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Last modified: Tue May 3 21:59:32 JST 2005
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題名の通り,写真家荒木経惟のドキュメンタリ. いきなり「週刊大衆」誌の連載企画「人妻エロス」の 撮影現場から始まり, 荒木の「エロオヤジ」ぶりが遺憾なく明らかになっていくし, 「写真にセックスさせている」などといったいかにもな台詞も ポンポン飛び出して来るが, 彼のそうした姿勢は女性に対する崇拝,賛美からなるものだということが, 本人の口からも明らかになる. また彼の撮影風景からは,彼がいかにエネルギッシュであるか, 又本当に楽しそうに写真を撮っている様が伝わってくる. また,被写体である女性といかに交歓しながら距離感を縮めて いっているのかということもよくわかった. 彼女たちが荒木の前で警戒心を全く取り去っていることが驚きであった. インタビューに答える森山大道,北野武が「かわいく見える」 「シャイなんだよ」などと荒木のことを評しているが, そういう彼の特質が,あのような体温のする写真に結実しているのだろうか.
あと印象に残ったことを2点. 1つは彼のヌード写真に頻繁に施される「修正」について, ある芸術ジャーナリスト(だったと思う)が 「日本の恥だ」と言っていて,荒木も「修正が入るのは日本版だけだ」と 言っていたが,そのような修正の無意味さについては全く同感である. もう1つは,一見底抜けに明るく見える荒木であるが, 妻の死などの辛いことを当然経てきており, 心の傷を癒し悲しみを消し去るために写真を撮ると言っていたことである. 彼の写真の人間臭さはそういうところに起因しているようにも思えた.
敢えて苦言を呈するなら,彼の作品がまとめて映し出される時に, あまりにも素早く次々と写真が変わっていき, ゆっくり見られなかったことである. じっくり見たければ,夏発売の DVD を買えということなのだろうか. あと,彼のことをよく知る人にとって, どの程度新しい発見がこの作品であるのか,よくわからなかった. 彼に関するドキュメンタリは数々作られているはずだ (NHK でも放送されているくらいである)が, そのような過去のドキュメンタリを見て形成されるであろう 彼のイメージからは,それほど逸脱していないように思えた (ヌード写真を撮る風景は, テレビのドキュメンタリでは見られないのだろうが). それでも,この作品は 彼の仕事がよくまとめられており, 「愛すべきシャイなエロオヤジ」という彼の人間性も, 好感とともにうまく紹介されている良い作品だと思う.
あと,この映画を見た映画館「ライズX」について書いておくと, 専用の映画館ではなく,ビルの中に空いた吹き抜けのスペースに スクリーンとスピーカーを置いて急ごしらえで作ったという感があり, どこか異様な雰囲気が漂っていた. また,私が確認できた限りでは,観客は私を含め4人しかいなかった (席は40弱くらい).
(2005年4月24日観賞,24日,5月3日執筆)
250人のベルリンの子供達が, ベルリンフィルが演奏する「春の祭典」をバックに踊る ダンスプロジェクトの過程を追ったドキュメンタリーフィルムである. 私はサイモン・ラトル+ベルリン・フィルの方が目当てで行ったが, この映画の主役はあくまでも実際に踊る子供達, そして振付家のロイストン・マルドゥームであった. その意味ではやや食い足りないところもあったが, ロイストン・マルドゥームの振り付けにかける真剣な姿勢, そして初めは全然やる気の感じられなかった子供達が 見違えるように見事な踊りをするようになる様は, 実に素晴らしかった. さらに印象に残っているのは, 子供達がいかにそれぞれに苦悩しているか (その中には内乱で両親を殺され,独りドイツにやってきた ナイジェリア出身の青年がいた)が 決して感情的にならずに淡々と描かれていたこと, そしてロイストン・マルドゥームとサイモン・ラトルが, 抑えた口調でしかし決然と, いかに芸術と教育が人間にとって大切かを語る様であった (ラトルはベルリンの切迫した財政状況にも言及していて, そんな状況でも芸術がいかに重要かを説くために 「芸術はぜいたくではなく必需品だ」と力説していた). 彼らがいかにこのプロジェクトに対して真摯な姿勢で臨んでいるかが, ひしひしと伝わってきた.
