第8章 地球浄化の大事業
第1節 科学の浄化
一九一九年三月十二日 水曜日

さて、今やキリストの軍勢に加わった吾々はキリストのあとについて降下しました。いくつかの序列にしたがった配置についたのですが、言葉による命令を受けてそうしたのではありません。

それまでの鍛錬によって、直接精神に感応する指示によって自分の持ち場が何であるか、何が要求されているかを理解することができます。それで、キリストとの交霊によって培われた霊感にしたがって各自が迷うことなくそれぞれの位置につき、それぞれの役割に取りかかりました。

ではここで、地球への行軍の様子を簡単に説明しておきましょう。地球の全域を取り囲むと吾々は、その中心部へ向けていっせいに降下していきました。こういう言い方は空間の感覚──三次元的空間の発想です。

吾々の大計画の趣旨を少しでも理解していただくには、こうするよりほかに方法がないのです。

キリストそのものは、すでに述べましたように、遍在しておりました。絶大な機能をもつ最高級の大天使から最下層の吾々一般兵士にいたるまでの、巨万の大軍の一人一人の中に同時に存在したのです。自己の責務について内部から霊感を受けていても、外部においては整然とした序列による戦闘隊形が整えられておりました。

最高の位置にいてキリストにもっとも近い天使から(キリストからの)命が下り、次のランクの天使がそれを受けてさらに次のランクへと伝達されます。

その順序が次々と下降して、吾々はそれをすぐ上のランクの者から受け取ることになります。その天使たちは姿も見えます。姿だけでしたら大体三つ上の界層の者まで見えますが、指図を受けるのは、よくよくの例外を除けば、すぐ上の界層の者からにかぎられます。

さて吾々第十界の者がキリストのあとについて第九界まで来ると、吾々なりの活動を開始しました。まず九界全域にわたってその周囲を固め、徐々に内部へ向けて進入しました。するとキリストとその従者が吾々の界に到着された時と同じ情景がそこでも生じました。

九界にくらべて幾分かでも高い霊性を駆使して吾々は、その界の弱い部分を補強したり、歪められた部分を正常に修復したりしました。それが終了すると、続いて第八界へと向かうのでした。

それだけではありません。九界での仕事が完了すると、ちょうど十一界の者と吾々十界の者との関係と同じ関係が、吾々と九界の者との間に生じます。

つまり九界の者は吾々十界の者の指図を受けながら、吾々のあとについて次の八界へ進みました。八界を過ぎると、八界の者は吾々から受けた指図をさらに次の七界の者へと順々に伝達していきます。

かくしてこの過程は延々と続けられて、吾々はついて地球圏に含まれる三つの界層を包む大気の中へと入っていきました。

そこまでは各界から参加者を募り、一人一人をキリストの軍勢として補充していきました。しかしここまで来ていったんそれを中止しました。と言うのは、地球に直接つながるこの三つの界層は、一応、一つの境涯として扱われます。

なぜなら地球から発せられる鈍重な悪想念の濃霧に包まれており、吾々の周囲にもそれがひしひしと感じられるのです。

黙示録にいう大ハルマゲドン(善と悪との大決戦──16・16)とは実にこのことです。吾々の戦場はこの三つの界層にまたがっていたのです。そしてここで吾々はいよいよ敵からの攻撃を受けることになりました。

その間も地上の人間はそうしたことに一向にお構いなく過ごし、自分たちを取り巻く陰湿な電気を突き通せる人間はきわめて稀にしかいませんでした。が、

吾々の活動が進むにつれてようやく霊感によって吾々の存在を感じ取る者、あるいは霊視力によって吾々の先遺隊を垣間見る者がいるとの話題がささやかれるようになりました。

そうした噂を一笑に付す者もいました。吾々を取り巻く地上の大気に人間の堕落せる快楽の反応を感じ取ることができるほどでしたから、多くの人間が霊的なことを嘲笑しても不思議ではありません。

