INDEX|物語詰合せ

       
 

 
白き峰の聖司1


◆目 次◆

序 章
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
終 章



























 
   
  第一章 失われた聖女

      一 異端

 
 異端の物語りを詠む者がある。
 暗黒の凱歌、秘された聖典、それは、寺院の糾弾に、為政者の弾圧に、闇へ追われた。


 その人は、十一弦聖琴をたずさえ現れた。

 石造りの壁が、耳慣れた海鳥の羽ばたきと潮騒とを阻んでいる。港町の商館では、黒薔薇の花びらが敷きつめられ、秘密めかした宴が開かれていた。
 祭壇を模した室内は黒く染め上げられ、生け贄の羊は喉を裂かれた。豊かな人々は、飽食し、戦慄さえも楽しもうと、異端の罪人を待ち構えている。
 古びた外套が、その人の肩を滑り落ちた。
 彼の容貌があらわになると、集った人々から溜め息がもれる。聖堂に描かれた聖者のごとく、美しく厳しい素顔の左半分が、罪人として焼かれていたのだ。
 前置きもなく、初めの一音が、つま弾かれる。
 彼は、嫌悪と好奇の眼差しの中で、黒い祭壇へ向かった。
 深く豊かな声が、寺院に捧げられるべき聖句を、琴の旋律に這わせ語る。それは、皮肉に、そして清らかに澄んで響いた。


 商館の主は、傍らの友に語りかけた。
「思い違いをしていたようだな。彼は、随分おとなしいのではないかね」 
 客人は、満たされたまま減る気配のない杯を手に、苦笑した。
「このような座興では、気が乗るまい。彼が異端なのは、実は、人一倍信心深いからなのだ」
「おや、君は、彼について詳しいのかね」
「一度屋敷に招いた。彼は美しいだろう。寺院の僧の誰が、あれほど、清らかに美しいだろう。そして、彼の物語を最も厭うているのも、僧ではなく彼だ」

…選ばれし者…を
神は救いたもう。
神は与えたもう。
神は沈黙したまう。
至高の沈黙よ。
光を掲げ、闇をつくる者……

「君の口ぶりは、真性の異端のようだ。気をつけたまえよ。座興なら、お目こぼしもあるが、冒涜は許されない」
 客人は、案ずる主に向かって微笑んだ。
「冒涜者が一番多くいう言葉は、こうだろうね。冒涜とは何か。これは、罪なのか?」
「おお。サルフィ……」
 商館の主は、年若い友人の愁い顔を覗き込んだ。 あの異端者を招いたは、この友人の希望だ。しかし、座興というには、いかにも軽率だったかもしれない。
 サルフィは、年長の友人の杯に異国の美酒をそそぐと、答えた。
「君には感謝するよ。我が友よ。私は彼に会いたかった。これは、罪だろうか」
 異端の聖者の紺碧の瞳が、美しく厳しい、無残に焼け爛れた容貌が、そして、その秘めた物語りを語る豊かな声が、年若いサルフィの心を捕らえていた。
 若者は、夢をみるように遠い眼差しで呟いた。
「あの物語りは、皆が想像するほど恐ろしいものではない。寺院も彼も、何故、忌まわしいなどというのだろう」
「それは、異端だからなんだろう」
「ああ、確かに寺院の教儀とは、少し違うものだったけど、美しい哀しい御伽噺のようだったよ」
 商館の主の心は、友人の思いを込めた言葉に、少なからず動かされた。
「それは……どのようなものなんだ」
 サルフィは、異端の語り手を見つめながら、年長の友に囁いた。
「彼は、この場では語らないだろう。聞くかい?」

