このページでは、日々に感じた雑感を書いてます。
過去記事はことわりなく修正したり削除したりすることがあります。基本的に、このページは不特定多数の他人に読ませることを目しておりません。他のページもそうですが(^^;
なお、御意見を下さるのは歓迎しますが、その場合、「こういう意見をいただいた」という記述がこの日記に記されることもありますので、あらかじめご了承ください。

最新の更新は2001年8月です。


目次

04/09レクイエム・フォー・ドリーム 03/10指輪物語吹替 03/04指輪物語 01/30ゴジラ 01/17月島へ 01/07ウイルス嫌いだ 01/06DVDの流行 10/21映画「ターン」 09/19「ミュージックマガジン」のCOCCO評は最低! 08/27映画「AI」 08/07MISHIMA 08/01早稲田の騒動 06/06つまらないCM 06/03千葉マリンスタジアム 05/28 05/13ダクラス・アダムス 04/23Cocco 04/13最近のネット上の論争ふたつ 04/10時計のスクリーンセイバー 04/01映画「ハンニバル」 home表紙へ戻る

さらに古い雑感は下記を参照下さい。

00年06月15日より01年03月26日まではこちら

99年09月04日より00年06月12日まではこちら

99年05月12日より99年09月04日まではこちら

98年12月某日より99年05月09日まではこちら

某年某月某日より98年12月某日まではこちら



02年4月9日「レクイエム・フォー・ドリーム」で鬱

映画での評判が気になっていた「レクイエム・フォー・ドリーム」のDVDを買った。これは映画「π」を撮影した同じ監督の作品で、とにかくすごい映画だという話は聞いていて、覚悟はしていたのだが、やはり見終わってからとても暗い気分になった。
主人公と恋人、主人公の友人、主人公の母親。主要な登場人物はこの四人だけで、みんな麻薬中毒で破滅する、という筋。筋だけ言うと、簡単なのだが、その破滅にいたる道筋がすさまじく、一片の救いすらない。特に母親の崩壊する様子といったら、・・・ここで書くだけで嫌な気分になってしまうぐらいだ。熱演、と言えるのだろうが、それにしてもなあ。
とにかく徹頭徹尾、見たひとに嫌な気分を味あわせる作品で、それが感動的でもあるのだが、何回も繰り返して見る気にはどうしてもなれない。でもいっぺん見ると、たぶんたいていの人がずっと忘れられない作品になると思う。こういうのは初めてで、なんといっていいか、うまい形容がみつからない。

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02年3月10日映画「指輪物語」吹替版

先週に引き続き「ロード・オブ・ザ・リング」を見た。今度は吹替え版。さすがに子供連れの客が多く、先日の「ゴジラ」の時のような悲惨な状況になりはしないかと危惧したが、みんなおとなしく、声を出すものもなく、落ち着いて鑑賞できた。長い映画にも関わらず、途中でトイレに立つひとも、先週の字幕版の時より少ないくらいで・・・まあこれは、ロードショーが始まって、長い映画だということが知れ渡り、みんな覚悟してきているからではないかとも思ったが。
吹替え版では、ビルボの台詞に間違いがあった。指輪のせいで長生きしている様子を「パンに塗ったバターのようだ」というのだが、これは「パンに薄くパターを塗ったみたいに引き延ばされている」というのが正しいはず。その他にも、気になった部分は確かにあった。
だが総じて、字幕版よりずって深みのある台詞だったし、主人公のフロドとサムの関係やアラゴルンとボゴミルの関係など、字幕版では全然不十分だった部分がきちんと描かれているし、なにより物語のテーマにかかわる致命的な誤訳はないのだから、十分満足できるできだったと思う。
たまたま、先日発売された映画「A.I.」のDVDを購入した。好きな映画だったから、楽しみにしていたのだった。だが、字幕版での誤訳がそのままで、吹替えでもその誤訳がそのまま使われていて、とてもがっかりした。「Space-Time」をなんで「時空」ではなく「宇宙時間」なんて造語で翻訳するのだろう。で、この字幕作者も、「ロード・オブ・ザ・リング」と同じ担当だ。
もういいかげん、この人に字幕を任せるのはかんべんしてほしい。そういう気分になった。確かに著明なだけあって、きっと名訳も数々、過去にはものしてきたのかもしれないが、これほど連続して誤訳を目の当たりにすると、辟易するし、映画そのものにたいする鑑賞意欲が失せる。
とはいえ私自身、今までは字幕版の方が吹替え版より高尚なものだという偏見を持っていたけれど、字幕を追う時間の負担がなければ、画面のさまざまなディティールにその分目を配ることができるということも、今回の映画で理解できたし、登場人物にたいする感情移入も、吹替え版の方がずっと深く味わえることも分かった。であれば、この稚拙な字幕作者につきあって、字幕版の映画を見続けることなど全然ない。私は今後、字幕版と吹替え版が同時上映される場合、もし字幕がこの戸田奈津子というひとの手によるものだったら、迷わず吹き替え版を選ぶことにしよう。字幕のいい加減な部分を改善するためにも、映画をみるひとのひとりひとりが誤訳やひどい造語にノーと言わなくちゃいけないと思う。

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02年3月4日映画「指輪物語」

「ロード・オブ・ザ・リング」を見た。噂どおりのすごい映画で、長い上映時間がほとんど気にならなかった。冒頭の先頭シーンからして、普通の映画ならクライマックスに使うぐらいの迫力があったし、建物や自然、魔術や魔物たちが、とてもリアルな映像で描かれていて、細かい部分まで手を抜いていない。これが「ミート・ザ・フィーブルズ」を撮った監督の手になるものとはとても信じられないほどだ。ずいぶん進歩したのだな。
絶賛の具体的な内容については、ここ以外にも色々なサイトで語られていることなので省略する。こういう映画を見て感動することで、次世代の映像作家がたっぷり糧を得ることができるだろうな、と思ったりもして、その思いがなんだかじーんときた。ちょっと例は違うかもしれないが、たとえば黒澤映画をみてルーカスが「スター・ウォーズ」を作ったように。名作映画は、こうやって次世代に影響を及ぼし、受け継がれていくんだろう。

残念なのは、字幕版で見てしまったことだ。今回のこの映画は字幕版と吹き替え版が同時公開されているが、その差は雲泥だという。実際字幕版で字幕を追っていて、変な日本語やら意味不明の言葉が出てきて、時々映画への没入を妨げられた。その時は「いや、それでもいい映画なんだから」と思ってはいたけれど、後になってネットで情報を集めていると、字幕の欠陥が次から次へと紹介されている。一方、吹き替え版の方は、登場人物の人間関係がとてもわかりやすく描写されていて、声優たちもかなり素晴らしい演技をしているらしい。ヘラルドの「指輪物語」公式ページの掲示板にまで、「是非吹き替え版を鑑賞してください」なんて書き込みがある。短い映画ではないので気合が要るが、吹き替え版でもう一回見に行こうと決意した。

ということで、これからご覧になる方には、やはり吹き替え版を推薦したいと思う。あの字幕作者は、「アメリカンビューティー」でも金額の桁落ち誤訳をしていたし(20000ドルのソファを2000ドルとしていた。ニュアンス台無し)、もういい加減後進に道を譲ったらいいんじゃないのかな。字幕作者の地位向上に貢献した功績は認めるけれど、もう潮時だと思う。あの人の字幕だと出たとたんがっかりしてしまうのは、もういささかうんざりだしね。

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02年1月30日映画「ゴジラ」を見る

映画のゴジラを見た。見よう見ようと思っているうちに一番館の上映が終わってしまい、がっかりしていたのだが、運良く、隣町の映画館で上映されているのを知り、何年ぶりかでその映画館に出かけていって、同時上映の「ハム太郎」と一緒に「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」を鑑賞した。
ゴジラシリーズは、最近は全然見ておらず、今回も監督が金子修介でなかったら、たぶん見なかっただろう。一部では「エメリッヒの海外版の方が、平成版のゴジラシリーズなんかより、ずっとストーリーがまともだ」なんてまで酷評されていたし、自分でも最初のころのゴジラと、あと別格としての「ゴジラ対ヘドラ」以外は、それほど興味がなかった。
だが、金子監督には、ガメラシリーズでずいぶん楽しませてもらった。あの三部作は、従来にない視点を導入しつつ、怪獣映画の伝統をちゃんと生かしたすばらしい作品だったから、そういう金子監督がゴジラを題材にしたら、どんな風に出来上がってくるのか、という期待があったのだ。実際、ネットで情報を集めていると、熱狂的な賛辞が多く見受けられた。そこでけっこう期待して見に行った。(本当に期待していたら、封切直後に見ていたはず、というのはいいっこなし、ということで・・・)
客席は子供づればかりで、大人の二人連れは、われわれだけだった。まあ、仕方ないかな。ただ、その子供たちが、ずっとコソコソしゃべり続けていたのには辟易。おかげで小さいセリフがうまく聞き取れなかった。だが、客層からして、この映画館での異分子はわれわれの方みたいな雰囲気があったため、なかなか叱りつけたり、マナーについて小一時間問い詰める、といったことができずに終わってしまった。親も親だとは思うけれど。
で、映画の感想。正直言って、ゴジラファンがいうほどいい出来かなあ、と思った。ガメラシリーズの方が私にも面白かった。いや、ゴジラもつまらなかったわけではない。迫力あったし、よく出来ていた。キングギドラは、とてもきれいだったし、モスラも動きがよかった。ストーリーも、変な新兵器はでてこなくて、リアリティを追求しているのがよいと思った。ゴジラは徹底的に狡猾な悪役になっていて、その点も潔いと思った。だが、何か物足りなかった。この程度では、ガメラシリーズ以上のものを期待していた私としては、ちょっと不満を感じないではいられなかった。 だから、これがゴジラファンの間でわりと評価されているというのがちょっと解せない。
それとも、そんなに今までのゴジラはよくなかったのだろうか。平成ゴジラを三作見ている妻に尋ねたら、
その通り
と即答された。そうですか、なるほど。というほかなかった。うーむ。

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02年1月17日月島の屋形船もんじゃ

会社の誘いで月島へ。「屋形船もんじゃ」なるものを体験した。月島から船を出して、お台場に停泊。もんじゃが食べ放題、というものだったが、考えてみればそれほどお金のかかっていない企画なのだった。移動中は火が使えない、とのことで飲み物だけ。お台場に停泊するのは一時間だけだから、いくらがんばってもそれほどは食えない。とはいえ、なかなか楽しめた。夜景がきれいだったのが、一番よかった。えさにつられて、カモメが映画「鳥」然として船の近くに退去して飛んできたりして、あきなかった。
ただ、食べ放題飲み放題とはいえ、食べ物は実質もんじゃしかないのには、ちょっと困った。また、屋形船はかなり狭かったから、もんじゃのにおいが船の中に蔓延していて、翌日まで身体にしみついた油のにおいがとれなかったのは参った。
デジカメを持っていったのだが、やはり揺れる船から夜景を撮るのは難しい。その中から二点だけ。

勝鬨橋から上流 お台場を海上から


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02年1月7日不愉快なウイルスメールの「送り手」

年末来、例のBadtransというコンピュータウイルスのせいで、我が家でも他聞にもれず、膨大なウイルスメールをいただいている。こんな弱小ウェブページを運営しているだけで、こんなに毎日毎日ウイルスが届くのは不思議だ。

このウイルスの場合、差出人のアドレスの先頭に「_」をつけるだけで送信されてくるので、送ってきた人が、わりあい簡単に特定できる。だから、最初のうちは、そのアドレスあてに「ウイルスメールが届きましたよもしかしてOutlookExpressみたいなウイルス拡散メーラーを使ってるんじゃないですかそれともインターネットエクスプローラーをパッチ当てずに使ってるんですかいずれにしても、そういう欠陥ソフトを使う時は注意した方がいいですよ」というようなことを、もっと丁寧に書いて送り返していた。

