最近行った展覧会など(1998年〜)

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草間彌生展
(Bunkamura ギャラリー)

渋谷に出かけたついでに寄ってみた次第. 去年は森美術館,国立近代美術館と2回も草間彌生展があったのに 行けなかったのが残念だったので, 今回はギャラリーの即売ということであったが, せっかくの機会ということで行ってきた.

展示されていたのは約60点,版画が中心で, あとは立体作品,ペインティングが中心. "Obsession art"という名の示す通り, 水玉や網目をなす多角形など, 単純な要素の繰り返しからは強迫的な印象を受ける. 版画においてはそのような要素が特に強いが, 多色刷りのものはちょっとどぎつすぎるように思えた. 少ない色のものの方がすんなりと見ることができた (私が実は1枚持っている「かぼちゃ」も,黄色と黒の2色刷である). グラデーションをなす斑点からなる作品, ぶどうをモチーフにした緑と黒の2色刷, そしてラメ入りの紫をバックにしたハイヒールの版画については, 「家にあってもいいかも」と思ったし, 買えない値段ではなかったが, 飾る場所がないことに思い至って買わずじまい.

あと思ったのだが,草間彌生に限らず,現代の版画って, 白を基調とした無駄のかけらもないインテリアの部屋じゃないと, 似合わないんじゃなかろうか (うちにある草間彌生は,宝の持ち腐れかも).

(2005年2月11日鑑賞,12日執筆)


「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展
(横浜美術館)

デュシャンは前からずっと気になっていた作家であり, 年末にパリに行った時に ポンピドゥー・センター&オルセー美術館で, それからベルリンの「ハンブルガー・バーンホフ」で レディ・メイドの作品群を見たのだが, そのはるか前からこの展覧会は見ておこうと思っていたので, 行った次第である.

いきなり入り口で「泉」(京都国立近代美術館蔵)のお出迎えであったが, 触ろうと思えば触れるような展示法には少し不満. やはりここはガラスケースでビシバシに囲んで, 美術の権威を笑い飛ばした作品(何の変哲もないただの便器)を 現代美術の権威的作品として展示するという 皮肉な逆説を見たかった.

デュシャンが描いた数少ない絵画, しかも激しい議論を巻き起こした絵画として 「階段を降りる裸体 No.2」が展示されていたが, これがどうしてキュビズムの作家から激しい拒否反応を受ける羽目になったのか さっぱりわからなかった. 時間の概念が存在することがその理由らしいのだが, むしろ「空間を解体し再構築する試み」としてのキュビズムに, さらに時間を導入しようとするのはむしろ自然な試みに思えるというのは, はるかに時を経た鑑賞者の解釈ということになるのだろうか.

絵画の後はレディ・メイドの「作品」群. 「自転車の車輪」なんて,パリで見て,ベルリンで見て, ここで3回目.さすがに見飽きたという感すらあったが, サインすらなされていない櫛がガラスケースに鎮座ましましている様は, レディ・メイドという概念に既に十分馴染んでいるつもりでも, やはりすさまじい違和感を覚えずにはいられなかった.

次の部屋では,デュシャン最大の問題作と言われる 「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)の レプリカ(東京大学教養学部美術博物館蔵)がその威容を誇っていた. 自分の身長よりはるかにでかく,見るだけで圧倒された. しかしさすがに, フィラデルフィアにあるオリジナル(という言い方がいいのかどうかわからんが) のひび割れまでは再現されておらず,そこがちょっとばかし不満. それでも,各要素がそれぞれどんな意味を持っているかが, 様々な資料をもとに丁寧に説明されていたのは,非常に勉強になった.

その後は「モナリザ」の複製画に髭を描いた「L.H.O.O.Q.」, そして単なるモナリザの複製画に「髭を剃ったL.H.O.O.Q.」と銘打った作品. 初めて見た時は,そのあまりのセンスの秀逸さ(特に後者)に ひたすら恐れ入ったが, さすがにその時の感動が再びは訪れなかったのは仕方がないだろう.

