靖国問題

靖国神社は戦後は国から切り離されて宗教法人となったが、戊辰戦争の官軍の戦死者を悼むために東京招魂社として建立されたものを明治政府が戦死した軍人の鎮魂のため に転用した施設だ。一説には1869年6月29日、長州の田布施の出身者によって建てられた東京招魂社が始まるという。ここに戦死者を祀る事は、戦死した人々との約束だったのだから、その約束を守るべきだ、と言うことは至極当然である。このような成立経緯 のため、軍馬や軍の伝書バトは合祀されていても戊辰戦争や西南戦争で賊軍となった兵士は祭られていないし、戦災で死んだ 一般市民は昭和殉難者ともされず、祀られていない。いわんや敵国の戦死者は論外である。A級戦犯とされ、処刑された遺族が生活に困っているということでサ ンフランシスコ講和条約後の1978年、国会の決議で年金が支給されるようになった。かくして旧軍人には戦犯も含め恩給が支給されるようにはなった。

しかし一般市民の戦災の被災者、原爆の被害者はなんの救済もない。最近ではグローバリゼーションで海外工事現場でゲリラ戦に泣き込まれて死亡しても無論靖 国には祀られていない。1968年の在外財産訴訟の最高最判決を踏襲し、1970年の原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申で 「国民受容論」が打ち出された。1987年の名古屋空襲訴訟でも最高裁判所は「戦争被害は、国民等しく耐え忍ばねばならないという」 という「受任論」で国家責任をうやむやにしている。そしてこの受容論は空襲被害者、シベリア抑留者、旧植民地出身者にも拡大適用されてきた。主要先進国は 軍人、一般市民等しく補償しているのだから この国ではいかに市民の権利が無視されているかということの証に他ならない。いづれ米国の弱体化で日本も集団自衛権の行使をし、自律的に軍を運営しなけれ ばならないことになろう が、政治家や官僚に戦争による市民の損害に責任を持 たねばならぬという意識がないのなら、軍を自らの意思で動かす権利もないといわざるを得ないであろう。

あまつさえ靖国神社の宮司になった松平永芳(福井藩主松平慶永(よしなが)春 嶽の孫)は軍人恩給法が成立し たとき、年金支給を口実としてみそぎは終わったとしてA級戦犯も合祀してしまった。裏には厚生省が指導したためと聞く。 明治維新を後押しした開明的な名君、春嶽の子孫の悲劇でこれを「越前松平家のパラドック」(Paradox Serial No.043)と言ってよいものだろうとというのが政府の公式見解から導かれる結論であった。ところが2012/1/21になり、 旧厚生省の引き揚げ援護庁にいた陸海軍出身幹部が日本独立回復翌年の1953年に合祀を極秘に主導していたという文書が国立公文書館で発見された。日本は 国民の合意なしに国家を乗っ取る一団がいる国なのだということがわかる。

盧溝橋事件の時の外交官出身の文官首相、広田弘毅氏の遺族は合祀に合意したことはないという。

優柔不断で軍部にあやつられ、太平洋戦争へと日本を追い込んだ近衛文麿も靖国神社に昭和殉難者として祀られているという。何万という兵を旅順攻略で無駄死 にさせた、無能な指揮官乃木も多分祀られているのだろう。戦死した官軍の兵士だけに限定す るという靖国設立の当初の方針と矛盾する。永芳は皇国史観で知られる平泉澄を師と仰ぎ、B、C級戦犯として刑死した義父の「無念」 を晴らそうという人物だったという。皇国史観にとらわれた松平永芳宮司とその後の神社側の混濁した考えが見えてくる。特に遊就館の展示は軍国主義をあお り、礼賛するひどいものらしい。