それで、最初のうちは、お詫びのメールとかも来ていたのだが、最近そういう反応も全然なくなっている。
ウイルスの処理で右往左往しており、返事どころではないのかもしれない。

だが、最初の頃は、ちゃんとおわびのメールをくれたひともいたのだから、そういう場合ばかりでもないのではないか、と思うようになった。それで、丁寧な口調は変わらないものの、そうしたお知らせのメールの内容は、だんだんと相手に「あんたも加害者だよ」と意識するよう、喚起する内容のものに変わっていった。

だが、それでもノー・リプライ。

たぶん自分が被害者だから、謝る必要などないと考えているのではないか・・・などと想像するにつれて、何だかいちいち返信していた自分がばかばかしくなってきた。

こういうひとたちは、自分も被害者であるにせよ、自分のせいで他人に迷惑をかけても、何とも思わないのだろうか。謝らないまでも、「対策しました。今後はウイルスに注意します」という知らせをくれるだけでもいいのに、それさえできないのかね。

また別の種類のウイルスがはやると、こういうひとたちは、また真っ先に感染するのだよ、きっと。そして、また同じようにあちこちにウイルスメールをばら撒いて、何とか自分のシステムが復旧すると、それで安心してすべて終わりにしてしまうのだ。自分が色んなひとに迷惑や不安を及ぼしたことを一顧だにせず。ああ、やだやだ。

というわけで、もうウイルスメールに反応するのはやめた。時間の無駄以外の何ものでもない。

ただ、このBadtransは、自分の見たウェブページに記してあるメールアドレスに勝手にウイルスを送りつける、という特徴がある。ということは、そういうメールをくれたやつらは、このページを見たことのある人かもしれない、ということだ。やだなあ。そういう無責任で自覚のないひとたちには、できればこのページを見ないでほしいなあ。



・・・すごくいやなことを言っているのは自分でも分かっている。不愉快になられた方には、ここでお詫びする。でも、このぐらい言わないと通用しないというか、自分のマナーを振り返らない輩がいるのも事実だと思う。実際、こういうウイルスが大流行しているのも、その証だろう。だからこの際、私は憎まれ役になって、ネット界の浄化・マナー向上にいささかでも貢献したいと思う(^^;

*これを読んでさっそくメールをくれた数人の方には、ここで感謝するとともに、ご不快を味わわせたことをおわびします。みんながあなたたちのように、マナーに配慮してくれればどれほどいいか、と思います。
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02年1月6日DVDその他について

正月休みは、色々とやろうと計画していたことがあったのに、どれひとつとしてできないまま、過ごしてしまった。何しろでかけたのも、年末の友人宅と、二日の初詣ぐらいで、後は近所をぶらぶらする程度。
家でも暇を持て余しているだろうからと、たまっている未見のDVDをまとめて見ようかなどとあらかじめ目していたのだけれど、結局ひとつも見られないどころか、初詣の帰りにまた数枚買ってきてしまった。

しかし、最近のDVDはいけないな、やはり。値段が安いのもいけないし、映像特典がもりだくさんなのも、いけない。たとえば90分の映画でも、映像特典が同じ時間入っていたら、両方見るのに三時間とられる。ものによっては「オーディオ・コメンタリー」と称して、映画を見ながら製作者がコメントしているのもあって、これを聞くには、同じ映画を二回見なくてはならない。四時間半。で、価格が安いから、お得だと思ってついつい、たくさん買ってしまうのだ。

最近の娯楽は、ゲームなんかもそうだけど、ユーザの時間を費やすタイプのものが多いのではないか。消費するのに時間がかかれば、それだけサービスになる、とでも思っているのだろうか。でも考えてみれば、娯楽を楽しむのは、その時間の質が問題なのであって、ただ時間の消費を強いるだけであれば、それこそ「時間の無駄」になってしまう。

DVDは、やたらと「特別版」とか出すのではなく、まず廉価版の、映像しか入っていないものを出して、その後に高い値段の特別編集版を出してくれないかな。その方が売れるとも思うし。

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01年10月21日映画「ターン」はどういうラストがいいか?

牧瀬理穂主演の日本映画「ターン」を見た。1000円ならまあいいか、という感じの内容で、せっかくの面白い設定が生かされていないように思った。特に一番気になるのはラストシーン。もともとありえない話なのだから仕方ないのだけれど、ちょっとあっけなさすぎる。
そこで、自分なりにこうすればよかったのでは、というラストシーンをいくつかあげてみる。

この映画は、27歳の銅版画作家の女性が、自動車事故にあって、そのショックで同じ時間を繰り返し生きることになってしまう、というストーリー。事故を起こした一日前に戻ってしまい、また一日が過ぎると、ターンしてしまう。ただし、その世界は彼女以外の人間や動物がいない世界。天候も同じ繰り返し。そんな中で何回も同じ一日を繰り返していた時、突然電話がかかってきて、その電話は何もなかった現実の、普通の世界からの電話だった・・・。

で、ラストには、その、本当の現実に主人公は舞い戻ることができるのだが、どうせなら、こんな風にしていたら面白かったのではないかと思う。

・ラスト近くで殺人犯に乱暴されそうになる主人公。未遂に終わるが、これが成功していて、そのショックで主人公は現実に戻る。現実世界で妊娠しており、みんな当惑する。

・何回かのターンの後、ふと我に返ると目の前にトラック。事故寸前の白日夢だった・・・。

うーん、いざ考えてみると、それほどたいしたラストが思いつかないなあ。
まあ、色々悪口をいったけれど、たとえば誰一人いない渋谷とか環八のシーンなどはきれいだったから、それを見るだけでも楽しいといえば楽しかった。千円の価値がここだけであるかどうか、というとまた話は別だけど。

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01年9月19日雑誌「ミュージックマガジン」のcocco評に怒り

雑誌「ミュージックマガジン」10月号に掲載されたCOCCOのアルバム評は、とてもひどいものだった。COCCOについて語るのはもうやめようと思っていたけれど、これはあまりにひどすぎるので、書くことにする。

COCCOという”物語”をあざといまでに補完しようとする意志。彼女が逃げ出そうとしたのは、そんな無神経な”物語”の呪縛からだったのかもしれない。花を踏みにじったのは誰か。

最後に出たCDとDVDを一緒に並べて批評している、この栗原という評者は、この記事の最後をこんな風に締めくくっている。噴飯ものだ。彼女が歌をやめた理由は、未だにはっきりしないから、いろいろなひとがいろいろな理由を推測したり仮定しているけれど、その中でも極め付けに説得力のない意見。

その前の部分にしても、CDやビデオの内容についてはまったく触れず、要するに自分がいかにCOCCOを誤解しているかを解説しているだけの文章が延々と続く。好きでもない話題の歌い手を題材にするために苦心して作り上げたのだろう、音楽業界に翻弄される悲劇のヒロイン像という観点。結局「天才神話」を批判しながら、その同じ囲いの中から抜け出せない。だいたい、自分がそういう作為的なプロジェクトや「天才神話」を生み出す担い手のひとりであることにたいする自己批判などみじんもない。ただひたすら外部から眺めているだけ。そういう姿勢もひとつの批評方法ではあろうが、そういう視点に立つのなら、まず批評対象に対するきちんとした批評を披露してからにすべきだろう。それは「音楽批評」の記事を書くライターなら、最低限の義務だ。なのにこいつは、それをしていない。できないのか。分からないのか。分からないのなら分からないと、せめて素直に表明すればいいのに、あるいは題材を別の歌い手に選べばいいのに、それもしない。それでできあがった「CD評」がこの程度か。
そもそも、これはどういう対象に向けて書いた文章なのだ。COCCOのファンは、この駄文に腹が立つだけだし、これから聞いてみようかな、というひとにとっては、何の判断基準にもなりはしない。「衝撃的だった」ミュージックステーションにふれたところで、まだ見たことのないひとたちにとっては何の意味もない。そういう彼女の衝撃も、もし本当に栗原の言うように作為性の見られるPVが収録されているようでは、今回発売されたDVDの購買動機には結びつかない。といって、このDVDの内容を批判している様子でもない。批判しているのは、DVDに入っていたたった一曲に見られる「作為性」についてだけであり、その曲がいいのか悪いのかについても語らず、残りの曲もどうなのか分からず、さらにいうと、同時発売されたCDについてはひとことも言及していない。こういう「批評」がまかり通る雑誌だったっけ、と思いながら、同じ「ALBUM PICKUP」にある他の評者の文章も全部読んでみた。

自分でも物好きだと思う。こんなことでもなければしないだろう。

その結果、評者が俎上に載せたアルバムの「音」について言及がないのは、この栗原の記事と、何かの偶然だろうか、同じ栗原という姓の方のアマリア・ロドリゲスのドキュメンタリー映画のDVD評だけだった。ただしこっち(アマリア)はドキュメンタリー映画という性格を考えれば、その時代背景の説明に重点がおかれてしまうのは仕方ないし、だいいちこれはCDではない。映像作品の映像について語るのは変でもなんでもない。
一方、COCCOについて書いている栗原は、DVDとCDの紹介をする記事で、DVDの中の曲ひとつだけについてしかふれていない。しかもその内容は前記の通り、まったく納得のいかない言及だ。

ただ言いたいことをいうだけであるなら、それは批評でも何でもなくて、感想文だ。
感想文しかかけないのなら、ライターなんぞやめちまえばいいのだ。

同じ雑誌に載っていた石井恵梨子さんの記事はとてもよかった。これは石井さんの思い入れが伝わってくるいい批評だし、ただ頭からべた褒めしているわけではなくて、ちゃんとなぜ好きなのかを、読者に語りかけてくる。おかげて少しホッとした。

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01年8月27日映画「AI」

「AI」を見た。賛否両論の映画なので、最初に感想を一言でいってしまうと、私は楽しめたくちで、傑作だと思っている。映画の内容について、これほど後で色々と考えさせられた映画も久しぶりな気がする。

この映画は、舞台が近未来、人口調節のため、出産が許可制になっている時代の話だ。

子供が難病で冷凍保存されている両親のもとに、子供のロボット、AIがやってくる。この時代、AIはいろいろな場面で使われていたが、子供型のものは初めてで、しかも親にたいして愛を感じることができるようになっている、という。ただし、そのための設定(インプリント、つまり刷り込み)は、親が自分の手で決意して行わなければならない。このインプリントは不可逆で、いったんおこなうと、もう元に戻すことはできない。母親が意を決してこの刷り込みをおこなうと、とたんにこのAI、デヴィッドは、彼女に対して愛情を示すようになる。それが母親にもまんざらではなかったのだが、ある日、冷凍中の、実の子供の治療法が見つかった、との連絡が入る。
子供はやがて家に帰ってきて、両親とこの子供、それにデヴィッドの四人の生活が始まるのだが、やはり色々な軋轢があって、母親はこのAIを廃棄することを決意、引き取り先の工場へと、デヴィッドをだまして車に乗せて連れて行こうとする。
だが施設の目の前で母親は同情からか、車を止め、子供を置き去りにして捨てていってしまう。悲しみにくれるデヴィッドは、以前読んでもらった童話「ピノキオ」のことを思い出す。
「ぼくが人間になれれば、ママは僕を受け入れてくれるかもしれない」。そんな一縷の望みを抱いて、彼は自分を人間にしてくれる妖精、ブルー・フェアリーを探す旅に出る。

これがこの映画の大筋だ。そのたびの間に色々な出来事やAIに出会い、最後は数千年先の、人類が滅びた時代が舞台となる。主演の子役の演技もあって、泣かせどころは随所に見られる。特に母親に捨てられる場面とか、やっとみつけたブルー・フェアリーの前でものすごく長い時間祈り続けるところ、それからラストシーンとか、かなり涙腺を刺激されると思う。

