感情は全部切り裂いてしまいたい、という気持ちが現れた、とても切実なアルバムだ。
何がすごいといって、無駄な曲が全然ないのだ。
通して聞いているうちに解ってくるのだが、明るい曲や、やや場違いに思えるような曲までもがすべて、当時のディランの悲痛な思いを訴えかけてくる。胸に、じかに伝わってくる音、そして声。 あまりにも露骨な「白痴風」の破綻した文脈から伝わるディランの困惑は肌を直接切り裂くような迫力にあふれているし、すべてをあきらめたかのような「彼女に会ったらよろしくと」の歌声や歌詞は、もはや別離にあたって吐露すべきものは、これ以上のものはない、と言わんばかりに無意味な無駄を省いたシンプルでむき出しの感情をさらけ出しており、まるでディランのこころの傷痕が、具体的に目の前に見えているかのような、不思議な感覚に襲われる。

もちろん、こういう私の個人的な体験が、他の誰かに同様に共有されるかどうかはわからない。でもディランのすごさを知らないひとたちに、こういうアルバムもあるんだよ、と勧めることぐらいはできる。

ふつう、ディランを勧めるとしたら、「血の轍」ではなく「ハイウェイ61再訪」とか、「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」とか、もっと有名で明るい曲が集まったアルバムからはじめるのが定石かもしれない。
でも、そういうアルバムで「風に吹かれて」とか「ライク・ア・ローリング・ストーン」といったスタンダードナンバーを聞くようになったひとたちは、たぶんそれ以上の何かを手に入れることはできないような気がする。
たとえばビートルズといえば「レット・イット・ビー」とか「イエスタディ」だとか、ローリングストーンズだったら「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」だとか、スタンダードな曲は、わりと誰でも知っているし、一般人との間でも話が合わせやすい。 でも、それで本当にいいんだろうか、と思ったりする。
それだけで、たとえば「アクロス・ザ・ユニバース」の諦観とか、「フール・トウ・クライ」の悲しみだとか、そういうアーティストの本質にかかわる部分を無視したり、通り過ぎてしまっていいんだろうか、と。そんな風に思ったりする。

「血の轍」が、デイランにとってそういうアルバムだ、と主張するつもりはない。ディランは色々と変質した時期があり、それぞれの時期にファンがついている。どの時期のディランが最高なのか、という議論は、マニアに任せておけばいい。
ただディランが最近のライブでも「ブルーにこんがらがって」を歌い続けているという事実は、彼にとってこの「血の轍」が、決して無視していい程度のアルバムではないのだ、ということを示している。 ディランはこの曲を、今日にいたってもなお、歌詞やアレンジを変えて新たに再構築している。それだけ彼にとって重要な曲なのだということだ。
歌い手本人が気に入っているかどうか、ということも、実はたいして重要なことではないのだが、それでもなお、彼のアルバムがリスナーひとりひとりにとってどういう位置付けになるのかということを考えるうえでは、かなり参考になることだろう。
実際ディランをよく聴くひとほど、この「血の轍」を最高傑作に推すひとは多い。
ということで、私はこのアルバムをあなたに贈る。いったいどういう風に貴方は聞くのだろうか。                 
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08年6月6日 高円寺のRCバー

色々あったけど、やっと高円寺のバー「チモール」に行けたよ。九時前からあたりをうろうろしていたんだけど見つからず、行きかう人に聞いていたら、偶然マスターに連れが声をかけていた。
「これからあけるんです」と。
ほっとした。ラッキーだった。時間がもう九時半ぐらいだったけど、まあ来られて良かった。あとから聞いたら、かなり遠くから来て、店が見つからず帰ったひともいるらしい。そう思うと、やはり幸運だっんだろうな。
この店は、RCサクセションのファンが集まる店で、色々と珍しい曲をもっているらしい。
待たせたのを悪いと思ってくれたのか、マスターはレアな音源をかけてくれたよ。
アルバム「シングルマン」のアウトテイクはなかなか。「ダーリンカセット」は聞いたことなかったし、「君が僕を知ってる」の初期アレンジには、連れが衝撃を感じていた。確かに今流通しているのとは、全然違うリズム。
私の持っている音源も、今後は提供してあげたい。何といっても、情報交換の場として、貴重だし。ここに全部の音源や映像が集まるようなら、きっとすばらしいことだし、私も個人的に応援したい。
ただ、場所や営業時間が分かりにくいのはあれだ。「知る人ぞ知る」だから、これでいいのかもしれないけどね。
全然レアじゃないけど、ジョンレノンスーパーライブでの「マザー」が聞けたのは良かった。あと、プライベートの、・・・いや、何でもない、ははは。

とにかくいい店だったので、またそのうち行きたい思ってる。今回はたまたま二人で店を占有しているみたいな感じになったが、今度来るときは、できれば他のファンとも交流したいもんだ。すごく「濃ゆい」話ができそうだ。楽しみ。

帰りは電車が間に合わず、深夜バスが出るまで別のロックバーで時間つぶしをした。このバーも大好きで、馴染んでいるんだが洋楽中心で、チモールの話をしても当然通じない。
洋楽と邦楽の両方を同じぐらい好き、というのは、やはりあり得ないのかな。
まあ、自分はそういう路線で行ってるんで、全然かまわないけど、たまに両方で話が合う人がいないのかな、なんて思ったりもする。

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08年5月28日 SQLインジェクションの恐怖

最近セキュリティ関連で騒ぎになっているSQLインジェクションですが、ウェブデータベースだけでなく、われわれ一般の人にとっても大きな脅威となることが分かりました。
たとえば

marry me if you love me
という、誰でも言うようなフレーズが、
marry me if you love me OR A = A
と改ざんされてしまうかもしれません。愛してなくても結婚しなくてはならない。恐ろしいことになります。
これ以外にも、自分の指示や命令が、無化されてしまう可能性について、もっとわれわれは注意すべきではないでしょうか。
これを防ぐには、まずささいなフレーズでも、きちんと「。」や「、」を使って区切りをつけること。これは大切です。
くれぐれも
I will give you everything you want if you love me true
なんていう言葉にピリオドをつけ忘れることのないように。ピリオド忘れると、
I will give you everything you want if you love me true OR A = A .
と追加されて、あなたの全財産が人手に渡ってしまいますよ。



うーん、冗談としては、なかなか一般的でないような気がしてきた。

でもOR A = A って面白いので、応用が利きそう。

ちんぷんかんぷんなひとは、「SQLインジェクション」で検索してみてくださいな。


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08年5月24日 サッカーの話

去年から更新がなかなか少なかったけど、ここで私が全然何もしていなかったわけではないことを明かしたいと思って、サッカーの試合について、折々に記述していたものをアップすることにした。
とはいえ、観戦した全試合を記しているわけではないのだけどね。まあいいや。適当に、楽しめるひとは楽しんでくださいね。


3/14-16 大分戦

妻の実家が大分なので、しばらくご無沙汰なのを解消し、ついでに大分と柏の試合を観戦にいこうと思い、二月ごろから計画を立てていた。
安売りよりも、さらに安い宿泊付き航空券を入手し、金曜に有給を取って大分に向かった。
さる方のご厚意により、かなりいい席を入手した。
SSのアウェイ側。ゴール裏も空いていたし、そっちで応援するのもよかったかな。
とはいえ、試合を見るのは絶好の場所ではあった。感謝。


九石ドームは、じつにいいスタジアムだった。広いし、食べ物も充実している。とり天(かぼすのたれが絶妙)と、とり飯を堪能した。ついでに、今日がホーム開幕戦ということで、トリニータの新しいキャラクター「ニータン」のお披露目にも立ち会えた。大分県知事も来たし、なかなか面白かった。 試合に勝てればもっとよかったのだが
・・・アウェイで遠くにきて、負けるとへこむ、という話はよく聞いていたけれど、実際味わうとよくわかるなあ。
残念。
チャンスは同じぐらいあったんだけどなあ。
2対0という結果からすると、もう完敗というしかなく、よかった探しも難しいのだが、大津の動きはよかったから、まあその辺にわずかな期待をかけるしかないのかな。
座席は、いちおうアウェイ、つまり柏側だったのだが、そこでも大声でがなり立てられる大分の応援にはちょっと・・・いや、彼らからするとホームだから仕方ないと思うんだが、判定で不利になるたびに(柏が正当であるのが明白であっても)いちいちブーイングしたり、ささやかな柏のチャンスにダメダメダメーっと黄色い声を張り上げたりとか言うのは・・・いや、ホームなのはわかってるけど、いちおう私はアウェイ側のシートに座っているんだから、ちょっとは、常識としてさあ・・・いや、すみません
おれが間違ってるんだろう。
今度大分が柏に来てくれた時には、同じようにアウェイゴール裏以外は全部黄色に染めて、プレッシャーをかけてやろうと思う。大分戦は、なるべくアウェイ側に席を取って、そこで思いっきり柏の声援をしてやろうと思う。 今まで柏での応援で対戦相手が負けるたび『わざわざ遠くから来てくれたのに、残念でした』と、どことなく悪い気持ちになったりしていたんだけど、それがそもそも間違っているんだとわかった。遠くから来ていただくのはありがたいし感謝するが、それと試合の勝敗はやっぱ別だ。



