INDEX|物語詰合せ

       
 

 


◆目 次◆

序 章
第一章

第二章
第三章
第四章
第五章
終 章



 
   
  第四章 純白の聖司


      一 流離


 かつて、異端の物語を詠む者があった。
 時ならぬ嵐は、罪人もろとも、十指にあまる船を沈め、人々に神罰を思わせた。
 罪人として半顔を焼かれた冒涜者は、寺院に追われ、ついには、船出したのだという。
 このとき、名高い十一弦聖琴は、その罪深い主と物語りとともに、失われたと伝えられている。

 風が変わった。
 港では、帆が風を孕み、多くの船が旅立つ。
「ばかなことを」
 と、年老いた祖母は、泣いた。
「許さぬ」
 と、祖父は、嗄れた声を震わせた。
 青年の、両親…深窓の姫君だった母親は早くに儚くなり、素性の知れぬ父親は生死すらわからない。
 孤児となった青年を、祖父母は、慈しみ育ててくれた。
 だが、その祖母の哀願でも引き留められぬほどに、青年の心は、嘆きと後悔で塞がれている。
「いかなくては。私こそが、悪かったのですから」
 無分別に呪われた物語を望み、引き換えに友を失った。
 自分の我がまま故に、年長の、父とも兄とも慕っていた友人を、亡くしてしまったのだ。
「友よ。エリーティル」
 異端の語り手と共に、嵐の海に沈んだ友を想い、いまだ髭のない白い頬を涙がつたう。
 年若いサルフィには、ただ一人の孫を失う祖父母の嘆きを、顧みることができなかった。
 船出の準備は整い、後は、桟橋につながれている商船に身一つで乗り込むばかりになっている。
 古い貴族の血筋を誇る祖父は、両の腕を天に差し上げ、神罰を受けて海に沈んだ男を呪った。
「何ということだ。王よりも、古く尊い血筋の末裔が、親子そろって、卑しい一介の商人に奪われてしまうのか。呪われた上にも、呪われるがいい。あの男の生まれた日に災いあれ。奴めの最期が、冒涜の罪人よりも、惨い死に様でありますように」
 サルフィは、怒りと疑惑で青褪めた。
「今、何と?」
 言うべきことを言い終えた祖父は、肩を竦めて背を向けた。
 祖母が、泣き腫らした目を瞬かせ、消え入るような声で真実を告げる。
「彼は、お前の異母兄です。あの男の父親が、お前にとっても父です。あの男に焦がれて、娘は死んだ。お前も、あの男の息子の為に行ってしまうの?」
 サルフィは、凍りついたように立ち尽くした。
「エリーティル……」
 青年が呟いた、友の、そして異母兄の名は、港町に吹く潮風に攫われた。




 夜の海に、儚げな光が灯る。
 形のよい指先が弦をつま弾くと、燐光が脅えたように震え、遠のいた。
「死者の灯火か。奇麗なものだな」
 エリーティルは、囁くように小さく言った。
 十一弦聖琴を手にした異端の聖者は、静かに微笑む。
 彼らは、半壊した船の残骸に乗ったまま漂流していた。
 あの嵐で沈んだ死者の魂は、淡い光を放ち、夜ごと追いすがり纏わり付く。
「こっちの魂まで、持ってかれちまいそうだ…でごぜいますぜ」
 エリーティルの傍らには、黒檀のような肌をした巨漢が横たわっていた。
 エリーティルの金と翡翠の指輪を嵌めた指先が、バハディースの黒い額を小突く。
「下手な敬語は、よせといったろう。怪我人め」
 バハディースは、敬愛する海賊の長に、白い歯を見せて笑った。
「旦那様、船長、おかしら。とにかく、嵐はいっちまった。続きを、聞かせてくれませんですかね。途中だと、何やら、落ち着かなくていかんですぜ」
 黒い男は、血のにじんだ布が巻かれている胸をさすってみせた。
「まったく罰当たりな手下だな」
 エリーティルは、苦笑し、短く刈り込んだ髪をかき回す。
「いいだろう。俺が、三つめの物語りを最後まで聞かせてやる。その後は、彼から語ってもらおう。よろしいか。異端の聖者殿」
 端正な横顔を見せていた罪人が、エリーティルの問いかけに振り返る。亜麻色の髪が夜風に靡いて、焼かれた半顔が月明かりに晒された。
 紺碧の双眸が、エリーティルに向けられる。
 深く甘い声が、微笑を含んで応えた。
「思し召しのままに。時は十分にございます。今こそ、すべてを語りましょう。いまだ語られたことのない、最後の物語まで」



 こうして、失われたはずの物語りは、静かな波が寄せる夜の海で語られた。
 まず、嵐で途切れた物語を語りついだのは、かの港町の会頭であり、海賊の長でもあった青年だった。




      二 祝福と禍


 かつて、祝福された霊峰の地は、聖女ケリュスを、山の民に略奪された。
 その行方は、十年を経てようやく明かされるが、すでに聖女は亡く、霊峰神殿が取り戻したのは、聖女の血を受けたロスケリスだった。
 山の民として育ち、霊峰の地に馴染まない少年を、義兄として導いたのは、後の聖司であったという。
 やがて聖司テュイルの代が終わり、霊峰の守護は、聖司カイに継承される。
 時は、概ね穏やかに過ぎて行った。
 聖女アルウィスが、奪われるまでは。


 深い森の中に、澄んだ歌声が響いた。
「アルウィス」
 名を呼ぶと、白い面が振り向き、微笑みを返す。癖のない薄茶の髪が、ふわりと舞った。
 ヴラジュオンは、聖女の子供のように華奢な肢体を、抱きとめる。 
「ロスケリス。今朝は、どこに行っていたの」
 アルウィスは、ヴラジュオンを、敬愛する聖女ケリュスの子としての名、ロスケリスで呼んだ。
「蜜は嫌いか」
「あら、好きよ。木の実を蜜で固めたお菓子とかね。でも、これ蜜なの」
 少女は、青年が差し出した袋の中を覗き込むと、首を傾げた。
「これは、蜂の巣だ。壊して中身を取り出す」
「巣なの?家を壊すのは、可哀想だわ」
「いくらでも、別の場所に作り直すさ。でも、この近くに蜂の巣なんかあったら、危なくてしょうがない。どうせ壊すんだ」
 アルウィスは、無邪気な眼差しで尋ねた。
「危ないの?」
 霊峰神殿で大切に育てられた聖女は、ごく当たり前の事を知らないことがある。
「毒を持っているからな。蜂に刺されると、命取りになることがある。気をつけろよ。蜂を見つけたら、大声出して逃げて来い。でも、家の中で、おとなしくしているのが、一番安全だ」
 少女は、目を離すと、いつの間にか森の中に迷い出してしまう。
 ヴラジュオンは、大袈裟に脅した。
 アルウィスは、少し考えて笑顔を見せる。
「あら、ロスケリス。じゃあ、貴方も、出掛けちゃだめよ。私の声が聞こえる所に、いなくちゃね」
「アルウィス」
「ずっと側にいてくれなきゃ、だめ。嫌よ」
 ヴラジュオンの背に、少女の華奢な腕が回される。
 このところ、ずっと細くなってしまった腕。
「まぁ。ロスケリスったら、嘘よ。冗談なのに、笑ってくれなきゃ…私、意地悪言ったみたいね」 
 ヴラジュオンは、明るい微笑みを見せる少女を、そっと抱き締めた。
「アルウィス…」 
 ヴラジュオンは、霊峰神殿から聖女を奪った後、人々が考えたように、山の民の地へ逃れたのではなく、霊峰の地の豊かな森の中、忘れられた集落を隠れ家にしていた。
 それは、今は亡い母と同じように、身体の弱いアルウィスのためだった。
 この少女を、苛酷な山の民の地へ連れていけば、すぐに死んでしまっただろう。
 だが、それでも、衰えていく少女の命を留める事は、できないようだった。
 軽い羽音とともに、少女の居場所を知らせてくれた瑠璃と翡翠の鳥が、頭上の梢に降り立った。
 澄んだ声で、競うように鳴く。
「彼らは、貴方が好きね」
「翼あるものは、バルデの友だ」
「バルデ…?」
「山の民の、俺が育った部族の名だ」
「帰りたい?」
 ……帰りたいの?バルデのヴラジュオン……
 少女の声が、山の民としての名で語りかけた。
 そんな事は、ありえない…なかった。



 ヴラジュオンは、霊峰神殿の白い苑にいた。
 素知らぬ顔をした少女達が、あちこちで、純白の花々を摘んでいく。
 小さな白い顔が、無邪気を装い、長身の神殿兵を見上げた。
 片言がふさわしい童女達が、大人びた口調で尋ねる。
「ヴラジュオン。夢を見ていたの」
「ロスケリス。ここは、嫌いなのね」 
「ヴラジュオン・ロスケリス」
「帰りたいの?何故、留まったの?」
 幼い少女達は、不可思議な微笑みを見せた。
 十二人の聖女達。
 奪われた聖女の代償。
 神の恵み。
 霊峰の民の女は、たいてい出産に耐えられず死んでしまうが、その代わりのように、最初で最後の子供は、双子か、三つ子、それ以上であることが多い。
 十二人のうち、何人かは実の姉妹であり、互いに、そっくり同じ容姿をしている。
「悪戯はよせ」
 ヴラジュオンは、煩わしげに言った。
 少女達は、笑いさざめく。
「あら、喜ぶと思ったのに」
「折角、織り上げた夢なのに」
「自分で破ってしまうなんて」
「…だから、気をつけましょうって言ったのに。だめよ。聖女アルウィスは、彼を、ヴラジュオンとは呼ばなかったのよ」
「だって、聖司様が…」
「ほら、怒ってしまったじゃない」
「どうしたって、私達が、嫌いなのよ」 
「ひどいわ。『私の奇麗なロスケリス』。笑ってくれても、いいのにね」
 聖女として崇められている童女達は、聖女を奪った過去がある神殿兵に、特別な関心を寄せていた。
 事あるごとに、まとわりついてくる。
 その度に、怒っていてはきりがない。
 ヴラジュオンは、幼い聖女達の声を背にして聖女の塔へ向かった。


 聖女セズフィスは、子を生む事なく年を重ね、聖女の塔を預かるものとして、多くの聖女を養育してきた。
 また、すぐれた療法師でもある。
「いらっしゃいませ。聖女ケリュスの御子、ロスケリス。苑で、あの子達が、何かしましたのね」
「たいした事ではありません。聖女セズフィス。お待たせしましたか。申し訳ありません」
 最年長の聖女は、青年の静かな面を見つめた。
 初めて会った時の、傷付いて苛立つばかりだった少年の面影は、もうない。
 大の大人が、たじろぐほどに鋭かった眼差しも、今は、幾分穏やかだった。
「おいくつになられました」
「十九です」
「では、三年…早いものですね」
 聖女アルウィスが、目覚めの無い眠りについてから、三年が過ぎていた。
 老いた聖女の堅い声が、亡き聖女の恋人に尋ねる。
「アルウィスに、会っていかれますか」
 塔の地下には納骨堂があり、聖女の遺体を収めた石棺がおかれている。
 ヴラジュオンは、黙って首を振った。
 別れは、三年前に済んでいる。
 山の民は、死者の眠りを、生者の嘆きで妨げてはならないものと考える。
 死者を悼むのは、死の後の一時期だけだ。
 生まれ育った地の習わしは、霊峰の民となった今もなお、ヴラジュオンを捕らえていた。

 

 高い天蓋から降り注ぐ光が、重なり合う木々の葉を透かして、辺りを緑に染め上げている。
 半地下に設えられた薬草園には、環境を調整され、霊峰の地に本来あり得ない熱帯植物が、栽培されていた。
 その大半が、薬として用いられる。

