北海道ツーリング

2004年

2004年8月下旬、ロータリークラブ・ハーレー会が北海道バイク・ツーリング・パート2を行った。2001年9月のツーリングに都合で参加できなかった76才の石原隊長のために押川氏が特別に企画したツーリングである。これをパート2と呼ぼう。前回は襟裳岬、根室半島、知床半島など道南・道東を中心に回ったが、今回は野寒布岬、宗谷岬など道北を中心に周った。前回は不幸にして全行程、雨の中であったが、今回はすべて快晴の下の快適なツーリングとなった。前回は全日程10日間で東北道全行程を走行したため、総走行距離は3,500kmであったが、今回は仙台から苫小牧まではフェリーとしたので総走行距離は2,434kmであった。全日程は8日間であった。

色ルート

第1日 8月21日(土)

8:45、自宅発。 出発時のオドメーターは36,080km

押川氏と連れ立って12:00佐野SA集合。 佐野SAから安達太良SAまでは今回参加しない飯塚、菅原両氏が伴走する。途中、那須高原SAで休憩。彼らは岳温泉1泊で帰るとか。別行動隊とは二本松ICで別れる。

18:00仙台太平洋フェリーターミナル着。オドメーターは36,548km(走行距離468km)。20:00、出航。

第2日 8月22日(日)

10:45、苫小牧港着。苫小牧東インター線経由苫小牧ICから道央自動車道に入り、札幌北ICで石狩街道に入る。 運転免許証を忘れてきてレンタカーを運転できなくなった石原隊長夫人と佐藤水産が経営するサーモンファクトリーで合流。 彼女は苫小牧港からここまで、JR、地下鉄、タクシーを乗り継いでたどり着いた。所要時間はバイクより少し早い程度。 旧石狩川を眺めなが昼食。ここから石原隊長夫人をタンデムシートに乗せる。2005年になればようやく先進国並みにこういう面倒なことをしなくてすむようになる。

佐田啓二・高峰秀子主演の 映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台になった石狩浜灯台を見物後、「石狩温泉番屋の湯」で石狩湾を見ながら一風呂浴びる。モール温泉なのか、褐色である。ちょうど駒大苫小牧高校が甲子園で優勝しかかり大騒ぎ。

石狩川を渡ると海岸沿いの道は丘の上の崖淵を走り、ランズエンドからセント・アイヴズに至る海岸沿いの狭い曲がりくねった田舎道を思いだす。石狩湾の対岸は小樽であろうか。厚田から留萌に至る海岸沿いの道は「親知らず」のように山が海に落ち込み、トンネルの連続となる。人が住めるところは浜益、増毛(ましけ)位である。千代志別で小休止。増毛で日没。 増毛から暑寒別岳(1,491m)がチラッと見える。なかにし礼氏の自伝的小説「兄弟」の舞台に増毛がでてくるが、現在の増毛はこの小説の印象より明るい印象であった。 すこし前に小休止した千代志別が小説に出てくる増毛の雰囲気を持っていた。

日没後、留萌(るもい)着。オドメーターは36,759km(走行距離211km)。ビジネスホテルR-inn泊。(Hotel Serial No.287) 押川氏が友人から教わった居酒屋「将軍」は日曜日は休みのため、「蛇の目寿司」で夕食。 (Restaurant Serial No.240)

第3日 8月23日(月)

9:30、留萌のホテル出発、天売国道(てうり国道232号線)を北上。道の駅おびら鰊番屋で小休止。利尻・礼文の旅の帰りにもここで休んだ。終戦後7日目に樺太からの引き上げ船3隻がこの鬼鹿沖でソ連の潜水艦の雷砲撃で沈没し1,708名の老幼婦女子乗組員が死亡したとの慰霊碑がある。

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おびら鰊番屋前で鬼鹿沖を背に

天売国道を更に北上すると海岸沿いの丘の上にウィンドファームが見える。ニチメンが旧上平牧場に建設したものだ。1,500kWクラスの風車が40基近くある。走行しながら撮影。上平牧場の丘にも登って見学する。苫前町の「住吉食堂」で魚スープのラーメンを食そうと霧立国道(国道239号線)を東に古丹別に向かう。この霧立国道からも 同じウィンドファームが横から見える。古丹別町の交差点を通り越し、10km程霧立峠に向かってひた走り、気がついて戻る。 (Restaurant Serial No.241) 住吉食堂は交差点を曲がったところにあった。美恵さんが一人で店を切り回していた。そこに北海道新聞が取材にきて、客の一人が元チャンプの親父と知り、これも同時取材していた。

