ご意見等は
まで
ダリは昔(確か大学学部生の頃)に見てすさまじい衝撃を受けて以来、 非常に好きな画家の一人なので、 楽しみにして行ったのだが、 正直に言って少し期待はずれであった。 それはやはりダリという衝撃に自分が完全に慣れてしまっていた ということもあったからだと思うし、 ダリの作品の中で非常に重要な位置を占めるような作品が あまりなかったからだとも思う。 しかしダリが二重の解釈が可能なだまし絵のような絵を描いていたというのは かなり意外な気がしたし (あとでナルシスをモチーフにした絵のことを思い出したのだが)、 ダリが原子核物理や数学など、 全く違う分野のことに強い関心を持っていたことなども改めて認識させられた (球がたくさん規則的に並んだ絵は明らかに原子からなる結晶を意識したもの だろうし、 晩年はカタストロフ理論に興味を持っていたらしく、 数式の入った絵を描いていたようだ)。 あと、 微妙に違う2枚の絵を使った立体視も試みていたということは知らなかった。 ダリの表現方法についてどん欲なところを認識できたことはよかったと思う。
この展覧会は学部の時の友人2人と見たのだが、 見終ったあと、 「習作が展示されるというのは、製作の過程をさらけだすことになるから、 自分だったら嬉しくないと思う」という全うな意見から、 「ダリは芸術家になれんかったら爆弾作るような奴になっとったんとちゃうか」 というすさまじい意見まで出てかなり楽しめた。
(1999年8月8日観賞。9日執筆)
写真という表現手段は、 あらゆる種類の芸術において考えられるべき、 表現者と観賞者との関係 (しかし、 表現は観賞者があって初めて成り立つということすら忘れ去られることが多い) だけでなく、 表現者(写真家)と被写体、 さらに被写体と観賞者の関係についても考察を加えないと 正しい理解を得ることができないという点で非常に特殊な芸術だと思う (人物画でも同じではないかという意見があるかもしれないが、 人物画は写真よりも、創作される時にそのような意識が弱いと思う)。 とくにヌード写真というのは、 被写体と観賞者との関係が特に肥大するし、 観賞者の価値観が 創作者の価値観に強い影響を与える可能性もあるという点でも、 興味深い考察の対象であるといえるのだろう。
この展覧会の大きなテーマは、 「若くて美しく健康的な肉体をよしとする」という ヌード写真を観賞する側が普通持つ(もちろん私もそうであるが) 価値観にアンチテーゼをとなえ、 被写体と観賞者の関係を改めて考えさせることにより、 究極的には人間同士の関係、人間という存在を考えさせるということである。 だから、被写体が若くて健康的な女性であるということはほとんどなくて、 男であったり、生まれつき手が欠損している障害者であったり、 カタコンブにある死体のミイラですらあったりする。 さらには極端にデフォルメされて、 どこがどの体の部分であるかもわからないという写真もあった。
あと、パフォーマンスのビデオも上映されていた (誰がやっていたかは忘れた)が、 まず思ってしまったのが
「こんなことやって飯食ってる人もいるんやなあ」
ということであった(おのれは人のこと言えるのかという突っ込みはやめよう)。 さらに、予想してたよりかなり長時間のパフォーマンスだったので、 「こんなのマスターベーションを見せつけているだけとちゃうんかい」 ともつい思ってしまった (おのれの日記はどうやねんという突っ込みもやめようね)。 パフォーマンスは、観賞者に拘束を強いるのだから (もちろん「こんなものにつき合ってられるか」 と退場することもできるが、 一瞬でその前を去ることのできる絵画観賞、 ページを閉じることのできる読書よりははるかに拘束が強い)、 この表現でないといけないという理由がより強く求められる表現形態だと思う。
