メモ

シリアル番号 表題 日付

1239

佐久間象山

2009/06/14

1811年生まれ。

松代藩8代藩主幸貫(幕閣・老中)の知遇を得て幕末に活躍し、蘭学・西洋砲術導入。

開国説、公武合体を唱えたため尊王攘夷派から危険視される。

地元では「ぞうざん」と呼ぶが、武井桂朝先生によれば本人は「しょうざん」と呼んでほしかったようだ。

門下生に勝海舟、坂本竜馬、吉田寅治二郎(松蔭)、小林虎三郎(山本有三の戯曲「米百俵」)。

妻順子は海舟の妹17才。

ペリー来訪時は松城藩は警護を命ぜられ象山は軍議役、吉田松陰の密航未遂事件に連座して獄に下り、松代で蟄居。

幕命により上洛、一橋慶喜の意を帯し画策、中川宮、山階宮を通じ、朝廷の尊王攘夷思想の転換を図り、彦根遷座更には江戸遷都を目論む。

1849年佐久間象山はオランダのショ メール百科全書を参考にして電信実験の為にダニエル電池を試作。これが日本初の電池となった。

1864年、山階宮邸訪問の帰途、京都三条木屋町で殺害さる。刺客は一説に備後熊本藩士尊攘派志士河上彦斎という。直後知行ならびに屋敷地召し上げられ佐久間家断絶

1870年(明治2年)、家名再興。

文武学校は8代藩主幸貫が佐久間象山の意見をうけて蘭学・西洋砲術を取り入れた藩校の建設に着手し、9代藩主幸教が完成させたものである。明治維新においてこの砲術は会津攻めに威力を発揮し、会津には恨まれた。

ペリー来訪時、ペリーから見て象山は他の幕閣より抜きん出て見えたようだ。


山田風太郎の小話

友人の田中利一氏が北越奥羽戊辰戦争にまつわる山田風太郎(医者・小説家)の小話を整理して送ってくれた。オリジナルは面白くするための誇張、デフォルメもあるが、ほとんど史実を踏まえている様に想うという。

元治元年1864年7/11佐久間象山、京木屋町三条で暗殺さる、人斬り彦斎(ゲンザ イと読むらしい)の待ち伏せ殺人。薩摩藩・田中新兵衛、土佐藩・岡田以蔵とこの河上彦斎を文久の三大人斬り、と呼ぶ様です。彦斎は時に応じ高田源兵衛の異 名も遣うプロ殺し屋。象山の正妻は御存知、海舟の妹・順子ですが、子なし、象山の血をひく男子は七、八人いる妾の内、富豪・蔵前札差・和泉やの娘・お菊と の間にできた恪次郎、只一人。暗殺当時17歳、敵討ちにはとてもムリ。海舟の『止めとけ!』勧告にもメゲズ、妹・順子はセックスアッピールを武器に、山岡 鉄舟道場一の遣い手・村上俊太郎を口説き落し、恪次郎仇討助太刀=前夫暗殺のリヴェンジ、を条件のヘンテコ再婚、自分は江戸に残り、召使い・お酉(この女 も象山先生の妾になっていたらしい)の即席仇討三人を起ち上げ、壮途を祝し送出した。探索の末、彦斎の出身藩・肥後細川藩牢獄に繋がれている事が解った。 この間、恪次郎は新撰組・近藤勇に其の仇討志をホメられ入隊、剣術修行に励んだらしいトンチンカン・エピソードも面白いが、これは省く、細川藩でもこの過 激派テロリストの処遇に困り、もてあまし気味、討たれてくれたら手を汚さず、厄介払いも出来るチャンスとばかり、敵討ちを認めた。敵討ちの場では、彦斎 すっかり悟りきった風情、刀を投げ出し、首を伸ばし『パッサリ討って呉れろ!』の構え『象山にはナンの恨みもない!ただ主義主張が違っただけ!息子に撃た れるなら本望!』流石は、三大人斬り、言う事が意表を突く、仇討三人組はすっかり呑まれ当惑、細川藩も大物テロリストの風格に感心、恩赦、それでも厄介者 には違いないので、薩長より緊急要請を受けている北越後戦・官軍指揮官として直ちに送りだした。この頃の官軍側長岡陣営は、信州の雄藩・松代上田藩指揮下 にあった。直虎自刃後の藩の命運を賭けて、須坂藩も官軍参加、松代藩配下で動いた。彦斎は偽名の高田源兵衛の名で細川藩代表として、松代藩入り、松代上田 藩は戦場慰労、酒食の席の話題として、郷土自慢、象山を持ち出し、敵討ちに出た三人の消息を尋ねた。意外な事態を始めて理解し、オトットの彦斎・高田源兵 衛は少しも騒がず、『大志、大願成就を祈るのみ!』の名セリフで切り抜ける。