 その物語りは、こうして語られた。




      二 聖女


 白い花の苑に、聖別された少女が佇んでいた。
 金褐色の髪が淡く輝いて、その背に流れ落ち、華奢な指先が純白の花を摘んでいく。
 ふいに、吹くはずのない風が吹き、少女の髪を乱した。白い苑に黒い陰がさす。舞い散る花びらに目を奪われていた少女の腕を、何者かが捕らえていた。
「どなた?」
 年端もゆかぬ少女の、脅えるでもない平静な声に、侵入者は苦笑した。
「山の民ガデル」
 少女は、悪びれない少年を見つめた。
 年の頃は、そうかわらない。浅黒い肌にフィガルの革の胴着を身につけて、身に余すような大剣を負っている。あどけなさを残す頬を見る限り、一人前の戦士というには、まだ早い。
 この少年は、どうして、どうやって、敵地と言える霊峰の民の聖域に、入り込めたのだろう。結界をはっている老いた聖司の力は、それほど弱っているのだろうか。
 霊峰の民の聖別された少女は、腕をつかむ力の強さに、眉をしかめた。
「放してくださらない。山の民ガデル」
 ガデルは、あっさり少女の腕を放し、一歩身を引いた。
「お高い霊峰の民に一刀浴びせれば、自慢になるかと、ここまで来たのに、ついていない。こう可愛らしいのじゃ、却って恥になる」
 少女は、目を見張った。
「そんな事をして、何になるの」
「だから、自慢になるのさ。仇をとることにもなる。あんた達は、魔術を持っていて、山の民を卑怯な手で殺す。俺たちを山犬と侮辱する。俺たちは、山犬と仲はいいから、侮辱にはあたらならないんだが、その態度に腹はたつからな」
 少年は、霊峰の聖なる花に唾を吐く。
 その粗野な態度は、霊峰の民の鄭重な扱いに慣れた少女を驚かせた。これほど鮮やかな、生気に溢れた人間を見るのは、初めてだ。山の民とは、皆このようなのだろうか。逃げることなど思いも及ばず、聖域の侵入者を見つめる。
 ガデルは、少女の眼差しに戸惑い、苛立った。
「早く行けよ。何見ているんだ」
「まだ、花を摘み終えてないわ。祭壇に捧げるのよ」
 少年は、少女が取り落とした花を抱えあげた。
「これ以上、抱えられるのかよ」
 少女は、その白い頬を、淡く上気させる。ためらいがちに呟い
た。
「もう少し、あなたといたかったの」
 ガデルは、一抱えある花束を取り落とした。
「なんだって」
 少女は、少年の声に驚き後退る。年若い山の民の戦士は、思わず少女の腕を捕らえて引き留めた。
 純白の衣の白い、透けるように白い少女。
 本当は、初めに少女を捕らえる前、随分長い間、花を摘む少女に見惚れていたのだ。
「お前、名は何という」
「ケリュス」
 ガデルは、晴れやかな人懐こい笑みを見せた。空を映した灰青の瞳が、真っすぐに少女に向けられる。
「ケリュス。俺と来い。山の民は、女に無理強いしない。だが、お前が頷けば、さらって行くよ」
 ケリュスは、ガデルの腕の中で、何のためらいもなく頷いた。
 ケリュスには、父もなく母もない。生まれてすぐに、霊峰の神殿に捧げられた子供だった。聖別されたが故に、霊峰の民と山の民の確執を知らず、また、ガデル程、美しい少年も知らなかった。
 ガデルは、白い獲物を抱き上げた。
「霊峰の民の結界を越えるのには、つらい思いをするかも知れないぞ。本当にいいのか」
 少女は、微笑み、もう一度頷く。ガデルの首に華奢な腕を回した。
「私、貴方を助けることもできるわ」
「魔術でか。いらぬことだ。お前は、黙って攫われろ」


 この日、霊峰の神殿から、聖なる乙女が奪われた。
 霊峰の聖司が放った追っ手は、その年初めての吹雪に阻まれ、略奪者を見失ったといわれる。
 老いた聖司は、春を迎えても再度追っ手を放つことができず、力尽きて死んだ。次代の聖司バルギスも、霊峰の結界を保つことに、すべての力をそそぎ、失われた乙女を見いだす事はかなわなかった。
 そして、三度の代替わりを経て、聖司テェイルの代に、聖女ケリュスの行方は明かされる。そのとき、すでに十年の歳月が流れていた。



