最近行った展覧会など(2002年)

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ロバート・メイプルソープ展
(大丸ミュージアム・東京)

ロバート・メイプルソープの展覧会は 自分が覚えているだけでも3度は行っているので、 今更という感もないではなかったが、 東京に出てくるついでに見ておこうかと思って、見に行った次第。

しかし、予期に反し自分の見たことのない作品も かなり多かった。 特に写真を始める前の、美術学校時代の素描やコラージュは 今まで全く見たことがなかった上に、 キリスト教をモチーフを用いながらも 幾何学的な図形を組み合わせた構図は、 後年の写真で取り上げたテーマとかなり違い、 興味深いものを感じた。

お目当ての写真も、単に記憶が薄れただけかもしれないが 見たことのないものが意外に多いように感じられた。 メイプルソープの写真は何度見ても、 無駄を極限まで排した静謐な緊迫さをたたえた構図には 嘆息するしかないが、 展示にどうも工夫が感じられないように思えて仕方がなかった。 単に並べてあるという感がどうもぬぐえないのが、少し残念であった。 また、彼の写真を題材にしたリトグラフがあったのには驚いた。 それから、花を撮影した作品のほとんどが渋谷シネマライズ所蔵に なっていたのも、 まさか映画館がこんなコレクションを持っているとはという 驚きを抱かずにはいられなかった。

最後には、恋人のパティ・スミスを撮影したフィルム、 連作のモデルであるリサ・ライオンを題材にした映像作品を 上映していた。 前者はドラッグでラリった(という意味のことが解説に書かれていた) パティ・スミスが何やら喋る様をメイプルソープが撮るところを 記録したものであるが、 貴重な記録ではあることは否定できないものの、 芸術作品としての価値については疑問符を付けざるをえない。 また後者も、 彼女をモデルにした素晴らしい写真を見た後では、 メイプルソープがわざわざ映像作品を作った意図がわからず、 「蛇足」という言葉を思い起こさずにはいられなかった。

(2002年10月19日観賞、19,20日執筆)


アイ・ラブ・アート展 Part6
(ワタリウム美術館)

アンディ・ウォーホル、ナム・ジュン・パイク、 マックス・ビル、オノ・ヨーコの作品による展覧会。 ウォーホルはそれなりの点数があり結構楽しめたが、 私にとっての白眉は、 ケネディ暗殺を題材にした "Flash" であった。 20点弱の版画からなり、それぞれ半分は写真、もう半分は 新聞記事のような文面をタイプうちした文章という構成。 解説によれば、写真を自由に使うために倒産した新聞社を 買い取ったらしく、 ちょっと理解しがたい執念を感じた。

ナム・ジュン・パイクはシルクロードから題材を取った インスタレーション1点のみ。 たくさんのモニターを使うビデオアートと、 シルクロードで拾ったという物体、石からなるものであったが、 どうも散漫な印象をぬぐえなかった。 構成要素が多すぎるのがよくないように思う。

オノ・ヨーコも、チェス盤をモチーフにした作品1点のみ。 マックス・ビルは私は浅学にして知らなかったが、 作品非常に単純な幾何学的要素からなるものである。 絵画(版画だったかも)も彫刻も両方展示されていたが、 メビウスの輪をモチーフにした金属彫刻が単純な美しさをたたえていた。

私設美術館とは思えない意欲的な企画であったとは思うが、 何せスペースが決して広くなく、 展示点数も多くないことが、仕方がないとはいえ残念であった。 チラシには約150点を展示とあったが、 そんな点数があったとはとても思えない。 展示替えでもするのだろうか。 800円という入場料も、 展示点数を考えるとちょっと高かったように思う。 期間中何度でも入れるパスポート制であることを考えれば 妥当な値段なのかも知れないが、 茨城県に住んでいる私としてはありがたみが全くないのが つらいところ。

(2002年10月13日観賞、15日執筆)


カンディンスキー展
(東京国立近代美術館)

カンディンスキーは抽象画の創始者の一人として 名前は何度も聞いているが、 案外まとまって見た記憶がないよなあと思い、 見に行った次第。

この展覧会の白眉は、 やはり大作「コンポジション」シリーズの2点 「コンポジション VI」と「コンポジション VII」 (もともと違う美術館の所蔵)が並べて展示されていたことであろう。 その大きさ(縦 2m は超えようか)と、 すさまじいパワーを放つ様にはただただ圧倒された。 後で解説を読むと、それぞれにはもともと「ノアの大洪水」 「最後の審判」というモチーフがあったとあり、 それを知るといきなりチープなものに思えてきてしまったが、 それはもちろんカンディンスキーの本意ではないのであって、 解説にはちゃんと

「、、、この絵が一つの事象の模写であるということほど誤ったこ とはないだろう」
というカンディンスキーの言葉が引用されていた。 この解説は非常に丁寧なもので、モチーフを同じくする作品や習作、 あるいは製作過程を撮影した写真などを提示しながらの説明は、 「コンポジション」の前に非常に広いスペースを確保し 近くからも遠くからも見られるようにした設営とともに、 スタッフの周到な準備を感じた。

