INDEX|物語詰合せ

       
 

 


◆目 次◆

序 章
第一章

第二章
第三章
第四章
第五章
終 章



 
    
  第三章 白き苑の守護者

      一冒涜

 忌むべき物語を、密かに受け継ぐ一族があった。
 時を経て、禁忌を侵す者あり、異端の伝承を白昼の下に晒す。
 冒涜者は、愚かさの代償に半顔を焼かれ、闇へ追われたという。


 海鳥が、石畳を掠めて飛ぶ。
 そこここで、銅鑼が打ち鳴らされ、数え切れない程の艀が、巨大な商船の間を縫うように行き交う。
 この数日よい風が吹き、港町は、出入りする商船で賑わいを見せている。
 桟橋では、多くの荷運び人夫が、陽気な掛け声と共に荷を担ぎ上げていた。
 その荷の持ち主達は、大抵、王城近い高台に店を持っている。
 彼らは、そぞろ歩く優雅な衣の貴人を、相好を崩して招いた。
 金銀細工に、貴重な宝玉。精緻な図案の壁掛け、錦糸を織り込んだ上等な敷布。異国の香料……
 商人達は、上客に、そっと囁く。
「貴方だけに、秘蔵の品を、お見せいたします。さあ、どうです。これを手にする為に、どのような冒険を、しなければならなかった事か……」
 客人は、取引自体も、もちろん、供される蜜菓子や、香り高い異国の茶、眉唾物の冒険談にさえ、大いに興じる。

 そんな賑わいを尻目に、追う者と追われる者がいた。
 人波の中で、押されたり、突き飛ばされた人々の不審と不快の視線が、捕り物を見送る。
「僧兵か」
 白い聖杖を携えた兵は、いずれも屈強な若者だ。
 では、冒涜者が追われているのだ。人々の関心は逸れた。
 冒涜の罪人を罰するのは寺院。
 これは、自分達の日常には、係わりのない事だ。
 誰も彼もが、肩を竦めて、やり過ごす。

「こちらだ。異端の聖者殿」
 路地に逃げ込んだ所で、思わぬ声が掛けられた。
 冒涜の罪人が、訝しげに目を細める。
 助っ人は、苛立たしげに、舌を打った。
「何をしている。急げ」
 追っ手の足音が、近づいていた。
 すぐにも、追いつくだろう。
 金と翡翠の指輪を嵌めた指先が、罪人の外套を捕らえ、路地の奥へ引き込んだ。
 十一弦聖琴が、かすかな悲鳴を上げる。
「待て」
 先駆けた僧兵が、喚く。
 罪人を背に庇った男が、不敵に微笑んだ。
「間に合わなかったか。仕方ない。まったく、仕方ないな。旅立ちの日に、罪の上塗りをせねばならないとは。異端の語り手よ。お前のせいだぞ」
 罪人は、紺碧の双眸を瞬かせた。
「警告を無駄にされたのは、貴方だ。賢明ではなかった主よ」
 エリーティルは、帯に仕込んだ短刀を抜く。
「まったくだ」
 僧兵の鉄杖が、振り下ろされる。
 罪人を庇う男は、敢えて避けない。
 つと、左腕が上り、聖なる杖を掴み止めた。
 驚愕する僧兵の鼻先を、からかうように、弓なりの刀身が一閃する。
「貴様、何者だ。罪人を庇うか」
「死にたくなかったら、聞かぬことだ」
 聖杖が引かれ、前のめりになった僧兵の鳩尾に、湾刀の柄が入る。
 崩れ落ちる男の向うに、新たな追っ手が、姿を現した。
「聖職者を害すのは、験が悪いな。逃げよう」
 エリーティルは、冒涜者を伴って、港町の複雑に入り組んだ路地を駆け抜けた。
「何故、ここへ」
「お前を迎えに。なにしろ、賢明ではないから」
 異端の聖者は、前を走る男の背に問いかけた。
「その御姿は?」
 この港町の商人の束ねは、昨夜まで、確かに贅を尽くした装いをしていた。
 ところが、今や、一介の船乗りか人夫のように、そまつな粗布をまとっている。
「寺院のお怒りを買ってしまったし、牢屋行きなら、いっそ元に戻ろうかと思ってな」
「元、とは」
「死んだ親父の跡目を継いで、この港の会頭になる前は、海賊だった。不良息子でね」
 海賊上りの商人などとは、きな臭い事この上なかった。
 しかし、この元海賊は屈託がない。
 後ろめたいことなど、何一つないかのようだ。
「不良に、戻るわけですか」
「海賊に、な」
 元海賊は、陽気に笑う。
 商人の長としての男は、老成した雰囲気があったが、髭を剃り落とし、船乗り風に髪を短く刈った男は、どう見ても、二十そこそこの青年だった。

 路地を駆け抜けると、視界一杯に海が広がる。
 港の端の朽ちかけた桟橋に、旗のない船が横付けされ、黒檀のような肌をした男がいた。
「旦那様。急いで」
 破れ鐘のような声が叫ぶ。
 エリーティルは、片頬で笑った。
「旦那様は、やめだ。ちゃんと呼べ。バハディース」
 神妙だった黒い顔が、笑み崩れる。
「おかしら。急がんと、尻に火がついてますぜ」
 追いすがる僧兵が、数を増している。
 捕り物で頭に血の上った兵は、不器用に人込みにぶつかり、気の荒い人足達に、罵声を浴びせられていた。
 黒く逞しい腕が舫綱を解く。
  エリーティルは、桟橋にかかった追っ手の足元へ火薬玉を投げた。
 朽ちかけた橋が派手に砕け、僧兵の足が止まる。
 待ち兼ねたように、帆が風を孕み、旗のない船が動き出した。
 一足先に乗船したバハディースが、縄梯子ごと、エリーティルと異端の聖者を、甲板へ引き上げる。
 件の船は、商船の合間を、巧みに擦り抜けた。
 帆桁や甲板の、そこかしこから声が掛かる。
「おかしら、よくも、陸で二年も我慢できたな」
「俺ら、賭けに総負けだぜ」
「そうだよ。さっさと帰ってくれれば、ちっとは、せしめられたのによ」
 船員達は、一癖も二癖もある笑顔で、主を迎えた。
 エリーティルは、手を挙げて騒ぎを制する。
「待て待て。その前に、一発二発、かまさないと、追いすがられるぞ。景気よくいこうぜ」
 言うや否や、砲門が開かれる。
「沈めるなよ。いくらなんでも、罰当たりだからな。そう、でっかい帆柱を吹っ飛ばせ」
 轟音とともに、寺院に所属する大型船の帆柱が吹き飛んだ。帆に火がつく。
 とてつもない大騒ぎを背に、海賊旗が上る。
 今や正体を現した海賊船を、どよめきと怒り、そして、こっそりと、喝采が見送った。
 彼らに、追いすがる者はない。




「若君を、置いて来られたのか」
 亜麻色の髪が、潮風に吹き攫われる。
 半顔を焼かれた男が、尋ねた。
 海賊の長は、肩をすくめる。
「当たり前だろう。サルフィには、やくざな稼業を知られたくないからな」
「友に黙って去られては、嘆かれるでしょう」 
「挨拶はしたさ。港の会頭は、しばらくぶりに、自ら買い付けに赴いた事になっている」
「なるほど。でも、お寂しいでしょうね。あの方は、貴方を、父のように慕っておいでだったから。兄…のように、でしょうか」
 エリーティルは、複雑な表情を見せた。
「実際、弟だ。末の異母弟にあたる。手癖の悪い親父が、貧乏貴族の姫君に生ませた。だが、腐っても貴族さ。商人ふぜいの父を持つくらいなら、私生児でいいというわけで、サルフィは、自分の出生を知らない」
 冒涜者は、なるほど、と、小さく呟いた。
 エリーティルは、罪人の端正な横顔を、溜め息交じりで眺めた。
 この冒涜者に、ここまで係わろうとは、思わなかった。
「異端の聖者殿。お前を船に乗せたのは、街に残すのが心配だったからだ。サルフィが、あの物語りに、また誘惑されかねん」
「甘やかしておられる」
 エリーティルは、諸手を挙げて見せた。
「その通り。だが、それで、命拾いしたと思うなら、ほっといて貰おうか。ついでに、適当な港まで送ってやる。それからは、好きにしろ」
 立ち去ろうとした青年に、深く甘い声が尋ねる。
「冒涜の罪から、弟君を遠ざける。それだけの為、だったのですか」


 船長室の揺れる灯火の下で、黒い無骨な腕が、香り高い茶を、小さな陶器の椀に注ぐ。
バハディースは、潮風で嗄れた声で、若い主に尋ねた。
「おかしら。罰当たりな続きとやらは、聞かなかったんで?」
 エリーティルは、顔を顰めた。
「お前、聞きたいのか」
「中途だと、何やら、この辺につかえちまってね」
 バハディールは、黒檀のような胸を摩る。
 エリーティルの、金と翡翠の指輪を嵌めた指先が、刈り込まれたばかりの髪をかき回した。
「お前も、たいがい罰当たりだよ。聞きたきゃ、奴に、物語をしてくれと、乞えばよかろうに」
 黒い巨漢は、大袈裟に身震いして見せた。
「とんでもない。旦那様からで、結構でございますともですよ。おかしら」
「罰が当たるのは、旦那様だけで結構、と聞こえるな。お前は、下手な敬語なぞ使わず黙ってろ」 
 バハディールは、黙って、片方の眉を上げた。
 主は、照れたように笑う。
「さて、罰当たりな旦那から、罰当たりな手下に、罰当たりな続きを聞かせてやろうか……」


 三つめの物語りは、こうして語られた。





      二 白い苑の娘


 聖司テュイルの代が終わると、霊峰の地の守護は、聖司カイに継承された。聖司の戴冠に伴う祝祭は、聖地を覆う陰りを、一時拭い去ったという。
 

 目覚めた時、どうしたはずみか、涙が一筋、こぼれ落ちた。
 柔らかい日差しが、寝台に降り注いでいる。
 細く高い柱、優美な曲線を描く調度、白い漆喰の壁。
 そこは、山の民の小屋でもなければ、修学の塔でもない、見知らぬ部屋だった。
 義兄が、いない。
「カイ…」
 記憶が、曖昧に途切れている。
 胸に鈍い痛みがあった。
 指先で探ると、包帯に触れる。
 これは、何の怪我だったろう。
 また、義兄が、手当してくれたのだろうか。
 ヴラジュオンは、慎重に寝台から降りた。
 辺りは静まり返り、まるで人の気配がない。
 どこからか、甘い香りが、風に運ばれて来る。
 誘われるように、紗の帳をくぐり抜けると、そこは、庭に面した露台だった。
 眩しいほどに白い花々が咲き乱れ、最も天に近い聖峰が、純白の姿を間近に見せている。
「ここは……」
 聖なる峰を臨む空中庭園は、霊峰の民の巧みな設計で、どこまでも広がって行くように見える。
 ヴラジュオンは、素足のままで露台を降り、白い花の苑を歩いた。
 ここは、母がいた苑。
 山の民ガデルが、聖女ケリュスを得た場所だ。