ただ、巷での肯定派の意見に見られるように、感動の嵐、というような内容ではない。全体が三部作になっているこの映画の最初の部分やラストシーンで感動して泣く、というのも、まあ分からないではないが、それだけのものではないと思う、多分。
というか、ここで泣かれるのは、スピルバーグはともかく、たぶんキューブリックの本意ではない。

泣く泣かないについては、この主人公に感情移入できるかどうかが分かれ目で、ここで感情移入できるひとは、わんわん泣いたりするのだろう。で、できないと「愚作」「金返せ」というブーイング。実に単純な踏絵のように見える。

だが、この映画で問われているのは、

ヒューマニズムを超えた愛は存在しうるか

ということだと私は思っている。そして、監督の導き出した答えは、かなり悲観的なものだ。

たとえばフレッシュ・フェア。捨てられたAIを拾ってきて集め、観客の前で次々と破壊してみせる、というショー(ここでの破壊方法がまた残酷)で、つかまったデヴィッドが標的として登場する。的を狙って石を投げると、上においてある酸の入ったバケツから液が落ちてきて、AIの身体を焼く、という仕組み。フェアの主催者は、観客を煽って石を投げさせようとする。
「外見に惑わされてはいけない」などといって。
だが主催者の思惑通りにはいかず、観客は、どこからみても人間の子供そっくりなデヴィッドの外見に反応して、当の主催者に石を投げつける。
一見感動的なシーンだが、これもやはり、人間の身勝手な愛情を表現しているのだ。結局は救われたデヴィッドたちだが、最初に立ち上がった男がもし彼らに石を投げていたら、まったく別の結果が出ただろう。この選択は単なる偶然であって、男がAIに愛を感じていたからではない。
また、逆に万一本当に同情していたのだとしても、デヴィッドの前にむごたらしく破壊されていったAIたちのことを考えたとたん、シニカルな気分に取り付かれてしまう。なぜって、要するに外見が子供だから、たまたま同情した、ということで、結局はペットを愛護するのと全然変わらないのだ。反抗的だったり、外見が醜かったら、ためらわず八つ裂きにしたり、酸を浴びせたりする、ということなのだから。
(スピルバーグが、このシーンにユダヤ人虐殺などのマイノリティ差別を重ね合わせているのだとすると、ものすごく冷酷なシーン、ということになる。)

ラストシーンでも、結局愛の対象は滅び、愛するものだけが生き延びている。しかもそれは人間ではなく、ひとの作ったAIだ。しかも皮肉なことに、その愛を完結させるために愛の対象をわずかな間だけ再生してくれるのも、人ではない。

私はこの映画をみて、ふとジョン・ダンの詩を思い出した。映画「誰がために鐘は鳴る」のメインテーマになっている有名な詩だから、知っているひとも多いだろう。

誰の死なれど ひとの死に 我が胸痛む われもまたひとにありせば  それゆえに 問うことなかれ 誰がために鐘は鳴るやと 汝がために 鐘は鳴るなり

話は飛ぶが、以前、ポップ・オカルティズムに凝っていたころ、この詩の持つ意味の冷徹さに震えたことがあった。ポップオカルトの第一人者と目されていたロバート・アントン・ウィルソンは、そのカルト的著作「宇宙の引き金」の中で、娘の痛ましい死について、一章を割いていた。その章の冒頭に、この詩が書かれていたのだが、人間を超える、というこの著作の主題からして、ウイルソンが娘の死を悲しむ気持ちさえも超越すべき因襲だと考えていることが分かり、衝撃を覚えたものだった。

正直いって、この映画「AI」にも、この言葉が当てはまるような気がする。ただ、ウイルソンの本で読んだ時ほどネガティヴな気持ちで受け止めてはいない。静かなあきらめのような、感覚。はるか彼方に壮麗な宮殿があって、そこはとてもすばらしいところだと分かっているけれど、決してたどり着けないと自覚している、そんな気持ち。

人の死に張り裂ける胸の痛みを、鳴り響く鐘の音は決して癒してはくれない。むしろ、できれば聞きたくない。けれどその鐘を止めることはできない。

人が人への、人だけのための愛から脱却するのは不可能であり、できることといったら、せいぜい「愛はこういうものだったよ」と、後世、別の生き物に伝えるためのモニュメントを作ることぐらい。それすらも、人という生き物が存在しなくなってはじめてなし得ることなのだ、と。

考えれば考えるほど、人や、その愛にたいする絶望や諦観が、じわじわと胸に迫ってくるかのようだ。それは鳴り響く鐘のように、ひとの知覚しうる悲しみさえ置き去りにした、超然とした世界の物語だ。だからこそ「賛否両論」となってひとびとに受け止められるのだろう。あるものは鐘の音が悲しく感動的だといい、またあるものはいつも耳にする音色と違うと文句を言う。みんなが一様に「おもしろかった」あるいは「つまらなかった」と語るのが映画らしい映画だとすれば、これほど異質な作品もないだろうと思う。

・・・

最後にひとつだけ不満を言うなら、作品のとはかかわりのない部分であるが、やはり相変わらずの翻訳字幕だ。「AI」は、かなり精巧に作られていて、細かい部分で色々と伏線や説明があるため、もう少し字幕には心を配ってほしかったところ。
space timeを「宇宙時間」とするはあきらかに、その、あれだし、
Flesh Fairが「ジャンク・フェア」では、何かニュアンスが違いすぎると思う。
inprintを「インプット」というのも、安易にすぎるのでは・・・。

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01年8月7日十数年ぶりに見た「MISHIMA」

DVDでようやく発売された映画「MISHIMA」を見た。この映画は、遺族の反対によって、日本では正式に公開されていない映画だ。だが、監督ポール・シュレーダー、プロデューサーにコッポラとルーカスが参加した大作であり、俳優も緒方拳や沢田研二、永島敏行とか、カットされたシーン(後述)には、笠智衆まで参加している。今回買ったDVDも、残念ながらリージョン1であり、国内のプレイヤーでは見られないものになっているのが、とても惜しい。
せりふやナレーションは全部日本語が用意されているから、他の輸入DVDのように、慣れない英語字幕を追って苦労することもなく、純粋な日本映画として楽しむことができた。
アメリカ製作の映画に登場する日本の描写は、最近では大愚作の「パールハーバー」などにもみられるように、日本人からみると、とても奇妙な描写をしていることが多く、時代考証などがなおざりにされていることがしばしばだが、この「MISHIMA」については、自然な描写になっていたし、俳優もほとんどが日本人を起用しているため(変な映画だと日系人や中国人を使っているため、台詞回しが奇妙になってしまうことが多い)、あまり気になる部分がなかった。
この映画をみるのは十数年ぶりで、その時には「ずいぶん奇妙な映画だなあ」と思ったものだが、それは劇中劇の部分で使われている金閣寺のセットなど、やたらけばけばしいデザインが気に障ったからだったのだろう。だが、今見ると、そういう部分がそれほど気にならなくなっている。むしろ、ずっとまともな映画として鑑賞できた。当時は先入観で見ていたからだろうか。
この映画は三島由紀夫の生い立ちと作品、そして市谷で演説した後に自決するまでを描いた、いわば三島の伝記のような映画になっていて、右翼が神格化している彼とはまた別の、普通の人間として、弱い部分やコンプレックスを抱えた姿の三島由紀夫が描かれている。まあ、ここで描写されているのがすべて真実だとは思わないけれど、こういうとらえ方があってもおもしろいと思う。主役の緒方拳も熱演しているし、日本で封印されているのは惜しい。何より、このDVDにはかつて見たビデオとは違って、映像特典がついていて、削除されたシーンやコメンタリーが楽しめる。笠智衆は、本編には登場せず、この削除シーンにだけ出ているのだが、こういう俳優を、こんなちょい役で使っていたなんて知らなかった。コメンタリーも、なかなか興味深いことを話しているようだが、英語の聞き取りではなかなか分からない。日本版が出れば字幕をつけてくれるだろうに、非常に残念だ。


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01年8月1日早稲田大学の騒動

昨日の夜は、ネットに釘付けだった。早稲田の学生会館が、新会館設立にともない閉鎖されるのに抗議する学生たちが、退去期限の7月31日夜から第一学生会館に立てこもり、大学側や警察と対峙する、という騒動があったためだ。
早稲田を卒業してから随分たつし、その間に大学の様子も様変わりしている様子だったから、今の学生がこの事件をどういう風に考えているのかは分からないが、それでも早稲田祭もしばらく開かれていなかったなど、思想色の強い活動は、傍で見ている限りはなりを潜めているように思っていたから、こういう騒動があったのは意外で、またうれしい気持ちになった。
学生たちの言い分からうかがうに、新しい学生会館は、随分管理体制が厳しいもののようだ。サークル全員の名簿を提出すると、各個人に入退出に必要なIDカードが発行される。この記録は六ヶ月間大学に保管され、だれがいつ、どんな時に会館を利用したのかがわかるようになっているという。また、随所にセキュリティのため、と称して監視カメラが設置されていたり、サークルの部室には外からいつでも様子がうかがえるようなのぞき窓がついていたりなど、至れり尽せりという感じだ(^^;
もちろん、こういうのがいやなら会館を使用しなければいいのだけれど、この新会館の完成と同時に、今までの学生会館に入りきれなかったサークルなどが使用していた各号館のラウンジの使用も制限されるという。何でもサークルと勉強の場は分離するべきだ、というのが大学側の言い分であり、そのためラウンジをサークル活動で長時間占拠するのは好ましくない、ということらしい。
だが、それって大学の公認しているサークル以外は認めない、ということだ。しかも、その公認サークルには上記のような強い管理体制がしかれることになる、となれば、不満が出てくるのも当然だろう。
さらにいうなら、こういう方針を、当の学生たちに何ら相談することなく、強引に推し進めていく、というやり方は、あまり歓迎できるものではない。もうOBである以上、どういう結末になろうと文句を言える立場ではないが、できれば大学側も、従来のサークルも生かして、柔軟に学生たちと協調する姿勢をみせてほしいものだ。早稲田も経営が苦しいのは分かるし、セクトと決別したいのも分かるけれど、こういう騒動は決して世間に良い印象を与えない。イメージダウンになると、自分で自分の首をしめることにもなるし、「文句を言える立場にない」私たちOBも、たとえば寄付金の拠出に後ろ向きになってしまう、という形で反対の意思を表明することはできる。いずれにしても機動隊を入れるとか、警察を使った物騒な行動は謹んでもらいたいなあ。

参考サイト
わせだじゃあなる掲示板
早稲田大学問題(期間限定)
早大生おしゃべり掲示板(8/1現在停止中)