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上平ウィンドファームを走行するバイクから片手撮影

昼食後、天売国道の北上を再開。やがて海中に天売島と焼尻島の2島が見える。遠別を過ぎて、徳山氏の勧めで、天売国道と平行する海側の道を走る。サロベツ原野に似た原野の中を走る。 道は砂丘の上に真っ直ぐつけられている。目障りなガードレールが無いのがうれしい。バイクを停めても他の車両はこない。 左手に日本海、はるか彼方の丘は氷河時代に基盤岩が凍結破砕作用で削られて残ったという宗谷丘陵だろうか。

遠別ー手塩間の原野を走行するバイクから片手撮影

天塩の町に入ると天売国道は丁字路に突き当たる。道路標識には左は抜海、右は稚内とある。とっさに抜海はどこにあったか思い出せず、稚内は今日の目的地でもあり、利尻・礼文の旅の帰りにもバスが天塩大橋で天塩川を渡ったことを覚えていたので右にゆく。あとでわかるのだが、左に行くべきだった。そうすれば天塩川を河口近くで渡ることになり、28基の風車が一列に並ぶ真下を通過してサロベツ原野の海側を走る稚内天塩線にまっすぐは入れたのだ。でもこのミスジャッジのおかげで、下サロベツ原野の幌延ビジターセンターを発見。(Theme Park Serial No.200) ここで下サロベツ原野の長沼とパンケ沼(下にある沼の意味)をフィールドスコープで遠望することができたので、それでよしとする。上サロベツ原野にあるサロベツ原生花園の方が有名だが、下サロベツの方が、沼めぐりには向いている。

稚内天塩線を北上するに従い、利尻島が次第に大きくみえるようになる。そうこうしているうちに抜海を通過。丘越えで稚内に入らず、そのまま野寒布(ノシャップ)岬の下を周って稚内に入ることにする。 ノシャップ岬の丘の上には 防衛庁情報本部電波部稚内通信傍受施設のレーダードームがいくつかある。サハリン沖で大韓航空機を撃墜したソ連戦闘機の無線を傍受した基地である。かってソ連を仮想敵国とした施設だが、その役目を終えてもいまだそこにある。 かって坂田道太防衛長官が 「ウサギは相手をやつける動物ではないが、自分を守るためには長い耳がある」ということを言ったが、そういうことなのだろう。稚内温泉「童夢」で一風呂浴びる。(Hot spring Serial No.199) 日本最北の温泉との触れ込みである。塩辛い。ノシャップ岬の灯台を見る。北海道のほとんどの灯台は紅白の横縞模様である。 稚内市内に入るまえに、夕暮れの稚内公園の急坂を上り、樺太を遠望する。終戦時、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」という最後の通信をしてから服毒自決した樺太の乙女たちの記念碑 と彼女らにふれた昭和天皇の御歌の石碑がある。

稚内着オドメーターは36,984km(走行距離225km)。稚内のさかえホテル泊 (Hotel Serial No.288) 夕食は お目当ての居酒屋「えぞ番屋」に出かける。(Restaurant Serial No.245)ここで徳山氏が息子の色紙を見つけて即、沖縄を旅行中の息子に携帯をかける。

第4日 8月24日(火)

8:30、さかえホテル発。宗谷岬に向かってひた走る。オホーツク海は湖のように静かだ。それでも冬の西風による荒波を制御しようとするかのように、枕頭消波ブロックが沖合い数百メートルに設置され、波はさんご礁のようにそこで崩れている。宗谷岬の東側には消波ブロックがなく、気分はよい。宗谷岬の直前に宗谷丘陵に登る道があったが、入りそこね通過。後で地図で調べると途中でダート道になるようだ。宗谷岬では徳 山氏が最も北端の石の上に立つ。岬の東側で漁港が建設中である。その防波堤の突端が宗谷岬より北になるのではないかと疑問を持ったが、押川氏がコンパスを持ち出し、突端は東方へのプロジェクション線よりかろうじて南側にあると確認。