その他にもデュシャンのいくつかの作品, さらにデュシャンの作品,あるいはその人自体に触発された作品のあと, 最後にあったのはデュシャンの「遺作」. フィラデルフィア美術館にあるそれは動かしようがないので, 映像+ステレオスコープによって, それを前にしたのとほぼ同じ体験ができるようになっていた. ほとんどベストの再現環境といえるんじゃなかろうか.

今回の展覧会は,デュシャンの軌跡,そして彼がいかにして 美術界に衝撃的な影響を与えて来たかを, 実に見事に整理していた. 「大ガラス」あるいは「遺作」といった, フィラデルフィア美術館から動かすことがほとんど不可能な作品についても, レプリカ,あるいはインスタレーションという形であれ, 日本に住む我々が鑑賞できるようにしていたことは,賞賛に値すると思う. それでも,私にはどこか食い足りないような感じが終始ぬぐえなかった. 自分にとってデュシャンがあまりにも familiar な存在に なってしまっていたこと, そして何より, 21世紀を生きる我々には, デュシャンですらもう「古典」になってしまったことが, その原因なんじゃなかろうか.

あと一つ苦言を呈するなら, 各部屋の一番最初に掲示されているべき解説文が, なぜか一カ所に固められていたことである. あれは完全に設営ミスだろう.

(2005年1月9日鑑賞,11日執筆)


「ピカソ展 躰とエロス」
(東京都現代美術館)

ピカソといえば,あまりに膨大な作品がある上に 様式も時代ごとに様々に変貌していくので, 私にとってはいまだに全容のわからない芸術家であるのだが, 今回の展覧会は「『躰』という題材をもとに,ピカソがどのように 抽象絵画へ向かっていったのか」ということがよくわかったように思えた. 展示されている絵の水準も総じて高く, 「ピカソ」あるいは「パリ国立ピカソ美術館」という名前に 頼ることのない水準の展覧会ということに好感が持てた.

そうは言っても相変わらずピカソは「よくわからない」作家であり, 今回よくわかったことは「絵画のどの部分が体のどのパーツに対応しているか などということを考えても無駄だ」ということであった. それでも今回のテーマの「躰とエロス」という言葉に如実に表れている通り, 女性の乳房や男性器などはいくら抽象化が進んでも, それとはっきりとわかる形で認識できることは面白かった. あと印象に残ったのは, エッチングの「ラファエロとラ・フォルナリーナ」の連作で, 一連のストーリーになっているだけでなく, 「隠れて盗み見る教皇がいる」などのちょっととぼけたタイトルが 面白かった.見ていて思わず笑いそうになったが, 横で見ていた若い女の子2人連れは実際に笑っていた.

(2004年11月20日鑑賞,12月5日執筆)


モネ − 光の賛歌
(広島県立近代美術館)

(2004年9月23日鑑賞)


「琳派 RIMPA 展」
(東京国立近代美術館)

日本画といえば、かなり昔に朝日新聞日曜版の長期連載で 仕入れた知識(しかもほとんど抜けている)と、 「なんでも鑑定団」レベルの情報しか持ち合わせておらず、 わざわざ見に行くことも滅多にない私であるが、 今回の展覧会は、 わざわざ RIMPA というアルファベット表記を用いているように、 クリムトやウォーホルなども展示して、 「琳派的なるもの」の普遍性を明らかにしようという企画である。 それを面白く思い、見に行った次第である。