 手折られた茎から、乳白色の樹液が滴り落ちた。
 療法師である聖女は、薬草園に入ると、半日がかりで、必要な薬草を集めた。
「ロスケリス。そちらへ、籠を積んで下さる」
 最後の籠を一杯にすると、老いた聖女は汗を拭い、大きく息を吐く。
「私が、運びます。休んでいて下さい」
 ヴラジュオンは、外套を敷いて聖女を座らせ、薬草の籠を手押し車に積んだ。
 何往復かして、薬草の山を、すべて病棟の倉庫へ移す。 
 人心地ついた聖女セズフィスは、青年の動きを目で追う。
 隙のない、不思議と滑らかな動作だった。
 彼は、他のどの神殿兵とも、違っている。
「ロスケリス」
 若者が顔を上げると、長く伸ばされた金褐色の髪が、肩を滑り落ちていった。
 懐かしい紺碧の瞳をしている。
「聖女セズフィス?」
「アルウィスを育てたのは、私です。それに、…ケリュスも」
 老女は、ぎごこちない微笑みを、若者に向ける。
 ヴラジュオンは、黙って頷いた。
「あの子たちは、ためらいもせず行ってしまった。私も、あの子達を、さほど惜しまなかった。あまり、よい養い親では、ありませんでした」
 鮮やかな色の鳥が、鋭い音をさせて羽ばたく。
 それにつられたものか、薬草園の翼持つ住人達が、いっせいに高く低く鳴き、騒ぎ立てた。
 老いた聖女は、辺りが静まるのを待った。
「でも、いまさら、どうかと思われるでしょうけど…ケリュスは、ちゃんと母親らしくできたかしら?幸せだった?」
 ヴラジュオンは、穏やかに老女を見つめた。
「神に捧げるべき賛美歌を、子守歌にしていたのは、貴方か」
 聖女セズフィスは、昔のささやかな罪をあばかれ、深い皺を刻む面を赤くした。
「そんなことは、昔のことです。私は…」
「アルウィスは、驚いていたが、ケリュスは、子守歌にしていたし、それしか知らないと言っていた」
「ケリュスは、私にとって初めての養い子で、仕方なかったのです。アルウィスの小さい頃には、ちゃんと子守のための歌も学んで……」
 聖女は、口ごもった。
 かつての養い子の息子を、見上げて尋ねる。
「ケリュスが、賛美歌を?」
 微笑が、唇をかすめた。
「貴方は、ケリュスには、十分な母親だった。だから、ケリュスが母親になったとき、迷い無く、貴方のまねをしたのだと思う。あまり母親らしくは、ありませんでしたが、私も父も、彼女を愛していました」
 聖女セズフィスは、深いため息を漏らした。 
「ああ。では、あの子達は、幸せでしたね。霊峰の地の誰にわからなくても、私にはわかります。神に選ばれた聖女であるということは、誇らしいことであるべきなのですが…人の子としての営みと、切り離されてしまうのは、やはり寂しいのです」
 ヴラジュオンは、老いた聖女の言葉に頷く。
「聖女は、聖司を生む道具として、生まれながらに、世俗から隔離される。だが、結局は、人であることに違いはない」
 だから、寂しいのだ。
 最年長の聖女は、若者の理解に感謝しつつも、生真面目にたしなめた。
「ロスケリス。道具というのは、失礼ですよ」
 ヴラジュオンは、老いた聖女に不敬の許しを請わなかった。
 かわりに問いかける。
「聖女セズフィス。貴方とケリュスやアルウィスと、あの小さな聖女達は、同じですか」
 聖女セズフィスの表情が強ばった。
「どういう意味ですか」
「貴方もケリュスも、アルウィスも、たしかに人です。どのような、力を持っていても人でした。でも、あれは、違う気がする」
「わかるのですか。そう。あの子達は、まるで…違う生き物のようです。恐ろしいほど、強大な力を感じます。でも、結局は、聖女であることが、寂しい…人の子なのです。貴方に興味があるのは、アルウィスを羨んでるのです」
 ヴラジュオンは、何かを思案するように目を細めた。
「…強大な力、ですか」
 聖女の応えが、かすかに震える。
「ロスケリス。それは、貴方の中にもある。深く、とても深く封印されているけれど、聖司様に匹敵するほどに強い力です」
 色鮮やかな鳥が、羽音高く、天蓋を横切った。
 薬草園を、鳥達の甲高いさえずりが埋め尽くす。
「霊峰の魔力が、神の恵みならば、強大すぎる力は、何の為に与えられたのか…それほどの力を必要とする事態が何なのか、考えられたことはありますか」
 若い神殿兵の問いは、老いた聖女を慄然とさせた。
「この聖なる地へ、禍が訪れると言われるのですか」
「訪れていないと言えるのですか。かつては、一世代に数人いた聖司が、ほとんど生まれなくなり、今や、結界を支える聖司は一人。後継者もない。これは、禍でしょう」
 かつての聖司達は、老いて後、戴印し、人生の最後の数年を、霊峰の地へ捧げた。
 だが、聖司が生まれにくくなると、戴印の時期は、しだいに早められ、当代の聖司カイに至っては、戴印したとき成人してもいなかった。
 そして、彼らの命は、力を使うごとに削り取られていく。
 聖司になれば、長くは生きない。
「いいえ。十二人の聖女がいます。彼女達のいずれかが、聖司を生み出すでしょう」
「あんな子供達が、子供を生めるようになるまで、待てるのですか」
 老いた聖女は、喘いだ。
 次の聖司が生まれる前に、聖司カイが死んでしまったら…聖司の守護がなければ、霊峰の地は、滅びるだろう。
 誰もが、その不安を押し殺しているのだ。
「ロスケリス。貴方は…」
「それとも、そのときまで、カイの命を永らえさせる為に、聖餐をとらせればよいと言われるか」
「いくら、貴方が聖司カイの義弟だったとは言え、何ということを…」
 ヴラジュオンは、目を伏せた。
「カイは…苦しむでしょう」
 聖女セズフィスは、深いため息をついて、胸元で手を組んだ。
「だから、霊峰の民は、聖司を敬愛するのです。聖司カイは、あまりに若くして戴印された。痛ましいと…思います。でも、ロスケリス。貴方がいる」
 最年長の聖女は、養い子達の息子であり、恋人であり、聖司の義弟であった青年に、微笑みかけた。
「貴方が、霊峰の地へ戻られたのは、神の采配でしょうね。アルウィスの為にも、聖司カイの為にも、よかったこと。少なくとも、私は、そう思います」
 ヴラジュオンは、紺碧の双眸を陰らせた。
「神の采配…」
 聖女ケリュスの息子は、先代聖司テュイルに、霊峰の地を滅ぼす不吉な獣と呼ばれた。
 最悪の禍は、この身のうちにある。



 聖別された少女達が、白い苑で笑いさざめく。
「愛しくて不吉な獣」
「とても奇麗な獣ね」
「でも可哀想。まだ、『その時』は、来ないのよ」
「あまり早く来ないほうが、いいのよ」
「それまでは、私達のものね」
「聖司様の、でしょ」
「ずるいわ」
「ずるいわね」
 童女達の甘い声音は、白く透き通った花々の花弁を揺らしていた。




      三 予兆


 山の民は、気まぐれな冒険の果て、信じがたいものを見た。

 彼は、三日がかりで、風が吹き付ける断崖絶壁を登り、結界と呼ばれる白い霧を前にした。
 いくばくかの恐れを感じたが、退くことはできない。
 結界を抜けたが、予想に反して抵抗はなく、だた、霧が柔らかくまとわりついただけだった。
「おお」
 男の口から、それ以上の言葉がでない。
 何という、緑なのか。
 暖かな空気に包まれた男が目にしたものは、見慣れた低木と苔に覆われた岩肌ではなく、冷たい純白の雪でもなかった。
 圧倒的な緑の樹木。
 濃い大気は、森の馨しい香りに満たされている。
 これほどの高地に、あっていいはずもない、考えも及ばない豊かな地だった。
 そして、樹海の中心には、壮麗な塔を持つ霊峰神殿が、威容を見せていた。
 男の眼に、貪欲な光が浮かんだ。
 この地を、我が一族のものに、この富を、愛する者の為に……
 一族の元へ戻り、戦の支度をせねばならない。
 山の民は、踵を返した。



 若い神官は、小走りに回廊を渡る。霊峰神殿の一隅にある兵の習練場へ向かっていた。
 中庭への木戸は、大きく開かれている。
 その戸口をくぐった途端に、叩きつけるような音が聞こえた。
「次!」
 鋭い声とともに、刃が砕け散る。
 刀を折られた兵は、情けない表情をして退いた。
 代わりに進み出た男も、腰が引けている。
「タジェン・バウ。お手柔らかに頼みます」
 神殿兵の長タジェン・バウは、霊峰の民らしからぬ偉丈夫で、手ごたえのない部下に苛立っていた。
 技はともかく、まず力が足りない。
 次の兵も同じだ。
 剣を何度か合わせ、見切りをつける。
 無造作に打ち込むと、土煙と共に部下の体が転がり、その手を離れた剣が空を飛んだ。
「アル・レンク」
 タジェン・バウは、高みの見物を決め込んでいた副官を呼び付ける。
「なんでしょう。タジェン・バウ」
 アル・レンクは、壁に寄り掛かり、腕組みをしたまま首を傾げた。
「使い物になるのがいない。鍛え直せ」
 小柄な副官は、苦笑を見せた。
 腕組みをとくと、丈高い上官に歩み寄る。
「新兵に、あまり多く望まない方がいい」
 タジェン・バウは、唸った。
「多くだと」
「失礼。実用向きなのは、そう簡単にいません。所詮神殿のお飾りです。見場がよくて、型ができていれば、よしとしなければ」
「そうも言っておられん」
 アル・レンクは、痩せた肩をすくめた。
「使えるのも、いるじゃないですか」
 鈍く光る鋼色の瞳が、副官に向けられた。
「あれこそ、使えるものか…今は、まだな」
「それで、使い走りばかりですか。勿体ないような気がしますがね」
 タジェン・バウは、低く言った。
「あの山犬が、信用できるのか?」
 神殿兵の長は、習練場を見渡す。
 豪奢な金褐色の髪が、嫌でも目につく。
 弓を携えた青年は、入り口近くで、神官に捕まっていた。
 何やら、話し込んでいる。
 神殿兵の長は、剣をおき槍をとった。
 重さを確かめるように、右手左手と持ち替えては、弄ぶ。
 タジェン・バウの様子を窺っていた神殿兵が、我が目を疑った。
 槍が、ある神殿兵の無防備な背へ向かって、投じられたのだ。
 弓を携えた腕があがる。
 鋭い音と共に、弓弦にからめとられた槍は、空を舞い壁に突き立った。
 ヴラジュオンの紺碧の双眸に、動揺はなかった。
 背に庇われた若い神官が、喘ぐ。
「ヴラジュオ…じゃない。ロスケリス」
 弦の切れた弓が、地面に置かれた。
 若い神殿兵は、襲撃者を真っ向から見据えた。
 タジェン・バウが、促すように、壁に突き立つ槍に目をやる。
 ヴラジュオンは、進み出て、その槍を引き抜いた。
 定められた作法通り、一礼し、穂先を合わせる。
「来い」
 長の低く抑えた声が、短く命じた。
 同時に、槍が、青年の心臓を目がけて突き出され、僅かにかすめる。
 ヴラジュオンは、一歩ひいて、長の槍をかわした。
 かわした先を、穂先が追う。
 槍が、空気を唸らせ襲いかかった。
 かわし、突き、打ち払い、また、かわす。
 その速度が、見る間に増した。
 訓練された兵すら大半が、槍の軌跡を見失う。
 タジェン・バウの突きが、青年の肩を捕らえた。
 ヴラジュオンは、辛うじて踏み堪える。
「体勢を崩すなといっただろう」
 神殿兵の長の叱責とともに、容赦のない突きが腹に入る。止め具があるとはいえ、かなりの打撃だった。
 口腔に、血の錆びた味が広がる。
 ヴラジュオンの左腕が、執拗に繰り出されるタジェン・バウの槍をつかみ取った。
「誰が、そんなやり方を教えた」
 鋼色の瞳が、光を鈍くはじいた。
  引き倒されかけた青年が、槍から手を放す。
 ヴラジュオンは、地面に片手をついた。
 タジェン・バウの槍が、青年の背を容赦なく襲う。
 見守る人々が、思わず息を呑んだ。
 倒れかけたはずの青年が、反転し、突き出された槍を蹴り上げる。ヴラジュオンは、不自然な体勢から跳躍した。
 そのまま、長の頭上へ得物を打ち下ろす。
 凄まじい音が、人々の耳を撃った。
 ヴラジュオンの槍を受け止めた衝撃で、タジェン・バウの槍が、あり得ない程たわむ。
 タジェン・バウは、唇の端を歪めると、無造作に若者を槍ごと打ち払った。
「力まかせか。お前は、技を学ばなければならん」
 ヴラジュオンは、血を吐き捨てる。
 紺碧の双眸が、鋭さを増した。