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01年6月6日CMの音楽について

スカイパーフェクTVで、セリエAの試合を見ていると、おんなじパターンのCMが延々と流されているのにいらいらしてくることがある。だいたい有料のCSでなぜCMを見せられるのかもよく分からないけれど、放映権料が高すぎて、視聴料金だけではまかなえないのなら、もっとその料金をあげてもいいと思う。
それも無理なら、CMは我慢するから、好きなチームの試合だけ選べるとか、もっと選択の幅を広げてくれればいいのだが。結局ローマ中心の番組になっているから、他のチームのファンには不満も多いんではないかな。
少なくとも、私は不満だ。もっとフィオレンティーナの試合をライブでやってほしい。録画放送だと、何かスポーツ番組としては物足りないのだ。
話を戻すが、そのセリエAでメインスポンサーになっている二社のCMが、どちらもつまんなくて、しかも全然テイストが変わらないものを続けているせいで、いつもうんざりさせられてしまう。そのうちの一社、アサヒビールのCMは(最近ニッカと提携したのにはびっくり。とても残念。ニッカ好きだったのに)、いつも現場の外にいて、マネジメントとか取材とか、派手な職業に携わっているやつらが一仕事終えてビールを飲む、というパターン。アサヒビールは、自社で出すまではまがい物扱いしていた発泡酒を自分のところで出す時は手のひらを返したような宣伝で売り出したり、「富士山」というビールでは水質にかんする疑惑があったり、海洋深層水の調査では高知県にひどい仕打ちをしたりなど、会社そのものが嫌いだけど、それに輪をかけてつまらないCMにはうんざりだ。あれだけ売れているメインの商品の宣伝なのだから、予算はたっぷりあるだろうに、どうしていつも同じようなつまらないCMを作り続けるんだろうか。不思議だ。キリンからシェア一位の座を奪った時は、それなりに革新的な会社だったのだろうが、いまやビール会社の中で一番保守的な会社になってしまっている。
もう一方のスカパーセリエA放送のメインスポンサーも、「ステップワゴン」のCMの曲はいいかげんに変えたらいいんじゃないのかな。ユッスーもビートルズも嫌いじゃないが、あの曲は、もう使いすぎだよ。
曲といえば、CMの選曲はセンスが悪い会社が多い。安心とか清潔・保証を売りにする家庭用品や保険のCMなんかが、似たような曲調のメロディを選択してしまうのは、分からないでもない(それでも飽きるけれどね)が、先進性とか斬新さを売りにしているはずのソニーのVAIOのCMで、いまだにTレックスが使用されているのも不可解だ。この曲を聴いた世代がパソコンに出費できるような年齢になっているのを考えてのことかもしれないが、それにしてもこの曲は使われすぎ。会社としてはあまり好きではないが、その点だけはアップルが使ったジミヘンの方がずっとうまいと思う。 こういうノスタルジーに訴える曲の使い方をしているCMで最近感心したのはキリンのKB。ローリングストーンズの曲「ジャンピンジャックフラッシュ」のイントロだけを効果的に使っている。知恵を絞ればこういう使い方もできるんだから、他の会社でももっと色んな新しいことを試みてほしいものだ。


*この後、キングクリムゾンの「21世紀の精神異常者」を使っているCMがあった。びっくりするとともに感心した。
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01年6月3日ヤクルト中日戦

千葉マリンスタジアムに、ヤクルト中日戦を見にいった。とても暑い日で、六月初めとは思えないほどだったが、強い海風がスタジアムの中にも入ってくるため、それほどむしてはいなかった。内野S席の八列目、かなりいい席(それでも価格は4000円)で、試合の流れがよく見られた。 ここは外野が日陰になる、という変わったつくりになっている。季節が変わり、日の向きが多少変わると、これも少しは変化するだろうが、それにしても、やはり外野席の方が涼しそう。変わってるなあ、と思った。 ビールは紙コップが小さいものの、600円なので、安くていいと思う。エビスも同じ値段だし。あと、バドワイザーが売ってるのも初めて見た。 一番快適だったのは、今までいったどこよりも球がよく見えたことだ。デイゲームだからかもしれないけれど、それにしても、ホームランやファウルなど、東京ドームでは白い天井にかぶさり視認しづらい球の行方がくっきり捉えられた。これはとてもよい。また、売店も充実していた。セパ全球団の商品が売っているのはとてもめずらしいと思う。ドームでも神宮でも、これほどの品揃えはなかった。 それから、球場の周りに騒音を気にしなくてはならない民家などが全然ないため、試合が終わってからも応援団は外で騒いでいたが、こういうことができるのも、千葉マリンならではだろう。夜は人気がなくてとてもさびしい幕張だけど、こういう利点もあったのね。 千葉マリンは初めて来たけれど、なかなかいい球場だと思う。これで、交通の便がよければいうことないんだけれど。

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01年5月28日映画「腹腹時計」

渡辺文樹の映画「腹腹時計」を見た。水天宮にある日本橋劇場という場所で、一日、一回だけの上映。このひとの作品は、大手で配給されておらず、地方をゲリラ的に巡回しているため、運が良くないとみる機会にもなかなか恵まれない。今回、月曜日上映のこの映画をたまたま金曜日に街頭の看板で発見できたから、ラッキーだったのだろう。 会場の前には、上映30分前から右翼がやってきていて、メガホンで「人殺しの映画」だの「こういう映画を見るひとたちは左翼で、虫も殺さないような顔をして人殺しをするやつらです」、「地域住民の安全が脅かされています」だのと、がなっており、正直びびった。私服警官らしきひとたちもちらほらいたし、会場の前で待ち合わせていたので、 待ち合わせの相手がくるまで、かなり居心地が悪かった。 でも、そういうアジ演説の前を、ごく普通のひとたちが、構わず会場の中へと次々に入っていく。これは度胸がある、というよりは、無関心なんだろうな、と後で思った。アジっている右翼にしても、中に入っていく人たちをいちいち責めたり脅したりするような文句は口にしてなかったし。それに、上映時間が近づくと、勝手に撤収していたようだから、あのメガホンの演説も、自己満足としてしか機能しなかったような気もした。
待ち合わせの相手と一緒に会場に入ると、けっこう客が入っていて意外だった。ネットでの話だと、上映会にはせいぜい四、五人くらいしかいなかった、というものもあったから。上映時間には200人くらい入っていたみたいだ。自主上映の映画としては、まずまずの入りじゃないだろうか。 映画の筋は、昭和天皇の暗殺を企てる、という過激な内容になっているが、今の時代にこういう映画に触発されて同じようなテロを起こすような人がいるとは思えないし、なにより、そういう動機を促すだけの魅力には欠けている。だいいち左翼テロをかっこいいものとして描くことはしていない。いや、そうできるほどの説得力が映像にも役者にもないのだ。予算の関係もあるのだろうが、いかにも自主上映作品という感じで、一般上映に足るような力量をもった作品ではなく、映画全編に流れる安っぽさのせいで、監督の思惑はどうあれ、パロディというかギャグ映画になってしまっている感がある。 エキストラふんする警官隊がいかにもなモデルガンを抱えて街中を走るシーンなどは、劇場でもみんなの笑いを誘っていたし、まさに予算の都合なのだろうけれど、この映画の時代にはなかったはずのものがいくつも登場してきて(セブンイレブン・カラオケの看板)、真剣な没入を妨げる。シナリオも、推敲をあんまりしていないのだろうが、それにしても国鉄の存在していたこの時代背景に、「JR」というせりふだけは何とかしてもよかったのでは。
総じて、題材が極めて珍しい作品であるから、その点では斬新さを楽しめたが、二回以上の鑑賞に耐える作品ではない。いっぺん見れば十分だろう。 最後に、話題が話題だけに、私の立場をはっきりさせておく。こういうテロは全然支持しないけど、こういう題材の映画が存在するのを容認する程度の度量が、今の日本にもあっていいと思う。言論の自由っていうと、ありきたりの言葉になってしまうけど。

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01年5月13日ダグラス・アダムス追悼

「銀河ヒッチハイクガイド」の著者であるダクラス・アダムスが死んだそうだ。この本も絶版になってから久しいから(なぜ「新潮文庫の100冊」に入ってないのかな)、彼がどういうひとか知っている日本人も、きっと少なくなってしまっている今日この頃だろう。
とはいうものの、かくいう私も、この本を絶版後に大変な苦労をして入手して、それで面白く読んだのだが、それも随分昔のことになってしまう。この訃報を毎日新聞で読んでから、書棚から取り出してはみたものの、ぱらぱらめくっていだけではその内容や面白さについて、ここで記してみんなに伝えることができない。
ああ、どうしよう。どうしよう。というときに、たった一言が思い浮かんで、私の心も落ち着いていく。
その言葉こそが、このヒッチハイクガイド5部作(ただし、日本語で翻訳されていたのは三冊だけ)を言いあらわしている、言葉と同じものだった。

Don't Panic(慌てるな)

要するに、悲惨な状況や絶対の窮地、絶望的な場面で思い浮かべ、頭の中で唱えるべき言葉。そして、それを分かりやすく説明したのがアダムスの「ヒッチハイクガイド」だったんじゃないかと思う。こういう本が長らく絶版になっているというのはとても残念なことで、彼の死で、せめて今までの著作が復刊になればいいと思う。それから、「たくさんお魚ありがとう」も正式に翻訳を出してくれるとうれしいんだけどなあ。


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01年4月23日Coccoについて

テレビの「ミュージックステーション」で彼女の最後のステージを見た。圧倒的だった。感動した、とか泣いた、という感想が多いのも頷ける。この日の「ミュージックステーション」をたまたまでも見ることができたひとは幸せだと思う。こういう歌い手はめったに見られないし、こういうライブは、もっともっと体験する機会が少ないはずだ。

もともとCoccoなんて、名前しか知らなかったし、あまり興味はなかったのだが、先日、たまたま入手した「ポロメリア」を何回か聴いているうちに、じわじわと良さが伝わってきて、そこで歌手をやめるという情報が伝わってきたのも手伝って「サングローズ」を買ってきた。名曲ぞろいの、すごくいいアルバムだった。今まで聞かなかったのを少し後悔した。
「サングローズ」は、その中でうたわれているうたのほとんど全部が、大切な何かに対する思いの吐露、という感じがする。その何かは恋人であり、沖縄であり、それ以外の何かでもあって、単一のものではないようにも思える。

実はこのひとの曲からは、その一番有名なアルバム「クムイウタ」というタイトルから意識して避けていた。てっきり沖縄を売り物にする歌手のひとりだろう、と考えていたからだ。実は私の父は沖縄出身で、以前はその姓と同じ名前の小島があったぐらい、それなりに有名な家の出だったらしい。(もっとも今は無人島になってるし、父の家系の人たちとも、今はすっかり音信不通の状態で、今はどうなっているのやら見当がつかない)
だから、沖縄については、たぶんちょっとだけ他の人たちとはとらえ方が違う。もっとも復帰前、子供のころに数回訪れたり、その後は観光で行ったぐらいだから、偉そうに語る資格は全然ないのだけれど、それでも安易に沖縄を売り物にする商売は嫌いだ。何回かそういう音楽を聴いて失望したこともあったから、この「クムイウタ」も、一時期はやった民俗音楽の流れを汲んだ、新たな商売の種だと思って目をそむけていた。

だが、このひとの曲はそんな音では全然なかった。このアルバムはまだ全曲聞いていないけれど、たとえば「強く儚いものたち」は、ただのラブソングではなくて、色々な深読みもできる、謎の多い名曲だ。こういう曲と詩を作り出せるのは、よほどの才能がなくては出来ない。沖縄にすがった商売本位の曲を作るひとではないなと思った。

雑誌「SWITCH」では特別号を出して、彼女が活動休止にいたった原因について、インタビューを掲載している。インタビューというよりは、紀行といった方がいいかもしれない。
「ミュージックステーション」で初めて彼女の話しぶりを見たひとなら、この雑誌でこれほど理路整然と自分の考えを語っている姿に意外な感じを持つかも知れない。深く、素直に色々なことを考えているひとだなあ、と思った。特に、ものごとを見る際の構えのなさが素敵だと思った。そういう力、あるいは意欲は、子供のころには多くの人がもっているが、それを成人してからも保持し続けるのは難しい。そういう意味では彼女の存在は稀有だといえるし、そこが時には「純真」と言われたり「幼稚」だと解釈されたりするんだろう。たとえばじぶんを「あっちゃん」と読んでみたりすることや、「SWITCH」に見られる、情緒的な儀式などが、そういう印象を抱かせる。
だがこれは、彼女のシャーマニックな性格によるところも大きい。沖縄の自然に囲まれて、きっと幸福な子供時代を過ごしてきたのだろうが、それ以上に本質的に「巫女」のような素質があったのではないかと思う。加えて詩と音の才能。これがあるから、あれほどひとのこころを波立たせるような曲を作れるんだろう。

そんな巫女のインタビューは、ひとつひとつの語りを読んでいる限りは説得力があって、それなりに納得できるのだが、「なぜ歌をやめるのか?」という核心については、残念ながら私では理解できない。というか納得できない。ただ歌いたいだけなのに、それに必ず付き添ってくる「大きな波」が、許容できなくなってしまった、ということなのだろうか。「ミュージックステーション」では、司会のタモリも「また歌いたくなったら歌えばいいよ」と言っていたが、本当に、そう言いたくなってしまう。
彼女が歌をやめた理由のひとつには、たぶんインターネットの存在もあるんだろう。