そこで吾々は、この調子では人間の心にキリストへの畏敬の念とその従僕である吾々への敬意が芽生えるまでには、よくよく苦難を覚悟せねばなるまいと見て取りました。しかしそのことは別問題として、先を急ぎましょう。

とは言え、吾々の作戦活動を一体どう説明すればよいのか迷います。もとより吾々は最近の地上の出来ごとについて貴殿によく理解していただきたいとは願っております。

すばらしい出来ごと、地獄さながらの出来ごと、さらには善悪入り乱れた霊の働きかけ──目に見えず、したがって顧みられることもなく、信じられることもなく、しかし何となく感じ取られながら、激しい闘争に巻き込まれている様子をお伝えしたいのです。

貴殿の精神の中の英単語と知識とを精一杯駆使して、それを比喩的に叙述してみます。それしか方法がないのです。が、せめてそれだけでも今ここで試みてみましょう。

地球を取り巻く三層の領域まで来てみて吾々は、まず第一にしなければならない仕事は悪の想念を掃討してしまうことではなく、善の想念へ変質させることであることを知りました。

そこでその霧状の想念を細かく分析して最初に処理すべき要素を見つけ出しました。吾々より下層界からの先遺隊が何世紀も前に到着してその下準備をしてくれておりました。ここでは吾々第十界の者が到着してからの時期についてのみ述べます。

地球の霊的大気には重々しくのしかかるような、どんよりとした成分がありました。実はそれは地上の物質科学が生み出したもので、いったん上昇してから再び下降して地上の物質を包み、その地域に住む人々に重くのしかかっておりました。

もっとも、それはたとえ未熟ではあっても真実の知識から生まれたものであることは確かで、その中に誠実さが多量に混じっておりました。

その誠実さがあったればこそ三つの界層にまで上昇できたのです。しかし所詮は物的現象についての知識です。いかに真実味があってもそれ以上に上昇させる霊性に欠けますから、再び物質界へと引き戻されるにきまっています。

そこで吾々はこれを〝膨張〟という手段で処理しました。つまり吾々は言わばその成分の中へ〝飛び込んで〟吾々の影響力を四方へ放散し、その成分を限界ぎりぎりまで膨らませました。膨張した成分はついに物質界の外部いっぱいにまで到着しました。が、

吾々の影響力が与えた刺戟はそこで停止せず、みずからの弾みで次第に外へ外へと広がり、ついに物質界の限界を超えました。

そのため物的と霊的との間を仕切っている明確な線──人間はずいぶんいい加減に仕切っておりますが──に凹凸が生じはじめ、そしてついに、ところどころに小さなひび割れが発生しました──最初は小さかったというまでで、その後次第に大きくなりました。

しかし大きいにせよ小さいにせよ、いったん生じたひび割れは二度と修復できません。

たとえ小さくても、いったん堤防に割れ目ができれば、絶え間なく押し寄せていたまわりの圧力がその割れ目をめがけて突入し、その時期を境に、霊性を帯びた成分が奔流となって地球の科学界に流れ込み、そして今なおその状態が続いております。

これでお分かりのように、吾々は地上の科学を激変によって破壊することのないようにしました。過去においては一気に紛砕してしまったことが一度や二度でなくあったのです。

たしかに地上の科学はぎこちなく狭苦しいものではありますが、全体としての進歩にそれなりの寄与はしており、吾々もその限りにおいて敬意を払っていました。それを吾々が膨張作用によって変質させ、今なおそれを続けているところです。

カスリーン嬢の援助を得て私および私の霊団が行っているこの仕事は今お話したことと別に関係なさそうに思えるでしょうが、実は同じ大事業の一環なのです。

これまでの吾々の通信ならびに吾々の前の通信をご覧になれば、科学的内容のもので貴殿に受け取れるかぎりのものが伝えられていることに気づかれるでしょう。大した分量ではありません。それは事実ですが、貴殿がいくら望まれても、能力以上のものは授かりません。