友 人のTに教わったことだが、右翼、田中清玄が『靖国は長州藩の守り神にすぎない招魂社であった。長州藩士のためだけにあった。維新によって国家的招魂社に 格上げさ れたが、基本的性格は変わっていない。その証拠に、西郷隆盛と戊申戦争で落命した会津藩士が除かれていることで解る。インチキである』と言ったと佐高信が 「西郷隆盛伝説」 に書いている。ちょっと変な感じだが、理由は単純。田中清玄は 会津藩家老の家系を継ぐ末裔、戦前の共産党時代から右翼転向、岸信介や児玉誉士夫らとは敵対して全学連委員長・唐牛健太郎らに闘争資金提供、またその逃亡 生活を支え た人物だという。田中清玄を待たずとも靖国はいかがわしいものと分かる。朝日の駒野剛記者によれば本殿左側にある高さ3m、幅1.5mの鎮霊社はペリー以 降の世界の戦没者のために松平宮司の前任者筑波藤麿宮司のとき建立されたという。ここには会津の白虎隊、西郷隆盛も含まれ、田中清玄の指摘する靖国のいか がわしさは多少緩和されているが、A級戦犯は松平宮司により本殿に合祀されたままだ。

我々日本人がかっての戦争指導者の戦争開始責任に関し、いまだ決着をつけていないからドイツのように隣国と仲良くできないとは言える。太平洋戦争を支持し た国民感情からと国際法上、事後法的裁判との理由からも極東軍事裁判の不当性を訴える声が一部にあることは確かである。植民地主義者である欧米がそれを まねした日本帝国という植民地主義者を裁いたのだから偽善でもある。日本軍が南京でした残虐行為はB、C級戦犯として裁かれたのは妥当だとしてもA級戦犯 は直接の責任がない というのが擁護派のロジックだ。しかしこの軍事裁判は第一次大戦後、ドイツに重い賠償金を課してドイツ国民を苦しめ、結局第二次大戦の誘因を作ってしまっ たという苦い反省に立ち、むしろ戦争指導者の罪を断罪 して一件落着にしたほうが戦後処理に有効との智恵にたつものというではないか。経営に失敗した会社経営者に責任を取らせて辞任させ、その社員の罪を問わな いのと同じロジックである。この方が国民最大多数の幸福を保証する。日本はこの処理の恩恵をおおいに活用して戦後復興を成し遂げたのだ。

日本が敗戦国であることは歴史的事実だ。したがって国家として戦勝国史観を受け入れるかぎり、国際政治的には良い。だから国家として、戦勝国史観を受け入 れ続けるしかない。国家の要人たちが、戦勝国史観の受け入れ拒否を、いまさら蒸し返して表明しているのは、国際政治的に、愚策以外の何者でもない。戦勝国 史観拒否は、日本を弱いままにして、対米従属以外の道をとれないようにするための、対米従属派の策であると勘ぐられてもやむを得ない。

この戦勝国史観とは冷泉彰彦氏の指摘のように枢軸国日本と日本国は別という考えだ。したがって日本人の誰であれ、枢軸国日本を否定していれば国際社会には 受け入れられる。しかし枢軸国日本は正しかったと言いたいならその復権をもくろむ人として否定される。例えば小泉氏と安倍氏のように靖国に参拝することは 枢軸国日本を正当化したいという衝動の結果のように見える。朝日新聞の慰安婦誤報があったから世界は日本を理不尽な国と誤解したわけではない。慰安婦誤報 を声高にいいつのる人は枢軸国日本を正当化したいという衝動をもった人々だと感ずるからゆるさないのだということを理解しなければならない。枢軸国日本は 敗けた。しかし今の日本は別だと言って初めて世界は日本を受け入れるのだ。

最近改定された日本の会社法は欧米と同じ経営判断原則という法理を前提にしている。ここでは経 営者は結果責任は問われず、意志決定のプロセスに関して責任を問われるとなっている。これの論理を国家にも適用すると、A級戦犯は敗戦の結果責任は問われ ないが、開戦に至る意思決定プロセスに責任ありとなる。当時の日本の法体系に従って開戦を決めたかどうがが問題になるのだろう。形は多分正しいとされてい るのだろうが情報を国民に秘匿して権力を維持しようとする、いわゆる空気が支配する風土での意志決定プロセスは恐ろしいものがある。

