小さな親切運動

昨年暮れにメール仲間から一枚のリーフレットを送ってもらいました。英文の資料で、 Random kindnessに関するものでした。つまり、同じ「親切」でも組織的に、又目的を持って寄付をしたり、援助するようなものではなくて、日常生活の中で、偶然に出会った人が困っておられるとき、一寸お手伝いをすると言った意味だと思います。そこで私はこれを「小さな親切運動」と名付けました。

日本人は同一人種だから、お互いの意志が以心伝心伝わると言われています。しかし昨今の世の中を見ていますと、必ずしもそうとは言えない部分が噴出しているように思います。私の死んだお袋などは道で会った見知らぬ人にでも頭を下げて挨拶をしていました。近所の子供が悪戯をしていたら、通りかかった大人が注意をしていました。他人の子供であっても、何故か他人事ではない心のつながりを感じていたからだと思います。

アメリカは個人主義の国で、しかもいろんな人種の坩堝だから、お互いに打ち解け難いと言われています。ですが、わたしが出張で泊まったホテルで、朝エレベーターの前などで顔を合わせると、知らない同士であってもにっこりほほえんで「おはよう」と言い合います。最近の日本ではなかなかお目にかかれない光景です。

今日もラジオ放送で言っていましたが、海外からの留学生が日本に来て一番困るのは、部屋を借りるのに「外人」だと言うだけでなかなか貸してくれないのだそうです。私は30年以上前にメキシコに住んでいまして、メキシコ人の家に下宿していましたが、日本人だからと言って(彼等にしてみたら外人なのでしょうが)そのような差別はありませんでした。このような日本の現状をほんとに恥ずかしいことだと思います。

幸い私は英語とスペイン語が出来ますので道で会った外人が困っているときは出来るだけ声を掛けるようにしています。多少馴れ馴れしく声を掛けるものですから、最初は少し警戒されるようですが、最終的には喜んでもらえます。

最近は駅で切符を買うのも、銀行でお金を下ろすのも、その他いろんな所が機械操作になりました。お年寄りには(私も年寄りの部類ですが)住み難い世の中になってきているようです。そんなところにもお手伝いできる機会があるように思います。お年寄りだけでなく、体の不自由な方や弱い方など、気を付けていればお手伝いできることは色々あると思います。

確かに「親切」と「お節介」は紙一重です。と言うより、親切をする側、される側の気持ちの受け取り方によるのではないでしょうか。そこに善意を感じられれば喜んでもらえるし、悪意を感じれば反発されます。その意味では「善意」が世の中に満ち溢れて行くようなそんな運動になればと思っています。

私も時に触れて、このような実際の場面を書いていきますが、皆さんからも「私こんな事をしたよ」とか「こんな事をしたらどうかしら」とかご意見をお寄せ下さい。

下記へご意見をお寄せ下さい。
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