INDEX|物語詰合せ

       
 

 


◆目 次◆

序 章
第一章

第二章
第三章
第四章
第五章
終 章



 
   
   第五章 黒の聖女

      一漂着


 かつて、異端の伝承を語る者があった。
 寺院は、愚か者の半顔を焼き、罪に報いたという。
 また、ある港町では、商人の束ねたる会頭が、忌まわしい余興の代償に故郷を追われたという。
 人々は、噂する。
 神は嵐を呼び、冒涜者を忌むべき物語諸共に海へ沈められたと…。



 船の残骸に、氷塊が絶え間無く突き当たる。
  嵐の生き残りは、この世の果てと呼ばれる氷の大陸へと、たどり着いた。
「曲がりなりも陸だな。上陸するか。それとも、完全に沈むまで、この木片にしがみついているかね」
 難破船の主は、数少ない乗客に尋ねた。
 異端の聖者が、深く甘い声音で応える。
「思し召しのままに」
 エリーティルは、黒檀のような肌を持つ部下の額に手を置く。
「バハディース。行けるか」
 黒い巨漢は、夢うつつに横たわっていたが、かすかに頷いた。
 胸に巻かれた布は、赤黒く染まっている。
「抜け駆けなしですぜ。旦那さま。ここまで来ち…まったら…一緒に…神罰を受けやしょうや…でごぜいますぜ。お…かしらぁ…」
 海賊でもあった若者は、優しく微笑む。
「お前も、たいがい酔狂だな」
 屈強な身体を持つ巨漢は、ふらつきながらも、主の支えで立ち上がった。
 異端の聖者は、十一弦聖琴を携え、主従に従う。
 一行は、果ての地へ足を踏み入れた。

 澄んだ大気を、白い息が濁す。
 凍てついた褐色の土は、命を育むことを知らず、見渡す限り生きて動いているものはなかった。
 不毛の大地の彼方に、純白の氷壁が、天を衝く威容を見せている。
 かつて、王城を戴く港町の会頭だった青年は、ため息を漏らし、お道化たように言った。
「なんと、無愛想な港だ。桟橋もなく宿もない。巨大な城は、いかにも冷たい姿をしている。あれでは、哀れな難民に喜捨もなるまいな」
 冒涜者は、はるかな氷壁を見つめていた。
 その端正な横顔が、ゆっくりと振り向く。
 亜麻色の髪が、風にさらわれ、無残に焼かれた半顔があらわになった。
 エリーティルは、気圧されるものを感じた。
 サルフィが彼を美しいと言ったのは、間違いではない。
 この男は、異端ゆえに、異形ゆえに、美しかった。
 恐ろしく…忌まわしい程に。
 あの日、座興程度に望んだものが、抜き差しならぬ罠となった。
 だが、不思議と後悔がない。
 魅入られたのだ。
 異端の聖者と、その忌まわしい物語とに…
 エリーティルは、苦笑した。
「バハディースじゃないが、最後まで聞かなくては、死んでも死にきれんぞ」
 黒檀の肌を持つ男は、主の肩にすがったまま白い歯を見せて笑った。
 嗄れた声が言う。
「そのとおり…でごぜ…ま…すぜ。かしら」
 異端の聖者の紺碧の双眸が、陰りを帯びた。
「お望みのままに…」
 

 こうして、忌むべき伝承は、凍てついた大地へと流れ着いた。




      二 山の王


 はるか昔から、山の民と称される人々は、数十の部族に分かれ、熾烈な戦いを繰り返して来た。
 だが今や、山の民の間に戦はない。
 一人の王が、全ての部族を平らげ、その上に君臨したのだ。
 山の王は、次の獲物を、霊峰の民と定めた。



「お前は、私のものだろう」
 少女が、猛々しい微笑みを見せて言った。
 魔女に呼び起こされた雷雲は、低く唸り、閃光が幾度となく空を切り裂く。
 吹き付ける風に暗褐色の髪が舞い、ほっそりとした肢体に纏う外套が、激しくはためいた。
 時は至り、黒き魔女は現れたのだ。
 かつて、部下と呼んだ男達が、火柱となって燃え落ちていく。
 これは、初まりに過ぎない。
 すぐに、この手で守って来た人々の死を、見ることになるだろう。
 それらは、かりそめの絆に過ぎなかったのだから…
 ヴラジュオンは、ゆっくりと頷いた。
「ああ。ヴラウディリ」
 父母が死に、自分が霊峰の神殿兵に連れ去られた時、まだ赤子だった妹…
 幼かったヴラジュオンは、霊峰で仇をとり、すぐに妹のもとへ戻るつもりだった。
 だが、それは果たせなかった。
 山の民は、親の仇もとれぬ者を受け入れはしない。
 ましてや、その仇、霊峰の民の血を持つとなれば、なおのこと。
 できることは、妹の存在を隠す事だけしか残されていなかった。
 始めは仇である霊峰の民から、後には聖女たる運命から…
 その為に、ヴラウディリは、父母亡き後、当然あるべき兄の庇護を何一つ受けられずに育った。
 そして今や、魔女にして王と恐れられている。
「ヴラジュオン。霊峰の戦力は、これだけか」
 母と同じ顔をした妹は、燃え立つ炎へ、蔑むような眼差しを向けた。
「いや、これは、神殿兵の一部に過ぎない」 
「このまま、攻め入って勝てるか」
 ヴラジュオンは、山の民を見定めた。
「分は悪い。だが、おまえ次第だ。今頃は、聖司が目覚めているはず。守護を受けた兵がやってくる。それを退けられれば、あるいは勝てる」
 ヴラウディリは、思案げに目を細めた。
「では、出直そう」
「王!」
 山の戦士達は、抗議の声をあげる。
「こいつを、信用するのか」
「あと一息だぞ」
 山の王は、従う民を冷ややかに見る。
「賭けはしない。頼りになるのが、自分だけというのではな。力自慢が、誰一人、こいつに勝てなかった。一度戻って、もう少し強い兵を、そろえたいというのは、贅沢か」



 山の王は、霊峰に大きな傷を負わせた。
 小手調べの襲撃で、神殿兵の一部隊が焼かれ、神殿兵の長が失われたという。
 それは、霊峰の民に、恐るべき衝撃を与えた。


 秋の終わり、十日あまりかかった遠征から帰還した戦士の大部分は、それぞれの部族へ戻された。
 ただし、山の王と主だった部族長は、次の戦を睨んで山の民の聖域サリトの丘に残っている。


 少女は、小高い丘の上に、たたずんでいた。
 灰色の雲が、流されて行く。
 暁に、山々の稜線が金の光を帯びた。
「冬が、近い…早すぎる」
 灰青色の双眸には、苛立ちが潜む。
 誤算だった。
 こんなに早く、寒気が押し寄せるとは。
 もはや、冬を生き延びる為の準備を、始めなければならない。
 戦いを続けるわけには、いかなくなる。
 多くの命を奪って行く無情な季節は、巡りくる度に長く厳しくなって行く。
 古老たちは、ため息交じりに、古き時代を懐かしんでこぼした。
 かつての冬は、今の春ほどに生きることが容易かったと…このまま山の民の地が凍えてしまうなら、人も獣も生き延びることが適わなくなるだろうとも。
 その冬が近い。
 ここまで、来て…。
「いっそ、冬を押し止どめてやろうか」
 山の王たる魔女は、呟く。
 だが、それは、彼女にしても無謀というものだった。
 それほどの力を使えば、命を失うだろう。
 それでは、意味がないのだ。
 ヴラウディリは、唇を噛んだ。
 気を鎮めて振り返る。
 控えていた従者が、目に見えるほど緊張した。
「部族長を集めろ。申し渡すことがある」
 男は頷くと、王の命を果たす為、一刻も速くとばかりに駆け出した。
 山の民は、自らが戴く王を恐れていた。
 魔女でもある王は、火も水も天空の雷さえも、意のままにすることができる。
 彼女を敵に回せば、雷火に焼かれ千々に引き裂れるのだ。
 その怒りを買うのは、危険だった。
 ヴラウディリは、母とは違い、存分に魔力をふるってきた。
 父母を失い、滅びた一族の生き残りである少女には、他に生き延びる術などなかったのだ。
 山の民は、魔力を持たない。
 彼らにとって、ヴラウディリは、卑怯で無作法、そして脅威だ。
 そして今や、誰もが、ヴラウディリの前に跪く。
 あの男を除いて…
 ヴラウディリは、剣呑な眼差しを、人々が眠る集落へ向けた。
 部族長を失って滅びた一族…バルデ族を名乗るのは、ヴラウディリだけになって久しい。
 だが、ヴラジュオン…兄が戻った。
 仇敵、霊峰の民の手先となって、幾人もの山の民を死に至らしめた裏切り者。
 彼は、今、この地に虜囚として捕らわれている。
 ヴラウディリは、自らの肩を抱いた。
 甘ったるく残酷な、得たいの知れない感情が身の内にすくっている。
 それを振り払う為に頭を振った。
「王よ」
 少女の華奢な背に、声が掛けられる。
 部族長達が、膝を屈して王を待っていた。
 ヴラウディリは、少年じみた堅い口調で告げる。
「冬が近い。これから、それぞれの部族に戻れ。冬の支度を整えるがいい」
 集った長達は、安堵のため息を漏らした。
 再び、戦いを命ぜられるものとばかり思っていたのだ。
 この幼い王は、強いだけでなく、上に立つ者がなすべきことが分かっている。
 血気にはやる戦士達は、迫りくる冬季が見えていなが、今は、戦っている時期ではないのだ。
「ただし、初めの雪が降ったとき、この地へ戦士を送れ。もう一戦構える。勝てば、その者達は、冬季を楽園で過ごせる。負ければ、よい口減らしとなろう」
 少女王は、酷薄な微笑みを見せた。 
 厳しい冬季には、蓄えの不足から、やむなく同胞の命を断つ事もある。
 罪人や生きる力の弱い赤子が、その対象になる事が多い。
 それを、戦士を差し出せという。
 だが、勝利すれば、豊かな地を手にできる。
 部族長達は、一瞬の沈黙の後、歓声を上げた。



 ヴラジュオンは、集落の中央に位置する小屋をあてがわれ、一晩を過ごした。
 虜囚扱いということだったが、見張りもなく、扉には鍵もない。
 夜が明けると日が差し込み、そう広くはない室内の様子が、はっきりと見て取れるようになった。
 山の民は、霊峰の民のように住まいを飾ることはしない。
 何の細工も施されていない、丸木を組んで建てられた小屋は、ひどく殺風景に見えた。
 ヴラジュオンは、苦笑した。
 かつては、霊峰の過剰な装飾趣味に呆れた事もあるのに、今は目が寂しがっている。
 だが、ここは、あれほど帰りたいと願った山の民の地。
 父母も一族も失ったが、ヴラジュオンに唯一残された妹の傍らだ。
「…ヴラウディリ」
 妹は、母の姿と声音、父の髪と瞳を持つ。
 それは、正しく父と母の血をひく、唯一人の子供であるということだ。
 自分のように、母だけから生まれたのではなく…
 木製の扉が軋んだ。
「呼んだか」
 少女は、挑むような眼差しを兄に向ける。
  ヴラジュオンは、妹を迎え入れた。
「ああ、ヴラウディリ…舌を咬みそうだな」
 ヴラウディリは、眉を顰めた。
「お互い様だろう。それに、私の名を呼ぶ者などいない。魔女とか、王と呼ぶ」
「俺達は、お前を、ディと呼ぶつもりだった」
「俺達?」
「俺と、父さんと母さんだ」
 少女は、形のよい唇を歪めた。
「…誰だ、それは?そんな者は知らない」
 そう、両親は、妹が生まれて間もなく失われたのだ。
 彼女は、何一つ知らない。
 それにしても。
 ヴラジュオンは、目を伏せた。
 その口元を微笑がかすめる。
 妹の灰青の瞳が、鋭さを増す。
「何が、おかしい」
「何も。ヴラウディリ。王と呼べばいいのか?」
 ヴラジュオンは、苦笑を隠して顔を背けた。
 このやり取りには、覚えがある。
 自分もこんなふうだったろうか。
 カイは、刺々しいばかりの義弟に、辛抱強く穏やかに接してくれた。
「ヴラウディリと、呼べばよかろう。お前は、兄なのだからな。しかたあるまい」
 ヴラウディリは、苛立たしげに兄を見上げる。
 この男の取り澄ました顔には、無性に腹が立った。
 兄だというなら、もっと別の表情で、何か別の事を話すべきではないか。
 衝動的に少女の手があがり、兄の頬を打った。
 ヴラジュオンは、敢えて避けない。
 ヴラウディリは、抵抗しない獲物を前に、酷く残酷な気分になっていた。
「冬支度が始まる。お前も狩りに出ろ。ついこの間まで、敵としていた男達と共に、だ」
「ああ」
 ヴラジュオンは、穏やかに頷いた。
 少女は、思うように反応しない男に焦れた。
「お前は、私のものだ。死ぬな。だが、殺してもいかん。獣以外は…な」
 …山の民の報復を受けても、生き延び、そして、山の民を傷つけてはならない…
「わかった」
 兄の応えには、わずかな動揺もない。
 ヴラウディリは、唇をかんだ。
「お前は、私を馬鹿にしているのか」
 ヴラジュオンは、驚いたように目を瞠った。
「何の事だ?」
「…もういい」
 ヴラウディリは、兄を置いて小屋を出た。
 腹立ち紛れに、叩きつけるように扉を閉める。
 あの男は、何も恐れていない。
 山の民の報復も、その王である魔女の憎悪も…
 そして、父の仇も打たず、宿敵、霊峰の民の手先となった言い訳も、妹を置き去りにし、顧みなかった謝罪もしない。
 それでいて何故、山の民の地へ戻ったのか……。



