第二章 聖司の戴冠 一伝承
異端の物語を詠む者がある。
それは、奇怪な伝承、聖なる者への冒涜として、寺院の糾弾に、為政者の弾圧に、闇へ追われた。
石造りの館は、穏やかに凪いだ海を臨んでいる。
それは、この港町の商人の長の住まいであり、大きな取引を扱う商館でもあった。
そして、時には、贅沢になれた貴族達でも目をむく、酔狂で豪勢な宴が催される。
かくいう昨夜の宴では、寺院の目をかすめ、異端の礼拝という座興が行われた。豊かな人々は、今や飽食し、戦慄にさえも興じる。彼らは、生け贄の羊の血に酔い、異端の罪人の、罪人として焼かれた、だが美しく厳しい横顔に、溜め息を漏らしたのだ。
明け方、歌姫も舞姫も、過分な祝儀を得、宴も果てた。エリーティルは、客人を送り出し、主としての役目を終えると、友の待つ居間に戻る。
年若い友人は、ほんの少しの仮眠で、生気を取り戻し、いまだ髭のない白い頬を、薔薇色に染めていた。
「エリーティル。さぁ、彼の物語を聴く時だ」
「我が友よ。サルフィ……いますぐに、かい?」
「親愛なるエリーティル。後で、なのかい?」
少年の面影を残す友の哀訴は、商館の主の心を動かした。
エリーティルは、多少感じていた疲れを、脇に押しやって、微笑んで見せる。
「いや、君が疲れていないならば、私も、物語の続きを聞きたい。すぐにでもね」
小さく鈴が鳴り、女奴隷が、飾り紐を引いて入り口の紗幕を巻き上げる。
館の主と友人が連れ立って訪れた客間では、異国から海を越えて運ばれた金銀細工や、何十年掛かで織り上げられた絨毯、精緻な図案の壁掛けが、誰の目を楽しませることもなく、むなしく取り残されていた。
客人は、十一弦聖琴を傍らに、瞑目している。
海風が窓に掲げられた帳を揺らし、朝の清澄な日差しが、端正な横顔を浮かび上がらせた。
エリーティルの傍らで、年若い友が、かすかな身震いをする。
商館の主は、金と翡翠の指輪を嵌めた指先を、異端の聖者へと差し伸べた。
「瞑想のお邪魔をしたのだろうか」
ゆっくりとした瞬きの後、紺碧の瞳が、庇護者を見つめた。身を屈める動作で、亜麻色の髪が、焼かれた半顔にかかる。
エリーティルは、指先に、聖者の冷たい唇を感じた。
「今、我らの為に、かの物語を語ることができようか」
聖者の深く甘い声が、微笑を含んで応える。
「御心のままに。一夜の主よ」
二つめの物語りは、こうして語られた。
二 異邦人
自然の岩山をくりぬき、壮麗な彫刻で埋め尽くした神殿は、霊峰の民の精神的支柱であった。また、それは、この地に、守護の結界をはる聖司の居城でもある。
そして、修学の塔と呼ばれる一角では、親元を離れた子供達が、共同生活を営み、学問を修めていた。
闇が、濃い。
神殿に掲げられた無数の聖火は、星明かりさえかすませ、辺りを明るく照らし出していたが、反面、濃い闇を作り上げている。
ヴラジュオンは、霊峰の幾度目かの夜を、修学の塔で迎えていた。
風の音も、獣の気配や虫の声も無く、静まり返った夜の塔は、到底、人の営みの場とは思えない。
少年は、放心したように、夜の神殿を眺めていたが、やがて木製の窓を閉め、蝶番をかけた。
小さな溜め息が漏れる。
聖火に煌々と照らし出された外より、燭台が一つ灯されているだけの寝室の方が、明るく感じた。
「ヴラージュ。まだ寝ていないの」
軽い足音をさせ、年長の少年が現れた。
ヴラジュオンに与えられた寝室は、義兄となったカイシュオンと、共有のものだった。
「遅かったな」
「ごめん。待っていてくれたのか。少し書き物があってね。もしかして心細かった?」
カイシュオンは、義弟のほっとした様子に、微笑んだ。
霊峰の民であることを受け入れると言いつつ、どこか、頑なな様子をくずさないヴラジュオンも、自分には慣れてくれたのだろうか。
小さな義弟は、金褐色の髪を振り立てて、殊更ぶっきらぼうに応えた。
「どうせ、お前が入って来たら、目が覚めるからな」
「カイだよ。ヴラージュ。お前、は、ないだろう」
「カイ」
「そう。それでいい」
義兄の淡く澄んだ水色の瞳は、親しみと好意だけをたたえている。本当の身内のように。
ヴラジュオンは、目を逸らした。この人の良い霊峰の民と向き合うと、何だか、身の置き場が無くなってしまう。
風もない室内で、燭台の焔が、ふいに揺れ、白い漆喰の壁に映る影が蠢く。
ヴラジュオンは、はた目に分かるほど身を強ばらせた。
「カイ。ここには、何かが……」
「何か?」
カイシュオンは、言い淀んだ義弟を覗き込む。
「いや、いいんだ。もう、寝る」
ヴラジュオンは、自分の寝台に潜り込んだ。
取り残されたカイシュオンは、首を傾げたが、問いただすことはなく、自分も夜着に着替えると、燭台の火を消した。
ヴラジュオンは、寝具にくるまりながら、耳をすませていた。
音が聞こえるというわけではない。ただ、何かが、研ぎ澄まされた神経に触る。
闇の中を、何かが蠢いている。
人でもなく、獣でもない何かが。
「カイ」
応えはない。
だが、義兄の穏やかな寝息が、少しだけ安心させてくれる。
ざらり、と擦る感覚、軋む無人の戸口、音の無い緊張。
霊峰神殿に落ちる濃い闇の中に、何かが潜んでいる。しかし、そのことを、言い立てる者はいない。
ヴラジュオンは、こんなことは、ここでは異様なことではないのだろうと考えた。
奇妙だと思うが、何と言っても、自分は、霊峰の民のことを、何も知らないに等しいのだから。
だが、初めは感じなかったそれは、日増しに力を増し、近づいて来る。悪意をもって。
そう、悪意だった。
修学の塔の住人達は、ヴラジュオンを、義兄のように、快く受け入れることはなかった。
その血は貴い同胞のものであっても、山の民の矜持持った少年は、あまりにも異質でありすぎたのだ。
同世代の少年達は、霊峰の民としての誇りゆえ、異邦で育った少年に、他愛のない反感を持った。
それは、ヴラジュオンが、哀れなか弱い子供でありさえすれば、容易に好奇と同情に変わっただろう。
だが、そうはならなかった。
初めの騒ぎは、こっそり足を掛けたり、物をぶつけたりするような、いたずらから始まったという。
年少の子供達の講義は、まだ遊び半分で、ともすれば、小さな生徒達のざわめきに妨害された。
講師である青年は、声を張り上げ教本を朗読し、生徒それぞれに課題を与えた。
課題は、学生の学習能力によって、違った物になる。
誰もが意外に思ったが、ヴラジュオンは、かなり優秀だった。
彼を育てた山の民とは、記憶力に優れ、反面、物事を書き記す習慣を持たない一族である。
子供達は、後から来て、あっと言う間に、自分より進んだ課題を与えられるようになった新参者を、快く思わなかったし、難問を容易く解きながら、石板に書き付けるのを苦労している様には、そろって嘲笑を浴びせた。
「山犬が、偉そうに」
御定まりの侮辱が、投げ付けられた。ヴラジュオンは、冷ややかに一瞥すると、何事も無かったように与えられた課題に向う。
黙殺された少年達は、講師が講義室を出るのを、焦れながら待った。
スウェインという少年が、目で合図すると、一番小さな少年が、講義室の戸口を押さえに走り、数人が獲物を取り囲んだ。
ヴラジュオンの紺碧の瞳が、一渡り級友を眺める。
どうやら、スウェインという小柄な少年が、この場の主導権を握っているらしい。
もっと大きな強そうな少年もいるが、挌下の者として、顎で使われている。
ヴラジュオンは、スウェインを値踏みした。霊峰の民らしく、小綺麗で、華奢な容姿で、到底強く見えない。
スウェインは、友好的な微笑みを見せた。
「聖女の御子か。本当だったら、貴い御方ですよね。カイシュオン様の義弟でも、おかしくない」
ヴラジュオンは、瞬きをした。
何故、ここで義兄が、出てくるのだろう。
「カイ?」
「山犬が、カイシュオン様を、呼び捨てにするな」
スウェインが、吐き捨てるようにいうと、手下の少年が、新参者の胸倉をつかもうと、手を伸ばした。
ヴラジュオンは、スウェインを見据えたまま、わずかな動作で、大柄な少年の腕を躱す。
「カイが、そう呼べと言った」
スウェインの表情が、険しくなったのを見て、ヴラジュオンは、おかしくなった。
父ガデルは、一族の長として、皆に慕われ、特に子供達にとっては、英雄だった。ヴラジュオンが『父さん』と呼ぶのを、妬いた子供達が、スウェインと同じような調子で、『霊峰の卑怯者の子のくせに、ガデル様を…』と言った。