一国の首相が命令に従って戦死した軍人を弔うのは当然である。しかしA級戦犯を合祀した現在の靖国に参拝するのは戦争開始判断を国民をミスリードした指導 者にも頭を下げることになるのだ。それに戦災で死んだ一般市民にも知らん振りということになる。近代戦で死ぬのは軍人だけではない。原爆や空襲による一般 市民の犠牲者の方が数が大きいだろう。こう気がつくと靖国神社は武士だけが戦争に携わっていた頃の身分制など古い思想を引きずっている時代遅れの遺物とい うことに気がつく。

A級戦犯という言葉が戦勝国に押し付けられた定義と嫌悪感を持つ人がいる。でも日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約11条に極東国際軍事裁判の 判決を受け入れることが明記されている。負けたのだから後で文句 いっても国際的には軽蔑されるだけだ。いままで米国がA級戦犯に文句を言わなかったのは冷戦があったからのダブルスタンダードだ。中国が強くなると米国は ダブルスタンダードをいつまでも継続することはできないだろう。2013/10のケリー国務長官とへーゲル国防長官がそろって千鳥ヶ淵戦役墓苑にいったの はそういうダブルスタンダードをやめるというメッセージだろう。

A級戦犯とは我々国民に多大な犠牲を強いた過てる戦争をミスリードして開始した責任者となのだから国民としてこれを是とする。

合祀以降、靖国に参拝しない天皇の見識の方を多とする。

この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし    昭和天皇

小泉首相が参拝を継続すれば見識を疑われるだけだろう。中曽根元首相、その官房長官を務めた故後藤田正晴氏も首相の参拝 はやめるべきだといって言っていた。右の代表のような石原都知事すら、開戦責任を不問に付してきたことは片手落ちと言っている。

中国がA級戦犯にこだわるのは1972年の日中国交正常化時、中国国内向けに「日本の侵略戦争は一部の軍国主義者によるもので一般の日本国民は被害者」と 説明して異論を抑えたいきさつがあるようだ。中曽根は中国の反発をうけて参拝はとりやめた。小泉前首相は江沢民が中国人民に反日教育をする口実を与えただ けのピエロということになる。そしてそれは尖閣騒動にもたたっているのである。

朝鮮陶工の末裔が多い長州の田布施出身者には岸、佐藤、安倍、伊藤博文一族がいる。薩摩の田布施には、宗教法人「最福寺」がありこの住職は池口恵観の本名は鮫島正純であり、小泉純一郎の父親は鮫島純也である。安倍氏や小泉氏が靖国に拘るのはこの辺にあるのかも。

中曽根元首相は靖国神社が自発的にA級戦犯合祀をやめれば隣国もゆるしてくれるだろうとのべているという。しかし靖国神社は神学上、分祀がむずかしいとの 立場を貫いている。A級戦犯を父にもつ板垣正参議院議員が動いても東条家の強い反対により分祀に意見がまとまらなかったという。国家として靖国神社に分祀 を命令することはできないし、分祀することは中国や韓国に批判されて動けば負けたことになると、こだわる敗戦を認めないメンタリティーをもった一群の人々 も居る。仮にA級戦犯の遺族会や靖国神社が自発的に分祀に動くとしても日本国民としてはそれでよいのだろうか。命を担保する軍人、宇宙飛行士、特攻機パイ ロット、自爆テロリストに宗教心が芽生えるのは自然だろう。だからといって靖国を国家の公式儀礼施設とすることは、国民を宗教的な天皇崇拝に駆り立てた戦 前の国家宗教の体制に先祖がえりすることでさけなければならない選択肢だ。個人としての信教の自由は保証するとしてこれを国家が保護することは信教の自由 原則に反する。だから分祀すればよいというものでもない。

ならいっそ、国民の犠牲者と敵国の犠牲者賊軍も全て合祀する沖縄の平和記念公園”平和の礎”方式または円覚寺方式にするという対案もあると東慶寺の井上住 職はいう。そうすれば排他的な愛国主義を育てることなく死者を悼むことができるだろう。リチャード・マイニア教授は米国のノーベル賞作家ウィリアム・ フォークナーの「過去は死んでいない、過ぎ去ってさえいない」という言葉を引用している。

