ご意見等は
まで
私の中では西原理恵子はすでに大ブレイクを果たしているのだが、 西原大先生は、やはり さくらももこを撃沈させるくらいでないと 自分が大ブレイクしたと思えないのでしょうか?
入場者全員プレゼントのチョコレート(西原新キャラ刻印入り) を受け取って中に入ると、 いきなり壁に 「(入場料)600円も払わせてどうもすみません」 とでかでかと 書かれていたが、 ほんまにそんなこと思っとるわけないでしょうが、西原先生。 貴重な原画が最初に展示されていて (私はつくづく疑問なのだが、 この絵になぜアシスタントが必要なのでしょうか?)、 同じところで西原先生作画の過去の TV コマーシャルが流れていたが、 西原先生が「味の素」をだまくらかしていたとは 私も知りませんでした。 ついでに言うと、西原先生の仕事歴の「週刊○○」が全て 「週間○○」になっていたのはご愛敬でしょうか。
次の部屋では、(たぶん今回のために作られた) 西原キャラによるキャラクターグッズが大量に展示されていて、 「また妙な金儲けを企んどるな」と思ったのち、 さらに次の部屋に行くと、 壁一面に渾身の作画が。 やはり西原先生こうじゃなくっちゃ。 アシスタントの愛ちゃんに横に英単語を書かせて、 これはバスキアだと言い切る西原先生、いい根性し過ぎです (ついでに言うと、キース・ヘリングの名前まで出してた)。 相田みつをのパロディも実に素晴らしい。
次の部屋では、おされなインテリアに西原先生のパロディグッズ (表紙が西原先生のタイム、マリクレールなどの雑誌、 西原ワインなど)があふれていた。 その次の部屋ではムンクやゴッホのパロディ、 さらにその次の部屋では祭壇 (もちろんご神体はつるつるバージョンの西原先生)が設けられていたが、 はっきり言って全部ハズしです。 西原先生はやはり辛辣な毒舌を炸裂させて下さらないと。 そうは言っても、 祭壇の横のおみくじに100円入れてしまった私ではございましたが。
次の部屋では、高須クリニック(ここの院長が西原先生と仲良しらしい) 乗っ取り計画を大まじめに開陳していた。 さらに同じ部屋では、高須クリニックの CM が延々と流され、 またこんなところでプラズマディスプレイを無駄遣いして と思っていたら、唐突に CM が中断して、 西原先生の仕事中のシーンや、いきなりウクレレを弾き出すシーンが出てきた。 なんか西原先生、おデブになったんじゃございません?
最後の部屋では有名人の来訪者の色紙があった。 (たぶん高須クリニックつながりの)林葉直子の色紙もあったが、 乳のことしか頭にないのか、こいつは? 出口のところでは、西原先生はさくらももこだけでなく スタジオジブリにも対抗心メラメラ ということがわかった。
(2001年11月11日観賞。17日執筆)
話題の展覧会。 入ってまず目につき、そして多くの人がそこに滞留していたのが アンリ・ルソー、そしてマティスの大作。 今回はマティスがかなり多かったが (またマティスかい、という言葉が何度も口をついて出た)、 正直マティスは自分にとってそれほど強い印象のある作家ではないので、 この時点で「来たのは失敗か」という予感が頭をよぎった (それでも、晩年の切絵によるマントのデザインは面白かったが)。
今回の展覧会で私が最も期待していたのがダリの 「記憶の固執」であったが、 その前もすさまじい人だかりでまともに見ることができなかった。 それから非常に驚いたのは、「記憶の固執」が横30cm程度の 非常に小さい作品であったこと。 もっと大きい作品だと思い込んでいたからである。 それから、ダリのもう1点に明らかな傷がついていたのも かなりびっくりした(今回の移動でついたものではないだろうが)。
あとピカソもかなりの点数があった。 ピカソはあまりに作風が変貌し続けていったこともあり、 どうも自分なりに統一的な理解ができていないので、 私は今回出品されていたピカソの作品について、 まともな価値判断を下すことができない。 しかし、 「MoMA ならもっといいピカソも持ってるんじゃないのか」 とも思ったのも事実である (ちなみに、ピカソのところに「マグリット」「デュシャン」「クレー」 「カンディンスキー」も入る)。 ただそんな中でも、「マンドリンを持つ女」(題名うろ覚え)は 気に入った。 今回の展示で「家に欲しい」と思ったほぼ唯一の絵である。
デュシャンもかなり期待して行ったのだが、 レディメイドの作品(自転車の車輪)が1つと キュビズムの絵画が1つあっただけであった。 デュシャンと言えば、私にとっては L.H.O.O.Q や「泉」と言った 芸術という概念を根底から覆す作品の印象ばかりが強かったので、 バキバキのキュビズムの絵を見ても、 「なんや結構まともな絵も描いてるんや」という、 普通の感覚からするとまったくとんちんかんな印象を持ってしまった。 その意味では、レディメイドの作品が見られてよかった。