      三 バルデ襲撃


 ガデルは、長じて、山の民の一部族、バルデの族長となる。また、彼の少年の日の勝利の証し、聖女は、終生彼の傍らにあったという。
 彼は、山の民の戦士として、猛き長として、繰り返される部族間の戦いを勝ち抜いた。
  ガデルは、戦士だった。
 ……その最期の一息まで。


 雲間から、幾筋もの光が、降り注ぎ始めた。陽が昇る一瞬に、峻厳な山々の稜線は、白く輝く。
 だが、その美しい明け方、バルデの集落は炎上した。
 ガデルは、喪に服すための忌み小屋から走り出るなり、大槍を取って、襲撃者に投げた。
 しかし、襲撃者達には、槍も剣も矢も、届かない。
 霊峰の聖司の守護が、透明な皮膜となって、その全てを弾き返したのだ。しかもなお、その守護は、自らの兵の背に光翅を与え、山の民の手の届かぬ空へ飛翔させていた。
 ガデルは、悔しさに歯軋りする。
「卑怯者め。降りて来て戦え」
 襲撃者は、蔑みもあらわに、蛮族の長を見下ろした。
「山犬が。貴様らの土地を踏むなど、我らの足が汚れる。さあ、聖なる御方を、返すがいい。これでは、嬲り殺しにしているようで気分が悪い。降伏するなら、命ばかりは見逃してやろう」
「卑怯者に、降伏などできるか」
 ガデルが、吐き捨てるようにいうと、霊峰の神殿兵は、無造作に力を放った。
 バルデの族長の身体は、空から降る燃え立つ火の槍に、幾筋にも貫かれる。悲鳴をあげる女達と、一族の戦士の怒号が重なった。
 ガデルは、鮮血を吐気いた唇を、笑いの形に歪めた。
「ケリュスは、俺のもの。俺の妻だ。お前らには、けして渡さない」
 若い神殿兵が、飾り物のような剣を抜き、ガデルの前に降り立った。
「山犬が、聖女を汚したのか」
 傲慢な目をした青年の銀の剣が、ガデルの胸に埋まる。ガデルの血まみれの腕があがり、青年の髪をつかんだ。そのまま、恐るべき力で抱き寄せる。火を吹く槍が、ガデルもろとも神殿兵を焼いた。
 絶叫が、焼き尽くされた集落に響いた。
 仲間を失い青褪めた襲撃者達は、すでに事切れた蛮族の長に、執拗に火の槍を降らせる。
 火は大きくなり、その勢いは、天を焦がすかのようだった。汗ばむ霊峰の民は、幼い声で我に還った。
「やめろ。死者を痛め付けて、何になる」
 死者の傍らで、金褐色の髪が、火に煽られて舞っている。大きな紺碧の瞳が、襲撃者達を見据えた。
「もう一度いう。無益なことはやめろ。母は、昨日亡くなった。ここには、お前達が欲しいものなどないはずだ。立ち去れ」
 バルデの一族の男達は、無謀な子供を引き戻そうとした。
 ガデル亡き後、残された長の血筋を守るために。
「ヴラージュ、出るな」
 手を出しかけた戦士に、火の槍が向かう。
「やめろ」
 子供は、鋭く、戦士と襲撃者、双方を制した。
 神殿兵士の長は、手を上げて部下をとめ、子供に向かい語り
かけた。
「聖女ケリュスの御子か」
 子供は、蛮族の長に驚くほど似た眼差しで頷いた。
「ケリュスは、母だ。父はガデル」
「貴方の名は」
「ヴラジュオン」
 神殿兵達は、形ばかりうやうやしく礼をとった。 
「聖女ケリュスの御子ヴラジュオン殿。遅くなり申したが、お救いにあがりました」
「なんだと」
 ヴラジュオンは、耳を疑った。 
「汚らわしい山犬の間で、さぞ、ご苦労されたことでしょう。ご安心ください。我らが、聖女ケリュスに代わり、貴方を霊峰神殿へお連れいたします」
 『救う』…彼らは、半ば本気で、ヴラジュオンを救うつもりなのだ。
 父を焼いた炎の前で、ヴラジュオンは、神殿兵に捕らえられた。
 血が出るほど唇を噛み締める。
 母の野辺送りさえ済まぬ内に、父を失った。しかも、父を嬲り殺しにした男達に、慣れ親しんだ故郷から『救われ』ねばならないとは……。
 バルデの男達は、長の忘れ形見の危機に、殺気立って剣を振りかざしたが、手の届かない所にいる敵になすすべもない。
 ヴラジュオンは、彼に残された守るべき者のために、一族の男達へ叫んだ。
「俺のことはいい。何としても、ここへは二度と手を出させない。だから…後のことを頼む」
 一族の子供のせつない声に、山の民は呻き、子供の名を口々に呼び続ける。その声を振り切るように、ヴラジュオンを抱えた神殿兵の光翅は、大きく輝きを増して高く飛翔した。