しかし、次の事実をお教えしておきましょう。この種の特殊な啓示のために貴殿よりもっと有能で科学的資質を具えた男性たち、それにもちろん少ないながらも女性たちが、着々と研さんを重ねているということです。道具として貴殿よりは扱いやすいでしょう。

その者たちを全部この私が指導しているわけではありません。それは違います。私にはそういう資格はあまりありませんので・・・・。各自が霊的に共通性をもつ者のところへ赴くまでです。そこで私は貴殿のもとを訪れているわけです。

科学分野のことについては私と同じ霊格の者でその分野での鍛錬によって技術を身につけている者ほどにはお伝えできませんが、私という存在をあるがままにさらけ出し、また私が身につけた知識はすべてお授けします。

私が提供するものを貴殿は寛大なる心でもって受けてくださる。それを私は満足に思い、またうれしく思っております。

貴殿に神のより大きい恩寵のあらんことを。今回の話題については別の機会に改めて取りあげましょう。貴殿のエネルギーが少々不足してきたようです。
アーネル †


第2節 宗教界の浄化
一九一九年三月十七日 月曜日

次に浄化しなければならない要素は宗教でした。これは専門家たちがいくら体系的知識であると誇り進歩性があると信じてはいても、各宗教の創始者の言説が束縛のロープとなって真実の理解の障害となっておりました。

分かりやすく言えば、私が地上時代にそうであったように(四章2参照)ある一定のワクを超えることを許されませんでした。そのワクを超えそうになるとロープが──方向が逆であればなおのこと強烈に──その中心へつながれていることを教え絶対に勝手な行動が許されないことを思い知らされるのでした。

その中心がほかでもない、組織としての宗教の創始者であると私は言っているのです。イスラム教がそうでしたし、仏教がそうでしたし、キリスト教もご多分にもれませんでした。

狂信的宗教家が口にする言葉はなかなか巧みであり、イエスの時代のユダヤ教のラビ(律法学者)の長老たちと同じ影響力を持っているだけに吾々は大いに手こずりました。

吾々は各宗教のそうした問題点を細かく分析した結果、その誤りの生じる一大原因を突きとめました。

私は差しあたって金銭欲や権力欲、狂言という言わば〝方向を間違えた真面目さ〟、自分は誠実であると思い込んでいる者に盲目的信仰を吹き込んでいく偽善、こうした派生的な二次的問題は除外します。

そうしたことはイスラエルの庶民や初期の教会の信者たちによく見られたことですし、さらに遠くさかのぼってもよくあったことです。私はここではそうした小さな過ちは脇へ置いて、最大の根本的原因について語ろうと思います。

吾々は地球浄化のための一大軍勢を組織しており、相互に連絡を取り合っております。が各小班にはそれぞれの持ち場があり、それに全力を投入することになっております。

私はかつて地上でキリスト教国に生をうけましたので、キリスト教という宗教組織を私の担当として割り当てられました。それについて語ってみましょう。

私のいう一大根本原因は次のようなことです。

地上ではキリストのことをキリスト教界という組織の創始者であるかのような言い方をします。が、それはいわゆるキリスト紀元(西暦)の始まりの時期に人間が勝手にそう祭り上げたにすぎず、以来今日までキリスト教の発達の頂点に立たされてきました。

道を求める者がイエスの教えに忠実たらんとして教会へ赴き、あの悩みこの悩みについて指導を求めても、その答えはいつも〝主のもとに帰り主に学びなさい〟と聞かされるだけです。

そこで、ではその主の御心はどこに求めるべきかを問えば、その答えはきまって一冊の書物──イエスの言行録であるバイブルを指摘するのみです。その中に書かれているもの以外のものは何一つ主の御心として信じることを許されず、結局はそのバイブルの中に示されているかぎりの主の御心に沿ってキリスト教徒の行いが規制されていきました。