彼らに比べれば、ずっと大きい霊峰の少年達が、同じような子供っぽいまねをしているのだ。
ヴラジュオンの微笑に、少年達は気色ばんだ。
「何がおかしい。お前なんか、霊峰の民なものか。山犬に汚された女の子供が、偉そうに……」
ヴラジュオンは、最後まで言わせなかった。殴り飛ばされたスウェインの身体は、講義室の机と椅子をなぎ倒す。
ヴラジュオンは、気を呑まれた少年達の間を、悠然と通り抜けようとした。
「逃すな」
スウェインが、手下に助け起こされながら喚く。
一人の少年が、雪崩落ちた石板を掴んで、ヴラジュオンに打ちかかった。新参者の手慣れた報復を見て、素手で打ちかかる勇気はなくなったのだ。残りの少年も、それに倣う。
結局、講師達が、血相を変えて駆けつけるほど、派手な喧嘩となった。
「殺すつもりだったのか」
講師達は、ようやく取り押さえたヴラジュオンを、恐ろしげに問いただす。
山の賎民に育てられた少年の反撃は、容赦ないものだった。
学友は、歯をおられたり、鼻を折られたりで、修学の塔始まって以来の、惨憺たる有り様だ。
「仕掛けたのは、奴らだ。殺されたって文句は無いはずだろう。俺だって、こんな所に来たくなかったんだ。奴らの縄張りを、荒らすつもりなんかなかった。あんたからも、そう言ってくれ」
講師グラハンは、呆れて、友人にこぼした。
「あれは、獣の縄張り争いと、一緒にしている」
「でも、ヴラージュ一人に、何人もでかかったんだろう。酷い目にあったのは、彼の方だと、思うけど…」
カイシュオンは、義弟の肩をもった。グラハンは、友の為に頭をかかえる。
「兄馬鹿している場合じゃないよ。君の責任になるんだ。義弟の監督不十分ということで、絞られるぞ」
学生達の生活面の監督官は、厳しい上に、しつこい。カイシュオンは、ヴラジュオンの義兄として、呼び出されていた。
「しかたないね。その通り監督できるほど、私に、まだ慣れてくれてない」
カイシュオンは、苦笑する。
監督官に絞られたカイシュオンが、薬箱を抱え自室に戻った頃には、完全に日は沈んでいた。手当をしようと名を呼ぶと、義弟は、寝室の窓を閉め振り返った。気が付くと、よく外を眺めている。
「手当をしないとね。おいで」
寝台に腰掛けさせて、明かりを近づける。
カイシュオンは、義弟の酷い怪我に、絶句した。小さな身体が、裂傷と青痣で埋め尽くされていた。
ヴラジュオンは、青褪めた義兄に詫びた。
「すまない。グラハン講師に聞いた。あれが、あんたの責任になるとは思わなかった」
「カイだよ。それは、いいんだ。いいんだけど、できれば、こんな事になる前に、相談を」
ヴラジュオンは、不思議そうに首を傾げた。
「相談して、どうするんだ」
カイシュオンは、応えに詰まった。
どうにもできなかった。たぶん。
そして、この小さな義弟は、何があっても、泣き言をいわない。全部、自分一人で、引き受ける覚悟があるのだ。だからこそ、義兄に責任があるという講師の言葉と、力になりといと言う義兄に、戸惑っている。
「もう、カイの責任になるような事はしない。気をつける」
カイシュオンは、傷ついた義弟の手に、そっと手を重ねた。小さな手だ。聖女ケリュスの面差しを受け継いだ少年は、夢見るような容貌に不似合いな、きつい眼差しで、義兄を見上げている。
カイシュオンは、悲しげに呟いた。
「私のことは、いいんだよ。でも、もう、こんな酷い怪我をしないで」
ヴラジュオンは、素直に頷いた。
だが、その後も、修学の塔にとって、前代未聞の暴力沙汰は、繰り返される。
ただ、ヴラジュオンは、必要以上の反撃をしなかった。
修学の塔の最高責任者であるフルク師は、うんざりと言った調子で、溜め息をつく。幾つかの講義室を覗いたが、どの講義室でも、熱のない講義が、物憂く繰り返されているばかりだ。
仕方なしに、講師の休息室に足を向ける。
ところが、そこでは、休息しているものなどなく、白熱した論戦が行われていた。見れば、生徒一人に、教師が三人という顔触れだ。
「カイシュオン」
名前を呼ばれた少年が、老いた教師たちの間から、顔を上げる。
「フルク師」
「参加しても、よいかな」
フルク師が加わると、カイシュオンは、あらためて論旨を説明する。それは、古代から現代までの動植物の進化変遷に関するものだった。
フルク師参戦で、さらに過熱したが、半刻後には、決着がつき、一同は心地よい疲れを味わった。
「お茶をいれましょう。少し待っていてください」
少年は、人懐こい微笑みを見せた。慣れた様子で、食器棚から茶器を取り出す。
カイシュオンは、聖女の子であるが故に、生後間もなく、修学の塔に預けられた。そして、同世代の少年より、十年早い修学と、その穏やかな気質とで、講師達の秘蔵っ子となっていた。
口の悪い老師は、茶碗を受け取り、無頓着に尋ねた。
「カイ。預かった山犬は、どうだね」
カイシュオンの手から、ポットが、炉の中に滑り落ち、灰が舞い上がった。
「私の義弟は、人間です」
灰にむせた講師達は、非難の眼差しを、フルク師に向ける。彼らとて、カイシュオンの義弟についての意見は、フルク師と大差なかった。しかし、義弟に入れ込んでいる秘蔵っ子の為に、極力触れたくなかった問題だった。
フルク師は、長く伸ばした白い顎髭をつまんで捻ると、何事もなかったように、尋ね直す。
「その、山犬の間で育った可哀想な義弟は、どんな様子だね」
カイシュオンは、瞳を曇らすと言った。
「山の民は、人間です」
フルク師は、咳払いする。
「学問の場において、多様な意見の存在は、必要なこともある。だが、そろそろ、質問に答えて貰いたいところだぞ。カイ」
優しげな容貌の弟子は、実は、偏屈で有名な師匠と同じ程頑固だった。
「私の義弟の名は、ヴラジュオン・ロスケリスです。フルク師ともあろう方にも、難解な名なのでしょうか」 フルク師のこめかみが、ひくりと動いた。
「ヴラ……ではない、ロスケリスが、正式な名だったな。それで、ロスケリスの学習能力は、この修学の塔でやっていけそうかね。講義室では、だいぶ面倒を起こしているようだが」
カイシュオンは、穏やかに答えた。
「とても優秀です」
フルク師は、弟子の顔を、鋭い眼差しで眺めた。
「字も書けないと、聞いたぞ」
「我らは文字によって、物事を後世に伝えますが、山の民は、口承が主です。ヴラジュオンには、一度理解すれば、決して忘れないし、その気になれば、本一冊分くらいの量は、暗唱します。書き取りができないのは、山の民は、紙とペンを持たないので、単なる訓練不足です。聖女ケリュスから、文字を習ってるから、読むことはできます」
老師は、カイシュオンの言葉を、手を振り遮った。
「繰り返すが、毎日、講義室で面倒を起こしておるようだぞ。やる気はあるのかね」
カイシュオンは、眉を顰めた。
ヴラジュオンは、何も言わないが、生傷が絶えない。
子供達は、異邦で育った同胞に、いわれの無い反感をもっているのだ。
「ヴラジュオンが、どう対応したにせよ、彼以上に傷を負った者はいません」
「暴力は、何にせよいかん」
「問題は、ヴラジュオンではなく、我らの方にあります。事あるごとに、彼と、彼の愛する人々を、侮辱するのですから」
「真実は、侮辱とはいわん」
カイシュオンは、目を伏せて師に尋ねた。
「霊峰の民が、山の民に優越するというのは、真実なのでしょうか」
フルク師は、厳かに言った。
「神が、そう決め給た。そなたは、それを、一番理解していなければならない」
カイシュオンと講師達の間に、沈黙がわだかまった。講師達は、秘蔵っ子に悪影響を及ぼすロスケリスに、よい感情を持てずにいる。カイシュオンは、悲しげに、育て親たちを見つめた。
フルク師は、立ち尽くす弟子へ穏やかに声を掛ける。
「まあよい。今は、茶を入れ直してくれんかね」
修学の塔において最年少の講師グラハンは、師である身分を忘れて、通廊を駆け抜けた。
「カイシュオン。お前の弟が、また」
グラハンが、叫びかけた言葉を呑む。駆け込んだ部屋に、友人だけでなく、うるさがたの師匠もいたのだ。
「ヴラージュが、どうした」
カイシュオンは、グラハンの腕をとり休息室を出た。「あああ、いつもの事だが、いつもより酷い。あれは、まずいぞ。イルタムが、重症だ。今、外科医を呼んだんだ。喧嘩じゃすまないぞ」
