42年目の出会い                    2008年9月21日
プロローグ
 1965年7月私は31歳の時にメキシコの会社に技術指導のために派遣された。当時、当社側の事務所長として統括されていたのが平川さんで、私としても日常生活から業務上の問題まで大変ご指導いただいていた。その平川さんがご家族を呼び寄せられることになり、奥様と、二人の娘さんが到着された。
 その時、娘さんは小学生と中学生だったが、着くと直ぐ隣の外国人の子どもとボール遊びを始めたのを憶えている。

1.悲しいお知らせ
 爾来、平川さんとは年賀状のやり取りだけは欠かさず続けてきたが、特にお会いする機会もなく打ち過ぎていた。
昨年(2007年)暮れに、喪中のご挨拶を頂いて、慌てて普段のご無沙汰を詫びると共にお悔やみの手紙を送ったら、妹さんから電話を頂いて、お父さんのご様子をうかがうことができた。
 と同時に、メキシコで会った当時の話しになり、その後の生い立ちから近況まで、不謹慎とは思ったが、お互い話が止まらなくなってしまった。
 妹さんはメキシコでの体験を生かすべく、大学でもスペイン語を学び、この能力をボランティアに活かせる道を探しておられた所だったこともあり、私自身が関っている国際交流関連の活動についてお話し、大変興味を持っていただいた。機会があったら、会ってお話しましょうと言うことになった。

2.オペラ「夕鶴」
 今年(2008年)8月に、妹さんから電話を貰って、9月21日にあるオペラ「夕鶴」の観劇にご招待を頂き、喜んで受けることとした。メキシコ在住のバイオリン奏者黒沼ユリ子さんがメキシコと日本の親善をはかる活動の一環として、来日されたもので、メキシコ人の歌手による日本語によるオペラで大変興味深いものであった。

3.42年ぶりの再会
 6時開演に対し、4時に[三軒茶屋]に集合すこととなった。事前に軽食を取りながら、話し合うためである。問題は当時から42年も経っていて、お互いに顔が分かるか心配したが、全く杞憂に過ぎなかった。おまけにお姉さんにも来ていただいて、話はどこまでも盛り上がっていった。
 
エピローグ
それにしてもこの42年間は何だったのだろうか。人生の大部分に当たるこの年月を経て、何のわだかまりもなく、心を開いて、話し合える関係と言うのは素晴らしいと思う。メキシコと言うキーワードで結ばれているとは言え、こんなに強い絆で結ばれている関係は何物にも替え難い貴重な宝であると思った。

死ぬこと、生きること(1999/3/3)

日本は今や世界一に長寿国になっているが、これは日本の医療技術の高さと、誰でもがこの高度な医療が受けられる環境がそうしているのだと思う。しかしこの結果として、一方では年寄りの人口比率が急激に大きくなって、特に年金や介護の点で問題になってきている。政府もこの点での対応策を準備している。

これは一般的な話であるが、自分の問題として考えてみる必要がある。
自分もこの4月で満65歳になる。今のところは元気で生活していく上での不自由は無いが、これからは歳と共に、いろんな形で動けなくなって行くし、ましてや一度病気をすると、それを機会に足は衰え、体は鈍って、普通の生活に戻ることは難しくなると思われる。

必然的に死と向き合うことになるが、一般的には人は出来るだけ長生きしたいと考えているようだし、そのような努力をしてきていると思う。

自分としては長生きするよりも、周りの人にあまり迷惑を掛けないでオサラバしたいと思っている。年を取って動けなるだけではなしに、脳溢血や、脳血栓のように、神経をやられて、動けなくなることもあり、これを含めて兎に角家族や病院の関係者に迷惑の掛からないように旅立つことを願っている。

どのような死に方があるのか、これは神の領域の仕事であって、自分にどうすることもできないが、上記のような観点からいくつかを考えてみたい。

ありそうなことでは交通事故があるが、これはどちらに落ち度があったにせよ、やはり大きな悲しみが伴うとしたら、出来るだけ避けたいと思う。やはり何らかの病気ということになるが、上でも触れたように、機能障害の残る病気は出来たら勘弁してほしい。心臓関連の疾病だと、勝負は早いが、も一寸この世に名残が残せる方がいいような気がする。

そうして考えてくると、「癌」というのはなかなか捨てがたいものがある。
しかもその癌を治療するために、切ったりはつったりすると、あちこちの臓器が痛んで、命は助かっても、寝たきりになるのではアブハチ取らずになるので、出来るだけ「癌」も自然な形での、最後を迎えるのが良いのではと思っている。

現役時代は家族を養わなければならなかったので、毎年必ず人間ドックで検査を受けてきたが、退職後はいっさい止めた。何とか癌がとりついてくれないかと密かに願っているこのごろである。

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ボランティア登録(1998/10/17)

兼ねてから、老後の一つの目標として考えていたボランティア活動に踏み出すこととした。

退職後、何らかの形で世の中に自分の力が還元できるような事が無いだろうかと考え続けてきた。困っておられる方々、援助を必要としている人々に、寄付金を通じて参画する事は、勿論大事な活動ではあるが直接自分が関わるわけではない点に、心許なさが残ると同時に、わずかなお金で出来ることと言えばたかが知れているだろうと言う気持ちもあって、達成感が持てない悩みがあった。

直接何かがしたい。出来たら日本に来ている外国の人のお世話が出来ないか。多少スペイン語が活かせたらいいね。そんな思いを抱き続けてきた。その夢がいよいよ実現できることになった。

スペイン語教室の仲間で、小野さんという学校の先生をしておられた方のご紹介で、上大岡の駅前にある「港南国際交流ラウンジ」と言うところに、ボランティアの登録をしたのが10月9日で、ボランティアは昼間働いていて十分日本語が勉強できない人に、夜間その勉強のお手伝をする事である。

これまで日本語を教えた経験がないので多少心配しているが、自分が使っている言葉だから、参考書を読んでいけば、何とかなるだろうと思っている。早速15日に希望者があるというので、「ラウンジ」でお見合いをした。ペルーから来ている30歳前ぐらいの青年で、なかなか明るい感じの人だった。双方OKが出て、スタートすることになった。

昨夜(16日)に早速第一回の勉強会を横浜駅の近くの「県民サポートセンター」で行った。一応事前に本屋で初歩的な日本語の教科書を買ってきてそれを元にして、「聞くこと」「話すこと」を中心に始めた。彼はまだ日本語が断片的にしか分からないので、説明はスペイン語になるが、今度はこちらのスペイン語が怪しくなって、最後は身振り手振りと言うことになる。むしろ自分のスペイン語の勉強に来ているような錯覚を覚える。

何れにしても、ようやく自分としては全力で打ち込めそうな仕事に恵まれた。この機会を最大限に活かして、自分の人生の最後を飾りたい。


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