 ヴラジュオンは、妹の出て行った扉を、呆然と眺めていた。
「何だ…あいつは」
「何だも何もな。何やってんだか」
 呆れたような声がして、扉が開いた。
 一人の山の民が、屈託のない顔を見せる。
「アルガーのバイスル。生きてのか」 
 山の民、最大の勢力を誇っていたアルガー族の部族長だった。
 ヴラウディリが山の王となるのに、最大の難関だったろう。
「おおともさ。山の王も、人を使うのがうまいぜ。さすが、兄妹だ。どちらにも、負けたときにゃ、首を取られると思ったがね。またしても生き延びて、いいように使われてる」
 ヴラウディリは、戦で打ち破った部族を、多くの場合殺さずに支配した。
 その為に、部族長の命を保証し、部族という形を残している。
 そうして、心底はまつろわぬ者達を、部族ごとに競わせ、噛み合わせることで操った。
 ヴラウディリは、危うい均衡の上に立つ事ができる王だった。
 ヴラジュオンには、そのしたたかな山の王を、さきほど訳の分からない癇癪を起こした少女へ、結びつけられなかった。
 眉根を寄せて呟く。
「女の子は、よくわからないな」
 ヴラジュオンの子供時代を知る部族長は、声を上げて笑った。
「何言ってやがる。お前のガキの頃、そっくりだろうがよ。覚えてないのか?あんなもんだったぜ」
「そうだったか」
「そうだぜ。それより狩りの支度だ。取り敢えず、弓矢は貸してやる」
「面倒見がいいな」
 アルガーのバイスルは、含み笑いをした。
「何。獲物をとるより、背後に気をつけろよ。俺に勝ったお前が、誰かにやられるのは、おもしろくない。お前が負けていいのは、王にだけだ」
 多くの部族長を倒した男の首は、報復したい者や、名を成したい者には、いい獲物だった。
 ヴラジュオンは、黙って肩をすくめた。



 冬の備えのために、大掛かりな狩りが行われた。
 戦士は狩人となり、女子供は、彼らの獲物をさばき燻製にしては貯蔵する。
 すべての山の民が、生き延びる為に寸暇を惜しんで働いた。
 その中で、ヴラウディリは独りだった。
 恐るべき魔女に、自ら話しかけるものなどない。
 獲物を追い詰める狩人達の中に、一際目立つ金褐色の髪が見分けられた。
 腹立たしいことに、兄は、山の民に簡単に溶け込んでしまったように見える。
 それも、当然だったかも知れない。
 何と言っても、山の民は、強い者が好きだ。
 敵方にあったとはいえ、ヴラジュオンは、山の民としての作法を守り、戦い方は公正で無敵だった。
 もちろん、彼にも傷はある。
 長の…父の仇を討たなかったという、バルデ族…妹に対しての裏切り。
 所詮、それを非難するのは、私だけか。
 山の民は、王である自分よりも、裏切り者の兄の方を、快く迎え入れているようだった。
「出合い頭に、八つ裂きにしてやればよかった」
 ヴラウディリは、呟いた。
 悔し涙が滲んだ目を、乱暴にこする。



 夜更け近く、ヴラジュオンは、自分にあてがわれた小屋に戻った。
 霊峰から身につけてきた白い装束は、泥と獲物の血で、どす黒く汚れている。
 湯浴みがしたいと思ってから、苦笑する。
 山の民には、湯浴みの習慣はない。
 せいぜい水浴だ。
「どっちつかずな無様な…山犬か」
 ヴラジュオンは、干し草を敷き込んだ土座に腰を降ろした。
 火種を炉に入れる。
 再び狩りが始まる夜明けまで、さほど間はない。
 まず、血脂に塗れた鏃や山刀の手入れをしなければならない。
 砥石を取り出したとき、刺を含んだ堅い声が掛けられた。
「楽しそうだな」
「ヴラウディリ。こんな夜更けに、どうした。何か急な用か?」
「寝に来た。これは、私の小屋でもある」
 ヴラジュオンは、妹の顔をまじまじと見つめた。
 まず、王ともあろうものが、こんな粗末な小屋で寝起きするというのに驚いた。
 次に、年頃の娘が、兄とは言え男と同じ…一間しかない小屋で、寝起きするつもりなのかと呆れた。
 しかし、山の民は、実用本位で飾る事がない。
 これで普通なのだろう。
 ここは、霊峰ではない。
 だが、虜囚と王が一緒に寝起きするのは、山の民といえど妙じゃないだろうか。
 ヴラウディリは、黙り込んだ兄へ包みを投げた。
「着替えろ。いつまでも、霊峰の服を着ているな」
 ヴラジュオンは、与えられた服を広げた。
 厳しい気候にあった着替えは、ありがたい。
 しかし、少女の前で着替えをするのは、抵抗があった。
「ヴラウディリ…」
「何だ。気に入らないとでも、言うつもりか」
 妹の声が刺を増す。
 兄がためらっている理由が、わからないようだった。
 諦めたヴラジュオンは、汚れた上着を脱いだ。
 ヴラウディリは、眉を顰めた。
 兄の背には、多くの傷が刻まれている。
 それを、肩から滑り落ちた金褐色の髪が覆い隠す。
 ヴラウディリは、ぼんやりとして呟いた。
「伸ばし過ぎだな。その髪、うっとうしくないか」
「ああ。切りたいんだが…」
 ヴラジュオンが、今にも切り落としそうに長い髪を一まとめにすると、妹は怒ったように言った。
「やめとけ。もったいない」
 ヴラジュオンは、肩をすくめた。
「どういう訳か、切ろうとすると、誰かしらに、止められるんで、この有り様になった」
「奇麗だからな。私とは大違いだ」
 ヴラウディリは、自分の頬にかかる暗褐色の髪を、乱暴に払いのけた。
 兄の豪奢な輝きを見せる髪に比べれば、くすんで見える。
 ヴラジュオンは、手を伸ばして妹の髪に触れた。
「父さんの髪だ」
 柔らかくて暖かい色をしている。
 少女は、うさん臭そうに、長身の兄を見上げた。
「お前の髪は、母親譲りというわけか」
「ああ。ヴラウディリ、覚えているか?」
「何も、覚えてなんかない」
 ヴラジュオンは、哀しげに微笑んだ。
「俺の力が、封じられていなければ、見せてやれたのに…。それとも、お前、心を読む事ができるか」
 ヴラウディリは、目を瞠った。
「封じられただと。心を読むって、そんなことができたのか」
「昔の話だ。お前、できないのか」
「だって、霊峰の魔女は、天候を操れたって…それしか、知らない。そんなことできるなんて、思った事なかった。やってみたことがない」 
「ああ。母さんが持っていた力は、父さんが嫌がるので、ほとんど使われなかった。どんなものだったが、本当のところは伝わっていないんだな」
 ヴラウディリは、勢い込んで尋ねた。
「それは、私にも使えるのか」
 ヴラジュオンは、いいよどむ。
「多分…。でも、魔力は、あまり使わない方がいい。命を縮める」
 ヴラウディリは鼻で笑った。
「そんなやわな考えじゃ、生き延びられない」
 ヴラジュオンは、妹を見て、今更だが、アルウィスの気持ちが、わかってしまった。
 客観的に見れば、あの母と同じ顔を顰められるのは、気持ちよくない。
「ヴラウディリ。お前は、十分強い。これ以上の力を得て、どうしようというんだ」
 少女は、唇を尖らせた。
「お前が、言い出したんじゃないか。父さん母さんとやらの姿を、見せたいんだろう」
「そうだが。お前の方は、その力を、戦に利用できると思った顔だな。お前は雷まで使う。自然を歪めるのは、よくないぞ」
 希代の魔女は、声を上げてあざ笑う。
「お前に、そう言う権利があると思うのか」
「…いや。では、手を出せ。今の俺にも、教えるくらいはできる」
 ヴラウディリは、少しためらったが、結局、兄に手を預けた。
「それで?」
「手初めに、翼あるものの目を借りる。これは、バルデ部族の技だ。母さんの魔力とは、ちょっと違うが、やり方は似ている。母さんのは、ずっと強力で、人の思惟に割り込んで覗き見たり、意志を曲げたりできたらしい」 
「バルデに魔力?」
「違う。魔力を持っているのは、翼あるものの方だ。彼らは、バルデに力を貸してくれる」
「ああ、守護獣…巨鳥ザイス。姿を消したとかいう」
「そうだ。彼はいない。だが、その眷属は、やはり力を貸してくれる。目を閉じて、俺の意識を追え」
 目を閉ざしているにも拘わらず、視界が開ける。
 白み始めた暁の空に、力強い翼が羽ばたいた。
 驚いて目を開けてしまったが、目前に広がる光景は消えない。
 ヴラウディリは、息を呑んだ。
 信じられない程の高みから、恐ろしい速度で滑空するものの視界…。
「ここは」
「空だ。彼からの力を受け取ったら、その要領を覚えろ。いいか」
 ヴラウディリは、目眩を堪えて、兄の手を握り締めた。
 低い声が、耳元に囁く。
「俺を覗けるか。ヴラウディリ」
「…できる。見せろ」
 父と母、本当だったら、何よりも近しい存在だったもの…
 ヴラウディリは、兄の思惟を切り裂いた。
 ヴラジュオンが、苦痛に歯を食いしばるのを感じたが、構わず記憶を探る。


 ……屈託のない、晴れやかな笑顔が振り向く。
 若い女を腕に抱いた男だ。
 ヴラウディリが受け継いだ暗褐色の髪、灰青の双眸…これが、バルデの最後の部族長ガデル。
 今の兄と、そう変わらない年頃だ。
 幸せそうな若い夫婦だった。
 女が、夢見るように微笑む。
  風に靡く金褐色の髪が、豪奢に輝いた。
 紺碧の双眸は、優しく夫を見つめている。
 儚げで、不用意に触れたら、折れてしまいそうなほど華奢な……

「…これが、霊峰の魔女ケリュスか」
 ヴラウディリは、母の姿に衝撃を受けた。
 彼女を知る者は、ヴラウディリが、母から、その魔力と容姿を譲り受けたという。
 だが、同じく魔女と言われ、同じ容姿を持ちながら、母と娘は、まるで違う生き物のようだった。
 どれほどの魔力を秘めていたとしても、この無邪気な笑顔の女を、畏怖する者などなかっただろう。
 そして、この女には、父がいて…兄もいたのだ。
 ヴラジュオンは、妹の動揺に気付いた。
「ヴラウディリ?」
「うるさい。次は、霊峰を見せろ」
 ヴラウディリは、強引に兄の記憶へ分け入る。
 今更、父母など、どうでもいいと思い切った。
 山の王として、知らねばならぬのは、霊峰の知識だ。


 ……豊かな地、弱くて脆い人々、霊峰神殿の威容、精緻を極める美術、種々の知識、技術、慣習、聖女…聖司…結界…神殿兵…戦力……

 ヴラウディリは、不満げに唸った。
「これだけのはず、ないだろう」
 霊峰の記憶は、両親の姿とは違って、何の感情も入らない、整然とした無気質なものだった。
 戦の予備知識としては充分だが、物足りない。
 兄を、霊峰の地へ留めた物があるはず。
 それが、それこそが知りたい。
 ヴラウディリは、兄の記憶の深奥へ踏み込んでいった。