クリムトの絵に迎えられて会場に入ると、 まずは俵屋宗達や尾形光琳の オリジナルの琳派の作品が展示されていた。 風神雷神など有名なモチーフもあったが、 改めて見ると、大胆な捨象、平面性など、 写実性や遠近法などを追求していった西洋絵画とはあまりにも違った 発展を日本絵画が遂げていた、 見方を変えれば、 そういったものに19世紀になってようやく到達した西洋絵画を あまりにも先取りしていたことがよくわかった。 そうは言っても、美術館じゃなく普通の家に置いてあったら、 「絶対『ただの古い屏風』としか思わないだろうなあ」 というような作品も多く、日本画の価値判断、真贋の判断は 難しいよなあと思わずにはいられなかった。 あと驚いたことの一つは、俵屋宗達が下絵を描き、 その上に本阿弥光悦が書をしたためた作品の贅沢さである。

19世紀以降、琳派が「再発見」された後の日本画は、虚心に見ると かなり前衛的で力強い作品が多かった。 印象に残ったものを挙げると、 菱田春草の「落葉」の何とも言えない幽玄さと浮遊感、 川端龍子の「草炎」の、黒をバックに金粉で描かれた植物の存在感、 加山又造の「千羽鶴」の圧倒的なスケール と言ったところだろうか(他にも印象に残った絵は多かったが、 多すぎて全ては覚えきれなかった)。

最後はこの展覧会の目玉であろう、 「琳派的なるもの」を海外や現代の作品に見るということで、 クリムトやウォーホル、あるいは現代作家の作品を展示していたが、 点数がそれほど多くない(クリムトは最初にあったものも含めて2点、 ウォーホルは1点)上に、ウォーホルと琳派と結び付けた解説も かなりこじつけに思えたので、 その点ではやや意欲が空回りだったような気がしてならない。 それでも面白い絵は多かったし、 企画の意欲自体は評価したい。 単に有名な作家の作品を並べるだけではなく、 美術に対する新たな視点を提供することこそに、 美術館と学芸員の存在意義があるわけだし、 全ての企画が成功するわけではないのだから、 むしろこのような企画は積極的に試みられて然るべきだと思う。

(2004年9月15日鑑賞、19日執筆)


「テレビゲームとデジタル科学展」
(国立科学博物館)

私の実家にはいわゆるテレビゲーム機こそなかったが、 中学生高校生くらいのころはパソコンで 「三国志」やマージャンなどのゲームをしまくっていたし、 友達の家に行ってはファミコンなどでよく遊んでいたものである。 そんなわけなので、 テレビゲームという言葉に何となく郷愁をも抱きつつ、会場に向かった。

最初のゾーンは、手回し計算機に始まる コンピュータの歴史が展示されていた。 黎明期の電子計算機の基板の、 抵抗などが剥き出しであまりに素朴なことには驚きを禁じ得なかった。 その中には、私が勤めている産業技術総合研究所の所蔵品が いくつかあったが、 産総研の前身の前身である電気試験所が、 日本の初期のコンピュータ開発において重要な役割を果たしていたようである。 あと、日本最初のコンピュータの一つが富士写真フィルムによって開発 されていたということも驚きであった。 世界最初の汎用コンピュータである ENIAC の、 メモリに相当する部分のほんの一部が展示されていたが、 真空管がずらずらと並んでいる様は時代を感じさせた。 思わず懐かしいと声に出そうになったのが、 実家にもあった NEC の PC-8001。 他にも本で見たことのある基板のみのコンピュータや、 シャープの MZ シリーズなどを見ると、 どっぷりと郷愁モードに浸ってしまった。 他に驚いたことといえば、マウスの原形が1970年頃には既にあったこと、 最初期のハードディスクの円盤は 自転車の車輪よりでかかったことなどである。

さて、テレビゲームに関する展示では、 黎明期に世界的にヒットした PONG (線分で表現されたラケットを上下させて 球を打ち合うゲーム)や、PlayStation2 を分解したものなど、 個々に面白い展示も多かったし、 光線銃のアイデアが30年前にあったことに感心させられもしたが、 やはりスペースインベーダーやパックマンなどの アーケードゲームが並んでいる様が壮観であった。 もう頭の中は「懐かし〜」という単語しか思い浮かばない。 さらに、1970年代以降の古い家庭用テレビゲームの数々と、 ファミコンなどの汎用ゲーム機、 さらに「ゼビウス」や「ファミスタ」などのゲームの画面を見ると、 どっぷりと懐古モードに。 「ゲームウォッチ」も非常に懐かしかったし、 他には NEC の初代 PC8801,PC9801、 SHARP の X68000、富士通の FM-TOWNS、SONY の MSX パソコン など、 昔を思い起こされるパソコンも数々展示されていた。