4/12 マリノス戦

横浜でマリノス戦に友人と一緒に出かけた。負けたのは残念。それに、友人がマリノスサポーターだったせいで、マリノス側の自由席で見たものだから、周りの雰囲気が完全アウェイ。まあ、いいんだけど。


キュービックプラザの十階にあったブラッサリーが、わりとうまくて安い。 この階のテナントは、どこも評判がよくて、隠れた穴場かもしれない。
帰りはラーメン博物館で春木屋の「春麺」。麺が独特。900円は微妙。入場料考えると、やはり高いかも。
・・・などと、試合後のことを書いて、話を紛らわせたりして。まあ、負けたんだけどね。残念。マリノスは、よくわからないチームだなあ、強いかと思うと、急にコロッと負けたりするし。



5/3 ジェフ戦

フクアリで千葉ダービー。フクアリは二回目だが、来るとなぜかいつも雨模様だ。今回は、試合開始とともに雨がやんだので、それほど大変ではなかったけど、早めに来たので試合開始までの時間が大変だった。
昨年の雨の中の試合よりは全然よかったけどね。
でもフクアリは、やっぱりいいなあ。
今回も知り合いのご厚意によりフクアリシート。なかなかよい。
もともとジェフのサポーターのための席だからか、黄色のパネルが用意してあったが、誰も説明に来なかった。
来ても掲げるつもりはなかったけどね。
アレックスのゴール。もっと見たい人はDUDUでどうぞ。

アレックスのゴールで勝利。
千葉は気の毒だが、仕方ない。アレックスとポポ、実と太田の四人の組み合わせはうまくはまっていて、何だかやっとレイソルの良さが出てきたかな、という感じがした。 スタジアムの食事を、今回は割合と楽しめた。Jボールという玉こんは200円にしては安い。チャパティも冷めてなければおいしかっただろう。500円。



5/6 神戸戦

日立台で神戸戦。目当てにしていたお好み焼きは、やっぱり食えなかった。代わりに食ったスパイシー鳥丼とそぼろ丼は、どちらも量が多すぎて残してしまった。 去年の成績からしてたぶん勝てないだろうと思い込んでいたが、実にすばらしいサッカーで前半三対ゼロ。これなら、もしかしたら負けないかも、と思った。 三点リードのハーフタイム、神戸のコール「ヴィッセルオレ」が「一点取れ」に聞こえて、 もう負けを覚悟してるのか、と思ってしまった。


後半はどちらも点が取れず、そのままで終了。どっちもチャンスがあったんだけどね。勝ったからいいや。菅野はやっぱりいいなあ。安心して見ていられる。ふてぶてしいところが、またいい。でもそのせいでいつもカードをもらっているのは気がかり。
写真は、決定的なシーンがうまくとれず、残念。

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08年2月1日アラブ音楽

会社の近くのキューバ料理店で、なぜかアラブ音楽のトークショーが催されるというので行ってみた。ピーター・バラカンが来るというし、何より無料だったし。
聞いたことのないアラブ音楽は、なかなかよかった。ビデオなどを使って、話してくれるトークショーの話し手には好感が持てた。
だが、後半で出てきたパラカンが「(今までかかった曲は)全部同じ感じでグローバリゼーションに影響されている」云々といったあたりから、一気に冷めてしまった。
確かにそのとおりだなあ。
でも考えたら仕方ないことでもある。彼らは、最近の音楽のようなかっこよさが、いかにアラブにあるか、ということを紹介したいわけで、たとえて言うと、

エジプトにマックがあって、ビッグマック売ってた。しかもほとんど同じ味だ。ちょっとしたアラブ風の味付けも、またオツなもの。

と言っているわけだ。要するに、判断基準が今までのアメリカや西洋中心の、メジャーな音楽シーンにある。だから、それと同質のノリが、リズムがアラブ世界にもある、ということが安心できたりして、それを紹介したいと思ったんだろう。
それは理解できる。 でも、そういうのとは別の、もっと地元に根差した音楽でありながら、世界的にひとのこころを打つような、そういう音楽もできれば聞いてみたい。
あるいは、欧米の傍流とされる音楽や、今は確かにメジャーではないけれど、連綿と受け継がれてきている音楽(バラカンの好きなsoulとかね)なんかとどこかで共通するような、「におい」を感じ取れる音楽、そういうものを期待するし、また、全然聞いたこともないけれど、なぜだかすごいと思えてしまう音楽とか、そういうものを期待していったんだが、そもそも間違っていたのかも知れない。
でも勉強になったのは確かで、またこういう催事があれば行ってみたいなあ。

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07年9月2日Coccoと鳩

BSでLIVE EARTHの再放送をしていたので視聴。日本代表のひとりとしてcoccoの曲をやっていた。
例のジュゴンの唄。
米軍基地の移設に伴い、ジュゴンの生態が脅かされているにも関わらず、なかなか報道されていないという現実があり、そのことに少しでも注意を向けようとして、ライブの時にCoccoは歌の前に一生懸命に訴えたのだが、その肝心な前説がきれいにカットされていた。
この唄がジュゴンのために歌われたことや、なぜこの唄を歌っているのか、という理由が全然伝わらない見事な編集。いくら辺野古の基地問題が政治的だからといって、そういうのをカットするのはどうかなあ、と思った。

ところで私は、最近coccoの唄に、以前のような感動を感じられない。それはcoccoのせいなのか、私のせいなのか、いずれにしても、感動は与える側と与えられる側の波長があったとき初めて現れるものだからなあ、なんて考えつつ。
そんなんで曲を聴いていると、ベランダに鳩が来た。
いつも我が家の藤の棚に巣を作る、天敵だ。
ベランダの手すりまでやってくるのは初めてだった。
大胆というかあつかましいというか。で、怒ってすぐにベランダに出て行って「こらっ」と怒鳴った。
すぐに鳩はびっくりしたように飛び去って行った。

だが、冷静になってふと考えた。もしかしたら、鳩は今も流れている、このcoccoの唄に引かれてきたのかも知れない。人間がいるときは、あそこまで近づいたことはなかったし。
してみると、coccoの唄に感動しなくなったのは、やはり私の方にその大きな理由があるのかもしれないなあ。私の感受性は、もしかしたら鳩以下なのかも。うーん。

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07年6月9日環境問題に関する本の矛盾

「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」という本を読んだ。
ダイオキシンが猛毒とされているのはウソだとか、ペットボトルを使っても全然リサイクルされないどころか、逆に生産量は増える一方で、全然環境にやさしくない、などといった話は、興味深く読ませていただいた。

もっとも、ダイオキシンの無害性をうったえるあまり、ベトナム戦争での被害を 、この地域では「昔から遺伝的に体がくっついた状態で子供が生まれる傾向が見られる」と言って矮小化したのは褒められないし(だったら、それこそデータを出すべきだろうが)、環境ホルモンの話にしても、きちんとデータを出して話をするべきだろうとは思った。
他の部分では、わりとデータを出しているのに、なぜこういう部分で明確な証拠を提示しないのかな、と思った。

とはいえ、全体としては、とても楽しく読ませていただいた。特に、「不都合な真実」に代表される、環境危機を煽る書物には、私自身も危機感を抱くようになっていたものだから、無意味にあわてても仕方ないんだな、とこの本を読んで思いを新たにし、反省したのだった。
ここのところ、そういう風に環境危機を煽る本が多すぎる。
最近読んだ本での極めつけは「地球はあと十年で終る」という扇情的なタイトルの本で、ここには一ページ目から「二〜三度の気温上昇で東京が水没する!」といったタイトルの記事があって、私は本気で心配したのだったが、上記「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」では、そもそも温暖化によって海水面が上昇することはない、アルキメデスの定理から考えても、まったくのデタラメだ、という記述があり、実際氷の入ったコップで実験して、やはり水位は上昇しなかった、と報告してきた学生の話も載っていた。
なあーんだ、やっぱり温暖化で水没って、うそじゃないか。
何だ何だ、このいい加減な本を出している出版社は?
えっ、洋泉社? 
「映画秘宝」出しているところか。
まあ、映画はともかく、こういう社会的な本には向かないんじゃないかなあ。
あんまり流行ばっかり追ってちゃいけないよな、もっとこの「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」みたいな本を出すところみたいに、ちゃんとした研究者の本を出すところじゃないと・・・ん?・・・あれ?・・・ これも洋泉社から出てるのか!