  父は、聖司の結界を越え、霊峰から聖女を奪い妻とした。
 母は、故郷を捨て、同胞を捨て、生涯を敵地で生きた。
 どうして、そんな事ができたのか。
 二人とも、ヴラジュオンが覚えている限り、何一つ困難などなかったように微笑んでいた。
 バルデの一族も、苦笑いとともに、長夫婦を見守っていた。
 父は、狩りや戦いから戻ると、まず、その腕に母を抱き、灰青の瞳で愛しげに見つめた。
 やがて、呆れ顔で待つ幼い息子に、少しはにかむような、晴れやかな笑顔で振り返るのが、常だった。
 だが、二人とも失われた。
 まず母が死に、時を置かず、父が、霊峰神殿の追っ手を道連れにして、火に包まれ死んだ。
 残されたヴラジュオンは、その日の内に、霊峰の地へと攫われた。
 霊峰神殿の神官は、ヴラジュオンを、純血の霊峰の民だという。
 聖女は、夫なくして子を産む。
 山の賎民の血など、一滴も引いていないのだと。
 そうして、父も母も失い、信じていた己の出自さえ失った。
「バルデ一族の長を殺した霊峰の民、引き換えに、お前達の守護者、聖司を殺す」
 ヴラジュオンには、報復の誓いだけが残っていた。

 記憶に、奇妙な空白があった。
 思い出そうにも、けだるさが、思考を妨げている。
 ヴラジュオンは、小さく溜め息を漏らすと、花の中に座り込んでしまった。
 ぼんやりとしていた少年の目の前で、いきなり花がむしり取られる。
 驚いて見上げると、白い腕が、次々と花をむしっていた。
 摘むと言うより、むしっているとしか言いようのない勢いだ。
 ヴラジュオンは、立ち上がった。
「何をしているんだ」
 花をむしっていた人影が、悲鳴を上げてしゃがみこむ。
 小柄な少女だった。
 長い薄茶の髪が、背を覆って震えている。
 しばらくして、少女が、そっと顔をあげた。
「まあ…」
 後が続かない。
 ヴラジュオンは、無遠慮な視線に閉口した。
「なんだよ」
 少女が、弾んだ声で尋ねる。
「ケリュス様?」
「ケリュスは、母だ」
 歓声と共に、手が伸びて来た。
「そっくりね。まぁ、そっくり。ねぇ。そんなに、顔をしかめたら、だめよ。ね。笑ってみて」
 少女は、ヴラジュオンが面食らっている間に、人形にでもするように、髪や頬を撫で回した。
「やめろよ。お前、誰だ」
「アルウィスよ。ね。同じ年くらいよね。やっと、ここに来てくれたのね」
 ヴラジュオンは、真っ赤になって、少女の手から逃れる。
 アルウィスは、少々年上に見えた。そのくらいの女の子にしては、気安すぎる。
「ここって、何だ」
「聖女の塔よ。私、他の聖女様方と、ずっと年が離れているの。寂しかったわ。友達が欲しかったのよ。ケリュス様が、山の民に攫われなければ、貴方は、産まれてすぐに聖別されて、塔へ来たわね。そうしたら、私達、姉妹みたいに育ったかしら」
 少女は、とんでもない勘違いしたまま、はしゃいでいる。
 間違いを正そうにも、口を挟むすきがない。
「貴方が来て、嬉しいわ。ねぇ。名前は?どうして、男の子みたいに話すの?」
「ヴラジュオン。俺は、男だ」
 アルウィスは、笑った。
「嘘よ。聖女の子供は、聖女の名に因んで、名付けられるわ」
 ヴラジュオンは、思いがけなく、自分のもう一つの名の由来を知った。
「そういう名は、ロスケリスだ。男だぞ」
「ロスケリスね。おと……」
 嬉しそうに頷きかけた少女の笑顔が、途中で消えた。
 また、しゃがみこんでしまう。
 アルウィスは、精一杯、険しい声で尋ねた。
「何で男が、ここにいるの」
「それは、こっちが、ききたいんだ」
 子供達は、途方にくれて、見つめ合う。
 幼い聖女は、少年の襟元から覗く包帯に気づいた。
 顔色も悪いし、ふらついているように見える。
「怪我か病気の療養で、塔に預けられたの?」
 それなら、分かる。
 病棟から迷い出してしまったのだろう。
 一人前の聖女は、療法師でもある。
 少年の応えは、歯切れが悪い。
「ああ、手当してくれたみたいだな。そう、俺は、戦ったんだ。それで…」
 ヴラジュオンの記憶は、何かに遮られて、曖昧に途切れていた。
 だが、意識してしまえば、呪縛は、それ程強いものではない。
 アルウィスは、不思議そうに首を傾げた。
「戦う?」
「戦った。敵と…」
 聖司テュイルと、あの闇と……
 幼い聖女は、無上の信頼を見せて言った。
「敵なんていないわ。聖司様の結界の内だもの」
 紺碧の双眸が、昏く陰った。
 敵だ。
 ヴラジュオンは、父の死の報復に、霊峰の聖司を、敵と定めたのだ。
 アルウィスは、少年の手をつついた。
「ねぇ。塔へ入りましょう。まだ、具合よくないのでしょう。中で話しましょうよ」
「話?」
 アルウィスは、意味ありげに言った。
「どうして、私が、ケリュス様の顔を、知ってると思う?ね。知りたくない?ねぇ。まだ、外にいたら、身体に悪いんじゃない?」
 アルウィスの誘いは、気遣いと好奇心が入り混じっている。
 ヴラジュオンは、幼い聖女に手を取られて、塔へ戻った。
「むしった花、どうするんだ」
「むしったんじゃないわ。摘んだのよ。祭壇に捧げるの。ほら、手伝って。重くはないでしょう」
 山の民は、他の部族の女でも大事にする。
 山の民に育てられた少年は、黙って花束を抱え上げた。
「ついて来て」
 幼い聖女は、ヴラジュオンを、祭壇のある広間に導いた。
 花を飾ると、ごく短い祈りを捧げる。
「さ、ここよ」
 広間の脇には、優美な曲線を描く花々の浮き彫りに隠された、控えの間がある。
 アルウィスは、明かりを、祭壇から借りて掲げた。
「ほら」
 ヴラジュオンは、目を瞠った。
「これは……」
「あれは、代々の聖女よ。ケリュス様が、わかる?今の貴方に、そっくりだわ。ロスケリス」
 ヴラジュオンと、同じ年頃のケリュスがいた。それは、神話の一場面らしき巨大な壁画で、幾人もの聖女の姿が、巧みに組み込んである。
 アルウィスは、胸をはって言った。
「ね。間違えても、無理ないでしょう。ロスケリス。貴方は、このケリュス様に、そっくり」
 そうかも知れない。ヴラジュオンは、黙って肩をすくめた。
「私ね。ケリュス様が、一番好きよ。ほら、金褐色の髪が、へたな金髪より豪華で、小さいのに、すごく威厳があるのよね。瞳の色が……」
 アルウィスは、振り返ると、少年の紺碧の双眸を覗き込んだ。
「…すごく奇麗ね。いいなぁ」
 どうも、口を挟む隙がなくなる。少女は、次から次ぎへと、囀り続けた。気ままに鳴いてはばたく、小さな鳥のようだ。
「ね。黙ってないで、教えて」
「何?」
「ずっと、気になってたの。ケリュス様は、どうして、おとなしく、山の民に攫われたの。代々の聖女の中でも、傑出した力を、お持ちだったのに」
「そんなの。父さんが…ガデルが、好きだったからに決まってる。俺が覚えてる限り、父さん以外には、目もくれなかった……」
 小さな聖女は、ヴラジュオンが、はっとするくらい顔を輝かせた。
「そうよね。よかった」
「よかった?」
「そうよ。よかったでしょう?」
 アルウィスは、幸せそうに微笑んだ。
 幼い聖女は、癖のない薄茶の髪を、ふわりと舞わせる。
 ヴラジュオンも、その視線を追って、壁画を振り仰いだ。
「お前の絵は、どこだ」
「まだ、よ。これから、描き込まれるの」
 ヴラジュオンは、壁画に描かれた一人の聖女に目を引かれた。
 誰かに、似ている。
「カイ…」
「聖女カセリス。新しい聖司様の、お母様ね」
 淡い金の髪と、水色の双眸、白い面の、穏やかな優しい微笑み…。
 始めに、カイは、母が聖女だと言った。だが、それ以来、母親の話はしない。人のよい義兄は、父母を亡くした義弟に、遠慮していたのだろうか。
「カイは、母親に、会いに来るのか」
「あら、いいえ。だって、聖女は、子供を産んだら、死んでしまうのだもの。ケリュス様は、特別なのね。貴方を産んでも、生きていらしたのでしょう」
「聖女は、子供を産んだら…死ぬ」
 ヴラジュオンは、驚いて、少女を振り返った。
 そういうアルウィスも、聖女だったはず。
「聖女でなくても、子供を産む時、女は、ほとんど死ぬわ。山の民は、違うの」
「違う。霊峰の民は、弱いんだな」
 山の民だって、お産で死ぬ女が、いないではないが、そんなのは、例外中の例外だ。
 アルウィスは、後ろで手を組み、二、三歩下がって、壁画を眺める。
「私、ケリュス様が、一番好きよ。ケリュス様が、山の民を、お好きで、よかったと思うわ」
 そう言う少女の横顔は、どこか寂しげになった。


