このページでは、当分の間、意味のない雑感でも書こうと思ってます。
書き込みの順番はいい加減です。頭と後ろ、どっちが更新部分でもないです。また、過去記事もことわりなく修正したり削除したりすることがあります。要するに、このページは他人に読ませることを目しておりません(^^;
なお、御意見を下さるのは歓迎しますが、その場合、「こういう意見をいただいた」という記述がこの日記にあるいは記されることもありますので、あらかじめご了承ください。

最新の更新は99/5です。



目次

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98年12月某日

ジョンレノンの「イマジン」って有名な曲があるが、あれってかなりきつい歌だなあ、とふと思った。
「天国はない」というフレーズだけでも、けっこうこたえる。
大切なひとがなくなってしまった時、残された人たちは、どうしたって死後の世界を想像してしまう。天国で、あるいは極楽で安らかにしているのだ、とか、あるいは、特に病気や何かで苦しんでいったひとの死後は、そういう苦しみからも解放されて、いまは天国で幸せなんだ、と自分に言い聞かせることで、みんながこころの平静を保ったりする。

それが容認さてれない、というのはすごいし、オノヨーコなんかは、いったいその悩みにどう対処しているんだろうか、と思う。「天国はない。上にあるのは空だけ」というのなら、オノヨーコはジョンの死後の生活を想像することすらできない。しかも「イマジン」なんかはスタンダードナンバーだから、忘れようったって、いつもどこかで耳に入ってくるだろうし。

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98年12月某日

*98年11月20日のここでの記述において、不適切な記述がありましたので、この記述で気分を害された方にはこの場でおわびします。申し訳ありませんでした。
ただし、主張そのものについては、取り下げる必要を感じませんので、関連の記述としての98年10月某日「環境ホルモン」にかんする箇所はそのまま残してあります。

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98年11月某日・無礼なメールについて

以前、大好きなアーティストの未発表音源にかんする情報を入手するため、海賊盤レコード専門雑誌を購読していたことがあった。
その中に、貴重盤を手に入れるための毎日を綴った「猟盤日記」という連載があり、これもなかなか面白く愛読していた。(この連載はまとめられて本にもなっている。今手許にないので版元等は分からないが、そのうち修正して付け加える)

で、その連載の中で、ある日プリンスのゴム人形を見つけた、という話が載っていて、この話そのものは架空だったのだが、それを真に受けたマニアから「ぜひゆずってほしい」というはがきが相次いで届いた、という。

この事件に関して、著者はプリンス人形をゆずってほしいという前に、この雑誌連載の感想などをせめて書いてくれたらよかったのになあ、というコメントを寄せている。

当時は「細かいことをいうひとだなあ」と失礼ながらも感じてしまったものだが、今ならこの気持ちがすごく分かる。たとえば、ホドロフスキーの未発表作品(タイトルは「Fundo and Lis」というのだが)の話を別のページに書いているんだけど、これを買った店を教えてくれ、というメールが届いた。
それが、わたしのページの感想どころか、自分の名前だけしか名乗らず、しかも用件が書いてあるだけ、という内容なものだから、呆れ果ててしまった。

何も、必ずしもわたしのページにかんする感想を書かなくてはいけない、というつもりはないが、何しろ初対面の人間同士だ。
こっちで彼に関してわかる情報といえば、単にホドロフスキーのファンらしいということだけ。どんな作品がすきで、どれだけ見ているのか、どういうところがすきなのかとか、そういう情報はいっさいなし。このメールからでは、氏がどういう人間なのかわからない。つまり、ここにはファン同士の交流もなければ、情報のギブアンドテイクもない。

まあ、どんなメールを書こうが自由だが、相手の返事を期待するのなら、それなりの書き方というものがあるだろう。自分がこういうメールを受け取ったらどんな気分か、とか想像することもできないのだろうか。それがだめならせめて他の媒体で同じことをしたなら、どんな風に話を切り出すか、想像してほしい。たとえば電話で、たとえば街頭アンケートで、初対面の相手に用件だけ話すなんて無礼をするだろうか?

電子メールがいくら便利だからと言って、あんまり安易な使い方はしないでもらいたいものだ。たとえ、あるいは今までそれで通ってきたからといっても、それはたまたま初心者にやさしい相手に出くわしただけだ。それが当たり前だなんて、決して思わないでもらいたい。

付け加えるなら、これも学生らしいアドレスから届いている。インターネットに触れる機会のある学校では、すべからく「ネットのマナー」にかんする講議を実施し、アカウントを持つ人間には、強制的に受講させるべきだ、と思った。

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98年11月某日・アンケートメールについて

先日、とある学生からメールが来た。ホームページ(^^;について研究しているので、アンケートに答えてほしい、という。で、メールは朝日ネットでページを持っているひとから無作為に選んだとのことだった。
ほとんどSPAMと同じとはいえ、本人には悪いことをしているという自覚がないようだから、いちおうアンケートに答えて、ついでにこういうメールはよくないよ、と記して返事を送信した。

まあ別にこのひとの悪口を書こうというわけじゃないんだが、もしかしたら、こういうメールは当たり前のことだと勘違いしているやつが他にもいるかも知れないと思ったので、書くことにした。

電子メールによるアンケートは、街頭アンケートとも郵送されるDMとも違い、より悪質なものだ。
以下にその理由を記す。

一番問題なのは、アンケートを拒否する以前に、内容を確認する段階で受け手に費用が発生する、という点。
この点を甘くみてもらっては困る。アンケートっていうのは、まず相手の自由な時間をほんの一瞬であれ自分のために費やしてくれ、と頼むことなのだから、それ以上の負担を相手にしいるのは、厳に慎むべきだろう。これは金額の問題ではない。
たとえ一銭でも、通話料なりプロバイダとの接続料の負担を覚悟して、みんな自分にきたメールを読んでいる。なかにはSPAMもあるだろうし、そんなのは全然気にならない、というひともいるかも知れない。
だが、わたしは頼みもしないのに、「お得な情報」とやらをむりやり押し付けてくる広告メールが大嫌いで、そのことはウェブページの表紙にも、ちゃんと明記してある。
にもかかわらずわたしに広告メールを送りつけてくるやつらには、いつも抗議のメールを送り返すことにしている。で、心ある業者なら、たいていおわびのメールを返信してくる。
ただ、こういうのはいたちごっこであり、いくら抗議したって、また別のSPAMが迷い込んでくる。きりがないのは確か。
でもひとりひとりがいちいち抗議していくことで、もしかしたら「広告メールは迷惑だ」という風潮が広まれば、企業も安易にこの手のメールを出すのがはばかれるような、「常識」が浸透していくかもしれない。
ネットは相互扶助で成り立っていて、技術も才能もないわたしが、ネットにもし貢献できることがあるとすれば、こういう分野だけなのかもしれない、と思っているから、だからこういうことをひとつひとつ潰していくことを面倒だと考えないのだろうな。