 ……闇を伝う触手、枯れ木のような老人の腕、見知らぬ少年の穏やかで優しい微笑み、瑠璃と翡翠の鳥、癖のない薄茶の髪を長く伸ばした少女が、白い花を腕に振り向く、そして……

 人、人、人…目まぐるしく変わる視界が、唐突に閉ざされた。

 ヴラウディリは、容赦なく兄に罵声を浴びせた。 
「これじゃ、何だか、わからん。隠すな」 
「ちょっと待て。乱暴な奴だな。見せるつもりがなかったから、混乱したんだ。お前が必要とするような情報は、だいたい見せたつもりだが、足りないか?」
 ヴラジュオンは、痛みを堪えて苦笑した。
 妹は、教えたばかりの技を、もう自在に使いこなしている。
 ヴラウディリは、兄の手を振り払った。
 奥歯をかみしめて、絞り出すように言う。
「お前なんか、大嫌いだ」
 そのまま、狭い小屋の中、一つしかない寝台に潜り込んでしまった。
 取り残されたヴラジュオンは、ため息をつく。
 しばらくして、土間に腰を下ろし壁に寄りかかった。
 夜は明けたが、人々が動き出すまでに間がある。
 休息をとるため、目を閉ざした。



 狩人は、弓や槍を手に、山を駈ける。
 谷を囲む岸壁からしたたり落ちる滴が、そこここに、泥で濁った水たまりをつくっていた。
 水場には、期待した通り、獣が群れをなしている。
 見渡しのよい岸壁の上で、狩人達を送り出した山の王は、兄の記憶を反芻した。
 どうしたら、霊峰の地を得られるだろうか。
 あの豊かな緑、そして技術…富…凍えていく世界の中に残された楽園…是が否にでも欲しい。
 兵力は、こちらが上だと思う。
 だが、聖司の守護という、奥の手を出されてしまったら、どうだろう。
 今まで山の民を平らげてきたように、配下に取り込むのは、困難だろうか。
「やってみるしかないか…」
 ヴラジュオンは、狩場から妹の姿を仰ぎ見た。
 魔女でもある山の王は、いつも独りだ。
 何かを命じたりする以外、誰かと話しているところを見たことがない。
 夜には、ヴラジュオンと同じ小屋で休んだが、取り付くしまもなく話はできなかった。
 ヴラウディリは、兄の視線に気付いて顔を背けた。
 実際に目の前に現れるまで、兄など容易く扱えると考えていた。
 ところが、何を言っても、あの男は冷たく取り澄ましている。
 脅えも、おもねりもしない。
 かといって、どう嬲っても怒るでもない。
 どうやったら、思うように動かせるのだろうか。
 バルデ族の再興…他はともかく、これには、あの男が必要だった。
 だが、言い出せない。
 初めの雪が降る前に、戦いを始める前に、何とかしなければと思うのに…
「大嫌いだ…」
 ヴラウディリは、力無く呟く。
 音を忍ばせ、近づく気配があった。
 どうしたわけか、周囲には、従者の一人もいない。
 警告を発する者はなかった。
 山の王の無防備な背に、刃が振り下ろされる。
 少女の唇が、残忍な微笑に歪められた。
 刀を握る男の腕に、亀裂が走る。
 閃光とともに、赤黒い肉片が散った。
「勇気があるな」
 ヴラウディリは、ゆっくりと振り向いた。
「魔女め」
 十数名に及ぶ戦士が、殺気を剥き出しにして、年端も行かぬ少女に迫る。
「お前なぞに、皆が従うと思ったら、大間違いだぞ」
 確かに、ヴラウディリが王となる為とった手段は、山の民の作法からはずれ、公正からは程遠い。
 当然、反感を持ち、こうして行動する民もある。
 少女の灰青の双眸が、猛々しい光を帯びた。
「馬鹿者どもめ。その薄汚い魔力を持つ魔女に、勝てるつもりか」
「そいつは、これ以上、使わせないさ」
 男達の手から、つぶてが放たれた。
 ヴラウディリが外套で打ち払うと、つぶてが破裂し、粉をばらまいた。
「そいつは、火薬だ。雷火を使えば、浴びたお前も火で死ぬ。手を使わずに人を引き裂く…とはいえ、一度に裂ける人数は知れている。俺達の内、誰かが必ず仕留める」
「おしゃべりだな。うるさい」
 ヴラウディリは、剣を抜いた。
 男達の刃を躱しながら、続けざまに力を放つ。
 首を裂かれた男は、血飛沫を撒き散らして倒れた。
 足を砕かれた男が、仲間を道連れに岸壁から落ちる。
 復讐を誓った男達は、執拗で捨て身だった。
 一人が切り裂かれる間に、次の一人が刃を繰り出す。
 少女の細身の剣が、断ち割られる。
 ヴラウディリは、鋭く舌を打つ。
 襲撃者は、減ったようには見えない。
 この人数を相手では、剣がなければ、魔力を放つ時を稼げない。
 鳥の鳴き声が、鋭く響いた。
 空気を打つ羽音が、人々の気をそらす。
 ヴラウディリの目の前に、男の背が現れた。
 金褐色の豪奢な髪で、誰なのか知れる。
「ヴラジュオン」
 応えはなかった。
 兄の手に山刀がある。
 それは、既に血塗られていた。
「バルデの裏切り者。邪魔をするか」
 襲撃者は、目標を変えた。
 すさまじい剣戟が起こる。
 兄の動きは、人であることが信じがたいほど、しなやかで素早かった。
 その底の知れない紺碧の双眸は、冷たく、一遍の容赦もない。
 人数で勝るはずの男達の間に、恐怖が広がる。
 それは、魔女であるヴラウディリを、相手にしていたときより、深い恐怖だった。
 ヴラウディリは、気を取り直して、再び力を放とうとした。
 兄の低く抑えた声が、それを押し止どめた。
「黙って見ていろ。その力を使うな」
「何だと」
 兄の腕が一閃する。
 襲撃者の首が、血飛沫とともに跳んだ。
 捨て身だったはずの男達が、怯む。
 ヴラジュオンは、冷えた声で言った。
「山の民が、一人の女を大勢で囲むとは、堕ちたものだな。その上、今更脅えて逃げるか」
「貴様…」
 一人の男が、つぶてを投げつける。
 火種が空中で炸裂した。
 爆音が轟き、炎が空を赤く染める。
 ヴラウディリは、落ちていくのを感じた。
 火の付いた外套が激しくはためき、吹き飛ばされる。
 兄が、ヴラウディリを抱えて、岸壁を飛び降りたのだ。
 泥で濁った水たまりへ、落ちて転がる。
 衣服についた火が、きな臭い匂いを残して消えた。
「大丈夫か」
 落ち着いた声が尋ねる。
 ヴラウディリは、兄の腕の中から跳ね起きた。
「お前…。私を助けに来たのか」
「あんまり、うまくなかったがな」
 ヴラウディリは、唸った。
「私は、魔女だぞ」
 ヴラジュオンは、訝しげに首を傾げた。
「だから?」
 少女は、兄に泥水を浴びせた。
「助けなんかいらないんだ。お前なんか、ずっと、いなかったくせに、今更!」
 紺碧の双眸が、陰りを帯びて、走り去る妹の背を見送った。
 
 

 初めの雪の一片が音もなく舞い降りてから、いくらも経たぬうちに、山々は白い闇に覆われた。
 人々は、諦めの眼差しを空に向けると、それぞれの小屋に引きこもる。
 この雪は、冬の前触れだ。
 止めば、ほんの一時、穏やかな暖かい日が戻り、霊峰の地を襲撃できる時が得られるだろう。