オックスフォード大教授のティモシー・ガートン・アッシユは「政治機関が明らかな史 実を否定したり隠したりしはじめたとすれば、それは吹き出物がはしかの前兆であるのと同じように、要注意の兆しだ」と言っている。一部地方自治体の教育委 員会がそのような意図で書かれた歴史教科書を全員一致で採用したことも気にかかる動きだ。自民党の一部に「公権力が国民を縛るルール」的要素を憲法に持た せようと策動している。いやな時代がきつつあるのかもしれない。

連合国よりA級戦犯の指定を受け、出頭を命じられた近衛は翌日、自宅・荻外荘で青酸カリを飲んで自殺し責任をとった。ところが「生きて虜囚の辱めを受けず」という前時代的で不合理な戦陣訓を公布し た 「独裁執行官僚」で あった東条は、米軍がA級戦犯として逮捕に来たとき自決失敗という赤恥をさらしてしまった。 昭和天皇のポツダム宣言受諾の裁断めで徹底抗戦を主張していた東条の心は直筆メモによれば「無条件降伏を応諾すれば国民が軍部をのろうに至る」ことを危惧 していただけで保身のみの小心者で一国の指導者としての気概もなかったことがわかる。

近衛が軍部に蹂躙されたのはなさけないが、軍部の傲慢を野放しにしたのは2・26事件後の広田弘毅首相であり、更にさかのぼれば天皇主権と軍の統帥権をみ とめた明治憲法にさかのぼるのだ。国民が公権力を縛るルールであるところの憲法に抜け穴があったのだ。国の仕組みの設計段階で瑕疵が あったわけである。憲法という国の仕組みの設計を間違わぬこと、また明治時代に構築された異なる意見を抹殺する我々の社会風土を打破することだろ う。

丸山眞男が指摘するように「天皇制は日本の民衆を『植物的』にしたのであり、知的に不活発であらゆる生活 領域で長老的権威に依存するものにしたのであった。かれらは臣民であったが『主体性』を欠いていたのである」

システムに瑕疵があったわけで、時の指導者をせめても問題は解決しないことはたしかであるが、すくなくともA級戦犯の方々が無謀な戦争を開始した責任を負 うのは多大な犠牲を出した国民に対しても、戦争相手国の国民に対しても意味があることであろう。東京裁判を受け入れたサンフランシスコ講和条約11条とい う国際条約を守るという法治ルールからしても妥当なことだ。

丸山真男氏が指摘するように、日本においては国家宗教のド グマは特定の政治団体へ服従させるための思想的条件をさすレジティマシーになってしまう。これは日本にかぎらず何処にでもある話しだ。だから靖国を非宗教 法人化しても神社の形をとるかぎり、非宗教法人化は無理なことなのだろう。やはり無宗教的な記念碑的な施設が望ましいということになる。フランスの無名戦 士の墓が凱旋門の下にあるように日本も同等の施設を北の丸公園などに作り、一国の首相はここを詣でるようにするしかないのだろう。無名戦没者の墓として国 が作った無宗教施設である千鳥ヶ淵戦没者墓苑に隣接する社会保険庁長官官舎を取り込んで整備拡充する案もあるようだが、それでも狭すぎて寂しい。友人の建 築家、遠藤誠之亮は国会議事堂は当初のドーム型の設計を変更して西洋の墓所の形にしたので転用したらよいと皮肉を言っている。そうすれば靖国の権威は次第 に失われて、かってヨーロッパを蹂躙したナポレオンの墓であるアンバリッドのように金無垢に輝いてはいるけれ ど歴史的遺物ないしは観光資源としての価値になり下がるのではなかろうか。

市谷の防衛省構内には戦後の殉職自衛官1,700名のメモリアル・ゾーンがあり、21世紀の日本の戦死者(戦闘での死者 ゼロ)の追悼施設とし て外国の要人の訪問も始まっているという。

