第7章 善悪を超えて
第1節 聖堂へ招かれる
一九一七年十二月十七日、日曜日
これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。
そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。
それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。
その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。
川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。
が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。
また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海はさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。
それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。
生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。
──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。
それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。
吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。
──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)
同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。
それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。
吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。
──向上するための資格を身につけるためですか。
今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。
さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。
するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。
入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。
柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。
それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。
その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。
が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。
これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。
吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。
「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」
言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。
やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。
吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。
人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。
お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。
──生身の人間ですか。
さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀(かなしみ)の人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。
が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた──
〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。
今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。
その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。
が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。
唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。
帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。
さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。
つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。
(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。──訳者)
しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)
以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。
犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。
さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。
願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。
訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。
イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。
第2節 使命への旅立ち
一九一七年十二月十八日、火曜日
お話を給わった拝謁(はいえつ)の間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。
ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。
その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。
それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。
初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。
と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。
なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。
さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。
そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。
──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。
吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。
その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。
行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。
さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。
──西洋ナシのようにですか。
はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。
演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。
その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。
しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・
そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。
またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。
さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。
そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。
ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。
それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。
それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。
そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。
それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。
また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話── 一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。
そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、
これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。
そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。
彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。
その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。
その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。
ペテロがのちにイエスにあったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。
聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。
私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。
第3節 〝苦〟の哲学
一九一七年十二月十九日、水曜日
さて吾々は急がずゆっくりと歩を進めました。と言うのは、そろそろ吾々の霊的波長が容易に馴染まぬ境涯に近づきつつあるからです。が、どうにか環境に合わせることができました。そしてついに地上から数えて二番目の界の始まる境界域に到達した。便宜上地上界をゼロ界としておきます。
──話を進められる前にお尋ねしておきたいことがあります。あなたがある種の悩みを抱えていたために他の界よりも長期間滞在されたというのは第五界だったのではありませんか。
貴殿の要求は、私を悩ませしばらくその界に引き留めることになった問題の中身を説明してほしいということのようですな。よろしい。それはこういうことでした。
私はすべての人間が最後は神が万物の主(ぬし)であることを理解すること、そしてその神より出でた高級神霊がそのことを御座(みくら)の聖域より遠く離れた存在にも告げているものと確信していた。
