終 章
一神話
かつて、災厄の日が在った。
神は、愛し子を御手に救い、祝福を与えられた。
その者は、すべての人の始祖である。
神は、また、心悪しき者を、凍土へと打ち捨てられた。
その者は、悪鬼となり、災厄の日を生き延びる。
人の子に与えられた楽土は、悪鬼の妬むところとなった。
やがて、悪鬼の息が楽土を穢し、その牙が、爪が、聖域を引き裂こうとした。
時の聖者が、神の祝福を得て悪鬼を倒し、再び凍土へと封じた。
神は、人の子を称え、聖母を遣わされる。
聖母は、尊き者を生み出した。
一人は、王となり、人々を統べ世界を治めた。
一人は、神に近き者となり、人々を導き世界を治めた。
今、世界は、平らかである。
人々よ。
王国の主に従え。
寺院の主の前に、頭を垂れよ。
彼らは、神の祝福である。
二 氷の奥津城
エリーティルは、幼い頃から、たたき込まれた寺院の教えと、異端の物語の恐ろしい食い違いに、目眩を覚えながら、最後の抗議をした。
「私も、たいがい罰当たりだが、貴方は、何という冒涜をそそのかすのだ。悪鬼を見物せよとは。しかも、あの氷壁を越えよと、おっしゃるのか」
異端の聖者は、十一弦聖琴を取り出した。
寺院の祭祀に使われる、ありふれた型の物だが、種々の螺鈿細工が、微妙な光彩を生んで美しい。
「寺院の宝物蔵で、出会ったのです。これが、私を選びました。貴方を引き付けるため、彼に、少しでも似ている者が、好ましかったとか」
エリーティルは、訝しげに聖琴を見つめた。
「それは、いったい、何の謎掛けなのです」
「さて。まず、これを、受け取っていただきます」
異端の聖者は、止める間もなく、琴から何かを刳り貫いた。つややかな象牙を思わせるそれには、精緻な細工が施されている。
「これは…」
「古い護符です。身を守ってくれるでしょう」
異端の聖者は、帆布をめくって、風の吹きすさぶ外へ出た。
「聖者殿?」
「行きましょう」
「バハディースをおいて?」
「彼は、大丈夫です。貴方の…」
異端の聖者は、言葉を切って言い直した。
「今は、私達が、いてもいなくても同じです」
エリーティルは、未練がましげに、腹心の巨漢を振り返った。
「生きていろよ。後で話をしてやるから…」
生きて戻れるものならば。
氷壁は、ため息が出るほど、はるか彼方に見えている。
あそこに、たどり着けるものなのだろうか。
《もちろん》
エリーティルのぼやきに、声無き声が応えた。
何げなく手に握り締めていた護符が、白く発光している。
熱さを感じた訳ではないが、慌てて取り落としてしまった。
護符は、凍った大地を転がると、姿を変えた。
大きな犬…いや犬ではない。それは、子牛ほどもある狼だった。
絶滅したと言われて久しい、悪魔の眷属は、牙を剥き出して笑った。
《さあ。乗れ。故郷に戻してくれた礼をしよう。あそこまで、運んでやる》
異端の聖者が、低い声で言った。
「お前の責務は、それだけで済むのか」
《いいや。帰りも、送ってやる。その他に、望みがあるなら、出来る限りかなえよう》
「偉そうに、恩に着せるな。お前でなくとも、よかったのだ。だが、お前の義理を果たさせてやる」
エリーティルには、解らぬやり取りだったが、どうやら、駆け引きらしいので、邪魔をしないよう口を挟まなかった。
話をまとめた冒涜者は、エリーティルともども、狼の大きな背にまたがった。
《しっかり、しがみついておれ》
獣の疾駆は、恐ろしいものだった。
深い灰色の毛皮に指をからませたエリーティルは、何故、自分が吹き飛ばされてしまわないのか、わからなかった。
平然としている異端の聖者が、信じられない。
それは、天上の星が、尾を引いて見える程の速度で、氷壁にたどり着くまで、さほどかからなかった。
灰色狼は、牙を剥き出す笑いを見せると、またもや、姿を護符に変える。
冒涜者が、護符を拾うように合図した。