ただ、困るのは、自分が非営利の作業をしているということを錦の御旗のようにかかげて、協力してくれて当然、といわんばかりのメールをくれるひとたちだ。
本人に悪気がないのは十分わかる。だが、ネットの世界は本来ギブアンドテイクで成り立っているってことを御存じないのだろうか。何かを頼むのなら、それに見合ったものを提供する。そういうお互いのやりとりでもって発展してきた世界だ。もちろん、みんながみんな、提供できるに足るものを持ち合わせているわけじゃない。かく言うわたしも、ネットのコミュニティに提供できるものなんて、ごくわずかしか持ち合わせていない。
そういう人間は参加すべきではない、というつもりはない。ただ、もっと謙虚であるべきじゃないかと思う。つまり、

ネットという、お互いの善意で形成された世界の中に参加できているということにたいして、ここまでネットを立ち上げてきた先人にたいする感謝の念をもつべきだし、

今までつちかわれてきた、ネットの伝統、というかしきたりを尊重すべきだ。

そういった部分を一番ないがしろにしているのがたとえばSPAMであり、ウィルスのデマ情報であり、アンケート依頼の電子メールだと思う。

だから---メールをくれた当人にも言ったのだが---せめて、アンケートの依頼をもらった相手が、わざわざ金を払ってそのメールを読んだ甲斐があるような、そんなメリットを相手にも提供すべきだ。いや、最低限、それが必要だと思う。具体的にいえば、「ウェブページ拝見しました。かくかくの記事はとてもおもしろかったです」云々といった程度の感想を、たとえ1行でもいいのだから、書き記しておくべきだ。たったそれだけのことで、唐突でぶしつけな、失礼きわまりないメールが、ていねいな依頼のメールに変わるのだ。相手の心証もずいぶん違うだろう。

うーん、しかし、こんなに当たり前のことを書くのも久しぶり・かつばかばかしい。

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98年10月某日

東野圭吾の「パラレルワールド・ラブストーリー」を読んだ。こういう小説は、どうしても読者の体験を問うところがあって、簡単に面白い、とかつまらないとか言えない面もあるし、どうしても作者の体験を詮索してしまいがちになるのだが、興味深く読ませていただいた。
この本を読んだきっかけは、現在店頭に並んでいるハードカバーの「秘密」という本の設定がおもしろそうだったから。道ならぬ恋とか、苦痛をともなう関係性といった主題が、どちらの本にも描かれているところから、やはり作者の体験をあれこれ想像してしまうのだが、多作のひとだというから、たまたま似た主題の本を私が選んでしまっただけなのかもしれない。
となると、今度は私自身の体験が問われてしまうわけだが・・・うーん、多分一度でも物書きを志したり、あこがれたりしたひとは、自分の人生の中で、ほんの少しでもドラマチックに思えるエピソードを大事にしまいこんでいて、いつかはそれを描いてみたいと思うものじゃないかな。で、実際にそれをしたひとたちの作品に出会うと、妙な感慨を抱くのだ。たとえば吉本ばななの初期の作品なんか、そうじゃないかと思う。東野圭吾もその点では同じように思えるのだが、まあ思い過ごしかもしれない。

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98年10月29日

我が家ではずっと朝日新聞をとっているが、最近毎日新聞も併読するようになった。

毎日新聞は、やはり紙面の枚数もとても少なくて、まあ余計な広告がなくなっているからだと思えばすっきりしていていいんだけど、それでもちょっとさびしい感じもする。
ただ、記事の内容にかんしては、ほとんどの記事が記名されているのはすばらしいと思うし、質も決して低いとは思わない。たとえばスポーツ面などでは、朝日にはない独自の情報が掲載 されていたこともあったりして、ていねいな取材をしているなあ、と感心したこともあった。
あと、細かい数字などは、朝日と毎日で違う場合もある。某企業の赤字が2000億円、という記事が朝日に載っていたとき、毎日の数字は2300億円だった。まあこれだけ大きいと、たいした違いでは ないのかも知れないが。

ところで、今日の朝日新聞を見ていると、週刊新潮の広告に、不自然な余白があった。
また何か朝日の悪口を書いていて、それが消されたのかな、とも思った。今までなら、それで終わっていたんだけど、そうだ毎日だとどうなっているだろう、と思いついて、毎日新聞をみた。
こっちでは、朝日で抜けていた部分が書かれていたが、これはひどい内容だと思った。 たぶん朝日新聞では、新聞に載せるには不適当な文章だと考えて削ったのかもしれない。それが毎日にはこうして載っているのは、多分力関係だろうね、毎日と新潮社との。
朝日の空白部分については、もし新潮の了承をえずにやったんだとしたら手続き上は問題だけど、こんな文章を新聞広告に載せようとするやつはどうかしてると思う。
例の未成年の実名報道も新潮だったし、この雑誌には良識というものがかけらもないみたいだね。スポーツ新聞のアダルトページじゃあるまいし、新聞は誰でも読んでしまうし、 目に入ってくるということが分かってない。ましてや記事本文活字の数倍の大きさで強調されているんだから。
このリード文を書いたやつは、自分のこどもや親がこの文章を読んだらどういう気持ちになるか、とかいった想像力があまりに欠落している。

表現の自由は大切だと思う。誰がどこで何を書いても規制されるべきではない、と思う。たとえそのことで誰かがひどく傷ついたりしても、書く本人の良心以外のあらゆる制限は、あるべきではない と考える。多分そんな私の考え方は、それほど一般的であるとは思わないけれど、だからといって意見を変えようとは、今のところ思っていない。
だから、このリード文にしても、こんな表現規制されるべきだ、とは思わないし、検閲のようなことには反対だ。
だが、それ以前の問題として、このリードの作者は悪趣味だし、雑誌の広告を作る人間としても、かなり適性を欠いていると言わざるを得ない。

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98年10月23日

昨日、西武対横浜の日本シリーズ第3戦を見に行った。
しかし、噂には聞いていたが、横浜の応援があれほどすごいとは思わなかった。一塁側にいたのだが、向こう側からの 声で、こっちの応援がかき消されてしまうほどで、今までみた野球の試合の中でも、これほどのものはちょっと体験したことがない。38年ぶりのシリーズというだけある。