しかしそうなると吾々のはるか下界の暗黒界──悲劇と煩悶が渦巻き、すべての愛が裏切られ、その普遍性と矛盾するように思える境涯に無数の哀れな霊が存在するのはなぜか。
それが私の疑問でした。昔からある悪の存在の問題です。私には善と悪という二つの勢力の対立関係が理解できないし、それを両立させることは少なくとも私の頭ではできなかった。つまり、もしも神が全能であるならば、なぜ一瞬たりとも、そして僅かたりとも悪の存在を許されたのであろうか、ということでした。
私は久しくそのことに思いをめぐらしていた。そして結果的に大いに困惑を増すことになった。なぜなら〝神の王国〟の内部でのこうした矛盾から生まれる不信感が、目も眩まんばかりの天界の高地へ向上していく自信を私から奪ってしまったからです。
私はもしかしたらその高地で心の平静を失い、これまで降りたこともない深淵へ落ちて深いキズを負うことになりはせぬかと恐れたのです。
煩悶しているうちに私は、いつもここという時に授かる援助をこの時も授かる用意が出来ていたようです。自分では気づかないのですが、啓発を受ける時はいつもそれに値するだけの考えが熟するまで私は論理的思考においてずっと指導を受け、その段階において直感的認識がひらめき、それまでの疑念のずべてが忘却の彼方へと一掃され、二度と疑わなくなるのでした。
ある日のこと──貴殿らの言い方で述べればのことですが──私は小さな赤い花の密生する土手の上で東屋に似た木蔭で腰を下ろしていた。先の難問を考えていたわけではありません。他にもいろいろと楽しい考えごとはあるものです。
私はすっかり辺りの美しさ──花、木々、小鳥、そのさえずりに浸っていた。その時ふと振り返ると、すぐそばに落着いた魅力あふれる容貌の男性が腰を下ろしていた。
濃い紫のマントをつけ、その下からゴースのチュニック(*)が見える。そしてそのチュニックを透かして、まるで水晶の心臓に反射して放たれたような光が身体から輝いて見えた。肩に付けられた宝石は濃い緑とすみれ色に輝き、髪は茶色をしていた。
が、目は貴殿のご存知ない種類の色をしていた。(*ゴースはクモの糸のような繊細な布地。チュニックは首からかぶる昔の簡単な胴衣。なおこの人物が誰であるかはどこにも説明が出てこないが、多分このリーダー霊の守護霊であろう。──訳者)
その方は前方へ目をやっておられる。私はお姿に目をやり、その何とも言えない優雅さにしばし見とれていた。するとこう口を開かれた。
「いかがであろう。ここは実に座り心地が良く、休息するには持ってこいの場所であるとは思われぬかな?」
「はい、いかにも・・・・」私はこれ以上の言葉が出なかった。
「がしかし、貴殿がそこに座る気になられたのは、きれいな花が敷きつめられているからであろう?」
そう言われて私は返答に窮した。するとさらにこう続けられた。
「さながら幼な子を思わせるつぼみの如き生命と愛らしさに満ちたこれらの赤い花の数々は、こうして吾々が楽しんでいるような目的のために創造されたと思われるかな?」
これにも私はただ「そこまで考えたことはございませんでした」と答えるしかなかった。
「そうであろう。吾々は大方みなそうである。しかも吾々が一人の例外もなく、片時も思考をお止めにならず理性から外れたことを何一つなさらぬ神の子孫であることを思うと、それは不思議と言うべきです。
吾々がいくら泳ぎ続けてもなおそこは神の生命の海の中であり、決してその外に出ることができない。それほど偉大な神の子でありながら、無分別な行為をしても赦されるということは不思議なことです」
そこでいったん話を止められた。私は恥を覚えて顔を赤らめた。その声と話ぶりには少しも酷(きび)しさはなく、あたかも親が子をたしなめるごとく、優しさと愛敬に満ちていた。が、言われていることは分かった。
自分は今うかつにも愛らしく生命に溢れた、しかし、か弱い小さな花を押しつぶしているということです。そこで私はこう述べた。
「お放ちになられた矢が何を狙われたか、より分かりました。私の胸深く突きささっております。これ以上ここに座っていることは良くありません。吾々のからだの重みでか弱い花に息苦しい思いをさせております」
「では立ち上がって、いっしょにあちらへ参りましょう」そうおっしゃってお立ちになり、私も立ち上がってその場を離れた。
「この道へはたびたび参られるのかな?」並んで歩きながらその方が聞かれた。
「ここは私の大好きな散策のコースです。難しい問題が生じた時はここへ来て考えることにしております」
「なるほど。よそに較べてここは悩みごとを考えるには良いところです。そして貴殿はここに来て土手のどこかに座って考えに耽る、と言うよりは、その悩みの中に深く入り込んでしまわれるのではないかと思うが、ま、そのことは今はわきへ置いて、前回こちらへ来られた時はどこに座られましたか」
そう聞いて足を止められた。私はその方のすぐ前の土手を指さして言った。
「前回こちらへ来た時に座ったのはここでした」
「それもつい最近のことであろう?」
「そうです」
「それにしては貴殿のからだの跡形がここの植物にも花にも見当たらない。嫌な重圧をすぐさまはね返したとみえますな」
確かにこの地域ではそうなのである。その点が地上とは違う。花も草も芝生もすぐさま元の美しさを取り戻すので、立ち上がったすぐ後でも、どこに座っていたかが見分けがつけにくいほどである。これは第五界での話で、すべての界層がそうとは限らない。地上に近い界層ではまずそういう傾向は見られない。
その方は続けてこう言われた。
「これは真価においても評価においても、創造主による人間の魂の傷に対する配剤とまったく同じものです。現象界に起きるものは何であろうとすべて神のものであり神お一人のものだからです。では私に付いてこられるがよい。
貴殿が信仰心の欠如のために見落しているものをお見せしよう。貴殿は今ご自分が想像していた叡智の正しさを疑い始めておられるが、その疑念の中にこそ愛と叡智の神の配剤への信仰の核心が存在するのです」
それから私たち二人は森の脇道を通り丘の麓へ来た。その丘を登り頂上まで来てみると森を見下ろす高さにいた。はるか遠い彼方まで景色が望める。
私は例の聖堂のさらに向こうまで目をやっていると、その聖堂の屋根の開口部を通って複数の光の柱が上空へ伸びて行き、それが中央のドームのあたりで一本にまとまっているのが見えた。それは聖堂内に集合した天使の霊的行事によって発生しているものだった。
その時である、ドームに光り輝く天使の像が出現し、その頂上に立った。それは純白に身を包んだキリストの顕現であった。衣装は肩から足もとまで下りていたが足は隠れていない。