エリーティルは、少しためらったが、結局拾って懐に治めた。
これを無くしては、帰れなくなってしまうだろう。
「それで、この絶壁をどうしろと?」
まだ、何か出てくるのだろうか。
エリーティルが皮肉な微笑を見せると、異端の聖者は、抱えていた十一弦聖琴を大地に置いた。
「これから先の道案内とは、貴方が話さなければならない。幸運を祈ります」
「何だって」
驚いたエリーティルが叫ぶと同時に、異端の聖者は、崩れるように倒れた。
白い霧状のものが、冒涜者の身体から滲みだし、聖琴を包んで消えた。
見る間に、十一弦聖琴が、姿を変える。
《よく来た。人の子よ。待ち兼ねたぞ》
それは、巨大な鳥だった。
鉤爪を持つ翼は、エリーティルの持ち船と、同じほどの大きさに見える。
エリーティルは、こめかみを押さえた。
これ程、希有壮大な悪夢と出会えるとは、何という幸運なのか。
せめても、これが、サルフィに起こった事でなくてよかった。
しかし、こんな話をしてやったとして、バハディースは信じるだろうか。
《小さき者よ。我は、牙の王とは違うぞ。お前に義務は、負っておらぬ》
エリーティルは、腹をくくった。
「牙の王とは、護符の狼のことか。彼だって、俺には関わりないものだ。待ち兼ねたという相手に、連れないことをいわれる貴方は、何者で、どうしたら道案内をしてくれるのか」
《翼ある者の王だ。我は、お前に力を貸し、お前は、我に力を貸すことができる》
「回りくどい方だ。義理は無いが、道案内をしてやる。その代わり、何かして欲しいというわけか。いったい、俺に何ができる」
巨大な鳥は、笑いの波動を放っている。
それは、張り詰めた大気が、震えるようなものだった。
《その通りだ。気の強い小さき者よ。では、聞け。今の我は、琴に封じられた爪や、この若者に宿って、やっと、この世に存在する影に過ぎない。完全ではないのだ。我が半身を、氷の廟より取り戻したい。お前が、それをするのだ》
「また、難題を…。悪魔を見物し、貴方のように、馬鹿でかい鳥の半身を、掘り出せとでも?
《そうではない。取り戻したいのは、魂の半分だ。我は、すでに死んで身体などない。だが、半分の魂が欠けたままで、完全な転生が、できぬのだ。それは、かつて人の子に預けたもの。そなたは、彼を目覚めさせればよい》
エリーティルは、嫌な予感に青醒めた。
まさか、見物どころか、悪魔を目覚めさせろ、ということなのか。
「誰を、だって」
《ヴラジュオンだ。愛しいバルデの子、ガデルが、望んだので、我は、生まれたばかりの赤子と、魂を半分替えたのだ。バルデの血を持たぬ子供に、我が眷属の友情と守護を与える為に》
巨鳥は、遠い目になった。
《うかつなことよ。たかだか人の子の生涯、僅かな間、魂の半分を替えてやり、微睡んでいるつもりだったのに、既に千年も捕らわれておるのだ》
「バルデの守護獣、巨鳥ザイスか!それでは、貴方の持つ彼の半分は、どうした」
《既に、転生しておる。だが、やはり完全ではない。魂が欠けたままでは、長くは生きられまい。あるいは、悪しき者に憑かれるやもしれぬ》
エリーティルは、奇妙な焦りを感じた。
迷っている場合でも、ためらっている場合でもないと。
「連れて行ってくれ。私を、彼の元へ!」
《もとより》
力強いはばたきが、大気を撃った。
巨鳥ザイスは、エリーティルを乗せて、氷壁を越えた。
吹きすさぶ風も、凍てつく寒気も、彼には、何の脅威を与えなかった。
その背のエリーティルまでも、風にさらわれる事も、凍える事も無い。
エリーティルは、目を見開いた。
氷の城が、白い樹海から、その威容を覗かせている。
「霊峰神殿!」
では、彼は、まだ捕らえられているのか。
巨鳥ザイスは、神殿の塔に翼を休めた。
目も眩む高みではあったが、エリーティルは、長い船上暮らしで、高いところには慣れていた。