で、横浜の応援がものすごいものだから、自然とそれに煽られて、西武側の応援もけっこう白熱していた。数では まけてしまうから、メガホン叩いたりしてね。

試合はずっと西武の一方的な流れだった。横浜ファンもみんな途中で帰るかと思っていたら、ほとんどの ひとが9回まで残っていた。試合終了が10時を回っていたから、帰りの心配もあっただろうに。これには少し感心 した。でも一塁側で、西武のファンが帰りを気にして席を立ちはじめると、そこに入り込んでくる横浜ファンが私の周りだけでも十数人いて、気持ちは分かるが不愉快だったな。

私は横浜が、球団として嫌い(駒田を取った時の、主力選手に対するひどい仕打ちを覚えているので)だが、 選手達には関係ないことだ、とそう思おうとしてるんだけど、敵地での開催にもかかわらず、あれだけファンが集まってきて、大声援を送っているのをみると、自然とこっちの応援にも力が入ってきてしまう。

でもこのシリーズは、どうも西武の負けのような気がする。だって地元で残り試合をふたつとも勝っても、また 横浜に行かなくちゃならない。一緒に観戦した友人(中日ファン)は「横浜だともっとすごい。ここではいちおう 一塁側に西武ファンがいるけど、シーズン中の横浜球場は、球場全体が横浜を応援していたから」と言っていた。

第2戦をテレビでみた時、アナウンサーがほとんど一横浜ファンのごとくに横浜のチャンスのたびに叫んでいた のも、たぶんそんな雰囲気に飲まれてしまったのだろう。「日本中が敵のよう」という松井の発言も、実際に試合を見ているとよくわかる。地元なのにあんな雰囲気の中で投げる潮崎はかわいそうだった(それでも押さえる ところは、さすがベテランだな、と思った)。
東尾もこれでやっとシリーズ通算2勝。権藤監督と並んだぞ(笑)

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98年10月某日

最近は環境ホルモンの本を読み始めている。
マック日記にも書いたとおり、iMacの筐体の素材のポリカーボネイトが、ビスフェノールAという疑惑の物質をもとに作られているからだ。
このビスフェノールAという物質は、学校給食の皿に使われていて、回収騒ぎがあったことで最近話題になった物質。ただし、この場合、問題になったのはその毒性というよりは、「洗えば洗うほど、溶け出す量が増える」というその性質のほうだ。
毒性じたいは、ダイオキシンとかPCBに比べれば、(わかっているかぎりでは)とてもわずかなものなのだが、たとえいくら毒性が低いものでも、大量に摂取するのは危険だ、ということらしい。

だからiMacの素材がポリカーボネイトだからといって、それほど騒ぎ立てる必要はないのかもしれないが、

1毒性がわかっていないからといって、無害であると証明されたわけではない

2乳幼児などが筐体を舐めることもありそうだ。

3何よりもまず、あえてこの素材を使用することにした企業の姿勢に疑念がある。

という点から、引き続き批判的な視点を維持していきたいと思っている。

で、最初に戻って最近読んでいる環境ホルモンの本に関して。
「環境ホルモン入門」(中原英臣監修・KKベストセラーズ)という本を今は読んでいて、これはどちらかというとタイトル通り入門書の類いだから、それほど深い知識をえることはできないが、 それでも下記のような情報を入手できた点で大いに参考になった。

ピルの問題。本人だけでなく、尿として体外に排出された化学物質の問題。

ある種の環境ホルモンは、脳の機能分化に影響を及ぼし、性の分化を左右している可能性があるということ。

二番目の点に関しては、最近話題になることの多いトランスジェンダー・トランスセクシャルの問題との関係が気になる。このあたりの問題はとても微妙な要素をはらんでいるため、 そういったひとたちの権利主張に携わる人たちの反発を招きかねない。実際、私の同居人がその周辺の問題をよく取り上げているから、こうした説について話してみたところ、やはり反発を受けた。特に問題なのが、ただでさえ白眼視されている彼ら・彼女らにたいして、なおいっそう冷たい目が向けられることになりはしないか、というのが連れ合いの意見で、確かにその通りだとは思う。

環境ホルモンのせいで自分の性に納得できなくなっているんだとしたら、当人はれっきとした公害の被害者ということになるのだが、そういう風に社会から烙印を押されてしまった場合、同時に今までこだわってきた「自分らしさ」が、結局受胎時あるいは出生時の外的要因によるものである、ということになるわけで、そう他人から言われた時、あるいは自分でそうだと理解したときの衝撃は大きいだろう。

だが、わたしとしては、そういった性同一障害に関する悩みが、今後わずかでも減る結果につながるのであれば、それだけのためにでも環境ホルモンの規制を強化する意味はあると思っている。ことわっておきたいのは、ここでわたしが言っていることが、すでにそういった問題で悩んでいるひとたちにたいする対応とは、また別の話だ、ということだ。
すでに、そういう状況にあるひとたちが、できるだけ暮らしやすい社会なり制度を作っていくことは大切なことだと考えるし、彼らが「性同一障害の原因は環境ホルモンだ」と「知って(=そう思い込み、あるいはそう解釈して)」ショックを受けるのであれば、そういった部分のケアも必要だろう。

ただ、わざわざ「知って」とかぎカッコで書いたように、性の自己認識に環境ホルモンが何らかの影響をおよぼしていると確定したわけではないし、性同一障害との関係となると、ますますあやしい。だが、まったく両者の関係を云々することが、性同一障害に悩む人の苦しみを軽減することが全くできなかったとしても、それでも環境ホルモンが規制される、ということだけでも多くのメリットが残るだろう。やってみて損はないと思うのだが。

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98年9月某日

残念だ。非常に残念なことに、妻が小林よしのりの「戦争論」を買ってきてしまった。

わたしは、エイズ訴訟での彼の振る舞いで(具体的に言うと、川田君の顔をあんなに醜悪に書いたことだ)大いに失望し、「以後こいつには、一銭たりとも自分の金を渡さないぞ」と堅く心に決めていたのだった。
それだけに、たとえ妻が自分の金で買ったとはいえ、小林に金を渡したことになるから、とても残念だ注1

たしかに彼の「戦争論」はよく売れているらしい。だから古本屋で買おうって言ってたのになー。「ゴーマニズム宣言」にしても、最近のはほしいとも思わないけれど、どうしてもほしいと思った時は、古本屋で買うつもりでいる。そのぐらい、この人間がきらいだ。
まあせっかく買ったのだからと読んでみたのだけど、こいつは日本人の多くが臆病者だ、と批判的な姿勢を示していながら、その実自分はかなりの憶病者だということを隠しているね。これは具体的に言うと、宅八郎との論争なんだけど。