展示を見ていると、自分がコンピュータゲームの発展と 軌を同じくして成長していったことをしみじみと実感したし、 セガがコンピュータゲームの販売競争で尽く負け続けたことも 改めて認識できた。 さらに言えば、3DO Real とか PC Engine とか PIPIN at mark とか、 「こいつら一体どこに行ったんや」というハードウェアの山を 目の当たりにする機会なんて、滅多にないんじゃないだろうか。 それにしても、国立科学博物館が、 PlayStation2 などのゲームのハードウェアを所蔵品として 購入しているということには、 「博物館というのは、こんな方面にまで目をやっているのか」 という驚きを覚えた。

最後には最新のゲームが体験プレイできるコーナーや、 卓球をベースにしたインタラクティブアート、 多人数で行うゲームなどが展示されていた。 また、「ユビキタス・ゲーミング」という、 端末を借りて行うインタラクティブな企画もあったが、 こちらは別料金が必要だったこともあり、やらなかった。

展示内容としては極めて充実した非常に面白い展覧会であったが、 大きな不満と言えば、やはりゲームのほとんどがプレイできず、 画面として展示されていただけということである。 ゲームはプレイできてなんぼのものである。 上に書いた通り、最新ゲームが体験プレイできるところはあったが、 新しすぎるゲームは私にはついて行けない世界であったし、 EyeToy みたいな体を動かしてやるゲームなんて、 私のような30過ぎたおっさんがやろうとすれば、 コンパニオンのおねえちゃん目当てにしか見えんわけである (実際、プレイしていたのは例外なく小さい子供であった)。 やはり、私のような年代の人間としては、 スペースインベーダーやパックマンやゼビウスが、 たとえ1プレイ100円かかってもやりたかったわけである。 もちろん、機械の保守の問題もあるだろうし、 国立科学博物館をゲーセンにするわけにもいかなかったのだろうが、 展覧会の収益にも貢献しただろうにと思うと、 実に惜しい。

(2004年8月28日鑑賞、28,29日執筆)


MoMA ニューヨーク近代美術館展「モダンってなに?」
(森美術館)

MoMA といえば、3年前 に上野の森美術館へ見に行った時に、 すさまじい混み様の割に内容がそれほど充実しておらず、 あまりいい印象を持っていなかった。 しかし、 今回はかなり気合いの入った作品選択をしているはずだという 意識があったので、それなりに期待をして行った。 あと、今回は超ドメジャーな作品は来ていないし 派手な宣伝もしているようではないから、 前回ほどは混んでいないだろうとも思っていた。

そうは言っても、六本木ヒルズというロケーションと、 それなりに話題になっている展覧会ということもあって、 やはり混んではいた。しかし、森美術館は空間がかなり ゆったり取られているので、 上野の森美術館の全くなっていなかった設営とは異なり、 混雑が鑑賞の妨げになるようなことはあまりなかった。

この展覧会は、作家の連関、統一性よりは、 企画の側で設定されたテーマ (「根源に戻って」「純粋さを求めて」「日常性の中で」「変化に向かって」) に基づいた作品の選択がなされており、 たくさんの作家の作品がそれぞれ少数だけ展示されていた。 そのように頭の切り替えがかなりの頻度で必要になった上に、 作品点数もかなり多かったので、見るのにやや疲れた。 その場で印象に残る作品は結構あったが、 いざ会場を出るとほとんど覚えておらず、 図録を見て再確認をするという情けない有り様であった。