帆桁の上で作業をする時同様、縄を器用に操り手近の窓枠に掛け、中に滑り込む。
《行け》
青年は、巨鳥ザイスの激励へ、手を挙げて応えると駆け出した。
まるで、どこへ行けばいいのか、知っているかのように。
神殿を閉ざす氷は、透き通って、きらめく水晶を思わせた。
隅々に施された、精巧な装飾の細部に至るまでが、見て取れる。
異端の聖者の物語が、エリーティルを導いた。
巨鳥ザイスが着地した塔を駆け降り、中央に位置する塔へ向かう。
青銅の扉は、千年に渡って開かれていた。
高い天井を支える、優美な列柱の間を横切り、巨大な螺旋の階段を昇る。
そして、精緻な彫刻が施され、玉石が象眼された白木の扉を見た。
エリーティルは、足を止めた。
己の無謀さに、呆れ果てる。
どうやって、彼を目覚めさせるというのか。
巨鳥ザイスも、異端の聖者も、何一つ示唆していない。
だいたい、本当に、彼がいるのだろうか。
千年も、聖女の呪いを封じ込めながら、自らも捕らわれて。
胸が痛んだ。
何という犠牲なのか。
聖司カイは、何という、うかつな事をしたのか。
エリーティルは、聖堂へ震える足で踏み込む。
そこに、彼はいた。
美しい、純白の氷像が座している。
確かに、異端の聖者に、似ていたかもしれない。
だが、より完璧に整った神の容貌に、息を呑む。
「ヴラジュオン…ヴラージュ」
エリーティルの頬を、涙が伝い落ちた。
微かな風が、聖堂を吹き抜ける。
その時、純白の神像に、息が吹き込まれた。
純白の睫が震え、銀の眼が見開かれる。
神の双眸が、エリーティルに向けられた。
《…ああ》
かの人の、冷たく整った容貌に、優しい微笑みが浮かんだ。
《今度は、大人になれたんだな。カイ》
エリーティルは、絶句した。
自分が、誰であったかを思い出して。
《千年もたったのに。また、泣いたのか》
カイシュオンだった者は、義弟に歩み寄った。
「ヴラージュ。君の物語が…悲しくて…」
《何も、悲しくはない。千年の眠りを覚ますのが、お前だとは。会えて嬉しいよ》
ヴラジュオンの肩から、美しい色彩の小鳥達が、飛び立った。
長身の青年は、彼らを見送ると、義兄に腕を差し伸べる。
エリーティルは、優しい抱擁を受けた。
《カイシュオン。お前が来たということは、世界は滅びず、人の世は、続いているのだな。俺は、もう逝ってもいいのだろうか。聖女の呪いは、まだ、すべてが、消えたわけではないのだが…》
エリーティルは、泣き笑いで頷いた。
「聖女の呪いが、どんなに吹き荒れても大丈夫だ。人は強くなったし、賢くもなった。地に満ちて、あふれるばかり、もう、聖司も、聖女も、霊峰の民も、山の民もありはしない。すべては、まるで違った物語りになっている。王は、馬鹿だし、寺院は、堕落して久しい。君は、多分笑ってしまうよ」
ヴラジュオンは、子供のように、屈託ない笑みを見せた。
《それは、転生するのが、楽しみだな。できるものならば、だが》
「もちろん」
君の半分は、もう現世にあるのだから。
《今度は、お前が、見送ってくれる番だな》
「そのつもりだ」
優しい抱擁が、繰り返された。
涙を抑え切れないエリーティルの腕の中で、千年を耐えた青年が散った。
それは、神でもなく、まして、悪鬼でもない。
彼が耐えたのは、大切な妹のためであり、すべての人々の為ではないのだ。
「神は、いないね。ヴラージュ。寺院の説く、すべての人を、公平に愛する大いなる者などいなかった。あの時も、自分勝手な私がいて、君がいて、ヴラウディリがいただけだ。それでも、世界は、おおかた守られた。多分…そうして、守られていく」
エリーティルは、巨鳥ザイスの歓喜に満ちたはばたきを聞いた。
《小さき者よ。感謝するぞ。翼持つ者の王は、お前の為に、そして、我が半身だった者の為に、よい風を贈るだろう》
エリーティルの懐の護符が、光を帯びた。