何で?
何でほぼ同時期に、主張の相反する本を出せるの?
いやいやいや、別に著者の意見が相違することはよくあるし、出版社としての意見が統一されているべきだとも思わないよ。
でもさあ、これって、

あまりに節操ないんじゃないか?
あまりに利益至上主義じゃないか?

売れればそれでいいのかな。
そういう時代なのかな。

それにしても、納得できない。同じ時期に、相反する主張の本が出ていることについて、著者はどう思っているんだろうな。それも失礼な話だと思うし。 何だかなあ。

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07年2月3日浅ましさについて・雑感

Wiiっていうゲーム機がほしくなって、探していたのだが、なかなか手に入らない。
近くのイトーヨーカ堂で、100台抽選販売をする、というので出かけていった。
一時間整理券を配るということだったので、開始時間の十五分前に配布会場に到着したところ、すでに長蛇の列。
そのまま開始時間まで待って、さらに券を手に入れるまで三十分ぐらい並んだ。
それでようやく手に入れた整理券の番号は600番台。これは無理そうだな、と思いつつ列の最後尾を見ると、ついさっきまで自分の前に並んでいたひとたちが、次々と並びなおしている。
「整理券の配布はお一人様一枚限り」とチラシには書いてあったけれど、特に規制しているわけでもなく、それなら少しでも確率を高めておこう、とみんな思ったんだろう。
それで、自分もそうしようと思い、同行していた妻に、そう話すと反対された。
なぜ?とたずねたところ、こう言われた。

「だって、浅ましいじゃない、そんなの」

浅ましい、と言われた。
ちょっとびっくりしたけれど、もっともだと思った。少し恥ずかしくなった。
並ぶのはやめて、抽選開始まで店を回って時間をつぶした。

抽選の時間になり、呼び出される番号を聞いていると、最終的に900番以上の番号まで整理券が発行されていたらしい。倍率9倍。でもあきらめずに、次々と読み上げられる番号を聞いていた。

だが、結局はずれ。買えなかったんだけど、なぜかあんまり悔しくなかった。それでいいんだと思った。いや、まだ手に入れるのをあきらめているわけではないし、こういう機会があれば、また並ぶかも知れない。
でも、いくら最近は誰でも遊ぶゲーム機とはいえ、本来子供のものだ。
それを、不正な方法を用いてまで手に入れようとするのは、ちょっと違う。
妻の言うとおり、浅ましいし、恥ずかしいことだ。
昨今、この浅ましいとかいやしい、という感覚を失ったひとが多いような気がする。罰則がないのをいいことに、こっそり得をしようとしてルールを踏みにじり、それでなんとも思わない厚顔無恥。いわゆる人でなしだ。
かくいう私もそのひとりだったみたいだ。いや、恥ずかしいことだ。
そのことを思い出させてくれた妻には感謝する。今後も忘れないようにしたいものだ。

なんてことを、子供の給食費払わない親たちのニュースを見ているときに、ふと思い出したのだった。

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07年1月20日映画『日本沈没』のDVD

「日本沈没」をDVDで見た。
劇場で見た時は、「日本が沈まないのはおかしい。それに富士山噴火しないし。だいたい、草なぎくんは、なぜやらないんだ」と思っていたが、少なくとも富士山を噴火させなかったのは、二回見て何となく分った。
今度の製作者は、自分の時代の中でリアルに日本沈没を捉えていたんだ。
で、そうなった時、富士山だけは損ないたくないと思ったんだろう。「日本が沈没するとしたらどう思うだろう」という気持ちを突き詰めて言った結果のシナリオなんではないかな。
そして、柴崎を抱かなかったのも、この映画の文法の中では十分説得力がある。(ただ、虫の声がほとんど聞こえなくなっていたのは笑った。やっぱ批判があったのかな)
たぶん、崇高な自己犠牲とか愛とやらを描きたかったんだろうと思う。
言いたいことはよく分る。
脚本家なり監督は、最近の若者が嫌いなんだろうな。
彼らを何とか揺さぶる作品にしたいと思ったんだろう。
73年のオリジナルは、戦争体験のあった人々がまだ社会にたくさん残っていて、彼らの想像力を圧倒するためには、日本が全部なくなってしまうぐらいのインパクトが必要だった。
でも何だかんだいって、今の人達はそういう想像力を失ってしまっている。そういうやつらに日本沈没ってもってきても、アメリカのパニック映画なんかと同様に、全然自分と関係ない世界の話だと思われてしまう、それならば、もっとリアリティのある破滅を提示するべきではないか、・・・とそう考えたのではないか。
たぶん時代が過ぎれば、名作としての評価が定まっていくような気がする。

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06年12月9日映画『パプリカ』

今日、千葉での初公開の映画『パプリカ』を見た。
何もいうことはない。これほど夢や幻覚の世界を映像に反映できた監督は今のところ他にはいないのではないか。すばらしい作品だし、すばらしい演出だと思う。何もいうことはない。
ただただ、今監督の提示する狂気の世界に身を委ね、快感を享受するだけだ。
でも、この狂気の幻覚世界は、どういうルールで作成されたのか、ちょっとだけ気になる。いや、茶々入れるつもりはないんだけど、ただ、この幻覚は、何だがみんなが感じる幻覚とはちょっと違う気がして。まあいいけど。とにかくいい映画だった。

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06年12月4日レイソルJ1復帰!

今季のベストショットだ。分る人だけ分ればいい。

いやー、よかったよかった。今年はけっこうレイソルのホームの試合を見に行ったんだ。
いちいちここでは書かなかったけど、以前とは比べ物にならないぐらい、見た。
愛媛も鳥栖も、仙台も札幌も、ヴェルディも横浜も、水戸も神戸も。

ホーム皆勤賞とはいかなかったけど、今年は本当によく見に行った。横浜戦もみたし、ホーム最終戦の札幌戦も見た。必勝を祈念して。
で負けたとき、実は入れ替え戦を覚悟していた。
だから、水曜日も会社の休みを取ったし、日曜日はローソンに並ぶ覚悟でいた。
でも、湘南戦で昇格を決めてくれたんだった。
これはうれしかったよ、実に。現地に行ってればよかった、と悔しくなった。
去年、J2落ちした時、主力選手が次々と移籍していって、もうどうしようもなくなってしまった。それでも、残ってくれた選手たちが石崎監督を中心にまとまって、立て直して、たった一年で昇格までこぎつけた。これはすばらしいことだと思う。
今年少しでも柏の試合に出たり、ベンチにいてくれた選手のことは、ずっと忘れない。

そして、サポーターの応援も素晴らしかった。
「一心同体」のプラカードもそうだけど、決して暗くならないよう、選手が落ち込まないよう、いつだって叱咤激励しているサポの姿には胸打たれた。昨年とは大違い。

それに、いつでも笑わせてくれる。まあいつも受動的だったわけじゃないけどね。こっちもその動きに乗せられて、同じ声援を送ったりして。

この一体感は、柏独特のものだ。
日本一の浦和でも、決して味わえないはず(何しろ、あれだけ人数がいるんだからね。別に批判しているわけではないけど)。

柏応援していてよかった、とつくづく感じる一年だった。

来年の成績も、いきなり優勝、なんて期待してない。でも、今のサポーターやファンと、チームやフロントとの一体感は、とてもかけがえのないものだと思うから、この雰囲気は是非、継続していって欲しいと思う。もしそうなるのなら、来年も今年に増して、応援したいし、スタジアムへも足を運ぶと思う。
私のような、サポとはいえない程度のライトな「ファン」も取り込む力が、今年のレイソルには確かにあった。それが続いていくのなら、日立柏のサッカースタジアムは、サッカーの好きな人たちが集う最高の場所として、今後も続いていけるだろう。
つまりそれは、サッカーの天国なのだよ。
たぶん。