そしてその立ち姿のまま衣装が赤味を帯びはじめ、それが次第に濃さを増して、ついに深紅となった。まゆのすぐ上には血の色にも似た真っ赤なルビーの飾り輪があり、足先のサンダルにも同じくルビーが輝いていた。
やがて両手を高く上げると、両方の甲に大きな赤い宝石が一つずつ輝いていた。私にはこの顕現の私にとっての意味が読み取れた。最初の純白の美しさは美事であった。が今は深紅の魅力と美しさに輝き、そのあまりの神々しさに私は恍惚となって息を呑んだ。
喘ぎつつなおも見ていると、その姿の周りにサファイヤとエメラルドの縞模様をした黄金色の雲が集結しはじめた。が、像のすぐ背後には頭部から下へ向けて血のような赤い色をした幅広いベルト状のものが立っており、さらにもう一本、同じような色彩をしたものが胸のうしろあたりで十文字に交わっている。
その十字架の前に立たれるキリストの姿にまさに相応しい燦爛たる光輝に輝いていた。
平地へ目をやると、そこにはこの荘厳な顕現を一目見んものと大勢の群集が集まっていた。その顔と衣服がキリストの像から放たれる光を受けて明るく輝き、その像にはあたかも全幅の信頼を必要とするところの犠牲と奉仕を求める呼びかけのようなものが漂っているように思えた。
それに応えて申し出る者は、待ち受ける苦難のすべてを知らずとも、みずから進んでその苦難に身を曝す覚悟が出来ていなければならないからである。が、
その覚悟のできた者も、多くはただ跪き頭を垂れているのみであった。もとより主はそれを察し、その者たちに聖堂の中に入るよう命じられ、中にて使命を申しつけると仰せられた。そしてみずからもドームを通って堂内に入られた。そこで私の視界から消えた。
私のそばに例の方がいらっしゃることをすっかり忘れていた。そして顕現が終わったあとも少しの間その方の存在に気づかずにいた。やっと気付いて目をやった時、そのお顔に苦難の体験のあとが数多い深い筋となって刻まれているのを見て取った。
もとよりそれは現在のものではなく遠い昔のものであるが、その名残りがかえって魅力を増しているのだった。
しかし私から声をお掛けできずに黙って立っていると、こうおっしゃった。
「私は貴殿に悲哀の人イエスの顕現をお見せするためにこの界のはるか上方から参っております。主はこうしてみずからお出でになっては悲哀を集めて我がものとされる。それは、その悲哀なくしては今拝見したごとき麗しさを欠くことになるからです。
主にあれほどの優しさを付加する悲哀は、その未発達の粗野な状態にあっては苦痛を伴って地上を襲い、激痛をもって地獄を襲うものと同一です。
この界においては各自その影を通過する時に一瞬のものとして体験する。吾々とて神の御心のすべてには通暁し得ない。しかし今目のあたりにした如く、時おり御心のすべてに流れる〝苦の意義〟を垣間見ることが出来る。
その時吾々が抱く悩みから不快な要素が消え、いつの日かはより深い理解が得られるとの希望が湧き出てきます。
しかし、その日が訪れるまでは主イエスが純白の姿にて父の御胸より出て不動の目的をもって地上へ赴いたこと、そこは罪悪と憎悪の暗雲に包まれていたことを知ることで満足しています。
さよう、イエスはさらに死後には地獄へまでも赴き、そこで悶え苦しむ者にまで救いの手を差しのべられた。そしてみずからも苦しみを味わわれた。
かくして悲哀の人イエスは父の玉座の上り段へと戻り、そこで使命を成就された。が、戻られた時のイエスはもはや地上へ向かわれた時のイエスではあられなかった。聖なる純白の姿で出発し深紅の勝利者となって帰られた。
が流した血は自らのおん血のみであった。敵陣へ乗り込んだ兵士がその刃を己の胸に突きさし、しかもその流血ゆえに勝者として迎えられるとは、これはいかにも奇妙な闘いであり、地上の歴史においても空前絶後のことであろう。
かくして王冠に新たなルビーを加え、御身に真っ赤な犠牲の色彩を一段と加えられて、出発の時より美しさを増して帰られた。そして今や、主イエスにとりて物質界への下降の苦しみは、貴殿が軽率にも腰を下ろしても変わらぬ生長力と開花力によっていささかも傷められることのなかった草花のごとく、一瞬の出来ごとでしかなかった。
主イエスは吾々の想像を絶する高き光と力の神界より降りて来られて、自己犠牲の崇高さを身を持ってお示しになった──まさに主は私にとって神の奇しき叡智の保証人でもあるのです。
では罪悪の悲劇と地獄の狂乱はどうなるのか。これも、その暗黒界を旅してきた者は何ものかを持ち帰る。神とその子イエスの愛により、摂理への従順の正道を踏み外して我が儘の道を歩める者も、その暗黒より向上してくる時、貴重にして美妙なる何ものかを身につけている。
それが神と密接に結びつけるのです。さよう、貴殿もいずれその奇しき叡智を悟ることになるであろう。それまで辛棒強く待つことです。が、それには永き時を要するでしょう。
貴殿がその神秘の深奥を悟るのは私より容易ではなく、私ほど早くもないかも知れません。なぜなら貴殿はかの悔恨と苦悶の洞窟の奥深く沈んだ体験の持ち合わせがないからです。私にはそれがあるのです。私はそこから這い上がって来た者です」
第4節 さらに下層界へ
一九一七年十二月二十日、木曜日
さて、吾々はいよいよ第二界へ来た。そして最も多く人の集まっている場所を探しました。と言うのも、かつてこの界に滞在した頃とは様子が変っており、習慣や生活様式に関する私の知識を改めざるを得なかったのです。
貴殿にも知っておいていただきたいことですが、地上に近い界層の方がはるか彼方の進化した界層に較べて細かい点での変化が激しいのです。
いつの時代にも、地上における学問と国際的交流の発展が第二界にまで影響を及ぼし、中間の第一界へはほとんど影響を及ぼしません。
また死後に携えてきた地上的思想や偏見が第二界でも色濃く残っておりますが、それも一界また一界と向上して行くうちに次第に中和されて行きます。かなり進化した界層でもその痕跡を残していることがありますが、進歩の妨げになったり神の子としての兄弟関係を害したりすることはありません。
第七界あるいはそれ以上の界へ行くとむしろ地上生活の相違点が興味や魅力を増すところの多様性(バラエティー)となり、不和の要素が消え、他の思想や教義をないがしろにすることにもならない。
さらに光明界へ近づくとその光によって〝神の御業の書〟の中より教訓を読み取ることになる。そこにはもはや唯一の言語を話す者のための一冊の書があるのみであり、父のもとにおける一大家族となっております。
それは地上のように単なる遠慮や我慢から生まれるものではなく、仕事においても友愛においても心の奥底からの協調関係から、つまり愛において一つであるところから生まれるものです。
うっかりしていました──私は第二界のことと、そこでの吾々の用事について語るのでした。