あとがく然とさせられたのが、 モデルが何十本という注射器の針を刺したり、 乳首ピアスをしたり、 体を傷つけることにより皮膚に絵を描いたりしていた写真。 これは正直言って、 自分の身をなぜここまで痛めつけるのか全く理解できなかった。
最初の方に書いたように、 この展覧会は非常に意欲的な動機のもとに開かれたものであったが、 写真の点数がそれほど多く感じられなかったのが少し残念だった。 また、かなりマニアックな展覧会だっただけあって、 土曜の昼間だったにも関わらず観賞者は異常に少なかった。 興行的に成功するのかどうか、他人事ながら非常に不安を感じた。 あと、紹介されていた中で、 比較的最近(80、90年代)に死んだ写真家は、例外なくエイズで死んでいた。 人間という存在を普通でないところでとらえていた芸術家に、 現代の病は容赦なく襲いかかっていたことを改めて認識させられた。
(1999年4月17日観賞。21日執筆)
私は好きな画家を3人挙げろと言われたら 必ずムンクの名前を挙げるほど、 ムンクの絵画には強い引力を感じ続けてきた。 確か5年ほど前、大阪でムンクの大規模な展覧会を見に行った時、 ダリの回顧展と同じくらいのすさまじい衝撃を受けたことを はっきりと覚えている。 今回の展覧会のことを知った時、 「よくぞ私が京都にいる間にやってくれた」と 感謝の念を覚えたくらいである。
その期待に答えるには十分過ぎるほどの充実した展覧会であった。 入口にいきなり現れた「叫び」の版画version (ドイツ語で題名(Geschrei)などが書かれていたのも発見であった)と、 骨を一緒に描いた不気味な「自画像」にも強烈なインパクトを受けたが、 まず強い印象を受けたのが、 顔を塗りつぶし境界線をけすことで2人の強い結び付きを表した 「接吻」のシリーズ。 また、5年ぶりに見た「マドンナ」のシリーズも、 いろいろ考えさせられるものがあった。 普通「マドンナ」は性的恍惚の表現と解釈されるみたいだが、 そんな単純なものなのだろうか。 私には何かすべてを突き放すような超越をそこに感じた。 全知全能の存在にとって、 不完全な人間なぞまるで取るに足らない存在であるということを 表現するかのような。
点数でも、その質の高さでも非常に満足のいく展覧会であったのだが、 そのなかでも最も強烈な印象を与えたのは 「病める子」のシリーズであった。 人生経験も少ないにもかかわらず、 全てを、自分を待ち受けている運命をも知ってしまった子どもの、 その運命を受け入れる決然とした様とも、 それにおびえる不安さや悲しさを表した様とも取れるような 深い奥行きをたたえた表情、 特にその目に強く魅入られて、 私はしばらくそこを動くことができなかった。
その他にも、ムンクは日本の広重の浮世絵に強いinspirationを 受けた絵を描いていること、 「嫉妬」のシリーズの正面を向いているのはムンクではないこと (私はムンクだと思い込んでいた)など、勉強になることも多かった。 あと考えさせられたのが、ムンクにおける「裸婦」の扱い。 もちろん世の中には、 裸婦を描いた絵なんぞそれこそ腐るほどあるのだが、 今回ムンクの絵を見ていて、ムンクほどに裸婦を 「男性の性的欲望をはらんだ視線の対象としての存在」 として描いた画家は実はそうはいないのではないかと思った。 私見だが、大体において裸婦は「曲線美の具現」 として描かれてきたのではないか。 アカデミズムに対する反逆として描かれてセンセーションを巻き起こした ような官能的な裸婦ですら、 そこに例えば、 男性の視線に対するおびえのようなものを感じるのは難しいような気がする。 「他からの視線に不安を抱く存在」として裸婦を描いたという点でも、 ムンクは他の画家とは違う特異な存在だと感じた。
出口では、思わず図録だけでなく 「叫びファイル」と「叫びTシャツ」まで買ってしまった。 後輩にTシャツの話をしたら思いっきり「かっちょ悪〜」と言われた。 夏に「叫びTシャツ」を着ている福田を見たら笑ってやって下さい。
(1999年3月6日観賞、執筆)