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2013.01.24. 掲載
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目次
1.はじめに
2.母の愛唱歌
3.娘時代の母の歌
4.遺された楽譜
5.母に請われて唄った歌
6.まとめ
昨年12月の弟の誕生日に、彼が生まれたころの状況をメールに書いて送ったところ、元気だったころの母を断片的にしか知らず、病身の姿を思い出すことの方が多いというメールが返ってきた。
調べて見ると、彼が3歳の時、母は結核を発病して療養が始まっている。幼少期から寂しい思いで過ごすことが多かったに違いない。母の病状は一進一退をとりながら、確実に進行し、最後の数年間は寝たきりの状態だった。それはちょうど、彼の大学受験期に重なる。記憶にあるのは病身の母であると言うのは、その通りだったのだろう。母が亡くなった時、彼は20歳、私は29歳だった。
息子は、もちろんこの祖母を知らないが、先日、母の楽譜を見せると、驚き、興味があるようだった。母のことを今一番よく知っているのは私だから、少なくともこの二人のために、母のことを書き残して置こうと思う。
母と言えば、私には歌を唄っていた姿がまず目に浮かぶ。私が歌好きであることの最大の要因が母の歌であることは間違いあるまい。弟も息子も相当な音楽好きであり、母の思い出を歌から始めようと思う。
1945年(昭和20年)3月に神戸は大空襲を受け、4月から私は学童疎開で12月まで親元を離れていた。母の歌を一番よく聴いたのは、翌年の1946年1月から妹が亡くなるまでの1年半足らずである。
今から思うと、この時期は母が最も元気で、笑顔にあふれ、歌を絶えず歌い、家の前の運動場でテニスをするなど躍動していた。母はテニスを女学校時代に覚えたようだが、私はそのような母を誇らしく思っていた。
私にとっても、この時期は人生で経験した最初の素晴らしい時間だった。周囲は焼け跡だらけ、食べるもの、着るものに乏しく、今の人には想像もできない貧しい生活だったが、戦争のない平和な世界をはじめて知って、子どもたちの心は晴れやかに弾んでいた。受験勉強も、お稽古ごとにも無縁で、日が暮れるまでひたすら外で遊ぶことが許されていた時代だった。
そして、小学校から大学までの学校生活全体を通して、ほかと比較できるものがない素晴らしい小学4年庄野学級を過ごせたのだった。このような幸運に遭遇できたことに対して、心底感謝している。この小学4年庄野学級については、これまでに8タイトルの記事をこのサイトに掲載している。
小学4年庄野学級と母の歌にどのような関係があるのか不審に思われるかもしれないが、大いに関係しているのだ。
昼の給食が終ると、担任の庄野先生はよく「野村君、何か唄って聞かせてちょうだい」と仰る。そう言われると、私はいつも、「ちょっと水を飲んできます」と、手洗い場に行ってから唄うのだった。
その時に唄った歌は、「オ・ソレ・ミオ」や 「帰れソレントへ」、「からたちの花」などのおませな歌が多かったのだが、先生は熱心に聞いて下さった。その頃は、まだボーイソプラノの澄み切った声だったので、先生のお好みに叶っていたのかも知れない。どの歌も、母が唄っているのを聞いて覚えたものばかりだった。
母がPTAの集いで「からたちの花」を独唱するのを聞いて、ファンになったという庄野学級のクラスメートがいることも知った。
母が唄っているのを聴いて覚え、私が今も唄える歌11曲を歌と思い出 2に載せているが、これ以外にもまだかなりある。
私よりも活発でお転婆だった妹が麻疹に罹り、3日で亡くなった。妹:7歳、母:36歳、私:11歳、弟:2歳であった。妹が亡くなって間もなく、母は結核に冒され療養する身となった。思いもしない我が子の死に対する心労が、結核発病の病因であると誰もが思った。1948年(昭和23年)のことである。