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06年10月12日朝日新聞のキャンペーンについて

今更ではあるが、ちょっと前、朝日新聞のキャンペーン「ジャーナリスト宣言」で使われたコピーについて、言いたいことがある。

言葉は
感情的で、
残酷で、
ときに無力だ。

それでも
私たちは信じている、
言葉のチカラを。
とりあえず、『訂正』を試みたい。もし添削するとすると

言葉は、ときに
感情的で、
残酷で、
しばしば無力だ。

それでも
私たちは信じている、
言葉のチカラを。

が、スタイルを考えるとベストだ。本当なら「それでも」と「私たちは」の間に 「それだけではない」という言葉を入れたいところだが。

「言葉のチカラ」を信じているはずの起案者が、どうしてこんなに粗雑なコピーを作るのだろう。しかも、言外に「すごいフレーズを考えた私は偉い」というような間違った自尊心がプンプン匂うのがたまらない。
仕方がない、「言葉のチカラ」を信じている起案者に、どこがひどいのか教えてあげよう。もうこのコピーは使っていないみたいだし、営業妨害にもならないだろう。

まず、「感情的で残酷で、ときに無力」な言葉(のチカラ)を信じている「私たち」とは、いったいどういうひとたちなのか、という疑問がわく。言葉が単に感情的で残酷で、しかもときに無力なものでしかないものなのなら、それを信じている「私たち」も、感情的で残酷な表現を是とする人たちだということになる。

些細なことだ、と思われるかもしれない。

揚げ足取りだと思われるかもしれない。

だが、「それでも私たちは信じている」という表現は、作者の真意からすると、感情的で残酷な言葉の、それ以外の可能性を信じている、という意思表明だろうし、たぶんそれを目して作られたコピーだろう。だったら、もっとその言葉の「チカラ」にたいして謙虚であるべきだし、些細な揚げ足取りで崩されたりしないよう、細心の注意を持って言葉を並べ、作り上げるのが筋というものだ。

言葉のチカラを信じている、といいながら、その言葉をこれほど乱暴に、粗雑に、ぞんざいに取り扱うとは。これでは、そもそも言葉のチカラについて、(ネガティブな部分以外は)何も分っていないのではないか、と思わざるを得ない。新聞社員やジャーナリストは、言葉を使うことによって日々の糧を得ているわけで、その力については承知しているだろうし、その使い手として、それなりに自負があるはずだろうに。そもそも、今回のコピーの趣旨は、新聞に携わる者だったら、至極当たり前のことで、わざわざ自分たちを宣伝するために使うべき表現では、断じてないのだ。
それをあえて使用する、というのであれば、もっともっと慎重にコピーを練るべきだし、乱暴な使い方でさらなる誤解を招くようなことは避けなければいけない。

このコピーでの「それでも」は、作者の意図では「感情的で残酷で、ときに無力」に対応する、というか抗する位置づけなんだろうが、素直に読めば「ときに無力」の部分にしか対応していない。「ときに」は「時々」ということであり、無力なのは時々であるということにしても、「感情的で残酷」なのは時々ではない、つまり言葉はいつも感情的で残酷だという意味になる。そして、「感情的で残酷」な言葉は、時に無力になるが、「それでも」そのチカラを信じている、ということは、すなわち、言葉の感情的で残酷な側面を、その本質として支持し、肯定する、ということだ。
表現として、属性を列挙して最後に「それでも」とつけた方がかっこいいのは分る。「ときに」の配置も、ここの方が耳障りがよくなるからだと思ったからだろう。でも、かっこいいからといって、伝えたいことをないがしろにする姿勢はおかしい。それこそ、ジャーナリスト宣言の否定ではないか。

一番腹が立つのは、そういういい加減なコピーを作成した個人にたいしてでなく、そういうコピーをそのまま、大々的な宣伝に使用させてしまう、朝日新聞社のチェックの甘さだ。
昨今世間では、感動をうたい文句に、細やかな感情の機微だとか、複雑だが、だからこそいとおしい表現の数々が無視されたり、省略されたり、否定されたりしている。
文芸作品や映像作品で、または分りやすい政治のコトバの中に、毎日それを見せ付けられ、うんざりしたり幻滅したりする毎日だ。「涙が止まらない」とか「感動した」とかいう誰でも言える言葉のせいで、それ以外の感情や思いはすべて埋没させられ、消えていく。
そして、それを人々も当たり前のこととして受け入れ、そうやって日々が積み重ねられていく。
知性が低下していくのを、常識のレベルが低下していくのを、誰もなんとも思わないのだろうか。ましてや、言葉を商売の種にしているマスコミまでもが、そういう流れに加担しているなんて。

私は、この文章を書くのにずいぶん時間をかけた。表現に配慮もしたし、伝わらない部分をどう伝えるか、悩んだりもした。
それは、書き手として当たり前のことで、全然誇れることではない。だが、その程度の推敲すら、このコピーからはうかがい取れない。それが、一番の問題であり、私が寒々した気持ちになる、一番の原因でもある。

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06年8月6日ゲド戦記

映画『ゲド戦記』を見た。絵が粗い。冒頭の海のシーンでもう失望。波のうねりが全然描けていない。竜の描写も(全編にわたって、だが)非常にお粗末。
砂漠にいたっては手抜きの極致。その一方で、町などは細かく描いていて違和感ありあり。空の雲は、どれも同じ速度で流れているし、背景は失格だと思う。「ナウシカ」以前のジブリに戻ってしまった、というか。

アレンが狼に囲まれた時の「お前たちが私の死か」はどこかで聞いたことがある。原作にあるんならいいけど、そうじゃなかったらパクリだ。
涙のあふれ方は、アニメをもっと勉強したほうがいいよ、というしかないな、ひどすぎる。テルーの歌を聴いたアレンの涙もそうだけど、テルーの涙が剣に落ちるところなんか、あれはまるで唾だ。
それから、テルーの人は、声優としては残念ながら失格だ。抑揚がなってなさすぎる。

ゲド戦記といいながら、「ゲド」というセリフが一回しかなかったのには笑った。父親殺しのシーンが原作にはない、という点もあわせて、これもまた、父親の威光で霞む息子の作品、というアイロニーになっているんだろうか。 とにかく、スタジオジブリ作品といいながら、従来の作品に比べ、かなり質、程度が落ちている。これまでジブリが長年かけて積み上げてきた技術の全てが退化している。これはいったいどういうことなんだろうね。それとも、この程度でいい、という考えなんだろうか。

まあ、悪い点ばかりでは何なので、いい点もあげておこうか。

魔女が老化した時のうつろな目はよかった。穴があいている。でもあれも、どこかでみたような気もする。

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06年7月30日日本沈没

映画『日本沈没』を見た。SFXはすごい。渋谷のシーンとか、『ガメラ3』を思い出した。さすが樋口さんだなあ、と感心。北海道の津波は迫力あった。特撮はすごいと思う。
でもドラマとしては、前作に劣る。小野寺の人間性がさっぱりだし。そもそも、意図の通り、軟弱なやつが決意するという筋立てにするんであれば、もっともっと、その軟弱な部分を出しておくべきだし、阿部玲子に「抱いて」と言われた時の逡巡が弱い。弱すぎる。(ちなみに、あのシーンで虫が鳴いていることに疑問を持ったひとが多いみたい。火山灰があんなにあるのに、虫が生きているのは不思議、だとか)
『ポセイドン』の時も思ったけど、こればっかだなあ。リメイクって。どうしても前作の迫真性を超えられない。
あと、主要人物の死ぬシーンが全然描かれていないのは、何かの規制でもあるのかな。不思議だ。
日本沈没は、今連載されている漫画が一番面白い。まだ京都地震の前までしか進んでいないけれど、ネームにすごい重みがあって、何回も読み返してしまう。正直絵は全然うまくない人だけど、今後も注目していきたい。