「何てことを……」
 スウェインは、青醒めて呻いた。
 傍らのアル・レンクは、肩をすくめた。
「神官殿。ご心配せずとも。いつもの事です」
 若い神官は、声に非難を込めた。
「いつもですって」
「訓練です。死にはしません。双方、強情なもので、少々行き過ぎる事もありますがね」
 ヴラジュオンは、続けざまに打ち込まれていたが、一向に屈する気配がない。
 見る間に傷が増えていく。
「やめさせてください。とにかく、今は」
 見ていられないと思ったのは、ヴラジュオンの友人の神官だけではなかった。
「アル・レンク。いくら何でも、やりすぎです。やめさせてください」
「あれでは、ロスケリスが、もちません」
「…アル・レンク」
 アル・レンクは、熱のない声で応えた。
「あの山犬を、人並みに心配する必要はない」
 たった一人で、多くの神殿兵を蹴散らし、青銅の扉を両断した…まだ幼い子供だったのに。
 あの場にいなかった人々、特に若い者は、実際何があったのか知らない。
 だから、あの青年に親しみを持ったり、かばおうとすらする。
 しかし、古参の神殿兵として、タジェン・バウも、アル・レンクも知っているのだ。
 あれが、不吉な獣だと……
「アル・レンク」
 スウェインは、息を整えると、固い声で告げた。
「神殿に仕えるものとして、聖司に敬意をお持ちでしたら、あれを止めてください。聖司カイが、しばらくぶりに、お目覚めになります」
 アル・レンクは、虚を突かれ、目をみひらいた。
「聖司カイが、では……」
「久しぶりに会う義弟が、痣だらけでは、哀しまれましょう」
 アル・レンクは、ため息をつくと、行き過ぎた習練を止めに向かった。



 習練場に隣接した部屋は、武具の手入れや、神殿兵の着替えの為に用意されたものだった。
 ヴラジュオンが、手のひらで口元の血を拭う。
 スウェインが、苛立った口調で問いただした。
「ヴラジュオン。いつも、ああなのか」
「ああ、とは…」
「訓練で、あそこまでするのか。殺されてしまうぞ」
 ヴラジュオンは、汚れた胴着を脱ぐと、神官が用意した正装を受け取った。
「俺が、未熟なままなら、それも仕方ない」
 スウェインは、友人の身体につけられた傷と痣に、顔を顰めた。
「ヴラジュオン」
「霊峰の民は、おもしろい。俺は、てっきり弱いんだと、思っていたんだが……。何故、あれほどの腕を持つものが、戦いに、守護など必要とするんだろう。バルデを襲った時、彼らは、聖司テュイルに、光翅を与えられ、あまつさえ守護の皮膜さえ帯びていた」
「おい。ヴラジュオン……」
 異邦で育った聖女の御子は、事もなく笑う。
「力で組み伏せるのは容易いが、どうせなら、技を学んで勝つべきだろう」
 若い神官は、こめかみを押さえた。
「お前という奴は…。気をつけろよ。タジェン・バウは、お前に個人的な恨みを持っているんだからな。気付いてないのか。お前、いびられてるんだぞ」
 ヴラジュオンは、黙って旧友の顔を見返した。
 スウェインは、真っ赤になって、口ごもる。
「そりゃ、私も…まぁ…昔は……。でも、タジェン・バウのは、別だ。子供のやっかみじゃない。あれは、憎しみ、だぞ」
 ヴラジュオンは、首を傾げた。
「個人的な恨み、か。どういう事だ」
「噂だけどね。その…タジェン・バウの義弟だったんだ。山の民の地で、死んだのは」
 山の民ガデルの胸を貫いた銀の剣、その持ち主は、ガデル自身に殺された。
 ヴラジュオンは、眉をひそめた。
「それでは、逆恨みだ。冗談だろう」
「冗談だといいけどね」
 実は、もう一つ、動機らしきものがある。スウェインは、それを言うべきかどうか迷った。
 その内に、ヴラジュオンが、身支度を終えた。
 スウェインは、ため息をつく。
「タジェン・バウも、さすがに顔を避けたな」
「顔?」
「正気なら、いくら憎くても、その顔に傷をつけるのは、ためらうよ」
「何でだ」
 傷痕だらけの身体は、正装に覆い隠された。
 身なりを整え、黙ってさえいれば、申し分ない美人なのだ。
 聖女ケリュスから、受け継いだ紺碧の瞳、豪奢に輝く金褐色の髪と、彫りの深い端正な容貌。
 痩身だが、鍛え上げられ均整のとれた肢体。
 これほど容姿に恵まれているのに、自覚のかけらもないのは、腹が立つほどだった。
「神様は、自分に似せて人を造った。たぶん、神様のお姿が目に見えるなら、お前のようだろう。これで、口をきかなければ、立派な芸術品だ…と、女の子達の間で評判なくらいだし…男でも、そう思うかもな」
「不気味な事を言うな」
 スウェインは、面白そうに友人を眺めた。
「間違いじゃない。特に、口をきかなければという下りが…ま、神官と違って、神殿兵は、所帯を持てる。いい娘がいたら、うまくやれよ」
 ヴラジュオンは、生粋の霊峰の民であるにもかかわらず、山の民として育ち、山の民としての矜持をもっている。
 それ故、大半の霊峰の民は、賎民に育てられた子供を、哀れみと侮蔑を以て迎え、近しくなろうとはしなかった。
 だが、それも、この何年かで変わった。
 霊峰の聖女を愛し、……失った青年に、人々は同情を寄せ、かつて嘲笑された出生は、ロマンティックなものとして語られる。
 なかなかに優秀な学生で、聖司の義弟だったことや、美しい容姿にも、人々は好感を持った。
 女性達は、特に……
 本人を前にすると、的外れな好意のようだが、このさい、ヴラジュオンが、霊峰の民として生きていく為にはいいことだ。
 スウェインは、背の高い友人の肩を軽く叩いた。
「ヴラジュオン。その顔で笑っていろよ。案外、タジェン・バウも恨みも、とけるかもな」
 ヴラジュオンは、訳が分からず、困惑した眼差しで、友を見下ろす。
 そのとき、木製の扉を叩くものがあった。
「ロスケリス。スウェイン神官。お迎えが、いらっしゃいました。お急ぎ下さい」
 扉越しに、神殿兵見習いの少年の声がかかる。
「ああ、いけない。時間が掛かり過ぎた。行こう。聖司カイが、お目覚めになる」
 正装に改めた聖司の義弟と、その友人の若い神官は、聖堂へ連れ立って向かった。



 青銅の扉は、開け放たれていた


 霊峰神殿の中心である聖堂は、民人から聖司へ、敬愛と共に贈られた壮麗な居城でもある。
 聖司の目覚めを迎え、神官達は、喜ばしげに微笑みを交わした。
 名手によって聖琴がつま弾かれ、清らかな調べが、優美な列柱に支えられた天井へ昇る。
 はるか高みの天窓からは、柔らかな光りが降り注いでいた。
「神に選ばれた守護者に、祝福あれ」
 神官達の挨拶に見送られ、螺旋階段を昇る。
「ロスケリス。私の案内は、ここまでです。控えの間では、神官長パル・ハークに、ご挨拶をしなさい」
 スウェインは、改まった口調で言うと、友を残して、その場を辞した。
 ヴラジュオンが、精緻な彫刻の施された扉を開けると、老いた神官が、待ち受けていた。
「ロスケリス。聖司カイが、お待ちです」
 神官の長の震えを帯びた声が、聖司の義弟に掛けられる。
 パル・ハークは、老いた瞳に、警戒の光を浮かべていた。
 だが、聖なる守護者の望みどおり、異邦に育った青年を、その聖域に招き入れる。
「そのまま、奥の間へ、進まれるように。聖司カイは、寝所からは、お出ましになられない」
 ヴラジュオンは、黙礼した。
 無人の広間を横切り、紗幕に隠された扉を開く。
 扉の中の部屋には、燭台の明かりを受けてきらめく水晶が、壁一面に張られている。
 そこには、高い天蓋を持つ寝台が、置かれていた。
「カイ」
 紗の帳を透かし見ると、横たわる人影が、かすかに身じろぎをした。
 ヴラジュオンは、天蓋から流れ落ちる紗の帳を、そっと払いのける。
 優しい穏やかな微笑があった。
「ヴラージュ」
 懐かしい名が、呼ばれる。
 かつて、父と母が呼んだ名。
 霊峰の地において、その名を呼ぶのは、ただ一人だった。
 ヴラジュオンは、寝台に屈み込む。
 十年近くの時が、過ぎていた。
 だが、義兄の姿は、出会った頃のままに少年のものだ。
 ただ、淡い金の髪は色を失い純白に、水色の双眸は銀に変わっている。
 カイシュオンの白い指先が、義弟の袖を捕らえると、傷が覗いた。
「いまだに、傷が絶えないようだね」
「訓練で、へまをしただけだ」
「君が?」
 霊峰の聖なる守護者は、淡い光輝を帯びて微笑む。
 ヴラジュオンは、眉を顰めた。
「仕方ないだろう。試合と実戦は、別だ。制約が多くて、難しい。それに、俺の力の大半は、お前が封じたんだぞ」
 カイシュオンは、腕をのばして、義弟の豪奢な金褐色の髪を撫ぜた。
「ヴラージュ。それは、必要ないもの…だと思うよ。それとも、不自由かい?」
 霊峰の守護者たる少年は、寝台に身を起こそうとした。
 ヴラジュオンは、心得たように、義兄を助け起こし、その傍らに腰をおろす。
「そういえば、ここへ正式に招かれたのは、初めてだな。聖司を殺そうとしていないのも…今は、誰かと争うこともない…今は…いらないな」
 聖司は、愁いを含んだ眼差しで、青年となった義弟を見上げる。
「ずっと、そうであればいい。でも、それも、君には辛いだろうね…」
 ヴラジュオンは、儚げな、だが、多くのものを背負った義兄の肩に腕をまわして支えた。
「前に見たときより、細くなったような気がする。随分、弱ってるんじゃないか」
 カイシュオンは、苦笑した。
「ヴラージュ。私は、病気じゃないんだよ」
 ヴラジュオンは、固い声で言った。
「カイ。アルウィスだって、病気だったわけじゃない。ただ弱っていっただけだ」
 肩を支えるヴラジュオンの腕に、義兄の華奢な手が重ねられた。
「思い出させたんだね。ごめんよ。でも、私は、聖司だ。彼女よりは、ずっと強い」
「そんなに痩せて、よく言う。アルウィスの方が、よっぽど肉が付いていたぞ」
 青年は、怒ったように言うと、顔を背けた。
 だが、その強い腕は、義兄を支えたままだった。
「ヴラージュ。君、無作法だとか、乱暴だとか言われているけど……」
 ヴラジュオンは、腕の中の少年が震えているのに、驚いて振り向いた。
 義兄は、笑っていた。
「女性には、結構丁重だし優しいね。でも、私に、そうするのは、どうしてなのかな」
 ヴラジュオンは、幼い頃のように、ぶっきらぼうに応えた。
「お前みたいに、か細い奴が、男に見えるものか」
「酷いな。君こそ、小さい頃、本当に、奇麗な女の子みたいだった。でも、大きくなったね。ちゃんと女の子に、もてるようだし…」
「…見て来たような事をいうな」
「本当に、君を見ていたからね。ここで微睡んでいても、何でも、知っているよ」
「何でも?」
 カイシュオンは、失言に気づき赤面した。
「待って。何でもって、何でもって、全部じゃないんだ。ええ…っと、遠くから、眺めているというか、見守ろうというか…とにかく、女の子と二人のときとか、寝所だの浴室だのは、覗いてない」
 ヴラジュオンは、焦った義兄の様子に、笑った。
「お前、聖司のくせに…変わらないな。そこまで言ったら、間抜けだぞ」
 ヴラジュオンは、指をのばし、義兄の額から純白の髪をのけた。
 そこには、淡く光を放つ刻印がある。
 これが、刻まれた日から、義兄は、霊峰の守護者になった。
 人として、日常の生活に費やす力も、成長していく力も、すべてを、結界を支える為に向け、微睡み続けていた。
 そして、その心は、見た目どおりの少年のままなのだ。
「お前は、三年も眠っていた。何の為に、目覚めたのか。俺は、たぶん知っているよ」
  ヴラジュオンの口調は穏やかだったが、試すような響きがある。
 カイシュオンは、しばらく躊躇ったが、真実そのままを告げた。
「最近、二・三度、結界に触れる者があった。たぶん、山の民だと思う」
 ヴラジュオンは、頷いた。
「そう。霊峰の民は、結界に近づかない。となれば、山の民の…戦の為の…斥候だ」
 カイシュオンは、目を伏せた。
「そうなんだろうか。もしそうなら、神殿兵を出すことになる。ヴラージュ。その時、君は……」
 紺碧の双眸が、霊峰の聖司の銀の瞳を、覗き込む。
「いらぬ心配だ。霊峰の民は、霊峰神殿を頂点として、一つにまとまっているが、山の民は、幾つもの部族からなる。部族間の争いは、激しいものだ。山の民同士、戦うことは、よくあること。俺は、お前を守ると言った。山の民が相手でも、戦ってやるよ」
 少年の姿をした聖司は、気遣わしげに、大きな義弟を見上げた。
「でも、君の育った部族だったら……」
「部族長を失ったバルデに、その余裕があるとは思えない。それでも、彼らが、やって来るならば、お前は、俺が殺してやる。どのみち案じることはない」
 今は、その時ではない。
 霊峰の聖なる守護者は、義弟の揺るぎない眼差しに、言葉を失う。
 ヴラジュオンは、微笑を消して言った。
「山の民と、戦いたくなければ、斥候を結界で拒むか、捕らえるか、できれば殺すべきだった」
 カイシュオンは、哀しげに首を傾げた。
「私にできるのは、結界を維持すること。結界が守っているのは、この地の豊かさだ。荒々しい気候や危険な病を遮りはしても、人を拒む力はないんだよ。まして、人を殺すなんて……」
「お前にできるとは、思わない。でも、神殿兵に命令を下すことはできたろう」
「聖司は、誰にも、何も、命じたりはできない」
 山の民に育てられた青年は、舌を打った。
「どのみち、もう遅い。山の民と霊峰の民の間には、嫌悪の感情はあったが、戦うほどの動機はなかった。山の民の地は、貧しい。そして、霊峰の地が、豊かであると知らなかった。だが、それを知った今、彼らは、この地を得るために戦いを挑むだろう」
 霊峰の守護者は、義弟の宣告に戸惑った。
「そんなことなら…霊峰の地は、霊峰の民を養ってあまりある。戦いが避けられるなら、そして、山の民が望むなら、この地に迎えても……」
 ヴラジュオンは、頭を振った。
「戦いは、豊かな地を得るにたる強き者であると、示す為に行われる。戦って勝たなければ、この地を奪われるぞ」
「それでは、弱い者は、生きていけない」
 山の民に育てられた青年は、静かに告げた。
「それが、自然の掟だ」
 霊峰の守護者は、哀しげに呟く。
「ヴラジュオン。その通りかも知れない。だけど、弱くても、愛しいものには、生きていて欲しい。そう思っては、いけないかい」