ラスト・サムライ河井継之助は倒れ、人斬り彦斎は生き延びる、この世の不条理、大喜劇!しかし此のタイプ、乱世には水を得た魚だが、明治の世には犯罪者になるしかない顛末…

もっと話は面白いのですが、愚生の描写力ではこの程度、後は会った時のお楽しみ!結局、象山の息子・恪次郎は明治になって、警察組織に入り、不思議な縁に結ばれて落剝した犯罪者・彦斎と刑場で出逢い、首をハネルことになる、誠に奇怪な明治裏話です。


司馬遼太郎と佐久間象山

勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、小林虎三郎、河合継之助、高杉晋作ら明治維新を成し遂げた人々はことごとく佐久間象山の弟子であるし、慶喜も将軍となる前に は弟子であったと言えなくもない。にもかかわらずなぜ司馬遼太郎は佐久間について書かなかったのだろうかと疑問をもって調べたところ須坂出身の高橋宏 信 大工学部教授が同じ疑問をもって司馬にぶつけたところ「佐久間がきらいだから」と返事をもらったそうだ。高橋宏氏は英語の先生で、信大のあと静岡大に移籍、静岡県熱海市在住。

司馬の返事の内容は「一口で言えば、象山は朱子学(江戸幕府が官学として保護し、幕臣の子弟に学ばせた)で、理屈一本で行く人。柔軟性に欠けており、嫌い だ。僕は竜馬のような人物がいい」と。「そのはがきは大切にしまっておいたが、最近、古い物を処分し始めており、ごみとして廃棄した」と高橋さん。

ところが佐久間は23歳で江戸に出て朱子学を学ぶが次第に陽明学の方に心惹かれていき、「言志晩録」 などを書いた佐藤一斎門下に入る。更に洋学を摂取し、西洋軍事(砲)術を学ぶ。 真に憂国の士となり、海防論、国防論、藩政改革論等「常に国家の存亡を我が身で担っているという、強い自負心に燃え続けた」。この間慕う者多く、門弟 300人とも言われるとある。陽明学を評価した人間には「峠」にでてくる山田方谷、岩崎弥太郎、渋沢栄一、東郷平八郎、富岡鉄斎、安岡正篤 、三島由紀夫など。

司馬が象山がきらいだったのは朱子学が理由というのは事実誤認だ。朱子学こだわり、時代の先をみていた男の影響力に気が付かないのは司馬の不勉強。江戸末期の日本 人は象山の価値に気が付いて大勢のリーダーが教えを乞うた。司馬の多量の小説を読んでいる現代の日本人は先が見えた象山のような男の価値に気が付かなく なっている。佐久間の失敗は佐藤一斎の言志四録にある

徳は本なり。芸は末なり。世のことわざにも、万徳一心とて、いかほど芸能にすぐれたりとも、心の徳おさまらざれば、世わたりはなりがたし

にあるのだろう。しかしこの徳という言葉こそ、現在の日本のビジネス界を縛っているのではないか。

Rev. February 5, 2018


トップ ページヘ