何かのフィールドで論争なり喧嘩をしていて、そこで負けたり、形勢が危うくなると、論争の場そのものをひっくりかえして、「こんなくだらんことにかかわっていられない」とばかりに論争そのものを無効だ、と宣言する。

これは憶病者、というより卑怯者の常套手段だ。

もし小林よしのりを大好きなひとがいるのなら、「教科書が教えない小林よしのり」(ロフトブックス)を是非読んでみてほしい。なかなか書店でもみかけないけれど、たぶん絶版にはなっていないはず。
ずいぶんぼろくそに言われているよ、それもけっこう大勢の人間から。

これだけ言われて、何も言い返せないのは、小林が本当に言われるだけのことをしているのか(たとえば雑誌「SPA!」で世話になった編集長をひどく攻撃したり、とか、 意味不明の言いがかりを宅八郎にぶつけておいて、後は逃げ出したり、とか)、あるいはただの憶病者だからか、そのどちらかだろう。
まあ、両方だろうと思うけどね^^;

注1 この項を読んだ妻から反論があった。いわく「小林よしのりは私も大嫌いだが、これだけ売れている以上、きちんとした批判をできるようにならなければいけない。そのためには、どうしても読んでおく必要があった。もし読まないで批判したら、それこそ小林と同じになってしまう」とのことだ。

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98年9月某日

フェラ・クティの本が出ていたので買って読んでいる。
まだ途中なのだが、本当にひどい迫害をたくさん経験しているんだなあ、と思った。サッカーのワールドカップで、スペインをナイジェリアが破った時には(実はスペインを応援していたのでがっかりもしたが)、あの強国を予選落ちさせたのだから、これは面白いことになるかもしれない、なんてちょっとわくわくしたけれど、フェラにこれだけひどいことをした国の代表だと考えると、見方も少し変わってくる。

そりゃスポーツと政治は全然別のものだし、それらをからめて論理的な主張ができると思ってるやつは愚か者だろう。が、感情とか気分というものは、またそういった論理とはまったく関係なく動きだすことがよくあるわけで、それにそもそも、私はここで論文を書くつもりはない。
全然別のものであるべきスポーツを、政治の側から利用しようという試みは過去にもあって、特に圧政を敷く立場のものが、しばしばその手の「ごまかし」をしてきている。実例をあげるまでもないが、ヒトラー=ベルリンオリンピックとかね。あるいは共産圏のスポーツ選手なんかは、つい最近までみんな政治宣伝の道具にされていた。

たとえばナイジェリアがワールドカップで優勝していたとしたら、おそらくそれを利用しようとするやつらが出てきただろう。そして、それはたぶん、この国にとって、あんまりよい結果につながらなかっただろうと思う。だから優勝しなくてよかった、・・・と言いきってしまうと、これはまたこれで、出場した選手に対して失礼だし、うーん、どういっていいのか、よく分からない。


ところでフェラの音楽は、まだ聴いたことがないひとには、一聴の価値有り、と自信を持っておすすめできる。メッセージとか思想は抜きにして、ただ音楽だけを取り出しても、オリジナリティのある、すばらしい音楽だ。わたしは「ゾンビ」が好きなんだけど、「Sorrow,Tears &Blood」もいいかな。いずれにしても、もうすぐ追悼企画としてCDの再発なんかがあるみたいだから、この文章をお読みになっている方には、ぜひお勧めしたい次第。

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98年9月某日・インターネットは個性を殺すか

ネットで趣味なり主張を発信する場合、一番気になるのは「だれが」そして「何人が」このメッセージを読んでくれるか、ということだ。それは私のような、ほとんど訪問者のないようなウェブページの持ち主でも同じ(汗)であるから、ホームページを作っているひとや企業は、訪問者の量や質をけっこう気にしているんではないか。なぜって、だれも読まないならアップしている意味がないものね。まあ中には、世界につながっている、という想像だけで満足しているひともいるかもしれないが・・・もちろん、私もそうかも知れない。

ただ、読み手の量を気にした時点で、書ける内容が変質してくる。受けをねらう、というのではないが、あんまりマイナーな話題や反社会的メッセージを掲載することができなくなってくるのだ。これはネットの自主規制うんぬんという問題以前の、いわば「自己規制」のことだ。
たとえば、・・・うーん、たとえるのが難しいんだが、最近数枚のCDを買ったが、そのうちわけが

1山下達郎「COZY」
2ベティ・ペイジのミニ写真集付きCD
3人民寺院の音楽CD。ゴスペルの他に、例の現場で回っていたテープ音源付き
4マーク・リボー「Shoe String Symphonettes」

といった内容だったとする(あくまでたとえだからね)。で、わたしが「ほのぼのマック家族」とかいった、家族でマックを使って楽しもう、といった趣旨のホームページの「趣味」のコーナーで取り上げる音楽CDを一枚だけ選ぶとすると、・・・

まず3はぜったいだめだろうね。
それから2もだめ。ヌードだけならともかく、ボンテージでは。
4の場合、紹介すること自体はいいけれど、それを読んで本当にCDを買ったひとから
文句がくることを考えると、やっぱりページの趣旨になじまない。

というようなことを一瞬で考えて、1以外に紹介できるCDがなくなってしまうわけだ。これは極端な例(くどいようだがたとえである)だけど、私のマック日記でも、マックに関係のある話題だけを書く、という自分で決めた制約がまずあって、なおかつ合法か違法かにわかに判断しにくいことがらにかんする話題を取り上げる際には、

これを書いてもOKだろうか
そもそも、これを書く意義はあるんだろうか

といったことを考え、ケースバイケースで判断している。ただ、その際に

これで読者が増えるだろうか

なんてことは考えていないから、少なくとも、すぐにネットの話題を取り上げて、「インターネットではこんなけしからんことがおこなわれている」とばかりに騒ぎ立てる一部雑誌なんかに比べれば、ちょっとはましかなとは思ってる(比べる対象が悪過ぎる、という感じもするが)。
とにかく、何かを書こうとする時には、想定する読者が多ければ多いほど、内容の制約も大きくなるというわけだ。まあ気にしないやつは気にしないんだけど、そういうひとのページは読者も当然少なくなる。
「でも少ないなりに、質の高い読者が集まってくるんじゃないか」と思う人も多少はいるだろうが、実はそうじゃないのだよね。ある種のマイナーな話題ばかりを取り上げているウェブページに集まるひとたちは、そりゃ最初のうちは、好意的にそのページをほめたりもするけれど、やがて、いさかいが始まることになっている。 これはほぼ、確実ととってもいいんじゃないかな。だって、考えてもみてほしい。そういうページをわざわざ探してくるひとたちといったら、自分の興味が世間ではあまり一般的ではないことを重々承知しているひとたちだ。自分の好きなものが世間では無視されている、ということはけっこう辛い。その反動からか、たいていこういうひとたちの趣味に対するのめり込み方はものすごい密度のものになっている。ささいな違いでも、それがさも重要な要素であるかのように指摘し、批判する。そういう重箱の隅をつつくような所作が日常的なのだ。そういうひとたちが集まる場所ときたら、もうどうなるかは火を見るより明らかだろう。