 聖司カイは、長い微睡みから目覚めると、山の民との戦いを予言した。
 戦を知らぬ霊峰の民は、禍の予感におののいたが、それが、どういう事なのか、本当に理解している者は少なかった。

 ……予兆は、ほどなく現実になる。




      四 襲撃

 自然の岩山をくりぬき、壮麗な彫刻で埋め尽くした巨大な神殿は、霊峰の民の精神的な支柱である。
 その夜、不安を抱えた人々は、神にすがるように、聖域たる聖司の塔を仰ぎ見た。
 霊峰神殿のはるか高みでは、剣の切っ先を思わせる尖塔が、闇に沈んでいる。


 夜明け前、神殿の前庭に置かれた灯火が、幾何学的な文様をなした石畳を照らし出していた。
 選ばれた神殿兵達が、神官の前に跪く。
「祝福を」
「神に選ばれた地の、選ばれし民を守り給え」
 神官長パル・ハークが、聖杖をかざす。
「戦士に、守護を」
 神殿兵が、頭を垂れる。
《守護を…》
 聖司カイは、聖堂の玉座にあった。
 純白の聖衣から、なお蒼白の肌がのぞく。
 ほっそりとした腕が上がり、聖堂は、淡い光りに満たされた。
 神殿兵は、聖司の守護に包まれた。
 もはや、矢でも剣でも、彼らを傷つけることはできない。
 神殿兵自身の武器でなければ、聖司の守護は破れないという。
 一つの例外を除いて、霊峰の民が、山の民に殺された事はなかった。
 それは、兵自身が放った火槍の炎に、山の民もろとも焼かれたというものだった。
 殺された男は、神殿兵の長タジェン・バウの義弟であったという。
 そして、山の民は、聖女ケリュスをさらった男であり、その息子ロスケリスが、父と呼ぶ人間だった。
 パル・ハークが、祈り終える。
「タジェン・バウよ。蛮族どもに、聖地へ踏み入らせるでないぞ」
「承知いたしました」
 霊峰の民にあるまじき偉丈夫は、低く抑えた声で応え立ち上がる。
 神殿兵達の背に、守護とともに与えられた光翅が、輝きを増した。



「置いていかれたのか」
 神殿前の巨大な石段を上がると、若い神官が、心配そうに声を掛けてきた。
 ヴラジュオンは、肩をすくめる。
「信用できないそうだ」
 スウェインは、眉をひそめた。
「タジェン・バウだな」
 置いていかれた神殿兵の穏やかな微笑みが、篝火に照らし出された。
「あの男、見る目は確かだ」
「何を言っている。たかが神殿兵が、聖女ケリュスの御子であり、聖司カイの義弟である者に対して、酷い侮辱じゃないか」
 ヴラジュオンは、おもしろそうに、旧友の怒りを眺めた。
 霊峰の地では、戦士の地位は低いが、山の民として育ったヴラジュオンには、そうではなかった。かえって、聖女や聖司の血筋には、何の価値もない。
「何が侮辱かは、人それぞれだな。俺も、一応神殿兵だぞ。スウェイン。お前が、怒ることはない」
 スウェインは、苛立たしそうに頭を振った。
「放っといてくれ。お前が、あんまり落ち着いているからだ。昔は、あんなに喧嘩早かったのに。私の事は、殴っただろう。…腹が立つな」
「何か、用があったんじゃないのか」
「いや。どうしているかと思って」
「休暇を貰った。これから、家に帰るよ」
 ヴラジュオンは、普段は、神殿兵の宿舎に寝泊まりしていたが、人里離れた森の中にも、小さな家を持っていた。
 聖女アルウィスと二人きりで、神殿から逃れ、最後に暮らした家だった。
「ヴラジュオン……一人でか。よくないぞ」
「一人とは、限らないさ。最近は」
 若い神官は、呆れたように言った。
「…乱れた生活は、よくないぞ。所帯を持つって言うなら、神殿に届けてからにしろ」
 ヴラジュオンは、笑って踵を返した。 
 その先に、一人の女が、静かに、たたずんでいる。
 スウェインは、連れ立って去る二人を見送ると、ため息をついた。



 淡い水色の瞳が、長身の青年を見上げる。
「ロスケリス様。神官様は、何の御用でしたの」
「乱れた生活をするなと、釘を刺された」
「まぁ。ごめんなさい。私の、私達のせいね…どうしましょう」
「神官としての叱責ではなく、友人としての忠告だ。気にしなくていい。第一、前には、いい子がいたら、うまくやれと言っていたんだ」
 ほっそりとした若い女性は、楽しそうに笑った。
「残念だわ。せっかく、神官様に薦めていただいたのに。どうやら、私も、いい子じゃなかったのね」
「悪かったな」
 若い女性達の束ねである婦人は、歳よりも老成した微笑を見せて応えた。
「あら、いいのです。私達も、そう望みがあると、思っていたわけではありませんの。まだ、聖女アルウィスを想っていらっしゃるのでしょう。よってたかって、申し訳無かったですわ」
 ヴラジュオンは、苦笑した。
 あまり人と交わらないたちだったが、成人間近になると、言い寄る女達で、周囲が賑やかになった。
 彼女達は、たおやかな見かけに反して、なかなか直裁で強引だ。
「ロスケリス様。女にとって、子供を生むのは、命と引き換えです。よい父親を獲得するのに、なりふり構っていられません。貴方は、奇麗で賢くて強く、まして、聖女の御子ですもの。私達は、なろうことなら、聖女を生みたいのです。私達を、好きになって欲しいとまでは望みません。少し…協力していただければ…」
 出産は、命と引き換えになることを意味した。
 それでも、女達の半分は、子供を望む。その気迫には、たじろぐものがあった。
「悪いが、俺は、好きな女でなければ嫌だ」
 霊峰の女は、聖女の血をひく青年に頭を下げた。
「貴方は、そういう方ですわね。本当は、今夜は、代表でお詫びに来ましたの。…なりふり構わず迫った娘もいましたし…貴方の評判を落としてしまったようですし…ごめんなさい。私達は、諦めます。個人的には、惜しいんですけど」
 ヴラジュオンは、女の瞳にひかれた。
「空の色だな」
「あら、望みはあるのかしら?」
 多くの女達の求婚を拒んだ青年は、ここでも首を振った。
「妻は、一人だ」
 バルデの部族では……。
「寂しいですわね」
 女は、痛ましげに微笑む。
 青年は、応えなかった。



 昏い色の翼を持つ鳥が、夜明けの空に舞った。

 崖に取り付いた男が、炎に貫かれる。
  山の民の戦士は、火槍を抱いて落ちていった。
 断ち切られた命綱が、空しく岩肌を打って後を追う。
 同胞の死に、怒号が起こり、援護の矢が放たれる。
 だが、それは、光翅を輝かせ飛翔する霊峰神殿の兵へ届くことはなかった。
 降り注ぐ火槍が、山の民を焼く。
 鋼色の双眸を持つ男が、冷ややかに、蛮族の虐殺を命じる…


 雲間から、幾筋もの光が、降り注ぎ始め、森の緑を輝かせる。
「相変わらず、『霊峰の卑怯者』か。あれだけの腕を持ちながら……」
 暗褐色の翼が、羽ばたいた。
「ああ、すまない。お前に、怒ったんじゃない。暗いうちから、飛んでくれて、ありがとう」
 ヴラジュオンは、目を貸してくれた友を労う。
 猛禽の嘴が、甘えるように、頬に押し当てられた。
 翼持つ者を友とする一族に育てられた青年は、霊峰神殿を抱く樹海の中、人目の届かない高みにいた。
 一陣の風が、梢を揺らす。
《ヴラージュ…》
「カイ?」
 義兄の苦しげな呼びかけとともに、一瞬、結界が揺らいだ。
 ヴラジュオンの肩から、猛禽が、鋭い羽音を立て飛び立つ。
 翼持つ友を見送った青年は、森の獣以上に、しなやかに音もなく、木々を伝い、森を駆け抜けた。
 霊峰の守護者たる聖司、彼の義兄の元へ。


「カイ」
 闖入者を止めようとする神官を、事もなく押しのけて、聖堂へ踏み込む。
 ヴラジュオンは、玉座にくずおれた義兄を見た。
 神官長パル・ハークが、青醒めながらも、叱責の声を上げる。
「誰が、こやつを通した」
「カイが、呼んだ」
 ヴラジュオンは、衆目に構わず、玉座の義兄を抱き起こした。
「カイ」
 聖司の血の気のない唇が、かすかに動いた。
 だが、声は出ない。
 変わりに、途切れがちな思惟が、義弟に謝罪する。
《ヴラージュ…すまない。こんな時に、君を…煩わせるつもりは…》
「無茶をしたな。結界が、揺らいだぞ」
 居合わせた神官達が、凍りつく。 
「大丈夫…」
 霊峰の守護者は、かすれた声を絞り出した。
「守護にさく力の加減が…分からなかったので。もう大丈夫です。結界は、心配……いりません」
 ヴラジュオンは、義兄を抱き上げた。
「休ませる」
 パル・ハークは、怒りに声を震わせた。
「ロスケリス。勝手な真似を……」
 鋭さを増した紺碧の瞳が、神官長を射竦める。
「山の民との決着はついた。神殿兵は、結界のうちに戻っている。もういいだろう」
 結界を支える以上の力を要求された聖司は、酷く消耗する。
 神殿兵に与えた守護は、カイシュオンの命を、予想以上に、そぎ落としていた。
 聖司の、常と変わらぬ穏やかな微笑みが、義弟の怒りを抑えた。
「ありがとう。ヴラージュ。悪いけど、寝室に連れて行ってくれるかな」
「歩けないなら、そう正直に言え」
 カイシュオンは、苦笑して頷くと、神官長に声をかけた。
「パル・ハーク。力が足りなくて、すみません。神殿兵には、少し歩いて貰うことになります。許してくださいね。後を頼めますか」
 パル・ハークは、頭を垂れた。
「聖司カイ……。そのような事は…いいのです。ゆっくり、お休みください」
 ヴラジュオンは、義兄を抱いたまま、神官長に背を向けた。