「落ち着いて。イルタムだって。彼は、ヴラージュの同級じゃないだろう。ヴラージュは、どうしたんだ」
泡をくっていたグラハンは、講師にあるまじきことに、順序だてて話せなかった。
「イルタムは、スウェインの義兄だよ。つまり、舌を噛み切られて……、スウェインは、ヴラージュが、とにかく気に食わなくて、義兄に、それで、」
カイシュオンの水色の瞳が、険しくなった。
「ヴラージュは、どうしたの」
「さぁ、それは、どうだっけ。皆、イルタムに気をとられていて。とにかく、すごい血だったんだ」
カイシュオンは、埒の明かない友の手を離し、駆け出そうとした。ヴラージュが、そこまでしたのなら、それ以上のことを、されたはずなのだ。
「おい、カイシュオン」
グラハンは、慌てて、カイシュオンの肩をつかんだ。
「わかっているか。カイ。イルタムは、舌を噛み切られたんだ。どうしたら、そうなると思う」
カイシュオンは、苛立って言った。
「喧嘩なんだろう。ヴラージュは、よほどのことがなければ相手にしない。そこまでしたのなら、ヴラージュだって、酷いことになっているかも……」
そして、誰も彼の事を心配しない。たとえ、イルタムより、重症を負っていても。
グラハンは、困ったように頭をかいた。
「喧嘩の最中に、イルタムが舌を出して、そこへ、ヴラージュが噛み付いた、とか思っているわけか」
カイシュオンは、思わせぶりな言葉に戸惑った。
「あのな。カイシュオン。お前の義弟は、イルタムが、悪い癖を出すくらい、奇麗な子供なんだよ」
カイシュオンは、泣きたいような気分で、義弟を捜し回った。彼が、霊峰の民に、どれほど嫌悪を感じたか、考えるだけでも胸が痛い。
霊峰神殿を、案内した日を思い出す。
壮麗な造形を誇る神殿の、精緻な彫刻や、巨大な壁画、美しい色硝子を通して降り注ぐ光彩、それらを誇らしい気持ちで、小さな義弟に見せた。
彼が、山の民から『救い』だされ、この地にやって来た時、『山の民でいたかった』という彼の言葉を聞いた。『父を殺した霊峰の民を憎む』とも。
カイシュオンは、義弟が、声もなく、目を奪われる様子に、安堵した。ヴラジュオンも、いずれは、この地で暮らすうちに、霊峰の地を、その民である事を、受け入れるだろうと思ったのだ。
だが、もう、そんな自信はない。
美しく豊かな、祝福された民と地であるはずの故国が、ヴラジュオンに対しては、傲慢な醜い面ばかりを向ける。
霊峰の民とは、これほど醜悪だっただろうか。
「ヴラージュ」
騒ぎの起こったのは、普段使われていない資料室だった。
散乱した古い書類が、踏み荒らされ、グラハンの言うとおり、赤黒い血溜まりが、あちこちにできている。血を流したというイルタムは、すでに医療室に運び込まれた後で、やじ馬の学生達も、大かた自室に戻され、誰もいない。
ヴラジュオンは、どこにいるのか。
彼は、霊峰の地に来て日が浅い、修学の塔のごく一部しか知らないはずだ。
カイシュオンは、義弟の姿を求めて、一つ一つ確かめた。いくつかの講義室に、学生の為の礼拝堂、食堂や図書室、カイシュオンと共有している寝室や書斎に、居間。
どこにも、いない。
カイシュオンは、途方にくれて立ち尽くした。
あの小さな異邦人は、どこに行ってしまったのだろう。どこに行けるというのだろう。
カイシュオンは、最後に薬草園に足を向けた。
半地下に設えられた園は、環境を調整され、この地域にはあり得ない熱帯植物を栽培している。大半は、薬草として用いられる、うっそうとした緑と、泉があり、小動物や昆虫類が、自然のままに放されている。霊峰の民は、手を入れていない自然を嫌うので、人がいることは、めったにない。
ヴラジュオンを連れて来たとき、彼は、緑の中に立つと、少し笑った。
「何だか、懐かしいような気がする。こんな暑苦しい緑は、初めてなのに」
義弟が、手をかざすと、その先で、色とりどりの鳥が羽ばたいた。
カイシュオンは、薬草園の扉をくぐった。
濃い緑と土の匂いがする。
高い天蓋から降る日差しは、重なり合う木々の葉を透かし、辺りを緑に染め上げていた。深奥にある泉から湧き出ているせせらぎが、聞こえる。
「ヴラージュ」
高い鳥の泣き声が、カイシュオンの声に応えた。
空気を打つような羽音が、侵入者を咎める。鮮やかな色彩の鳥達が、カイシュオンの行き手を遮った。それらは、確かに、その意図をもっていた。
カイシュオンは、辛抱強く呼びかける。
「ヴラージュ」
彼は、いた。
だが、応えようとはしない。
小さな鳥が、彼の金褐色の髪をついばむと、優しく微笑む。指先が、いたずらものに、そっと触れ、柔らかな羽毛の感触を楽しんでいる。
そのうちに、彼を守るように、小さな者達が、次々と舞い降りた。
「ヴラージュ」
今度は、ヴラージュは、顔を挙げ、カイシュオンを認めた。鳥達が、抗議するように羽音を立てる。
ヴラジュオンは、無表情に、義兄を見つめていた。
敵意も、嫌悪もなかったが、その眼差しは、冷ややかだ。
やがて、少年は、義兄に興味を失ったように、紺碧の瞳を閉ざした。
カイシュオンは、しっとりと濡れそぼった羊歯を踏み分け、義弟に近づく。ヴラジュオンは、大木の巨大な根の一つに身を預けていて、それは、泉の中へ触手を伸ばしていた。
「ヴラージュ」
ヴラジュオンは、応えない。
水を浴びたのか、ずぶ濡れの髪は、光沢を失い肌に張り付いている。その身体は、先日より傷を増やし、一旦は洗い流したようだが、また血が滲み出ていた。
「ここは、暖かいけど、そのままでは、風邪をひくよ」
義弟の上着はずたずたに切り裂かれて、その役目を果たしていない。カイシュオンは、自分の上着を脱ぐと、義弟に羽織らせた。
見守る鳥達が、落ち着かなげに身じろぎする。
ヴラジュオンは、目を開いて、小さな友を宥めた。
「カイは、いいんだ」
異邦から来た少年は、鳥達が飛び立つのを見送ると、そのきつい眼差しを義兄に向けた。
居間の暖炉に、火を入れる。
薬草園は、暖かく調節されていたので、修学の塔へ戻ると、温度差で、実際より冷え込んでいるように感じた。抱えるようにして、連れ帰った義弟は、毛布にくるまっていても、かすかに震えている。
「カイ。どうしたんだ」
ヴラジュオンの不思議そうな声で、我に還る。
「どうって…」
震えを帯びた義弟の腕が伸びて、カイシュオンの頬に触れる。ひやりとした感触だった。
「泣いたのか」
カイシュオンは、驚いた。
手をやると、確かに、目元が強ばっている。
もしかして、ヴラジュオンを探している間、無意識に泣いていたのだろうか。
ヴラジュオンは、赤くなった義兄に、訳がわからないといった表情を向けている。
「君が、心配だったのと、情けないので、多分…みっともないな」
「俺は、大丈夫だよ。ごめんな。気をつけるって言ったのに、また、カイに迷惑をかけた」
「君のせいじゃない。イルタムが、悪い」
誰かに、これほど、嫌悪を感じた事などなかった。
だが、今は、苛立つほどに、収まりの悪いそれを、持て余している。イルタムに、霊峰の民に、そして、自分に対しても。
いつも、微笑んでいる義兄が、難しい顔で黙り込むと、居心地が悪い。でも、聞いておかねばならない事がある。異邦で育った少年は、意を決して尋ねた。
「聖女は、一人で子供をつくるって言ったよな。信じられなかったけど、霊峰の地じゃ、女を見かけないし、もしかして、男同士でも子供をつくるのか?」
カイシュオンは、義弟の、あまりな、そして当然な質問に、真っ赤になった。
「ヴラジュオン。それと、これは、全然話が違う」
「違うのか」
「女の子は、家庭で教育されるから、修学の塔にいないだけだ。それに聖女が、子供を生むのは、特別な力が、かかわっている。彼女達は、もともと子供を生む性だ。男が、生むなんてありえない」
ヴラジュオンは、眉を顰めた。
「それじゃ、あいつ、俺を女だと思ったのか」
カイシュオンは、つまった。それはない。ヴラジュオンの容姿だけ見れば、ないとは言い切れないが…
男ばかりの修学の塔にまつわる悪習については、聞いている。
義兄弟の慣習も、悪用するものもいると。
だが、カイシュオンは、今の今まで、本当にそんな事をする者がいるとは、信じていなかった。小さな義弟に、何と言って、応えたものか解らない。
ヴラジュオンは、義兄の困惑を肯定ととった。 「いいよ。女顔なのはわかってる。でもな、霊峰の民は、女が嫌がっても、女を抱くのか」