そんなわけなので個々の作品についてはとても論評できないが、 驚きとともに何度も思ったことの一つは、 「○○って、こんな作品もあるのか」 ということである。 ○○には、ポロック、モンドリアン、ジャコメッティ などが入る。 誰もが知っている彼らの様式に至るまでに経た 過程を見ているということになるのだろう。

やや意外だったのは、 シーレやココシュカはあるのにクリムトがなかったり、 イヴ・タンギーはあるのにダリが1点もなかっりしたことである。 絶対あると思っていたマルセル・デュシャンがなかったことも、 驚きであった。

特に「日常性の中で」においてであるが、 作品を前にして非常に悩ましい思いをすることが多かった。 例えばキャットフードの外装を石膏で作ったものや、 新聞紙をリトグラフにして、古紙回収に出すかのように 束ねただけのもの(いずれもロバート・ゴーバー作) や、新品の掃除機をプラスチックケースに入れただけのもの (ジェフ・クーンズ作)を見ていると、 ある物体が何をもってして「芸術」と呼ばれるのか、 さっぱりわからなくなってしまった。 単に作家名と作品名を記したプレートとともに美術館に置かれれば、 それで「芸術」ということになるのだろうか。 4年前にウォーホルの展覧会を見た時も 同じようなことを思い、 今回もやはり同じことを思わせるウォーホルの作品があったが、 それ以来私の芸術観は全く進歩していないということなのだろうか。

最も頭を悩ませたのが、 部屋の片隅にキャンディーを積み上げて 「1つお取り下さい」と書かれた小さいパネルが横にある、 フェリックス・ゴンザレス=トレスの作品である。 キャンディーは絶えず補充され、 作品として消滅することはないし、 誰もが自明と思うことすらないくらい自明に思っている、 芸術の不変性、固定性というものに根元的な疑問を投げ掛けたという 解釈は容易に成り立つのだろう。 しかし、鑑賞者がキャンディーを取ること、 あるいは誰かスタッフがキャンディーを補充することは、 本当に創造の1プロセスなのか、という疑問はぬぐえずに残る。 さらに、この作家は既に死んでいるという事実を知るに至って、 作家はこの作品に対して何をしたのか、 もっと言えば芸術家の作品に対する貢献というのは何なのか、 あるいは、いまここにある動的な作品に対して、 作家が責任を持てないという状況は「あり」なのか、 ということも思わずにはいられなかった。

展覧会の総合的な印象を書いておくと、 上述のように作家の名前、あるいは有名な作品に頼ることなく、 現代アートの特色、面白さを的確かつ雄弁に伝える、 極めて充実した展覧会だったと思う。 これは MoMA、および森美術館のキュレーターの意欲によるところが 大きいのではないだろうか(少なくとも、 3年前の上野の森美術館の時とは、 比べ物にならないほど優れていたと思う)。 惜しむらくは、 現代アートは解釈の助けがあるとより楽しめるという点では、 会場に文字による解説がもっとあってもよかったのではないかということである。 iPod を用いた音声による解説もあったようだが、 数が少なかったせいか、私が会場に入った時はすでに全て借りられていた。 これが手元にあれば、もっと楽しめたのではないかと思うと、 個人的に残念である。 あと、「純粋さを求めて」において、 モダニズムデザインの家具や食器などが多数展示されていたが、 それがやや唐突かつ散漫な印象を与えているように私には思えた。 そこはもっと点数を絞り込むべきであったと思うし、 いわゆる「デザイン」とアートとの連関、相違について、 もっと丁寧な解説があってもよいように思った。

(2004年7月31日鑑賞、7月31日、8月1日執筆)


Staatsgalerie Stuttgart 常設展、および企画展 "Munch, Nolde, Beckmann... Private Kunstschaetze aus Sueddeutschland"