他にも線の強さや色彩の鮮やかな対比で強い印象を残した作品はあったが、 「コンポジション VI」と「コンポジション VII」の圧倒的な迫力には かなわないものがあったように思う。 もう一つ欲を言えば、 より晩年に近い年代に重点をおいた展覧会であったら、 私としてはもっと楽しめたのではないかという気がする。 それから、 抽象画というのは現物と鑑賞者の間に非常に近い距離を 要求するものだという感を強くしたものの、 「抽象画はいかに鑑賞されるべきか」 は考えれば考えるほどわからなくなってきた。

(2002年3月30日観賞、31日執筆)


雪舟展
(京都国立博物館)

NHK「新日曜美術館」などでも紹介されていた 超話題の展覧会を、京都に行ったついでに見てきた。 はっきり言って、雪舟を見に行ったのか人を見に行ったのか 全くわからない有り様。 誰を責めるわけにもいかないのだが、 ニューヨーク近代美術館名作展 の時と同様、 美術を鑑賞するにはあまりに劣悪な環境だったというのが正直なところ。 長尺にわたる山水絵巻など、 絵を見ていたというより人に流されていたと言う方が正しかった。

あともう一つ不満だったのが、 雪舟の真筆と断定されているものは、 実はそれほど多くなかったということ。 「伝雪舟」が多いのはそれで仕方がないと思うが、 決して少なくなかった模写には、その紙の新しさと 下手したら私のような素人にも感じられる 筆致の拙さにかなり興ざめさせられた。

「新日曜美術館」などを見てから行ったので 必ずしも虚心に見たというわけでもないし、 もともと日本画はほとんど見ない人間なので、 まともな論評なんぞ本当はできないのだが、 多岐にわたる形式の柔軟な採用、 そして緊密な構成と大胆な捨象(特に達磨の絵。 私は「新日曜美術館」で見たとき、なぜかクリムトの女性像を思い出した)、 そんなところが500年経った現代でも人の心を捕らえるのだろうか。 経時変化もあるのかもしれないが、 墨の濃淡の緻密さも強く印象に残ったことの一つである。 私が気に入ったのは、ほとんど唯一雪舟の真筆とされている屏風絵の、 白と黒のコントラストの鮮やかさである。 あと猿の絵のユーモラスさも意外さがあってよかったと思う。

それから無知な人間が虚心に思ったことは、 雪舟が描いた貴重な肖像画とされているもの(もちろん真筆)が、 自分には全くいいものと思えなかったことである。 これは、お説教でもいいから是非他人の意見を聞いてみたい。

最後に書いておきたいのは、 外国のコレクションが多数混じっていたことである。 これは日本美術が外国にとっても魅力的であることの現われなのか、 それとも日本に美術流出を押し止めるだけの力がなかったということなのか、 日本美術と外国との関係についても無知な私にはわからなかった。

(2002年3月26日観賞、31日執筆)


ウィーン分離派 1898-1918 クリムトからシーレまで
(Bunkamura ザ・ミュージアム)

ウィーン世紀末の爛熟した芸術文化を代表する、 分離派の活動に焦点を当てた展覧会である。 世紀末のウィーンには特別な感情を持っている私としては、 行く前から強い期待を抱かせるものであった。

入場してまず目についたのが、 分離派展のポスター群と、それに囲まれた分離派館の模型。 以前府中で見た展覧会でも 分離派のポスター群には圧倒されたが、 今回はクリムトによる第1回分離派展のポスターが、 検閲による修正版と 修正前の版の両方が並べて展示されていて、より印象深いものがあった (府中の展覧会では修正版のみであった。 ちなみに、個人蔵の修正前の版が「なんでも鑑定団」 に出ていたことがあって、 その時は2000万円の値段がついていた)。 あと意外だったのは、ポスターの何点かは 京都工芸繊維大学の所蔵であったこと。 京都に住んでたころは自転車で行けたところに、 分離派展のポスターがこんなにごろごろ転がっていたとは思わなかった。 それから、宮城県美術館の名前も何度も見たが、 そこはウィーン分離派の収集に力を入れているのであろうか?

そのあとは絵画、彫刻、工芸作品がバランス良く展示されていた。 府中では1,2点しか見ることの出来なかった クリムトやシーレも数多く展示されていて、満足の行くものであった。 特に印象に残ったのは、クリムトの「彫刻のアレゴリー」 の、生々しくエロティックな裸婦像と、 シーレの「カール・グリューンヴァルトの肖像」の、 背景の暗い青と白を基調とした人物との対比の力強さである。 さらに分離派展の光景を収めた写真や機関誌、 当時のチケットなどの貴重な資料も非常に興味深いものがあった。 その中でも驚いたのが、日本の古典美術に関する記事が機関誌にあったことで ある(ドイツ語はほとんどわからなかったが、 「狩野派」についての記述が確かにあった)。 ちなみに、 第6回の分離派展のテーマは日本の美術工芸の紹介だったそうだ。

ただ一つ不満を挙げるとすれば、 印象派の作品群について、 いかにもかき集めてきましたという感がぬぐえなかったことである。 第16回分離派展の主旨が印象派の紹介だということはきちんと 説明されていたが、 この展覧会では 分離派展で実際に出品された作品の割合が多かったことを思うと、 実際に分離派展に出品されたわけでもない作品を印象派というだけで わざわざ日本の美術館からかき集める必要もなかったのでは ないかと思う。 非常に水準の高い展覧会であっただけに、惜しいものがある。

(2002年1月21日観賞、執筆)


最近行った展覧会など
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