で、その中での淘汰の結果、さらに自分の趣味に引きこもっていく人間と、そもそも自分の趣味をネットで公開するのはやめよう、と考える人間とに分岐する。後者は毒でも薬でもない、趣味性の気迫なウェブページに参加するなどして、他人との接点を保とうとする。

とどのつまり、ネットで意見を言おうとするなら、果てしのない挙げ足取りの世界に入り込むのを覚悟するか、万人に受け入れられる、誰が言っても同じような話題を垂れ流すウェブページを作るしかない。初心は全然別であっても、結局はこのどちらかになってしまうんじゃないかと思う。
してみると、そもそも「何でも・誰でも言いたいことが言える」メディアであったはずのインターネットも、それほど自由じゃないのかな、という気分になる。

最初にも言ったように、その度合いは読者をどの程度意識しているかにもよるのだが、いずれにしても、誰かに読んでもらいたい、と思った時点で、すでに自由を縛る鎖が足にはまっているというわけだ。

まあ、大多数のひとたちは、そんなことどうでもいいのかもしれないけどね。

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98年9月某日

マザーテレサが死んで、もう一年になるのか。世間じゃあんまり話題にならないようで、代わりにほぼ同時に死んだ、さる英国人の話題で持ち切りだ。

私としては、このバツイチには全然シンパシーがないのだけれど、この人の死んだ日付のおかげで、マザーテレサが死んだ日も、そのたびに思い出すことができる。この分だと一生忘れずにいられそうなので、その点だけはありがたいと思っている。

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98年9月某日

アメリカのほとんどの州で施行されているといるメーガン法。今日ニュース番組ではじめてその存在をしった。

何でも性犯罪を過去に犯したものが移転してきた場合、その地域住民に告知するため、ビラを配ったりするという規定を定めた法律だそうだ。
そのビラには住所だけでなく、本人の写真まで載せられているという。

しかもそれを、アメリカ人のほとんどが支持しているという。

はっきりいって、史上最悪の法律だ、これは。


そして、それを大多数が支持しているというアメリカには、本当に失望させられた。

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98年7月某日

カスタネダまで死んでしまうとは思ってもみなかった。
しかも四月にはすでに死んでいたそうだからなお、驚き。
うーん、なんでいいひとばかり先に死んでしまうんだろうなあ。

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98年9月某日・忘れっぽさの功罪について


実は今日、会社でとってもいやなことがあったんだけれど、そういう場合でも、そうした屈辱を「まあいいや」と思わせてしまうのが忘却というもので、こういう能力(?)が、武器になる場合がある。
でも、それは同時に処世術という、私のちょっと嫌いな言葉の一部として語られることもあるよね。
たとえば妻のため、子供のため、家のローンのためとか、安定のために引き換えに差し出さなくちゃならないものは、そのほとんどが個人の尊厳だとか自由に大きく関係するものだ。
これらを大切に思うかどうかが、そのひとの人生の分かれ道なのかもね。あくまで自由を望むのなら、そのかわりに安定した職や地位、安静な生活は失われてしまいかねない。
ただねえ、実際に享受しているひとびとが、そうした安定をそんなに大切に思っているのかというと、それは疑問なんだよね。
安定ってのは、要するに何にも起こらないってことだから、その中にいる間は、その大切さがわかんない。かくいう私も、大切な何かと引き換えに安穏な生活を得ているひとりだから、今の安定と引き換えに、捨ててしまった何かが、とてもまぶしく見えるわけだ。
たぶん、実際以上に過大評価しているのかもしれん、いわゆる自由というやつを。

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4月某日

ウラジミール・ソローキンの「ロマン」という小説を、最近ではめずらしいぐらい、むさぼるように読んだ。解説があれこれと理屈をこねてラストの唐突さを称賛しており、私としてはそういう考えに与するつもりはないけれど、前半や中盤のロシアの伝統小説風の部分がとってもよいのは素直に認めたい。

タチアーナが表階段に立って鈴を降っていた。

このフレーズはすばらしいと思う。
帯などから結末を予想していた時は、このタチアーナが何らかの形で主人公をかどわかすのかと思っていたけれど、そうじゃなかった、というのもいい。やはりだんなが殺戮を繰り広げるのなら、妻は傍らで鈴を降っていなくちゃね。

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2月某日

近ごろ中学生が加害者になっている殺傷事件が多い。
典型的なのは、女子教師を中学生がバタフライナイフで刺し殺した、という例の事件だ。痛ましい事件だと思う。
マスコミを中心として、この教師にたいする同情と、中学生にたいする非難やナイフを未成年者に売るのはけしからん、持ち物検査もやむなし、といった、ちょっとピントはずれな声も聞かれる。
ただ、本当に怖いのは、残酷な事件が起こるたびに、そうした本末転倒の対処が提唱されることにたいし、「ああ、それも仕方ないことかもしれないな」と思わず感じていまう自分の精神の方だ。
幼女連続殺害事件が起こった時にはホラービデオがやり玉にあがり、O-157の食中毒やら食肉の伝染病が起こると貝割れ大根やら牛・豚・鳥肉といった食品がすぐに市場から姿を消したり、またそれらに比べれば全然深刻じゃないけど、テレビアニメ「ポケットモンスター」をみた子供が次々病院に運び込まれると、該当アニメが放映中止になるだけならまだしも、他の有りとあらゆるアニメ番組で、光の点滅シーンがなくなったりと、「似ているけど関係のないもの」や「疑わしいけど確実じゃないもの」にたいする疑念や排斥が、ここ数年当たり前のように行われていて、それを誰も疑問に思わない。
いや、私は疑問を抱いていたはずなんだけど、それでも繰り返し繰り返しやってくる災難や悲劇と、そのたびに出てくる犯人探しの茶番に何度も付き合わされているうちに、感覚が鈍磨してきたんだろうか。
それとも、そもそも本当に解決策足りうるだけの対処がなされていないからこそ、みんなして無力感の中に浸かりきってしまい、ほとんど無効な「対策」にすがりついてしまっているんだろうか。
私がまだ若いころ、年よりたちのこういうせりふに辟易していたものだ。「ちかごろの若いもんは・・・」。自分がそういうせりふを吐く年齢には、まだ達してはいないと思うのだけれど、それでも
「わしの若いころは、子供を惨殺して、その生首を校門にさらしたりなどするものはおらんかった」
「わしの若いころは、ちょっと注意されたぐらいで教師を刺し殺すようなやつはいなかった」
などと、つい口をついて出そうになる。
実際、現代の中学生や小学生は、たぶん私たちが同じ年齢だったころよりも、ずっとずっと多くの情報に囲まれて日日をおくっている。この「情報」という言葉は、そのまま「刺激」と置き換えてもいいだろう。
テレビゲームもビデオも、私たちの幼いころにはなかった。ついでにインターネットもなかったし、情報なり商品なりが、以前よりずっと簡単に何でも手に入る。そんな環境を当たり前のものとして享受しているのが「ちかごろの若いもん」だ。少なくとも、彼らに比べればずっと年よりである私からすると、そういう風に見える。
そんな「おやじ」の私からすると、たとえば
「取り返しが付かないことなんてない」という感覚を、テレビゲームのリセット、繰り返しで体験している子供たちは、現実世界でのひとの生き死にも、「取り返しがつかないこと」だとは考えていないのではないか?
とか
ゲームでは誰もが主人公であるし、インターネットのホームページや伝言板には、たとえどんなことを書いてもそれを罰するための有効な手段がない。どんなにひとを傷つけるふるまいや言動があっても、それはすべて「表現の自由」によって容認されうる。つまり誰もが王様であり、何をしても許される、という体験が多くなればなるほど、そうした虚構を現実に持ち込もうとする未熟者が増えていくのではないか?
陳腐なもののいいだ。自分でもよく分かる。この稿は手を入れて書き直そうと思う。