カイシュオンは、義弟の露骨な言葉に焦った。
「まさか。そんなことをしたら、罪になる。ヴラージュ。イルタムは、君をどう…」
ヴラジュオンは、俯いた。
「たいしたことは、されなかったさ。でも、気持ち悪くて、我慢できなかったから……」
カイシュオンは、悲しくなった。ヴラジュオンの反撃の仕方から思うに、たいしたことだったのは、間違いない。
「すまない」
「カイ?」
「そんな目に、会わせるなんて。君に、ここを、私達を、好きになって貰いたかったのに。憎まないで欲しいと思っていたのに、もう無理だね」
ヴラジュオンは、義兄の袖を掴んだ。沈み込んだ水色の瞳を捕らえる。
「カイ。ここには、嫌いな奴がいる。でも、カイを嫌いにはならない。カイは、好きだ。お前達は、皆、霊峰の民だが、俺は、いっしょくたにしたりしない」
カイシュオンは、思いがけない言葉に驚いた。
「ヴラージュ」
「俺は、山の民には、霊峰の卑怯者と言われ、霊峰の民には、山犬と呼ばれる。だが、どう呼ばれようと、俺は俺だ。だから、他の奴も、生まれでくくる事はしない。カイは好きだし。イルタムは気持ち悪い。霊峰の民だからって、いっしょにはしない。憎む者を、間違えたりしない」
ヴラジュオンは、言い終えると、力尽きて、義兄の袖から手を放した。冷えきった身体は、いつまでも温まらず、痛みは、麻痺しかけた神経をも苛んでいる。
カイシュオンは、慌てて、義弟を支えた。
「熱が、酷い」
ヴラジュオンは、遠く義兄の叫びを聞いた。
優しい、人のよいカイ。
あの瞬間、彼が、俺の名を呼ばなければよかった。
この地に、さらわれて来た時、復讐を遂げたいのなら、待たねばならないと知った。自分は、霊峰の地と民のことを、あまりにも知らな過ぎる。狩人は、風を読み、気配を殺し、獲物を知り、隙を見せる瞬間を、とらえねばならない。
だが、待つことに、うんざりしていた。
知れば知るほど、尊大で、卑怯で、おぞましい一族。
霊峰の民なら誰でもいい、手当たり次第に殺してやりたい衝動が、自制心を食い破りそうになっていた。
そこへ来たのが、よりによってカイだったのだ。
むせ返る緑の中、心配そうに覗き込む、潤んだ水色の瞳……繰り返し、名を呼ぶ……
「ヴラージュ!」
カイシュオンは、急いで暖炉に薪を足すと、寝室から運び込んだ上掛けで、義弟をくるんだ。
ヴラジュオンは、黙って身を任せていたが、義兄の泣きそうな顔をみると、かすかに笑った。カイシュオンの淡い金髪が、燃え立つ焔を映し、柔らかい光彩を見せている。
「カイの髪、羽毛みたいだな」
カイシュオンは、好きだ。
…霊峰の民だったとしても。
異邦で育った少年は、義兄の腕の中で、熱に浮かされながらも、安らかな眠りに落ちた。
三 聖餐
その夜、ヴラジュオンは、義兄の腕に守られ、修学の塔に伸ばされた闇の触手に、気づかなかった。
闇は、石段を這い回り、壁掛けに触れ、扉を軋ませた。
灯火を陰らせ、低い喘ぎを残して、少しずつ近づく。感覚の鋭い、不運な人々は、その身を強ばらせ、寝台の中で、目をきつく閉ざした。
触手は、生け贄を求めて徘徊する。
カイシュオンは、扉の外の存在に、拒絶の意志を向けた。ヴラジュオンを、犠牲にはできない。
それは、低く嗄れた声で笑った。
……では、誰ならよい…
残酷な問いに、カイシュオンは、いけないと思う間もなく、心の中で応えてしまった。
……イルタム
「待って…」
それを、引き留めようと叫んだ。
叫んだつもりだった。
腕の中で、傷ついた義弟が、身じろぎをする。まだ、熱が下がっていない。
…初めて、応えたな。では、イルタム、どこだ?…
「待ってください」
カイシュオンは、弱々しく呻いた。
……イルタムだ。今宵は……
それは、遠ざかって行った。生け贄を求めて。
やがて、悲鳴が、遠くに聞こえた。
だが、駆けつける者はいない。
それは、聖なる犠牲だったのだから。
明け方、ヴラジュオンが、寝台で目覚めると、その傍らで、カイシュオンが、穏やかに微笑んだ。
「何か食べられるかい」
「喉が渇いてる」
カイシュオンは、用意していた香草茶を杯に注いだ。それは、程よく冷やされていて、喉に心地よかった。
「シチューを、食堂から貰って来ているけど、どう」
ヴラジュオンは、頷いた。痛みは残っているが、熱はひいている。食べられないことはない。
義兄は、炉に掛けた小さな鍋から、湯気の立つシチューを器によそった。温めていてくれたらしい。
「カイ。目が赤い。眠らなかったのか」
カイシュオンは、力無く頭を振った。
「冷めないうちに、食べて。学生の食堂では、一番の御馳走なんだ。鳥肉の煮込み……」
カイシュオンは、言葉を飲み込み、器を奪った。ヴラジュオンは、唖然として、義兄を見上げる。
「カイ。どうした」
「ごめん。鳥…気が回らなくて……」
「な…何?」
「だって、ヴラージュ。君、鳥は…その」
ヴラジュオンは、義兄の言葉に目を瞠った。
「カイ。俺、鳥は好きだけど、鳥肉食べるよ。今までだって、食べてただろ。第一、薬草園の奴らは、食用じゃない。その器には、入ってないよな」
「え?あ、そうか。そうだよね」
ヴラジュオンは、焦った義兄の様子に笑った。
「カイってば。それ間抜けだよ」
カイシュオンは、義弟の屈託無い笑い声に、苦笑する。普通の子供の明るい笑顔。いつも、こんな風だといいのに。小さく溜め息をつくと、器を返す。
「君の友達じゃないんだから、しっかり食べるんだよ。何しろ、修学の塔の自慢料理なんだからね」
ヴラジュオンは、まだ笑いながら、頷いた。
修学の塔では、いつも通りの朝を迎えた。
表向きは。
「カイシュオン」
グラハンは、友を見かけると、小声で呼び止めた。
「おはよう」
カイシュオンは、いつも通り微笑む。グラハンは、声をひそめたまま尋ねた。
「最悪だな。イルタムが、死んだ。弟は、どうした」
「まだ少し熱がある。本人は、講義に出ると言っていたが、休ませた」
「うん。その方がいい。年のいったものは、いいとして、年少組は、初めての事だし、納得しないだろう。へたすると、ヴラジュオンが殺したと、言い出しかねないし……落ち着くまで、しばらくな」
カイシュオンは、悲しげに呟いた。
「殺したのは、ヴラージュじゃない」
グラハンは、頷いた。
「もちろん。それに、『殺された』わけじゃない。『選ばれた』だけだ」
でも、死んだ。悲鳴を残して。
カイシュオンは、耳について離れない悲鳴に、青褪めた。彼を『選んだ』のは、あの方か…自分か。
「おい。カイ。具合が悪いのか。まさか、弟の看病で、徹夜でもしたのか。倒れそうだぞ」
「ああ」
「しかたないな。いいから、今日は休めよ。どうせ、老師達の、お茶のお相手するだけだろ」
カイシュオンは、頭を振った。
「今日は、神殿の方へ、伺う事になってる」
グラハンは、人並み以上に高い背を緊張させた。
「聖司の…それは、しかたないか」
カイシュオンは、弱々しく微笑んだ。
ヴラジュオンは、目覚めた時から、奇妙な緊張を感じていた。
今日は、日も高いうちから、あの気配がする。
濃い闇に潜んでいた何かが、這い出して来た。そんな感じだ。
誰かが、扉を叩いた。
ヴラジュオンは、窓を閉めた。まだ、だるい体を引きずって、寝室を出る。居間を横切り、戸口にたどり着く。
再び扉が叩かれた。
「誰だ」
「ヴラジュオン…僕……」
聞き覚えがある声だった。
「スウェインか」
扉を開けると、心細げに佇んでいたのは、イルタムの義弟スウェインだった。ヴラジュオンの切れた唇や、袖口から覗く腕の傷痕に、びくりと身を震わせる。
「だ…大丈夫?」
「何が」
「そんなつもりじゃなかったんだけど、イルタムが、酷いことを……」
ヴラジュオンは、スウェインの落ち着かない様子を、冷ややかに眺めた。
「お前が、そうして、欲しかったんじゃないか。あいつ、そう言っていた」
何度も何度も、殴られて、意識を失いそうになると、また殴られた。暴力が、おぞましい行為に移ったころ、嬲るように、耳元に囁かれた。
(可愛い義弟にせがまれてな。カイシュオン様に、山犬なんぞに、似合わないとさ)
「違う。違うよ。あんな事してくれなんて、言って無い。ただ、カイシュオン様だったら……」
「カイ?」
何故また、義兄の名が出るのか、ヴラジュオンは、訝しげに級友を見つめた。