 仄暗い控えの間に、新たな明かりが、差し込んだ。
「聖女アルウィス。誰か、そこにいますか」 
 療法師である聖女が、子供達を捜しに、祭壇の間にやって来たのだ。
「聖女セズフィス。こちらに、聖女ケリュスの御子ロスケリスが、いらっしゃいます。迷い込んでしまわれたそうですの」
 アルウィスは、すまして応えた。
 年かさの聖女は、柔らかく微笑んだ。
「そう、ロスケリス。ここは、聖女の塔です。聖司様の意向で、治療の為に、一月余り、眠っていただきました。初めにご説明するべきだったのですが、目覚めの時刻を、読み違えてしまったようです。許してくださいね」
 療法師の腕が、差し伸べられる。
「まだ完全では、ありません。骨を折っていたし、ひどく血を失っていましたからね。もうしばらくは、療養しなければなりません」
 ヴラジュオンは、聖女の手を避けた。
 記憶を曖昧にしていた戒めが、解けて行く。
「カイが、俺を治療しろと、そうしろと言ったのか。何の為にだ。だいたい、お前達は、俺が何をしたのか、分かっているのか」
 驚いたことに、死を覚悟させた戦いの傷痕が、ほとんど痛まない。
 自分は、霊峰の守護者たる聖司と戦った。
 なのに、治療して…生かしておくのか。
 療法師は、混乱している患者に、哀れむように微笑みかける。
「ええ。お気の毒でした。聖司テュイルの結界が裂けた時に、居合わせてしまったのですね。聖司の塔などは、落雷で、半壊しました。聖司カイが、ご無事で、すぐに結界を引き継がれたので、他に被害は、なかったのですが……恐ろしい夜でした」
 ヴラジュオンは、低く呻いた。
 聖司テュイルとの戦いは、なかった事にされている。
 目の前の聖女達は、実際、何があったか、疑いもしないようだ。
 そして、聖司…カイ。今や、聖司は、カイなのだ。
「カイに会いたい」
 聖女セズフィスは、頭を振った。
「聖司様が、そう望まれれば、お会いできます。でも、私達から、出向く訳にはまいりません。それに、ロスケリス。あの方のことは、聖司カイと、お呼びするべきですよ」
「カイが、そう呼べと言ったんだ。どこにいる」
 聖女セズフィスは、少年のきつい眼差しに、思わずたじろいだ。
 声を失った聖女にかわって、少女が応える。
「もちろん、再建された聖司の塔に、いらっしゃるわ。聖司様が、聖堂を離れることはないもの」
 ヴラジュオンは、幼い聖女を見た。
「ありがとう」
 それだけ言うと、聖女達を背にして、歩き出す。
 聖女アルウィスは、少年の後姿に呼びかけた。
「どこへ行くの。無理よ。招かれていないのに」
 神官や神殿兵に、止められ、罰を受ける。
 それが、わからないのか。ロスケリスは、振り返らない。
 少女は、悔しそうに、小さく呟く。
「行っちゃうの。せっかく、会えたのに」



 ヴラジュオンは、かつて、駆け抜けた道を、ゆっくりと辿った。
「カイ」
 神殿の中は、完璧に修復されていた。
 一度は打ち破った青銅の扉が、行く手を遮る。
 この向うに、聖堂があり、聖司となったカイがいる。
 拳を青銅に打ち付けた。だが、分厚い金属の固まりは、びくともするものではない。
 魔力を封じられたヴラジュオンは、病み上がりの子供に過ぎなかった。
 カイを殺すどころか、会うことすらできない。
「いずれまた、この扉を打ち砕いてやる。そして、バルデの長を奪った代償に、霊峰の聖司を殺す。父さんの仇、山の民の敵を」
 そして、もう一つ。
 霊峰へ連れ去られたと同時に、ヴラジュオンと山の民の絆は、断ち切られたのだ。
 このままで戻れば、彼らは、疑うだろう。
 所詮、仇も打てぬ『霊峰の卑怯者』、やがては、その血に従って、山の民を裏切るのだ、と。
 山の民として、父の子として、身の証しの為にも、殺さねばならない。
 聖司…カイを。
 ヴラジュオンは、開かない扉に額を寄せた。
 微かな不安がある。
 この扉に阻まれなかったとしたら、殺すことができたのか。
 自分は、カイを殺せずに、安堵してはいないか。
 卑怯者の名にふさわしく、惰弱な心しか持てず、父の仇を…カイを殺せず、…帰れない……
 記憶とともに蘇った焦燥が、じりじりと、ヴラジュオンの心を苛む。傷ついた少年は、呻いた。
「バルデに帰る。ガデルの息子として、…仇を討つ…聖司が、お前でも…カイ……」 


《……ヴラージュ》
 穏やかな声が、頭の中に響いた。
「カイ」
《……君は、帰れない…》
 ヴラジュオンは、吐き捨てるように言った。
「俺には、できないと言うのか」
《……いいや、ヴラージュ。君の心の問題ではない。君が、どれほど強くても、私に、君を手放すつもりがないから…だから、帰れない…》
 ヴラジュオンは、唇を噛んだ。
 青銅に打ち付け傷ついた拳から、血が伝い落ちる。
 痛みは感じなかった。
 お前に慰められて、喜ぶと思うのか。何故、今さら、義兄としての気遣いを見せる。
 まだ…、元の義兄のままなのだろうか。
 ヴラジュオンは、一瞬のためらいの後、囁いた。
「…カイ。それなら…戻ってくれ」
 応えは、なかった。
  応えが、あろうはずはなかった。
 聖司の守護がなければ、霊峰は、滅びるのだから。


 アルウィスは、聖女ケリュスの息子が戻るのを、辛抱強く待った。精一杯背伸びをして、塔の尖頭窓から、病棟の出入り口を窺う。
 陽が沈み、霊峰神殿に無数の灯火が掲げられた頃、神殿兵が、聖女の塔を訪れた。
 兵士が去ると、療法師が、慌てたように病棟へ入る。
 アルウィスは、窓のある階段を駆け降りた。
「聖女セズフィス」
 年かさの聖女は、驚いたようだった。
「まぁ。こんなに遅くまで、起きていらしたの。どうされました」
「あの…ロスケリスは、神殿兵に、ひどく叱られたのですか…手当がいるくらい?」
 聖女セズフィスは、瞬きをした。
「いいえ。体調が戻らぬうちに、無理をされたので、倒れてしまわれたんです」
 聖女アルウィスは、ためらいがちに尋ねた。
「それで、また、治療で、何日も眠るようですの」
「いいえ。明日には、目覚められますよ」
 少女は、顔を輝かせる。
「よかった。ありがとうございます。聖女セズフィス。おやすみなさいませ」
 幼い聖女は、療法師の応えを待たず、軽い身のこなしで踵を返した。



 聖女アルウィスは、朝の勤めを終えた後、病棟の露台に、さりげなく近づいた。
 白い花々が含む朝露で、足先や聖衣の裾が湿る。
 病人が、気が付き、起きて来てくれないだろうか。
 そんな期待をもって、見上げる。
「ロスケリス」
 小声で呼んでみるが、返事はない。
 まだ眠っているのだろうか。
 しばらく迷ったが、決心して、露台への階段を昇る。
 そっと、部屋に入った。
 沈静効果のある香が、焚かれている。
「あら。これじゃ、起きないはずだわ」
 幼い聖女は、思案顔になったが、すぐに微笑んで、香炉に蓋をしてしまった。
「だって、昨日から、ずっと待ってたんですもの」
 言い訳しながら、寝台の少年を覗き込む。
 右手に、新しい包帯が巻かれている。何があったのだろう。
「ロスケリス」
 もう一度呼ぶと、少年の寝顔が顰められた。
 香のせいだろうが、まだ、起きない。
 それに、昨日も思ったが、こんなに奇麗な顔をしているのに、何のためらいもなく鼻に皺を寄せる。
 これは、言い聞かせて、やめさせなくては。
 アルウィスは、少し苛立ち始めた。
 小声で、少年に呼びかける。
「ロスケリス。ロスケリス。ロスケリス。起きて。起きてくれないと、ええと…いたずらするわよ」
 脅しが効果あったのか、単にアルウィスの声がうるさかったのか、ヴラジュオンは目覚めた。
「誰だ」
「アルウィスよ。起きた?」
 ヴラジュオンは、身を乗り出して覗き込む少女に、目を丸くした。
「お前は…」
「だから、アルウィスよ。忘れたの」
「何してるんだ」
 アルウィスは、愛らしい顔で微笑んだ。
「早く、起きて。ロスケリス。お話ししましょう」



 ヴラジュオンは、アルウィスに手を取られて、ゆっくりと歩いた。少女は、楽しそうに話続けている。
 幼い聖女が、ケリュスに抱く敬意や憧れは、ヴラジュオンを戸惑わせた。
 アルウィスが想う聖女ケリュスの姿は、自分の知っている母とは、随分違う。
 第一、母を美しいなどと、思ったことはない。
 痩せていて、少したよりない姿をして、どこか浮世離れした感覚を持っている。
 そう言うと、アルウィスは、難しい顔をした。
「ロスケリス。一つ聞いてもいい?自分の容姿を、どう思ってるの」
「ケリュスそっくりの女顔。どう鍛えても、貧相な筋肉しかつかない痩せっぽち」
 少女は、唸った。
「それだけ?」
 ヴラジュオンは、首を傾げた。
「だろ?何か、変か」
「すごく、美人だと思うけど……」
「ケリュスが?」
 ロスケリスの不審そうな声に、アルウィスは肩を落とした。
 道理で、情け容赦なく、奇麗な顔を顰めるはずだわ。
 自覚がない。
「貴方もね。ロスケリス。すごく、ものすごく奇麗だわ。もしかしたら、ケリュス様よりね」
「何だ。それ」
 アルウィスは、両手を伸ばして、ヴラジュオンの頬を挟み込んだ。真剣な顔をして言う。
「いいから、顔を顰めないで」
 少女の迫力に押されて、ヴラジュオンは頷く。
 少年が素直に従ったので、アルウィスは、すぐに機嫌を直した。
「ね。ケリュス様の事、話して。普段、何をされていたの」 
 ヴラジュオンは、少々警戒して身を引いた。
「何って…、料理はできないし、体は弱いし、あんまり何もできなかった。役に立つって言えば、薬草に詳しかったのと、明日は、晴れるとか、嵐だとか、天気を読むくらいで…」
「天気を読む?何なの、それは。ケリュス様は、いざとなれば、天候を左右できるはずよ。そうされなかったの?大雨や嵐になったら、困るじゃない」
 ヴラジュオンは、少女の言いように目を瞠った。
 確かに、狩りの最中に、嵐になれば困る。
 だが、雨も風も、それなりの役割があるのだ。
 人間の都合で、どうこうしていいものだとは、思えなかった。
「たぶん、父さんが禁じたんだろう。あまり、いいことじゃない」
 幼い聖女は、ヴラジュオンの言葉を、少し違った意味で受け取った。
「そう…ね。よくないわ。力を使い過ぎれば、ケリュス様の命を、縮めてしまったものね」
 聖女アルウィスは、聖女ケリュスの息子を、祭壇に導いた。
 ヴラジュオンから花を受け取ると、昨日と同じようにして捧げる。
 ヴラジュオンは、この明るい声で話す少女の横顔が、いつも寂しげに見えてしまうので、不思議になった。
「アルウィス」
 幼い聖女は、黙って唇に指先を当てた。
 祭壇に向き直ると、細い声で歌い出す。
 その旋律には、覚えがあった。
 詠われている言葉は、古めかしく、意味不明の単語ばかりで、ほとんど理解できない。でも、ヴラジュオンは、よく知っていた。
 聖女の歌に、澄んだ声が加わった。変声期前の少年は、少女よりも高い声を出す。
 アルウィスは、呆然とした顔で、詠い終えた。
「どうして、聖歌を詠えるの」
「聖歌なのか。ケリュスは、子守歌に歌ってたぞ」
「こ、子守歌って…。これは、聖女だけが詠う、賛美歌なのよ」
 ヴラジュオンは、笑った。
「道理で、妙な子守歌だと思った。ケリュスは、これしか、知らなかったんだ。眠気をさそえば、いいでしょうって、言ってたかな」
 アルウィスは、あまりのことに、声を失った。
 聖女ケリュスには、驚かされたが、それより、厳しい表情をしていた少年の、思いがけない笑顔に驚かされた。
 笑うと、奇麗というより、すごく可愛い。
「まぁ。ロスケリス。どうして、女の子に生まれなかったの」
 ヴラジュオンは、むせた。
「何だって」
 聖女アルウィスは、少年の手を取り力説した。
「だって、女の子で、聖女だったら、ここで一緒に暮らせたわ。私、絶対、可愛がってあげるのに」
 ヴラジュオンは、目を丸くした。
 アルウィスは、急に肩を落とす。
「でも、男の子なんですもの。怪我がなおったら、行ってしまう。それで、二度と、ここへ来ないんだわ」
 ヴラジュオンは、幼い聖女を見つめた。
 寂しかったの。友達が欲しかったのよ、と、アルウィスは、初めから言っていた。
 人懐っこい小鳥のような少女が、寂しそうな横顔を見せて、俯いている。
 胸が、酷くざわついた。
「また、来る」
「無理だわ」
「無理か」
 アルウィスは、顔を上げる。
 意志の強い紺碧の眼差しに、見つめられていた。
「来てくれるの」
 異邦で育った聖女の息子は、頷き、幼い聖女は、幸せそうに微笑んだ。
 そうして、幼い約束が、交わされた。