手に取り出すと、焦れたような声が言う。
《我も、解放してくれ。牙の王も、感謝するぞ。我とても、千年の虜であった。翼持つ者の半身に、縊り殺され、護符となった。だが、前のそなたときては、何一つさせてくれぬ内に、死におって!我は、役立たぬ内は、逝けぬというに》
「ヴラージュのくれた…山犬の牙でつくた護符!そうか、細工させたのは、私だった。よく残って…」
精緻な文様は、霊峰の民ならではだった。
《何、ここからは、神官が持ち出しおった。人手を渡り歩いて、最近は、蔵の中で、腐っておったのさ》
《そして、我の爪と併せて、十一弦聖琴に細工されてしまった。この無骨者が、な》
《笑うな、翼の》
エリーティルは、苦笑すると、守護獣達の争いを止めた。
「方々。送ってはいただけまいか。私は、一人で戻れないのだが」
《我の解放…》
《ずうずうしいぞ。戦いに負けたのだ。潔く護符の役目を果たし、報酬を求めるな。牙の》
「しかし、千年も待ちくたびれていたのでは、気の毒だ。無事、異端の聖者殿と、バハディースの元へ戻れたら、解放しよう。それでは、どうだ」
《おお。感謝するぞ!》
エリーティルは、再び、御伽噺の若者のように、巨鳥の翼を借りて氷壁を越えた。
飛び去る翼の王を見送り、正体のない異端の聖者を、巨大な狼の背を借りて運ぶ。
帰路は、瞬く間だった。
エリーティルが、寒気に侵されないも道理だった、氷の大陸に近づいた時から、無意識に、守護の皮膜をつくっていたのだ。
それは、聖司カイだった時のものとは、比べ用もないほど、貧弱なものではあったが、確かに一行を守っていた。
粗末な非難小屋が、見えてくる。
「バハディース!」
エリーティルは、声を上げた。
今は、彼の傷を癒すことができる。
灰色狼が、足を止めた。
護符の形に変化する。
エリーティルは、笑うと、護符を拾って灰青の空に投げた。
「解放するぞ。牙の王!」
《感謝する》
牙の王の魂は、駆け去った。
放り出された異端の聖者が、呻いた。
「いったい…」
「ご無事か、聖者殿」
安否を尋ねると、動ずるということが無いようだった聖者が、上ずった声をあげた。
「貴方は…ここは…」
「ああ、戻って来たんだ。物語りは、終わりに…」
聖者は、重ねて尋ねる。
「戻ったとは、どこへ。あの、貴方様は、どこの、どなたなのでしょう」
エリーティルは、口を開けた。
「まさか。覚えておられないのか」
「申し訳無い。時折、記憶が途切れて…、寺院を追放され、港町に着いた所までは…でも、ここは?」
「氷の大陸だ。貴方が、導いていたというのに、何ということだ。あれは、ずっと、貴方の中に宿っていた、翼持つ者の王だったのか?」
世界の果てに流されたと知った聖者は、恐怖に青醒めている。
妖しさなど、かけらも無い、ごく普通の…人間のようだった。
エリーティルは、これ以上無いほど笑った。
バハディースは、生きていた。
黒い巨漢は、いつまでも、いつまでも、置いていかれた悲しみを切々と訴える。
それが出来るまでに、回復しているのだった。
何とも、しぶとい。
思えば、この無二の腹心には、無意識でも、ずっと守護を与えていたのだろう。
完全に癒してやれば、自他共に大騒ぎになるだろうことは、見えていたので、目立たぬ程に傷を塞ぎ、血を足すだけにとどめた。
「旦那様。おかしら。で、最後の物語りは、どうだったんですかい…で、ごぜえますか」
エリーティルは、看病のまね事で、黒い巨漢の包帯を替えながら、軽い口調で応える。
「だから、悪魔は、聖者によって凍土へ封じられました。めでたし、めでたし」
「寺院のお説教じゃ、ないんですぜ。どうせ、こんな果ての地で、死ぬんだ。本当のとこを、教えてくだせえよ。旦那様ぁ」
「お前は、死にやしないさ。それに、よい風が吹くはずなんだ。港に戻った時、不信心者の烙印を、押されたいのか」