あっちゃんがどんなにインターネット嫌いだって言っても、あっちゃんを好きだという人たちがなぜかインターネットをするという事実。インターネットをこの世から消せるかって言ったら消せないわけよ。それでどうするかっていうと、あっちゃんが消えるしかないわけ。(雑誌「SWITCH」より)

沖縄にモノレールは要らない、という発言もそうだけど、こういうこだわりはなかなか他人には受け入れられない。私もCoccoは好きだが、だからといってネットで遊ぶをやめたりはしないだろう。だけど、こういうこだわりは決して嫌いではないし、敬意に値すると思うので、これ以降、彼女について自分のウェブページで書くことはしないつもり。(もっともこういうことをネットで書くこと自体が彼女にとっては不本意なのだろうが、別に彼女のためではなく、自分のために書いているわけで)
自分でも、「偏屈なやつだ」と思われるのがいやだからあまり人前で言わなかった「電車内で携帯電話(含むiMode)を使うやつは大嫌いだ」という主張を、もっともっと口にしてもいいんだ、と思うようになったし、自分の足で実際に動くことの大切さについては、学ぶところが大きかった。

あれだけの才能をもったひとがこのまま消えてしまうとは思えないし、大きな波に飲み込まれない、強い確信の音を、いつか彼女は見つけ出すに違いない。きっといつか復活してくれると思うのだが、そうなることをあくまでも拒否して、彼女が本当に自ら消えてしまうことを望んだりしないだろうか、それがかなり心配だ。それぐらいなら、クレープ屋でも絵本作家でも沖縄人でもいいから、とにかく生き残っていてほしい、と願わずにいられない。


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01年4月13日最近のネット上の論争ふたつ

マックのサイトでトラブル。ことのはじめは、とあるマックユーザの個人ウェブサイト。そこにOS XのPBに入れたソフトのせいで起きた不調について、そのソフトメーカーに抗議する内容の書きこみがあったのだが、それにたいして、「使用許諾をちゃんと読め。抗議する筋合いはないだろう」と、やはり自分のウェブページの日記で反論したひとがいて、その言葉遣いがあちこちで問題になって、2ch系の掲示板でもその話題が登場するようになった。

この話が掲示板に飛び火したのは、後者がマック雑誌のライターをしており、そういう立場にある人間が個人のユーザにたいして下品な罵倒(具体的には、使用許諾の説明をする際に、他人の言葉として取り上げた「たとえ」が非常識である点、など)をするのはいかがなものか、という反発をよんだからのようだ。

この騒動は、たぶん件のマック雑誌の編集部でも知るところとなったのだろう。かのライターは、突然、ウェブページのコンテンツを全部消してしまったため、すでに終息しており、今からではもう確認できない(もっとも、googleのキャッシュには一部残っている様子。問題の発端部分の2月の日記が「関口 マック」というキーワードで探せる)。

また、それとは別の話。マックとは関係ない話だけど、やはりその手の掲示板で自分のウェブページのアドレスをリンクされた本人が、「無断リンクはやめろ」と掲示板に書きこんできて、どうしても自分の意見が聞き入れられないと知ると、キレて理解しがたい発言に走る、というのもあった。この後、この人は自分を擁護する発言を、第三者を偽って書きこんだり、IPで同一人物だとばれると、同じパソコンを使っているだけの別人だとうそぶいたり、果ては知人のヤクザという設定の人格を登場させて、恫喝的な発言を繰り返した。 こういう流れになった原因の多くは、彼個人の性格によるものだろうけれど、ことの発端についてだけ言うと、こうした事件は、先日ここでも書いた「国境なき医師団」などと同様に、「無断リンクは禁止」という方針がまかり通ると考えているひとたちが、ネット界の常識と対立した結果起こったものだ。

つくづく、よく分からないのは、ハイパーリンクの恩恵を受けている一方で、情報の流れを制御したいと考えるひとが相変わらず現れつづけていることだ。個人のページを作っている人たちが自分のページとリンクを張りたい時、事前ないし事後にお願いなり報告をする、というのは礼儀というかマナーとして理解できなくもない。が、それが強制的な禁止命令として提示されるのをみると、何か勘違いしているのではないか、と考えるほかない。そのあたりの理解がネットではどのように判断されているのか、今回の事件で私もずいぶん勉強になった。特に下記にあげる著作権情報センターのサイトは参考になった。

・・・・・・・

最近掲示板で書かれて騒ぎがでかくなり、後味の悪い終わり方をするトラブルが多いみたいだ。後味が悪い、というのは、なんだか解決したのか、しなかったのか、よく分からないような結末ということ。だから、ここに書いたふたつの事件も、本当はまだ終わっていないのかもしれない。

参考サイト
マルチメディアと著作権(社団法人著作権情報センターのリンクにかんする見解)

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01年4月10日時計のスクリーンセイバー

ロレックスとオメガとタグホイヤーのサイトには、時計のスクリーンセイバーがある。ちゃんと時間を表示しつづけるという、変わっていて役に立つスクリーンセイバーだ。オメガとタグホイヤーは日付までちゃんと動いているようで、感心。 セイコーやシチズン、カシオのサイトには、同様のソフトがない。日本のサイトだけでなく、アメリカのサイトも確認したのだが、なかった。購買には直接結びつかないサービスだからやってないのかもしれない。

参考サイト
ROLEXのスクリーンセイバー
OMEGAのスクリーンセイバー
TAGHEUERのスクリーンセイバー

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01年4月01日映画「ハンニバル」

昨夜、先行レイトショーで映画「ハンニバル」を見た。まだ公開もされていないので、内容にふれることをこまかく書くことはできないが、面白くて退屈しなかった。特に後半は展開が速くて、飽きさせない。
中盤のフィレンツェのシーンは、昨年の旅行が思い出されて楽しめた。全部行った場所だったし。パッツイが登場するシーンでは、ふだんあんなに人が行き来している広場で、よく撮れたなと思うほど閑散としていた。
結末は、個人的には原作の方が好きだが、ラストで機内の子供とのやり取りをもってきて、それを原作とは全然違う感じに仕上げてあるのは気に入った。あれは悪趣味かも知れないが、レクター博士の性格がよく出ていたと思う。

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01年3月26日「国境なき医師団」の署名活動

先日3/24、毎日新聞の記事に、国境なき医師団がネットで行っている署名活動の紹介が載っていた。その署名とは、エイズに効く薬を巡って、各国の製薬会社が南アメリカに訴訟を起こしていて、その訴訟をやめさせるための活動だった。
エイズ治療薬は高価な場合が多く、貧困層ではそうした薬品が買えずに死んでしまう場合が少なくない。そこで、そうした薬を違法にコピーした薬が流通している。これが正規品の一割程度の価格であり、そうした薬の流通が自分たちの経営を脅かしている、というのが製薬会社の言い分らしい。

合法・違法という観点からすれば、彼らの言い分はまっとうなのだが、現実に薬が買えずに死んでいくひとたちがいて、三年間で40万人のひとが、犠牲になっている、というのが国境なき医師団の意見で、そのため、製薬会社の訴訟を阻止すべく、署名活動をネットで行っている、という次第。私も主旨に賛同したので、さっそく署名させてもらったが、とても残念なのは、この国境なき医師団の日本語版ウェブページは無許可リンクを禁止している、という点。

こうした活動をしているということを本当に広く伝えたいのなら、むしろリンクフリーと宣言した方が理にかなっている。たとえば私のように、この主旨に賛同して、みんなにこうした署名活動があるのだ、と知らせて広めたいと思っても、リンク禁止では、みんなに伝えるすべが著しく損なわれるし、だいいち意欲も減退する。
リンクの禁止自体無意味だから、ここで勝手にリンクしてしまってもいいんだけど、とりあえずアドレスを明記するにとどめておく。

http://www.japan.msf.org/

しかし本当に残念だなあ。この「リンク禁止」のひとことだけで、国境なき医師団のくせにその組織には国境が厳然として存在するのがわかって、興ざめだ。

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01年3月1日「六番目の小夜子」

時々本屋で探していた恩田陸「六番目の小夜子」(新潮社)をやっと見つけて買った。文庫版は復刊で出たらしい。どうりで全然見つからないわけだ。
ずっと探していたのは、ネットでの「面白い」という情報からだった。実際読んでみて、やや結末に尻すぼみな感じが残ったが、それもふくめて面白かった。
高校で昔からずっと伝わっている慣わしで、三年に一度「小夜子」が選ばれ、誰にも気づかれないようにしてある責務を果たすことになっている。ちょうどその年に、本来の「小夜子」とは別に、同じ名前(字は違うが)の少女が転校してきて、その娘もどうやらこのしきたりに何か関係があるらしい、ということが分かってくる。
それから、「小夜子」を巡って一年の間に色々と不思議な事件が起きる。登場人物はみな三年生で、その高校生活最後の一年間を彩るいくつかの行事とともに、「小夜子」にまつわる奇妙な出来事がつづられていく。
高校時代ははるか昔に過ぎ去ってしまった私ではあるが、このジュブナイル小説(多分そうだと思うのだが)には楽しませてもらった。私の通った都立高校は、改築してしまって今はもう元の面影はないのだが、それでも当時の色々な想い出が、この本を読んでいる間に次々と思い出されてきて、とてもなつかしい気持ちになった。最初に、結末がしりすぼみだけど、そこも含めて面白い、と書いたが、高校生活って、だいたいそういうものなんだと思う。
何か自分の中ではまだ終わっていないうちに、三月の卒業式という行事でいきなり追い出されてしまうような、そんな印象があって。それでも四月から新しい生活が始まり、その中でやがてそんな残念も忘れてしまうのだが、そんな気分が鮮やかに思い出されてきたようだ。
まあ完璧な小説ではないのかもしれないが、私は楽しんで読めた。
それにしても、こういう話も本来なら読書日記のページで書きたいのだが、最近の本が高いせいで、まじめに感想を書こうという気分になれない。ここに書いている文には気が楽だし、本当はそれでいいのだとも思うのだが。

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2001年2月25日スピーカーを買う

昨日、ヤマハのスピーカーシステムを買ってきて、DVDに接続した。やはり5.1チャンネルは音の迫力があっていい。今までテレビにそのままつないで見ていた映画が別の作品のようで、すばらしい。このTSS-1は、ヤマハのシネマステーションシリーズの一番安いタイプだが、安くてもちゃんとDTSに対応しており、スピーカーがとてもコンパクトだという特徴もある。
購入に踏み切ったのは、このDTS対応とその小ささが決めてになり、近くのコジマ電気で買って、即日持ち帰りした。希望小売価格35000円のところ、店頭で24500円。
こうなってくるとDTSのDVDソフトをそろえたくなってきたが、国内版だと、この音声モードに対応しているソフトが少なくて、気軽に買えないのはちょっと残念だ。

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2001年2月24日「賛否両論」という言葉のわな

よく「賛否両論」とか「議論を呼びそう」だと称される映画や音楽について、私はこれまでその言葉どおりの意味として受け取ってきたし、使ってもきた。
だが、それが商品について使われる時、否定的な意味合いが強いのを、何とかカバーしようとして使われるのが普通だ、ということを理解した。
映画なんかの場合、配給会社や製作側は、「名作」だと言い張るのが当たり前だから、こういう「賛否両論」なんて言い方が使われるのは、それを宣伝するひとたちからだ。それも、新聞の映画広告などといったまっとうな広告ではなく、「映画評」などと銘打った記事にそういう表現が見られる。この手の記事が「批評」といいながら、実は映画の宣伝の機能しか果たしていない、ということはよくあるようだ。

たとえば試写会にただで呼んでもらっている立場の人が、見た映画を取り上げる時に、「最低の駄作」と記事に書くのはかなり勇気がいることだろう。もう試写会に呼んでもらえなくなるかも知れないし、資料や情報を提供してもらえなくなるかも知れない。