また,映画館の音響であってもベルリンフィルのマッシヴな 響きは十分に堪能できた. それから,変拍子が縦横に駆使されている 極めて複雑な「春の祭典」を子供が踊るのはそもそも無謀なんじゃないかとも 思えたが, それでも子供達を必死で指導し見事に結実したことには 驚くしかない.
しかし返す返すも残念だったのは, この映画では楽したのが 「春の祭典」,そして踊りの細切れであり, その全てを見ることができたわけではなかったことである. あくまでドキュメンタリーということで 踊りの上演全てを取り込む必要はないとされたのだろうが, この映画を見に来る客層を考えれば, 30分くらい上映時間が長くなっても, 本番の上演の様子を最初から最後まで入れるべきだったのではなかろうか.
(2005年2月11日観賞,12日執筆)
「上戸彩がおっぱい揉まれとるらしい」という極めて不純な動機のもとに, 友人と2人して見に行った. 綿矢りさの原作は当然未読. 敢えて他に見に行った材料を探すとすれば, 監督の片岡Kが演出していた BS Fuji の バラエティ番組「宝島の地図」における 非常にシュールな世界を, むかし非常に楽しみに視聴していたので, 彼がどんな映画を作るのかに興味があったというのもある (説得力ゼロかも).
結論から言うと, ちまたに流布しているあまり芳しいと言えない評価よりは, よく出来た映画だと思った. 友人も「ただのアイドル映画と思っとったが,,,」と言っていたし. 特に秀逸だったのが, かずよしを演じる小学生の子役. どこか小憎たらしい物言いが実にうまく (自分がそういう小憎たらしい子供だったからか), 何度も大笑いしそうになった. 「『日常茶飯事』が読めなくて,『スカトロ』がわかる 小学生がいるのか?」とも思ったが,野暮なツッコミだろう. 朝子を演じる上戸彩も実にはまり役で, 「他に演じるとしたら誰やろう」と2人して考えたが, 誰も思いつかなかった. またアイドルに甘いと言われるかもしれないが, 20才程度の女優として, 彼女はいま余人に替えられない地位を占めていると私は思う.
それからこれは原作を褒めるべきかもしれないが, 現代の高校生くらいの若者の不安定な心境を 平易な言葉でうまくすくいとっているように思えた. 「上戸彩のモノローグが上滑り」といったような評も見たが, 私にはそうは思えなかった. そこで語られている, 最近の若者特有の不安定な心境を,自分のこととして理解できるのは, 私たちぐらいの30代前半が恐らく上限なんじゃなかろうか. 映像感覚の軽さも考えると, それ以上の世代の映画評論家に, この映画を肯定的に評価することは不可能だと思う (そもそも,そういう世代の評論家は エロチャットが何なのかすらわからないだろうし).
細部に妙なこだわりを見せているところも面白かった. コンピュータに疎い「おじいちゃん」の演技は大笑いだったし, 8年前に買ったという設定で, Mac OS 9 しか載らないマッキントッシュが「出演」していた. また,綿矢りさの本(たぶん「蹴りたい背中」)も, さりげなく小道具として使われていた. あと,バスのアナウンスが「バスが止まるまで,立っちゃ駄目よ」 という人を食ったようなものになっていたし. だからこそ逆に,「(2台のパソコンをつないでいる) ケーブルが太過ぎるやろ」とか, 「Mac OS 9 に感染するウイルスなんて今頃あるのか?」 とか,細かいことに甘く思えるところがあったが.
問題点を挙げれば, 上戸彩がおっぱいを揉まれるシーンの後は 要らないんじゃないかとすら思った. 朝子がかずよしにおっぱいを触らせ,逆にかずよしのほほを触り返す. ここで終わっていれば, ヴァーチャルな世界に自分の居場所を見つけかけていた 朝子がリアルな人間関係をそこにしかと見い出すということで, きっちり話がついていたんじゃなかろうか. しかしその後の不要とも思える種明かし, そしてあまりにもばたばたと終わるところは, それまでの展開からすると非常に違和感があった. あんな風に無理に着地させる必要はなかったんじゃないか. 「みんな映画に『結論』を求めるからなんじゃないか」 と友人は言っていたが, そんなものなのかな.