首相が靖国に参拝するのは憲法の政教分離に抵触するという指摘もある。

July 16, 2005

Rev. October 14, 2014


グローバル化の荒波で大きな犠牲を払った民間企業の人々が今度は官も公平にその負担を分担してほしいとの思いを実現化す る一つとして郵政民営化を支持した。規制緩和で増車の弊害に悩む多数のタクシー運転手層が既得権の上にノウノウとしている郵便局員に嫉妬したためとの説も ある。官と癒着して利益をむさぼる旧自民をつぶした小泉首相が喝采を受けるのは当然としても、彼が靖国に参拝したことに対し国民の半分が支持を与えたのは 驚きであった。若年層が小泉自民を支持したという。彼らは高度成長とグローバリゼーションの落とし子だ。人生への意欲、学ぶ意欲、働く意欲、消費意欲が低 いといわれる「だらだら生きる」若者達だ。従来の「保守農民」にかわる「新農民」票が小泉自民に流れたとみれば彼ら「新農民」は靖国参拝を良しとしている と理解できる。所得格差の広がった米国の貧困層がブッシュを支持しているのとパラレルな現象だ。

日露戦争に思いがけず勝ってのぼせあがり、満州に傀儡政権を作って植民地経営に乗り出したことに酔った当時の国民とおなじ心情なのか気がかりだ。小泉、安 倍など新自民党指導層が靖国にこだわるのはこのような盲目の民を羊のように従えたい思いがあるからだろうか。はたまた国の指導者としての 判断責任を裁かれることをさけたいという保身の本能がしからしめているからだろうか。

ドナルド・リチーが「イメージ・ファクトリー」で日本最初の憲法の第一条「和を持って貴しと為す」 の世界、すなわち「羊のように自己を定義する必要がなく、均一的幸福感のイメージだけが増殖する世界」に我々はまだ生きているということを認識しなければ ならないのだろう。そして小倉和夫元大使の指摘されるように日本はアジアにおける「百年の孤独」 から当分ぬけ出せないのであろう。世界最大の大陸国家で華夷秩序の思想を持った中国とは白村江で遭遇して以来、日華事変を例外とし て真正面の対決は避けてうまくやってきたのが日本の歴史だ。華夷秩序の束縛から解放されていないように見える現在の中国とはそういう歴史を踏まえてつき あってゆかねばならないのだろう。日本はアメリカ、ニュージーランド、オーストラリア、インド、アセアンなどと海洋国家連合を作って平和を維持するという 政治評論家の屋山太郎氏の戦略(学士会会報2005-VI No.855)が正しいとすれば「百年の孤独」など気にすることはないのかもしれない。むしろ科挙の悪弊が残る我が国自体の膿を出し切ることが先決だろ う。

とはいえ松原久子氏の「驕れ る白人と闘うための日本近代史」のように日本は右顧左眄することなく、限りある地球の上でお互いどう生きるかの手本を世界に示せばよいのではない か。

Rev. February 8, 2006

米下院外交委員会のハイド委員長(共和党)がハスタート下院議長に書簡を送り「小泉首相に米議会での演説を認めれば、日本の真珠湾攻撃直後に故ルーズベル ト大統領が『屈辱の日 』という言葉で対日非難演説を行った同じ議場を汚すととになる」と指摘したと2006年6月24日の朝日に記事があった。故に小泉首相はその希望にも関わ らず米議会での演説は出来ないのだ。

June 27, 2006


政権は安倍内閣となった。彼のリーダーシップで靖国問題は棚上げして中国とは和解した。しかし一方、愛国教育やボラン ティアの義務化など気になる動きをしている。たしかに若い世代にディシプリンが欠けているきらいはあるが、愛国教育やボランティアの義務化などを強制して うまく行くとは思えない。むしろ副作用の方が心配である。

楠原彰国学院大学教授は

「 戦前、戦中、国は勤労奉仕や兵役を義務づけ、市民から批判精神を奪い、歯止めをなくして国が暴走したではないか。国が個人の内面の自由にまで踏み込むべき ではない。憲法もそれを禁じている 」