妹が亡くなるまでの母は、歌が好きで、家の中に歌声の聞えない日がなかった。家事をしながら、ソプラノのきれいな声で楽しそうに歌っていた。そのほとんどは歌曲で、欧米のもののほか、日本の作曲家では山田耕筰や橋本国彦の曲を好んだ。しかし、流行歌(歌謡曲)の類は歌わず、私がラジオで聞き覚えた流行歌を歌うのも好まないようだった。
中学生のころから、私がアメリカのポピュラーソングを歌うようになると、母も自分が好むポピュラーを歌うようになった。映画「帰らざる河」の主題歌「The River Of No Return」を英語で唄うのを聴いて驚いたのを覚えている。旧制高等女学校は英語もしっかり教えていたようで、フォスターの 「My Old Kentucky Home」 を英語でよく歌っていた。
私がところ構わず鼻歌を唄い、人前で唄うのが恥ずかしくないのも、もっと言えば、歌好きなこと自体、この母のせいではないかと思っている。
●邦楽歌曲
お菓子と娘
かもめ
からたちの花
浜辺の歌
昼の夢
椰子の実
●洋楽歌曲
アベ・マリア(グノー)
アベ・マリア(シューベルト)
ある晴れた日に
君よ知るや南の国
シューベルトの子守歌
ソルベーグの歌
たゆとう小舟
嘆きのセレナード
野薔薇(シューベルト)
夜のしらべ(グノーのセレナーデ)
●カンツォーネ
うるわしの白百合(讃美歌496番)
みどりもふかき(讃美歌122番)
四葉のクローバー
●カントリ&ウエスタン
オ−ルド・ブラック・ジョ−
帰らざる河
マイ・オールド・ケンタキー・ホーム
母は「浜辺の歌」に何か特別の思いがあるようだった。女学校の時に上野を受けるように音楽の先生に薦められたが、父親が急死したために、それが叶わなかったと言っていた記憶がある。
今、調べると、父親は母が8歳の時にスペイン風邪で急死して、母親の女手一つで育てられたようなので、在学中の急死ではない。上野の音楽学校に行きたかったが、女学校へ行けただけで精一杯だったのだろうと想像がつく。この曲には、そのことに関係する思い出があるのではないかと思っている。
女学校を卒業すると、母は大阪に出て、大丸百貨店の秘書課に勤め、里見専務の専属秘書として働いたと聞く。そのころの写真を見ると、大阪ロータリークラブの招待で、「からたちの花」などを独唱したり、コーラスで、JOBK 大阪中央放送局に出演したりしている。
父の本箱の下に二つ引き出しがあり、右側に母の楽譜が入っていた。私は小さいころから、この引き出しの中のものを取り出して、よく遊んだ。母の楽譜の表紙には、旧姓(石崖)の丸印が押してある。
今から80年〜90年前の楽譜が手許にあることに感動し、デジタル化を行い、永久保存を計った。
楽譜目次
1.流浪の民(ロベルト・シューマン作曲)
2.魔王(シューベルト作曲)
3.かもめ(弘田龍太郎作曲)
4.ハレルヤコーラス(ヘンデル作曲)
5.君よ知るや南の国(トーマス作曲)
6.私の太陽(カプア作曲)
7.今宵こそは(主題歌集)
8.歓喜の歌(グルック作曲 歌劇「オルフォイス」から)
9.ある晴れた日の(プッチーニ作曲 歌劇「蝶々夫人」より)
10.One Hundred and One Best Songs
1924年(大正13年)10月10日 セノオ音楽出版社 30銭
母の女学校卒業が1927年(昭和2年)なので、この楽譜は女学校時代のものかもしれない。よく鼻歌で唄っていた。表紙にも女学校用女声四部合唱とある。
1928年(昭和3年)3月15日 セノオ音楽出版社 30銭
この楽譜はこどもの頃から恐かった。高校生のころ、ゲルハルト・ヒッシュの唄うシューベルトの歌曲、特に「冬の旅」を毎日のように一緒に唄っていたが、「魔王」の日本語の歌詞はこの楽譜で唄った。
ここからの楽譜は、女学校卒業後に購入した楽譜となる。
1929年(昭和4年)8月12日 シンキョウ楽譜 40銭
この歌を母はときおり唄っていた。叙情的な寂しい感じの曲だった。
1929年(昭和4年)8月15日 新響社 30銭
この曲を母はよく唄っていた。JOBKに出演した時に、この曲を唄ったのではないかと思う。
1929年(昭和4年)8月20日 セノオ音楽出版社 30銭