そういう時、それでも「つまらない作品だった」と言いたい気持ちを表現するために、せいいっぱい誠実に書こうとすると、この「賛否両論」という言葉が便利に使われるのだ。考えてみればごく当たり前のことかもしれない。私はどうも、今までその常識ともいえる当然のことを知らずにすごしてきたようだ。反省するとともに、今まで知らなかったこの常識を教えてもらえた、という点については、今回のマックエクスポでの新柄iMacを誇らしげに発表したスティーブ・ジョブズと、それについて好意的に報じていたマック関連のニュースサイトの執筆者の方々には、感謝したいと思う。あれを「かっこいい」とか「かわいい」とか表現するのは、本当に勇気がいっただろうな、と思う。いや、私なら、とてもできない。たいしたものだ。

参考サイト
MacWire(http://www.zdnet.co.jp/macwire/)など、Appleの新型iMacにかんするウェブサイト

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2001年2月20日ShockMachineなど

いまさらになるが、Shockwaveをオフラインで再生するようなソフトがあって、それをこの間体験した。アニメや映画、音楽やゲームが楽しめて、中にはとても凝ったつくりになっているものもある。気に入ったのは、アニメーションの音楽クリップで「Internet Killed the Videostar」。タイトルで分かるとおり、バグルスの名曲「ラジオスターの悲劇」のパロディだ。ビル・ゲイツやAOL、iBookなども登場していて、楽しかった。あと、アニメ「サウスパーク」のクリップやゲームが充実しているのはいい。「サウスパーク」は、同様のクリップが日本語版でも用意されているのだが、これが以前日記にも書いた悪名高き大阪弁のもの。こっちは最低だが、英語版にある原語のクリップは文句なく楽しめる。このソフト、オフラインでもバナー広告が表示されていて、時々勝手にネット接続しようとするのが大変残念だが、ソフトそのものはいい出来だと思う。ちなみに、マックでもウインドウズでも使えるらしい。

それから、色々と探しているうちに、これも有名なのかもしれないけれど、GIFアニメでものすごい凝った作品を披露しているサイトを見つけた。シャアが荒らしをしている、というガンダムネタの「機動戦士のんちゃん」シリーズは、かなりの完成度だ。

参考サイト
活動漫画館(http://members.aol.com/uuggoo/anime/anime.htm)
ShockMachine(http://jp.shockwave.com/)

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2001年2月18日サッカーの話

フィオレンティーナの試合が生で中継されなかったので、仕方なくラツィオ対ペルージャ、ローマ対レッジーナをザッピングしながら見た。
ペルージャはとてもおもしろいゲームをしていた。ずっとラツィオを押していて、もともとラツィオはそういう戦い方をするのだから当然とはいえ、フィオとやった時のようにカウンターから点を重ねていく、というラツィオの戦術が機能しておらず、それだけうまくペルージャが守っていたのだろう。マッツァンティーニはやはりすばらしいゴールキーパーだと思う。惜しくも一点差で負けたが、その終了寸前のゴールも、彼は手で当てていた。イタリア代表にもなれるんじゃないかな、この調子だと。一方のラツィオは汚いプレーが多く、残念だった。特にカストロマン。審判がレッド出してもおかしくなかったから、こいつが退場していたら、ペルージャは勝てたかもしれない。ラツィオは、先日のチャンピオンリーグも見たが、ものすごい試合で、レアルに負けてしまったから、その時のショックも多少あったのかも。
ローマは例によって例のごとく、押されていても、いつの間にか勝っている、という試合だ。見事だなあ。優勝するかもしれない。


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2001年2月13日映画「ハンニバル」がちょっと楽しみ

あの「羊たちの沈黙」のトマス・ハリスの待望の新作「ハンニバル」が映画化されて、今、アメリカで封切られたばかりにして、大ヒットしているらしい。
実は私は「羊たちの沈黙」を見ていなかったし、原作も読んでいなかったのだが、今度の「ハンニバル」は、新刊をフィレンツェの書店でみかけた時から気になっていて、帰国後翻訳が出てから読んでみた。
で、まあびっくりして「羊たちの沈黙」を読み、映画をビデオで見た。こういうハリスファンとは逆の順番に作品を鑑賞してきたから、たぶんこの映画についても、他のひとたちとは感想が違ってしまうかもしれない。
でも、見たいという気持ちはたぶん同じで、三月ともされている日本公開がちょっと楽しみだ。やっぱりラストシーンがなあ・・・アメリカでも悲鳴と笑いが交錯したそうだが、日本ではどうだろう。
そういうアメリカでの情報や、作品にかんする情報は、ハンニバルの公式ページで入手できる。表紙でいきなり三択クイズがあって、正解するとレクター博士のお宅のウェブページに行ける(まだ工事中)のだが、クイズに外れると、「愚か者め」としかられてしまう。

参考サイト
「ハンニバル」公式サイト(wwwhannibal.ne.jp)

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2001年2月12日サウスパークの吹き替え変更

WOWOWで放映されているアメリカのアニメ「サウスパーク」は、その過激な内容が一部で熱狂的なファンを生んでいる。私もこのアニメが大好きで、毎週欠かさず視聴している。スカパーのサッカー(セリエA)と時間がかぶるのだが、その時も「サウスパーク」を優先しているほどだ(最近、ひいきのフィオレンティーナの調子が悪いので、サッカーの方はあまり見られなくても残念でなかったりもするが)。
で、その「サウスパーク」だが、内容があまりに過激で、上映が危ぶまれていた映画版も昨年の秋、めでたく上映にこぎつけた。そのDVDも国内版として7月に発売される。それはうれしいことなのだが、その際に、今まで吹き替えを当てていた声優が全部変更になり、よく知らない関西の芸人たちが担当するようになったらしい。語りも関西弁になるようだ。
ネットでは、反対の声が大変多く、私も今まで親しんできたイメージが崩されてしまうのはいやだと思う。映画版だけならまだ我慢するにしても、今後の放映やDVDがみんなこの声で当てられるのだとしたら、本当にいやだ。
だいたい、突然こういうことをしてしまう、というのも気に入らない。版権の移動などで、何かの理由で変更を余儀なくされたのだとしても、できるだけ今までのイメージにそった形で変更するべきだし、その変更も、最小限にしてほしいと思う。そういうことを全然考えないでやっているように思えてならないのだ。
それに、サンプルを見てみると、しゃべりが早口すぎてよく聞き取れない部分も多いし、ケニーの話が聞こえすぎるという欠点もあり、納得できるできではない。どうにかならないものか。

参考サイト
「サウスパーク」日本公式サイト(www.southpark.co.jp)
サウスパークへようこそ(www.geocities.co.jp/Hollywood/9805/)

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2001年2月9日三田佳子の子供の話

三田佳子の息子が覚せい剤で逮捕されたのが去年の10月で、それが二回目の逮捕だったから、もうおそらく実刑は免れないだろうとの予測が強い。私もそれは当然だと思うし、何も言うことはないし興味はないけれど、その彼の書簡が今月発売の雑誌「創」に掲載されていたのを読んで、ちょっとあきれた。
彼は、覚せい剤を

感性を鋭敏にし、自己の内面世界に入っていくための手段の一つでした。
と述べていた。

マリファナやLSDならともかく、覚せい剤をこういう目的で利用しているなどという例は聞いたことがないし、覚せい剤で得られる体験を、こういう言葉でしか表現できないのだとしたら、それは明らかに自分の体験を消化し切れていないことの現れだ。こういう理由付けは、独善的な自己正当化以外のなにものでもない。その後に、使ったことを反省している旨記してはいるが、「自己を向上させるための一つの手段として」覚せい剤を使っていた、などと語られた後では、全然説得力がない。陳腐な表現なので、私自身、あんまり他人には使わない言葉だが、こういうのこそ「甘え」と言っていいと思う。
ただ、こういう手記は、まだちゃんと反省していない証拠とされ、裁判で本人の不利益につながるのではないかとも思う。そういう意味では「創」編集部はいったい何を考えているのかな、という気もしてくる。三田一家の味方のような顔をして、結局は一番の敵になってしまうのではないかな。

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2001年2月8日懸賞にあたるハガキとは?

ボブ・ディランの3/3公演のチケットが届いた。武道館はかなりいい席のようだから、これにも期待していたのだが、今回届いた東京国際フォーラム分は、残念ながら一階の一番後ろの列になってしまった。まあこっちは追加公演だし、いいか。それでも楽しみには違いないし。

ところで、先週私の勤めている会社の関連で、ふぐのあたる懸賞を新聞で募集したのだが、それにかなりの数の応募があった。千通近くあったのかな、とにかくその中から数十名の当選ハガキを選ぶことになり、私も手伝った。
それで分かったのだが、懸賞に当てるには、よく言われているような、目立つハガキを出すとか、ひとりで複数応募するとかいう方法が、それほど(というかそれだけでは)有効ではない、ということがわかった。
実際抽選に立ち会っていると、確かに目立つハガキもあったし、複数枚の応募も見られた。だが、目立つハガキは懸賞慣れしている、という印象を抱かせ、どうしても敬遠しがちになってしまうし、複数枚の応募は、連続してみつかると、とたんに当選枠から外されてしまう。これは私だけでなく、抽選にかかわったみんながそうだったので、特異な例ではないと思う。
機械抽選ならともかく、人の手で抽選する場合、まず必要事項を全部書いてあるかどうかということが一番大切だ。住所や氏名などが、ハガキの表面にしかないものも、外される。その次に敬遠されやすいのは、こっちから聞いてもいないのに「DM不要」と書かれているはがき。私の会社では、はずれはがきはみんなそのままシュレッダにかけてから廃棄されるが、こういうリストをDMに使おうと考えている会社は、たとえそのように書かれていたとしても、別の企業に流したり、別の商品を売る際のDMに利用したりするだろう。そもそも、何かの懸賞に応募するのなら、多少自分のプライバシーが利用されるのは覚悟しておくべきだ。相手が「DM不要の場合はその旨記入ください」とでも応募要綱に記しているのならともかく、そうでない場合までこういうことを書くのは、「外してくれ」と言っているようなものだ。50円切手が惜しくないのなら、それでもいいが、あまり意味があるとは思えない。
複数の応募は、人間の心理として、「これはズルじゃないか」という気持ちを抱かせてしまうようだ。別に不正でも何でもないんだけど、続けて五枚、十枚と、まったく同じ名前のハガキを連続して読まされると、一通だけの応募の方を贔屓目に扱ってしまうのは仕方ない。だから、複数応募して確率を上げたいのなら、せめて別のポストで出すとか、できれば投函日付も変えて出すといいんじゃないかな。そうすれば、同じ場所に集中するのは避けられるから、純粋に確率が上がるだろう。それで必ず当たる、とも当然言い切れないけどね。
最後に、これもよく言われていることだが必要事項のほかに、何かコメントを書くといい、というけれど、これも確かに一部当たってはいるが、まずいのは、誰でも考えつくようなことを書くことだ。今回はふぐのプレゼントということもあり、コメントが書かれているハガキの中には「今まで一度もふぐを食べたことがない」というものと、「母(あるいは父、子供等など)に一度ふぐを食べさせてやりたい」というものだった。どっちも本当かもしれない。まあ、別にうそであっても全然かまわないのだが、こういうコメントは、だいたいハガキの三割ぐらいには書かれていた。それも、ほとんど同じ文面だった。これでは全然強みにはならないし、かえって「ああ、またかよ」という気分にさせられて、全然こちらの心に届かない。
コメントを書くのもけっこうだが、もし書くのなら、ちっとは独創的なことを書かないとあまり意味がない。このことも知っていた方がいいと思う。
懸賞の達人などがテレビや雑誌に出て、当選するコツについて話をする時、こういうことを教えてくれる例はあまり見たことがない。考えてみれば、他人に当選のコツを教えてやると、それだけ自分の当選確率が落ちるのだから、本当のコツをわざわざ披露してくれるわけはないのだ。それよりも、実際の抽選に立ち会ってみるのが一番確実だし、その機会がないのなら、せめて抽選人がどう思うか、想像してみるのがいい。だから私も、核心に近づくようなことはここでは述べない。だって、せっかく当選のコツが分かったのに、それをウェブでわざわざ他人に教えてやることはないではないか、なんてね(^^