そこではみんな好きな場所に好きなように集まっている。同じ民族のものといっしょになろうとする者もいれば、血のつながりよりも宗教的なつながりで集まる者もいました。政治的思想によってサークルを作っている者もいました。
もっぱらそういうことだけで繋がっている者は、少し考えが似たところがあればちょくちょく顔を出し合っておりました。
例えばエスラム教徒は国際的な社会主義者の集団と親しく交わり、帝国主義者はキリスト教信仰にもとづく神を信仰する集団と交わるといった具合です。
色分けは実にさまざまで、その集団の構成分子も少々の内部変化があっても、大体において地上時代の信仰と政治的思想と民族の違いによる色分けが維持されていました。
それにしても、吾々第十界からの使者が来ることはすでにその地域全体に知れ渡っておりました。と言うのも、この界では地上ほど対立関係から出る邪心がなく、かなりの善意が行きわたっているからです。
かつて吾々が学んだことを今彼らも学んでいるところで、それで初めのうち少し集まりが悪いので、もし聞きたければ対立関係を超えていっしょに集まらねばならぬことを告げた。
吾々は小さなグループや党派に話すのではなく、全体を一つにまとめて話す必要があったからです。
すると彼らは、そう高くはないが他の丘よりは小高い丘の上や芝生のくぼみなどに集結した。吾々は丘の中腹に立った。そこは全員から見える位置で、背後にはてっぺんが平たい高い崖になっていた。
吾々はまず父なる神を讃える祈りを捧げてから、その岩の周りに腰を下ろした。それからメンバーの一人が聴衆に語りかけた。彼はこの界のことについて最も詳しかった。
本来は第七界に所属しているのであるが、この度は使命を受けてから、道中の力をつけるために第十界まで来て修行したのです。
彼は言語的表現においてなかなかの才能を有し、声を高くして、真理についての考えが異なるごとく服装の色彩もさまざまな大聴衆に向かって語りかけた。声は強くかつ魅力に富み、話の内容はおよそ次のようなものでした。
かつて地上界に多くの思想集団に分裂した民族があった。そうした対立を好ましからぬものと考え、互いに手を握り合うようにと心を砕く者が大勢いた。
この界(第二界)にも〝オレの民族、オレの宗教こそ神の御心に近いのだ〟と考える、似たようなプライドの頑迷さが見受けられる。吾々がこうして諸君を一個の民族として集合させ、神からのメッセージを伝えるのも、これよりのちの自由闊達にして何の妨げもない進化のためには、まずそうした偏狭さを棄て去ってしまわねばならないからである、と。
これを聞いて群集の間に動揺が見られた。が、述べられたことに何一つ誤りがないことは彼らも判っていた。
その証拠に彼らの目には、吾々のからだから発する光線が彼らをはるかに凌いでいることが歴然としており、その吾々もかつては今の彼らと同じ考えを抱いていたこと、そして吾々が当時の考えのうちのあるものはかなぐり捨て、あるものは改めることによって、
姿も容貌も今のように光輝を増したことを理解していたからです。だからこそ静かに耳を傾けたのです。
彼はいったんそこで間を置いてから、新たに彼の言わんとすることを次のように切り出しました。
「さて、主の御国への王道を歩んでおられる同志の諸君、私の述べるところを辛棒強く聞いていただきたい。かのカルバリの丘には実は三つの十字架があった。
三人の救世主がいたわけではない。救世主は一人だけである。同じ日に三人の男が処刑されたが、父の王国における地位(くらい)が約束できたのは一人だけであった。王たる資格を具えていたのは一人だけだったということである。
三人に死が訪れた。そのあとに憩いが訪れるのであるが、三人のうち安らかな眠りを得たのは一人だけだった。なぜであろうか。
それは父が人間を自己に似せて創造した目的、および洪水の如き勢いをもって千変万化の宇宙を創造した膨大なエネルギーの作用について理解し得るほどの優しき哀れみと偉大なる愛と聖純なる霊性を身につけていたのはイエスの他にいなかったからである。
あまりの苦悩に疲れ果てた主に安らかな眠りを与えたのには、邪悪との長き闘いとその憎悪による圧倒的な重圧の真の意味についての理解があったからであった。
主イエスは最高界より物質界へ降りて差別の世界の深奥(しんおう)まで究(きわ)められた。そして今や物的身体を離れて再び高き天界へと昇って行かれた。そのイエスが最初に心を掛けたのは十字架上でイエスに哀願した盗人のことであり、次は金貨三十枚にてイエスを売り死に至らしめたユダのことだった。
ここに奇妙な三一関係がある。が、この三者にも、もう一つの三一関係(神学上の三位一体説)と同じく、立派に統一性が見られるのである。
それは、盗人も天国行きを哀願し、ユダも天国へ行きたがっていた。それを主が父への贈物として求めそして見出した。が、地上へ降りてしかもそこに天国を見出し得たのは主のみだった、ということである。
盗人は死にかかった目で今まさに霊の世界への入り口に立てる威風堂々たる王者の姿を見てはじめて、天国は地上だけに存在するものでないことを悟った。
一方の裏切り者はいったん暗黒界への門をくぐったのちに主の飾り気のない童子のごとき純心な美しさを見てはじめて天国を見出した。
それに引きかえ主は地上において既に天国を見出し、父なる神の御国がいかなるものであるかを人々に説いた。それは地上のものであると同時に天界のものでもあった。
肉体に宿っている間においてはその心の奥にあり、死してのちは歩み行くその先に存在した。つまるところ神の御国は天と地を包含していたのである。御国は万物の始まりの中にすでに存在し、その時点において神の御心から天と地が誕生したのであった。
そこで私は、人間一人ひとりが自分にとっての兄弟であると考えてほしいと申し上げたいのである。カルバリの丘の三つの十字架上の三人三様の特質に注目していただきたい。
つまり完全なる人物すなわち主イエスと、そのイエスが死後に最初に救った二人である。そこにも神の意志が見出されるであろう。
つまり上下の差なく地上の人間のすべてが最後は主イエス・キリストにおいて一体となり、さらに主よりなお偉大なる神のもとで一体となるということである。そこで、さらに私は諸君みずからの中にも主の性格とユダの性格の相違にも似た多様性を見出してほしいのである。
そして、かく考えて行けば父なる神の寛大なる叡智によって多様性をもたらされた人類がいずれは再びその栄光の天国の王室の中にて一体となることが判るであろう。
何となれば神の栄光の中でも最も大いなる栄光は愛の栄光であり、愛なるものは憎しみが分かつものを結び合わせるものだからである」