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1月某日

最近、久しぶりに日本人の作家の小説に傾倒している。篠田節子というひとで、90年に処女作を発表しているから、もう七、八年は小説をかいているひとなのだが、今まで全然知らなかった。
そもそも日本人の作家の小説は、最近まるきり読んでいなかった。あんまり期待もしていないし、新人と呼ばれる作家たちの作品は、興味がもてるものがなかったのだ。
この篠田節子というひとの小説も、たまたま書店で手に取った「アクアリウム」という文庫の解説を読んでいて、そこに書かれていた「神鳥(イビス)」という作品にかんするプロットが面白そうだったので、それで買ったのがきっかけだった。偶然といっていいと思う。
それからまだ数日しかたっていないのに、「アクアリウム」「聖域」それに短編集の「愛逢月」まで読んでしまった。
全部文庫だけど、どうもハードカバーまで読んでみたいなあ、という気分を自分の中に感じているから、やはりかなり気に入っているというべきだろうね。
こんな感じになるのは久しぶりで、なつかしくて、うれしい。ほしい小説を求めて書店を巡る、なんていうのは、学生時代はよくやったことだが、今それが再現されるなんて思いも寄らなかったし、うれしい誤算だ。
小説をあんまり読まなくなった今でも、書店巡りはわたしの生活の一部になっているけれど、その目的が明確で、しかも小説である、というのは、本当にしばらくなかったことだ。
本来私はあんまり小説を読んでこなかったので、この篠田節子さんの作品が、どんな感じなのか、というのをうまくたとえて伝えることはできないけれど、強いて少ない私の愛読書から当てはめてみると、ハイスミスに近い感じがある。
読後感はハイスミスに比べるとずっとさわやかだし、どうしてこの両者が類似しているのか、と問われると答えられないんだけれど、人間にたいするとらえ方というか、観点が似ているような気がするのだ。うーん、ここでも「気がする」などとあいまいな言い方しかできないのがもどかしい。
作品そのものの内容に関しては、文庫の解説などにあるように、読者が思いもよらなかったような展開と、それを読者に納得させてしまう説得力ある描写、とでもいえばいいんだろうか。実際そのプロットがどういうものなのか、具体的にかくことはしない。解説を読めば分かることだし、私が偶然に出会ったように、ここを読んだ誰かも、自分で偶然手に取って読んでみた方がいいような気がするからだ。

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11月某日

ちょっとした事情で実家に帰り、部屋の整理をしていたら、昔書いたものがたくさん出てきたので、アパートに持って帰ってきて、読み返してみた。
気恥ずかしくなるものらしいね、普通は。ただ私の場合、そういう感情はあんまりなくて、むしろ「ああ、昔はこんなに頭が良かったんだなあ」と、後悔にも似た感情がわき起こってきた。
知性というものは、実際にはどうでもいいものの蓄積から出てくるもののような気がする。どうでもいいこと、ささいなことが、積もり積もってそれなりのものを作り出していくように思えるのだ。
実際、学生時代は暇さえあれば本を読みビデオを見たり、その他ここにはかけないようなことを色々としたり体験してきたものだったから、そういう気持ちの余裕が、今目の前にしているこれらの作文となって現れたんだろう。
サラリーマンになると、あるいは何か働く場所を作るようになると、専門以外のことはどうしてもおざなりになってしまう。そうやって少しずつ、知性が死にはじめるんだろうか。そう思うと、何かいてもたってもいられないような、妙な気分になる。何かいい方法はないだろうか。どうすれば、馬鹿になっていく自分を少しでも回復させることができるんだろうか。
やっぱり練習しかないかな。そもそも自分の文章力の低下抑制のために、こうしてウェブページを作り続けているのだから、ここをうまく生かして、リハビリにつなげることができるといいんだけども。

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9月某日

バロウズが死に、フェラ・クティが死に、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンが死に、ついでに一条さゆりが死んだ。
これで打ち止めかと思っていたら、マザー・テレサが死に、追い打ちのようにショルティが死んだ。
あと、イギリスでもさる高貴な・・・高貴だった方が亡くなられたらしい。
直接つながりのあるひとたちは、この中にはほとんどいないのだけど、私にとってはとっても大切なひとたちばかりだったので、かなり落ち込んでいる。彼らを偲ぶ意味で、その経歴と、私自身にとっての位置づけをちょっと書いてみようと思う。