かくしてキリスト教徒は一冊の書物に縛りつけられることになりました。なるほど教会へ行けばいかにもキリストの生命に満ち、キリストの霊が人体を血液がめぐるように教会いっぱいに行きわたっているかに思えますが、しかし実はその生命は(一冊の書物に閉じ込められて)窒息状態にあり、身体は動きを停止しはじめ、ついにはその狭苦しい軌道範囲をめぐりながら次第に速度を弱めつつありました。

記録に残っているイエスの言行が貴重な遺産であることは確かです。それは教会にとって不毛の時代を導く一種のシェキーナ(ユダヤ教の神ヤハウェが玉座で見せた後光に包まれた姿──訳者)のごときものでした。

しかし、よく注意していただきたいのは、例のシェキーナはヤコブの子ら(ユダヤ民族)の前方に現れて導いたのです。

その点、新約聖書は前方に現れたのではなく、のちになって崇められるようになったものです。それが放つ光は丘の上の灯台からの光にも似てたしかに真実の光ではありましたが、それは後方から照らし、照らされた人間の影が前方に映りました。

光を見ようとすれば振り返って後方を見なければなりません。そこに躓(ツマズ)きのもとがありました。前方への道を求めて後方へ目をやるというのは正常なあり方ではありません。

そこに人間がみずから犯した過ちがありました。人間はこう考えたのです──主イエスはわれらの指揮者(キャプテン)である。主がわれらの先頭に立って進まれ、われらはそのあとに付いて死と復活を通り抜けて主の御国へ入るのである、と。

が、そのキャプテンの姿を求めて彼らは回れ右をして後方へ目をやりました。それは私に言わせれば正常ではなく、また合理性にそぐわないものでした。

そこで吾々は大胆不敵な人物に働きかけて援助しました。ご承知の通りイエスは自分より大きい業(ワザ)を為すように前向きの姿勢を説き、後ろから駆り立てるのではなく真理へ手引きする自分に付いてくるように言いました。(※)

そのことに着目し理解して、イエスの導きを信じて大胆に前向きに進んだ者がいました。

彼らは仲間のキリスト教者たちから迫害を受けました。しかし次の世代、さらにその次の世代になって、彼らの蒔いたタネが芽を出しそして実を結びました。(※ヨハネ14・12)

これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛したことです。

生ける生命を一冊の書物によってがんじがらめにしたことです。バイブルの由来と中味をあるがままに見つめずに──それはそれなりに素晴らしいものであり、美しいものであり、大体において間違ってはいないのですが──それが真理のすべてであり、その中には何一つ誤りはないと思い込んだのです。

しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いております。四人の福音書著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)によって伝えられたバイブルの中のわずかな言行は、およそキリスト教という流れの始源などではあり得ません。

その先の広い真理の海へと続く大きい流れの接点で立てているさざ波ていどのものにすぎません。

そのことに人間は今ようやく気づきはじめています。そしてキリストは遠い昔の信心深き人々に語りかけたように今も語りかけてくださることを理解しはじめております。

そう理解した人たちに申し上げたい──迷わず前進されよ。後方よりさす灯台の光を有難く思いつつも、同時に前方にはより輝かしい光が待ちうけていることを、それ以上に有難く思って前進されよ、と。

なぜなら当時ナザレ人イエスがエルサレムにおられたと同じように今はキリストとして前方にいらっしゃるからです。(後方ではなく)前方を歩んでおられるのです。

恐れることなくそのあとに付いて行かれることです。手引きしてくださることを約束しておられるのです。あとに付いて行かれよ。躊躇しても待ってはくださらないであろう。福音書に記されたことを読むのも結構であろう。が、

前向きに馬を進めながら読まれるがよろしい。〝こうしてもよろしいか、ああしてもよろしいか〟と、あたかもデルポイの巫女に聞くがごとくに、いちいち教会の許しを乞うことはお止めになることです。そういうことではなりません。

人生の旅に案内の地図(バイブル)をたずさえて行かれるのは結構です。進みつつ馬上で開いてごらんになるがよろしい。少なくとも地上を旅するのには間に合いましょう。

細かい点においては時代おくれとなっているところがありますが、全体としてはなかなかうまく且つ大胆に描かれております。しかし新しい地図も出版されていることを忘れてはなりません。ぜひそれを参照して、古いものに欠けているところを補ってください。