 こうして、奪われた聖女の息子は、霊峰の民に保護され、『故国』へつれ戻された。



      四 霊峰神殿


 霊峰の民の地は、人知を越えた絶壁と吹きすさぶ風に守られていた。それらを克服したとしても、聖司の結界が侵入者を拒む。
 聖女の息子は、神殿兵の腕に抱かれて、霊峰の結界を越えた。
 ふいに風が途絶え、暖かな空気に包まれた。春の初めの、ほんの短い時期にしかない、芳しい緑の香りを感じる。眼下の景色は、見慣れた低木と苔に覆われた薄茶の岩肌ではなく、圧倒的な緑の樹木だった。
 ヴラジュオンの身じろぎを何と思ったのか、彼を抱く神殿兵は、薄く笑った。
「霊峰の民の地は、神に約束された、選ばれた民の豊かな地です。山犬の住処とは、比べ物になりません。貴方をお救いしたという言葉が、これでご理解いただけましょうな」
 子供の紺碧の瞳も金褐色の髪も、霊峰の民である母から受け継いだものであったが、山の民そのままの気性の激しさを見せた。
「ふざけるな。父は、お前達の魔術を越え、母を奪った。母は、お前達を捨て、父を選んだ。俺にとっては、踏みにじられた、捨てられた民の地だ」
 神殿兵は、驚いたように目を見張ったが、すぐに、面白い冗談でも聴いたかのように、声をあげ笑った。
「今に、お分かりになる」