 そして、戦の勝敗は、春まで、誰にも知れない。
 恐ろしい冬が、すべてを覆い隠すだろうから…

「ヴラウディリ」
 その日、妹が戻ったのは、ずいぶん遅くなってからだった。
 少女は、雪にまみれた外套を脱ぎ捨て、乾いた布を纏った。
 細い肩が、凍えて震えている。
 ヴラジュオンは、咎めるように言った。
「どうした。この雪の中で、何をしていた」
 少女は、声を震わせて応えた。
「うるさい。考えてたんだ」
「凍りつくまで、考えることもなかろう」
「お前のせいだ。もう今夜しかないじゃないか」
「何だって」
 妹は、兄を睨みつけながら、息がかかるほど近づいてきた。
 ヴラジュオンは、乾かしていた自分の外套をとって、妹の肩にかけた。
 触れる事に躊躇いがあったが、暖めてやるために抱き寄せる。
「俺のせいなのか」
 腕の中の妹は、呻くように言った。
「お前は、無表情で、怖いし、何を考えてるかわからないし、私を、馬鹿にしてるし…」
 ヴラジュオンは、覚えのない抗議に戸惑った。
 何が、そんな態度に見えたのか。
「俺が…?」
「私が、母さんや、あの女みたいじゃないから…」
 猛々しいまでに気の強い妹が、今にも泣き出しそうに見える。
「何を言っているんだ?お前は、母さんに、そっくりだぞ。あの女って何だ?」
「うるさい」
「ヴラウディリ」
 少女は、尊大な表情を取り戻していた。 
「お前は、私のものだ。逆らうのは許さない」
「もちろん…」
「お前は、バルデの血を、つながなくてはならない…私と…だ」
 妹の命令が、何であるか理解するのに、しばらくかかった。
 それは、一族の為に、血の濃い子をつくるということだ。
 兄妹で…。
 感じた嫌悪は抑えようがなかった。
 ヴラジュオンは、妹を離した。
 ヴラウディリの目に、傷ついた光が浮かぶ。
 ただ自分が拒絶されたと考えたのだろう。
 その他に、兄が拒絶する理由が思いつかないのだ。
 ヴラジュオンの感じた嫌悪は、霊峰の地で培われたものだ。
 ごく狭い地域で、数少ない同族としか、結び付かない霊峰の民にとって、近親婚は禁忌だった。
 だが、山の民の間では、よくある事ではないにせよ、奇異な結び付きではない。
 一族の純潔を守る為に、慣習にしている部族さえあった。
 ヴラウディリは、憎悪を込めて兄を睨んだ。
「逆らうのは、許さないと言ったぞ。お前の血が必要なんだ。もうお前しか、バルデの男はいない」
「ヴラウディリ…違う…」
 ヴラジュオンは、いいよどんだ。 
「俺は、バルデの血をもっていない。霊峰の聖女が、夫なくして生んだ子供。お前だけが、父さんと母さんの血を引くバルデの子供なんだ」
「嘘つきが!そんなに、私が嫌か」
 少女の腕が、ヴラジュオンの胸を打った。 
「ヴラウディリ。待て。何だって?」
 少女の灰青の瞳から、涙があふれた。
「私が、母さんや、あの女みたいじゃないから、嫌なんだろう」
「だから、お前は、母さんに…あの女って、誰だ?」
「アルウィス…貧相で小綺麗で気の弱そうな奴…」
 妹は、小さな子供のようにしゃくりあげている…というより、この子は、まだ本当に子供だった。
 ヴラジュオンは、十才も年下の妹相手に、途方に暮れた。
「ヴラウディリ。バルデは、既に失われたし、お前は、すでに山の王だ。バルデにこだわる事はない。バルデを再興してどうする。お前は、もっと多くのものを支配しているのに」
「何だと…だって、それじゃ、私は一人か…同族もなく…ずっと…」
「一人どころか、一部族の民ではなく、山の民がすべて、お前の民だ。何故、一人だなんて思ったんだ。バルデの血に、こだわることはない。お前の好きな男を、選べばいい」
 ヴラウディリは、声を上げて笑った。
「お前は、何も分かってない。誰が、あんな奴ら。心の中では、私を、霊峰の卑怯者の血を引くと蔑んでいる。私は、勝つことでしか、生き延びられなかった。王でなければ、山の民と認められなかったんだ。バルデのことなんか、どうだっていい。お前しかいない。同じ霊峰の女の子供…お前なら…わかると思ったのに…」
 それは分かる。
 人並み以上の力を持たねば、認められない。
 かつて同じ痛みを抱えていたヴラジュオンは、頷いた。
 しかし、妹は、山の民全てに君臨する王だ。
 その地位を、自分の力で勝ち取った。
 もう、その痛みは過去のものとして、よいはずだった。
「王を蔑む民はいない。お前が本物になればいい」
「私が、偽の王だというのか」
「民を憎む王は、偽物より始末が悪いぞ」
「貴様…」
 ヴラウディリが、あふれた涙を乱暴に拭う。
 不器用な仕草が、妙に可愛い。
 ヴラジュオンは、微笑んだ。
 この妹より、ずっと弱い女達を知っているが、彼女達は、涙を見せたりしなかった。
「ヴラウディリ。母さんも、アルウィスも、体はともかく、気は弱くなかったぞ。お前、ちゃんと俺の記憶を見なかったな」
「姿だけ…。お前が、ちゃんと見せなかったんだ」
「考えてみろ。お前だったら、初対面の男の為に、霊峰の地で生涯過ごせるか。しかも、母さんは笑っていたろう」
 ヴラウディリは、詰まった。
「父さんや、お前が、かばったからだろう」
「俺も、昔はそう思っていたが、かばいきれるものじゃないよ」
「じゃあ。お前の女は?」
 ヴラジュオンは、笑った。
「俺は、アルウィスには、全然かなわなかった。そうだな。この場にいたら、お前、相当しごかれるぞ。女の子だから、なおさらだ。鼻に皺を寄せるな。髪の手入れをしろ。言葉遣いに気を使え。いつも、笑っていろ…って…本当に容赦ないぞ」
 ヴラウディリは、ずっと冷たく取り澄ましていた兄の、悪戯っ子のような笑顔に面食らった。
「な…何?何だって?」
 ヴラジュオンは、笑いを引っ込めると、困ったように妹を見た。
「どうしたらいいのか、言ってくれ。俺は、お前の為に、何かできると思って、戻って来たんだ。だが、どうしていいか、わからない」
 少女は、上目使いに兄を見た。
「だって、断ったじゃないか」
「悪いが、その件は、挑戦で保留にした『勝者の権利』を行使する」
「ず…ずるいぞ。何だ?それは!」
 ヴラウディリは、兄の胸倉を掴んだ。
「俺は、バルデの血を持っていない。でも、バルデ族でいたい。バルデでは、妻は一人。俺には、アルウィスがいる。でも、他のことなら何でもする」
 怒りで真っ赤になった少女は、叫んだ。
「何でもだと…嘘つきが。じゃあ、まず、その妻を殺せ!やって見せろ」
「それは、無理だ。アルウィスは、ずいぶん前に、死んでいる」
 ヴラウディリは、歯を食いしばった。
「では、霊峰の民を殺せ。お前が心にかけた奴を、その手に掛けろ。バルデの裏切り者が、霊峰の裏切り者ともなってみせろ」
「それが、望みなら…」
 兄は、穏やかに頷いた。
「だが、ヴラウディリ。戦をするのはともかく、霊峰の民全てを憎むな。母さんは、霊峰の民だった。俺達にも、その血が流れている。それを憎むのは、お前が辛くなるだけだ。まして、今お前は、山の民すら憎んでいる…」
 ヴラウディリは、兄の言葉を遮った。
「お前は、霊峰の民に心を残しているのか。なのに、奴らを殺せるのか」
「ああ。俺が、霊峰の地で過ごしたのは、十四年…長かった。アルウィスだけじゃない。部下がいた。友人も、師も…でも、お前が、俺の守るべき者だ。ヴラウディリ」
 …アルウィスでも、カイでもなく…
 生まれてすぐに、生き別れになった妹。
 母は、霊峰の女の定めどおり、妹を生んで死んだ。
 その直後に、バルデ族は、神殿兵の襲撃を受け、父も死に、自分も霊峰へ攫われた。
 あの日…ヴラジュオンは、父母亡き後、自分が守らねばならない者の為、一族の男達に叫んだ。
 ……俺のことはいい。
 何としても、ここには手を出させない。
 だから後の事を頼む…と、後に残される妹を…頼むと。
 正直に言えば、愛しいと思う間も、なかった。
 そして、霊峰の民として生きていたヴラジュオンにとって、置き去りにした妹は、忘れたくても忘れられない義務でしかなかった。
 だが今、手の届く所にいる少女は、激しい言葉を口にしながら、心細い目をしている。
 一人で生きて来た妹は、甘え方も知らないのだ。
 ヴラジュオンは、もう一度、妹の冷えきった身体を引き寄せた。
 山の王たる少女は、震えながら押し殺した声で命じる。
「……殺せ。全部だ。何一つ残すな。お前は、私のもの。他の奴を想うのは許さない。明日は、出陣。霊峰の民など、殺してしまえ」
「ああ」
 兄の応えは、穏やかで優しかった。
 ヴラウディリは、呟くように尋ねた。
「十四年…か。何故、すぐに帰らなかった」
「仇を討てなかった。あの時、俺が戻れば、お前にまで、その汚名が及んだ。それに、お前も、霊峰神殿に追われたろう」
 この妹の存在を、霊峰神殿に知られるわけには、いかなかった。
 妹を、希代の力を持つ聖女、聖司を生み出す道具にしてはならなかった。
「何故、戻った」
「お前が、呼んだから。俺の存在が、お前が生きる邪魔にならない時がくれば、帰れる…ずっと、そう思っていた」
 ヴラウディリの腕が、ためらいがちに兄の背に回された。
「誰にも、心を許さなければよかったんだ。私のように、全部憎んでいれば、苦しくない」
「…そうできれば、よかったな」
「お前、酷いぞ。霊峰の女には、いい顔しておいて、私には、義務とか、負い目しか持ってない。本当は、私が死んでいれば、よかったんじゃないか」
 ヴラジュオンは、妹の暗褐色の髪を撫でる。
「生きていてくれて、嬉しかった。何だか、よくわからない事もあるけどな」
 傷ついた…それでも、生気にあふれた気性の激しい娘は、唸るように言った。
「絶対、許さないからな。もう私に逆らうなよ」
「ああ。お前の望む通りにする」
 ヴラウディリは、心地よい温もりの中で、ため息をついた。
 あれだけ思い詰めた事を拒絶されたのに、怒りは消えていた。
 甘ったるい残酷な気分だけが、残っている。
「明日は、出陣だ。お前も来い。霊峰の地へ…」
 私だけのもの、となるために。




      三 滅びの獣


 霊峰の白い苑には、幼い聖女が集う。
「時が巡る」
「あの方が来られる」
「偉大なる聖母ヴラウディリ」
「この聖なる地へ、お迎えする時が来た」
「不吉な、破滅の獣を伴って…」
 幼い唱和を、小さな呟きが破る。
「どうして。愛しているのに、苦しめるの」
 聖なる童女達は、笑いさざめく。
「まぁ。ユーリス。わからないの」
「愛しているからよ」
「あまり愛しいと、憎みたくなるのでしょう」
「聖司テュイルは、カイシュオンを愛した」
「でも、憎んでもいたわ。彼のために、聖司でいなければならなかったから」
「聖司カイは、ヴラージュを愛した」
「でも、彼を苦しめたわ」
「ユーリスお姉様は、ロスケリスが、憎くないの」
 蜜色の双眸から、涙があふれる。
「私は…、私が、ロスケリスにとって、何の意味もないのを知っているわ」
 一人の聖女が、幼い腕で、姉を抱き締めた。
「聖母ヴラウディリは、正しいわ。ロスケリスを憎みなさい。苦しくないように」
「ユーリスを愛さない獣を、憎みましょう」
「私達を、虜にした霊峰の民を憎みましょう」
「聖司も、神も、世界も…すべて…すべて」
 霊峰の聖女達は、ふいに押し黙った。
 青醒めて白い聖なる花々が、風に揺れる。
 童女達は、脅えたように身を寄せ合った。




 霊峰神殿では、無数の灯火が掲げられ、多くの神官が、神に祈りを捧げている。
 人々の哀訴に、聖司は目覚め、聖堂へ姿を現した。
「神に選ばれし守護者に、祝福あれ」
 神殿を司る神官長パル・ハークは、少年の姿をした守護者の前に跪く。
「パル・ハーク。どうしました」
 常に変わらぬ、穏やかで優しい声が問いかけた。
 老いた神官長は、一層低く頭を垂れる。
「聖司カイ。御力をお貸しください」
「パル・ハーク…私は…」
「御身を煩わすのは、畏れ多いことです。ですが、神が、我らを、お身捨てでなければ…御力をお示しください。それとも、いまだ、あの山犬を、お庇いになるおつもりか…」
 聖堂に集う人々は、息を詰めた。
 パル・ハークの訴えは、誰もが思い、だが、誰もが口にできなかったものだった。
「庇う…私が、ヴラジュオンを…?彼は、そんなことを、望んではいないでしょう」
 玉座の少年は、かつては水色だった銀の双眸で、人々を見渡す。
 聖司となった者は、長く生きない。
 霊峰の地に廻らせた結界のために、命を費やすためだ。
 そして、カイシュオンは、聖司として長い…十分に長すぎる時を過ごして来た。
 聖衣から覗く痛々しいほど蒼白の肌は、最期の時が間近である事を示す。
 だが、人々は、この時でさえ、守護者に縋りつく事しかできない。
 今、蛮族が、攻め込もうとしているのだ。
 裏切り者とともに…
 聖司カイは、諭すように言った。
「パル・ハーク。聖司は、霊峰の地の守護者です。神の祝福により、この地を守護し、結界を保ちます。他の、何をせよと、おっしゃるのですか」
「死を…蛮族ともに、裏切り者に、この霊峰を脅かすすべてに、死を賜れ!」
 聖堂に集う人々は、喘いだ。
 神官長の、生々しい憎悪と恐怖が、伝染していく。
 聖司カイは、穏やかに応えた。
「私は、確かに、ロスケリスを惜しんでいます。でも、それだけではないのです。貴方の望みを叶えるには、私の命は、残り少ないのだということを、わかってください」
 聖司カイの後を継ぐ者は、まだ生まれていない。
 まして、その母たる聖女達は、幼すぎた。
 聖司の不在は、神の祝福、結界の消失を意味する。
 恐ろしい衝撃が、人々を打ちのめした。
「貴方は、霊峰の地が、滅びると言われるのか?次の聖司が現れると…予言されたのに…」
「現れます。その時まで、もちこたえなければならない。だからこそ、今、結界を支える以外の力を、使うことはできないのです」
 老いた神官長は、聖司の白い衣に縋った。
「聖司カイ…救いはないのですか」
 少年の姿をした守護者は、そっと目を伏せた。
 警護にあたっていた一人の神殿兵が、進み出る。
「聖司カイ。貴方の手を、山犬の血で汚すことはない。私が、それをしましょう」
 パル・ハークが、僭越な兵を睨んだ。
「お前ごときに、何ができる。山犬を長と崇めていた馬鹿者が」
「戦うことができます。ロスケリスとでも」
 若い神殿兵は、いきり立って叫んだ。
 その肩を、一人の男が押さえる。
「その通りです。二代続けて、容赦がない長が続いて、兵達は、鍛え上げられていますよ。実戦でも、使いものになるほどね」
 アル・レンクは、皮肉な微笑みを見せた。