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宗谷岬で

宗谷岬では日本最北端のガソリンスタンド(出光)で給油。日本最北端給油証明書をもらう。以後宗谷国道を南東の網走に向かってただ走るのみである。昨日は日光を背にして走ったのですばらしい景色を堪能できたが、今日は太陽に向かって走るため、まぶしく、景色はよく見えない。しばらくは宗谷丘陵の下をゆくが、やがて丘の上にでる。自衛隊の演習場になっているとのことだが何もない自然の丘陵地帯である。猿払牧場には道の駅があるが通過。やがて道は海岸の沼地をさけて海岸から離れる。浜頓別の町で 親切な小型トラックの先導でラムサール条約登録のクッチャロ湖に向かう。せっかくの自然のまま湖の向こうに市営焼却炉のエントツが見えるのは興ざめ。環境設備が景観に配慮しないのは縦割り行政の必然の結果であろうか? 帰ってTVで知ったが、この町では永住希望者に無償で宅地を提供している。

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クッチャロ湖にて

ふたたび延々と宗谷国道を東南に走って正午に道の駅おうむ(雄武)で昼食。海の幸ばかりであったので久しぶりに「しょうが焼き」を選ぶ。更に走って紋別市の道の駅で小休止。 昔は紋別の街道筋にはオホーツクのカニを売る店が並んでいたというが、今は1軒もない。1匹1万円以上になって誰も買わなくなったためだろうか。カニは札幌に直送されるらしい。

紋別は冬のオホーツクの氷を売りの観光センターらしく、やけに金をかけて観光施設を作っている。海面下の様子を見せる氷海展望塔(オホーツクタワー)や夏でも 流氷を見せようと、巨大なフリーザーをもつ博物館まである。客らしき人の姿なし。金をどぶに捨てるような、無駄な投資と感ずる。そのうち廃墟になるのではないか?無論、我々も無視して立ち去る。トイレだけで結構。

ところで水補給のためにドリンクの自販機はあるも、空ビンの受け取りを拒否している。道路公団、道の駅管理者がテロを理由にゴミ箱を撤去してしまったのだ。 ワル乗りとしか思えない。 産廃業を経営している徳山氏が「自販機でドリンク剤を売っている販売業者は空瓶の受け取り義務はあるのではないか?」とつぶやく。これで観光を売りにしているつもりなのだろうか?マイカーなら対応可能だろうが、バイ クには空ビンの収納能力はないのでつらい。 道路公団などのお偉いさんは現場の叩き上げの人物ではない。バイカーの事情には思いも至らないのだろう。「認知のバイアス」がかかっている。ローマの昔から現場の叩き上げの経験がない人物にはリーダーの資格はないという認識を共有する社会が生き残ってきたというのが歴史が証明していることだと思う。

湧別に至り、ついにサロマ湖にぶつかる。養分の多い火山灰を農地に客土するダンプトラックが沢山走り回っている。いまだに農業土木予算が重点配分されているのだろうか?サロマ湖は大きい、一生懸命走ってようやく終わる。 後で知ったが、この湖の南岸にある北海道常呂郡サロマベツ原野(現佐呂間町栃木地区)は足尾銅山が引き起こした公害から下流を守るために群馬県の谷中村を強制廃村にして渡瀬遊水地を作ったとき。谷中村の住民が強制移住させられたところだ。

サロマ湖

やがて能取湖畔に出る。この湖岸を大きく回ると網走湖畔だ。網走刑務所前を通過して網走市内に入る頃は夕闇せまる時刻であった。網走着オドメーター は37,344km(走行距離360km)。網走セントラルホテル泊。  (Hotel Serial No.289) 

ここで中本、深野、長山、中村君子氏のグループ4名と合流。一緒に居酒屋「和助」で夕食をたのしむ。(Restaurant Serial No.246)

第5日 8月25日(水)

9:00、ホテル出発。深野、長山、中村君子氏の若手3名は東海岸沿いに南下するとのこと。前回、我々が走ったのと逆コースだ。中本氏も加わった熟年本隊は内陸の美幌峠(490m)越えのルートである。前回通過した美幌バイパス入口を通過したあたりで小雨が来る。東南東の風が斜里岳(1,547m)に突き当たって上昇し、発生した雲から降る通り雨であった。

美幌峠にて屈斜路湖を背に (石原夫人撮影)