 寝台に横たわる義兄は、蒼白の頬で微笑んだ。
「ヴラージュ。そんな顔をしないで」
 ヴラジュオンは、目を伏せた。
「死んでいいなんて、言ってない。守ってやると言っただろう。殺してやるとも言った。だけど、勝手に死んでいいなんて…言ってないぞ」
「…生きているよ」
「死ぬと思って、呼んだくせに」
 カイシュオンは、銀の双眸で、義弟を見つめた。
「まだ死なない」
 ヴラジュオンは、寝台の傍らに腰を下ろした。
「次の聖司が、生まれるまでは、か。それまで、もつものか。だいたい、戦いがこれで終わりだとでも思っているのか。山の民の部族は、一つではないぞ。これは、ただの始まりに過ぎない。なのに…」
 結界が、揺らぐほど消耗した。
 聖司の義弟だった青年は、唇をきつく噛む。
「…聖餐をとるか?」
 カイシュオンは、かすかに頭を振った。
「決して……」
 



 山の民のスデリク族が、霊峰の民に敗れて後、一月も経たぬうち、ゲスターク族が、霊峰に挑んだ。
 神殿兵の長は、再び、山の蛮族を平らげ、一兵を損なうこともなく、霊峰神殿へ戻ったという。
 兵は、それぞれ、神官の労いを受け、宿舎へ下がろうとしていた。

「タジェン・バウ。対等な立場で戦わなければ、勝ちは認められない。山の民は、何度でも押し寄せる」
 神殿兵の長は、不遜な物言いをする部下を、瞬きもせず見つめた。
「だから、何だ」
「何より、大事な聖司を失いたくないなら、守護など受けるな」
 タジェン・バウの拳が、若い兵の鳩尾を襲った。
 ヴラジュオンは、避けない。
「タジェン・バウ…ロスケリス!何をしている」
 副官のアル・レンクが、驚いて振り返る。
 ヴラジュオンは、打撃に耐えて踏みとどまった。
 霊峰の民にあるまじき偉丈夫は、低く押さえた声で言った。
「小賢しいことを。お前が、それを言うか」
「これを繰り返せば、カイが死ぬ」
「そんな事は、わかっている。だか、仕方あるまい。山の民が攻めて来る以上は」
 タジェン・バウの拳が、再び襲う。
 ヴラジュオンは、苛立った鋼色の瞳から視線を外さず、神殿兵の長の腕を捕らえた。
「何故、守護などいるんだ。霊峰の民は、卑怯でない戦いができないのか」
「山犬が。蛮族相手に、霊峰の民の血を流す危険を冒せと言うか」
 蛮族に育てられた青年は、静かに言った。
「霊峰の民は、この豊かな地をあがなうにたる血を、流さなければならないだろう。それができなければ、山の民が、この地を奪う」
「霊峰の地は、我らに、神から与えられた祝福。蛮族どもには、侵させん。…二度とな」
 タジェン・バウは、傍らの副官の腰から、長剣を抜きとると、若い神殿兵に投げ与えた。
 二振りの剣は、何の逡巡もなく抜かれる。
「止せ。習練場じゃないんだぞ」
 アル・レンクが、慌てて叫んだ。
 事もあろうに、神殿の高い天井に、凄まじい剣戟が反響した。
 タジェン・バウの打ち込みを、まだ若い青年の剣が、したたかに受け止める。
 衝撃で剣の刃がきしみ、打ち付ける音が、列柱を震わせた。
 受けて打ち払い、攻め、躱し、攻める。
 その目まぐるしい程の速度には、割って入るなどできようはずもなく、止めようがない。
 権高い神官達が、これほどの無作法を咎めもせず、呆然と遠巻きにしている。
 アル・レンクも、叫ぶ以上の事は、できない。
「ロスケリス、退け。タジェン・バウ…止せ!馬鹿なことは止めろ」
 ヴラジュオンの頬を刃が掠め朱が走る。
 何故か、タジェン・バウの切っ先が鈍った。 
 ヴラジュオンは、獲物に向かって踏み込んだ。
 隙のできた胴をなぎ払う。
 タジェン・バウは、辛くも部下の剣を弾き返した。
 副官の細身の長剣は、上官の大剣の打撃に耐え兼ね砕けた。
 ヴラジュオンは、舌を打ち、借りていた剣を捨てた。
 その瞳に、なおも殺気がある。
 タジェン・バウは、唸った。
「俺を挑発して、殺してどうする」
 若者の紺碧の双眸から、物騒な光が消えた。
「障害を除こうと思ったまでだ。失敗したな」
 神殿兵の長の剣が、その平で、不遜な部下を打ちすえた。
「山犬が」
 タジェン・バウは、吐き捨てるように言うと、剣を収めて立ち去った。
 残されたアル・レンクは、上官の背を見送ると、若い兵に複雑な眼差しを向けた。
「あまり、タジェン・バウを怒らせるな。あれで、お前には、目をかけているんだ。戦に出さないのも…信じてないのもあるだろうが、山の民として育ったお前に、気を使っている」
 ヴラジュオンは、目を瞠った。
「何だって?」
 副官は、ヴラジュオンの頬に走った傷を、苦々しげに見ると、肩をすくめる。
「聞いていないのか。あの人が、お前くらいのとき、聖女ケリュスの護衛についていたんだ。それを、山の民に奪われた。お前が、山の民の肩を持てば、複雑だろうよ。憎いの半分、後は…下世話で悪いが、崇拝していた聖女に、そっくりで…まぁ可愛いだろう…」



 白い苑で、童女達が笑いさざめく。
「可哀想ね。ヴラジュオン・ロスケリス。どう足掻いても、霊峰の地に、搦め捕られてしまう」
「溺れてしまえば、楽になるわ」
「できないのよ。『その時』が来てしまうから」
「いつ」
「まだよ」
「もう少し…」
 一人の聖女が、沈んだ声で呟いた。
「いっそ、早まれば……」
 童女達が、幼い嬌声をあげる。
「まぁ、本当に同情しているの。ユーリス」
「ユーリス姉様。ヴラジュオンは、もう選んでいるのよ。決して、他の人は、見ないわ」
「まして、私達の身体は、こんなに幼い。無理よ」
 ユーリスと呼ばれた少女の澄んだ声が、哀しげに言った。
「放っておいて。私の自由だわ」
「だめよ」
「だめだわ。私達も、一人を選ぶのよ。それは、ヴラジュオンではないわ」
「だめよ。ユーリス…」 
 聖女達は、あどけない声で唱和した。


 カイシュオンは、人払いをして寝所へ戻ると、横たわり目を閉ざした。
 今度は、うまくやれた…と思う。
 結界は揺るがず、兵も守れた。
 酷く消耗したのは、初めの時と同じだが、倒れはしなかった。
 だが、血の気がなくなり、指先は震えている。
「ヴラージュ」
 いつのまにか、人影が寝台の脇に佇んでいた。
 幾度となく繰り返された問いが、またなされた。
「…聖餐をとるか?」
 カイシュオンは、微笑みを浮かべた。
 幾度となく繰り返した応えを言う。
「決して…君に嫌われたくない」
 義弟は、瞳を陰らせる。
「これで、終わりにはならない。こんな遣り方では、もたない」
「大丈夫だよ。ヴラージュ」
「そんなに、苦しんで、その力の何が、祝福なんだ」
「呪いにも似た…祝福…。聖司テュイルが、そう言ったね。その通りかもしれないけど、守る力があるのは、なす術がないより、ずっと幸せな事だよ。どんな代償があろうとも」
 ヴラジュオンは、穏やかな義兄の微笑みを、黙って見下ろしていた。
 遠くで、聖なる童女の甘い歌声が、聞こえている。
 聖司とその義弟は、かすかに聴こえる旋律へ、耳を傾けた。
 聖女達の歌と共に、灯火の輝きが増す。やがて、聖堂の奥の間は、白光に満たされた。
 ヴラジュオンは、光りに手をかざした。
「これは…聖歌か。何だ、これは?」
 柔らかい光が、聖司にまとわりつき、やがて消えた。カイシュオンの蒼白だった頬が、淡く上気している。
「聖女が、聖司を宿し、その子に、魔力と命を移す為に歌う呪歌だ。力ある者が、その気で歌わなければ、用をなさないが、あの子達は、歴代聖女の中でも、優れた力を持っている……」
「あんな子供が、子供を生むのか?」
「違うんだ、今は、子を育むためにではなく、私の命を支える為に歌っている。こんな事は、かつてなかった。止めるように、言ったのだけど……」
 ヴラジュオンは、呟いた。
「あの歌なら、俺も知っている。お前が、俺の力を解放してくれれば、あの子達の代わりに、歌ってやれるわけだ」
 少年の姿をした聖司は、大きな義弟の手を取った。
 哀しげな眼をして、頭を振る。
「ヴラージュ……」
 ヴラジュオンは、苦く笑った。
 身を屈めて、華奢な義兄を抱く。
 霊峰の守護者は、義弟の強い腕の中で、低い囁きを聞いた。
「それでは、やはり、俺にできることは、一つしかないんだな」



 習練場は、闇に沈んでいた。
 据え付けられた灯火台に、火を入れると、ぼんやりと辺りを照らし出す。
 タジェン・バウは、鋼色の双眸を、一人の若者に向けた。
 聖女ケリュスの面影を宿す者。
 そのくせ、聖女を攫い義弟を殺した蛮族の長に、驚くほど似た眼差しを持つ者。
「ロスケリス」
「剣にするか。タジェン・バウ」
 神殿兵の長は、長剣を手にしていた。
「手合わせでもして欲しいのか。こんな時刻に」
「明日になれば、次の寄せ手が来る。今がいい」
 剣から、鞘が払われる。
 双方、試合用の模擬刀ではなく、刃をつぶしていない真剣だった。
「真剣でか」
 若者は、頷いて、静かな声で告げた。
「これもまた、行き過ぎた習練だ。何があろうと、皆そう思うだろう」
「お前が死んでも、俺が死んでも…か。確かにな。だが、何故だ」
 ヴラジュオンは、神殿兵の長に、意志の強い眼差しを向けた。
「カイの為に。でも、死ぬのは、俺じゃない」
 若者は、ゆっくりと間合いを詰めた。
 不思議と滑らかな動作に、かつてない殺気が込められる。
 タジェン・バウは、口の端を歪めて笑った。
「どうかな」
 篝火に照らし出された刃が、ぎらついた光を弾く。
 ひとけのない習練場に、剣戟の音が響いた。
  若者は、長の攻撃を、剣ですべて受け止める。
 刃と刃が交わり、こぼれ、細かい破片が飛んだ。
 痩身の青年が、一回り大きな偉丈夫の剣を立て続けに受けて、びくともしない。
 若者の紺碧の瞳が、苛烈な輝きを帯びた。
「タジェン・バウ。これは、試合じゃない。手加減は要らないぞ」
「貴様こそ。奥の手を見せたらどうだ。青銅の扉を両断した腕は、こんなものじゃないはずだ」
「今は、剣で戦っている」
「魔力も、お前の武器だ」
 それは、カイが、封じた。
 だが、そうでなくても、魔力を持たない者相手に、それを使うことはない。
「俺は、いついかなる時も、相手の得物以上の武器で、戦うことはしない」
 それは、バルデ族の掟。
 そして、魔力を持って生まれたヴラジュオンが、山の民として生きる為に、父ガデルとした約束だった。
 タジェン・バウは、苦く笑った。
「山犬め」
 タジェン・バウの剣が、空気を唸らせて襲う。
 二振りの剣が、音を立てて交わった。
「獣には、わからないだろう。獣相手に、部下の命を失うわけにはいかない。霊峰の民は、山の民を人とは思わんのだ」 
 ヴラジュオンは、呟いた。
「『霊峰の卑怯者』は、その奢りを、抱いたまま滅びる覚悟もない…」
 刃が、甲高い音を立ててきしむ。
「山犬め。聖女の尊い血をひきながら、心は、山犬でしかない。しかも、どっちつかずの無様な山犬だ。もはや、奴らも、お前を同胞とは認めないだろう」
 刃が、仄暗い習練場に閃く。
 打ち込み、なぎ払い、切り返して、打ち込む。
 今まで繰り返してきた、どの試合も色あせるほど、凄まじい速度だった。
 タジェン・バウの鋼色の瞳には、聖女の御子に対する哀れみが、浮かんでいた。
「ロスケリス…何故、霊峰の民となれない。お前は、聖女ケリュスの子。山の民の血など、一滴だって流れてはいないんだぞ」
 聖女の忘れ形見は、十年前には叫んだ言葉で、穏やかに応えた。
「例え、それが真実でも、俺が選ぶ名は、ヴラジュオン。父は、ガデルだ。俺の名は、俺が選ぶ」
 タジェン・バウは、苦々しげに吐き捨てた。
「やはりな。それが、本音か。お前は、いずれ霊峰の地を裏切る。山犬め」
 ヴラジュオンは、冷たく笑った。
「お前の眼は、誰より確かだ」
 若者の剣が、危険な軌跡を見せる。
 鋼の切っ先が、首を切り裂き、胸で止まった。
 鮮血がしぶく。
 ヴラジュオンの剣が、タジェン・バウの胸を深く抉っていた。
 強い腕が、懐に飛び込んで来た青年の髪を、つかんで引いた。
 懐かしい聖女の金褐色の髪。
 その面影を映す青年の顔……
 ヴラジュオンは、神殿兵の長に別れを告げた。
「お前は、よい師だった。タジェン・バウ」
 タジェン・バウは、苦笑した。
「ヴラジュオン・ロスケリス。出来過ぎた弟子だ。お前の…道は、苦しいばかり…あの男が、ケリュス様を、さら…わな…け…れば……」
 ヴラジュオンは、頭を振った。
「ケリュスは、幸せだった」
「……ケリュ…」
 鋼色の双眸から、光が消えた。
 ヴラジュオンが、ゆっくりと身を離す。
 神殿兵の長の身体は、習練場の床に沈んだ。
 剣が、胸を貫き背から生えている。
 仄暗い明かりの元、血溜まりが広がっていった。