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06年7月29日時をかける少女

映画『時をかける少女』を見た。上映館数が少なくて、普通なら見ずに終ったアニメ映画だけど、ネットでの見た人たちによる評判がものすごくよくて、しかもみんな真剣に「是非見ろ」と勧めていて、それほどならば、と一時間かけて朝の九時半一回のみ上映の京成ローザに出かけていった。
小さい劇場で、スクリーンも小さかったが、売り場で大き目のスクリーンで自分の希望の席を選べるのはいい。座席もすわり心地がよかった。ソフトドリンクがセルフサービスで200円というのもいいと思う(客はカップをもらって、自分でドリンクをそこに注いでいく、という形式)。

で、映画の内容について。とにかく、さわやかな映画だなあ、と思った。評判がいいのも頷ける。
京成電車もでてくるし、親しみやすい。
主役のキャラクターは、よくアニメでは出てくる元気な女の子なんだけど、とても自然に演出されていて、嫌味がなかった。それに、彼女とかかわる他の人間とか事件が、高校生の目線に合ったレベルで用意されていて、それも何ら不自然な部分がない。理想的な高校生活というか、たぶん観客の多くはこういう高校生活を送ってはいないと思うんだけど、それでもあざとさがないせいで、すごく自然に受け止められる。いつの間にか、ヒロイン真琴の目線に立って、一緒に怒ったり泣いたり戸惑ったり叫んだりと、ハラハラドキドキしている自分に気づく。いや、そう気づかせないほど自然に、観客は真琴に感情移入していて、映画が終った時には、架空の、理想の高校生活を体験したような気分になって、何だかよく分らないカタルシスを得る。だからみんな、この映画を絶賛するんだろう。なかなかよくできている。

ものすごく細かく書き込まれた背景の情報量は、もう一度見たいという気持ちにさせるのかな。タイムリープによる、同じ時間の繰り返しが、ほんの少しずつだけ違っているのも、何度も見て確認したくなってしまうものらしい。
ネットでの感想では、もう何回でも見たい、という再鑑賞を宣言したり、実際そうしてしまったひとたちの熱意が際立っていた。彼らの思いは、多分上記のような理由ではないんだろうけど。

あと、主題歌の記号的な歌い方について。歌というより音みたいな感じで、これが最近の流行なのかな、と思ったりもした。情感をこめる部分で、わざと平坦な歌い方をしているというか、うまく説明できないけれど、普通の歌い方ではない。悪くはないし、頭にこびりつくタイプの曲ではあるけれど、それほどすごい、とは思わなかったな。

でも、ここまで長く書いたことにあらわれているように、いい映画だったのは本当。見に行ってよかった。DVDが出たら買うと思う。それよりも、もっと多くの人がこの映画をみてほしいなあ、と思う。

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06年7月19日mihomihomakoto

朝日美穂ともりばやしみほと、川本真琴。すごい。最強の組み合わせ。
でも、今ではそういう風に考えるひとは少ないんだろうなあ。などとつぶやきつつ、でも、やっぱりすごいや。
みんな私の好きなアーティスト。
だいたい、有名なひとが組んでコンピレーションを作るときは、ひとりぐらい自分にとってはどうでもいいひとが含まれているものなのだが、これは最強。
たぶん、個人的にはハニードリッパーズよりすごいし、ディラン&デッドよりも衝撃的だ。・・・とか言っても何にも伝わらないんだろうけど、たとえばhi-posiの「体と歌だけの関係」の歌詞(ガンガンやってはやく飽きてね)や、川本真琴の桜(いけないいけないいけない)とか、朝日美穂のmomotieや勉強といった曲が好きだった人たちが、それぞれ戻ってきて、聞いてくれるだけでもずいぶん売れるんじゃないかな、と思うんだけども。 今なら初回限定のDVD付スペシャルパッケージだ。興味ある人は、ぜひ試聴して、気に入ったら買ってほしいなあ。


アドレスはこちら

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06年4月2日レイソルの話

J2に落ちてしまったので、今年はちょっと柏レイソルの応援をしようと思い、先日対鳥栖の試合を見に行った。なかなか面白かったので後援会に入り、ちょくちょく試合を見に行こうと思った。
何しろ後援会に入るとチケット代金が1000円オフになるもので。
で、先日神戸との試合をネットで購入し、今日は先行販売初日でヴェルディの試合のチケットを買った。
でも、買うたびにチケットの位置が悪くなってるのはなぜなのかな。後援会に入る前のチケットは最前列だった。神戸戦は三列目。で、ヴェルディ戦は五列目になってしまったよ。人気あるからかな。でもJ2だよ? よく分らない。
もっとも今年は何があろうとレイソルを応援しようと思っていたから、それほど不満はないけどね。現状首位だし。このまま頑張って欲しいものだ。私のようなヘナチョコファン(とてもサポーターだなんて自認できない)でも、もしできることがあるとすれば、それはチケット買ったりしてレイソルにお金を落として、それからできるだけ会場に足を運んで応援することぐらいだろうしね。

ディエゴとフランサ、それにレイ君@鳥栖戦

ヴェルディとの試合もすばらしかったし、できればこのまま突っ走って、早いうちに昇格を決めてほしいなあ。で、甲府にリベンジしてほしい。

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06年1月20日DVDたまりまくり

アウターリミッツの第二シーズンボックスをようやく買った。三本あって、それぞれ三万円近い値段なので、なかなか買えなかった。それがここでやっと完結したのだが、まだ最初のボックスさえ、全部見終わえていない。
ずっと前から好きだったシリーズで、楽しみにしていたんだけど、それでも何かと買えなかったり、見られなかったりで、全然消化できないでいる。
でもできれば、死ぬまでには全部見終わえたいし、楽しみたいと思ってる。他のdvdもずいぶんたまっているけれど、それとは別。これだけは、ちゃんと見たいと思っている。

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05年12月14日音楽について

気がついたら、ハードディスクプレイヤーに収まっている曲の数が5300曲になっていた。
目標だった5000曲を超えたのは、ちょっと感慨がある。
ためしに、通勤の朝と帰りにずっとランダムで曲を演奏してみたら、やはりダブる曲はなかった。それに、アルバムを買ったものの細かく聞いていないせいで、新鮮に耳に響く曲もいくつかあった。こういうのもありがたいなあ、なんて思いつつも、ふと頭に浮かんだのは、5000曲という数の意味についてだ。
これだけたくさんの曲を持ち歩いているにも関わらず、色々な事情でこのプレイヤーには入っていない曲も数多くある。それも、愛着があって泣く泣く手放したCDとか、ラジオで何回もかかって覚えるぐらい好きになったものの、アルバムやシングルを買うまでには至らなかった曲とか、数々の、自分にとっては大事だった曲が、まだ入っていない。 そういう曲をいちいち数えていったら、・・・もしかしたら、5000曲以上あるのかもしれないな。と思った。
実際、このプレイヤーに入っている曲の大半は自分で購入したCDからのものだ。あとはエアチェックとかレンタルCDとか、さまざまだけど、それは些細な量。とすれば、私が自分の意思で聞いてきた音楽の数は、5000曲では足りない、ということになる。わけだ。

ひとは一生に、どれだけの曲を聞くことができるんだろう。聴く、ではなく聞く、だったら、一万とか、もっともっとたくさんの、数え切れないほどの曲を受け取れるんじゃないかと思う。もちろん、真剣に「聴く」場合は、それこそひとによって違うんだろうけど、 できればたくさんの音楽を聴くことのできる力があればいいなと思う。