美幌峠はたった490mでも本州の2,000m級の高山の植生を持っていて一面の笹原であった。美幌峠から見る屈斜路湖は大きい。峠からパイロット国道を下がる途中、別行動をとっていた斉藤氏と無線の連絡がとれる。屈斜路湖畔の砂湯で合流することにする。砂湯で足湯に浸かって待つが現れない。硫黄山の駐車場に移動しても現れない。

硫黄山で

川湯温泉駅前でようやく斉藤氏を見つける。 ホンダのトライクルの鍵を物入れに入れて閉めてしまったという。無線もつながらないわけである。販売店の紹介でJAFにきてもらい針金を曲げて特殊工具を作りかなり苦労して 開ける。

メンバーはその間、川湯温泉駅舎の洋食屋「オーチャード・グラス」でハンバーグステーキを食す。 (Restaurant Serial No.242) このレストランは凝っていて、ステンドグラスのある駅長室を蒸気機関車で牽引するプルマン・エキスプレスでコートコートダジールへの旅を勧めるレトロな 広告などで飾り立て、なかなか雰囲気がよろしい。鍵問題で時間を空費したため 、摩周湖はパスし、阿寒湖に向かう。石原隊長の奥さんはグリーンウッド氏の後、2日間、徳山氏がタンデムしてきたが、ようやく斉藤氏のトライクルに移ることができた。

阿寒湖ではアイヌコタンに立ち寄る。ここでコーヒーブレーク。日も暮れかかったため 、足寄(あしょろ)ICに向かう。足寄は鈴木宗夫代議士の出身地のため、こんな辺鄙なところにも自動車専用道路ができている。国会で走っている車の数が熊の数より少ないと言われたところだ。なるほど我々の前後に車なく、対抗車線で行き逢ったのは1台だけであった。音更帯広ICに向かって走行中 、地平線近くに低くなった西日がまぶしく、日陰に入るときブラックアウトして危険なためジェットヘルメットにボタンで留めたプラスティックのフェースガカバーをとりはずす。

帯広着オドメーターは37,624km(走行距離280km)。帯広のふく井ホテル泊 (Hotel Serial No.290)  ホテル内のレストラン「バイプレーン」でたまたま仕事で帯広に来ていた押川氏の大学時代の友人 、佐々木逸志氏も加わってワイン付き洋食の夕食をとる。 トウキビ、十勝牛、いくら丼を佐々木氏差し入れのワインとともに頂いた。佐々木氏によると、日高山脈の東側の人々の気質は独立心が強いとおっしゃっていた。さもありなん。風景からして異国風である。 食後、ふく井ホテルが掘り当てたモール温泉を堪能。近くの十勝川温泉とおなじ泉質である。

第6日 8月26日(木)

中本隊とは以後別行動となる。9:00、ふく井ホテル出発。十勝街道で狩勝峠に向かう。十勝街道は片側2車線で大雪山周遊ドライビングに使った片側1車線の道東自動車道よりすばらしい。狩勝峠からは十勝平野をえぐって流れる十勝川が遠望できる。狩勝峠を下ってかなやま湖経由で富良野に出る。

我々は通らなかったがかなやま湖手前で樹海峠へ向かえば右手に十勝岳に懐かれた東郷ダムが見えたはずである。これは完成後17年経ても水漏れで水が溜まらない農水省の失敗ダムである。2009年の民主党政権になってようやく農水大臣は農業用ダムの建設は今後しないと宣言した。

空知川を渡ると眼前に芦別岳(1,727m)が迫力一杯に見える。富良野市の盆地を走ると芦別岳から布部岳(1,348m)、富良野西岳(1,331m)へとが連なっているのが見える。

富良野波状丘陵のベベルイ基線に近いジンギスカンレストラン、「ラベンダー園ひつじの丘」で昼食。 (Restaurant Serial No.244) 十勝岳がすぐ裏に林立し、眼下のポプラのある丘陵地帯が美しい。

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富良野波状丘陵の「ラベンダー園ひつじの丘」から富良野平野を俯瞰