 以前から、周知の問題だった行き過ぎた習練は、タジェン・バウの死を以て終わった。




 暁の空を、暗褐色の鳥が、力強くはばたく。
 ヴラジュオンは、結界を抜けた。
 結界と呼ばれる白い霧は、柔らかくまとわりついたが、彼を押し止どめる力はない。
 視界が開けると同時に、猛り狂う風が吹き付けた。
 ヴラジュオンは、崖を見下ろした。
 人知を越えた絶壁の中程に、棚状の出っ張りが見える。
 山の民は、そこで一夜を明かしていた。
 明け方には、最後の難関を越え、霊峰の地へ攻め込むつもりなのだ。
 ヴラジュオンは、山の民の部族を見定めた。
「ファンデン族…剣か」
 ファンデンの部族長は、壮年の戦士だった。
 山の民は、空気を打つ羽音に、空を仰ぎ見る。
 絶壁のうえに人影が動く。
 警告の叫びが、終わらぬうちに、見知らぬ青年が眼前に降り立っていた。
「お前は…っ」
 身構える山の民の前に現れた青年は、霊峰の民の装束をまとっていたが、守護の皮膜も帯びていず、光翅ももたなかった。
 そして、山の民の作法通り、自らの得物を示し挑戦した。
「ファンデンの長よ。挑戦を受けられるか」
 山の民の長は、頷いた。
「承知。だが、その前に名を聞こう」
「バルデのヴラジュオン」
 山の民の戦士達が、どよめく。
「攫われたバルデの跡継ぎ、霊峰の魔女の息子か。生きていたのか」
 ファンデンの長は、低く笑って嘲った。
「今は、霊峰の戦士というわけか」 
 ヴラジュオンは、冷ややかに応えた。 
「俺は、今でも、バルデのヴラジュオンだ。だが、この地に守りたい者がいる」
 山の民の長は、負っていた剣を抜く。
「確かに、お前は、『霊峰の卑怯者』ではないな。よかろう。かつては、音に聞こえたバルデ族の力、試してやる」
 ヴラジュオンの長剣が、澄んだ輝きを宿す刀身をみせる。
 それは、夜明け前には、タジェン・バウの血に塗れた剣だった。




「何と言うことを…」
 知らせを聞いた神官長は、声を震わせた。 
 行政を司るセルスーンは、裁きの結果を告げた。
「試合の上での、事故…となります。法の上では、罪には、あたりません」
「試合だったと、確証はありますか」
「致命傷は、真っ正面から、胸部への一突きです。これが、背からだったら、疑いますがね。いままでの経緯も調べました。事故でしょう。まして……」
 セルスーンは、言葉を濁した。
 行政長官の年若い従者が、助け舟を出す。
「誰が、彼を裁けるでしょう。ロスケリスは、償いをしたのです」
 神官長パル・ハークは、聖杖を握り締める。深い皺を刻む手は、かすかに震えていた。
 つい数刻前に味わった衝撃と恐怖が、脳裏に蘇る。
 明け方に、山の民の襲撃があるはずだった。
 兵達が、篝火に照らされた神殿の前庭へ、祝福を受けるため集っていた。
 だが、彼らの長が、姿を現さない。
 空が明るみ始め、人々が不安にざわめく。
 あろうことか、そこへ、タジェン・バウの副官によって、その死の報がもたらされた。
 山の民の挑戦が続く最中、神殿兵の長の死は、霊峰の民に恐るべき衝撃を与えた。
 そして、あの若者が、戻った…血刀をさげて……


「ロスケリス。何事だ」
 神官長が、震える声で問いただす。
 若者は、黙って、血が滴る剣を掲げて見せた。
 人々が、息を呑むと、石畳の上に長剣を置いた。
 害意がないことを示したのだ。
 それは、山の民の作法であったが、霊峰の民にも、その意味は理解できた。
「俺が、タジェン・バウを殺した」
 人々は、声を失った。
 パル・ハークだけは、事態の深刻さに呻いた。
 タジェン・バウを失っては、誰が、山の民の襲撃を兵を率いて迎え撃つというのか。
 血塗られた罪人は、静かに告げた。
「山の民の襲撃はない」
 その通りだった。
 どのような詐術を使ったものか、押し寄せていた蛮族どもは、自らの巣へ引き上げていた。
「何をしたのだ」
 ヴラジュオンを拘束した行政官は、詰問した。
「タジェン・バウの代わりに、戦った」
「馬鹿なことを…一人で、聖司の守りもなく…!」
 青年は、微笑んだ。
「山の民の長は、挑戦されれば、受けてたたねばならない。その戦いは、一対一だ。勝てば、勝者の要求は、必ず適えられる」
 行政官は、唖然とした。
「それでは…」
「ファンデン族は、二度と来ない。タジェン・バウの死の代償だ」



 事件の数刻後には、神殿の一室で、行政官の長と、神官の長が対面していた。
 パル・ハークは、流れ落ちる冷たい汗を拭う。
「では、あの者は、裁けないと言われる」 
「世俗の法では、無罪です。貴方は、神殿を司る者として、神殿兵を配下に置かれている。御自分の裁量で、処分されるがよいかと思います。あまり、お薦めできませんが…」
 行政長官は、咳払いし、改めて尋ねた。
「あの者が、何か…お気に障るような事を?」
「タジェン・バウを、殺したではありませんか」
「事故です。殺されたのは、ロスケリスでも、ありえました。彼は、聖女の血筋。そうであれば、タジェン・バウは、罪に問われたでしょう」
 パル・ハークは、両手で皺深い顔を覆った。
「そうであった方が、救われたかもしれない」
 セルスーンは、眉をひそめた。
「何をおっしゃいますか。ロスケリスは、タジェン・バウの死の償いに、過ぎる事をしました。少なくとも、世俗の民は、彼に感謝しています。それを覚えていていただきたい」
 神官の長は、遠い目をして、呟いた。
「あの者は、不吉なのです」
「しかし、役所に保管されていたタジェン・バウの遺書を、開封したのですが……」
「遺書?」
「はぁ。日付は、山の民の始めの襲撃の直前ですな。自分の死後は、バウ家の職を、彼に譲渡する…つまり、神殿兵の長の座をということになりますな。副官アル・レンクの推薦状付きです」
 パル・ハークは、愕然とした。
「馬鹿な…あ…れは、山の民として育った者、なのですよ」
「それこそ、馬鹿げていますよ。彼は、聖女ケリュスの御子であり、聖司カイの義弟でした。タジェン・バウ自身の推薦もあります。彼に、何か不足でも?」



 罪を問われていたヴラジュオンは、監禁されていた部屋から出された。
 迎えに来たアル・レンクは、青年が、自分の新たな上官になったことを告げる。
「神官長は、嫌がるだろうが。タジェン・バウの判断は、正しい。彼の代わりが、勤まるのは、お前だけだ。ロスケリス」
 ヴラジュオンは、副官の顔を見据えた。
「お前は、いいのか」
「しかたない。タジェン・バウの遺言だ」
「タジェン・バウを殺したのは、俺だぞ」
「いずれ、そうなるのは見えていた。ただし、いいか。覚悟しろよ。防波堤は、もうない。お前が、山犬のしっぽを出しても、かばう奴はいないんだぞ」
「ああ」
 アル・レンクは、頷いた。
「わかっていたのならいい。タジェン・バウは、お前を打つ事で、お前をかばっていた。ま、全部が全部、そうだったわけじゃないがな」 
「タジェン・バウは、嫌いじゃなかった」
「わかっているさ」


 聖司カイは、聖堂の玉座で、神殿兵の長となる義弟を待った。
 やがて、正装に改めた丈高い青年が現れ、定められた通りに跪く。
「聖司カイ」
 側に控えていた神官が、心配そうに聖司の様子を伺った。
 聖なる守護者は、青褪めて言葉もなく、新たな神殿兵の長を見つめている。
「お言葉を」
 カイシュオンには、神官達の促す声が届かない。
 純白の聖衣が、かすかに震える。
「ヴラージュ……」
 聖堂に、神官のざわめきが響いた。青年の正式な名は、ロスケリスだった。
 少年の姿をした聖司の眼から、涙が溢れる。
 跪く青年の顔が上げられた。
 紺碧の双眸が、義兄に向けられる。
 きつい印象を与える容貌に、思いがけなく優しい微笑みが浮かんだ。
「聖司カイ……カイ。お前を守る。今は」
 その時が、来るまでは……




      五 守護の翼


 神殿兵の長となったロスケリスは、幾度となく山の民の襲撃を退けた。
 時は過ぎ、霊峰の民は、繰り返される山の民との戦に慣れ始めた。
 いくら蛮族が押し寄せようとも、この聖地に、足を踏み入れることはない。
 必ず、神殿兵が、蛮族を阻んだ。
 しかも、聖司の命を削ることもなく、聖餐も招かずに……。
 人々は、絶大な信頼を、神殿兵の長に向けた。
 彼に心酔する若い神殿兵は、長を真似て、聖司の守護も光翅も受けず、戦場へ出向くようになっている。
 もはや、彼を異邦人として忌避する者は、神官の長パル・ハークのみであった。


 ヴラジュオンが、神殿兵の長と呼ばれるようになって、三年が過ぎた。
「アルガーのバイスル……」
 金褐色の髪が、豪奢な輝きを見せて風になびいた。
 肩にとまった猛禽が、甘えるように鳴く。
 アル・レンクは、年若い上官の元へ歩み寄った。
「襲撃があるのか」
 暗褐色の翼が鋭い羽音をたてて、飛び立つ。
 神殿兵の長は、灰青の空を見上げた。
「アルガーは、大きな部族だ」
「不安があるのか」
「いや。ただ、そろそろ、別な遣り方を試す頃合いかも知れない。アルガーの部族長バイスルは、今までの山の民の長と、格が違う」
「俺達への指示は?」
「火槍は、持つな。多勢に無勢で囲まれても、動じない自身がある奴だけ付いて来い。どのみち、俺がバイスルに挑戦したら、手出し無用だ」
 アル・レンクは、苦笑した。
「いっそ、一人で行きたそうだな」
「そうもいかない。霊峰の民が、腰抜けと思われれば、俺の挑戦は、意味がなくなる。俺は、山の民には、生粋の霊峰の民と思われてないからな」
「お前は、生粋の霊峰の民だよ」
 ヴラジュオンは、副官に、底の知れない紺碧の眼差しを向けた。
「明日の夜明けには出る。神殿と、兵に伝えろ」
 アル・レンクは、肩をすくめると、上官を習練場に残して、踵を返した。
《ヴラージュ…》
 ヴラジュオンは、聖司の塔を振り仰ぐ。
「カイ?」
 軽い足音がして、神官が、小走りにやって来る。
「ヴラジュオン」
「スウェイン。カイに何かあったか?」
 スウェインは、頷いた。息を整えると、旧友に用件を告げる。
「何かあったのは、お前の方じゃないか。聖司カイは、心配されているみたいだぞ」
 ヴラジュオンは、眉をひそめた。
「カイは、いつまでも、俺を子供扱いするな」
「こら。罰当たりだぞ。つまり、お前が、心配させるようなことをしているんだろうが」
「わかった。聖堂へ行く」 
「わかってない。お前が行ったら、パル・ハークが、へそを曲げる。聖司カイは、遠慮されて、お前を呼べないんだよ」
「そうか。それで、カイは、何と言った」
「何も。お前、神官に見つからないよう、さっさと忍び込めよ。得意だろう」
 ヴラジュオンは、まじまじと、小柄な神官を見下ろした。
「スウェイン…」
「話せる友人だろう?」
 珍しい人物の笑い声が、習練場に響いた。