世界的に大きな損失といえば、誰をおいてもまずとりあげなくちゃならないのがマザー・テレサだろう。親切や博愛といった言葉につきものの「偽善」という言葉が、この女性の存在の前ではまったく意味をうしなう。このひとのすごいところは、絶望の縁にある人々に愛の手を差し伸べるという、誰も文句のつけようのない、だがだからこそかえって誰もしようとしないことを、とにかく本当にやってのけていたところにあると思う。
私はこのひとの宗教や、中絶反対の姿勢とか、同意できない部分がけっこうあるんだけど、それでも言葉の本当の意味で「敬意を払う」に値するひとだと思うし、たぶんこの先も、一生そう思う対象だと考えている(ところでさあ、私たちは、安易に使いすぎてないかねえ、この「敬意を払う」という言葉を。まあ、どうでもいいけどね)。
宗教がすばらしいと思うのは、こういうひとの存在を思い浮かべる時だ。
宗教そのものについては、とにかくこの世にはろくなものがないなあ、と常々考えている。実名をいちいち上げることはしないけど、およそ自分で知ったり聞いたりしたことのある宗教ときたら、どれもこれも屑のようなものばっか(^^;
特に、個性とか目的意識とか、才能とか特質とか、そういったものをすべて宗教がゆがめてしまう例は、数多くあるし、このページをお読みになっている読者の方達の信じている宗教にしたってそうだよ。
たぶんあなたたちは「でも、わたしたちの宗教は違う。本物だ」とか思ってたりするんでしょう? でもそう思ってるのはその宗派のひとたちだけで、逆にそういう傲慢さが普通のひとたちほ辟易させている、ということに早く気づいた方がいいと思うんだよね。
まあ、これもまた、ひとつの余計なお世話かもしんないけどさ(^^;
ただヴァン・モリソン(モルモン教)とか、マザー・テレサ(カトリック)とか、私があんまり好きじゃない宗教を信じているひとの中でも、時々宝石のような存在が現れることがある。有無を言わせない存在の輝き、とでもいえばいいのかな、いささか宗教がかった言い方だけど。
こういうひとたちは、たとえばカトリックだから生まれてきた人間なのではなく、「信仰」という、ひとの持つ、ひとつの大いなる可能性がそのひとの個性と混じりあって、最大限に生かされた結果として現れ出たものだ、そう私は思っている。
ここからは、私の勝手な思い込みになる。いわばひとつの「宗教」かも知れないけど、話半分で聞いてほしいな。要するに私は、信心とか信仰といったものは、ひとが自らの力で作り出した、もっとも不思議な力の現れじゃないかと考えているのだ。
つまり私は、「何かを信じる」という行為そのものを人為であるとみなしているんであって、神なんかいないって考える。
ひとは、自ら作り出した信仰の対象を崇拝するんだ。だが、それが決してむなしい営為ではないことは、さっき上げたような人々が時たま現れることから考えても明白だと思う。ひとびとが作り出した何かを一心に崇拝する、という行為は、翻して言えば、ひとにたいする絶対的な信頼の証だ。つまり神はひとびとの思いの集積所であって、そうした長年に渡る思いの積み重ねは、決して軽視されるべきものじゃないと思う。そして、これもまたオカルトがかった言い方になるけど、そうしたひとびとの思いが濃縮された場所、つまり神に触れたり近づいたことで、とてつもないことをしたり、思い付いたりする、それがいわゆる聖人だったりするんじゃないかな。
うーん、考えようによっては、かなり過激な意見かもしれないな。ただ、これは自分でも偏見じゃないと思うんだけど、いわゆるドグマに陥ってしまい、自己判断能力をまったく失ってしまったりすると、狂信的、とののしられたり、それに反発して「異教徒」の流血を目指したりする状態に陥る。そのことは、陳腐な言い方だけど、やはり歴史が証明してるんじゃないのかなあ。
私は、自分の良心と信ずる宗教とが矛盾するような場合、自分の良心を信ずるべきだと思う。
それをしないからオウムのような事件が起こったわけだし、宗教戦争が起こったわけでしょ。もっとも個人の自由な思考を許す宗教なんて、現代でさえ、ほとんど存在しないけどね。
だから私は宗教をあんまり好きになれないんだけどさ。
もっと軽やかに何かを信じられるひとが増えないかなあ。熱心に信じてもいい、というより、是非そうすべきなんだけど、そこにおぼれない程度に、自分をみつめる自分を想定できるような、そんな姿勢。これこそ私が理想とする信仰であり、信心なんだが。

読み返してみたら、バロウズやフェラクティの話を全然書いてないな。
まあ、長くなったので、いずれ別の機会に。

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某月某日

「End of EVANGELION」を見てきた。この話題に関しては極力避けていたんだけど、まあ、これでもう終りだからいいか。
感想を書くと、とてもすばらしくできていた部分もあるし、最低の部分もある、といったところになる。
どうせファンのひとも、こんな弱小個人ホームページなぞ読んでないだろうから言いたいことを書くけど、庵野監督は、「アニメオタクよ、現実に帰れ」と言いたいばっかりに、せっかくの名作をめちゃくちゃにしてしまったような気がするね。まあアニメに限らず、どんな作品でも着地点、つまり話の結末部分を作るのはとっても大変なことで、結末がひどいせいで、全体が台なしになってしまうこともよくある。エヴァンゲリオンがそうだったかどうかはともかく、あの映画の結末をてばなしで称賛できるやつというのは、どうかしてんじゃないかと思うよ。
そもそも、私がこのアニメを初めてみたのは第25話から。つまり、みんなを唖然とさせた手法(まあ手抜きという説もあるが、それは置いておいて(^^;)が初めて使われた個所からだった。
それ以後、フィルムブックも買ってしまったし、ビデオも買い集めた。また再放送のおりには放送のエアチェックまでしてしまっていたが、世間でいう熱狂的なブームというものが、ぴんとこないでいた。綾波がどうとか、アスカがどうとか、そういう話を聞いていても、なんでみんながそんなにいいっていうのか、まったく分からなかった。つまり、最後まで登場人物に感情移入できないアニメだった。
それなのになぜ見ていたのか?と問われると、まさにそれが自分でもよく分からなかったから。だから見続けていたのだったが。うーん、その答えも結局わかんないままだったなあ。
以前カバラとかにも凝っていたんで、オープニングのセフィロトの図にはちょっと興奮してたんだが、それも今回、実に取ってつけたような「儀式」として使用されていた。何で紫の初号機がティファレトなの? とかね(^^;
正直に言って、興奮させられたすばらしい部分もあるにはあった。狂気に満ちた絵画的風景の描写にも、すばらしいものがあった。
が、それもみな庵野氏の心象風景から抽出されてきたものだと考えると、作品の評価とは別に、またまたこの監督にたいする偏見が募ってくるなあ(^^;