 精緻な彫刻が施され、玉石が象眼された扉が、閉ざされた。
 人々が退出し人目がなくなると、聖司カイは、力尽きて玉座にくずおれる。
「聖司カイ」
 側仕えの若い神官が、うろたえて駆け寄った。
 弱々しい声が応える。
「…大丈夫。このまま…少し休めば…。夜明けには、守護の儀式に…」
 長を失った神殿兵は、再び、聖司の守護を必要としている。
 戦いのときは、迫っていた。
 篝火に照らされた神殿の前庭では、神殿兵が集い、神官達の詠唱が始まっている。
 聖司は、儀式の最後に、この聖堂の玉座から神殿兵へ、力を送らねばならない。
「聖司カイ。無茶です。どうか、寝所へ、お戻りください。このままでは…」 
 カイシュオンは、蒼白の面を上げ、若い神官に微笑み掛けた。
「スウェイン?」
 聖司の側仕えは、幾人もの神官が、交替で務めている。
 スウェインは、その内で最も若く、新参の神官だった。
「はい。覚えておられましたか」
「ええ。君は、ヴラージュの友達だった」
 スウェインは、複雑な顔をした。
「ヴラジュオンは、本当に、霊峰を攻めるのでしょうか。貴方がいるのに…」
「ヴラジュオンは、来るでしょう。これは、彼の贖罪なのです」
「贖罪…。何に対して、ですか」
 カイシュオンは、目を伏せた。
「スウェイン。君は、今も、彼の友人だろうか」
 スウェインは、苦笑した。
「多分…ヴラジュオンの方は、どうだか、自信がありませんが」
「彼は、霊峰を、憎んでいなければならなかった。でも、できなかった。私が、それをさせてやらなかった。彼は、聖女アルウィスと出会い、愛して、君に親しんで、神殿兵の仲間に入り…霊峰の地に馴染んでいった。彼の妹にとって、それは、裏切りだから…ヴラジュオンは、だからこそ、霊峰を滅ぼすだろう」
「妹…」
 スウェインは、呆然とした。
 ヴラジュオンの妹ということは、聖女ケリュスの娘ではないか。
 何故、その尊い女性が、霊峰神殿から隠され、霊峰の地に連れ戻されていないのか。
「彼が、霊峰の民から隠した…その為に、置き去りにしてしまった妹。魔女にして山の王。そして…聖女ヴラウディリ…」
 カイシュオンは、穏やかに微笑んでいた。
 かつて水色だった銀の瞳が、義弟の友人を見つめている。
「スウェイン。君は、わかってくれるだろうか。彼は、愛した者、心に掛けた者をこそ、その手で殺すだろう。それが、妹に対する償いだから」
 スウェインは、口こもった。
「よく…わかりません。つまり、その…ヴラジュオンが、私を友人だと思えば、その手で殺すだろうと…いうことなのでしょうか。でも、まさか、聖司様まで…ヴラジュオンには、できません。できるはずが…」
 カイシュオンの手には、義弟から贈られた山犬の護符がある。
 彼は、どんなつもりで、この贈り物をしたのだろうか。
 聖司は、遠くを見る眼差しになった。
「霊峰の地を滅ぼす、不吉な獣…彼は、この地を…愛してさえいるのに…」
 人々は、彼を、魔と呼び、悪と呼ぶだろう。
 彼が、どんなに苦しんでも…彼自身でさえ…



 雲間から、いく筋もの光が降り注ぎ、霊峰の豊かな緑を輝かせる。
 …最後の一日が、始まった。 




 ヴラウディリは、二度目の襲撃を、最後のものと決めている。
 山の王に従う戦士の数は、小手調べの時の数倍にも達した。
 いずれも、それぞれの部族から、選りすぐられた古つわものだ。
 彼らに、後はない。
 冬の到来は早く、山の民は、十分な蓄えをする事ができなかった。
 この戦は、口減らしの意味合いをも含む。
 山の王と、その戦士には、勝利以外に、厳しい季節を生き延びる道はない。
 山の民は、三日がかりで絶壁を越えた。
 遮る者はない。
 これまで、山の民の襲撃を、ことごとく阻んできた男は、霊峰から失われたのだ。
 裏切りの名のもとに…

 小柄な山の王の傍らに、長身の兄が、寄り添い従っている。
「これが、霊峰の結界か」
 暗褐色の髪が、吹きすさぶ風に舞う。
 頬を上気させた美しい少女が、獰猛な微笑みを浮かべた。
 ヴラウディリは、白い霧のように見える障壁に向う。
「吹き飛ばしてやる」
 少女の腕が上がり、力を放とうとした。
「ヴラウディリ。意味のない事はやめろ。結界は、人を拒まない」
「うるさい。景気づけだ」
 ヴラジュオンは、頭を振った。
「聖司は、結界に力を注いでいる。その分、他に多くの力を向けられない。この状況を壊すことはない。それに、お前の力も、無限ではなかろう」
 魔力を使えば、命をそぐことになる。
 少女は、舌を打った。
「いちいち、うるさい奴だ」
「十四年分だ。仕方あるまい」
 ヴラウディリは、兄を睨むと、従う戦士達へ合図を送った。
 剣が、山刀が、抜かれる。
「霊峰の民は、魔力で守られている。だが、奴ら自身の武器でなら殺せる。まず、武器を奪え」
 戦士達の中で、最も若い青年が、尋ねた。
「奴らの数は」
 若者の剣呑な眼差しが、裏切り者と呼ばれる男へ向けられている。
 ヴラジュオンは、妹に目で促されて応えた。
「霊峰の民は、男でも戦えるのは、神殿兵のみ。彼らの人数は、お前達と、同じほどだ」
 ヴラウディリは、戦士達を見渡すと、満足そうに微笑んだ。
 若々しい張りのある声が、傲然と命じる。
「勝て。豊かな地を富を、我らのものに!」
 山の戦士があげた鬨の声は、結界を貫き、霊峰の地へ響き渡った。


 アル・レンクは、聖司カイの負担を考え、光翅は辞退し、守護の皮膜だけを受けた。
 だが、若い神殿兵の中には、それすら不要と思う者がいる。
 新しい神殿兵の長は、痩せた肩をすくめた。
「うまく、しつけてくれたよ。ロスケリスめ」
 若い者は、対等の条件で戦い、勝ちたいのだという。
 それは、ヴラジュオンの流儀だった。
 神殿兵達にとって、敵は、山の民ではなく、かつての長なのだ。
 神殿兵は、山の民を、樹海で迎え撃った。



 山の民が吠える。
 男は、肩を貫いた火槍をつかんだ。
 無骨な手が、音を立てて焼ける。
 不敵に笑う山の民は、我が身から槍を引き抜くと、立ちすくむ神殿兵の胸を突いた。
 炎が戦衣をなめ、人の形に燃え上がった。
 一方では、神殿兵の剣が、蛮族を巧みな技で翻弄する。
 研ぎ澄まされた刃が、侵入者の胸に埋まった。
 人と生木が焼ける匂いと、血臭が、辺りを覆う。
 神殿兵は、初めて経験する乱戦に、高揚していた。
 彼らは、自分で思う以上に強かった。
 蛮族どもは、面白いように倒れていく。
 だが、戦い慣れた山の民は、しぶとかった。
 少しづつ、霊峰の民に有効な得物を手に入れていく。

 ヴラジュオンが、妹について結界を越えると、馴染んだ大気が、その身を包んだ。
 ヴラウディリは、樹海の彼方にそびえ立つ霊峰神殿の威容に、目を奪われ陶然としている。
「あれを手に入れれば、霊峰の地は、私のものか…」
「ヴラウディリ。気をつけろ。手に入れたつもりで、手に入れられたという事になる。気の済むまで、破壊し、十分に略奪すればいい。だが、この地を、手に入れようなどと思うな」
「うるさい奴だ。何を案じている」
「霊峰の地は、楽園であるために、聖司を…聖女を必要としている。お前は、彼らにしてみれば、聖女である資格を持っている貴重な女だ」
 ヴラウディリは、目を瞠った。
 兄は、襲いかかって来た神殿兵を、容易く捩りあげると、その剣を奪った。
 神殿兵が喚く。
「裏切り者め」
 ヴラウディリが、冷たく言い放つ。
「殺せ」
 ヴラジュオンが手にした長剣は、元の主の命を断った。
 少女は、兄の横顔を見据えた。
「ためらうな」
「ああ」
 底の知れない紺碧の双眸が、かつての部下から、妹に向けられ、やがて、霊峰神殿を見た。
 その上空を、翼ある者たちが舞う。
 兄の視線を追ったヴラウディリは、鳥達と視界を共有した。
 人々は神殿に集い、祈りを捧げている。
「霊峰の民は、もしかして豪胆なのか。戦支度には、見えんな」
「彼らは、戦を知らない。戦士を蔑んでさえいる」
 ヴラジュオンは、剣を構えた。
 新手の神殿兵が、かつての長に槍を向ける。
 ヴラジュオンは、穂先を断ち割り、その勢いで部下の胴を薙ぎ払った。
 腹を断ち割られた青年は、信じ難いという表情のまま事切れる。
 ヴラウディリに襲いかかった神殿兵は、自分が相手にしたのが、少年ではなく少女だと気づいた。
 慌てて身を引きかける。
 だが、山の王は、ただの少女ではない。
 力を放って、敵兵を吹き飛ばし、頭上を覆う樹木へ叩き込んだ。
 男の身体は、大枝に貫かれ、血飛沫を降りまく。
 血を浴びた少女は、猛々しく笑った。
「この地は、私がとる。行くぞ。ヴラジュオン」



「戦況は」
「今は、樹海で押し止どめております。各々の集落から神殿への避難は、完了致しました」
 行政長官は、副官から報告を受けて唸った。
「押し止どめているだと、何故、殲滅できない。だいたい、霊峰の地へ、山犬共を引き込んで戦うなど、何を考えているのだ。神殿兵は…っ」
「それは、聖司様のお身体を考えますと、やはり…仕方ないのでは…」
 長官は、副官に頭を振って見せた。
「長引けば、同じだ」
 神殿の周辺の集落から避難した人々は、色違いの石畳が、幾何学的な文様をなす庭に集められていた。
 彼らは、不安げに神殿を仰ぎ見る。



 高い天井を優美な列柱が支え、その隅々までが、精緻な彫刻に埋め尽くされている。
 神殿内部は、かつてない緊張で張り詰めていた。
「聖司カイ」
 呼びかけに、玉座の少年がうっすらと目を開く。
 銀の瞳が、無数に掲げられた灯火を映す。
 神官長パル・ハークは、重ねて呼びかけた。
「おお。聖司カイ。お願いです」
 少年の姿をした守護者は、一時意識を失っていた。
 その蒼白の面は、死を予感させ、神官達を震え上がらせた。
 聖司の唇が、かすかに震え、微笑みの形を取ることに失敗した。
「…まだ…大丈夫…心配…な」
 パル・ハークは、掠れた声で囁いた。
「聖餐を…」
「お願いです。聖餐を」
「私の命を…」
 神官達の悲壮な訴えが、繰り返される。
 カイシュオンは、故国のために、死を覚悟した人々を見渡した。
 霊峰の守護者の頬に、涙が伝い落ちる。
 それは、できない。
 けして…
 必死に縋りつく人々の願いは、カイシュオンを追い詰めていたが、頷くことはできない。
 それをすれば、カイシュオンが、聖司であることのより所を失ってしまう。
 人の命を奪って生き延びては、聖司ではいられない…
 死は心地よい誘惑だった。
 だが、今は死ねない…それでも…聖餐だけは…
 カイシュオンは、遠のく意識を必死でくい止めていた。
 幼い声が聖堂に響く。
「聖司カイ。今、死ぬのは、許さないわ」
 癖のない蜜色の髪を長く伸ばした少女が、神官達の間から進み出た。
 …聖女ユーリス…
 あどけない手が、聖司の衣に触れる。
「私をあげる」
 …貴方のためでなく、霊峰のためでもなく、ロスケリスのために…
 止めようにも、衰弱したカイシュオンの制止は声にならない。
 霊峰の聖なる乙女は、澄んだ声で歌った。
 聖なる…呪われた調べが、聖堂を満たす。
 灯火の光が増し、辺りを白々と照らし出した。
「聖司カイ。カイシュオン…貴方は、生きて…ロスケリスの前に…立ちなさ…い」
 人々は、息を呑んだ。
 童女の身体は、倒れ伏し霧散した。
 そして、聖司の蒼白の頬に暖かい色がさす。
 神官が、喘いだ。
「いったい…聖司様?聖餐…まさか…聖女を」
 カイシュオンは、黙って立ち上がった。
 パル・ハークは、期待に声を震わせる。
「聖司カイ?」 
 霊峰の守護者は、寂しそうに微笑んだ。
「聖女は、聖司を生む為に、自分の命と力を我が子に移します。聖女ユーリスは、その技を、私に使ったのです。でも、聖餐となんら変わりません。考えてみれば…聖司とは、母を贄に生まれる…聖餐を初めから知っているのです」
 人々は、縋るように訴える。
「聖司カイ。今こそ、御力をお示しください」
 カイシュオンは、顔を背けた。
 そして、…また力つきたら、誰かを犠牲にして…
「聖司カイ」
 聖司は、呼びかけに応え、護るべき人々へ眼差しを戻した。
 優しい穏やかな微笑みが、人々を鎮める。
「アル・レンクへ伝令を。神殿兵への守護を、強めましょう。それから、前庭に集まった人を、神殿の中へ入れてください。神殿の回りに、もう一重結界を張ります。人を拒むだけの強さをもった防壁を…」