「カイシュオン様だったら、義弟に酷いことしないって、そう言っただけなんだ」
「それは、そうだけど。お前、まさか……」
スウェインは、唇を噛み締めると、吐き捨てるように言った。
「そうだよ。イルタムは、酷い義兄だった。逆らわなかったから、お前ほど、酷い扱いは受けなかったけどね。本当は、お前がいなきゃ、カイシュオン様が、義兄になってくださるはずだったんだ。だから……」
スウェインは、紺碧のきつい眼差しを受けて、言い澱む。異邦で育った少年は、遠慮なく核心を衝いた。
「イルタムの事は、自分の企みじゃないと、カイに言って欲しいのか」
スウェインは、黙って頷いた。憎い山犬に頭を下げに来たのは、正に、その為だった。
「わかった。伝えておく」
スウェインは、相手が、あっさり承知したので驚いた。いろいろ、交換条件を考えていたのだ。嘲笑も、侮辱も覚悟していた。だけど、何も言う前に、承諾されてしまった。
「ヴラジュオン。本当に、でも、代わりに、して欲しいこととか、何か……」
ヴラジュオンは、煩わしげに尋ねた。
「霊峰の地では、伝言するにも、代償がいるのか」
スウェインは、首を振った。
「ありがとう。ごめん」
ヴラジュオンは、小さく呟く。
「…様、か。結構、間抜けだぞ。いい奴だけど」
「え?」
「なんでもない。じゃあ」
「うん。じゃあ、また」
スウェインは、立ち去り掛けて、振り向いた。
「ヴラジュオン。イルタムは、死んだぞ」
「死んだ?あれくらいで?」
「君のせい、じゃないよ。僕は見ていた」
スウェインは、脅えたように震えると駆け去った。
取り残されたヴラジュオンは、視線を感じて、身を強ばらせる。
誰もいない。
だが、何かが……
聖司の居室に至るには、長い螺旋階段をのぼらねばならない。
修学の塔での学生服から、正装に改めたカイシュオンは、控えの間で、神官達の挨拶を受けた。
「カイシュオン様。聖司テュイルは、待ちかねていらっしゃいましたぞ」
「聖司テュイルのお加減は、いかがですか」
「今朝は、とてもよろしいです。神に選ばれし守護者に、祝福あれ」
カイシュオンは、穏やかな微笑みを見せて頷いた。
「愛しい子よ」
慈愛に満ちた眼差しが、そそがれる。霊峰が戴く純白の雪を思わせる聖衣に、美しい白髪と白い髭の老人が、カイシュオンを迎えた。
長い形のよい指先が、跪く少年の頤にかけられ、上向かせる。
「何を憂えている。カイシュオン」
明るい光りに満たされた聖堂の中で、霊峰の守護者は、神そのもののように、光輝を帯びて、微笑んだ。
カイシュオンは、聖司の手の中で目を伏せた。
「聖司テュイル。私には、耐えられないのです」
「迷うのも無理はない。かつては、私も、おそらく先代の聖司達すべてが、そうだった。だが、我らに、選ぶ余地はないのだ。この楽園。豊かな美しい霊峰の地を、守る為に」
カイシュオンは、聖司の手から、静かに身を引く。
聖司の微笑みが、陰りを帯びた。
「そう、悲しげな顔を見せてくれるな。外界へ兵を送り失った力は、おぎなえた。今しばらくは、そなたを、脅えさせることもない」
美しい守護者は、少年を立ち上がらせた。
「聖女ケリュスの子は、どうだね」
カイシュオンは、強ばった表情を緩めた。
「まだ戸惑う事が、多いようです」
「あれは、強い」
「はい。ヴラジュオンは、とても強いのです。山の民とは、どういう人達なのでしょう」
聖司テュイルは、少年の無垢な水色の瞳に見惚れ、淡い金髪に触れると、愛しげに囁いた。
「あれを、好きなのか」
「はい」
霊峰の守護者は、微笑んだまま言った。
「では、今しばらくは、楽しむがよい」
「聖司テュイル。今しばらくとは」
「私が、彼を必要とするまで、だよ。そのために、彼をこの地へ、誘ったのだから」
カイシュオンは、我を忘れて、聖司に縋った。
「まさか。ヴラジュオンは、聖女ケリュスの子です。だから…だから、連れ戻したのでしょう?」
「だからこそ、だよ。彼女の為に、二代の聖司が、命を縮めた。彼は、代償に、その命を霊峰の地へ捧げねばならない。彼の命は、強い。イルタムなどとは、比べようもない。我が力となって、長きに渡り結界を支えるだろう」
カイシュオンは、声もなく頭を振った。
老いた聖司は、床に伏し、起き上がることさえままならぬほど、衰えていた。
だが、今は、一人の同胞の命と引き換えに、美しく蘇り、生気に輝いている。
……聖餐。
聖司の力が衰えれば、ひそやかに生け贄が供された。
それが、いつから始まったのか、誰も、はっきりとは知らず、咎めもしない。
守護者の結界がなくば、この楽園は失われ、霊峰の民は、死に絶えるだろう…誰もが、それを承知していたから。
聖司テュイルの代、供犠は、六度あった。後になるに従って、間隔が短くなる。
七度目の代償は、ヴラジュオンだという。
「お願いです。どうしても、というなら、私を」
聖司テュイルは、優しく説いた。
「駄々をこねるものではない。私が死ねば、そなたが、聖司を継ぐ。ならば、そなたも、力を、必要とするだろう。そなたに、義弟の命をとれるか。そなたを苦しめたくない。私は、その為にも、永らえねばならぬ」
「聖司テュイル…」
聖司テュイルの慈愛を、疑ったことはない。次代の守護者たることを約束された少年は、聖司を見つめた。
誰ならいい…と、尋ねられ、幼い頃は、訳も分からず泣いてしまった。
聖司テュイルは、カイシュオンを気遣って、尋ねるのだという。
お前が、悲しまなくてすむような者の命を、とろうと……
カイシュオンは、ずっと答えを拒み、だが、ついに、答えてしまった。
でも、これ以上誰かを、ましてヴラジュオンを、差し出すことは耐えられない。
「カイシュオン。泣かないでおくれ」
老いた聖司は、愛しい子供に優しく囁いた。
だが、聖司テュイルの眼差しには、どす黒い憎しみが潜んでいる。
……不吉な獣…退けねばなるまい…霊峰の地の為に
…愛し子の…為に……
小さな溜め息とともに、分厚い本が、脇机に置かれた。
積まれた本は、三冊。
書斎から持ち込んだ本は、読み終えてしまった。
さすがに、目が疲れる。
ヴラジュオンは、長椅子に身を沈め、耳をすませた。
「まだ、か」
義兄の軽い足音は、聞こえて来ない。
カイシュオンは、今日も、講義を休むように言い置いて出掛けた。でも、食事時になれば、ヴラジュオンの世話をしに、とんで帰って来る。
「巣に雛のいる鳥みたいだ」
ヴラジュオンは、こっそり笑った。
「それにしても、雛は退屈かもな……」
初めは、身体の痛みで、寝ているだけしかできなかったが、何日かすぎると、退屈してくる。
何もすることがないのは、随分と、辛いことなのだ。
山で暮らしていたときは、木の実を集め、火を起こし、水を汲み、小さな生き物を捕らえる罠を仕掛けた。
大きくなってからは、狩りがある。それに、弓や槍の手入れ、獲物を捌くこと、革を鞣し、細工をすること。
そして、他の部族との戦。
やることは、いくらでもあった。
やらねば、生きて行けなかった。
だが、霊峰の地では、寝ていても生きていられる。そのくせ、皆が、愚にもつかない労力を費やしていた。
霊峰神殿の中を案内された時は、あまりの事に、声も出なかった。あの壮麗な建築物の大部分が、人の住家ではなく、神に捧げられたものだとは。
それに、知識。
ヴラジュオンは、積み上げられた本に、目をやる。これらにも、ほとんど意味がない。ヴラジュオンが、知りたかったのは、数の組み合わせによる遊戯でも、歴史的工芸品の制作者の生涯でもない。
講義の方は、御伽噺のような神代を終え、人類の発生についての諸説まで進んでいたが、ヴラジュオンが、必要とする知識に達するまで、はるかな道程がある。
霊峰の地に精通するまで、どのくらい、耐えなければならないだろう。
ヴラジュオンは、憂鬱になった。
扉が叩かれる。
「ヴラージュ。ただいま」
カイシュオンが、居間に入って来る。
長椅子の上に身を起こしたヴラジュオンは、少しためらってから、応えた。
「お帰りなさい」
「調子は、どう」
「もう、元通り動ける。明日は、講義に出る」
カイシュオンは、まだ消えない義弟の痣に目をやる。
「焦らなくても、いいのに。君は優秀だし、少しくらい講義が遅れても、大丈夫だよ」
「退屈なんだ…知りたいことは、山ほどあるし」
「ああ、そうか。そうだね」