 霊峰神殿は、緑の樹海の中心にある。
 自然の岩山をくり抜き、壮麗な彫刻で埋め尽くした神殿は、霊峰の民の精神的な支柱でもあった。
 その前庭では、色違いの石畳が、幾何学的な文様をなし、神殿に昇る巨大な石段の左右には、等間隔で灯火がおかれている。神殿のはるか高みで、闇に沈む無数の尖塔は、剣の切っ先を思わせた。
 光翅が揺らいで消える。
 神殿の前庭に集った神官の前に、空から帰還した兵士が跪いた。
  ヴラジュオンは、冷ややかに、その光景を眺める。
 兵と神官の間に、やり取りが暫く続き、どよめきが起こった。
「おかわいそうに」
「哀れな…」
 山犬の巣から救い出された哀れな少年は、歯を食いしばった。人々の哀れみは、なぶり殺された父ではなく、若くして亡くなりはしたが、けして不幸ではなかった母に向けられている。これ以上の侮辱はない。
 一際老いさらばえた神官が、よろめきながら少年に近づき、耳慣れぬ名で呼びかけた。
「ロスケリス」
「俺の名は、ヴラジュオンだ」
 老人は、歯のこぼれた口を歪めて笑った。微笑みかけたつもりらしい。
「ロスケリス。我が一族の尊き血の末裔よ。聴くがいい。己の真の出自を。その身には、一滴たりと、汚らわしい山犬の血は流れておらぬ」
「俺は、ガデルの子、ヴラジュオンだ。母が、不義を働いたとでもいうつもりか」
 少年の、幼いとはいえ、吠えるような叫びに、青白い神官達の何人かが、たじろいだ。
「いいや。尊い血脈を守るため、聖女は、夫無くして、子を身ごもる。だからこその聖女なのだ」
 青醒めた少年は、激しく頭を振る。
 そんなことは、認められない。父と母は何者にも分かちがたく、結ばれていた。二人が残した自分が、その証でないなどということが、あろうはずがない。
「お前は、純血の霊峰の民。よう帰った。ここが、お前の故郷だ。ロスケリス」
 優しげな声が、胸を裂くような痛みとともに、襲いかかる。
 母を失い、父を失い、己の出自すら奪われた少年は、低く呻いたが、目を逸らさなかった。噛みきられた唇から、血の錆びた味が広がる。
「例え、それが真実でも、俺が選ぶ名は、ヴラジュオン、父は、ガデルだ」
 神官達は、哀れむように、子供を見つめた。
「ロスケリス。我等が霊峰の民の子よ」
 失われた聖女の息子の頬を、涙が伝う。十歳になったばかりの少年は、故郷といわれる楽園で、何もかもを奪われ、ただ一人追い詰められていた。
「俺の名は、俺が選ぶ」
 その叫びは、聖なる峰に、こだましたが、人々の胸には届かなかった。



 いつの間にか、寝入ってしまった。
 気が付くと、ヴラジュオンは、柔らかな寝具にくるまれていた。
 誰かが、眠りに落ちたヴラジュオンを、寝台に運んだのだろう。
 昨夜は、意固地に、与えられた部屋の床で、うずくまって寝たのを覚えている。
 父を嬲り殺した一族の、柔らかくて美しい寝具。
 一体、自分は、こんなところで何をしているのだろう。乾いてこわばった頬が、昨日流した涙を思い出させた。
 何故、泣いたりしたのだろうか。山の民は、人前で泣くものではない。もののわからぬ赤ん坊のように泣けば、誰かが慰めてくれるとでも思ったのか。
「父さん……」
 もう、いない。
 狩りから、戦いから、戻ると、その腕に母を抱き、灰青の瞳で愛しそうに見つめた。やがて、呆れ顔で待つ息子を、少しはにかんだ、晴れやかな笑顔で振り返る。大きな手をしていて、強い力で、幼いヴラジュオンの髪をかき回す。ケリュスに、そっくりだなと、言う低い声……。
 だが、自分は、彼の息子ではないのだ。