と述べている。この見解は英国レスター大のスチュアート・ボール博士の言葉

「 愛国心が階層間の対立を棚上げにして国民の統一に使われた時代もあったが、現在では国家は個人の内面についてあれこれ指図すべきでない。個人の自由な選択 を尊重するという風に変わった。これは英国の保守の良質な部分といえる 」

と同じである。

December 1, 2006


2008/7/27に友人の西沢君にさそわれて学習院大出の神道禊(みそぎ)教 宗家七代教主坂田安弘氏が主催する暁鐘塾なるものの「靖国神社について学ぼう」という講演会に参加してみた。

靖国神社の成立から現在に至る歴史を解説したあと、氏はA級戦犯の分祀は神学上できない。靖国神社は維持管理の財政的基盤が弱いので、非宗教法人化して国 家の慰霊施設にすべきとの私見を披露された。これに対し、私は、「靖国神社の官軍の犠牲者だけを慰霊するという思想はチャンバラ時代から三八式歩兵銃・大 砲時代までの遺物で、ミサイルや原爆がある近代戦は東京大空襲や、広島・長崎・沖縄にみられるごとく、軍人より一般市民の犠牲者が多くなる。このような時 代に果たして軍人だけを慰霊する施設に税金を使うことに納税者が同意するだろうか?敵軍、賊軍、警察、消防、一般市民など の別なく平等に犠牲者を慰霊する国家施設にするというなら別であろうが」と質問したところ、「一般市民に関しては千鳥ヶ淵戦没者墓苑がある」と坂田氏は反 論した。「それは国家施設としてあまりに 物悲しく、かつ不平等で国民が靖国に税金を使うことを是とするか疑問では」と問いただすとメロメロになってしまい。司会者に救出される始末であった。

いまだに靖国神社を「市民を臣民化する梃子」として使いたい衝動を持つ人々がいることは驚きである。

August 9, 2008


百人斬り裁判」に敗訴した原告側訴訟代理人であった稲田朋 美衆議院議員・弁護士は中国人李纓監督が作成したドキュメンタリー映画「靖国YASUKUNI」に文化庁が助成金をだしたことを問題にしているという。い やな動きである。

August 13, 2008


安倍首相は靖国参拝は閣僚の自主判断だとゴーサインを出している。 2013年8月15日の終戦記念日に新藤義孝総務相、古屋圭司国家公安委員長、稲田朋美行革相、高市早苗政調会長らが靖国参拝するという。4月には稲田、 麻生副総理、古屋圭司国家公安委員長・拉致 問題相、新藤義孝総務相ら4閣僚が参拝し、中国、韓国が反発している。

Rev. August 4, 2013


東洋文化研究者のアレックス・カー氏は靖国にA級戦犯がまつられているこ とは気にしないという。西洋でも教会のなかに戦没者を葬るのは当然だからだ。むしろ戦争を肯定する遊就館を併設したことが問題であると指摘する。伊勢神宮 も明治神宮もなにも言わない。だから天皇も参拝できなくなった。そもそも歴史を直に見ず歴史を編集したがるのはアジアの共通な悪癖だ。ドイツは戦争の過ち を法律上も、学校教育の場でも、博物館でも明示している。したがってドイツを恨む国はない。しかし日本は戦後、折角のチャンスを逃がし、すでに手遅れだ。 敗戦で天皇制をのこしたのはよかった。しかし天皇は江戸城から京都御所にもどってもらったほうがよかったと思う。とはいえ米国のケリー国務長官とヘーゲル 国防長官は中国への配慮してか2013/10千鳥ヶ淵に参拝した。これはバイパスの知恵とでもいうものだろう。

October 10, 2013


長州藩の末裔の安倍首相は隣国の都合も考えず2013年暮れに参拝し、中 国・韓国はもとより米国の不快感さえもひきおこしている。ところがネット空間では米国へのはげしい言説がとびかっているという。日経の春秋に高村光太郎の 「記憶せよ、十二月八日」という詩を紹介している。「この日世界の歴史あらたまる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる・・・」 これが危険なナショナリズムのなせる業なのだろう。

Rev. December 30, 2013



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