カイシュオンは、困ったように言った。本当に、この義兄は、人がいい。それに、カイシュオンがいると、何だか安心できた。霊峰神殿に潜む闇も冷気も、遠のいて行くような気がする。
この義兄なら、自分の知りたいことに、答えてくれるだろうか。講師のように面倒がらずに……
「カイが、教えてくれるか。講師に聴いても、よくわからないんだ」
「どんなこと?」 カイシュオンは、義弟の隣に、腰を降ろす。
ヴラジュオンは、義兄の淡い水色の瞳が、間近すぎると思ったが、質問を優先させた。
「ここの事だ。霊峰の民の長は、誰なんだ」
「長…と、いわれても、それぞれだ。例えば、修学の塔の長は、フルク師だよ。何の長?」
「一番強い者」
「神殿兵の長は、タジェン・バウ」
ヴラジュオンは、もどかしげに言った。
「違う。だって、あいつらは、神官に仕えているんだろう。そうじゃなくて、ここを仕切って、皆が、言うことを聞く奴の事だ。戦士の長が、一番じゃないということは、戦わない奴が、長なんだろう。長老とか、賢者とか……」
カイシュオンは、考えながら答える。
「行政長官…のことかな。でも、一番じゃない。フルク師や、タジェン・バウと、地位は、同列だよ」
それも、違うような気がした。ヴラジュオンは、乏しい情報を元に、再び尋ねた。
「聖司というのは?神殿の長なんだろう。まだ、見たことないな」
義兄が、微かに息を呑む。それでも、几帳面に答えてくれた。
「神殿の長は、神官長だよ。聖司は、守護者だ。霊峰の地を守る者。仕切ったり、民に何か命ずる事もない。ただ、この地を守るだけだ」
「役目の違う長が。何人もいるのか。やっぱり、よくわからない。山では、一族の長は、一人で、絶対だ。一番強くて、一族の行く末を決め、皆に敬愛される」
父ガデルのように。
「ヴラージュ」
カイシュオンは、義弟の瞳が曇った事に気づいて、小さな肩に手を回した。ヴラジュオンは、拒まない。気性の激しいこの義弟が、随分、気を許してくれるようになった。
ヴラジュオンは、気を取り直し、義兄を見上げる。
「ああ、そうだ。こう聞けばいいかな。霊峰の地では、誰が、一番敬愛されるのか。一番大切な人なのか」
「守護者だよ。神に選ばれ、祝福を受けた聖司だ。でも、何故?」
ヴラジュオンは、笑った。
「重要なことだろう。山にいた時は、誰に、どういう敬意を払うべきか、心得ていた。ここでは、そこからして、わからない。あまり無作法なまねをすると、痛い目に会う。例えば、カイだって、何で、カイシュオン様、なんだ?」
カイシュオンは、目を瞠った。
「誰が、そんなふうに?」
「スウェイン。他にも」
修学の塔では、血筋や地位は、学生の身分に、関係ないことになっている。敬称つきで呼ばれる学生などない。
次期聖司であるカイシュオンも、通常、呼び捨てだ。
だが、修学の塔へ上がったばかりの年少組では、まだ、世俗の感覚を引きずっているらしい。
「知らなかった。それは、変だよ。グラハンは、ちゃんと、カイシュオンと呼んでいるだろう」
「友人ならともかく、俺が、カイ、だものな。カイシュオン様に、失礼なんだろう」
ヴラジュオンが、くすくす楽しそうに笑った。
笑うと険が無くなって、聖女ケリュスから、譲り受けた甘い容貌だけが残る。
「いいんだよ。カイ、で。ヴラージュ」
カイシュオンが、困ったように微笑むと、義弟は、笑いを収めて、義兄を見た。
「カイが、女だったら、よかったな」
「…何で」
似たようなことを、義弟について考えていたカイシュオンの声は、裏返った。
幼い義弟は、屈託が無い。
「俺が今まで見た中で、一番美人だし、優しいし、おっとりしてて、結構間抜けなとこが、好きだから」
父母のように、ヴラージュ、と呼んでくれるから。
ヴラジュオンは、義兄に金褐色の頭を預けた。
こうしていると、闇が遠のく。
カイシュオンは、泣きたいような気分で、義弟の豪奢な髪を撫ぜた。
……今しばらくは、楽しむがいい……
聖司の言葉は、抜けない刺のようだった。
どれくらいの猶予が、あるのだろう。
そして、その時、どうすれば、この子を守れるのだろう。
「カイ。明日は、講義にでるよ」
「そう、だね。無理をしないようにね」
その時、は、さほど遠くなかった。
四 刻印
久々に、講義に出たヴラジュオンは、講師が案じた級友の反発もなく、穏やかに日常にとけこんだ。
だが、講師達の安堵は、恐ろしい形で、裏切られる。
霊峰神殿の闇は、次第に濃くなり、ヴラジュオンは、息苦しささえ覚えていた。
「ヴラジュオン」
スウェインは、通廊の壁に手をついた級友に駆け寄った。
後から、講義室にやって来た講師グラハンが、咎めるような声を掛ける。
「何をしている」
スウェインは、今度ばかりは、疚しいことはなかったものの、慌てて口ごもった。
「講師グラハン。ヴラジュオンが…具合でも…」
ヴラジュオンが、青褪めた顔を上げる。
「違う」
まだ、陽は残っている。でも、夕闇とともに、あのどす黒い悪意が、迫っていた。
講師グラハンは、仕方無さそうに言った。
「医務室に行くか?講師の休養室に、カイシュオンがいる。スウェイン、君が呼んでこい」
スウェインが、走りだそうとすると、ヴラジュオンは、級友の腕を掴んだ。
「違う。お前だ。スウェイン、狙われている」
講師グラハンは、引きつった顔で、新参の生徒を叱り付けた。
「馬鹿な事を言うな。人騒がせな。そんなはずはない。イルタムが、死んだばかりで……」
……今は、まだ。
ヴラジュオンは、きつい紺碧の眼差しを、霊峰の民に向けると、低い声で言った。
「ここには、魔物が巣くっている」
スウェインは、血の気を失い、へたりこんだ。
「スウェインだけじゃない。他にも何人か……」
背の高い講師は、ヴラジュオンの言葉を、激しい身振りで遮った。早すぎる。それに、何人も?
「馬鹿な…嘘だ」
霊峰の民の恐慌が、ヴラジュオンに、自分の言葉が的を射たことを知らせた。
「夜が来れば、わかる」
ヴラジュオンが冷ややかに言うと、スウェインは悲鳴をあげた。
「嫌だ。助けて、ヴラジュオン」
ヴラジュオンは、震える級友に鋭く尋ねた。
「あれは、何だ。何故、誰も彼も、見ない振りをしていた」
「せ…聖司様。生け贄なんだ。イルタムも。見る間に、干からびて、蝋みたいに白くなって、死んだ」
スウェインは、泣きながら叫んだ。
「あんなになるのは、嫌だ。助けて、ヴラジュオン。カイシュオン様に、お願いしてくれよ」
「カイ?」
何故、ここで義兄の名がでるのか。
「だって、カイシュオン様は、聖司テュイルのお気に入りで、次代の聖司じゃないか。カイシュオン様の言うことなら……」
聖司。
霊峰神殿の要。
復讐すべきもの。
ヴラジュオンは、縋り付く級友の腕を振り払う。
少年の傲然とした双眸は、級友や講師を越えて、霊峰の地そのものを見据えていた。
「バルデ一族の長ガデルを殺した、霊峰神殿。引き替えだ。俺は、お前達の『長』を殺す」
その為に、この地に留まった。このどす黒い悪意が、聖司なら、もう機会を待つ必要はない。
獲物は、すでに身構え、反対に攻撃にでようとしている。
ヴラジュオンは、今の今まで押さえていた力を、すべて解き放った。
「カイシュオン!」
離れた場所にいる義兄の思惟を、捕らえた。
強引に、割り込む。
「ヴラージュ?」
カイシュオンの、訝しげな声。
優しい人のよい義兄。
だが、お前も敵だ。容赦なく、“声”を叩き付ける。
《聖司は、どこだ》
「ヴラージュなのか」
《見せろ》
カイシュオンが、苦痛に呻く。
老師たちが、愛弟子を支えようと手を差し伸べた。
「ヴラージュ、何故?」
ヴラジュオンは、義兄の心から、聖堂へ至る道筋と聖司の姿を読み取ると、吐き捨てるように叫んだ。
「お前らの大切な魔物を、殺してやる」
《何故、聖司になるんだ。お前が好きだったのに…》
カイシュオンは、凍りついた。
「カイシュオン。どうした」
老師達が、うろたえた声を掛ける。
夕日は、沈み切っていない。
だが、冷気が、ひたひたと押し寄せている。
……力を…楽園の為に……
「あ…」
カイシュオンが、小さく呻く。遠くで、誰かの悲鳴が上った。
「どうした。…何があった」
講師達は、休養室の扉を開けた。
通りすがった少年が、不審そうに首を傾げる。
カイシュオンが、呆然と呟いた。
「聖司テュイル……ヴラージュ、だめだ。やめて…」
「カイシュオン。何があったんだ」
また、声が上る。絶望的な苦鳴が混じる。