母はこの「君よ知るや南の国」曲が好きで、良く唄っていた。この曲と「からたちの花」と「お菓子と娘」の3曲が特にお気に入りだったと思う。
1929年(昭和4年) 8月27日 セノオ音楽出版社 30銭
母はナポリ民謡(カンツォーネ)もよく唄っていたが、その中で、この「オ・ソレ・ミオ」や「帰れソレントへ」のような情熱的な歌が好きだったようだ。その血を引くのか、私も同じなので苦笑する。
1934年(昭和9年)11月10日 東京音楽書院 20銭
この曲は、ドイツ映画 今宵こそは(Das Liedeiner Nacht)の主題歌である。この歌を唄うとき、母は少し恥じらいながら幸せそうだった。母はよく「我が家の誕生日は5月16日よ」と私たちこどもに語ったが、1935年(昭和10年)のその日に結婚式を挙げたのだった。その前年に、この映画を父と一緒に観たのだろうと想像している。
この楽譜の裏表紙が欠けているので、出版社や出版年月日などは不明であるが、ハレルヤコーラスなどと同じ頃ではないかと思う。この曲も母はよく唄っていた。生き生きとしてリズミカルな、題名通りの喜びあふれる歌で、私も嬉しいときによく唄った。
この曲も表紙を欠くので、出版社や出版年月日などは不明である。この歌を唄うとき、母は「私もアリアを唱える」という雰囲気だったが、母には似合わない感じがした。
母は美しい声のソプラノだったが、ソプラノ歌手特有の歌い方ではなく、素直で、聴いていて心地よかった。幼いころから、母の歌をうるさいと思ったことは一度もない。
1919年(大正8年)The Cable Company刊
母はこの「One Hundred and One Best Songs」という101曲の歌を載せた楽譜を大事に持っていて、この中にある、「My Old Kentucky Home」などを英語でよく唄っていた。
この楽譜は、当時からかなり傷んでボロボロになっていたので、私を含めた誰かが捨ててしまったのだろう。Webで検索したところ、1919年(大正8年)にThe Cable Companyから刊行されたこの楽譜の表紙の画像を見つけたので、ここに掲載した。
母は歌を聴くより唄う方が好きな人間だった。私がものごころの付いたころから、家の中では母の歌のない日はなかった。しかし、亡くなる前の数年間は、少し身体を動かしただけでも呼吸困難になり、寝たきりの状態だった。もちろん、歌を唄うことなどはまったくできない。
その状態になってから、母に請われて、よく私は唄ったが、いつも二つの讃美歌だった。それは、「うるわしの白百合」と「みどりもふかき」で、それを聴く母はいつも嬉しそうだった。
告別式で会衆が唄う故人愛唱歌として、「みどりもふかき」を私が選んだのは、こちらの方が「うるわしの白百合」よりも唱いやすいからである。
母の讃美歌は1931年版と呼ばれる1931年(昭和6年)出版のもので、1954年版が出版されるまで、20年以上にわたって使用されたと聞く。その表紙と譜面をここに載せる。
「みどりもふかき」のオルガン演奏を
http://j-ken.com/category/all/data/821319/ で聴くことができる
「うるわしの白百合」を森山良子が唄うのを
http://www.youtube.com/watch?v=PXflupuk7Oo で聴くことができる
映像は「Great life of Mother Theresa」
私の覚えていることと、残っている資料を使って、母の歌に関するまとめを作った。
私が2000年に作った歌のデータ・ベース1000曲の中で、母の愛唱歌は25曲(2.5%)に過ぎないが、そのいずれもが、9歳から10歳の2年足らずで覚えたものばかりで、そのうちの半分は今でもそらんじて唄うことができる。私の歌の基礎は、この25曲であると言って間違いはあるまい。
私が歌好きであり、人前で唄うことを気にせず、絶えず鼻歌や頭の中で唄い、時に発作的に大声で唄うことも母の影響だと思っている。そのような母の子である幸運に感謝している。
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