最初に書いたように,片岡Kが関わった番組を何度か見ていたし, またああいう軽いセンスの映像は割と好きなので, 彼の映像感覚はすんなりと受け入れられた. また,「音楽がうるさい」という評もあったが, そんな違和感は私にはなかった. それでも,あの感覚はかなり人を選ぶだろうし, 好みに合わない人が叩くのはもっともだと思う. ただ,例えば「リアリティがない」などという評があるとすれば, 的外れもいいところだろう.そもそもが映像にリアリティを必要とする 物語ではないし,片岡Kがリアリティなんぞ求めていないことは 火を見るよりも明らかだからである (リアリティを求めていれば,上に書いたような「立っちゃ駄目よ」なんて アナウンスを絶対使ったりはしない).
(2005年1月16日観賞,執筆)
宮崎アニメは割と素直に好きな方であるが, 「千と千尋の神隠し」はまだ見ていないし, そもそも宮崎アニメを劇場で見たことがあるのかどうかも 思い出せない私である. 以下に書いた文章は,宮崎アニメに対してはそんな程度の受容歴の人間が 書いたものである.
「んなん,力学的に安定なわけがないやん」などという, この手の映画を見る時には絶対言ってはいけないツッコミが 頭をよぎってしまったスタートであったが, 何だかんだ言っても結局引き込まれて見てしまった. 正直なところ,後半は話を性急にまとめようとするあまり, やや展開が唐突に思えたところがあったが(例えば,なぜソフィーが 引っ越しを主導しないといけなかったのか,とか) 最後は非常にわかりやすい,見事な大団円. 戦争の愚かさ,人を愛することの大切さなどといった 非常にわかりやすいメッセージ性, そして宮崎駿ブランドということもあり, 安心して見られる映画という点では文句のつけようがないだろう.
ただ,上に書いたようにやや性急な展開があるところ, またソフィーの容貌が状況によって細かく変化していったりすることを思うと, 子供には(下手をすると大人にも)ちょっと難しい映画のような気がする. それでも当然とはいえ,親に連れられて見ている子供はいっぱいいたが.
あと,声優(ハウル)が木村拓哉ということを聞いて非常にネガティブな イメージを持っていたのだが,彼はハウルのキャラクターに良く合う いい声をしていたと思う. 妙な偏見を持ってはいかんということを思い知らされた. 倍賞千恵子は,若いソフィーの声としては,やや違和感があったが, 老いたソフィーの声としては良かったんじゃなかろうか. それから,美輪明宏はこれ以上ないというくらいドンピシャにはまっていた.
印象に残ったことの一つは,魔法をかけられて老女にされたソフィーが, 自分の運命を非常に早く,また積極的に受け入れていたことである. 自分があの立場なら,あんな態度をすぐに取るなんてことは 絶対できないと思ったからである. また,ハウルがソフィーに,「いま自分には守りたいものができた.君だ」 と決然と言い切ったことも非常に印象的だった. やっぱり男としては,ああいうことが言えないと駄目なんでしょうな.
あと,私は見る前に 「これまで自分が見たこともないような映像スペクタクル」 というものを期待していたが, 残念ながらその期待に十全に答えるものではなかった. さすがに「ナウシカ」を見て感銘を受けた頃とは アニメーションの技術も格段に違うし, そもそもそういうものを求めるなら宮崎アニメ以外にも 色々見るべきものがあるだろうというのが, 「イノセンス」に度肝を抜かれた私の今のところの思いである. それでも,空を飛ぶシーンを始めとする映像の美しさは, さすが宮崎アニメだと思ったが.