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某月某日

ホームぺージにも色々あって、当然くずのようなページがほとんどになる。言っておくけど、くずみたいなページったって、 否定的に考えているわけじゃないよ。そもそもたいていの情報はガビッシュなんだからね。
その中から、自分にとって本当に大切な情報をより分ける、という行為がどうしても必要だし、インターネットのだいご味はそこにある、とも言える。
ただ、少しでも他人の目に触れさせたいと考えるのなら、何らかの付加価値をつけて、そうした情報を求めるひとたちに喜んでもらうしかない。で、ホームページをわざわざ作ろう、なんて考えるやつらは、ほぼ10割がそういうひとたちのはずだから、みんなで競って付加価値の王国を建設しようとするわけだな。
付加価値の付け方にも色々あるだろう。最初にだれでも考えるのは、デザインに凝る、という方法だと思う。これはこれで、目にも楽しい、眼福もののページができあがるんだが、第一の問題は、画像を中心とした意匠に凝りすぎると、必然的にデータ量が増え、ページが重くなってしまう、ということだね。
そりゃISDNやCATVの回線を使って接続している金持や運のいい人なら、そういう重さも、苦にはならないだろう。が、たいていの個人は、今でも28.8K程度のモデムで通信しているわけで、そういったひとたちを切り捨ててしまうような重いページは、何かを、より大勢のひとたちの伝えたいと願うのなら、できれば避けたほうがいいことのひとつじゃないのかな。
さらにもうひとつの問題がある。 バーチャル画廊やらご禁制の画像を展示してある一部の(いや多くの、といった方がいいかな(^^;)ページを除けば、たいていのページの情報では、重要なもののほとんどが文字、テキストで提示されているものだ。伝えたいものが文字であるとすると、それ以外の部分は、それらの情報をエレガントに伝えるための、いわばパッケージだ。
でもデザインに凝るあまり、内容にその分の労力が削られている、というページも多いんじゃないのかな。そうなると本末転倒だよね。まあどうでもいいことなんだけどさ。
私も、以前はもっともきれいなレイアウトや画像を使って、見た目のよいページにしようと色々画策した。でも最近は投げ出してしまっている。なぜって、自分で接続した時でさえ、トップページがなかなか読み込めないことがよくあるんだもん。
午後11時台でも、そこそこのスピードでページが読み込める。そんなページが今の私の理想であり、そのためにはと、現在のトップページだって、もっと軽いものにできればしたいと考えている。
その分の労力は、内容に注ぎたい。そう思ってはいるんだが・・・・(^^;

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某月某日

前回書いたことにも関連してくるけれど、ページの内容を充実させ、その分レイアウトなどの手抜き(^^;をしようと思っていて、その際にこのページも内容を改めたいと考えている。
「マックのことだけを書く」という目的ではじめたマック日記も、マックにかかわる方たちに、読んでいただこうと考えてはじめたもので、実際予想していたよりも多くの人たちに読んでいただいている。
そのことについては自分が幸運だと思っているし、読者の方達には感謝している。
ただ、一方でマックの記事に力を注ぐあまり、他の部分の話については、まったく書いていなかったことが、逆にマック以外のプラットホームでPCを使う自分の友人たちに、何も情報を与えない、無意味なページ、との認識を抱かせてしまったことも事実のようで、ちょっとそのことが残念であり、またずっとこころに引っ掛かっていた。
だから、この際、ページをちょっといじるついでに、もっともっと他の情報についても取り上げるようにしてみようか、などと考えるに至ったのだった。
ただねえ、今でも色々なことでマックにかんする忙しさを抱えているのに、これ以上何かができるんだろうか、という危惧もあって、この件については、今後どうなっていくのか、さっぱり見通しがつかないままだ。まあ、いいか。いいかげんが私の信条だし、いずれなるようになるだろう。

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某月某日

さて、ページの改装の中で、一番やりたいと思っていることは何かというと、マック日記のデータベース化なんだよね。
つまり、こっちで「クラリス」だの「SoftWindows」だのと検索条件になる単語を設定しておいて、そこをクリックすることによって過去の日記の記述の個所に飛ぶことができる。そういったハイパーテキストの利点を生かした体裁に、何とか作り替えてみたいと思っているのだ。
これはけっこう画期的な試みになるんじゃないかと自分では思っている。あんまりやったことがあるひとの話は聞かないしね。
もっとも、誰もやらないのには、それなりの理由がある。すごく面倒なのだ(^^;
通常の検索エンジンを搭載するほうが、数百倍も簡単だし、検索対象も、ずっとずっと広がる。
ただね、私は自分のローカルなページの中だけでそれをやりたいと考えているのだ。だから話がややこしくなるのかもしれないけれど・・・。
まあ、いいや。いずれやれるかどうかもはっきりしてくるだろうし。

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某月某日

最近「ベルセルク」という漫画を読んでいる。すごく引き込まれる漫画だが、誰にでも勧められるタイプのものではない。
また、説明するのもとても難しくて、・・・うーん、省略していってしまうと、中世らしき時代の騎士の話なんだが、残酷で迫力があって、何かしら心を揺さぶるものがある、といったらいいのかな。ただ、残酷なシーンは徹底して残酷に描かれていて、たとえば単行本にして6巻ぐらいを費やして活躍していた人々をいきなり化け物に食わせてしまったりといったシーンもふんだんに、いやというほど描き込まれていて、そのせいで読む人を選ぶ漫画になってしまっている。「蝕の刻」というそのシーンを読んで、二週間悪夢にうなされた、というひともいるぐらい。

ただ、そのシーンまでも読み切ってしまうと、言葉にできないような感慨がわき起こるのも確かだ。「ホラーというジャンルにくくってしまうにはもったいない」という言葉が聞かれるのもそのせいだろう。どんなジャンルのものであっても、一流はそのジャンル付けを無意味にしてしまうだけの迫力があるものだ。

でも個人的には、やはりこの漫画をどんなひとにでも勧める気にはなれないな。とにかく残酷描写がすごすぎるんだもん。こういうのが多くのひとの目に触れると、また何か残酷な事件が現実に起こった時に、「ホラー映画はこどもに悪影響を与える」とか口やかましく言う人々が出てくるに決まっているからね。

もうひとつ、最近読んだのは岩明均の「七夕の国」。

連載は読んでなかったので、やっと出た一巻の単行本を読んだ。まだ導入部なので、感想は言いようがないけど、彼独特の怖い雰囲気があふれていて、今後に大きく期待を抱かせる内容ではある。

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某月某日

このページはマック関連のものが多いんだけど、OSのプラットホームにかかわりなく、みんなにお奨めできる爆笑のページといえばうさちゃん祭りだね。
ここはずいぶん前に知ったんだけど、その迫力はいまだ他のページの追随を許さないものがある。まめに更新されているし、頭が下がる思いだよ、実に。(残念ながら、現在はありません)


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