しかし、ひたすら前向きに馬を進めることです。そして、もしもふたたび自分を捕縛しようとする者がいたら、全身の筋肉を引きしめ、膝をしっかりと馬の腹に当てて疾駆させつつ、後ろから投げてかかるロープを振り切るのです。

残念ながら、前進する勇気に欠け前を疾走した者たちが上げていったホコリにむせかえり、道を間違えて転倒し、そして死にも似た睡眠へと沈みこんで行く者がいます。

その者たちに構っている余裕はありません。なぜなら先頭を行くキャプテンはなおも先を急ぎつつ、雄々しく明快なる響きをもって義勇兵を募っておられるのです。その御声を無駄に終わらせてはなりません。

その他の者たちのことは仲間が大勢いることですから同情するには及ばないでしょう。
死者は死者に葬らせるがよろしい(マタイ8・22)。そして死せる過去が彼らを闇夜の奥深くへ埋葬するにまかせるがよろしい。

しかし前方には夜が明けつつあります。まだ地平線上には暗雲が垂れこめておりますが、それもやがて太陽がその光の中に溶け込ませてしまうことでしょう──すっかり太陽が上昇しきれば。そしてその時が至ればすべての人間は、父が子等をひとり残らず祝福すべくただ一個の太陽を天空に用意されたことに気づくことでしょう。

その太陽を人間は、ある者は北から、ある者は南から、その置かれた場所によって異なる角度から眺め、したがってある者にとってはより明るく、ある者にとってはより暗く映じることになります。

しかし眺めているのは同じ太陽であり、地球への公平な恩寵として父が給わった唯一のものなのです。

また父は民族によって祝福を多くしたり少なくしたりすることもなさりません。地上の四方へ等しくその光を放ちます。それをどれだけ各民族が自分のものとするかは、それぞれの位置にあって各民族の自由意志による選択にかかった問題です。

以上の比喩を正しくお読みくだされば、キリストがもし一宗教にとって太陽のごときものであるとすれば、それはすべての宗教にとっても必然的に同じものであらねばならないことに理解がいくでしょう。

なんとなれば太陽は少なくとも人間の方から目を背けないかぎりは、地球全土から見えなくなることは有り得ないからです。たしかに時として陽の光がさえぎられることはあります。しかし、それも一時(イットキ)のことです。
アーネル †


第3節 キリストについての認識の浄化
一九一九年三月十八日 火曜日

前回はキリストについて語り、キリスト教徒がそうと思い込んでいるものより大きな視野を指摘しました。今回もその問題をもう少し進めてみたいと思います。

実は吾々キリスト教界を担当する霊団はいよいよ地球に近づいた時点でいったん停止しました。吾々の仕事のさまざまな側面をいっそう理解するために、全員に召集令が出されたのです。

集合するとキリストみずからお出ましになり、吾々の面前でその形体をはっきりお見せになりました。中空に立たれて全身を現されました。

そのときの吾々の身体的状態はそれまで何度かキリストが顕現された時よりも地上的状態に近く、それだけにその時のキリストのお姿も物的様相が濃く、また細かいところまで表に出ておりました。

ですから吾々の目にキリストのロープがはっきりと映りました。膝のところまで垂れておりましたが、腕は隠れておらず何も付けておられませんでした。

吾々は一心にそのロープに注目しました。なぜかと言えば、そのロープに地上の人間がさまざまな形で抱いているキリストへの情感が反映していたからです。

それがどういう具合に吾々に示されたかと問われても、それは地上の宗教による崇拝の念と教理から放出される光が上昇してロープを染める、としか言いようがありません。言わば分光器のような働きをして、その光のもつ本質的要素を分類します。

それを吾々が分析してみました。その結果わかったことは、その光の中に真の無色の光線が一本も見当たらないということでした。いずれもどこか汚れており、同時に不完全でした。