  微かな風が吹く頃、ヴラジュオンは、ただ一人白い苑に佇んでいた。甘い香りに包まれていると、カイの柔らかな呪縛を思い出す。
 呪縛…これも、呪縛なのだろうか。
 白い苑の娘は、ヴラジュオンを捕らえた。
 何を思って、あの小鳥のような少女を、ヴラジュオンの傍らに置いたのだろう。
 ヴラジュオンは、たぶん答えを知っていた。
「カイ。俺が、アルウィスを知ることで、何が変わると思ったんだ。霊峰の民の弱さなど認めない。生きて行く力がないのなら、死ぬのが掟だ」
《例え、そうであっても……》
 カイの声が、聞こえたような気がした。
 風に揺らぐ花々の中、ヴラジュオンは、聖司の塔へ、きつい眼差しを向ける。
「聖司テュイルの予言を、忘れるな。俺は、霊峰の地を滅ぼす」
 そして、霊峰の民であるアルウィスと会い続け、守るだろう。
 聖司カイの願い通りに……
「聖司カイ…お前を、憎む。何より…」
 ヴラジュオンの言葉は、夕闇に溶けた。



 
      三 略奪


 講師グラハンは、通りかかった学生に尋ねた。
「ヴラ…いや、ロスケリスは、休みか」
 スウェインは、首を傾げる。
「今日は、見ません。図書室ではありませんか」
「いや。そこは見た。しかたない奴だ。サボり癖がついたな」
「彼は、必要な講義を修めたと、思っているようです。実際、そのようですね」
「とはいえ、まだ、学生なんだよ。まったく、いつまでも世話の焼ける奴だ」
 ヴラジュオンが、修学の塔に来てから、四年が過ぎていた。学業では、優秀さを見せたが、素行に関しては、相変わらず褒められたものではなかった。
 義兄だった聖司カイから、ヴラジュオンを託されたグラハンは、深い溜め息を漏らす。
 スウェインは、肩を落とした講師に尋ねた。
「進路のことですか」
「ああ。なまじ優秀なもんだから。なぁ、あいつが、神官になったとことか、講師になったとことか、想像できるか。無茶だよな。でも、ロスケリスの成績だと、そういう進路に、ならざるをえないんだよな」
 スウェインは、尖った口調で言い捨てた。
「強いて言えば、神官でしょうかね。聖司カイの引きがあるでしょう。あの山犬でも、聖司様の義弟だったんですからね」
 グラハンは、目を瞠った。
「スウェイン。あれと、友達だったんじゃないのか」
「知りませんよ。あんな奴」
 スウェインは、苛立たしそうに、眉を寄せた。
  かつて、スウェインは、級友達を扇動し、新参者のヴラジュオンを苛めるような真似をした。
 それが、どういう弾みか、途中で親しくなった。
 なったように、見えていたのだ。
「喧嘩でもしたか」
 スウェインは、屈辱のあまり応えられなかった。
 喧嘩になどなるわけがない。
 苛めようが、親しくしようが、結局、自分一人が、じたばたしただけで、当のヴラジュオンが、スウェインに何の関心も払わないのだ。
「あんな奴、知りません。噂通りなら、塔を抜け出してるんでしょう」
「やっぱり、そうなのか…」
 グラハンは、深刻な表情になった。
「私は、知りません」
 スウェインは、顔を背けて立ち去った。
 告げ口の後ろめたさはあったが、忠告を聞かない山犬が、いけないのだ。
 許される訳がない。いずれ罰される。
 聖域たる聖女の塔に、通っているなど……


 聖女アルウィスは、白い苑に一人佇んでいた。
 癖のない髪が、風に靡いて、華奢な首筋を覗かせる。時折、屈み込むようにして、花を摘んでいた。
「アルウィス」
 敬称をつけないで、名が呼ばれた。
「ロスケリス」
 アルウィスは、来訪者を嬉しそうに迎える。
 ヴラジュオンは、四年で、聖女の背を追い越していた。
 少年は、いつものように、聖女から花を受け取る。
「ね。髪が伸びたわね。切らないの」
 アルウィスは、少年の豪奢な金褐色の髪を、眩しげに見て尋ねる。
「山の民は、敵に首を狩られないように、髪を伸ばす。ここでは、髪が長いのは、聖女だけみたいだな。切った方がいいか」
 ヴラジュオンが、自分の髪に手をかけると、アルウィスは、焦って頭を振る。
「だめ。奇麗じゃない。そのままがいいわ」
「別に、首が隠れれば……」
「嫌。だめよ。そのまま伸ばしてみて」
 アルウィスは、ヴラジュオンの手をとり離さない。
 いたずらな微笑みを、淡く色づく唇に浮かべる。
 ヴラジュオンは、咎めるように少女を睨んだ。
「アルウィス。花が落ちる」
 少女が、歌うように言った。
「私の奇麗なロスケリス」
「俺は人形じゃないぞ」
 アルウィスは、不満そうに口を尖らせた。
「四年前は、お人形さんより、ずっと可愛かったのに。生意気になって」
 ヴラジュオンは、つかまれた手を引いた。
 腕の中に、小柄な少女と白い花が、すっぽりと収まる。
 花びらが、少し散ってしまった。
「アルウィス。また、痩せたな」
 ヴラジュオンは、眉を顰めたが、少女は、ただ笑うばかりだ。
「失礼ね。そんなに、抱き心地悪いの?」
 ヴラジュオンは、慌てて手を離した。
「そんなこと、言ってない」
「言ったら、酷いわよ。さあ、行きましょう」
 聖女の足取りは軽く、微笑みは明るかった。
 ヴラジュオンは、花を腕に、ゆっくりと少女の後を追う。


 仄暗い塔の中へ入ると、聖女は、花と祈りを祭壇に捧げた。今日の祈りは、いつもより、随分と長い。
 禁忌を侵し聖域を訪れた少年は、聖女の華奢な背を、静かに見守っている。
 年若い聖女は、祈りを終え、ヴラジュオンの差し伸べた腕にすがって立ち上がった。
 少年の腕はアルウィスを支えて、びくともしない。
 四年前は、アルウィスより小さかった少年が、本当に大きくなった。もはや、少女めいた甘さは、その面差しから消えている。
 すぐに、少年と言うより、青年と言うほうが、ふさわしくなるだろう。
 ヴラジュオンは、黙り込んでしまった聖女に、訝しげにな眼差しを向ける。
「どうした。話があるんだろう」
「あら。見惚れちゃって…ごんめんなさい。ロスケリス。私…あの……」
 アルウィスは、らしくもなく口ごもる。
 ヴラジュオンは、アルウィスの言葉を待った。
「こ…子供を生むの」
 アルウィスは、顔を伏せる。
 異性であることを意識してしまうと、話し辛かった。
「直に十六になるし、神官長から、そうしてもいい時期だと、言われたの」
 聖女のそれは、通常でいう生殖とは、別のものだった。夫を持つ事なく、祈りの力を以て、自らの身体を変化させ、身ごもるのだという。
 そして、子を生めば死ぬ。
 例外は、ただ一人。ロスケリスの母、聖女ケリュスのみだ。
 それも、息子が、十を数えるころに、死んでしまった。
「もう、会えないかもしれない」
 アルウィスが生き残れば、再び会うこともできるだろう。
 だが、そんな可能性は、なきに等しい。
 それでも、子を生む事は、聖女の勤めであり、義務だった。
 ヴラジュオンは、少女の頬に手を添えて仰向かせた。
 静かな声で尋ねる。
「それでいいのか」
 勤めを果たして死ぬこと。
 二度と会えないこと…。
 アルウィスの瞳が、曇った。
「仕方ないの。ずっと、わかっていたもの」
「俺には、分からない。アルウィスが嫌なら、俺が、そんなことはさせない」
 アルウィスは、微笑んだ。
「無理よ」
「…無理か」
 アルウィスは、紺碧の双眸が、苛烈な光を帯びるのを見て、息を呑んだ。
「ロスケリス……」
「アルウィス。嫌だと言え」
 年若い聖女は、魅入られたように頷いた。
「…ええ。ロスケリスといたいの」
 ヴラジュオンは、微笑んだ。
「それじゃ、お前は、俺のものだな」
 アルウィスは、真っ赤になった。
 少年が、どういうつもりで、言っているのかわからない。
「俺の物は、俺が持って帰る。それでいいな」
 年若い聖女は、目を瞠った。