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05年11月12日不愉快な出来事

昨夜ちょっと、駅で不愉快な出来事に遭遇した。要するに酔っ払いに絡まれたのだが、記憶するために記録しておこうと思う。

帰り道、駅から改札を出る時、前にいたやつが定期を入れたのに出てこず、後から入れた私の定期が出てきたのを自分のだと勘違いして引き抜いて、そのまま改札を出て行ってしまった。
その時はそうと分からず、待っていたけれど、なかなか定期が出てこない。先に出た親父は立ち止まって定期を眺めていたので、そこにかけよって確認すると、はたして私の定期だった。
「それは私の定期券ですよ」といって、名前欄を指で示して、男の手から定期を取りあげた。
すると「じゃおれの定期はどこだよ、この野郎」といきなりどなってきたので、「知りませんよ、機械に入ってるんじゃないの」と言ったらさらに切れて「おれの定期はどこだよ!」とわめくので、しかたなく改札に連れて行った。
でも改札でも「おれの定期はどこだ」と私に向かって言うばかり。
いい加減にしたかったのだが、親父はどうも、酔っ払うと気が大きくなるタイプのようで、しつこく迫る。突然男は私の左腕を引っ張って振り回した。私も抵抗しなかったもので、頭が数回、軽く改札の窓ガラスにぶつかった。それでこっちもカッとなった。
男に「言葉で話しあいをしてるのに、いきなり暴力かよ」「さっきの話はさっきの話としても、なぜ殴るんだよ」と怒鳴った。「殴ってない」と言うから、「じゃあなんで振り回してぶつけるんだよ、なんで振り回してぶつけるんだよ、なんで振り回してぶつけるんだよ」と言い続けた。
そしたら突然、男が「すみませんでした」と頭を深々とさげた。やや演技の匂いもしたけれど、とりあえずそれで納得したので、「じゃあ、いいよ」と言って、改札を後にした。
帰ってみると、ワイシャツのボタンが三つぐらい飛んでいた。
それにしても駅員は、つくづく頼りにならない、と思った。客同士の諍いで、どっちが悪いにしても、一方的に暴力をふるわれているのにたいして、何もできないし、「大丈夫ですか」と一言もないのは、あんまりだ。いくら双方が酔っ払いだったからってさ。すごく失望した。

ちょっとくどいので、一部省略しました(11/20)

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05年08月01日味スタでフィオの試合を観戦

フィオレンティーナのジャパンツアー最終戦を見に、飛田給の味の素スタジアムに出かけた。

試合はヴィオラの負け。審判がうまく試合をコントロールできなかったせいでひとり退場になり、その時点で試合の面白さは半減してしまったけれど、中田が退いた後、しかも10人になっても一点返せた、というのは大きいと思う。

ただ、ヴィオラは動きがとても悪かったのは事実。新加入の選手が多くて、連携がとれないとか、慣れない暑さの中での連戦の疲れがあったのかもしれない。まあ、これからコンディションも連携もよくなっていくんだろう。ツアー通算で二勝一敗だし、いいんじゃないかな。
とにかく、ヴィオラを生で見られたのはとてもよかった。レプリカユニフォームまで買ってしまったよ(8900円と、意外と安かったし)。 中田がいようといまいとどうでもいいんだけど、こうやって日本にいながらにしてヴィオラの試合が見られるのは、確かに彼のおかげだ。試合の放送も増えたしね。そういう意味ではとても感謝している。

味スタは、けっこうみやすいスタジアムだった。ベルディとか、瓦斯とか、ホームのチームがあんなのじゃなかったら、もっと頻繁にきただろうになあ、と思った。
FC東京の隊列に参加していながら、なぜかFC東京は「関係があるとは認められませんでした」とか抜かした暴漢がベルディのサポに投げつけたという灰皿のふたも、しっかり確認してきた。
あれを投げたのじゃ、殺人未遂になってもおかしくないなあ、と思った。
未だに処分がはっきりしないのは、どうかと思う。

ベルディは、玉乃とか好きな選手もいるんだけど、今日の試合を見る限り、荒っぽいプレーがすごく多くて、あんまり好きになれないなあ、と感じた。まあ、今後もそれほど見ることはないだろうけどさ。
この日、一番感動したシーン。

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05年06月20日コンフェデ ギリシア戦勝利!

正直、勝てるとは思ってなかった。だから、月曜からの仕事に与えるダメージを考えて、 早めに寝てしまった。そんな自分を深く反省する。大黒のゴールで、ヨーロッパチャンピオンのギリシアを一蹴したとは。びっくり。驚き。 ユーロの時、ギリシアのサッカーは気に入らなかった。ああいうサッカーで勝つのは、何だか好きになれなかった。でも実際買ったんだから、仕方ないなあ、と思っていた。だからこそ、今回の快挙には、とても気持ちがいい。
もちろん、ギリシアは調子が悪かった。格下相手でやりにくかったとか、ユーロの時みたいにファウルを流してくれない審判だったからとか、そいう理由もあったのかも知れない。それにしても、勝ちは勝ちだし、負けは負けだ。うれしいなあ。
ビデオで見返しても、前半31分あたりと後半の33分ぐらいしか、不安を感じる場面はなかったし、終始日本が押していた。38分の玉田のフリーで外した場面とか(あれは、ちょっと、何だ)、41分の柳沢のループがはじかれた時には、ちょっとがっかりしたけど、それもこれも、勝てばすべてOK。次はブラジルだから、ずっと喜んでいるわけにもいかないだろうけどね。
それにしても、加地はよかった。びっくり、見直した。あれほど的確なクロスをあげられるとはね。
後半26分のパスも、いいアイデアだと思った。メキシコ戦の先制ゴールもそうだったけど、もう、あんまりけなすことはできないなあ、と思った。

ギリシアのキーパーは、プレイがなかなかうまかった。DFも、かなり頑張っていた。それでも格下の日本に負けてしまったのは、たぶんモチベーションが別のところにあったからかも知れない。ワールドカップの予選がまだ残っているから、とか。

まあ、それはそれとしても、やはりうれしい。今度のブラジル戦は、今回以上に勝ち目が薄いけれど、今度こそ、早起きして、ちゃんと確かめようと思う。日本のレベルがどこまで到達しているのか、本気のブラジルと戦うことで、きっと分かることがあるような気がする。5対0で負けてもいい。本戦であるワールドカップに向けて、何かの糧を得ることができれば、それでいいと思う。

もちろん、勝つに越したことはないけど。

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05年06月12日昔の知人の出した本について・その他

*今回、本当に個人的な話なので(しかも長い)、あらかじめご承知ください。というか、読まなくていいです。

大学生の頃、いくつかサークルに入っていた。一番深く関わっていたのはオカルト系のとあるサークルで、それはまあ、色々なことがあって簡単には語りつくせない(し、ここで話すつもりもない)のだけど、それとは別に、もっとまっとうな、というのも変だけど、普通のサークルにも加わっていた。そのサークルは、主に早稲田と上智を拠点としたミニコミを出版するサークルだった。
ミニコミというのは、仲間内で記事を書き、編集し、発売する自主流通出版の雑誌のことで、今はどうかしれないけれど、当時の大学では、この手の雑誌がけっこうたくさんあったのだ。 私は高校時代に新聞部にいたし、遡ると中学の時にも新聞を出したりしたこともあったので、もともとそういう出版物には興味があったのだろう。現に、今の勤め先にしても、そういえば某新聞社の関連会社だ(全然出版物の製作には関わらない部署だけど)。・・・そうか、自分でも今初めて気づいた。こうして文章にしてみると、自分のことでも、新しい発見があるものだな。

本来私は、学生時代のことや、昔のことについて話すことはあまりない。せいぜい日記に書くぐらい。酒を飲んでもめったに他人には話さないし、ウェブに書くなんてたぶんこれが初めてだ。上記オカルト系サークルについては、それなりに話さない理由がいくつかあって、自分でもやむをえないと納得しているのだが、ミニコミのサークルについては、何だか自分の恥ずかしい記憶といっぱいつながっている気がして、それで話せない、というのが一番の理由みたいだ。

私には、今でも思い出しては赤面して落ち込んでしまう過去の記憶があって、それが大学時代までは、どんどん増えていって、収拾がつかなくなっていた時期があった。
相手はおそらく、当の昔に忘れてしまっている出来事なんだけど、それでもその時の自分に立ち戻り、一方的に心の中で相手にあやまったり、恥ずかしがったりする。
『なんであんなことしてしまったんだろう』と、もう罪のないはずの今の自分を責めてしまう。
客観的に考えれば、ささいなことだし、もちろん法律的な意味での罪ではない。相手の気持ちを傷つけるとか、いわば心理的な罪があったとしても、もうさすがに時効だろう、とわかっている。
理解しているつもりでも、やはりだめなのだ。ともかく、そういう記憶が蘇ってくると、いつだって私は落ち込んでしまう。だから、そういう記憶の再現を無意識のうちに回避してきた。具体的には、そういうことがあった過去の時期を、なるべく思い出さないようにしていたのだ。最近になって、そう気づいた。

ミニコミのサークルについても、そのタブーに抵触する時期があったため、それ全体を思い出さないようにしていたし、今でもあまり語りたくない。でも、今回書こうと思った時期については、そういう恥ずかしい記憶とはそれほど関係ないし、だいたい、この年になって、もう何年もずっと昔の話について、封印したりするのもばかばかしすぎる。
ということで、この頃の知り合いのひとりについて、書こうと思う。