深山峠のラベンダー園にチョッと立ち寄った後、北美瑛から美瑛丘陵地帯のパッチワークの路を走る。 観光客はケンとメリーのポプラしか関心がないらしいが、この異国情緒たっぷりの丘陵地帯をバイクで走行し、至福の時間を過ごす。パッチワークの路はやがて国道452号線に出て旭川に向けて走る。旭川からは道央自動車道で札幌北ICまで走る。札幌着オドメーター37,970km(走行距離346km)

すすきのの「ろばた大助別亭」で海の幸を楽しむ。 (Restaurant Serial No.243) ポールスター札幌ホテル泊 (Hotel Serial No.291) ポールスター(Polestar)は北極星の意味だが、内浦湾にステラポラリス(Stella Polaris)という素敵な名前の船があったと思い出す。

第7日 8月27日(金)

小樽行きをやめて、午前中は札幌市街見物をする。ホテル前の北海道旧本庁舎(赤レンガ)、大通り公園、旧札幌農学校演武場(時計台)(Theme Park Serial No.201)、すすきののラーメン横丁をみてから地下鉄にて北海道大学を訪問。クラーク校長の発案になる札幌農学校第二農場近くから校内に入る。ポプラ並木を見て学生食堂にて昼食。 このポプラ並木は老木になり危険ということで立入り禁止になっていたが、9月に入り台風の直撃をうけて10数本は横倒しになったそうだ。折れた1本を除き埋め戻すそうだ。北大は観光に貢献しようと次世代のポプラ並木を別のところでひそかに育てているとのこと。

赤レンガ博物館に展示されていた絵のうち 、二つが印象的であった。その一つは東京芝の開拓使出張所で 北海道開拓を担当した黒田清隆、榎本武掲らが、米国から招いた開拓顧問のホーレス・ケプロン、地質技師B・S・ライマンらと 一緒に開拓基本方針を固めている様を描いた絵 であった。北海道の異国情緒はその自然に負うところ大にしても、お雇い外人コンサルタントのDNAも大いに寄与しているのであろう。二つ目は正装で農作業させられている屯田兵らを視察する明治天皇の絵 である。画家がそこまで意図したかどうかはわからないが、次第に神格化されてゆく天皇制の事大主義を結果としてパロディー化していて面白い。

午後ホテルを出発、林間コースでカルデラ湖の支笏湖に抜ける。

支笏湖へ向かう一行 (トライクルより石原夫人撮影)

支笏湖では対岸にある風不死岳(1,103m)とその後ろの三重活火山の樽前山(1,041m)を背景にして記念撮影。 樽前山の溶岩円頂丘ドームは 迫力がある。支笏湖からは林間の樽前国道(国道276号線)で苫小牧に出る。観光ルートとしては道央自動車道よりよほどよい。苫小牧着のオドメーターは38,050km(走行距離80km)。

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支笏湖畔にて風不死岳と樽前山を背に

フェリー「きそ号」は午後7:00出航。 フェリーに自衛隊のミサイル発射機を備えたキャタピラー走行車が数両同乗している。ミサイルが暴発しないように安全装置があるのだろうが、あまりいい気分ではない。美幌峠でも時代遅れの自走式砲車が3台大型トレーラーに乗せられていたが、北海道では自衛隊の活動が活発と見受けられた。

A寝台はカイコ棚様の個室のそれぞれにテレビが備え付けてある。隊長夫妻が選択した特別室は普通のホテルと同じ仕様である。 我々隊員は共同浴室でひと風呂浴びたのち、A寝台で思い思いの番組を見ながら眠りにつく。

第8日 8月28日(土)

9:20、仙台港着。押川氏は急に仙台出張となるので仙台泊まり。

仙台港でトレーラー付トライクルを前に (石原夫人撮影)

東北道に入ってすぐ雨となったが、南下するに従い雨はやむ。佐野SAまで2回の休憩で到着。ここで解団。佐野SAから横浜新道まではノンストップで走る。 東京に入ると再び雨となる。徳山氏とは羽田で流れ解散。花之木IC→狩場JC間は事故で渋滞したため一般道を走る。午後6:00、自宅着。自宅着オドメーター は38,514km(走行距離464km)。

ハーレーに乗り始めてから10年。この間の走行距離は無論とっくに2万マイルを越えている。あと1,724km走ればHOGが組織されたとき以後の総走行距離が2万マイルになり、記念バッジがもらえる。

本ツーリングにかかった費用は予算ベースで13万円であった。

September 25, 2004

Rev. December 24, 2009


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