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2001年1月24日・Next To Last Song(ダンサー・イン・ザ・ダーク再考)


最近、会社の行き帰りで聞いているMP3プレイヤーには、ピーズやマーラー第九、マーク・リボーや-ボブログ三世、それに花*花とか朝日美穂が無節操に入っているのだが(言っておくけど、全部自分で買ったものだからね)、その中に、先日入手したBjorkの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のサントラの曲がふたつ入っている。
もともとプレイヤーの空きメモリをふさぐために入れたようなものなのだが、そのうちの一曲「Next To Last Song」は、映画の音楽そのままに収録されているせいで、他の曲に続けて聴いていると、いつもラストでびくっとさせられてしまう。映画を見たひとは分かるだろうが、この曲のシーンは実に暴力的というか、衝撃的な終わり方をする。だからこの曲を聴き終わるそのたびに、映画のあのラストシーンが思い出されて、なんと言うか、変な気分になってくる。

1月4日の日記では、この映画の音楽はあまりポップでないし、楽しめない、と私は書いた。今でもその時の印象はそれほど変わっていない。だが、こうして曲だけ聴いていると、それほど悪くはなかったのかな、という気もしてくる。これはいわゆる「慣れ」の作用も大きいと思う。あるいは、音楽と場面がそぐわなかったから、それであの映画での音楽があまり感動を呼び起こさなかったのかも知れない。

ただ、今になってもうひとつの要因に気づいた。あの映画に拒否反応を示す自分は、どうも映画「ピアノレッスン」を見た時と同じような気分になっているみたいなのだ。あれも、また良い作品なのだが、自分の中で、どうしても受け入れられない何かがあって、強く抵抗しているのを内心で感じていた。と同時に、むしょうに引き寄せられる部分もあって、自分が引き裂かれているような感覚・・・といってしまうと大げさだが、とにかくすごく複雑な気分になったのだった。今回の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も、何かその時の感覚と似ているような気がしてきた。
Bjork自身も、あのセルマという役柄に「自分だったら絶対こんな風にはならない」と否定的な意見を会見で述べていたから、ああいう生き方に拒否反応を示すのは、何も私だけではないだろう。マスコミ試写でのさも「涙が止まらない」だの「感動で席を立てなかった」などというせりふは信用できないし。そういう感想には、当然社交辞令も含まれているだろうし、この映画をただ泣いて「感動した」と言ってしまったり、手放しで絶賛するのは、傲慢な言い方だが、思考の停止、だという気がする。まあ娯楽だといってしまえばそれまでなのだが。

私の個人的な意見からいうと、こういう、否定したいけれど出来ないような映画や芸術作品は、自分の思考や観念の限界を計るうえで、貴重な存在だと思う。
自分は自分で普通だと思っているけれど、実はそうではなく、どこかしらこだわりやらこわばった部分があって、ふだんはそれと気づかないまま生活している。そういう固定した自己意識にも、時折揺さぶりをかけるものが現れてくる。そういう時、たいていその存在を全部否定してしまったり、その場から逃避してしまうものだが、そういう存在を、自分を図る尺度として利用することも可能であるに違いない。衝突と軋轢。楽しいことではないし、そうそう継続できるものではないだろうが、時々にでも、そういうことを繰り返していけば、自分の限界だと思っていた地点が、実はそうではなかったということにも気づけるかも知れない。
もしこの映画をそういう風に利用することができれば、それはとてもいいことだと思う。とりあえず、なぜこの映画が不愉快なのか、少し考えてみようと思っている。

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2001年1月21日・雪・フィオ

昨日の土曜日から降った雪が積もって、夜は一面白で覆われていた。ここ千葉だけではなく、東京でもずいぶん久しぶりの積雪になった様子。空気が乾燥していると静電気がすごいし、火災も起きやすいのでちょうどよいお湿りだと思う。
ところでイタリアサッカーのフィオレンティーナのテリム監督が、契約の更新をしなかったということで、ネットでもファンが大騒ぎしていて、私も少し気になっている。せっかく面白いサッカーに見せられて段々好きになっていただけに、ちょっと残念でもある。だが、まだそれほどよくフィオのことを知らないから、騒ぎようもない感じ。とりあえず今シーズンは監督でいてくれるのだから、まだスクデッドの可能性だってあるし。
ただ、ルイ・コスタがミランに行ってしまったら、やはりがっかりだろうなあ。あのプレイは本当にものすごい。今までみた、どの選手より面白いサッカーをしてくれるような気がする。
そういうこともあったので、今夜のフィオ対アタランタにはかなり注目していた。結果は引き分けだったが、いろいろと面白かった。ルイとキエーザとヌーノ・ゴメスは、本当に見ていて面白いサッカーをしてくれるので、毎週楽しみだ。最近アニメ「サウスパーク」の放映時間と重なってしまうため、試合の途中30分ほどは生で見られず、ビデオ録画をしているが、ふつうつまらないスポーツの録画再生でも、フィオの試合は楽しく見られる。

試合が終わった深夜、まだ少し雪の残る中、セブンイレブンに買い物に行くと、あちこちの家で街灯がついたままになっている。これは、まだ起きているのではなく、たぶん歩行者への配慮だろう。こういう風景はすがすがしくて、気持ちいい。

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2001年1月11日・ボブ・ディランなど

先日、新聞の告知でボブ・ディランの日本公演をしり、ネットから予約申し込みをしていた。抽選だったのだか、運良く当選し、武道館のチケットを二枚入手した。そのチケットが先日届いた。アリーナの二列目。椅子の並びは公演によって違うから確実ではないけれど、よほど意地悪な配列でもない限り、これはかなり良い席だと思う。
売れ行きが悪いのかな、と思ったのだが、ネットでのディラン関連のBBSなど読んでいると、会員の先行予約でチケットを取ったひとでも椅子席だったりしているから、本当にこれは運が良かったのだろうな。
ディランの公演は、オリジナルと全然違ったアレンジで演奏されるから、今からとても楽しみだ。前に行った時は、リズムがかなりしっかりしていて、アレンジもとてもよかった。「JokerMan」とか「ハッティ・キャロル」とか、最高だった。なぜCDにしてくれないのか、とても残念だ。最近のCDは、枯れすぎていて、よさが私には分からなかったりするから、なおさら、そういう思いは強くなる。
まあ、いいや。とにかく今度の公演に期待するとしようか。

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2001年1月4日・映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」


注意! ネタばれはないけれど、この部分は映画を見終わってからお読みになることをお勧めします。

おとといに引き続き、近くの映画館で映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見た。ビヨーク主演のミュージカルで、感動の名作、と評判が高い作品。でも一方で、賛否両論がある、という話も聞いていた。新聞広告では、各界の有名人が感動で涙した、とかそれらしいことがたくさん書いてあった。

たぶん、賛否両論の「否」の部分は、こういう悲しい映画をお正月にやってしまうことにたいする意見かな。パンフレットの1ページ目に監督が「他人に結末を言わないで」と記していたから、結末については言わないけれど、とにかく、あまり幸せな映画ではないのは確か。

一緒に見た妻は感動していたみたいだから、私の意見もとても個人的でみんながそう思うとは考えていないけれど、私としてはそれほど楽しめなかった。前評判から期待しすぎていたのかもしれない。確かに踊りのシーンの設定は、これまでのミュージカルにはない画期的なものだったけれど、肝心の音楽が、私はあまり楽しめなかったのだ。

これは、たぶんに私の音楽的素養が貧しいからじゃないかと思う。ミュージカルというと、もっとポップな音楽が使われていた方が聞きやすいし、感動がよく伝わってくる、と思ってしまうのだ。

あと、主人公のセルマが目の手術には動揺が一番いけないから、自分の動機について知らせたくない、と頑なに救いの手を拒むのも、なんか不自然な感じがした。だって母親が殺人を犯した、と知った時点ですでに動揺しているはずで、その動揺は、セルマの犯行の動機の真実を知ることで、むしろ軽減されるのではないか、と思った。まあ、ささいなことだけれど。

映画の上映中、どこかの馬鹿がつれて来た子供が「ねえ、これいつ終わるの」などと騒いでいたのには本当に腹が立った(帰りにでも注意すればよかったのだが、私は気が弱いから(^^;)が、ラストシーン近くになって、あることに気づいて、そのせいもあってあまり感情移入ができなくなってしまった。

ビヨークの顔って、サッカー選手の中山雅史(ゴン)にとてもよく似ているのだ。でもこれに気づくのが映画の終わり近くになってからでよかった。最初から分かっていたら、たぶんこういう悲しい映画が、コメディになってしまっただろうから。いろいろ書いたけど、いい映画だとは思うよ。感動で涙するひとがいっぱいいるのもわかる。ただ、音楽的に俗物で、感動にも縁の遠い私のようなひねくれ者には、手放しで賞賛できるほどのものが伝わってこなかった、というだけでさ。

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2001年1月1日・映画「バトル・ロワイヤル」


映画「バトル・ロワイヤル」を見た。正月早々、陰気な映画を見ることになってしまった、とわれながら思っていたのだが、原作の小説以上に、さわやかな映画だった。さわやか、というのは言いすぎかな、ともかく原作ほど重苦しい映画にはなっていなかったのは確かだ。

ラストシーンなど、原作とは違っている部分もあり、これは教師の性格設定が変えられたせいだろうと思う。それ以外の部分では、時間が足りずに書き込めなかったため割愛された部分とか、桐山が転校生になっているとか、原作と違う部分がいくつか目に付いたが、全体的に楽しめる娯楽映画に仕上がっていたと思う。二時間の間、姿勢を全然変えずに見られた映画はこれが初めてだし。(いつも、どんなに面白い映画でも、お尻が痛くなって姿勢を変えてしまうのだった)

この映画は、中学生が殺しあう、という内容のせいでR15指定になっている。また、国会でも、こういう映画を子供が見たら困る、というので騒いでいるひとたちもいる。原作そのままだったら、そういう風に危惧するひとたちが出てくるのも納得したかもしれないが、この映画版では、それを見た子供が凶悪犯罪を犯すような悪影響を受けるという風には思えない。そういう意味では、この映画にも教育的な配慮がなされていると思う。(たとえば教師を一方的な悪人にしなかったところなどに、それがうかがえる)だから、この映画について不謹慎だと騒いでいるひとたちの多くは、映画を見ていないか、ただ自分が不快だから他人にも見せたくないと考えてるわがままなやつらかのどちらかだろう。

ただし、私自身は子供を持っていないから、同じような年頃の子供がいる親が見たらどう思うのか、それは分からない。あるいは、そういう親たちにとっては、たまらない映画なのかも知れない。が、そうだとしても、それもやはり同じわがままであり、この映画の上映を規制する根拠にはならないと考える。

逆に、もしこの映画が原作に忠実な作品になっていて、殺し合いを悲劇としてではなく、ただのゲームとしてとらえるようなトーンが強くなっていたとしたら、どうだっただろう、と考えたりする。もちろん教師役は武田哲矢にやってもらって。もしそうだったら、この作品を支持するかどうか、ちょっと悩むかも知れない。で、そういう風に考えさせる映画の方が有益だと私は思うので、今回の映画版は、娯楽として大いに楽しめたと同時に、ちょっと残念な気持ちもあるのだった。