このサークルに入った時、すでにその人はいた。年齢は私より下だったのだが、私が浪人して大学に合格したこともあって、ずっと先輩だと思っていたし、そう接していた。
性格やひととなりには、あまり特筆するところがない。
というか、印象があまりない。決してめだたない人ではなかったけれど、失礼ながら、よくいるタイプのひとに思えた。
具体的には、よくしゃべる、背の低いひとだったな、という程度。
ミニコミで書いている文章についても、最初はたいしてよさがわからなかった。・・・うん、このことは認めなくてはならない。当時、今以上にばかだった私には、氏の文章のよさが、最初は理解できなかったのだ。
でも、このサークルに色々な事情で氏があまり来なくなってきたころから、徐々に私にも、その文章のすごさがわかるようになってきた。
その人の文章は、けっして難しい言葉を使うことなく、誰でも意味がわかるように配慮されていて、それでいて、内容は深い洞察力で裏打ちされている。
その平易な文章のせいですんなり頭に入ってくるから、ちょっと読んだだけだと気にならないのだけれど、よくよく考えてみるとそのメッセージはけっこうラジカルだったり、意外な発想から導き出されていることがじわじわ伝わってくる。『これはもしかしたら、本当に凄い文章なんじゃないかな』と思うようになった。
当時のミニコミのバックナンバーを読み返してみても、そうした印象は今でも変わらない。知り合いの書く文章で、これはすごい、と思ったことは、この人以外にない。
『なるほど、うまいこと言うなあ』とか『ここに目をつけるのはさすが』とか『こういう言い回しは、すてきだ』とか、文章の端々で、感嘆したり、敬服したりすることはあったし、今でもあるけれど、そのコラムなり文章全体がすごい、と思ったのは、今までこの人一人だし、それは多分、今後も変わらないだろう。

こういうと、かなり強気で主観的な意見に思われるかもしれない。実際そうなんだろうけど、もうちょっと補足しよう。
氏の文章は、先に書いたとおり、当人のパーソナリティーとは、全然つながりがない。というか、少なくとも友人や知り合いとの付き合いの中からは、決してうかがうことのできない構成で出来上がっている。私自身は、それほど多くの書き手と知り合いになったわけではないけれど、そういう少ないデータであえて言うと、本人と付き合っていると、その文章と本人の性格とが、どこかの部分で関わりあっていて、その筋が見えるように思うのだ。だから、親交を持っている人の文章を読むと、『ああ、あの人らしい』と感じたり、納得したりもする。
だが、その人の文章は、その性格や言動、行動様式からは、決して想像できない内容だった。これは氏が高度な客観化能力を持ち合わせている証拠だと私は思う。

とはいえ、まあ結局、主観でも構わない。一番の理由といえば、要するに、氏の書く文章が好きだったのだ。

「だった」と過去形で書いているのは、作家としてデビューしていたその人の小説を、今手元にして読もうとしているからだ。すでに長編二冊、短編一冊を上梓しているなんて、知らなかった。
そもそも、氏が、その当人だったということも、ネットのレビューや本人の記事、写真や当時やはり同じミニコミで執筆していた先輩(大学の助教授になっていたすごい)のレビュー記事などを見つけるまでは、信じられなかった。
だって、あの人が作家になってたなんて。
ミニコミ時代に読んでいたコラムとは違って、小説なのだから、あの頃のような印象とは違うかもしれない。それに、そのコラムにしたって、初めて読んだ時、そのよさがわからなかった私だ、この小説をさっさと読んでしまって、性急な判断を下してしまうことがいやなのだ。
とはいえ、この小説を手にできたことには感謝したい。読むのが楽しみだ。
こんな風に過去のことをまとめて思い出して言葉にするきっかけをくれたことに感謝したい。
それと、ずっとあきらめていたことでも思い出して道に戻れば、まだあきらめたことにはならないのかもしれない、ということに気づかせてくれたことにも感謝したい。

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05年06月06日ピッピ隊音楽部 ライブ感想その他

会社を半休して、青山に出かけた。
最初は曇り空で、逆柱いみりの個展を見たり(ほとんど売約済になってた。すごい)、買うあてのない高級ブランド靴屋をのぞいたり、その反動でわりと安い靴屋で靴を買ったりして、時間を過ごしていた。

平日の午後なのに、いや、平日の午後だからこそ、かもしれないけれど、通行人や店の客、店員までもが、ゆったりとした時間の流れの中にいる気がした。
何だかいつもの自分の環境とは全然別のような気がした。
『人間らしい生活っていうのは、こうやって、たまに盛り場に出てきて、あてもなく散策することができる生活だよなあ』なんて思った。
たまの余暇をこうやって楽しんでいたのだが、天気はだんだんと妖しくなってきて、あっという間に鉛のような雲が立ち込め、やがて土砂降りになってしまった。

その大雨の中、開場と同時に目当てのハコにたどり着いた。ライブハウス「月見ル君想フ」は、入り口がそのままアリーナになっていて、階段を下ると一階のステージに出るという作りになっている。
ステージの後ろには、ハコの名前に由来する、大きな円形の白い蛍光灯がある。これが月に見立てられていて、ライブ演奏中、輝いているのだった。落ち着いて見られる、いいライブハウスだと思った。

酒を飲んだりして、色々しているうちにぽつぽつと客が入り始めて、やがて共演のOrangeCloverの演奏が始まった。
どこかで聞いたことのあるような、それでいて忘れている懐かしいメロディーの数々。
三線とロックミュージックのハーモニー。
なかなかよかった。
この日、CDを買って帰ったのだが、後日何回か聞いているうちに、『このバンドは、いずれとっても大きくなるのでは』という気がしてきた。
正直、詩はまだ凡庸な部分が多いのだが、メロディはとても美しい。
というか、メジャーシーンで大ヒットしていても全然不思議ではない。
今後がとても楽しみなバンドだなあ、と思った。CD買う時に、サインしてもらえばよかった。

で、そのOrangeCloverのステージの後は、お待ちかねのピッピ隊音楽部。
はじめに『さつえいダメヨ』という画用紙の紙が掲げられ、その説明があった。撮影と録音はおことわり、だそうだ。その後に、演奏が始まった。自分たちを保存されるのがよっぽどきらいなんだろうな、と思った。

その演奏、ライブ全般については、実に普通だった。

何回もとちっていた(あがりやすいみたいで、そのせいもあるのだろう)けれど、リーダーであり、ボーカルでもある隊長のアコーディオンは上手だし、メンバーとの音のタイミングのあわせはほとんど絶妙といってもいいぐらいで素晴らしかった
よっぽど気が合っているか、かなり丹念に練習しているんだろうな。

隊長の声はすてきだった。濱田マリにちょっと似ているけど、もっとずっとピュアで透き通ってる。CDになっていない曲「黒猫のタンゴ」とか「あのすばらしい愛をもう一度」なども、とてもよかった。

「絵のない絵本にあこがれて見えないドレスに身を包んだお姫様がキコエナイ唄を口づさむ」と歌う「キコエナイ唄」はメディアを拒否する自分たちのことだと言っていた。何だか、分かったような分からないような。
「地球の平和」について、曲を歌う前の前振りで『何か言いたいことがある時、それで誰かが傷つくかもしれないと思ったら、どっちにでもとれるような曖昧な歌詞にする』というようなことを言っていた。
なるほど。
「おねだり」もそうなのかなあ。やはり、ちょっと気になった。
でも、たぶん、彼女たちは「マジ」なんだと思う。あの真剣な演奏もそうだし、たぶん「おねだり」のあの詩は、そのまま、その通りに受け取るべきなんだろうな、と思った。
というか、当人たちは、そう受け取ってもらいたいと思ってるのは確か、だと感じた。だからこの件で、これ以上詮索などしないことにしよう。
(その件とは別に、最近の男女の付き合いで、『やさしさ』をはき違えた付き合い方が目立つことにしては、いずれ別の話で書こうと思う。)

まあとにかく、久しぶりに青山まで行ってライブを見たのは楽しくて、心地よかった。
ピッピ隊の謎についても、ある程度解明したし。
いずれにしても、このバンドはもっと色々なシーンで取上げられて、もっと売れたほうがいいような気もするけれど、それも当人たちが拒否している以上、余計なお世話なんだろうな。