 ヴラジュオンは、難無く聖堂に忍び込むと、奥の間の扉を開く。「カイ」
 部屋の主は、その華奢な姿を、無数の灯火に照らし出されていた。
 カイシュオンは、高い天蓋を持つ寝台に腰掛け、義弟を迎える。
「ヴラージュ」
「呼んだだろう」
 悲しげな微笑が応える。
「君が、苦しそうだったから…余計な事だったかも知れないけれど……」
 ヴラジュオンは、義兄の足元に腰を下ろした。
「アルガーの部族長バイスルには、子供の頃に、面識がある。少し、気が重くなっただけだ。たいしたことじゃない」
「子供の頃…か。君は、とうに大人なんだね。私は、君を子供扱いしているのかな」
 カイシュオンの困惑に、義弟は、微笑を浮かべた。
「お前は、昔のままだから…俺も、混乱する。甘えていいのか、かばっていいのやら…変だな」
「君の、その眼を見て入ると、昔のままのような気がするんだ。あれから、随分経っているんだね」
 ヴラジュオンは、義兄の寝台に肘をついた。
「それは、俺の気持ちが、昔のままだからだな。お前は、やっぱり義兄なんだよ」
 カイシュオンの瞳に、影が落ちた。
「…でも、私は、昔も今も、何もして上げられない。君が、傷付くのに…苦しむのに……」
「生きていろ。それでいい」
 ヴラジュオンは、義兄の細い肩に手を伸ばした。
 身を屈めたカイシュオンを、そのまま腕の中に抱き込んでしまう。
「ヴラージュ」
「まだ、アルウィスや、ケリュスのように逝くな」
「まだ、死なないよ」
 その時が、来るまでは……




「裏切り者め」
 アルガーの部族長は、ヴラジュオンの顔を見るなり、罵声を浴びせた。
「久しぶりだな。アルガーのバイスル」
「どの面下げて、霊峰の民の番犬をしている」
 ヴラジュオンは、口の端で笑った。
「挑戦を受けてもらえるか」
「長剣でか」
「山刀を借りられるなら、それで」
 アルガーの得意とする得物は、山の民特有の武器で、刃渡りある肉厚の短刀だった。
 アルガーの戦士が、ヴラジュオンに山刀を渡した。
「こいつは、久しぶりだ」
 バイスルは、唾を吐いた。
「油断はせんぞ。貴様は、そんな貧弱な姿で、ユルエンの守護獣を縊り殺した男だ」
 ユルエンは、アルガーの分流の部族だった。
「守護獣?」
「何年か前、馬鹿でかい山犬とやり合ったろう」
「ああ」
 あれは、アルウィスの死の直後だった。山の民の地を当てもなくさまよい、飢えた獣の群れに、眼をつけられた。群れを率いていた巨大な山犬と、もろともに崖から落ち、半日も睨み合ったすえ、素手で山犬の首をへし折った。
「ユルエンは、守護獣を失って滅びた。バルデの二の前だ。貴様の部族の守護は、鳥だったな。長い間、姿を見せないそうだが」
 山の民は、神に縋ることをしない民だったが、強い獣を、神のように敬う部族もあった。
 神の象徴が、姿を消すのは、不吉な事とされている。
 ユルエンの守護獣を縊り殺した青年は、黙って間合いをはかった。
 バイスルが、いくら挑発しても乗って来ない青年に、苛立って叫ぶ。
「ヴラジュオン」
 山刀は、長剣より刀身が短い分、敏捷さと集中力を要求される武器だった。
 ヴラジュオンは、冷えた眼差しで、山の民の長を眺めた。
「始めてもいいのか」
「おう」
 肉厚の刃が、朝日を弾いてぎらついた。
 霊峰神殿の兵は、息を詰めて勝敗を見守っていたが、アルガーの戦士達は、長に大声で声援を送る。
 山の歴戦の勇士と、霊峰神殿の兵の長は、叩きつけるような風の中、目まぐるしい攻守を繰り広げた。
 バイスルも、ヴラジュオンも、両手使いだった。
 慣れない霊峰の民には、山刀が、右手にあるのか、左手にあるのかも見定められない。
 肉厚の刃の軌跡を、血の筋が追った。
 凄まじい速度で繰り出される刃が、掠めた程度に見えるのに、衣服や素肌を、深く斬り刻んでいく。
 双方とも、見る間に血塗れになった。  
 いつしか、声援は止み、風の音と、刃が空を斬る音だけが残った。
「くそぅ」
 アルガーの長が、唸った。息が上がって入る。
 無慈悲な紺碧の瞳が、迫った。
 ヴラジュオンの山刀が、バイスルの耳を掠める。
 躱そうと身を引いた所へ、青年の刃が悪夢のように追いすがる。
 この青年は、もう何人もの部族長を殺し、殺さないまでも、半死半生の憂き目に遭わせていた。
「このガキ。細っこいのに、何でつぇえんだよ」
「甘いな。俺が、あんたを蹴り倒して、その顔を踏んだの時は、もっと小さい…十歳のガキだったぞ」
「馬鹿野郎。顔なんか踏ませるか、背中だ!」
  頭に血が昇って喚いたバイスルは、気が付くと、身動きが取れない場所に、縫い止められていた。
 足が、半分崖から落ちて入る。首には、山刀が、吸い付くように、すきもなく当てられていた。
 間近に、僅かも乱れない呼吸を感じた。
 下手な女よりずっと整った顔が、微笑みを浮かべた。
「俺の勝ち、でいいか」
 バイスルは、舌を打った。
「止めをさせ」
 だが、若者は、山刀をひいた。
「死んでもらっては困る」
 アルガーの長は、唸った。
「何だと」
「要求を聞け」 
「勝者の権利だ。言え」
 若者は、勝利に奢ったふうでもなく、穏やかな声で告げた。
「アルガーのバイスル。お前は、強大な部族の長だ。これから先、お前を越えない戦士、お前の部族を越えない部族が、霊峰を目指すのを許してはならない」
 バイスルは、目を瞠った。
「それは…俺を番犬にするというのか」
「いや。お前は、その気になったら、いつでも来い。ただ、お前より弱い奴に、患わせられるのは御免だといっている」
 アルガーの長は、吹き出した。
「なるほどな。賢いぜ。アルガーを越える部族はない。山の民を統一する程の者が、現れない限り、霊峰は、無事というわけだ。俺にしても、こんな美味しい獲物を横から攫われるのは、万が一にも、御免だ」
「承知するか」
「勝者の権利だろ」
 バイスルは、旧知の友にするように、青年の肩を叩いた。
 頭上の灰青の空から、鋭い鳴き声が聞こえる。
 空気を打つ羽ばたきが、遠ざかった。
「バルデの守護獣は、霊峰を守っているのか?」
 ヴラジュオンは、頭をふった。
「彼は、違う。バルデの守護獣は、巨鳥ザイス。姿を見せなくなって、久しい」
 バイスルは、興味深げに尋ねた。
「霊峰の民は、神に守護されていると言うが、お前は、自分の力だけで挑んで来た。神の加護とやらは、どうなったんだ」
 青年の紺碧の双眸が、昏い陰りを帯びた。
「俺は、神の守護などいらない。それに、霊峰を守護しているのは、聖司だ。神は…いない」
 アルガーの部族長は、年若の青年に気圧されるものを感じた。
「聖司か。どんな奴だ」
 ヴラジュオンは、穏やかに微笑んだ。
 強大な力を持ちながら、すべてを同胞に捧げた、純白の…無垢な子供。
「俺は、彼を守っている」
 時が至るまでは……




      六 間奏


 夜の海は、その暗い波間に、嵐によって漂流せざるを得なくなった者達を、漂わせていた。

 嵐で途切れた物語りが、ついに語り終えられる。
 黒い巨漢は、焦がれて大仰なため息を漏らした。
「旦那様。おかしら。それで…その後、どうなるんですかい」
「俺も、ここまでしか聴いていない。もっとも、先は知れている。いくら、お前でも、寺院のお題目を知っているだろう。悪魔は、聖地を汚し、聖者によって、凍土へ封じられるのさ。この辺で、一休みしようぜ。怪我人は、せめて眠れよ」
「そりゃ、殺生だ。おかしら…旦那様。最後まで、聴かせてもらいやしょうぜ…です…ぜ」
 バハディースは、血のにじんだ布を巻かれた胸を撫ぜた。
 エリーティルは、船出前に短く刈った髪を掻く。
「バハディース。お前なぁ…下手な敬語はよせよ」
 黒い手下は、塞がり切らぬ傷口から血を流し続け、随分弱っていた。
 海賊の長は、目を逸らした。
 穏やかに凪いだ海、煌々とした月明かりの下、陸は影も見せない。
 波間を漂う淡い燐光が、船の残骸に追いすがり、纏わり付いた。
 怪しげな光りは、十一弦聖琴がつま弾かれると、脅えたように震えて退く。
 エリーティルは、囁くように尋ねた。
「よろしいか。聖者殿」
 異端の聖者が、静かに面を上げる。
 冷たい月明かりが、焼かれた半顔を無残に照らし出しても、気にする様子はない。
 深く甘い声が、微笑を含んで応えた。
「…お望みのままに。四つめの物語を」


 こうして、四つめの物語りは、語られた。




     七 黒き魔女


 平穏な日々が訪れた。
 アルガー族の襲撃を退けた後の二年間は、神殿兵も、戦に出ることなく、聖司カイは、休息の為に微睡み続けることができた。

 ヴラジュオンは、薬草園の扉をくぐった。
 濃い緑と土の匂いがする。
 色鮮やかな鳥が、出迎えた。
 薬草園の小さな住人達は、競うように高く低く鳴く。
 園の中央では、大木の巨大な根が、泉に触手を伸ばしていた。
 ヴラジュオンは、腰を下ろし、眼を閉ざす。
 豊かな地の中で、更に豊かな自然を抱いた園。
 訪れる者は、めったにない。
 一人になりたいときは、好ましい隠れ家になった。
 だが、白い聖衣のきぬ擦れが、濃い大気を揺らす。
 青年が目を開ける。
 煩わしげに瞬くと、紺碧の瞳を侵入者に向けた。
 幼い少女が、大きな葉の陰に佇んでいた。
「聖女ユーリス。何か、御用でしょうか」
 十二人の聖女の一人。
 癖のない蜜色の髪は長く伸ばされ、同じ色の瞳は伏し目がちだった。その愁いを帯びた眼差しは、あどけなさとは程遠い。
 聖女は、黙って踵を返した。
 軽い足音が、遠ざかって行く。
 ヴラジュオンは、ため息をついた。
 十二人の聖女達は、苦手だった。
 何もかも、知り尽くしたかのような嘲りの微笑みと、あどけない声が、繰り返す揶揄。
 彼女達に構われるのは、煩わしかった。



 白い苑で、聖女達が、花を摘む。
「ユーリス。どうしたの」
「お姉様。馬鹿ね。ヴラジュオン・ロスケリスは、私達が嫌いなのよ」
 花を抱えた少女達は、歌うように言った。
 ユーリスは、淡く色づく唇をかんだ。
 姉妹たちは、慰めるように、たしなめるように、聖女ユーリスに言葉をかける
「聖女アルウィスには、なれないわ」
「聖司カイにも、なれないの」
「それに、あの方…」
「まあ、だめよ。それは、言っては、だめ」
 少女達の忍び笑いが、白い花々を揺らした。