それから案外見る機会のないモンドリアンやポロックの 作品が見られたのも、私にとってはよかった。 ただ見ていて、モンドリアンやポロックなんて 贋作作り放題なんじゃないのかと思えた。 未発表の作品なんぞが出てきたら、 本当に鑑定できるのか甚だ疑問に思えた。
総合的には、 MoMA 所蔵の作品ということから期待したほどのものではなかったというのが 正直な印象である。 それから、通路が一本でなく無意味に分かれていたり、 明らかに人が滞留してしまうような通路設定になっていたりと、 設営はとてもプロの仕事とは思えなかった。
(2001年11月4日観賞。5日執筆)
彼の創出した「DOBくん」などのキャラクターを主にした 2次元作品と、 3次元のフィギュアを中心とした展覧会。
2次元作品を展示した部屋の壁一面に散らばる目玉、 ひたすらに変容していく DOB くん、 顔を持つ花 (デザインとしては幼稚園の子供でも描きそうな単純なものである) が咲き誇る絵を見ていると、 何か頭がくらくらとしていくような感があり、 ミニマルミュージックを聴いている時の陶酔感に近いものがあるように 自分には思えた。 あと、タイムボカンのドクロ雲がそのまま使われていたり、 「んちゃ」というアラレちゃんの台詞がそのまま題名になっていたりと、 アニメの影響を全く隠そうとしないどころか 開き直っているようにすら思えた。
3次元フィギュアは、 オタク的価値観による理想化をこれでもかというほど 全面に押し出していた (アニメ的ロリ顔をして、 不自然なまでに胸の大きな女の子なんて まさにその典型である)。 それでもただのアニメの3次元化とは違い、 肌の色が妙になまめかしく (生々しいというのとも少し違う)、 それが異常にエロティックな印象を与えていた。 超ミニのウエイトレス姿のフィギュアをじっと見ていると、 オタク的価値観に添い遂げようとしているのか、 それを徹底的に再現することで逆に嘲笑しようとしているのか、 全くわからなくなってしまった。
会場にはシャープの液晶テレビがそこら中に置かれていて、 インタビューや製作風景が上映されていたが、 私が疑問に思っていた DOB くんの名前の由来が明かされていた。 「どおして」の意である「どぼぢて」から来ていると聞いて愕然とした。 容易な解釈を否定しているというよりも、 解釈しようという試み自体を笑い飛ばされているように思えたからである。
(2001年11月4日観賞。5日執筆)
19世紀末以降の絵画を中心にしたメルツバッハー夫妻という 個人のコレクションの展覧会。 個人のコレクションであるから 別に系統立っている必要もないし、 コレクションはどうしてもその個人の趣味に貫かれたものになってしまう わけである。 それ自体はもちろん悪いことではないのだが、 今回のコレクションの方向性は完全に私の趣味とは違っていて、 見ていてかなりつらいものがあった。 ただ、コレクションの方向性は完全に一貫しているので、 メルツバッハー夫妻の姿勢については評価されるべきであろう。
一つかなり印象に残ったことは、 抽象画のイメージしか私にはなかった カンディンスキーも具象画を描いていたことである。
(2001年6月30日観賞。7月1日執筆)
題名の通り、メイプルソープとアラーキー(荒木経惟) という対照的な写真家による、花を題材にした写真展である。 まず目についたのはアラーキーが執拗に枯れた花を写したモノクロ写真。 滅びゆくものの「死」のイメージのエロティックな美しさが 見事なまでに固定されていたように思う (時々被写体に添えられる干からびたヤモリがそのイメージを補強していた)。 それからつくづく驚かされたのは、 カラー写真による花の色彩の絢爛さである。 アラーキーは写真の技術よりもセンスで勝負しているという印象を ずっと持っていたが、そのような独自のセンスもあくまで すさまじく高い技術に裏打ちされているという、 冷静に考えてみれば当たり前のことに気がつかされた。
メイプルソープは回顧展を何度か見ているのだが、 それでも余計なものをことごとく削ぎ落した写真の端正さと、 花という生命の持つ生々しさとの絶妙な対比には改めて感心させられた。 全くうまく表現できないが、 写真がはらむ何か非常に強い緊張感に、恐ろしさを覚えずにはいられなかった。
2人のスタンスにはかなりかけ離れたものがあるし、 優劣などつけられるものではないだろう。 ただ、花という被写体の持つ強烈なエロティシズムを見事に切り取って 固定したという点では2人とも素晴らしいとしか言えなかった。 花はどうしてこんなにエロティックなのかということに思いをはせずには いられなかったが、ふと「花は生殖器なのだからエロティックなのは 当然やわな」と思ってしまった。でもそんな単純なものなのですかね。