 スウェインは、手にしていた書物を、全部取り落とした。
 何冊かは、彼自身の足を直撃したらしい。
 だが、痛みを感じている余裕は、なかった。
「聖女をさらって、逃げた」
 スウェインの義弟は、顔を真っ赤にしながら、恐ろしい事態を報告した。
「あの馬鹿…犬。そこ…までやるか」
 頭に血が上ったスウェインは、声をうわずらせた。
「義兄上。それで、神殿兵が、この塔に来てます。フルク師が、応対してますが、いずれ、義兄上を呼ぶでしょう。どうします」
「どうするって。何で私を…」
 義弟は、無邪気な瞳をして言った。
「だって、ロスケリスと、一番親しいのって、義兄上でしょう」
 スウェインは、言葉に詰まった。
 皆、どこを見ているのか。
 全然、相手にされてないのに。あんな奴、知るか。
「義兄上。どうかなさいましたか」
「いや。悪いけど、ここを片付けてくれるか。ヴラ…ロスケリスの部屋を、覗いて来る」
 スウェインは、義弟をおいて、ヴラジュオンの部屋に向かった。
 ヴラジュオンは、義兄が聖司になって去った後、同居人をもたず、ただ一人で住んでいた。
 鍵は、かかっていない。
 静まり返った室内に、変事を予想させるものはなかった。
「ヴラジュオンの奴…何、やってるんだ。何で聖女なんだ。他の女じゃ、いけなかったのか」
 ヴラジュオンは、純血の霊峰の民であるにも関わらず、その出生故に、山の民として扱われている。
 彼の母、聖女ケリュスは、山の民に奪われた。
 そして今、二人目の聖女が、さらわれたという。
 山の民のとして育ったヴラジュオンに……。
「父親の二の舞いだ。死にたいのか」
 結界を越え、山の民の地へたどり着いたとしても、神殿兵の追っ手からは逃れられない。
 それを、一番よく知っているのは、ヴラジュオンではないのか。
 ならば、何故……。
 スウェインは、小さく口走った。
「まさか」
「何が、まさか、なのかね」
 戸口に、渋い顔をしたフルク師と、もう一人の男が、立っていた。
 男が、低く抑えた声で尋ねる。
「貴方が、スウェインか」
 スウェインは、身を竦ませた。
 神殿兵の長、タジェン・バウだった。
 修学の塔には、場違いな雰囲気の、そして、霊峰の民としては、規格はずれの偉丈夫の武人だ。
「スウェイン。何が、まさかなのかね」
 鋼色の瞳が、光を鈍くはじく。
 スウェインは、ぎごこちない微笑みを浮かべた。
 握り締めた手のひらに、冷たい汗が滲む。
「まさか、ヴラジュオンが、聖女をさらう程、馬鹿とは、思わなかった……と」
「ヴラジュオン?」
「あ、いえ。ロスケリスが」
 スウェインは、さりげなく目を伏せた。
 目を合わせるだけでも、この眼光鋭い男には、心底を暴かれそうだったのだ。
 しかし、いきなり頤がつかまれ、上向かされる。
「聞けば、かなり優秀な学生だったとか、育った部族に戻る程、馬鹿ではなかろう。山の民の地は、広大だ。奴は、どこに向かったのか。手掛かりがあるなら、知りたい。何を知っている」
 寒気を覚えるほど、冷ややかな声が聞く。
「いいえ。知りません」
 知らない。あんな奴。
 ただ、思いついたことがあるだけだ。
 口に出さないのは、思いつきにすぎないからで、かばっている訳ではない。
 スウェインは、震える声で繰り返した。
「知りません。早く捕まえて…連れ戻してください」
 そうだ。逃げ切れないのなら、傷が浅いうちに捕まってしまえばいい。
 誰しもが、ヴラジュオンは、山の民の地へ逃げると思い込んでいる。
 だが、もしかしたら、結界の内にある森の中かも知れない。
 霊峰の民は、限られた狭い地域に、寄り添うようにして暮らしている。豊かな森の大部分は、無人なのだ。
 神殿兵が、山の民の地を調べ尽くし諦める日まで、隠れている事ができれば……もしかしたら……
 スウェインは、そこまで考えて、自分の思い違いに気づいた。
 聖司カイが、いる。
 あの方の目を、ごまかせるわけがない。
 では、ヴラジュオンは、何を思って聖女をさらったりしたのか。
「聖司カイは、何とおっしゃっているのですか。あの方ならば、すぐに、ロスケリスの居場所を、探せるでしょう」
 タジェン・バウは、少年を放した。
「聖司カイの御手を、煩わせるわけにはいかん」
 スウェインは、神殿兵の長の手を逃れ喘いだ。
 では、ヴラジュオンの勝ちだ。
 彼は、聖女を奪って、逃げ延びる。
 スウェインは、苦く笑った。
「タジェン・バウ。愚かなロスケリスを、お救いください。山の民の地で、彼を捕らえても、あまり惨い扱いをされませぬよう…」
 立ち去りかけたタジェン・バウは、ゆっくり振り向いた。
 低い声が、冷ややかに告げる。
「生きて帰れれば、望外の幸運だ。山犬の為に、祈ってやるんだな」
「…そこまで、親しい友人ではありません」
 だが、逃げ延びればいいと思う。
 確かに、親しくなどなれなかった。
 幸運を祈る以外に、何もできないし、しようとも思わないけれど…
 スウェインは、溜め息を漏らした。
 聖女をさらった山犬の為に、神に祈るのは、かなり勇気のいる冒涜かもしれない。




 ヴラジュオンは、この四年間で、霊峰の地のあらゆる物事に精通していた。
 神官や神殿兵、その他、神殿に奉仕する人々の目を、たやすく盗み、アルウィスを連れ出す。
 聖女の塔を抜け霊峰神殿を出るのに、さほど手間取らなかった。
 霊峰神殿を囲む森から出ると、素知らぬ顔で、人の住むいくつかの集落を過ぎる。
 しばらくすると、周囲は樹海の様相を呈して来る。
 日が傾きかけると、ヴラジュオンは、足元が危うい少女を抱き上げた。
 小柄で華奢な聖女は、片腕で抱き上げることができる。
「ロスケリス。私、まだ歩けるわ」
「無理しなくてもいい。もうすぐだ。目を閉じて、顔を伏せていろ。枝で目をつくぞ」
 アルウィスは、目を閉じた。
 ヴラジュオンの金褐色の髪がかかる肩に顔を伏せる。
「もうすぐ、結界を越えるの?」
「いや。結界は越えない。安心していいぞ」
 アルウィスが、驚いて顔を上げる。
「なあに。安心していいぞって言うのは」
「まるで知らない所へ連れて行かれるのは、怖いだろう。そんな事はしないから、安心していい」
 ヴラジュオンは、微かに笑った。
 アルウィスは、この期に及んで怖がるのは悪いと思っていた。
「怖くなんか…だって、ケリュス様は……」
「ケリュスは、特別だ。だいたい、アルウィスは、身体が弱いんだ。山の民の地へ連れて行ったら、子供を生まなくても、すぐ死んでしまう」
「そんな。でも、だって…」
 それなら、どこへ逃げるのだろう。
 霊峰の地にいる限り、いずれ捕らえられてしまうのに。
 そして、否応無く、引き離されてしまう。
 ヴラジュオンは、混乱した少女を、そっと降ろした。
「でも、少しは、辛抱してもらうぞ」
「ええ。もちろんよ。何をするの」
 アルウィスが勢い込んで聞くと、少年は、また笑う。
 ヴラジュオンは、たいてい厳しい表情を崩さないので、笑顔を見せるのは稀だった。アルウィスは、その度、見惚れてしまう。
「ここで、一晩待っていてくれ」
 ヴラジュオンは、アルウィスの向きを変えさせると、木と蔦に埋もれかけた小屋を見せた。
 それは、童話にでてきそうな小さな家だったので、アルウィスは、顔をほころばせた。
 ヴラジュオンは、短く口笛を吹き、空を仰ぎ見た。
 うっそうと茂る緑の中から、小さな羽音とともに、瑠璃と翡翠の鳥が舞い降りる。
「まあ」
 アルウィスが歓声をあげる前で、ヴラジュオンが、鳥達に何事か言い聞かせる。
「アルウィス。一人では、寂しいだろうから、彼らが、ついていてくれるそうだぞ」 
 アルウィスは、嬉しそうに頷く。
 小鳥が、ヴラジュオンの手から、少女の肩に移り、薄茶の髪をついばんだ。
「ロスケリスは、どうするの」
「追っ手の目をくらませる為に、することがある」
「無茶をしないでね」
「大丈夫。明日の昼前には、戻るよ」
 ヴラジュオンは、不安そうになった少女を抱き寄せた。ほんの少し力を込めれば、折れてしまいそうに華奢な身体が、震えている。
 腕の中のアルウィスが、小さく囁く。
「戻って来てね。ロスケリス」
 瑠璃と翡翠の鳥が、優しい声で鳴いた。



 ヴラジュオンは、アルウィスを森に置いて、一旦、来た道を引き返した。
 注意深く、それまでの痕跡を消す。
 ある程度、神殿に近づいたところで、また向きを変える。
 今度は、枝を折り、衣服の切れ端や足跡を残した。
 それでも、アルウィスがいた時の、何倍もの速度で、森を駆け抜ける。
 結界の縁まで、二刻も費やさなかった。
 ヴラジュオンは、霧のように見える結界に触れた。
 人々が恐れているような抵抗はなく、結界を抜けると同時に、纏わり付いた霧は、風に吹き飛ばされた。
 聖司の結界を越えても、山の民の地へは、たやすく戻れない。
 人知を越える絶壁と、この吹きすさぶ風に阻まれるのだ。
 霊峰でしか役に立たない軽装のヴラジュオンに、容赦のない吹雪が吹き付ける。
 少年は、すさまじいまでの冷気に動じもせず、雪がつくる白い闇を見つめた。
 その向うに、故郷がある。
「今は、まだ。行けない」
 ヴラジュオンは、四年の間に、何度も、ここへ来ていた。
 霊峰の民であることを受け入れないために、山の民であることを忘れないように。
 そして、いつかは、帰るのだと……。
 だが、今ではない。
 ヴラジュオンは、ゆっくり踵を返した。
 今は、霊峰の地に、止まらねばならない。
 アルウィスを守るために。
 聖司を殺し、この地を滅ぼす為に……



 霊峰神殿では、神官長のパル・ハークが、聖司の前に膝をついていた。
「神に選ばれし守護者に、祝福あれ」
「パル・ハーク。どうしたのですか」
 気遣わしげな優しい声に、パル・ハークは身を縮める。
「聖司カイ。我らにとって、御身を煩わす事が、いかに畏れ多いことか。それでも、聞いていただかねば、ならなかったのです」
「貴方の心は、とても乱れている。私の事はいいのです。落ち着いて、話して下さい」
 神官長は、頭を垂れた。
「聖司カイ。聖女アルウィスが、さらわれました。神殿兵が、後を追っていますが、間に合わないかもしれません。御力をお貸し下さい」
「聖司は、霊峰の守護者です。神の祝福により、結界を張り、この地を守ります。その力を、別のことに向けるのは、好ましくないのです。貴方の、神官長としてのお力で、対処することはできないのでしょうか」
 パル・ハークは、紗の帳に映る人影へ、必死の様子で訴えた。
「時をかければ、可能でしょう。でも、待てないのです。一刻も早く、聖女アルウィスを、取り戻さなければなりません。山犬に穢される前に」
 微妙な沈黙が落ちる。神官長は、言い募った。
「申し訳ありません。聖司カイが、義弟だったロスケリスを、どう思われているのか、分かっております。ですが、またしても、聖女を失うわけには、いかないのです。我々には、貴方に続く聖司が、いないのですから。聖司カイよ。神は、我らを見捨てるのですか。力ある聖女は、聖女アルウィスを最後に、生まれません。まして、聖司は、聖女から生まれた者の中から出るのです。彼女から聖司が生まれなければ、我らは、どうなるのでしょう」
 天蓋から流れ落ちる紗の布が、揺れた。
 音もなく、帳が開かれる。
「パル・ハーク」
「おお」
 神官長は、喘いだ。
「聞きなさい。聖女アルウィスから、聖司は生まれません」
「なんと」
「母たる聖女に望まれねば、生まれることはできないのです。聖女は、神の贈り物。彼女達に愛されなければ、霊峰の地は、滅びます。彼女達を、聖別という名で隔離したのは、間違いかもしれませんね。聖女の塔より他を知らぬ聖女が、この地より、一人の人間を愛すのも、仕方ないことと言えませんか」
 聖司の言葉は、優しく、同時に辛辣だった。
 パル・ハークは、青醒める。
「そんな。それでは…」
「パル・ハーク。気持ちを落ち着けなさい。次の聖司は現れます。私は、それまで、何としても、持ちこたえましょう」
 神官長は、呆然として、帳が閉ざされるのを見た。
 聖司の予言。
 では、まだ、霊峰の地は、神に見捨てられた訳ではないのだ。



