穂積皇子
ほづみのみこ
- 生没年 673(天武2)?〜715(霊亀1)
- 系譜など 天武第8皇子(岩波新日本古典大系本『続日本紀』補注による。『続日本紀』本文は第5皇子とする)。母は蘇我赤兄の女、石川夫人。同母妹に紀皇女・田形皇女がいる。子には上道王(04/0694脚注に広河女王は穂積皇子の孫女で上道王の女とある)・境部王(坂合部王とも。16/3833に「穂積皇子之子」とある)が知られ、また聖武天皇の寵愛を受けた酒人女王は孫(04/0624脚注)。妻としては大伴坂上郎女が知られるが(04/0528左注)、正妃が誰であったかは不明。
- 略伝 691(持統5)年1.13、食封を500戸加増される。この時浄広弐。702(大宝2)年12.22、持統上皇が崩じた時、作殯宮司。翌大宝3年12.17、太上天皇を飛鳥の岡に火葬する際、御装長官。704(大宝4)年1.11、増封200戸。705(慶雲2)年5月、兄刑部親王が薨じ、同年9月、知太政官事に就任。翌年、右大臣に准じて季禄を賜る。708(和銅1)年6.25、但馬内親王が薨じ、この年冬、墓を見ての悲傷歌を作る(02/0203)。和銅6〜7年頃、大伴坂上郎女(当時15歳程度か)を娶る。和銅8年1.1、元日朝賀に際し一品に叙せられる。同年7.27、薨ず。
万葉には上記1首のほか、08/1513・1514、16/3816がある。また持統10年以前の作に但馬皇女の高市皇子・穂積皇子をめぐる三角関係を扱った歌(02/0114〜0116)がある。0115題詞には「穂積皇子に勅して近江志賀寺に遣はす時」とあり、0116には穂積と但馬の密通が発覚したとある。一説に穂積の志賀寺派遣を勅勘を被ったものとみる。但馬皇女は天武と氷上娘(中臣鎌足の女)の子で、高市皇子の妻。
関連サイト:穂積皇子の歌(やまとうた)
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