吾々はその問題の原因を長期間かけて研究しました。それから、いかなる矯正法をもってそれに対処すべきかが明らかにされました。それは荒療治を必要とするものでした。

人間はキリストからその本来の栄光を奪い取り、代って本来のものでない別の栄光を加えることをしていたのです。が加えられた栄光はおよそキリストにふさわしからぬまがいものでした。やたらと勿体ぶったタイトルと属性ばかりが目につき、響きだけは大ゲサで仰々しくても、内実はキリストの真の尊厳を損なうものでした。

──例をあげていただけませんか。

キリスト教ではキリストのことを神(ゴッド)と呼び、人間を超越した存在であると言います。これは言葉の上では言い過ぎでありながら、その意味においてはなお言い足りておりません。キリストについて二つの観点があります。

一つの観点からすれば、キリストは唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のお一人です。父と呼んでいる存在はそれとは別です。

それは人間が思考しうるかぎりの究極の実在の表現です。従って父はキリストより大であり、キリストは父に所属する存在であり神の子です。

しかし別の実際的観点からすれば、吾々にとってキリストは人間が父なる神に帰属させているいかなる権能、いかなる栄光よりも偉大なものを所有する存在です。キリスト教徒にとって最高の存在は全知全能なる父です。

この全知全能という用語は響きだけは絶大です。しかしその用語に含ませている観念は、今こうして貴殿に語っている吾々がこちらへ来て知るところとなったキリストの真の尊厳にくらべれば貧弱であり矮小(ワイショウ)です。

その吾々ですらまだ地上界からわずか十界しか離れていません。本当のキリストの尊厳たるや、はたしていかばかりのものでしょうか。

キリスト教ではキリストは父と同格である、と簡単に言います。キリスト自身はそのようなことは決して述べていないのですが、さらに続けてこう言います──しかるに父は全能の主である、と。ではキリストに帰属すべき権能はいったい何が残されているのでしょう。

人間はまた、キリストはその全存在をたずさえて地球上へ降誕されたのであると言います。そう言っておきながら、天国のすべてをもってしてもキリストを包含することはできないと言います。

こうしたことをこれ以上あげつらうのは止めましょう。私にはキリストに対する敬愛の念があり、畏敬の念をもってその玉座の足台に跪く者であるからには、そのキリストに対して当てられるこうした歪められた光をかき集めることは不愉快なのです──たまらなく不愉快なのです。

そうした誤った認識のために主のロープはまったく調和性のない色彩のつぎはぎで見苦しくなっております。もしも神威というものが外部から汚されるものであれば、その醜い色彩で主を汚してしまったことでしょう。が、

その神聖なるロープが主の身体を譲り、醜い光をはね返し、それが地球を包む空間に戻されたのです。主を超えて天界へと進入する事態には至らなかったのです。下方へ向けて屈折させられたのです。それを吾々が読み取り、研究材料としたのです。

吾々に明かされた矯正法は、ほかでもない、〝地上的キリストの取り壊し〟でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆していることでもあります。説明しましょう。

建物を例にしてお話すれば、腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建て直しのきく場合があります。ぜんぶ取り壊さずに建ったまま修復できます。

が一方、全部そっくり解体し、基盤だけを残してまったく新しい材料で建て直さなければならないものもあります。地上のキリスト観は後者に担当します。本来のキリストのことではありません。

神学的教義、キリスト教的ドグマによってでっち上げられたキリストのことです。今日キリスト教徒が信じている教義の中のキリストは本来のキリストとは似ても似つかぬものです。ぜひとも解体し基礎だけを残して、残がいを片づけてしまう必要があります。

それから新たな材料を用意し、光輝ある美しい神殿を建てるのです。キリストがその中に玉座を設けられるにふさわしい神殿、お座りになった時にその頭部をおおうにふさわしい神殿を建てるのです。