グラハンが、部屋に駆け込んで来た。
「カイシュオン。ヴラジュオンは、来たか。いや、聖司テュイルが、また……」
放心している愛弟子に代わって、フルク師が、年若い講師を問いただした。
「山犬は、来ていない。どうしたのだ。グラハン」
「師よ。聖司テュイルは、聖餐をとっているのです。こんなに早く。しかも、一度に何人も…子供達を」
カイシュオンは、膝をついた。
「私のせいだ」
……お前が、惜しいと思わぬ者を選ぼう……
グラハンは、友の肩を揺さぶった。
「カイシュオン。どうしたんだ」
「子供達というのは、ヴラージュの同級生だね」
何人もで、ヴラジュオンを、傷つけた子供達。
彼らが選ばれた理由は、イルタムと同じだ。声に出さなくても、聖司テュイルには、伝わってしまう。
カイシュオンの蒼白の頬を、涙が伝い落ちる。
「止めなければ」
「カイシュオン!」
友と師の制止は、次代の聖司に届かなかった。
ヴラジュオンは、闇の中を駈けた。
誰何する神殿兵から、剣を奪う。バルデ襲撃の時と違い、兵達は、聖司の守りを受けていない。
ヴラジュオンは、存分に生来の力を奮った。
かつて、山の民として生きるために、自ら封じた力、霊峰の聖女から受け継いだ魔力を。
あり得ない跳躍で、障害を越える。
「待て」
見えない障壁が、慌てて追いすがる兵を阻む。
幼い少年には、重すぎる筈の剣は、軽々と空気を唸らせた。魔力を這わせた刃は、青銅の扉を両断する。
気を呑まれた男達は、脅えて後退さった。
「化け物か」
螺旋階段を駆けあがった少年は、行く手を遮る神官達を目にした。紺碧の瞳が、剣呑な光を浮かべる。
《退け》
声は、鋭く反響した。老いた神官が、よろめく。霊峰神殿の最も神聖な場所への扉が、打ち砕かれた。
「聖司テュイルか」
そこは、無数の灯火が揺れ、光りにあふれていた。
だが、闇が濃い。
……お帰り…ロスケリス……
低い喘ぎが、闇を這う。
「俺の名は、ヴラジュオンだ」
光の海の中、一人の老人の姿に、闇が凝る。純白の聖衣のきぬ擦れが、耳障りに響いた。
……おいで、カイシュオンの愛しいヴラージュ…
少年の剣が、軋み、刀身が、二つに砕ける。
……お前の命と力を、捧げるがよい……
「ふざけるな」
ヴラジュオンは、敵に風を叩き込んだ。
それは、紗の帳を引き千切り、聖堂の壁に巨大な傷痕を刻む。
聖司は、何事もなかったように、微笑んだ。
引き裂かれた聖衣。
だが、血の跡もない。
砕け散った硝子細工が、降り注ぐ。
……それだけか、聖女の子よ…
腐臭が漂う。
老人の形をした者から、影が滲み出した。闇の触手が、のたうち喘ぎ、床を這う。
ヴラジュオンは、搦め捕ろうとする闇から身を躱し、亀裂の走った床を蹴った。
宙に身を踊らせ、そのまま僅かな足掛かりを捕らえて、天窓近くまで跳躍する。
「霊峰の民が、バルデの族長ガデルにしたことを、お前に返してやる」
少年の手が、砕かれた色硝子の枠組みを折り取った。
杭状のそれを、逆手に構え、聖司の頭上を襲う。
落下の勢いと体重をかけて、老人の痩身を貫いた。
杭が火を吹く。
かつて、ガデルを貫いた槍のように。
……それだけか、ロスケリス……
嗄れた哄笑が、闇から溢れた。
ヴラジュオンは、身をもぎ離そうとして、枯れ木のような腕に捕らえられた。
「離せ」
火が、肌を焼く。
……こう、だったのでは、ないかね。若い神殿兵は死んだ。死に掛けた山犬に殺されたのだ……
紺碧の双眸が、光を帯びた。
ヴラジュオンと聖司の体の間に、閃光が走る。
聖司の身体が、壁に叩き付けられた。
少年は、荒い息で立ち上がる。
……ここまで、かね……
ヴラジュオンは、総気立った。
老人の白蝋のような肌が、どろりと溶け、大きく口を開いた傷痕を埋める。
薄い唇が微笑み、見る間に、人肌をまねて、淡く色づいた。
長く伸ばされた白髪が、燐光を放ち舞う。
形のよい長い指先が、ゆっくりと折り曲げられた。
……おいで……
ざわり、と、闇が、少年を求めて蠢く。
これは、もう断じて人ではない。
「魔…物め…、今…殺してやる」
ヴラジュオンは、口腔に溢れる血を吐き捨てた。
息を整える。
……力…命……を無駄にするな……
瘴気が床を這い、高い天蓋を伝って滴り落ちる。
「そんなもの、お前に喰わせるくらいなら、捨ててやる。闇は、闇に還るがいい」
魔力の元は、命。
それを、使い果たしても、この、おぞましい闇を消す。
もはや、復讐よりも、あり得ざる者への嫌悪が、幼い少年を支配していた。
閃光と爆風が、聖堂を襲う。
「ヴラージュ!」
衝撃で吹き飛んだヴラジュオンの身体は、義兄の腕に抱きとめられていた。カイシュオンの長衣が、義弟の血で朱に染まる。
……さがっておいで、カイシュオン……
カイシュオンは、頭を振った。
「聖司テュイル。お願いです」
ヴラジュオンは、義兄に罵声を浴びせる。
「次の聖司だと?お前も、化け物になるか。カイ」
カイシュオンは、血まみれの義弟を支えながら、苦しげに応えた。
「聖司の守護がなければ、霊峰の地は滅びる。霊峰の民は、死に絶えるんだ」
山の民に育てられた少年は、あざ笑った。
「それが、この化け物を、生かしておく理由か。死に絶えるだと?カイ。俺は、生粋の霊峰の民らしいが、霊峰の地の外で、生きていたぞ。……もちろん、死に絶えるというなら、それでもいい。生き抜く力がないものは、死ぬのが定めだ」
それは、自然が定めた掟。
義弟の言葉に、頷きそうになる。
だが、それは、できない。
カイシュオンは、目を伏せた。
「ヴラージュ。君は強い。誰もが、君のように、強くなれない。私は、誰にも死んで欲しくないんだ」
聖司テュイルは、光輝を帯びて、穏やかに微笑む。
白蝋のようだった肌は色づき、影も腐臭も消え、嗄れた喘ぎは、朗々とした声に代わった。
「下がっていなさい。カイシュオン」
カイシュオンは、退かなかった。
「お願いしたはずです。どうしてもと、おっしゃるなら、次は、私をと」
「愛しい子よ。それは、できぬ」
ヴラジュオンが、苛立たしげに叫ぶ。
「さがっていろ。カイ」
少年は、再び、鋭い風を生んだ。
同時に、聖司の足元から、青白い焔が吹き上がる。
カイシュオンは、踏みとどまった。
今も、修学の塔の子供達の命が、次々と聖司に注がれていく。
聖司が放つ闇が、壁を這い、床をつたい、若い命を搦め捕る。少年達は、悲鳴を上げながら、見る間に、絶望と驚愕の表情を残し、死蝋と化した。
彼らの精気が、聖司へと注がれる。どれほど傷ついても、どれほど力を使っても、聖司の命は尽きない。
ヴラジュオンは、信じられないほど強かったが、彼の魔力のよりどころは、自らの、たった一つの命だけだ。
勝ち目はない。
でも、死なせない。
カイシュオンは、義弟を支える腕に力を込めた。
障壁が、軋む。ヴラジュオンは、歯を食いしばった。
このままでは、義兄を巻き込む。
「カイ。下がれ。……もたない」
ヴラジュオンの障壁が砕けた。
熱のない焔が、襲いかかる。
カイシュオンは、動かない。義弟を抱いたまま、真っすぐに、聖司を見つめた。
聖司の腕が伸ばされ、形のよい指が空を握った。
「カイシュオン」
焔は、カイシュオンの前で、かき消えた。
「ヴラージュは、だめです。死なせない」
「カイシュオン。その獣を離しなさい。それは、霊峰の地を滅ぼす者だ」
聖司の予言。
カイシュオンの瞳が陰った。
「それでも、そうだとしても…」
「カイシュオン。そなたは、次代の聖司なのだぞ」
ヴラジュオンは、自分を支える義兄を見上げた。
信じがたい言葉を聞く。
「聖司テュイル。私は、ヴラージュを犠牲にしては、聖司になれない。霊峰の地の何よりも、ヴラージュを守りたい」
聖司テュイルは、声を掠れさせた。
「何故だ」
カイシュオンは、微笑んだ。
「わかりません」
本当に、わからなかった。
何故、友よりも、老師達よりも、聖司テュイルよりも、この小さな義弟を選んでしまうのか。でも、別の選択ができない。
「聖司テュイル。私の命をとってください」
聖司の長い指が、ぎごこちなく曲げられた。
カイシュオンは、そっと、義弟を離す。
愛し子に裏切られた、守護者の怒りが、聖堂を揺るがした。霊峰の聖域を、低い地鳴りが襲う。 不吉な獣と予言された少年は、義兄の微笑みを見た。
「させるか…そんなこと、させない」
ヴラジュオンは、風を呼ぶ。
だが、もはや、影を切り裂くだけの強さはない。