 神殿兵の一隊は、略奪者の痕跡をたどり、結界の淵に行き当たった。
 若い兵が、白い霧に、脅えた眼差しを向ける。
「やはり、結界を、越えたのでしょうか」
 タジュン・バウは、目を細めた。 
「そういう跡が、残っている」
 ここから先は、聖司の守護がなければ追えない。
 だが、それも、結界を張る以上の力が聖司に、残されていればこそである。
 聖女ケリュスの時は、聖司レルルス、バルギスの二代に渡って、追っ手を放つことが適わず、聖司テュイルの代まで、待つことになった。
 それも、聖女ケリュスは取り戻せず、直後に、弱った聖司による聖餐を招いた。
「小僧め」
 何もかも、承知してやったのか。
 貧しく苛酷な地へ伴えば、聖女の命を損なう。
 追っ手がかかれば、逃げ込んだ先も、無事ではすまない。
 そうして、弱った聖司は聖餐を求め、親しかった者が、犠牲になるかも知れない。
 その全てを、よく知っているはずなのに。
 ある意味、聖女ケリュスを奪った山の民より、たちが悪い。
「これが、報復か」
 微かに違和感があった。
 タジュン・バウは、四年前を覚えている。
 霊峰の民を見据えた、幼い紺碧の双眸。
 聖女ケリュスの面差しを受け継ぎながら、蛮族の長に、驚くほど似た眼差しをしていた。
 賎民である事をわきまえぬ、誇り高い眼差しだった。
 だが、結界を越えた跡は、歴然としている。
「タジュン・バウ。神殿に、ご報告を」
 副官の進言は、正しい。
 今は、結界の先までは、追えないのだ。
 タジュン・バウは、頷いた。


 昏い色の翼を持つ鳥が、神殿兵の頭上を掠め飛んだ。
 そのまま、大樹を目指して、滑空する。
 人目の届かない高みに、人影があり、暗褐色の大きな鳥は、その肩に止まった。
「ああ、ありがとう。よく『見え』たよ」
 ヴラジュオンは、目を貸してくれた鳥を、労った。
 神殿兵の動向に、皮肉な微笑を見せる。
 長くは欺けまいが、時を稼げれば、それでいい。
「さあ、アルウィスの所へ、帰ろう」
 少年は、森に住む獣以上に、しなやかに音もなく木々を伝い、森を駆け抜けた。
 彼を待つ、彼の守るべき者の元へ。
 




 二人目の聖女が、奪われて、一年余りが過ぎた。
 時は平穏の内に過ぎ、埋め合わせのように、幾人かの聖女が生まれた。
 いずれ、彼女達の子供の内から、聖司たる能力を持つ者がでるだろう。
 人々は、神の恵みに安堵し、感謝した。



 スウェインは、休日に、修学の塔から生家に戻ったおり、森を歩いてみようと思い立った。
 消えた学友の事を、考える。
 彼は、結界を越えたのではなく、この森のどこかに、姿を隠したのではないだろうか。
 かつて、森のそこここに、集落があり、多くの人が住んでいたという。
 霊峰の民の人口が減少するとともに、それらの集落は、緑に呑まれ、忘れ去られていった。
 今や、人々は、霊峰神殿の周囲に、ほんの一握りの土地を利用しているのみだ。
 ならばこそ、広大な森の中で、人目に触れず暮らすこともできるはず。
 ヴラジュオンが、聖女を結界の外の苛酷な地へ伴ったとは、思えなかった。

 スウェインが、森に深入りしてしまったのは、慣れないせいだろう。引き返そうとして、振り返ったとき、来た道を見失ってしまっていた。
 それでも、まだ、適当に歩き回れば、すぐに戻れると、たかをくくり、却って、森の深奥に迷い込んでしまった。
 そして、なお悪いことに、飛び立つ鳥の羽音に脅され、二三歩、後退した途端、足元の地面が消えた。
 緑の茂みに隠されていた崖から、足を踏み外したのだ。
 落ちる瞬間、自分と消えた学友に対する罵倒が、頭の中をよぎり、それを最後に、意識が途切れた。


「ヴラジュオンの、馬鹿犬」
「ご挨拶だな」
 スウェインが、飛び起きると、紺碧の双眸と目が合った。
「ヴラジュオンか。お前…」
「ああ。久しぶりだな。スウェイン」
 金褐色の髪が、長く伸ばされている。
 上背のある青年は、腕を組んで、スウェインを見下ろしていた。
 スウェインは、自分が、地面でなく、木製の長椅子に寝ていたことに気づく。
 周囲を見回せば、天井の低い、古めかしい様式の部屋の中だった。
「あ。ええと。助けてくれたのか」
「助けるも何も。人の住まいの前に倒れられては、邪魔で仕方ないだろう」
 ヴラジュオンは、からかうような笑いを見せた。
 スウェインは、驚いた。
 こんなふうに、気安く笑う奴だったろうか。
 何か言おうとして、澄んだ声に遮られる。
「ロスケリス。お友達は、お目覚めになって?」
 ヴラジュオンが、動いた。
 組んでいた腕をほどき、声の主に差し伸べる。
 奥から現れた華奢な人影が、青年の腕の中に、すっぽりと収まった。
 その動作は、見惚れてしまうほど、しなやかで優美だった。
 ヴラジュオンの腕に支えられた少女が、唖然としている客人に、微笑む。
 スウェインは、息を呑んだ。
「聖女アルウィス」
「あら。いいえ。もう、ただのアルウィスよ。ね。ロスケリス」
 確か年上のはずだが、そうは見えない。子供のように、華奢で小柄だった。少女は、甘えるように、自分を支える青年を見上げる。
 ヴラジュオンが、返す微笑みも、スウェインには、思いもよらぬほど優しいものだった。
「アルウィス。彼は、スウェインだ」
「いらっしゃい。スウェイン」
「はあ、お邪魔します…」
 スウェインは、違和感に目眩を覚えた。これでは、普通の新婚家庭を訪問している友人である
 ヴラジュオンは、元学友の目の前で、少女を抱き上げた。
「アルウィス。今日は、もう横になっていろ。つらそうだぞ」
「あら。酷いわ。平気よ。せっかく、お客様なのに」
「客の前で、倒れたいか」
 少女は、形のよい唇をとがらせたが、すぐ諦めて、微笑みを浮かべた。
「スウェイン。ゆっくりしていらしてね」
 スウェインは、少女を抱いて部屋を出るヴラジュオンの背を、呆然として見送った。
 この一年余り、結局心配してしまっていた分、言いたいことは、たくさんあった。
 だが、一人で戻って来たヴラジュオンに言えたのは、まずこれだけだった。
「ヴラジュオン。私は、『お友達』だったのか」
「ああ。学友、だったろう」
 返事は、あっけない物だった。
 スウェインは、あまりの事に、肩へ入った力が抜けてしまった。
「お前という奴は……。いいけどな。よかったよ。とにかく無事で」
 ヴラジュオンは、黙って炉に薪を足した。
「ずっと、ここにいたのか」
「いや、あちこち移動している。アルウィスは、体が弱いから、少しでも楽な所を探した。と、言っても、森の中だけだがな。最近は、危険が減ったようだから、こんな人里近くまで来てしまった」
「危険が減った……」
「聖女が、生まれただろう」
「…ああ。知っていたのか」
 ヴラジュオンは、茶器を用意すると湯を注いだ。
「たいていの事は、な。お前は、こんな所で、何をしていた」
 スウェインは、ヴラジュオンの手慣れた様子に、目を丸くした。
「何と言われても、別に何もしてない。それより、お前に、茶を入れて貰う日が来ようとは……」
「薬湯だ。お前、あちこち打ってるんだぞ。後で、痛みにのたうちたいか。せっかく、アルウィスが、煎じたのに」
 スウェインは、薬湯の苦さに閉口した。
「…何というか、可愛い人だな。でも、どこか具合が悪いのか。病気でも?」
「いや。ただ…もともと体が弱いんだ」
 スウェインは、茶器を小卓に置いた。
「ヴラジュオン。知っていたなら、話が早いんだが、神殿に戻るつもりはないか。聖女が生まれた、今なら、お前達の事も許されるはずだ。何と言っても、聖女の生まれる家系は、限られている。お前と聖女…アルウィスも、次代の聖女を生む結び付きとして、大目に見られるだろう。何しろ、お前は、結界を越えていない。許される余地はある。彼女の体の為にも、戻った方がいいだろう」
 今なら、戻れる。それを、伝えたかったのだ。
 本当に会えるとは、思わなかったが。
 ヴラジュオンは、底知れぬ紺碧の双眸で、友人を見つめた。
「では、神官長に、話をつけてくれるか」
「じゃ、戻るんだな」
 ヴラジュオンは、頷いた。
「アルウィスは、もう永くない。最期は、楽にさせてやりたい」
 スウェインは、言葉を失う。
 ヴラジュオンは、恐ろしい微笑みを見せた。 
「初めから、わかっていたんだ」