「なんだと」
 ヴラウディリは、叫んだ。
 緑の壁が、地鳴りとともに立ち上がった。
 神殿の周囲で、樹木が動き出す。
 木々は、絡み合い伸び上がりながら、巨大な神殿を覆って行く。
 山の民に押され気味だった神殿兵は、光翅を得て飛び立った。
 火槍の炎は、激しく燃え立ち、山の民を、二人三人と重ねて貫く。
 山の民に、動揺が走った。
 ヴラウディリは、兄を振り返る。
 長身の青年は、炎を背に立ち尽くしている。
 その足元は血溜まりとなり、かつての部下が幾人も倒れていた。
「ヴラジュオン」
 兄の紺碧の双眸は、霊峰神殿に向けられていて、ヴラウディリの呼びかけに応えない。
「ヴラジュオン!あれは何だ」
 重ねて呼ぶと、兄は、目に傷ついた光を浮かべて振り返った。
 だが、見る間に表情を押し殺す。
「聖司だ。結界を支える以外に、力を使えるようになったらしい」
 何にも動じないようだった兄が、一体何に傷ついたのか。
 ヴラウディリの胸は、酷くざわめいた。 
「あんな壁くらい。吹き飛ばしてやる。行くぞ」
 ヴラウディリは、力を放った。
 炎が駆け抜け、樹海に道が開ける。
 山の民が、鬨の声を上げた。



 聖司の新たな守護は、緑の防壁を以ってして、神殿のすべてを覆った。
 最も聖なる霊峰をのぞむ空中庭園も、また、樹木の防壁の影となっている。
 白い苑で、聖なる童女達は身を寄せ合う。
 …一人欠けてしまった。
「ユーリス…何て馬鹿な」
「ロスケリスの為よ」
 童女のあどけない声が、苦々しげに呻く。
「不吉な獣。滅びの…ああ、何て事なの」
「ヴラジュオン・ロスケリスは、妹の為に、聖司カイを、殺さなければならない」
「その瞬間まで、聖司カイを生かそうと…」
「その時、聖司カイが、『ヴラジュオンの許せない化け物』であればいいと…」
「その為…に、贄となった…」
「ユーリスの想いは、やはり憎しみなのかしら」
「愛していたのよ」
「でも、ロスケリスは、苦しんだわ」
「ユーリスも、苦しんだわ」
「私達…ユーリスを失って哀しいわ」
 童女達は、すすり泣くように唱和した。
「聖母ヴラウディリ。貴方に捧げる力が、一つ失われました……」
 白い花々は、影の中で心細げに震えた。



 遠くで、幼い聖女の嘆きの声が聞こえる。


 聖司カイは、光輝を帯びて微笑んだ。
 カイシュオンは、聖女ユーリスと引き換えにした命を、結界へ、神殿兵へと、惜しみ無く注ぎ続ける。
 だが、もはや、その銀の双眸は、聖なる守護者に縋りつく人々を見ていなかった。
「おいで。ヴラージュ…もう、逃れるすべはない。君は、聖司テュイルの予言した者になる。そして…」


 ヴラウディリは、寒気を覚えた。
 ヴラジュオンは、魔力を持っていない…聖司に封じられたと言っていた…のに。
 この兄は、尋常な人の子なのだろうか。
 その動きは、人間離れして、獣以上にしなやかで速い。
 加えて、緑の防壁が現れた時から、冷ややかな紺碧の双眸が、一層冷たくなった。
 今や、敵はもちろん、味方である山の民すら、脅えを含んだ眼で、兄を見る。
 次々と襲いかかる神殿兵は、光翅を得、さらに守護を与えられていたが、まるで兄の相手にならない。
 そのヴラジュオンの前に、痩身の神殿兵が立ち塞がった。
 光翅を得ながら、大地に足をつけている。
「ロスケリス。ここまでにしたらどうだ」
「アル・レンク。俺を止められるつもりか」
 ヴラジュオンは、かつての副官に冷たい微笑みを見せた。
 アル・レンクは、頭を振った。
「お前が、自分で止まらねばな。この先、神殿には、戦うことなど知らない…武器など持ったことのない民しかいない。彼らを殺すか?殺せるのか」
 ヴラウディリは、叫んだ。
「戦の最中に、何を話している。殺せ」
 兄は、苦笑した。
 甘やかすような優しい眼差しで、妹を見る。
「ヴラウディリ。泣かなくてもいい」
 ヴラウディリは、自分が、泣きそうになっていたのに気づいて、頭に血が上がった。
「うるさい。さっさと片付けろ」
 ヴラジュオンは、頷いた。
 アル・レンクは、長剣を構える。
「いいのか。ロスケリス、神殿には、聖司カイが、おられるぞ」
「化け物と成り果てた…な」
 剣が、甲高い音を響かせて交わる。
 ヴラウディリは、眉をひそめた。
 …聖司…それが、兄と、どう関わるのか。
 ヴラジュオンの剣は、あっけなく神殿兵の胸に埋まる。
 アル・レンクは、皮肉な笑いに、唇を歪めて崩れ落ちた。
 夜が明け、日が沈み掛ける今まで、樹海に響き渡っていた剣戟が、急に止む。
 夕闇に包まれた森から、神殿兵の姿が消えた。
 取り残された敵味方の死体が、炎で焼け爛れ、無残な有り様を晒している。
「ヴラジュオン。やつらは、どうしたんだ」
「どうしたらいいか分からずに、引き上げたんだろう。こいつが、神殿兵の長だったはずだから」
 ヴラウディリは、あざ笑った。
「巣穴に逃げ込んだら、安全か…霊峰の民は、戦士まで臆病だな」
 敵を見失った山の民が、王のもとに集い始める。
 魔女にして王であるヴラウディリは、霊峰神殿を仰ぎ見た。
 霊峰の民の精神的な支柱…かつてなく巨大な獲物。
 だが、獲物だ。
「戦士は殺せ。主だった者を引き出すのだ。抵抗しない者は、生かしてやってもいい。奴隷として」
 少女の華奢な腕が上がる。
 圧倒的な魔力が、緑の防壁へと放たれた。 




 衝撃が、霊峰神殿を震わせた。
 神官達の祈りが、断ち切られる。
「これは、何だ。まさか…山の民が…こんな力を」
 地鳴りが聖域たる神殿を襲い、人々は脅えて身を寄せ合う。
「聖司カイ…」
 霊峰の守護者は、聖堂の玉座から立ち上がった。
 その白い額に刻まれた紋章が、淡い輝きを放つ。
「何という力だろう。聖女ヴラウディリ…身も心も強い…真に祝福された者。彼女が、霊峰に生まれたのなら…よかったのに…」
「聖司カイ。御力を…」
 カイシュオンは、常に変わらない微笑みを見せた。
 光を帯びた風が、回廊を駆け抜け、神殿を覆う緑の防壁から放たれる。
 白い輝きが、山の戦士を襲った。
 吹き飛ばされたヴラウディリの身体を、兄の腕が抱きとめる。
 魔女でもある山の王は、屈辱と怒りで頬を紅潮させた。
 兄の腕を乱暴に振り払い、魔力を放つ。
 炎が、緑の防壁をなめた。
 激しい風が、火を吹き飛ばす。
 ヴラウディリは、獰猛に唸った。
「この力…聖司か」
 空を、閃光が切り裂いた。
 雷が轟き、結界を貫いて神殿を襲う。
 守護の力が神殿から溢れ、雷を包み消した。
 ヴラウディリが、唇を噛む。
 聖堂で人々の祈りが高まり、霊峰の守護者は守護の光を放った。
 カイシュオンは、今、力を…命を惜まなかった。
 もう惜しむ必要などない…この夜を境に、守るべき聖域は失われるのだ。
「滅びは、稀なる聖女ヴラウディリが、伴って…」
 聖司カイの予言は、呟きに等しく、人々の耳には届かなかった。
 神殿の周囲では、続け様に襲う凶暴な雷火を、純白の光が、一つも漏らさず打ち消す。
 風雨に晒された少女は、華奢な腕を天に掲げた。
 より強い、より獰猛な嵐を呼ぶ。
「皆、下がっていろ。今度こそ、道を開けてやる」
 ずぶ濡れになりながらも、期待に目を輝かせた山の戦士達は、森に退いて、我が身を守った。
「やめろ。ヴラウディリ。その力を使うな」
 兄の声が聞こえた。
 気が付くと、その強い腕に捕らえられている。
 ヴラウディリは、訝しげに問いただす。
「ヴラジュオン。何故止める」 
「使い過ぎれば、お前の命が尽きる。聖司は…聖司が使えるのは、自分の命だけではない」
 ヴラウディリは、勝ち誇った微笑みを見せた。
「そうでも、なさそうだぞ。ずいぶん、抵抗する力が弱まっている。今なら、勝てる。手を放せ」
 再び、雷とともに強大な魔力が放たれる。
 それは、防壁を築いていた巨木の一部を穿った。
 山の民が、なだれ込む。
 生き残りの神殿兵が、避難していた民を守って、最後の抵抗を試みた。
 山の戦士達は、次々と敵兵の息を断ち、武器を持たない霊峰の民を狩り出した。
 血臭と絶叫が、聖域を侵す。
 ヴラウディリは、悠然と神殿へ踏み込む。
 防壁に覆われた内部では、日が沈み、いっそう深くなった闇を祓う為、無数の灯火が掲げられている。
 ヴラウディリの眼差しが、一塊に集められた虜囚達へ向けられた。
 恐怖と絶望に震えていた霊峰の民は、蛮族の長の姿が明かりに照らし出されると、愕然とする。
「…聖女ケリュス…」
 まだ年若い華奢な少女が、屈強な体躯の蛮族を率いている。
 そして、その美しい容貌は、比類なき聖女ケリュス、そのものだった。
「私は、山の王ヴラウディリ。逆らわなければ、殺しはしない。お前達は、捕らえたものの財産となる。楽園を離れて、生き延びられるものならば…」
 血に塗れて、なお美しい少女は、残酷な微笑みを浮かべる。
 その傍らには、ヴラジュオンがいた。
 霊峰の民達は、かつての神殿兵の長に、非難の眼差しを向けたが、声に出した者はいなかった。 
 その紺碧の冷えた双眸に、臆したのだ。
 ヴラウディリは、満足げに頷くと、神殿の奥へと歩を進めた。
 兄を含めた山の戦士たちが、後を追う。
「行政長官と、神官長をおさえろ。おそらく、武器は持っていない」
 神殿内部に進むにつれ、より美しい色硝子の窓、精緻な彫刻、繊細な織物、優美な曲線を描く調度が、侵略者を迎えた。
 一人の神官が、姿を現す。
「ようこそ。聖女ヴラウディリ」
 ヴラウディリの足が止まる。
「なんだと」
 神官は、喜びに満ちて微笑んでいた。
「神に選ばれたる守護者に、祝福あれ。お迎えにあがりました」
 ヴラジュオンは、神官に向かって剣を投げた。
 鋭利な切っ先は、白い漆喰の壁に突き立った。
 剣に貫かれた神官は、歪んだ微笑みを浮かべ、かき消える。
 男は、亡き聖司テュイルの顔を持っていた。
 父を殺され、故国から連れさられ、『救出』されたという、古い悪夢。
 ヴラジュオンは、唇を噛んだ。
 だがそれは、ヴラウディリには、意味をなさない。
「いまのは、何だったんだ」
「幻だ」
 幼い哄笑が、悪意を持って、遠くで聞こえた。
「あれは、子供?」
「霊峰の聖女だ」
 ヴラウディリは、兄の腕を掴んだ。
「ヴラジュオン。お前…裏切ったら許さないぞ」
「ああ」
 ヴラジュオンは、何度も言い募る妹に、微笑んで応えた。
 孤独に育った少女は、初めて兄という肉親を得、手放すまいと必死なのだ。
 回廊の先に、一人の神官が佇んでいた。
「ようこそ。聖女ヴラウディリ」
 ヴラウディリは、眉をひそめた。
「また、幻か」
「いや。今度は、本物だ」
 青醒めた若い顔は、かつての友人のものだった。
「聖司様が、お待ちです。ご案内を…」
 美しい少女は、あざ笑った。
「戦の最中に、ふざけた話だな。罠か。それとも、命乞いでもしたいのか」
 スウェインは、目を伏せた。
「兵もなく、聖司様の守護も尽きました。もう、戦にはなりません」
 ヴラジュオンは、低い声で言った。
「また聖餐をとれば、よかろう」
 スウェインは、顔を上げた。
 裏切り者となった友へ、かすれた声で言う。
「ロスケリス…いや、ヴラジュオン。聖司カイは、聖餐などとっていない。あの方は…君を…」
 ヴラウディリは、神官に向けて力を放った。
 スウェインは、漆喰のへ叩きつけられる。
「ヴラジュオン。こいつを殺せ」
「こいつは、武器を持っていない」
 少女は、傷ついたように叫んだ。
「だから何だ。庇うつもりか」
 ヴラジュオンは、壁に突き立てた剣を引き抜く。
 倒れた友へ、切っ先を向けた。 
 スウェインは、苦笑する。
 滅びの時は至り、生は、さほど魅力的ではない。
 逃げようとは、思わなかった。
 恐ろしさは、すでに消えている。
 よろめきながらも立ち上がり、友の剣を迎え入れた。
「スウェイン…」
「馬鹿だな。ヴラジュオン…お前…不器用で…」
 聖司カイは、正しい。
 ヴラジュオンは、霊峰を愛したが故に、妹に捧げなければならなかったのだ。
 自分を刺した彼の痛みが、冷えた双眸を掠めて見えた。
 スウェインは、長年の友人のために微笑んだ。
 ヴラジュオンの腕が、力を失ったスウェインの身体を受け止める。
 友の命は失われていた。
 亡骸を、そっと横たえる。
 ヴラウディリは、唇を噛んだ。
 胸が、ざわめいて鎮まらない。
 いつまでも背を向けている兄に、苛立った声をかける。
「ヴラジュオン。いくぞ。お前が案内しろ」
「ああ」
 兄の応えは、いつものように穏やかだった。