シュトゥットガルトに来て、 州立美術館は現代物、特にピカソが充実していると知り、 喜び勇んでまずは出かけた次第。 一応 Alte Staatsgalerie と Neue Staatsgalerie に分かれていたので、 当然 Neue の方から。 私がまず入った部屋は20世紀初頭の部屋らしく、 シーレが一番印象に残った。しかし、シュトゥットガルトという場所柄か、 私の好きな分野の1つであるウィーン世紀末の芸術は、 これとココシュカ(ベストの作品とは思えなかった)しかなかったのが やや残念。 売り物のピカソのコレクションは、 確かにかなりの点数があった。 ピカソのコレクションを見ると私はいつも、 わずか数年で作風を劇的に変え、 どれもが芸術史に甚大な影響を与えたことに感嘆を禁じ得ないが、 今回もまさにそうであった。 その中でも最も印象に残ったのは、 バキバキのキュビズムの 何が描いてあるのかさっぱりわからない作品であった。 この手の絵を見るたびにいつも感じるのは、 空間の解体と再構築に対する強烈な意志だからである。

点数が多かったこと、それからかなりゆっくり見ていたこともあり、 忘れてしまったことも多いが、 一つはっきり覚えているのは、 「この絵誰が描いたんやろう。モンドリアンにしては 抽象度が足りんしなあ」と思ったら、 実はモンドリアンの絵だったことである。 そのほか、 昨日たまたま見た(ドイツ語の)クイズ番組で名前が出ていた、 ヨーゼフ・ボイスのインスタレーションが何点かあったことも 記憶に残っている。 また、ジャコメッティの絵画はかなり気に入った。 それから、現代ものについては、 まさに今を生きている作家のものもかなり多かった。 ただ仕方のないことではあろうが、総括的な印象は、 それぞれが一級の作品ではあっても、 超一級の作品はそれほど多いわけではないということである。

Neue の方でかなり時間を使ってしまったので、 Alte の方はざっと見ることしかできなかった。 印象派の面白い作品も何点かあったので、ちょっと残念ではあった。 一カ所非常に驚いたのは、 床に座って休んでいる、 掃除婦の老女の非常に生々しい像が、 何の前触れもなく古典的な作品の部屋の中に置かれていたことである。 夜これに遭遇したら肝を冷やすに違いないと思う。 あと、古い絵になると当然モチーフはキリスト教が多くなるのだが、 キリスト教についてほとんど何の知識も持ち合わせていないと、 この手の絵の鑑賞にはかなりの障害になることを思わずにはいられなかった (キリストの右のわき腹に必ず傷があること、 とげに満ちた薔薇の茎を頭に巻いて頂いていることがどういう意味なのか、 私は恥ずかしながら知らない)。 あとざっと見ながらだと、 やはり女性の体が極めて綺麗に描かれた絵に目が止まってしまったが、 理想的な美を求めるアカデミズムとも、 リアリズムを追求する新古典主義とも、 そういう絵はやや違うところにあるように思われた。 女性で思い出したが、ロダンの作品で、 女性が大股開きしたトルソがあったことには面食らってしまった。 ロダンなら他にも作品があるだろうに。

以上は常設展であるが、 企画展の題名にムンクの文字を見て、 これは絶対外すわけにはいかんだろうと、 追加料金を払って見ることにした。 個人蔵の作品を集めた展覧会らしく、 そのためにやや作品の集め方に散漫なものを感じたが、 それでも近現代の芸術運動、 特にドイツにおける潮流を、 そんな中でもうまくまとめていたように思う。 ムンクの点数は決して多くなかったが、 それでも久々に見るムンクは 他の作家に比べてすさまじいエネルギーをもってして 私を引き付けるように思えてならなかった。

(2004年7月17日鑑賞、執筆)


荒木経惟展 色情花
(エプソンイメージングギャラリー エプサイト)