バハディースは、嗄れた声で、すねて見せた。
「へい。へい。旦那様は、神罰を受けるほど、信心深くていらっしゃる」
三 帰還
風が吹いた。
「エリーティル様!」
見張りを務める異端の聖者が、歓声を上げた。
一隻の商船が、狼煙に気づき、進路を変えて迎えに来てくれる。
「ほら、な」
扉代わりの帆布をめくって見せたエリーティルは、微笑んだ。
バハディースは、横になったままで肩を竦める。
エリーティルは、腹心の頭を軽く叩いた。
「ちょっと、出迎えに行ってくるよ」
既に、岩ばかりの海岸線に、小船がつけられていた。
数人の船乗りが、聖者を囲んで事情を尋ねている。
エリーティルが姿を現すと、そのうちの一人が、弾けるように顔を上げた。
「エリーティル!」
懐かしい若い声が、歓喜に溢れて叫ぶ。
エリーティルは、破顔した。
「ああ、本当に、いい風を贈ってくれた。感謝する。翼持つ者の王よ」
両手を広げて待つと、年若い友が、胸に飛び込んで来た。
「エリーティル。生きていた…よかった」
「サルフィ。我が友よ。心配をかけたね」
サルフィは、涙に濡れた顔を上げて、友を見た。
「我が友、エリーティル。君の秘密は、全部わかったぞ。何て奴なんだ。君は」
エリーティルは、驚いて口こもった。
彼の脳裏を横切ったのは、千年に及ぶ物語りだった。
「そ…それは…」
「港町の会頭で、実は、こんなに若くて、海賊の長で、不信心者のあげく、この私の兄だったとは!」
エリーティルは、安堵のため息を漏らした。
「そのことか」
サルフィは、わがまま一杯に育った者の特権で、躊躇なく兄に迫った。
「まだ、秘密が、あるのか」
「うん。実は、その…」
エリーティルは、弱り果てて、しがみついて迫る弟の背を叩いた。
「エリーティル!」
「実は、私達は、前世でも、兄弟だったという夢を見たんだ」
サルフィは、うさん臭げに兄を見上げた。
しかし、すぐに、明るい笑いが、少年の顔を輝かせる。
「そんなのが、秘密なのか。それは、きっと、そうなんだよ。私だって、よく見たもの」
美しい金髪に縁取られた、優しい顔立ちの少年は、ヴラージュとは、あまりにも印象が違う。
だが、あの魂が、確かに、ここにあった。
サルフィは、兄の胸を叩いた。
得意そうに告げる。
「昨夜なんか、空から白い光が降って来て、私の中に、入ったんだ。そして、ここ向かえば、君に会えると声がした。あれは、人間の声じゃなかった。どう、すごい夢でしょう」
「そして、風が、君の意のままに吹いたんだろう」
そうでなければ、船主の命令でも、船員が、世界の果てに向かうことを、承諾するはずがない。
そして、風は、彼の意のままになる。
「信じないのかい」
「いいや。信じるよ。神の祝福を、ね」
エリーティルは、背が伸びた弟の肩を抱いて、晴れ晴れと笑った。
今度こそ、しくじるまい。
この子が、幸せに生きられるよう見届けよう。
そうそう。どこか、間が抜けてしまうのも、返上せねばね。
彼らは、奇跡と呼ばれる帰還を果たし、寺院の恩赦を勝ち取る。
奇跡も、恩赦も、莫大な進物の効能と、人々は、面白おかしく噂した。
それも、いつしか、日常に埋もれて行く。
こうして、異端の物語りは、流れ着いた果ての地に、消えたのだった。
近年、氷の大陸は、その姿を失いつつある。
一つの島ほどの氷塊が流れ出て、うかつな商船を幾隻も沈めたとも聞くが、小さなことである。
世界は、なべて平らかである。
力ある聖者も生まれず、悪鬼もいない。
禍も、奇跡も起こらず、人々は退屈な、だが、安逸な平和の時を過ごしている。
人々よ。
王国の主に従え。
寺院の主の前に、頭を垂れよ。
彼らは、神の祝福である。
人々は、気のない素振りで、寺院の教えに従った…
(白き峰の聖司 完)
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