 ヴラジュオンは、寝台から降りると、薄暗い部屋を横切って、窓の蝶番を外した。木製の窓は、軋むこともなく開き、穏やかな柔らかい日差しが差し込む。
 違う。あまりにも。
 霊峰の地は、気候さえもが違っていた。
 山の民の棲む山岳の、厳しい日差しと、激しい風雨。夜半から明け方にかけた、冴えて凍るような大気。ここには、それがない。
 ただただ穏やかな、豊かな世界だった。
 母が、長く生きることができなかったのは、当然だったのだ。このような世界で生まれて、どうやって、生きる力を身につけられるだろう。
 ヴラジュオンは、軽い足音を聞いて、振り返った。
 戸口に現れた人影は、開かれた窓の前に少年の姿をみとめると、部屋に入るのをためらった。思いがけない、絵画のような情景を、壊したくなかったのだ。
 降り注ぐ日差しが、振り向いた子供の輪郭をにじませ、母譲りの金褐色の髪は、淡く輝いている。
「誰だ」
 ヴラジュオンの声は、堅く鋭いものだった。その紺碧の瞳も、飢えた獣のように険しく、夢見るような印象を損なった。
「おはよう。ロスケリス」
 それは、ヴラジュオンより少し年上の少年だった。宥めるように、穏やかな笑顔を見せる。
 ヴラジュオンは、半ばやけになって、吐き捨てるように言った。
「俺は、ヴラジュオンだ」
 笑顔の少年は、ヴラジュオンの気分には頓着せず、当然のように尋ねた。
「ヴラジュオン・ロスケリス。長いね。舌をかみそうだ。普段は何と呼ばれていたのかな」
 ヴラジュオンは、呆気にとられた。この霊峰の民の少年は、舌をかみそうと言ったくせに、本人でも面倒に思う長ったらしい名と、胸糞悪い新しい名を、続けて滑らかに発音してのけた。
「ヴラージュだ。面倒がってラジと呼ぶ奴もいる」
「ヴラージュ、ラジ……ラジの方が呼びやすいけど、ヴラージュの方が似合う。それじゃ、ヴラージュ。私は、カイシュオン。カイと呼んでくれるかな」
 ヴラジュオンは、差し出された手を、その意味する所は察したが、拒んだ。
「俺は、昨日の今日で、霊峰の民に利き手を預けるほど、間抜けに見えるか」
 カイは、首を傾げた。
「聖女ケリュスのことは、残念だったけど、さらわれていた君が、戻って、皆喜んでいるよ。あの、もしかして、助けに行くのが遅くなって、怒っているのかな。でも、それは…ヴラージュ?」
 ヴラジュオンは、カイから顔を背けた。彼が、本気で、好意で、そう言っているのが、わかったからだ。
 たぶん、昨夜の神官も、あの兵ですら、そうなのだ。
 カイは、ヴラジュオンの手を取った。
「ヴラージュ。君は、まだ、ここのことを、まるで知らないのだったね。少し話をしてもいいだろうか」
 ヴラジュオンは、顔を顰めたが、ともかく自分の名を呼んでくれる少年の手を、振り払うだけの決心は付かなかった。
 カイシュオンは、戸惑いながらも、少年のかたくなな心をほぐそうと、言葉を探した。
「ここは、霊峰神殿の中でも、修学の塔といわれている。子供達が、両親の元を離れて暮らし、学問を修める所だ。年上の者が、年下の者を、学問でも生活の面でも導くことになっていて、義理の兄弟となる。そして、今日から、私が、君の義兄だ。義弟を持つのは、初めてなので、何か失敗したんだね。君を傷つけてしまったようだ。どうか許して欲しい」
 ヴラジュオンは、ぼんやりと呟いた。
「兄?お前が?」
 霊峰の民が、父を嬲り殺しにした一族が…
 カイは、ヴラジュオンの髪を撫でた。
「根拠のないことでもないんだよ。私も、聖女から生まれた子供なんだ。私の母は、聖女カセリス。私たちに、父はないけど、母は同じ聖女だ。聖女の生まれる家系は、限られているから、たぶん従兄弟くらいに、血は近いと思うよ」
 ヴラジュオンは、背の高い少年を見上げた。
 カイの淡く澄んだ水色の瞳が、優しく見つめている。山の民の男だとしたら、許しがたいほど、華奢で繊細だ。その白い容貌は、母を思わせた。
「俺は、母が好きだったから、霊峰の民は、嫌いじゃなかった。だけど……父を殺したから、俺をこんな所に『救い』出したから、嫌いになった。俺は、あそこにいたかったんだ。山の民でいたかったんだ」
 カイシュオンは、義弟の告発に衝撃を受けた。
「君は、山の民の中で、幸せだったの」
 ヴラジュオンは、顔を歪めた。
「嫌なことがなかったわけじゃない。俺は、『霊峰の卑怯者』の血を引いていたからな。だけど……」
 こらえられない涙が、流れ落ちる。
 カイシュオンは、新しい義弟の小さな肩を抱いた。
「……ごめんよ。ヴラージュ。ヴラジュオン。許してくれ。悪かった。私達は、君に酷いことをしたんだな。ヴラージュ……帰してあげられればいいけど……私には……」
 ヴラジュオンは、何とか嗚咽を飲み込むと、カイシュオンから身をもぎ離した。霊峰の民に、慰めて欲しいわけじゃない。まだ潤んでいる紺碧の瞳で、義兄を見据える。
「俺は、帰れない。では、ここで何をするんだ」
「学ぶこと。……霊峰の民として」
 ヴラジュオンは、言い淀んだカイシュオンに、笑って見せた。
「いいだろう。カイ。教えてくれ。たぶん、そうした方がいい……そうするしかないんだろうから」
 カイシュオンは、躊躇なく頷いた。
 ヴラジュオンの身に起こった事を考えてみる。
 まだ幼い義弟の強さには、驚かされた。山の民とは、皆こうなのだろうか。
 いや、この子供は、生粋の霊峰の民なのだ。これは、この子の、ヴラジュオンの強さなのだ。
「もちろんだよ。ヴラージュ」
 カイシュオンは、義弟に優しく微笑みかけた。