 霊峰神殿は、その最も神聖な奥津城に、蛮族を迎え入れた。
 無数の灯火が揺らめき、侵略者を、恐ろしげに照らし出す。
 青銅の扉は破られ、聖司の塔に捧げられた花々は、山の民に踏みにじられた。
 権高かった神官達は、駆り立てられ、情け容赦なく捕らえられる。
 もはや、抵抗する者はなかった。
 ヴラウディリは、尊大な眼差しで、宿敵である霊峰の民の醜態を眺める。
「たわいないな」
 最後に捕らえられた神官長が、震える声で嘆いた。
「神が、このような事を許される訳はない」
「私は、聖女だそうだな。ならば、これは、神とやらの意志だろう」
 パル・ハークは、呻いた。
「聖女…ヴラウディリ…何故です。貴方は、霊峰の聖なる…」
 ヴラウディリは、母から譲られた美しい容貌を、残忍な微笑みで歪めた。
「私は、魔女にして山の王。今は、この地の支配者でもある。私は、山の民も、霊峰の民も、等しく憎い。だが、私に従うなら、生かしておいてやろう」
 ヴラウディリは、螺旋階段を見上げた。
「聖司とやらもな。この豊かな地を保つ為に、必要だというなら、生かしてやってもいい」
 ヴラジュオンは、妹の肩に手を置いた。
「聖域などいらん。聖司とともに、滅びさせてやるがいい」
 神官長は叫んだ。
「呪われろ、山犬め。この獣!聖司様を、手にかけるつもりか」
 ヴラジュオンは、冷えた微笑みを見せた。
「俺が、聖司を狙うのは、初めてじゃない。今度こそ、仕留める」



 聖堂の玉座に、少年の姿をした聖司が、くずおれていた。
 聖女ユーリスの命を譲り受けてさえも、聖女ヴラウディリには、かなわなかった。
「何という強い命だろう」
 聖司の微かな呟きには、感嘆の響きがある。
 山の王でもある聖女を迎えるのに、カイシュオンは、微笑んでさえいた。
 側使えの神官達は、今この時、聖司の命が尽きるのを知り、取り乱し、すすり泣くばかりだ。
 灯火が、光を増した。
 幼い聖女が、白い光りに満たされた聖堂へ、一人、また一人と姿を現す。
「聖司カイ。滅びが来た」
「聖司テュイルの予言が、真実となる」
「だが、聖母ヴラウディリが、やって来る」
「かの人は、山の民の血を得て生まれた、強い聖女。新たなる世界の礎となる」
「聖司を生むために、閉じ込められることも、死ぬこともない」
「霊峰の民を従え、山犬をも従え、世界を手にする。霊峰の誇りと共に…」
 カイシュオンは、身を起こして聖女を迎えた。
「彼女が、新たなる…霊峰の虜となる…と?」
 幼い指が、カイシュオンを指した。
「お前こそが、裏切り者だ。聖司カイ。お前は、獣を守り、生かして…、ついに、霊峰へ牙を剥かせた」
 カイシュオンは、穏やかに微笑んだ。
「後悔はしていない。私は、とうに、ヴラジュオンを選んでいたから」
「ヴラジュオン・ロスケリスは、お前を殺すわ」
「…そうするだろう。彼には、選ぶ余地がない」
 霊峰の聖司と幼い聖女は、痛いほどの沈黙の中で、眼差しを交わす。


 玉石が象眼され、精緻な彫刻が施された白木の扉が、砕け散った。
 蛮族の侵入に、聖堂の中にいた神官達は、恐怖に顔を歪めて、悲鳴を上げる。
 山の戦士は、手慣れた様子で、逃げ惑う人々を取り押さえた。
 すすり泣くような絶望の呻きが、聖堂を侵す。
 ヴラウディリは、霊峰の守護者を見た。
 彼は、十四年前に、兄を迎えた少年のままの姿をしている。
「お前が、聖司カイか…」
「ようこそ。ヴラウディリ。…お帰り、ヴラージュ」
 かつては、無垢な水色をたたえていた瞳が、愛しげに義弟に向けられる。
 ヴラウディリは、その穏やかな親しげな口調に、立ちすくんだ。
 兄を振り返ると、すべての感情を押し殺した、静かな横顔を見せている。
「ヴラジュオン」
 ヴラウディリは、自分の声が、頼りなく響くのを聞いた。
 兄は、ヴラウディリの望みなら何でもすると言い、実際にやってのける。
 かつての仲間を、部下を、友を斬り捨てた。
 だが、今度も、そうするだろうか。
 この少年を相手に、そう、できるのだろうか。
 できたとして、そうさせた自分を、憎まないだろうか。
 彼は、兄に残された、一番大切な存在なのに…
 ヴラジュオンは、脅えた表情を見せた妹に、静かに微笑みかけた。
「ヴラウディリ。言ってみろ」
「…殺せ」
 少女の唇から、言葉が滑り落ちた。
 ヴラジュオンの腕が上がり、剣の刃が灯火を映して閃く。
 ヴラウディリは、叫んだ。
「やめろ!もういい。ヴラジュオン!」
 霊峰の民達から、悲鳴が上がる。
 ヴラジュオンは、妹の制止を聞きながら、手を止めない。
 致命的な刃が、義兄の胸を裂いた。
 人々の嘆きと呪詛が、裏切り者へ向かう。
 傷の深さからすると、僅かな血が流れただけだったが、聖司の白い衣は、朱に染まった。
 霊峰の守護者は、微笑んで目を閉じた。
 取り返しは、つかない。
 聖司は、死ぬ。
 ヴラウディリは、兄の背に、震える声で呼びかけた。
「ヴラジュオン…」
「霊峰の地は、これで終わる。ヴラウディリ。お前には、聖地も守護者もいらない。聖司の死と共に、結界は消え、楽園も失われる。そして、お前が、すべてを支配するなら、霊峰の民も、山の民と等しく、お前の民となるだろう。二度と、楽園を望ませるな。聖女や聖司は、虜に過ぎない」
 ヴラジュオンは、ゆっくりと振り向いた。
 慈しむ眼差しで、妹を見る。
 ヴラウディリは、喘いだ。
 できるわけがないと、思っていたのに。
 許しを請う兄を見ることになるだろうと…そうなれば、自分の手で、兄の目の前で切り裂いてやろうと、心に決めていたのに。
 なのに、兄は、自分の大切な者を手に掛けた。
 霊峰の地で、兄を見守っていた少年。
 兄の記憶の中で、何と優しく穏やかに微笑んでいたことか…。
 彼でさえも、兄は殺せるのだ…妹への償いに。
 もう充分だった。
 兄に償いを求めるのは、これで、終わりにしなければ。
 ヴラウディリは、泣くのを堪えて笑おうとした。
「ヴラジュオン…兄さん…」
 遠くで、空気が振動していた。
 結界が消え、外界の寒気が、楽園を侵し始めている。
「ヴラウディリ。夜明けまでには、霊峰の地から出た方がいい。ここは、本来、山の民の地より高地で、気候が厳しい土地のはずだ。結界が失われたら、ここで人は生きて行けないだろう」
「ああ」
 ヴラウディリは、我に返った。
 ここでは、冬を越すことができない。
 そうであれば、略奪しなければならない物資や、捕虜の移送に、考えを巡らせなければならないのだ。
「ヴラウディリ。一つ、欲しいものがある。きいてくれるか」
 山の王であり、霊峰の民の支配者ともなった少女は、思案を邪魔され、煩わしげに問い返した。
「何だ。はっきり言え」
 ヴラジュオンは、血刀を収めて微笑んだ。
「こいつを」
 ヴラウディリは、兄が指さしたものを見て目を瞠った。
 聖司カイ…。
 捕らわれ、うなだれていた霊峰の民達が、弾かれたように喚き出す。
「呪われろ裏切り者。山犬め!神よ…御力を…おお、聖司様…神よ!」
 ヴラウディリは、いまいましげに唾を吐く。
「うるさいな。舌を切るぞ」
「ヴラウディリ」
「ああ。いいよ。に…兄さん。だが、夜明けには、出発するんだぞ」
 少女は、真っ赤に上気して怒ったように言う。
 ヴラジュオンは、手を伸ばし、妹の暖かな色の髪を撫でた。
「もう一回、呼んでくれ」
 ヴラウディリは、おかしなほど、うろたえた。
「う…うるさい。手を放せ。私は、忙しいんだぞ。さっさと、それを持って行け…兄さん…夜明けまで、だぞ?」
「ありがとう。ヴラウディリ」
 ヴラジュオンは、笑って再び背を向けた。
 聖司の玉座から、義兄を抱き上げる。
 そのまま、勝手知ったる聖堂を横切り、沙幕に隠された扉へ向かった。
 最後に、もう一度振り返り、妹へ微笑みかける。
 ヴラウディリは、兄の微笑みに、胸を突かれるような痛みを感じた。
 だが、何を言うこともできず、扉の向うに消える背を見送った。





      四 封印


 ヴラジュオンは、義兄の身体を、高い天蓋を持つ寝台へ横たえる。
 純白の寝具が、朱に染まった。
 聖司カイの目は、閉ざされていたが、常と変わらない、優しく穏やかな微笑みを浮かべていた。
「カイ」
 ヴラジュオンは、義兄を呼んだ。
「…まだ、いるんだろう。お前は、聖司テュイルのように、散っていない」
 かつて、聖司の継承を見たヴラジュオンは、聖司の最期が砂塵と化して散る事だと知っている。
 淡い輝きが、死した聖司の身体を覆った。
《…ヴラージュ…》
 ヴラジュオンが切り裂いた胸の傷が、閉じていく。
 だが、完全には、癒えなかった。
 止まっていた血が、再び流れ出す。
 死んではいなかったが、やはり死にかけている。
 ヴラジュオンは、吐き捨てるように言った。
「化け物だな。なのに何故、聖餐をとって、戦い続けなかった。いくらでも、命を補えたはずだ」
《…すまない…ヴラージュ…もう一度、会いたくて…私は、とても、ずるい人間なんだ…、少しだけ時間が欲しかった。その為に、力を残して、戦いを放棄してしまった…》
「会いたくて?」
 聖司は、力無い腕を、義弟に差し伸べた。
ヴラジュオンは、ためらいながらも、その手をとり、華奢な身体を抱き起こす。
《…苦しかったろう…ずっと見ていた…》

 …昔。
 ずいぶん遠い昔となってしまった。初めの情景が、目に浮かぶ。
 窓から注ぐ日差しが、振り向いた子供の輪郭をにじませた。
 淡く輝くような金褐色の髪が、肩を滑り落ちる。
 夢見るような印象を裏切る、きつい眼差しをしている。
 大きな紺碧の瞳を涙で潤ませて、それでも、泣くまいとしていた強くて美しい子供…。
 今も、義弟の冷えた眼差しの中に、その子がいる。