思った以上に消耗していた。でも、退く事など考えない。
刀身を砕かれた剣を拾い、敵に向かって走る。
……無駄だ……
闇が、向きを代える。
「ヴラージュ」
カイシュオンは、折れた剣が、聖司の皺首に突き立てられるのを見た。
少年と聖司は、もろともに倒れ込む。
吹き出すべき血は、ない。
聖司テュイルは、哄笑とともに、闇を四方に放った。
すぐにも、再生するだろう。同胞の命を奪って。
聖餐。
歴代、どの聖司も、初めは、考える事さえ拒絶するという。
だが、力つき衰えた尊い命が、惜しまれ、同胞の命で補われる。
ためらいがちに。やがて、頻繁に繰り返される。聖司の命が、真実尽きるまで。
「聖司テュイル。貴方は、もう、ためらう事はないのですね」
……死ねない…楽園を…守護…
「いつか、守護すべき霊峰の民、全ての命をもってしても、命を贖えなくなる。それでも…」
……お…お、愛しい子……
「カイ。来るな」
ヴラジュオンは、魔物の首を断とうと、剣の柄を握る腕に力を込めた。
だが、果たせない。
義兄の手が重ねられ、引き留められた。
剣が引き抜かれる。
「小さな手だね。ヴラージュ。君には、させない」
こんなに小さくて、こんなに激しい憎しみを持って、他には、何一つ目に入らなくて……敵をとって、そして、どうするつもりなのか。
「カイ?」
……カイシュオン……
老人の鉤爪のような、指が、宙を弄る。
淡い水色の瞳から、涙が溢れた。
「聖司テュイル。貴方にも、させない」
ヴラジュオンは、自分が呪縛されたのに、愕然とした。
柔らかな、でも、強固な拘束。
力が入らない。
凍りついたように立ち尽くす。
その呪縛は、聖司にも及んでいた。命を求めて放たれた闇の触手は、優しく搦め捕られ、動きを止める。
……カイシュオン、そなたの力は、戴印されるまで使うことを禁じたはず……
義兄は、敬意を込めて、老人の手を取る。
「聖司テュイル。もう、いいのです。私は、自分の責務を引き受けましょう」
……お…お…、愛しい子。お前は、まだ、幼過ぎる。この苦痛を負うには、あまりにも……
「そう、貴方が、無理を重ねたのは、私のため。私は、聖司を継ぐのには、あまりにも幼かった。私が、もっと早くに生まれていれば、貴方は、御自分の心を蝕む程、聖餐を繰り返すこともなかった。貴方は、何も悪くない」
……カイシュオン……
「貴方に甘えた私を、許してください。そして、私に、その重荷を渡してください」
……戴印を…よいのか……
カイシュオンは、微笑んだ。
「ゆっくりと、お休みください。後は、私の役目です」
聖司テュイルの白蝋の頬を、涙が伝う。
……長かった、長い…神の…呪いのような…祝福…、愛しい子…お前がいなければ、耐えられぬ…だが、お前がいなければ……
「わかります。今ならば」
愛した故に、聖司として生き、聖司として生きねばならない為に、憎しみをも持ってしまう。
それは、霊峰の地という大きな対象にではなく……
聖司テュイルと、その愛し子の微笑みは、ともに謎めいていた。
ヴラジュオンは、指一本動かせぬ呪縛の中で、見ていることしかできない。
なのに、何が起きようとしているのかは、わかった。
聖餐を妨げられ、死に瀕した聖司が、義兄を身代わりにしようとしている。
そして、カイシュオンは、あえて受けるつもりなのだ。
ヴラジュオンは、声にならない声で叫んだ。
《嫌だ…カイ!》
老いた聖司の指が、愛しげに、義兄の白い額に触れる。
瞬間、カイシュオンは、苦痛を堪えるように目を閉ざす。
再び、水色の双眸が開かれた時、淡く輝く紋章が刻まれていた。
……守護者よ。神の祝福…あれ……
義兄は、色を失った聖司の唇に口付けた。
……聖司…カイ……
老いた聖司は、新たなる聖司の腕の中で、砂塵と化す。
カイシュオンは、ゆっくりと顔を上げた。
常と変わらぬ、穏やかな微笑みを見せる。
ヴラジュオンが、呪縛を引きちぎった。
だが、もはや叫ぶことしかできない。
「嫌だ。嫌だ、い…やだっ!」
カイシュオンは、無言で、消え行く聖司テュイルの結界を引き継いだ。
人々を阻む障壁を取り除き、脅える霊峰の民に、慰撫の念を送る。
継承は、なされた。
新たな聖司が、この地を守るのだと。
「カイ」
ヴラジュオンの手には、剣があった。押し寄せる喜びのしわぶきに、歯を食いしばる。
人々が、破壊された聖堂へ、新たな聖司を迎えに来ようとしていた。
「ヴラージュ…おいで」
新たな聖司は、義弟に手を差し伸べた。
ヴラジュオンは、心と身体の痛みに喘いだ。
カイシュオンを、殺したくなんかないのだ。父も母も無くし、この義兄しかいないのに。彼は、聖司なのだ。
どんなにしても、仇をとろうと決めた相手だった。
「お前を、聖司を…殺す」
カイシュオンは、頷いた。
「君が、許せない私になったら、そのときに」
「カ…イ」
カイシュオンは、義弟の腕を取った。剣が、甲高い音をたてて滑り落ちる。
「今は、側にいてくれ…ヴラージュ」
ヴラジュオンは、義兄の澄んだ双眸に捕らえられる。
強大な力が流れ込み、ヴラジュオンの中で、何かが閉ざされた。
「何…を」
カイシュオンは、義弟を抱きとめ、そっと囁いた。
「君の力は、封印する。君が、無茶をして命を擦り減らさないように。君が、この地に留まれるよう…皆が、君を恐れないように」
「カイ」
「すまない。私は、とても自分勝手だね。だけど…」
「……カ…イ」
「許してくれ」
聖司の優しい呟きは、力つき意識を失った少年に、届かなかった。
その日、淡い光が聖堂に満ち、やがて、霊峰の地全てを包んだという。
聖司テュイルの代が終わると、霊峰の地の守護は、聖司カイに継承された。聖司の戴冠に伴う華やかな式典は、人々に、聖地を覆う陰りを、つかの間、忘れさせたという。
五 二つめの物語り
港町の、とある商館の客間では、二つめの異端の物語が、終わりを迎えていた。
冒涜の聖者は、語り終えると唇を引き結んだ。
エリーティルは、金と翡翠の指輪を嵌めた指先が、冷えて強ばっていることに、気が付いた。傍らで年若い友が、深い溜め息をつく。
「彼は、どうなるのだろう」
エリーティルは、低く唸った。
「友よ。サルフィ。これ以上は、だめだ」
何という冒涜か。
寺院の崇める聖者を、人食いの鬼のように語るとは。 半顔を焼かれた男の罪を、今更ながらに知る。
異端の聖者は、紺碧の瞳を、商館の主に向けた。
「賢明な主よ。これ以上語れば、聞き手も罪人と見なされ、寺院に追われることになるでしょう」
サルフィは、年長の友を、縋るように見たが、商館の主は、今度こそ、友の懇願を拒んだ。
「異端の語り手よ。その恐ろしい物語とともに、去るがいい」
エリーティルが、合図すると、黒檀のような肌の奴隷が、砂金の袋を、罪人の前に置く。異端の語り手は、黙礼すると、十一弦聖琴を携え、立ち去った。
奇妙な沈黙が、垂れ込める。
あらゆる物から色が褪せ、音が遠のいた。
しばらくして、潮風が紗幕を揺らすかすかな音、漁船にまとわりつく海鳥の鳴き声が、耳に入るようになった。
だが、それも、どこか白々しい。
「エリーティル。友よ」
友の不安そうな声に、エリーティルは、苦く笑う。
「さて、次の遊びを、見つけねばなるまいね」
「エリーティル。疲れているのかい」
「ああ、そうだ。休めば……少し休めばいい」
彼らは、どうなったのだろう。
馬鹿げた、危険な心の動きを、ねじ伏せる。
年若い友は、遠い目をして、異端の語り手を見送った。初めの物語りだけを知っていた時のように、夢を見るように、ではなく、悲しげに。
「サルフィ。…忘れた方がいい」
サルフィは、年長の友人に微笑んだ。
「もちろん、そうするよ。昔の…遠い御伽噺だ。ただ、彼らは、どうなったのだろう」
「寺院のお説教を忘れたのかい。悪魔は、聖地を汚し、聖者によって、凍土に封じられるのだよ」
その言葉は、エリーティル自身にさえ、白々しく聞こえた。
港町の商人達が楽しんだ余興は、予想以上に、寺院の逆鱗に触れた。
罪人は追われ、宴を催した商人は、寺院を宥める為に大枚をはたいたという。
誰もが、冒涜の物語りは、失われたと思った。
だが、三つめの物語りは、語られるのだ。
寺院の目を逃れ、海の上で。
(第三章に続く)
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