 カイシュオンは、甘い声音に呼ばれて目覚めた。
 霊峰の地へ拡散していた意識が、ゆっくりと肉体に戻り、息を吹き返す。
 二年ぶりの生身の感覚に馴染むまで、しばらくかかった。
 そっと眼を開くと、灯火が、辺りを柔らかく照らしている。
 力が入らない。
 今までになく、目覚めに時がかかった。
「聖司カイ」
 側仕えの神官が、高い天蓋から流れ落ちる紗布ごしに、様子を伺っている。
 彼は、予告のない聖司の目覚めに脅えていた。
「お目覚めになられたのですか」
 カイシュオンは、穏やかな声で宥めた。
「大事ありません。心配しないで。ただ、ふと、目が覚めてしまって…」
 誰かに呼ばれた。誰だっただろう……
「ヴラジュオンを呼びましょうか」
 カイシュオンは、改めて神官の顔を見た。
「スウェイン、だね。ありがとう」
 義弟の友人は、頭をさげると、部屋を辞した。
 取り残された霊峰の守護者は、寝台から身を起こそうとして果たせなかった。
 もはや、そんな力もないのだ。
  義弟を、呼ぶべきではなかったかも知れない。
 この様を見て、彼は、どう言うだろう。
 でも、会いたかった。
 残された時は、あまりにも少ない。
《酷い方…》
 寝台の傍らに、幼い少女が、佇んでいた。
「聖女ユーリス…」
 蜜色の瞳の聖女は、責める眼差しを見せた。
「聖司カイ。そんなに弱った姿を見せるの。彼は、苦しむわ。どうして?彼を愛していないの?」
 カイシュオンは、哀しげに微笑む。
「聖女ユーリス。私を呼んだのは、貴方なのですね。どうなさいました」
 幼い聖女は、唇をかんだ。
 年に似合わぬ、大人びた口調で告げる。
「私…最後の機会をあげようと、思ったのですわ」
 少年の姿の聖司は、色を失った銀の瞳で、瞬きもせずに聖女を見つめる。
「最後…」
 聖女の姿が、仄暗い明かりの元で溶けて消えた。
 次いで、寝所の扉が音もなく開けられ、背の高い人影が、滑り込む。
「カイ。どうした」
 義弟は、微笑んでいた。
「ヴラージュ…あ……」
 ヴラジュオンは、力無く差し伸べられた義兄の手を取り、そのまま抱き起こした。
 透き通るように白い少年は、もう自分で起き上がる力もないのだ。
「何か、まずいことでも?」
「ああ、その…。寝ぼけてしまって、何でもないんだけど、目が覚めてしまって…スウェインが、気を利かせてくれて……ええと…」
 大きな義弟は、吹き出した。
「おかしいぞ。まぁ、お前は、いつも、どこか間抜けだけどな」
 カイシュオンは、考え込んでしまった。
「そうかな」
 ヴラジュオンは、腕の中の少年を覗き込んだ。
 その繊細な白い容貌は、常の穏やかな微笑みを忘れ、沈み込んでいる。
「カイ…苦しいのか」
「大丈夫。そんな事はない。だって、ずっと眠っていたし、結界を支えるだけで済んでいたんだ。ずいぶん楽だったよ」
 それでも、終わりは近い。
 これが、最後なのだろうか。
 カイシュオンは、違う、と思った。
 そうではない。
 もう一度だけ…機会は巡ってくる。
 それは、聖司としての予知だった。
「カイ。本当におかしいぞ」
「やっぱり、まだ寝ぼけているかな」
 金褐色の頭が、訝しげに傾げられる。
「おい?」
「君が、まだ小さくて…、苦しんでいた時、私は、弟ができて、嬉しくてしかたなかった。やっぱり、酷いな。どうして、こう自分勝手なのか……」
「何の話だ」
 カイシュオンは、大きくなった義弟を見上げて微笑んだ。
「何でもない。ヴラージュ。君に会いたかった」
「いつも、見ていると言ったくせに」
「うん。でも、話せなかったからね」


 それは、最後の、穏やかな一時だった。



 灰青の空を、暗褐色の翼が駆けた。
 非情な矢羽が空を切り裂き、猛禽は射落とされた。
 一瞬、視界を閉ざされたヴラジュオンは、翼持つ友の死に低く呻いた。
 年かさの副官が、怪訝そうに声を掛ける。
「ロスケリス。どうした」
「久々に、敵襲だ」 
「ふん。アルガーとやらか」
「ならばいいが。悪くすると…」
 霊峰の民に挑むには、その前に立ちはだかるアルガー族を、倒さねばならない。
 それは、山の民の大半の部族を束ねでもしない限り、適わないはずだった。
 だが、万が一、山の民が統合され、一つの強大な力となっているならば、霊峰の地は、今度こそ間断ない攻撃に晒されるだろう。
 アル・レンクは、まだ若い上官に尋ねた。
「どうする。聖司カイに、お目覚め願うか」
「いや。それには、及ばない。敵の人数が増えても、やることは同じだ。明日の明け方になるだろう。用意させろ」
 神殿兵の長は、底の知れない紺碧の瞳を、友が消えた空に向けた。



 幼い聖女が、すすり泣いた。
「ユーリス」
「可哀想ね。でも、泣いてはいけないわ」
「あの方が、現れる」
「その時が、訪れる」
「不吉な獣が、滅びを運ぶ者となる」
「そして、あの方が…あの方が、現れるのよ」
 一人の少女を除いて、霊峰の幼い聖女達は、笑いさざめいていた。
「その時…その時なんか、来なければよかった…」
 聖女ユーリスは、来るべきときを見ていた。



 幾つもの部族に別れていた山の民は、王を得て一つにまとまった。

 最後まで抵抗したアルガーの部族を平らげると、山の民の王は、戦士を選りすぐり、霊峰の地に挑んだという。



 ヴラジュオンは、山の民の前に降り立った。
 それが、幾つかの部族からなる混成部隊であることを、自らの眼で確認する。
 山の民の戦士が、一人進み出る。
「バルデのヴラジュオンか」
 ヴラジュオンが頷くと、男が得物を示す。
「力を見せていただこう。王のお望みだ」
 霊峰の神殿兵が、不審の声を上げる。
「王自身が、戦わないのか」
 ヴラジュオンは、片手を挙げて部下を制した。
 それは、さほど奇異ではない。
 山の民の部族長は、戦士であることが多い。
 だが、賢者や、部族の母たる老女を、長とする部族もある。
 その場合、一族の中の戦士が、戦いを代行することになるのだ。
 しかし、山の民の戦士は、薄汚れた歯を剥き出して、あざ笑う。
「王の得物は、お前にはない。俺を代わりに出すのは、慈悲と知れ」
「恥を掻くことにならねば、いいがな」
 ヴラジュオンは、冴えた音を立てて剣を抜く。
 男は背負った大剣を抜いて、大きく振り回した。
 膂力に任せた大技は、風を巻き岩を砕いたが、肝心の青年には、かすりもしない。
 若い神殿兵が、崇拝する長に声援を送り、同輩に睨まれる。
 霊峰の民にとっては、それは、無作法なことなのだ。
「貴様。ちょろちょろと…」
 躱すとも思えない僅かな動作で、空振りさせられた男が、真っ赤になって唸る。 
 ヴラジュオンは、男の動きを見切ると、あっけない一閃で男の息の根を止めた。
「次は、俺だ」
 新たな男が一人進み出て、山刀を構えた。
 ヴラジュオンは、眉をひそめる。
「いつから、勝ち抜き戦になった」
「今だ。王のお望みだ。お前は、選ばれた戦士すべてに、勝たねばならない。万が一にも勝ち抜けば、王が、お前に、ご挨拶なさるだろうよ」
 神殿兵は、どよめいた。
「ばかな」
「ロスケリス。無理だ」
「私達も…」
 神殿兵を率いる青年は、再び部下をとめた。
「そこで、見ていろ」
 冷ややかな紺碧の双眸が、山の民を振り返る。 
「…恥をかかねば、いいがな」
「裏切り者のバルデの跡継ぎ。いい度胸だな」 
 ヴラジュオンは、山刀を受け取り構えた。
 この男は、たいした腕ではない。
 アルガーのバイスルが、山刀を繰り出す速度に比べれば、止まっているようなものだった。
 ヴラジュオンは、二振り目には仕留めた。
 息を切らすこともない。
 山の民は、一人の若者に、次々と挑んだ。
 ヴラジュオンは、すべて受けて立った。
 挑戦者達の方が、次第に余裕が失せてくる。
 バルデの裏切り者は、息一つ乱さず、凍てついた瞳で戦士達に迫った。
 その鋭い太刀筋には、一遍の容赦もない。
 七人目の胴が、両断される。
 八人目になるはずだった男は、恐怖に駆られ崖縁まで後ずさった。
 逃げ腰になった男の喉を、細身の剣が断つ。
 その剣の主は、風よけの頭巾を被った小柄な人物だった。
 細い、だが凛とした声が、言い放つ。
「無様な真似は、許さん」
 ヴラジュオンは、その声に釘づけになった。
「お前が…王か」 
「その通りだ。バルデの裏切り者よ。お前は、確かに強い。生かして置く価値はあるようだ」
 山の民の王は、頭巾を払った。
 暗褐色の長い髪が、吹き付ける風に舞う。
「バルデのヴラジュオン。生まれた地へ、戻るがいい。お前は、私のものだ」
 灰青の父の瞳。
 母の声、その姿は、紛れも無く……
 母の最期の時、父の腕に抱かれた小さな命。
 かつて、その名を呼んだのは、一度だけだった。
 だが、覚えている…忘れようがない。
「ヴラウディリ…」
 父の髪と瞳を受け継ぎ、母の声と姿を持つ少女が、目の前にいた。
 この娘は、生まれて間もなく、母も父も失い…兄もなくした。
 霊峰へ攫われたあの日、ヴラジュオンが、妹にできたのは、バルデの民に託すことだけだった。
 そして、霊峰の神殿から、妹の存在を隠し通した。
 だが、真実守るべき者を、その傍らで守ってやることはできなかった。
 そして、妹は、独りで長じて、霊峰の魔女から受け継いだ絶大な魔力を駆使し、山の民の王となった。
 少女は、憎悪を込めた眼差しで、兄を射抜く。
「お前は、私のものだろう。ヴラジュオン」
 母の顔をした妹は、挑むように言った。
 ヴラジュオンは、頷く。
「ああ。ヴラウディリ」
 山の民の王は、残酷に命ずる。
「では、まず、あの霊峰の民を殺せ」
 その言葉で、訳が分からずに呆然としていた神殿兵は、凍りついた。
 ヴラジュオンは、剣を取った。
「ヴラウディリ。勝者の権利は、ないのか」
「命乞いか…よかろう。とにかく勝ったのだ。望みを言え」
 だが、最前まで神殿兵の長だった青年は、口を閉ざしたまま部下だった男達を見渡す。
「どうした」
 少女は、長身の兄を見上げる。
 ヴラジュオンは、苦く笑った。
「いや…。今さら、それも、ばかばかしいことだ」
 青年の剣の切っ先が上がる。
 かつての部下が叫んだ。
「裏切り者…山犬め。卑怯者!」
 山の王である少女が、舌を打った。
「ヴラジュオン。もういい。卑怯者に、卑怯者呼ばわりされるのは、かなわん」
「ヴラウディリ」
「お前は、山の王の兄。私が言っても、霊峰の民に、裏切り者と言われる筋合いはない」
 山の王たる魔女ヴラウディリは、天に向かって手を差し伸べた。
 空が、閃光に切り裂かれた。
 黒々とした雷雲がわきあがり、耳を聾する爆音が、天地に響く。
 神殿兵達は、叫ぶ間もなく、雷火に焼かれた。



 時は至り、黒き魔女が現れた。
 その禍は、まず霊峰の地から、神殿兵の一部隊を奪った。
 その時、聖女ケリュスの御子にして、神殿兵の長ロスケリスも、また、失われたのである。

 ……裏切りの名の下に……




      八 氷の大陸

 
 夜は明ける。
 船の残骸は、穏やかな海を漂っていた。
 神罰と言われる嵐にも、命を奪われることのなかった男達は、更なる窮地におかれていた。
「来るところまで、来てしまったか」
 エリーティルは、苦く笑った。
 波間を氷の塊が漂い。
 時折、哀れな船の残骸に、不吉な音を立てて当たる。
 暁に姿を見せた陸地は、海の男達に禍と死を悟らた。
 凍てついた風が、異端の聖者の亜麻色の髪を靡かせる。
 端正な横顔に、動揺はなかった。
 エリーティルは、肩をすくめる。
「この世の果てという奴だ。氷の大陸ともいう」
「おかしら…」
 黒い巨漢が、弱々しく呻いた。
「バハディース。苦しいのか」
「寒いですぜ…おかしらぁ」
 エリーティルは、黒い手下の頭を撫ぜた。
「まだ死ぬなよ。さびしくなる」
 バハディースは、白い歯を見せた。
「死にやせん…ですぜ。旦那様。続きが気になっちまって、ゆっくり死じゃられね…でごぜぇま…す」
「よくよく、罰当たりだな。寺院の崇める聖母を、魔女と語る物語りを、まだ聞きたいとは…」
 冒涜の聖者が、微笑む。
「あまり、続きを、お望みでないようですね」
 エリーティルは、氷の大陸を指して言う。
「まさか。神罰を受けたのに、最後まで聞かなきゃ、割に合わないぜ」
 異端の物語を語る罪人は、目を伏せた。
「もっとも惨い話を…お望みですか」
 エリーティルは、目を瞠った。
「…罰当たりだが…ただの話だ」
 亜麻色の髪の影で、異端の聖者の唇が、ゆっくりと微笑みを形作った。
「それでは……」
 罪人の紺碧の瞳が、妖しい輝きを宿す。
 こうして、果ての地でも、物語りは語られた。

 


(第五章へ続く)

 

  INDEX|物語詰合せ

     

前頁 次頁