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2k年12月21日・カースティ・マッコール追悼


仕事が行き詰まっていて、腹の立つことばかりだったので、昼休みを利用して買物でストレスを解消しようとCD屋に行った。目当ては今日発売の「ファニーとアレクサンデル」という映画のDVD。本当は五時間以上もある長い作品で、でもとても感動する映画なのだ。価格が7800円で、時間からして安すぎると思っていたのだが、案の定で、収録時間は180分とか書いてある。カットしたやつなのだろう。でもノーカット版が今後出るとは限らない。感動の大作だが、今では知っているひともあまりいないし(何しろ長いから、たぶん見たことのあるひとがあまりいない。ロードショーでも、一日二回しかかけられなかったし)、・・・という訳で買った。それ以外に、何か面白い音楽でもないかな、と思ってCDを物色していると、カースティ・マッコールの新譜があった。
新譜といっても、後で調べたら2月頃の作品で、新しいわけではなかったのだが、「ガローア」というベスト盤以来、随分長いこと彼女の歌声を聞いていなかったので、これもレジに持っていった。
家に帰って食事をしていると、妻が今日の毎日夕刊に「カースティ・マッコールの死亡記事が出ていた」とぽつりと言った。
「えっ!」
ひさしぶりにちょっと大きな声が出てしまった。
ボートにぶつかって死んだ、という。病死ではないところが彼女らしいという気もするが、それにしてもまた40台になったばかり、とても早すぎる死で、残念だ。カースティの歌声を初めて耳にしたのは、ポーグスでのデュエット曲「Fairlytale of N.Y.」で、そのどこか枯れたような音質と同時に子供のような雰囲気をあわせ持った歌声に、独特の魅力を感じたものだ。
それ以後、決して熱心なファンではなかったし、新譜も出たらすぐ買う、というわけではなかったけれど、なぜか結局は、何かのおりにアルバムを手にしていて、日本で発売されたものは、たぶんだいたい持っているはずだ。今度の作品「Tropical Brainstorm」も、そういう感じで手にとったのだが、これが遺作になってしまうとは。
私は天国があるかどうか知らないけれど、もしそういうものがあるのだとすれば、死後そうした楽園の住人として相応しい人物のひとりが彼女だと思っている。もし魂が不滅だとしたら、カースティ・マッコールの魂もまた、死後の楽園で安らかに過ごしてくれることを願う。

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2k年11月09日・ローマ法王の粗品


久しぶりの更新。他のページはときどきは更新していたが、ここはずいぶん久しぶりになってしまう。
その間に、DirecTVがつぶれて、その際の移行プランでSkyPerfecTVに加入することになった。セリエAのライブセレクションというプログラムを契約したので、ずっとサッカーばかり見ている。SkyPerfecTVには、スポーツ以外、あまり面白い番組がないということもあるのだが、まあそれはそれとして、久しぶりのセリエAを楽しんでいる。
今年応援しているのはローマとフィオレンティーナ。特に後者を応援している。2月にフィレンツェに行ったから、というのもかなりあるが、今年のフィオは、ポルトガル組が二人もいて、以前とはまた違ったサッカーを見せてくれそうで、期待しているのだ。ここのところ引き分けと負けがついているし、UEFAカップでも敗退してしまったが(しかも相手はオーストリアのチームだもんね)、勝ち負けとは関係なくても、サッカーが面白いのだ、フィオは。
ローマは、やはり中田がいるからというのもあるが、彼は今年はあんまり出場機会がないんだよなあ。こっちもUEFAカップがあるから、時々は見られるけど、やはりもっと出してほしいと思う。
その中田が、先日ローマ法王の前で試合に出た時のことだが、最後の法王の前にひとりひとりが出ていって、指輪にキスして、記念品をもらうシーンがあったのだが、そこでSkyPerfecTVのアナウンサーときたら、こともあろうに「法王が粗品を渡しています」と言っていた(苦笑)。粗品って、あんた・・・。中田も偉くなったものだよなあ。
「粗品だが、受け取ってくれ」とか法王が言ったのかね。こういうアナウンスは、下手すると国際問題になりかねないぞ。

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2k年08月06日・ネットオークション


最近Yahooのオークションにこっている。Greatful DeadのBean Bearを、もう三体も落札した。見ず知らずの相手にお金を振り込むのはちょっと恐かったけど、いい相手に恵まれたおかげか、トラブルもなく済んでいる。
Yahooの場合(というのは、他のオークションがどういうのか知らないからだが)、出品者と入札者が、それぞれ取り引きが終った後に相手のことを五段階で評価することができるようになっていて、その履歴は誰でも読むことができる。これによって、相手がどれだけ信用できるか、事前に目安にすることができるようになっている。もっとも、互いに評価しあう形になっているから、よほど気に入らないことでもない限り、「非常によい」という最高の評価をする場合が多いみたい。悪い評価をすると、自分もそうされる可能性があるのだから、これは仕方のないところ。
入札する立場からすると、落札時間が近付くと、競り合う場合もあって、非常にエキサイトする。高めの値段になってしまうこともある。それでも市場で買う場合よりは(多分)安い価格なのだが。
このYahooのオークションは、プラウザの設定でクッキーを受け入れるようにしないとならないのがちょっと面倒だ。あと、入札商品の詳細な残り時間を知ろうとすると、Netscape4.7だと必ず落ちる。そういう使いにくい所もあるのだが、けっこうはまって楽しんでいる。(ここしばらくウェブページの更新が滞っているのは、主にオークションにはまっているせいだったりする)

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2k年06月30日・巨匠とマルガリータ


ブルガーゴフの小説「巨匠とマルガリータ」が復刊された。文庫サイズの上下巻で、各1800円と決して安くはないが、すぐに購入した。群像社というところから出ている。読むのが楽しみだなあ。昨日はユーロ2000の準決勝で、オランダとイタリアのものすごい試合があって、全然目を離せない展開だったせいで、朝4時ぐらいまでテレビの前に釘付けだった。その後仕事に出たものだから、もう頭がぼおっとしているのだが、そんな気分が一新するぐらい、この本を見つけた時はうれしかった。

話題が出たついでにサッカーの話をすると、応援していたポルトガルやスペイン、ユーゴはみんな消えてしまったが、さすがに準決勝あたりになると、すばらしい試合が多く、特にこのイタリア対オランダは、面白いかどうかは議論をよぶだろうが、目が離せない試合であったことは、すべてのサッカーファンが認めるところだろう。壮絶、という言葉が似つかわしい、すごい試合だった。

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2k年06月19日・ユーロサッカー・ユーゴ対スペインに期待


ユーゴがノルウェーに勝ったのはいいし、スペインがスロベニアに勝ったのもうれしいのだが、このおかげでユーゴとスペインが決勝トーナメントにそろって出場する可能性が難しくなってきてしまった。フランスワールドカップの無念の予選敗退を考えるとスペインを応援したいのだが、ユーゴもこの二試合を見ていて、すっかり気に入ってしまった。今度の直接対決ではどちらを応援したらいいんだろうか、悩んだりしている。
そのほかの組については、イングランドとフランスは、できれば消えてほしいなあなんて思っているが、どうも無理みたい。イングランドは、とにかくフリーガンが迷惑。決勝でも暴れるんだと思うとうんざり。
フランスは、何かそつがなさすぎてあんまり好きになれない。アネルカは大好きだから、トーナメントでは、彼だけを楽しむことにしよう。 オランダは、まだまだ本調子ではないようなので、予選リーグの出来では判断できない。あ、ポルトガルはなかなか面白いと思う。下手すると優勝候補かも。

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2k年06月17日・ユーロサッカー・ユーゴ対スロバキア


ユーロ2000の放送で、録画したままになっていたユーゴスラビア対スロバキアの試合を見た。
民族対立の感情がもろに出ているような試合だった。国歌が流れている時、どちらの国にも激しいブーイングがあったのも驚いたが(こういうのは初めてみた)、ユーゴの国歌が流れている時、大写しになったユーゴ選手のほとんどが、その歌を口ずさんでいなかったのも意外だった。たいていは歌わないのが数人で、大半の選手が国歌を歌う。中にはマイクに聞こえてくるほどの大きな声で歌っている選手もいるというのに。
やはり色々と複雑な感情があるんだろうな、と思った。日本の国歌にかんする議論では、よくこうした扱く再試合での海外選手の態度を引き合いに出して、「見ろ、外国ではこういう時にちゃんと国歌を歌っている。それなのに日本は」云々と言う人がいるが、そういう人たちがこの試合を見ていたら、どう思っただろうか。やはり、国歌にたいして複雑な感情をもっているひとたちにまで強制するのは間違いだろうなあ、と思った。

さて、肝心の試合の中身だが、最初はスロバキアが圧倒していて、意外な流れだった。観客も八割ぐらいがスロバキアのサポーターで、ユーゴがボールを持つだけで激しいブーイング。だが、こんな状況の中でも三点差を追い付いたユーゴは立派だ。勝てはしなかったが、きっと次の試合に繋がると思う。

ユーロ2000は、スペインやイングランドが初戦でつまづき、まだどこも圧倒的な強さを発揮できずにいる。フランスかな、優勝は。スペインを応援しているんだけども。

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2k年06月15日・大阪へ


有給休暇を取って一泊二日の大阪旅行をした。天王寺の市立美術館にて催されている「フェルメールとその時代」展が目的だった。
行きはこだまを使ったため、4時間もかかってしまった。これは交通費を安くあげるためで、JR東海ツアーズの安売りチケットを使うと、一万円弱で大阪までこだまで行けるから、それを使ったわけだ(その代わり、帰りは700系のぞみを使った)。10時の新幹線に乗ったものの、4時間かかって到着するともう午後2時を回っていて、5時閉館の展覧会を見に行くのもどうかと思い、近辺の観光をした。
最初は聖天を祭っている寺社を探した。行く前に、近辺の寺を調べておいたのだが、天王寺近くの蒼龍寺は場所がよく分からず、「天下茶屋の聖天」と呼ばれている正圓寺に行くことにした。古めかしい市電に乗って松虫前で降り、あちこちうろうろしてようやく辿り着いたものの、結局閉館で中には入れなかった(そのあたりのことは、別の場所でいずれ書こうと思っている)。 そこから阿部清明を祭る神社を訪ね散策したのだが、このあたりや市立公園近辺にたむろしているホームレスの多さにはちょっとびっくりした。松虫あたりは西成が近いとはいえ、正圓寺の境内というか、所有している区域にも、蒼いビニル色のシートでこしらえたテントがたち並んでいる。あたりは公園のようになっており、そうしたテントのあいまで近所の主婦らが世間話をしたり、クラブ活動の女子中学生が体育着姿でボールを追っていたりする。もうホームレスが日常の中に溶け込んでいるんだろう。東京ではこういうシーンにつきものの、陰湿な嫌がらせ(テントを作れそうな場所に無意味なモニュメントを建てる、とかね)だとか暴力沙汰(つい昨日も、東京墨田では、少年たちによるホームレス狩りで死者が出たそうだ)も、おそらくここにはないのだろう。感心した。

ホテルに泊まって翌日は朝一番で美術館に向かった。9時半会場のところ9時15分ぐらいに到着したのだが、すでに列が出来ていて、またまたびっくり。結局入場までに20分ぐらい待たされた。四月から公開されているのに、まだこんな列ができるとはね。もし土日だったら、どんなに混雑したことだろう。やはり有給で平日に来てよかった、と思った。
フェルメールは5点で、他の作品もそんなに多くはなかったので、一通り見るのに小一時間しかかからなかった。フェルメールの絵の前は混雑していて、立ち止まって見ることができない状態でもあったし。ただ「地理学者」など、本来は門外不出の作品だったそうで、たった5点とはいえ、めったに見ることのできない展示だった。

その後いったん宿に戻り、チェックアウトして天王寺動物園。キウィー、レッサーパンダなど。展示に工夫が凝らされていて、上野などよりよっぽど充実している。平日のおかげで空いていたし、これで500円なら安い。 それから日本橋を少し散策。やはり電気街はどこも同じような雰囲気だなあ、と思った。

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