 あるはずのない羽音が、夜の森の沈黙を打った。


 ヴラジュオンが、寝室に入ると、寝台に横たわっていた少女が、半身を起こした。
「ね。あの人は、ロスケリスを、ヴラジュオンと呼ぶのね。どうして?」
 ヴラジュオンは、苦笑すると、アルウィスの寝台に腰掛ける。
「修学の塔に来たばかりの頃、俺の名は、ヴラジュオンだと、言い張ったからだろう。何人か、根負けして、ヴラジュオンと呼んでいた。どのみち、正式には、ロスケリスと呼び代えていたけど」
「あら。私も、ヴラジュオンと、呼べばよかったのね。ヴラジュオン…何だか変だわ。ロスケリス」
「ロスケリスでいい」
 ヴラジュオンは、アルウィスを支えると、癖のない薄茶の髪を指で梳いた。
「ええ。ロスケリス」
 アルウィスは、幸せそうに微笑む。
「もう休め」
 ヴラジュオンは、少女をそっと横たえた。
 アルウィスの華奢な指先が袖を掴むと、身をかがめて、唇を軽く触れ合わせる。
「ロスケリス…ごめんなさいね。でも、今まで、一緒にいられて、嬉しかったわ」
「アルウィス。まだだ」
「そうね。まだ、一緒にいられるわね」
 ヴラジュオンは、黙って少女を抱き寄せる。
 ずいぶん痩せてしまった。
 こんなになっても、アルウィスの微笑みは、明るい。
「ね。どうして、お友達に、笑ってあげないの。ちょっと、そっけないと思うのよ」
「笑ってたと、思うけどな」
 アルウィスは、いたずらな微笑みを浮かべ、両手で恋人の頬を抱え寄せた。
「私に、してくれるように、よ。私は、今でも見惚れてしまうのに。もしかして、私以外には、いつも、そんなに怖い顔してるの。皆に怖がられない?」
「どうせ、山の民の中にいたころから、俺は、あまり人に好かれないんだ」
 ヴラジュオンが、苦笑する。
 アルウィスは、歌うように言った。
「馬鹿ね。私の奇麗なロスケリス。笑うと、とても可愛いのに…勿体ないわ。ね。帰ったら…、皆にも、笑って見せてあげるといいわ。皆に、困るくらい好かれるわよ」
「アルウィスだけでいい」
 アルウィスは、青年の胸に顔を埋めた。
「だめ。でも、それも、うれしいかしら。ロスケリス。大好きよ。一緒にいてくれて、ありがとう」
 ヴラジュオンは、少女を抱く腕に、少しだけ力を加えた。
「アルウィス…まだ…だ」




      四 守護


 霊峰神殿は、二年の歳月を経て、聖女アルウィスを取り戻す。しかし、それも、つかの間のことだった。
 聖なる乙女は、目覚めのない眠りにつき、聖女の塔の納骨堂へ、その遺体がおさめられた。
 ヴラジュオンは、亡き聖女の傍らで、ただ黙って喪に服す。
 泣くでもなく、喚くでもない、青年の眼差しは、紗の墓布ごしに、恋人の安らかな面へ、そそがれているようでもあり、何も見ていないようでもあった。
 聖女の死は、奇妙な作用を及ぼした。
 二人を、まるで知らない者達や、蔑みや憎しみを持っていた者までが、同情らしきものを見せる。
 グラハン講師は、誰にともなく言った。
「あいつは、初めて、同胞と認められたわけだ」
 スウェインは、眉を顰めた。
「霊峰の民として、霊峰の聖女を、愛したからですか。逃げ延びれば、略奪者として、謗られただけでしょうに。失ったから…とは、却って惨いです」
 だが、スウェインのような感慨は、少数派だった。


 聖女たる母は、山の民に略奪され若くして死に、修学の塔にあっては、聖司カイを義兄にし、なかなかに優秀な学生だった。
 そして、聖女アルウィスをさらい、二人だけで、二年も過ごす。
 今、その愛しい聖女を失った。
 ヴラジュオンの出生や経歴は、かつて、嘲笑を誘ったものだったが、今や、ロマンティックなものとして、語られている。
 二年ぶりに現れたヴラジュオンの容姿も、それに一役買っていたのだろう。
 聖女ケリュス譲りの紺碧の双眸と、豪奢な金褐色の髪、彫りの深い整った容貌。
 痩身の上背のある、本人の認識ではともかく、霊峰の民の美的感覚では、かなり美しい若者なのだ。
 スウェインは、呟いた。
「あいつ、何を見ているんだろう」
 ヴラジュオンの静かな面には、何の感情も現れていない。
 誰の、どんな言葉も、届いていないようだった。


 鎮魂の時が、終わった。
 アルウィスの死から、七日を数えた朝、ヴラジュオンは、聖女の塔から姿を消す。
 彼が、再び現れたのは、更に、三日後のことである。



「彼が、来る」
 帳の向うから、微かな呟きが、聞こえた。
 燭台を灯していた神官は、驚いて振り返る。
 聖司の声を、直接聞くのは珍しいことだった。
 呼び鈴が、澄んだ音を発てる。
「聖司カイ。何か御用でしょうか」
 ためらいがちに尋ねる若い神官に、優しい声が掛けられた。
「ええ。神官長は、いらっしゃいますか…お願いがあるのです」
 聖司の要望を伝えるべく、若い神官は、駆け出した。粗忽な若者は、聖堂の中を駆け回り、捜し当てた神官長に叱責される。
 神官長は、一抹の不安を抱えて、聖司の居室に伺候した。
 こんなことは、めったにない。
「パル・ハーク。今宵は、聖堂から、人払いをして下さい。もちろん神殿兵も……」
 神官長は、困惑した。
「聖司カイ。神に選ばれし守護者に、祝福あれ。いったい、何事です」
「お願いです」
 聖司に、神官長へ命令する権限はない。
 しかし、聖司の願いを、拒絶する霊峰の民などありえなかった。
 また、聖司を害する者などいようはずもなく、神殿兵による警護も、敬意の現れではあっても、実質的な意味はない。
 聖司の願いどおりにしても、差し支えはないと言える。
「御心のままに。…しかし、何故なのです」
「…お願いです」 
 帳ごしに掛けられる声は、細く悲しげだった。
 パル・ハークは、重ねて問うこともできず、承諾した。

 その夜、青銅の扉は開け放たれ、聖司は、無人の塔で、訪客を待った。



 暖かな外気に触れて、雪が溶け滴り落ちている。
 青年は、外套を脱ぎ捨てると、金褐色の髪を振り立て滴を払う。
 頬には、獣の爪痕が赤い筋を作り、衣服は、雪と泥に塗れていた。
 だが、かまわず、聖域たる霊峰の、最も聖なる守護者の塔へ踏み込む。
 聖堂の中では、無数の灯火が瞬き、花器に盛られた白い花々の輪郭を、柔らかく照らし出している。
 優美な列柱が、高い天井を支え、その隅々までが、精緻な彫刻に埋め尽くされていた。
「六年…」
 呟きが、足音とともに、塔の静寂に溶けた。
  螺旋階段を上り詰めると、巨大な白木の扉に行き当たる。そこにもまた、玉石が象眼され、繊細な彫刻が施されていた。
 青年は、扉に指を這わせた。
「見事だな」
 六年前の凶事の跡は、残されていない。
 修復に要した時間と労力は、どれほどの物だったのか。
 今なら、分かる。
 だが、それを苦にした者も、いなかったろう。
 この壮麗な奥津城は、霊峰の民全ての、敬愛の象徴として、聖司に捧げられた物だったから。

 ……聖司。
 山の民で言う『長』ではない。ただ、霊峰の民に、敬われ愛される者。
 霊峰を守護し、その存在が失われれば、霊峰の地も失われる。

 青年は、微かに笑った。
 ほんの少し力を加えると、扉は音もなく開く。
 聖司の居室は、無数の灯火によって光りに溢れていた。
 六年前の再現だった。
 濡れた衣服から、敷布に、滴がしたたり落ちる。 
  だが、そこに聖司の姿はなかった。
「カイ…」
 ヴラジュオンが、訝しげに、紺碧の眼差しを、無人の室内に巡らす。
 優しい鈴の音が、響いた。
 ヴラジュオンは、音に導かれて居間を横切る。
 紗幕を引くと、そこに、扉が隠されていた。
 扉の向うの部屋では、燭台の明かりを受けて、きらめく水晶が、壁一面に張られていた。
 そして、高い天蓋を持つ寝台が、一つ。
 ヴラジュオンは、天蓋から流れ落ちる紗の帳を、払いのけた。


