メキシコの思い出

[はじめに]

 私は1965年の7月に当時はまだ成田空港がまだなかった時代で、羽田を発つカナディアン航空でバンクーバー経由単身でメキシコに赴任しました。その時、私は31歳、結婚して一年一寸しか経っていませんでした。それから1年3カ月現地での格闘が続きました。表面的にはともかく、その当時の苦しかった日々が重くのしかかって、今までこれらの日々を思い出すことは何となく辛く、出来るだけ避けてきたように思います。

 しかしながら、さすがにあれから30年が過ぎた今、当時の苦しかったこと等がきれいに蒸発して、寧ろ懐かしい思いが込み上げてくるこの頃です。昨年定年退職したのを機会に、もう一度懐かしいスペイン語を習おうと考えまして、この4月からスペイン語会話の教室に通っています。こうして週一回スペイン語の響きを聞いて来ると、少しづつ当時の生活が思い出されてくるにつれて、こうした思い出の断片を書き留めて、自分の青春を振り返ってみたいという思いに駆られてきました。それらをここに思いつくまま書き留めていきます。
(何しろ30年前のことですから、勘違いもあるでしょうがご勘弁下さい。)

1)私は手を洗います。(Yo me lavo las manos.)

 私のスペイン語教室は「入門」をスキップして、「初級」からお世話になることとしました。その意味では4月の開講日とはいえ、教科書的には、全くの途中から習うことになった次第です。 

 4月の3日多少緊張して教室に入り、隅の方の座席に座って小さくなっていましたが、大部分の人は昨年から一年間やってこられてたようで、和気藹々にお話が弾んでいました。そして最初に始まった言葉が、この題にも使った「私は手を洗います。」というものでした。勿論これは再帰動詞の使い方としての例題ですが、実はこの Yo me lavo las manos.という言葉はメキシコにいた当時良く彼等から聞いた言葉でした。

 この言葉の意味は「俺知らないよ。」というものです。当時一緒に仕事をしていた

Marioが説明してくれました。イエスキリストがユダの奸計に掛かって、裁判に掛けられていたとき、ユダが「俺のせいじゃないよ」と言いながら、自分の手を洗ったというのが故事来歴だそうです。ですから何か自分の身近で事件が起こって、その責任を問われそうになったとき、彼らはこの言葉を使うわけです。スペイン語というのは、このように長い歴史的なつながりの中で、言葉として定着してきたのだと感心しました。と同時にキリスト教というものが生活の隅々にまで染み渡っていることを感じさせられました。

 私のスペイン語の勉強の再スタートに当たり、「俺知らんよ。」と言われているようで、褌を締め直さねばと決心を新たにしたものでした。
          
                次回は「人同士の親しさ」

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