 ヴラジュオンは、昔から変わることのない、義兄の微笑みから目を逸らして呻いた。
「カイ。どうして、お前…昔のままで…。化け物になったくせに。そうまでして、聖司でいたくせに」
《聖司テュイルを、憎まないで…彼は、私を聖司にしない為に、ああなったのだから。そして、私が聖司となっても、その次代の聖司が、霊峰の存続を望まず、滅ぼす事を知っていたから…》
 ヴラジュオンは、戸惑った。
「次代の…生まれなかったじゃないか。それに、滅びの獣は、俺なんだろう?」
 聖司カイが、次代聖司の出現を予言したのは、周知の事実だった。
 その時まで、もちこたえると、人々の不安を宥めていた。
 しかし、今この時になっても、聖司となる子供は生まれていない。
 母たる聖女達が、あのような幼子では仕方のない事だったが…。
 カイシュオンは、不可思議な微笑みを見せた。
《次代の聖司は、すでに霊峰にいた。希代の聖女ケリュスから生まれ、霊峰の民でありながら、強い心と身体を持ち…だけど、ずっと力を封じられて》
 義兄の言葉に、ヴラジュオンは、耳を疑った。
 弱ったカイシュオンの言葉は、唇から発せられていたわけではないのだけれど。
「俺…か?俺だったのか?」
《そう。でも、君を、聖司になどできなかった。だから、できるだけ長く持ちこたえようと…だけど、もういいね。霊峰が滅びる今、君に、君の力を返そう。もう自由に生きて、いいのだろう?霊峰の民としてでなく、山の民としてでもなく、まして聖司などでなく、ただ君として…》
 ヴラジュオンは、叫んだ。
「カイ…待て!」
《君が、とても好きだったよ。ヴラージュ…》 
 義兄の命が、消えて行く。
 カイシュオンは、最期の力を振りしぼり腕を伸ばした。
 指先が、そっと、義弟の額へ触る。
《形は、聖司になってしまうね。すまない。その代わり、預かっていた元の魔力に、聖司の知識と力が加わる。君には、必要になるはず…》
 淡い輝きが、辺りを満たす。
 壁一面に張られた水晶が、美しい光彩を見せた。
「カイ!」
 カイシュオンは、いたずらな微笑みを見せた。
《最期に、君から、承認の徴を…》
 ヴラジュオンは、色を失った聖司の唇に口付けた。
《聖女に、気をつけて。神の祝福を…君に…》
 少年の姿をした聖司は、義弟の腕の中で、砂塵と化して散った。
 取り残されたヴラジュオンの額には、魔力を取り戻した証しが、刻まれている。



 ヴラウディリは、聖司の死を感じた。
 兄が、別れを言えたのならいいと思う。
「ヴラウディリ」
 童女が、白い衣をふわりと舞わせて進みでる。
「聖女ヴラウディリ」
「偉大なる聖母ヴラウディリ」
「強き者。猛き母よ」
「我らを受け取り給え」
「我らの命」
「力」
「望み」
 屈強な戦士達の制止は、空をきった。
 童女達は、大人びた口調で唱和する。
「霊峰の虜たる聖女が、今、すべての支配者となる。ヴラウディリ。最後の聖女にして、最初の王よ」
「一人の力が、欠けたことを許し給え」 
 透き通った歌声が、聖堂を満たす。
 幼い聖女に、取り囲まれたヴラウディリは、圧倒的な魔力のうねりを感じた。
「貴様ら…何をっ」
 すべてが、溶けさるかと思うほど、強く、白く、発光する。
 聖女達の華奢な身体が、霧散した。
 ヴラウディリは、彼女達の命と力が、自分に注がれるのを感じた。
 そして、虜とされていた憎悪。
 彼女達の望みは、聖女という存在が、虜である事から解放され、霊峰の地の頂点となり、山の民をも従える王となることだった。
 だが、それは、自分の望みとは違う。
 ヴラウディリは、王となり、すべてを支配することを望んだが、霊峰の民の下に、山の民を置こうなどとは思っていない。
 ヴラウディリが、抵抗する意志を示すと、意識の中で、実体の無い聖女達の手を感じた。
《それは、間違いよ》
《聖母ヴラウディリ》
《霊峰の民は、選ばれた民なの。山の蛮族と同列に扱うなんて、冗談ではないわ》
《力をあげる》
《命も。貴方は、神のように長く生きるでしょう》
《神のように、世界に君臨できるわ》
 そんなこと、望んでない。
 ヴラウディリは、痛みと嫌悪に悲鳴を上げた。
「ヴラジュオン…兄…さん!助けて!」
《ヴラジュオン・ロスケリス》
《おお。滅びの獣》
《何故、邪魔をするの》
《お前に、何ができる》
「何でも。今なら」


 強い腕が、ヴラウディリを支えていた。
《何てこと》
《お前…聖司…》
《馬鹿な…お前が…》

 目も眩む白光が、更に増した。
 目を開けている事はできない。
 ヴラウディリは、兄にしがみついた。
「お前達に、ヴラウディリを、やるわけにはいかん。消え去れ」
 兄の言葉と同時に、解放される。
 ヴラウディリは、自分の身体から、異質な力が流れ出たのを感じた。
 実体の無い少女達の悲鳴が、聖堂に渦巻いて反響している。
《酷い》
《酷い…滅びの獣…》
《アルウィスを、選んだ…》
《聖司カイを…ヴラウディリを…》
《なのに、私達を消す、ですって》
《ユーリスが、いれば…私達が完全だったら、こんなまねはさせないのに。お前が、聖司の力を持っていても…いいえ、消えたりはしない。呪ってやる》
《呪って…すべてを…呪われた凍土へ封じてやる》
《ユーリスは、お前の為に…》
 ヴラジュオンは、微かに笑った。
「ならば、ここに来い」
 白い光の奔流が、ヴラジュオンを襲った。
「ヴラジュオン!」
 弾き飛ばされたヴラウディリは、兄の名を呼んだ。
 人々は、あまりの出来事に声を失っている。
 幾つかの灯火が、奇跡的に、なぎ倒されず残っていたが、闇が落ちたように感じた。
 その闇に、淡い輝きを帯びた青年が立つ。
 金褐色の髪も、紺碧だった瞳も、色を失い白銀となっていた。
 そして、その額には、霊峰の聖司たる紋章が刻まれている。
 だが、聖司ではありえない。
「兄さん?」
「ヴラウディリ…王よ。もう、いくがいい。この地は、閉ざされる。お前の行く手は、俺が守ろう」
「何だって。どういうことだ。その姿は…」
 ヴラジュオンは、妹に微笑みかける。
「さあ、行け。ここは、呪われた地だ。聖女の呪いとともに、氷に閉ざされるだろう。山の民だろうと、霊峰の民だろうと、人は、生きてはいけない」
「お前は?」
「ここに留まる。聖女の呪いは、俺の中だ。ここから、どこへも行かせない。だが、俺も動けない」
 ヴラウディリは、幼い子供のように頭を振った。
「嫌だ、馬鹿。一緒に帰るんだ」
「ヴラウディリ。お前が許してくれるなら、俺は少し…休みたい」
 ヴラウディリは、拒絶の言葉を飲み込んだ。
 無理を言えば、兄は聞いてくれる。
 どんな事でも。
 だが、もう兄の償いは、求めないと決めていた。
「お前、馬鹿だ。王の兄として、私の側にいればいいのに。こんなとこで…」
「ありがとう」
 銀の瞳と髪を得た兄は、純白の雪を思わせたが、その眼差しは暖かかった。




 人々の立ち去る喧噪が、ようやく遠のく。
 ヴラジュオンは、聖司の玉座へ腰掛けた。
「馬鹿だな。いつだって、どこか間が抜けるんだ」
 これ以上失うのは、まして、お前まで失うのは耐えられないと言っただろうに。
 あの義兄は、自分が、山犬の護符を渡したのを、どういう意味だと思っていたのか。
 しかも、ヴラウディリの望みを果たしたら、あの子が許してくれたら、もう楽になりたいとしか、思ってなかったのに…自由に生きろとは。
「霊峰を滅ぼすのが、俺の使命だった。ならば、お前達に、付き合ってやってもいい」
 幼い残酷な哄笑が、幸せそうに応える。
 無慈悲な冷気が、恐ろしいほどの勢いで、霊峰を覆って行く。
 豊かな樹海は、白く凍てつき、若い枝は砕けた。
 アルウィスと暮らした小さな家も、見る間に氷に閉ざされる。
 霊峰の民の集落、カイと会った修学の塔、スウェインの遺体…霊峰神殿、神殿兵の宿舎、次々と凍りついていく。
 薬草園も、聖女の塔も、そのアルウィスの眠る墓所も、母が、父と会った白い花の苑も…
 聖女の壁画も、最後の聖女達を、描かれる事なく、氷の下に閉ざされる。
 軽い羽音とともに、澄んだ鳴き声が聞こえた。
 瑠璃と翡翠の鳥が、ヴラジュオンの肩へ舞い降りる。
「お前達…」
 美しい鳥達は、競うように鳴いた。
 バルデの友にして守護獣、巨鳥ザイスの眷属…。
「いいのか」
 小さな嘴が、甘えるように頬へ寄せられた。
 ヴラジュオンは、白銀に変わった双眸を閉ざす。
 そして、すべてが氷に閉ざされた。

 霊峰最後の聖司とともに…



 ヴラウディリは、山の民と、霊峰の民をともに従えて、霊峰の地を去った。
 彼らが、後にした森は、その時既に、寒気にさらされ凍てついていたという。
 一行は、ヴラジュオンの守護を得て、岸壁を越え、その年の厳しい冬季をも越した。
 外界では、この時を境に、年ごとに厳しさを増していた気候が穏やかになり、大地は豊かな実りを見せ始める。
 その様子は、神が、楽園の恵みを、貧しい大地へ、分け与えられたのかも知れないと思わせた。
 人々は地に満ち、新たなる土地を目指し旅立つ者も出たという。
 王は、二つの民を一つとなし、その血の交わりによって、強く賢い民が生まれた。
 彼らは、世界を統べる王国の礎となる。
 その頃、人々は、かつての霊峰の地を指して言う。

 …呪われた凍土と。




      五 最後の物語り


 エリーティルは、深いため息を漏らした。
「よくぞ、顔を焼かれたくらいで、済んだものだ」
 冒涜に次ぐ冒涜。
 聖司を、聖女を、悪鬼のように語り、人々が聖なるものと崇める血筋を、卑しめ。
 伝説の聖域と、悪魔が封じられているという凍土を、同じものだという。
 しかも今、自分は、その考えに魅いられていた。
 あの氷壁は、霊峰の地だと言うのだろうか。


 冒涜者は、謎めいた微笑みを見せる。
「死ぬ訳には、いかなかったのですよ。この物語りは、これで、終わりではありません。最後の、いまだ語られざる物語が、残っているのです」
「そうなのか」
「ええ。それは、貴方の物語なのです」
 エリーティルは、目を見開いた。
「何の冗談だ。それは」
 異端の聖者の紺碧の双眸が、妖しい光を帯びる。
「始めは、若君かと思っていたのですが、貴方です。エリーティル様。貴方だけが、この物語を、ここまで聴いた。そして、この地へと導かれた。そして、これから、最後の物語をつくる」
 エリーティルは、助けを求めるように、黒檀の肌をもつ腹心を振り返った。
 深い傷を負った彼は、浅い呼吸を繰り返すばかりで、意識は既にない。
 遭難者達は、比較的乾いた岩場を探し、凍てついた風よけに船や帆布の残骸を使って、ささやかな避難所作っていた。
 その中で、冒涜者の眼差しは、息苦しいものとなっている。
 困惑した青年は、笑い飛ばそうと試みた。
「聖者殿…お戯れも過ぎましょう。ただ人に、何を期待なさるのです。私は、一介の商人…というか、海賊でしかないのですよ。しかも、遭難中の」
 冒涜者の応えは、エリーティルが、避けようとする核心を容赦なく突いた。
「では、貴方は、彼に会いたくないとおっしゃる」
 たかが、物語…それも、寺院の忌避する冒涜の…なのに、彼は、異様なほど熱い眼をしている。
 何という狂信なのだ。
 彼は信心深い故に異端なのだ、と言った、サルフィの言葉を思い出す。
 エリーティルは、これ以上、冒涜者と一言も口を交わすべきではないと知りつつも、その誘惑に勝てなかった。
「…彼とは、誰です」
 異端の聖者は、その深く甘い声で告げた。
「もちろん、凍土に封じられた悪鬼。そして、聖女ケリュスの御子にして、聖母ヴラウディリの兄、最後の聖司でもあるヴラジュオン・ロスケリスに」



(終章に続く)

 

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