(2004年12月11日観賞、19日執筆)
東京に出た時に映画でも見ようと思い、 「ぴあ」をつらつらと見ていて、 「ベルトルッチの新作かあ」と思って見に行った次第。 とは言っても、ベルトルッチといえば「ラストエンペラー」しか 見ていない私ではあるが。
ストーリーとしては、 1968年、5月革命前のパリで、 アメリカ人留学生の主人公マシューが イザベルとテオという双子と街で出会い、 3人の共同生活が始まって、、、と言った感じだろうか。 マシューを演じたマイケル・ピットに対してはどうしても 「レオナルド・ディカプリオのパチモン」という印象を拭えなかったが (役者として悪いと言うわけではない)、 双子を演じたエヴァ・グリーンとルイ・ガレルは、 若者特有の脆さ、官能性をうまく醸し出していて、 画面を引き締めていたように思う。 それから、全編を通じて流れていたロックミュージックが、 どこか時代を感じさせるものがあった。
若い男と女が共同生活をしていてセックスが描かれないはずはないし、 実際それがこの映画の重要なテーマの1つであるのだが、 ボカシが入りまくりで極めて興醒めであった。 アンダーヘアが映れば即アウトという機械的な修正ではなかったし、 仕方がない部分もあるのだろうが、 どうにかならないものだろうか。 この映画は R-15 で公開されていたが、 どうせ16,7才のガキンチョが見にくるような映画でもないのだから、 最小限の修正で R-18 ということで公開すればよいものを。 ただ思い返せば、 わざわざ R-18 にするほどセックスシーンがあったわけでもないから、 難しいところだったのだろうか。 それにしても、マシューとイザベルが台所の床でセックスしている横で、 テオが目玉焼きを作っているシーンの、 あまりに異質な行為の対比には、驚きと違和感を禁じ得なかった。 それから、イザベルが処女だったという設定には、もっと驚きを覚えた。
この映画のもう1つの重要なテーマは「映画」。 登場人物3人の映画に対する知識と情熱は並々ならないものがあり、 またヌーベルバーグやハリウッド全盛期の古い映画が しきりに用いられていた。 ただ、この時代の映画を全くといっていいほど知らない自分には、 彼らの、そしてベルトルッチの情熱に対して、 深い共感を覚えるまでには至らなかった。 この時代の映画をよく知っている人には、 全く違う印象を与えるのかもしれない。
彼らの頽廃的な生活には、当然いつか終わりが訪れる。 いかにもありがちな終わり方だなあという展開から 話は急転して本当の終わりを迎えた。 私にはまず最初の「ありがちな」終わり方も、 その後の本当の終わり方にも、何か唐突さを覚えずにはいられなかった。 特に最初の終わり方は、「衝動」以外に何も正当性を見いだせなかったし、 急転の仕方にもいまいち必然性を感じ取ることができなかった。 本当の終わりにおいては、 「社会と隔絶した甘美な青春はありえない」というメッセージを 込めたのかもしれないと思ったが、 これはこれでやや皮相的な見方かも。 5月革命の、当時のパリの若者にとっての意味を知らない限りは、 このラストにも本当の意味で共感することはできないのかもしれない。 あと些末なことだが、 エンドロールは普通とは逆に上から下に流れていた。
そもそも、5月革命について何の知識もなく、 ヌーベルバーグの映画についても何も知らない自分がこの映画を 見たこと自体に、無理があったような気がする。 それから、まだ見ていなかった ベルトルッチの出世作「ラストタンゴ・イン・パリ」を、 無性に見たくなった。
(2004年8月21日観賞、22日執筆)
押井守監督の作品は初めてであり、 そもそも劇場用アニメを映画館で見ること自体も 相当久しぶりの私であったが、 アニメでここまでできるのかという、 極度に作り込まれた映像の美しさには、 ただただ圧倒されるよりなかった。 あまりに緻密に描き込まれた映像を見ていると、 人間が相変わらずアニメの「文法」通りにベタで2次元的に 描かれていることに何がしかの違和感を覚えたが、 その意図は私のようなアニメ素人にはわからない。