アラーキーの写真を見ていて、「オリジナルプリントが欲しいよなあ」 と思っていたら、実際に売っていた。四つ切り11万円、 それより少し大きいサイズが17万円弱。 全く手の届かない値段ではないだけに、真剣に悩んでしまった。
(2001年6月16日観賞。17日執筆)
名前をしょっちゅう聞く割にはほとんど知識のないジャン・コクトーと、 男の美しさについて勉強するべく見に行ったのだが、 まず驚いたのが、 入ってすぐに目についたおびただしい数の、 コクトーの肖像画。 知らない人によるものがほとんどではあったが、 それでもコクトーの交友の広さと、 それが創造の源泉になっていることが容易に想像できた。
展示されていたコクトー自身の作品は、 ほとんどが線による素描であり、 作品の出来にはかなりむらがあるように思えた。 水準の高いものは、最小限の線で対象の特徴の全てを捉え切り、 その線は強い生命力を感じさせるものであったように思う。 線を非常に重視していることは見てすぐに取ることができたが、 コクトー自身の言葉や詩が、絵画の間にちりばめられていて、 その中でも線を重視していることが確かに延べられていた。
それでも正直なところ、 前を離れられないような絵については、 一体どこがそれだけ魅力的なのかはよくわからなかった。 ただ、やはりこの展覧会の副題の通り、 コクトーの絵の魅力は美しい男をモデルにしているからこそ、 と思えた。
(2001年4月15日観賞。17日執筆)
バスキアをテーマにした映画を見たことがあったにもかかわらず、 実際に絵を見たのは今回が初めてである。 典型的なアメリカのポップアートであるが、 正直言うと、バスキアの「作品」の多くは、 いわゆる「落書き」とどこがどう違うのかよくわからなかった (漫画のような作品の連作などはそうは思わなかった、 というよりも面白いと感じたが)。 特にサインのない作品を前にして、 「贋作が出てきても区別ができるのか」 という疑問を抱かずにはいられなかった。 しかし何より一番驚いたのは、 葉書大のコラージュ2枚組に400万円の値段が付けられていたことである。
(2001年4月15日観賞。17日執筆)
爛熟を極めた19世紀末から20世紀始めの、 ウィーンの芸術をテーマにした展覧会であり、 絵画、ポスター、工芸デザインの展示を主にしていた。
最も印象的であったのはポスターで、 特に当時の新しい芸術運動である、 分離派(Secession)の展覧会のポスター群は圧巻であった。 その中でも、クリムトの手による第1回分離派展のためのポスターは、 本で見たことがあったので特に強い印象を受けた。 さらに工芸デザインについては、 機能優先のシンプルで直線的な、 典型的モダニズムに貫かれたデザインが、 絵画の潮流とはあまりに強い対照をなしているように思われた。 モダニズム様式のウィーンの建築については知識はあったのだが、 それでもクリムトやシーレに代表される官能に満ちた絵画と対照的な様式が 同時代、同じ場所で、発達することの不思議さを 思わずにはいられなかった。
絵画についてはある程度覚悟はしていたが、 私の期待していたクリムトとシーレがほとんどなかった(それぞれ、1点、2点) ことが不満であった。 それでも古典主義的絵画から表現主義までバランスよく展示されていたように 思うし、 予想外の収穫は、 作曲家シェーンベルクの自画像を見ることができたことであった。
その他にはウィーンに留学した日本人の作品や、 ウィーンのデザインに影響を受けた作品も展示されていたが、 ウィーンの作品群と一緒に展示をするのはやや無理があるように感じられた。
(2001年3月30日観賞。4月1日執筆)
(株)丸井が持つ近現代版画のコレクションから、 20世紀の主要な作家を紹介しており、 よく知っている作家もそうでない作家も 非常に興味深く楽しめた。 しかし、 マティスの「ジャズ」のシリーズはこの前見た にもかかわらず、 「えっ、こんな絵あったか?」とか、 「こんな絵があったんちゃうかったっけ?」とか、 自分の記憶のあまりのいい加減さにほとほと呆れ果ててしまった。
あと考えさせられたのは、サム・フランシスの作品。 一応構成はあるものの、 ひたすら絵の具をぶちまけたようなその作品を前にして、 「絵の具をぶちまけることによって得られる『偶然性』は、 版画という形式の持つ『確実な再現性』と矛盾しないのか」という 疑問を持たずにはいられなかった。 しばらくその作品の前でたたずんでいたが、 もちろん自分の頭ではそんな疑問に解答が得られるはずもなかった。
総じて水準の高い作品ばかり揃った、 充実した展覧会であったと思うが、 一点しか紹介されていない作家がある 一方で、10点近い作品がある作家もいるというような偏りがあったことが、 この展覧会に対する数少ない不満である。
(2001年2月24日観賞。25日執筆)