このこと──ほんの少し離れた位置から私が語りかけていることを、今さらのごとく脅威に思われるには及びません。このことはすでに幾世紀にもわたって進行してきていることです。

ヨーロッパ諸国ではまだ解体が完了するに至っておりませんが、引き続き進行中です。地上の織機によって織られた人間的産物としての神性のロープをお脱ぎになれば、天界の織機によって織られた王威にふさわしいロープ──永遠の光がみなぎり、愛の絹糸によって柔らか味を加え、天使が人間の行状を見て落とされた涙を宝石として飾られたロープを用意しております。

その涙の宝石は父のパビリオンの上がり段の前の舗道に撒かれておりました。それが愛の光輝によって美しさを増し、その子キリストのロープを飾るにふさわしくなるまでそこに置かれているのです。それは天使の大いなる愛の結晶だからです。
アーネル †


第4節 イエス・キリストとブッタ・キリスト
一九一九年三月十九日 水曜日

キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。

関連性があると言ったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。

一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出すことでしょう。

しかし人間の心はいつの時代にあっても一つの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。

そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取ることは普遍的必要性とは言えません。イエスはただの人間にすぎなかったということを教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。

そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改めることにしました。でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。そして心を動揺させます。

しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求めるごとくに、教会の権威にしがみつきます。

一方、大胆さが過ぎて、これでキリストの謎がすべて解けたと豪語する者もいます。彼らは〝キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった〟というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。

かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、叡智に長(タ)けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々にくらべれば遥かに多くのことを知っておられながら、まだすべては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。

地上の神学の大家たちは絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多いことはいたしません。それはそうでしょう。

親羊は陽気にたわむれる子羊のように威勢よく突っ走ることはいたしません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。

さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした人たちから生まれるのです。

前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに〝キリスト人間説〟を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。

実は私はこの問題を出すのに躊躇しておりました。キリスト教徒にとっては根幹にかかわる重大性をもっていると見られるからです。ほかならぬ〝救世主〟が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多いことでしょう。

それはキリストに対する愛があればこそです。それだけに私は躊躇するのですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。

願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが・・・・。と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物にすぎないモヤの中から生まれているからです。

いかに真摯であろうと、あくまでも想像的産物であることに変りはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされることになります。その信仰の念もキリストに届くことは届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。

それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、勇気をもってキリストの真実について考えようとする者を、キリストはいささかも不快に思われることはないとの確信が持てるまでに、キリストへの愛に燃えていただきたいのです。吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れることはありません。

なぜなら吾々は所詮キリストのすべてを理解する力はないこと、謙虚さと誠意をもって臨めば、キリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも微罰もあり得ぬことを知っているからです。

同じことを貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遥かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像をはるかに超えたものであることを確信なさるがよろしい。

──キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッタなどがそれだというのですが、本当でしょうか。

事実ではありません。そんなに、あれやこれやに生まれ変ってはおりません。そのことを詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。

とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとってもいまだに謎であると、さきほど述べました。そういう次第ですから、せめて私の知るかぎりのことをお伝えしようとするとどうしても自家撞着(パラドックス)に陥ってしまうのです。

ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通して父を顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。

またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストは父の一つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。

人間も一人一人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかしすべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。

しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方がブッダ・キリストに優ります。

が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります。

貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に兄貴としてまた友人としての主イエスを見出されるがよろしい。

その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出すことでしょう。差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就することができれば、こちらへ来られた時に主はさらにその先を歩んでおられることを知ることになります。

天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは結構ですが、その時にも、すぐ身のまわりも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれていることを忘れてはなりません。

ある夏の宵のことです。二人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母(バア)ちゃんがローソクの光で二人の長靴下を繕っておりました。そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。

「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」
するとメアリが言いました。

「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じがしないもの」

こうして二人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに二人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが一番素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。

「そんな暇はありませんよ。お前たちの長鞄下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの一番好きな星に腰かけてるんだもの。これがあたしには一番重宝(チョウホウ)してるよ」
アーネル †