ストーリーとしては、近未来、 愛玩用ロボットが所有者を殺害するという事件が頻発する中、 脳以外のほとんどがサイボーグになった刑事バトーが人間の同僚と ともにその真相を追究していき、、、という感じなのだが、 上述したようなあまりの映像美に、 ストーリーがぼこっと頭から抜けていくような感覚に何度も襲われた。 人間とは、機械とは、意識とはなんぞやというかなり哲学的な 問いを内にはらんでおり、 数々の引用からなる長い台詞が頻出する、決して簡単ではない ストーリーであるのだが、 ストーリーをとりあえず横において、 その映像美にただ身を浸して幻視感を味わうという 鑑賞の仕方もありかなという気はする (全然路線は違うが、 前に見た「ナコイカッツィ」を思い出させる瞬間もあった)。 ただ、ストーリーは正直一度見ただけではわからない部分が多かった。 あと当然なのだろうが、ある種の人形(球体関節人形) については相当綿密に調べ上げているという印象があった。
ちなみに一緒に行った連れに言わせれば、 前作である「攻殻機動隊」を見ていないと絶対わからない部分が あるそうなのだが、 私は「攻殻機動隊」を見ていないので、 そのような不十分な理解のもとに上の文章を書いていることを ご承知おきいただきたい、つうかそもそも大した文章になってないし。
(2004年4月18日観賞、18,19日執筆)
この映画(いやむしろ、「映像作品」という言葉の方が適切だと思う) についてよく知らず、 監督のゴッドフリー・レジオの前作である「コヤニスカッツィ」「ポワカッツィ」 (今回の「ナコイカッツィ」で「カッツィ三部作」になる)も見ていないにも かかわらず見に行ったのは、 音楽をフィリップ・グラスが書いていて、 演奏にはヨーヨー・マが加わっているという純粋に音楽的な興味と、 台詞もなくただ音楽が映像に乗って流れていくという通常の映画とは全く異なる形式にも 興味を持ったことからである。
映像は、様々なイメージが、前後ほとんど何の脈絡もなくただひたすら流れていった。 敢えてそのテーマを列挙するとすれば、 テクノロジー、デジタル、フラクタル、グローバル資本主義、 極限の肉体、国際政治、核戦争、民族紛争、 まだまだいくらでも挙げることはできると思う。 映像はコンピューターで極度に、 そして様々な手法で加工されたものが多かったが、 加工手法自体は特に目新しいということはなかったように思う (0と1を大量に並べて「デジタル」を表現することには、 陳腐さすら感じられた)。 しかし歪んだ映像は見る側の不安を増長するという側面が強く、 そのような映像の洪水にただ身を浸し、 人間の所為の特に負の側面にひたすら思いを致すという鑑賞の仕方を 強く強いられた感がある。 私はフィリップ・グラスは、 ミニマルミュージックの作曲者としてはスティーブ・ライヒより劣ると思っていたのだが、 この映画に寄せた音楽は映像に見事に寄り添っていたし、 「ミニマルの叙情性」というものを強く感じさせる良い音楽だったと思う。 ヨーヨー・マのチェロもよかった。 この映画においては、音楽と映像が不可分だということも強く感じられた。
1時間半という上映時間は決して長いわけではないのだが、 見ていてひたすら緊張を強いられたこともあり、 終わった時には通常の映画よりもはるかに強い疲労感があった。 しかし疲労感だけでなく、 通常の映画では決してできないような(ポジティブな意味での)体験を することができたと思うのだが、 それをうまく表現できないことが極めてもどかしい。
(2004年2月29日観賞、3月1日執筆)
結婚を控えたカップルの男の方が、女の目の前で、ある女性の車に轢かれ全身付随になる。 そして加害者の夫が女の精神的なケアをするうちにお互い引かれ合い、 加害者の女性の家族の中にも亀裂が走り、 2組のカップルの間に複雑な人間模様が浮かび上がるというストーリー。 音楽の使用も控えられ、 映像も作り込まれたものではなく淡々としたものであり、 それがかえってリアリティを強調しているように思われた。 心理描写も丁寧に行われていたように思えたが、 加害者の夫が妻に嘘をつく時のあまりのわかりやすさは、 ちょっとどうかと思った(実は男が嘘をつくときは、えてしてそんなものなのかもしれないが)。
どの登場人物の立場に立っても、色々と考えさせられるという点では、 描写が淡々としていても、よくできた映画だったと思う。 ただ、「しあわせな孤独」という題名は、 「しあわせ」という言葉の意味もわからないし、 どの登場人物も大切な人間から突き放されるということが「孤独」という言葉に こめられた意味なのかもしれないが、 登場人物は誰も本当の意味では孤独じゃないやないかと思うと、謎である。 それに、もしいま自分が交通事故で半身不随になったら、 あの映画の登場人物どころではないくらいの孤独に陥るんじゃないかと思うと、 映画のストーリーとは全く関係なく身につまされるものがあった。
(2004年1月10日観賞、20日執筆)