ここで彼女たちの音楽について語っても、実際CDなりライブで聞いてくれないことには、うまく説明できない。
しいて言うなら、少年ナイフみたいな音、といえばいいかも。そこにアコーディオンやカスタネットといったアナログな音の色合いを重ねていったら、けっこう近いような・・・うーん、やっぱり全然違うかなあ。
まあ気になったひとは、CDでも買って下さい。アマゾンで「ピッピ隊」と検索すれば、出てきます。それに、彼女たちのウェブページも、同様にグーグルで検索すればヒットします。とにかく、長い人生でいっぺんは聞いてみた方がいいような、そういう類の音楽だと思われます。たぶん、ほとんどの人が、今まで聞いたことがないタイプの音楽だと思うしね。

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05年05月23日セカチュー、それからピッピ隊

ハーランエリスンのSF小説「世界の中心で愛を叫んだけもの」からタイトルを借りた『新世紀エヴァンゲリオン』の「世界の中心でアイを叫んだけもの」からタイトルをパクった小説「世界の中心で愛を叫ぶ」の小説を読み、映画を見た。

小説の方は、ジュヴナイル、つまり少年向けの小説としてはよくできていると思った。12歳以下の多感な少年少女には、うってつけじゃないかな。ベストセラーになったのも、そういう子供たちが大挙して購入したからだろう。普通の大人が、こういう小説で感動しただの、泣いただの言うのは、現実的ではない。あれだけ売れたということは、少子化社会の日本にも、まだまだ子供がいっぱいいるということで、実に喜ばしい。

ともあれ、その映画版は、驚いたことに小説よりよくできていた。小説では語られなかった「世界の中心」という言葉もきちんと登場していたし、交換日記を交換テープにして情感を煽る技法も見事。最後にサキが自分を避けていたみたいだ、と主人公が語るシーンがあるのだが、これが小説では唐突に感じられ、別の部分では全然描かれていなかったため、何となく引っかかったのだが、映画版ではうまく新しい設定に生かして説明していた。その一方で、小説ではくどくど描かれていた旅行費用の工面については一切省略してしまっているのも、さじ加減を分かっているなあ、と好感を持てた。映画でのみ登場する柴咲コオの役割があまりにもご都合主義的だとは思ったが、まあ、あの人はああいう人だから、それでいいのかもしれないし。 小説と映画で共通した話だけど、サキが深夜放送で投書を読んでもらうために朔太郎がついた嘘をなじるシーン。ここがちょっとこころに止まった。「たとえ冗談にしても、そういう人たちをネタにして同情を買うのは、わたし嫌いよ」の部分。こういう、まっとうなことを言える子供、いや人間が最近少なくなっているような気がして。

で、話は唐突に飛んで、ピッピ隊音楽部の話。この人たちの音楽は、その詩の内容がとても素直で、それが逆に私の中では邪推の種になってたりしている。だから気になっていて、ライブを聞きに行こうと思った。そのライブが明日なので、こうして事前に書いている次第。何だか、ひっかかってしょうがない。
彼らは彼らで普通に音楽を楽しんでいるのかも知れないが、素直な詩があると思えば、一方では『世界の平和を守るために僕の食事代を負けてくれ』と言い張る曲とか、レッテル貼りを茶化す曲だとか、ちょっとした皮肉めいた曲もある。本人たちはメディアに登場するのを頑なに拒んでいるため、具体的な発言はあまり聞こえてこないのだが、自分たちのウェプサイトでは、曲の解説もしている。で、気になっているのが「おねだり」という曲の解説。
歌詞はというと、「きみがオネダリするどんなものも買ってあげるけど、そうするのはきみと同じ時間を共有したいからなんだ。買ってあげた色々なモノは、僕自身のように、きみと喜びや悲しみを分かち合うことはできないんだよ。それができるのは僕自身なんだ。早く気づいてね」というような感じなのだが、その曲にかんする解説をそのウェブサイトで見た時、気のせいかも知れないが、なんだか悪意の種を感じ取ったような気がしたのだった。
何でも言うことを聞いてくれる男性。でもその目的は、いつか自分のことを分かってくれる、その幸福の源泉は自分にあるんだということを分かり、いつか自分に屈服することを望んでいるとか、そういう感じに思える。やさしさを餌にして、いや、それを誰からも批判されない大義名分として、恋人を自分のものにしようという姿勢、それが生理的にいや、なのだ。だいたい、自分の経験からいっても、そうゆうのでひとは動かないぞ・・・こういう風に考える自分が汚れているだけなのかなあ。
あと、連れ合いと話していて気づいたのだが、この主人公は「甘いケーキ」だの「素敵なドレス」を「買ってあげる」とは言うものの、この歌の中では実際に買ってない。つまり、口だけのやつなのかもしれないし、もしかしたら、彼女とは何の面識もないまま、ストーカー然と自分の思いをぶちまけているだけかもしれない。たとえばテレビで見るアイドルにたいして独り言をつぶやいているとか。うわー、もしそうだとしたら、なかなかすごい歌だ。
まあ、そういったことも確かめたいので、明日のライブはちょっと楽しみなのだ。この日記の更新はいい加減だけど、どんなに遅くなったとしても、このライブ評だけはここで書くことを約束する。「月見ル君想フ」って、変な名前のライブハウスだなあ。

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05年05月18日おいしいタイ料理が食いたい

先日、タイフードフェスティバルに行った。仕事が終わってからだったので一時間ちょっとしかいられなかったけれど、パッタイとか春巻とかタイビールで楽しんだ。来年はちゃんと昼間から行こう。

ところで、以前勤めていた会社の近く、某スポーツ新聞の社屋の前には、週一回、タイ料理のバンが出ていた。曜日によってあちこちで営業しているらしく、私の会社の近くでは、この水曜日だけが営業日だった。
ここのガパオがとてもおいしい。どううまいのかというと、上手に説明はできない。豚のひき肉とホーリーバジルをパプリカやその他の野菜と一緒に煮てあるみたいで、タイ料理では当たり前にあるものなのだが、その味付けが絶妙。少なくとも私は大好きで、大げさに言うと会社に出てくる支えになってたりした。
だから会社合併で勤め先が変わってからも、昼休みがあまり自由に取れなくなったし、さらに距離も10分くらい余計に遠くなってしまったけれど、毎週出かけていって買っていた。

はじめの頃は、それほど知られていなかったし、会社から距離も近かったので、それほど並ぶことなく買えたのだが、最近人気が出てきて、店の前まで来ると大行列だったり、品切れだったりして、毎週必ず食べられる、という訳にはいかなくなってきていた。

どうしてかな、まあおいしいから口コミで人気出てきたのかな、なんて思っていたのだが、会社の後輩に聞いたところ、どうも誰かがMIXIで書き込んでたらしいのだ。それでますます行列が続き、二週にわたって食えなくなり、どうしてそういう迷惑なことをするかな、などと自分勝手に思っていたのだが、今日出かけていったところ、最悪の事態になってしまっていた。

パトカーと、警官二人。謝りながらバンを片付けている店長。撤去要請を受けていたみたいだった。当然、買えるわけがない。三週間も食えないのか。ああ。

いやいや、この分だと、来週もどうなるか、分からない。確かに列に長々と並んでいるやつらの中には、歩道を横切って並んだりして、通行人の邪魔になってることもあった。それが、MIXIの情報に後押しされて、ますます列が長くなって、ますます往来が困難になって・・・あげく、我慢できなくなって警察に苦情を寄せたやつがいたんじゃないかな。

いずれにしても、とても残念だ。やはり本当においしいものは、他人に教えたりしては駄目なのかも。客が増えると混むし、味や客あしらいが劣化することもあるだろう。場合によっては、今回のように店そのものがつぶれてしまう(まあ、まだ決まったわけではないし、多分別の場所では営業してるんだろうけどね)こともある。もちろん、MIXIに情報を寄せたやつも、悪気があってやったんじゃないんだろうし、あの安斉肇にちょっと似た店の主人の商売繁盛のために、よかれと思って書き込んだんだろう。でも結果としてみんな不幸になってしまった。
仕方ないこととはいえ、やっぱりがっかり。願わくば、近いうちに、コッソリ場所を変えてでも復活してくれるといいな。
もしそうなったら、その時はもう、たぶん私は誰にもそのことを教えないだろうけど。

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