 そこに、彼はいた。
 義兄は、優しい穏やかな微笑みを見せる。
「ヴラージュ…」
 六年ぶりに聞く声も、覚えている通りだ。
 彼は、両親亡き後、忘れられてしまった懐かしい名で呼ぶ。
 だが、時は過ぎたのに、カイシュオンは、少年のままだった。
 寝台に力無く横たわった少年は、ゆっくりと手を差し伸べる。
「ヴラージュ。大きくなったね」
 ヴラジュオンは、凍りついたように動かない。
 確かに、義兄は、華奢だった。
 だが、十歳だったヴラジュオンにとっては、背の高い、年上の普通の少年で、これほど儚い印象はなかった。
 今の義兄は、ずっと年下のようであり、死の床についたアルウィスよりも、まだ儚く見える。
 そして、淡い金の髪は、色を失って純白に、瞳の水色も、銀に変化していた。
「ヴラージュ」
 ヴラジュオンは、義兄に向かって屈み込んだ。
 カイの指先が、固まりかけた頬の血を拭う。
「まだ、生傷が絶えないようだね。君は」
 義兄の手を掴む。
 ヴラジュオンの手の中の、それは、ほっそりとして華奢だった。
 こんな風だったろうか。
 ヴラジュオンは、鋭い声で尋ねた。
「何故、成長していない」
 本当だったら、義兄は、二十を過ぎた青年のはずだった。
 だが、昔より、幼く見える。
「次の聖司に託すまで、出来る限り長く、持ちこたえねばならない。この身にあるすべての力を、他の何にも費やさず、結界を張り続けることに、そそがなくてはならない。六年間、ずっと微睡んでいたよ」
 日常の生活に費やす力も、成長していく力も、すべて、結界を長く維持することに向けて……
 ヴラジュオンは、唇を歪めた。
「聖餐をとれ。化け物め」
 カイシュオンは、頭を振った。
「決して…」
「何故だ。仕方ないのだろう。聖司がいなければ、この地は滅びる。承知の上で、化け物になったくせに」
「君に、嫌われたくない」
「今さらだな。六年前に、憎んでいると言ったはず」
 カイシュオンは、微笑んだ。
「ああ、わかっているよ。ヴラージュ。私は、君をひどく傷つけた。でも、まだ嫌われてはいないと、思うんだけど…」
 ヴラジュオンのは、義兄から顔を背けた。
「勝手にしろ。お前は、自分のなすべき事を、引き受けただけなんだろう。俺も、そうする」
「聖司を殺すこと?」
 ヴラジュオンは、ゆっくりと振り向いた。
 聖司は、優しい眼差しで微笑んでいる。
「ヴラージュ。君は、今でも、山の民なのか。彼らを愛していた?彼らの元に帰って、幸せになれる?」
 ヴラジュオンは、応えない。
 義兄の白い面を黙って見つめる。
「私は、霊峰の地が、楽園だとは言わない。私達が、山の民より、優れているとも思わない。だけど、君に、ここへ、とどまって欲しい。私の傍らにいて欲しい」
 義兄は、聖司にあるまじき告白を続けた。
「ヴラージュ。聖女の子供として生まれた私には、父もなく、母もない。君が、初めての家族だ。六年前、私の言ったことを、覚えていているだろうか。君を犠牲にしては、聖司になれないと…。誰よりも、何よりも、君を想っている。君は、ここでは、幸せになれないのだろうか」
 ヴラジュオンは、低く抑えた声で言った。
「俺は、戻らなくてはならない」
 カイシュオンは、悲しげに目を伏せた。
「それで、君が、幸せになれるならいい。でも、そうでない事を、君自身が知っているのに」
「それでも…行く。いずれは」
 ヴラジュオンは、懐から掴み出したものを、聖司の寝具のうえに落とした。
「これは…」
 それは、純白の布を朱に染めて、転がった。
 山犬の牙だった。
「お前達には、同じ山犬だろうが、餌付けされたものと、野生のものは違う。野生の山犬は、凶暴だ。山の民でも、一人で対峙するのは避ける。その牙は、餌付けされたものより、鋭くて大きい」
 霊峰の地には、山犬はいない。
「結界を越えたのか」
「結界を越え、山の民の地へ。吹雪や、絶壁を越えて、戻る力があるのか、自分を試した」 
 だが、山の民の元へは、戻らなかった。
 その時は、まだ、来ていない。
 ただ遠くから、彼らの狩りの様子を眺めた。
 それは、知らない部族だが、かつて、父に連れられて行った狩猟の旅を、思い出した。
 獲物の群れを追い込み、槍や弓で仕留める。
 大きな獲物を仕留めた狩人は、子供のように歓声を上げる。
 ヴラジュオンは、彼らに気づかれる前に、その場を離れた。
 六年ぶりに、自らの手で、獲物を狩って捌き、水を探した。
 野外で火を起こすと、羽虫が群がる。
 虫よけの樹液を、集めてなかった事に苦笑する。
 なすべきことは、覚えている筈だったが、忘れてしまった事もあるようだ。
 山を行くうちに、少しずつ過去の生活を取り戻す。
 大きくなった分、楽にこなせるようになった事もあった。
 頬の傷痕は、飢えた山犬の群れに、遭遇したときのものだ。
 群れの先頭をきる巨大な山犬もろとも、切り立った崖から落ちた。深い雪に助けられ、どこも痛めなかったが、共に落ちた山犬とは、半日近く睨み合ったすえ、素手で、その首をへし折った。
 強い獲物の牙や爪は、護符になる。
 ヴラジュオンは、山犬の牙を取った。
 だが、すでに、護符を贈る相手はいなかった。
 アルウィスは、もう何者の守護も、必要としていない。
 そして、自分は、一人なのだった。
 ヴラジュオンは、雪原に立ち尽くした。
 あの聖女をさらった時から、その命が尽きかけている事は、わかっていた。
 かつて、母ケリュスの最期を看取ったヴラジュオンには、よくわかっていたのだ。
 アルウィスの安らかな微笑みと、母のそれが、重なる。
 父の腕の中で、母のぬくもりが消えていく。
 アルウィスの最期の吐息が、抱き締めるヴラジュオンの頬にかかる。
 父は、母の名を呼んだ。
 自分は、アルウィスの最後に、何といっただろう。
 ヴラジュオンは、山犬の牙を握り締めた。
 記憶を振り払い、何も考えずに歩いた。
 三日目には、再び結界を越え、霊峰の民が崇める、最も天に近い、聖なる峰に登った。
 そこには、何もなかった。
 ただ純白の雪が、すべてを覆い尽くしていた。


「神は、いなかったよ」
「ヴラージュ」
「それとも、いるというのか。カイ。ならば、何故、その祝福を受けたという霊峰の民は、これほど、弱くて脆いんだ。知っているか。霊峰の地は、山の民の地にくらべ、ほんの一握りの大きさしかない。霊峰の民は、山の民の一部族ほどしかいない」
 聖司の応えを待たず、ヴラジュオンの弾劾は続く。
「ここは、聖域などではない。苛酷な自然の中に、つくられた避難小屋のようなもの。神のお情けで、やっと生き伸びている儚い一族。しかも、神の情けは、尽きかけている。聖司どころか、聖女すら生まれにくくなっている。それを、分かっているのか」
 聖域の守護者は、穏やかに応えた。
「ヴラジュオン。聖司は、まさに、避難小屋の番人だよ。だけど、私は、聖人君子じゃない」
「人のために、自分の命を削る、お前がか」 
 カイシュオンは、不可思議な眼差しを見せた。
「守護は、常に愛する者の為に、そそがれる。聖司テュイルは、幼かった私の為に、聖司であり続けた。私もまた、霊峰の民すべてを、愛する度量はない。君が、幸せになれるとしたら、山の民の地ではない。だから、霊峰の地を守りたかった」
 ヴラジュオンは、優しく微笑む義兄を見据えた。
「茶番だな。もっと、ましな命乞いはないのか。俺は、お前を殺すぞ」
 かつて、水色だった銀の双眸が、細められる。
「君が、望むなら」
 ヴラジュオンは、再び顔を背けた。
「ヴラージュ?」
「お前は、俺に、アルウィスを与えた。俺は、アルウィスを愛した。だけど、それは、父が母を、愛したようにではない。アルウィスを失っても、俺は生きている。アルウィス以外の事も、考える。俺は、やはり霊峰の民なのか」
 今、お前まで失うのには、耐えられない。
 何という、惰弱な心なのか。
「霊峰の民であろうが、山の民であろうが、君は、君に変わりない。その君を、聖女アルウィスは愛した。私も、君を愛している。そのことを、わかって欲しい。ヴラージュ。君は、本当は、山の民ではなく、ただお父さんのようになりたかったのか」
 父のようにあれたら…愛する者をその手に攫い、愛し守るに迷う事などあろうはずもなく…そうであれば、どんなによかったろう。
 だが、力が足りない。
 まず心が及ばない。
「俺は、霊峰の民にはなれない」
 だが、山の民でもないのかも知れない。
「ヴラージュ。こちらを向いてくれ」
「カイ」
「君の運命を、耐えられるのは、君だけだ。君は、自分が思う以上に、とても強い。君は、私を殺していい。でも、自分を傷つけないで」
 ヴラジュオンは、義兄の真剣な眼差しを、受け止める。
 カイシュオンは、見た目通りの少年のように、真っすぐで純粋だった。
 ヴラジュオンは、苦く笑った。
 身を屈め、純白の少年を抱く。
「化け物になる事も、死ぬことも許さない。いずれ、時が来たら、俺は、この地を滅ぼすだろう。それでも、よければ、そばにいよう」
 この義兄を残して、愛しい者をすべて失った。
 どう心を偽ろうと、これ以上、何かを失うことには、耐えれられないのだ。
「ヴラージュ…」
「その時が来るまで、お前を守ろう。その時が来ても、俺以外の、誰にも殺させない」
 カイシュオンは、義弟の強い腕の中で、穏やかに微笑んだ。


 何年もの空白の後、霊峰神殿に、十余人の聖女が生まれる。
 人々は、神に感謝の祈りを捧げた。
 一人の聖女の死も、その喜びを陰らせなかったという。
 だが、神は、かつてなく遠い。
 待ち望まれた聖司が、生まれるまでは、更に年月が必要なのだ。
 それまでは、ただ、聖司カイによる守護だけが、人々のよりどころだった。 


 聖女アルウィスの死から、十日を数えた夜、ヴラジュオンは、霊峰の守護者たるカイを守る者となった。
 神殿兵の長、パル・ハークは、渋い顔を崩さなかったが、概ね人々は、好意をもって事態を受け入れた。
 異邦で育った同胞が、六年を経て、真実、霊峰の民となったのだと。

 それから間もなく、戦いが、幕を開ける。
 山の民が、霊峰の民へ、戦いを挑み始めたのだ。
 そのとき……


 

      五 三つめの物語り


 嵐が、近づきつつあった。

 大きな揺れが来て、バハディースは、思わず、高価な茶器を抑えた。
「おかしら、無粋なこった。嵐ですぜ」
 エリーティルは、すでに立ち上がり、船室を出ようとしていた。
「冒涜の代償ってわけでも、ないだろうがな」
 甲板へ向かう主に、黒い巨体がつき従う。
「まったく。こんなとこで、邪魔がはいるとは。続きを聞くまで死ねませんぜ」
「バハディース。お前な」
 黒い巨人は、いたずらな眼差しを、主に向けた。
「お互い様ですぜ、旦那様。さっさと、嵐をやり過ごして、続きを聞かせてくだせえますですよ。それから、さっさと、最後の話を、例の旦那から、聞かせていただきませんとですぜ」
「だから、下手な敬語は、止せと言うに……」
 陽気な主従は、嵐に立ち向かう為に、甲板に上った。
 時化た海は、高波を打ち寄せる。
 波を被った船員たちは、それでも不敵な面構えで、船長を迎えた。
「お前達、踏ん張れよ。こんな内海で、時季外れの嵐に負けたら、名折れだぞ」
 エリーティルは、自ら舵を取る。船員達は、心得たもので、何も言わずとも其々の仕事に怠りない。
 波と戦うエリーティルの傍らに、冒涜の聖者が、十一弦聖琴を携え現れた。
「船室に入っていろ」
 冒涜者は、頭を振った。
「お側に……」
 その言葉は、風に散った。
 エリーティルは、陽気に叫んだ。
「生き残ったら、四つめの物語をして貰うぞ」
「仰せのままに」
 紺碧の深い眼差しが、嵐に向かう。
 エリーティルは、見なかった。
 冒涜者の唇が、笑いの形をとったことを。
 バハディースは、不吉な予感に襲われた。
 やはり、これは神罰、とやらなのだろうか。
 悪魔を愛す聖女と、聖司。
 それは、何いう冒涜か。
「おかしら」
 黒い巨人の嗄れた叫びは、届かなかった。
 避けようもない高波が、先に沈んだ船の残骸を、甲板に叩き付けたのである。



 季節外れの嵐が凪いだ後、凶報は、あちこちの港に、もたらされる。
 沈んだ船は、十指に余る程になった。
 その中には、ある港町の会頭の船もあったという。
 自ら、買い付けの航海に出るのは、久々だったという男の不運に、人々は、神罰を仄めかした。
 彼は、寺院を侮り、宴で忌まわしい余興をしたのだという噂だ。
 サルフィは、友の災難に青醒めた。
「エリーティル。私が…悪いのに。あんな物語を、ねだったばかりに…」

 くだんの物語りは、今度こそ、失われたと思われた。
 だが、四つめの物語りも、語られるのだ。
 そして、その後、最後の、かつて、語られたことのない物語までもが、明かされたのだった。
  聖なる十一弦の琴の音とともに……


 

(第四章へ続く)

 

  INDEX|物語詰合せ

     

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