荒木経惟の写真は何度か見に行っているが、 今回は3月17日付の朝日新聞夕刊の文化面で紹介されているのを見て、 見に行った次第。 行って初めて知ったのだが、今回の会場はエプソンが運営しているギャラリーで、 作品は全てエプソンのインクジェットプリンタで制作されているとのことであった。 正直なことを言うと、インクジェットプリンタによる作品は、 印画紙にプリントするのとどちらが優れているのか、私のような素人にはわからないくらいの クオリティであった。

テーマは花。しかも原色の絵の具を塗り重ねた花である。 乾き切っていない絵の具のヌメヌメとした光沢感、そして絵の具の原色の派手派手しさは、 極めてエロティックであった。 プリンタの出力による作品はかなり大きなものもあり、圧倒的な迫力があった。 前回荒木経惟の同様の作品を見たときは、 やや否定的な印象もないではなかったが、 今回は絵の具の色の鮮烈さにただ圧倒されるような感があった。 あと思ったことは、花にわざわざ絵の具を塗るというのは一種の凌辱であり、 それがさらにエロティックな印象を与えるのではないかということである。 会場では荒木経惟と美術史家の人の対談の様子が上映されていたが、 その中で荒木経惟は同じことを言っていた。

(2004年3月21日観賞、22,23日執筆)


2003年

アンディ・ウォーホル展
(渋谷パルコミュージアム)

荒木経惟 花人生展
ディジタル・イメージ2003【デジタル・アートの交響】
「20代作家の挑戦 IN&OUT」日本・韓国

(東京都写真美術館)

メトロポリタン美術館展
(Bunkamura ザ・ミュージアム)


2002年

ロバート・メイプルソープ展
(大丸ミュージアム・東京)

アイ・ラブ・アート展 Part6
(ワタリウム美術館)

カンディンスキー展
(東京国立近代美術館)

雪舟展
(京都国立博物館)

ウィーン分離派 1898-1918 クリムトからシーレまで
(Bunkamura ザ・ミュージアム)


2001年

西原理恵子 大ブレイクへの道 −りえぞお初の展覧会−
(渋谷パルコ パート3 スクエア7)

ニューヨーク近代美術館名作展
(上野の森美術館)

村上隆 召喚するか ドアを開けるか 回復するか 全滅するか
(東京都現代美術館)

メルツバッハー・コレクション展 色彩の歓び The Joy of Color
(安田火災東郷青児美術館)

メイプルソープ&アラーキー 百花乱々展
(小田急美術館)

ジャン・コクトー展【美しい男たち】
(Bunkamura ザ・ミュージアム)

ジャン=ミシェル・バスキア展
(Bunkamura ギャラリー)

ウィーン、生活と美術 1873-1938
(府中市美術館)

20世紀版画の軌跡展
(安田火災東郷青児美術館)


2000年

死の舞踏 中世末期から現代まで
(国立西洋美術館)

マティスとモデルたち
(東武美術館)

野村仁 生命の起源:宇宙・太陽・DNA
(水戸芸術館現代美術ギャラリー)

マックス・エルンスト
彫刻・絵画・写真−シュルレアリスムの宇宙

(東京ステーションギャラリー)

エリック・サティ展
(伊勢丹美術館)

アンディ・ウォーホル展
(Bunkamura ザ・ミュージアム)

モナ・リザ 100の微笑
(東京都美術館)


1999年

ダリの世界
(松坂屋美術館)

ラブズ・ボディ ヌード写真の近・現代
(大阪天保山 サントリーミュージアム)

ムンク版画展
(京都国立近代美術館)


1998年

パティ・スミスと仲間たち展
(美術館「駅」KYOTO)

シャガール展
(大丸ミュージアム梅田)

シュルレアリスムの巨匠展
(近鉄アート館)

ロバート・メイプルソープ展
(大丸ミュージアムKYOTO)

森村泰昌[空装美術館]絵画になった私
(京都国立近代美術館)

ピエロ・クロムランク版画コレクション
ピカソ「愛とエロチシズム」

(美術館「えき」KYOTO)

パリの写真家たち
ポンピドー・コレクション写真展

(サントリーミュージアム[天保山])


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