 失われた聖女の息子は、霊峰神殿の手で取り戻され、その後の何年かを、修道の塔にて養われた。慣例により、義兄として彼を導いたのは、後の聖司カイであったという。




      五 初めの物語り


 港町の、とある商館では、酔狂な宴は、次の演出に移ろうとしていた。
 雇われた娼技達が、陽気な楽の音とともに、華やかな姿を見せる。陰鬱な演出は、魔法のように取り払われ、漆黒の帳の影から、金銀細工の装飾が現れた。
 エリーティルは、そっと息を吐いた。
 サルフィは、立ち去ろうとしている異端の聖者に視線を戻した。
「彼が、行ってしまう」
 年少の友人の悲しげな呟きに、商館の主の顔はくもった。
「人をやって、そっと呼び止めてやろう」
「いいのかい。エリーティル」
「我が友よ。君から物語を聞いていると、私も悪魔の生い立ちに同情して、泣けて来そうだ。君が紺碧の瞳に弱いのは、よく分かったよ。その先の物語りは、正しい語り手から聞こうじゃないか」
 エリーティルは、金と翡翠の指輪を嵌めた指先で、合図をおくる。黒檀のような肌をした召使いが、主人の傍らへ音もなく跪いた。
「彼を、客室へ止めておけ。寺院の間者に、鼻薬を嗅がせるのを忘れるなよ」
「畏まりました。旦那様。仰せのままに」
 黒い奴隷は、主の指先に触れると、身を翻した。 
 エリーティルは、再び年若い友に向き合い、諭すように言った。
「サルフィ。私は、ほんの初めの物語りを、聞いただけだ。だが、この話は、私以外の者にしないほうがいい。我らの聖典では、故国を食らい尽くそうとした悪鬼を、聖者がこらしめ凍土に封じた、とあるのだ。それは、あの少年と同じ名の悪魔だ」
「ああ、彼は、とても可哀想だ」
 夢見がちな青年は、いまだに物語の世界で浮遊している。エリーティルは、辛抱強く言い継いだ。
「これは、確かに、寺院を逆なでする物語なんだ。彼らの起源を危うくする。この御伽噺を真実と信じる者がいれば…だがね。君のように」
 サルフィは、さすがに気がさしたように言った。
「まさか、私だって、信じている訳じゃないよ。だって、ただの物語だ」
 だが、目が裏切っている。エリーティルは、小さく溜め息をついた。 
「嘘は言わなくていい。正直にいえば、もはや私ですら、彼の運命を、聞かないで済ます事はできそうもない。結末は、とても恐ろしい物になってしまいそうだがね」

 次の物語りは、異端の聖者の深く甘い声で、語られることになった。

                    (第二章に続く)

 

  INDEX|物語詰合せ

     

前頁 次頁