第5章 再生…生まれ変わり
【Q1】 意識がいくつかに分かれて働くということは、あり得ることでしょうか?

今、あなたは物質の世界で自分を意識していますが、それは本源の大きな意識のほんの一部です。同じ本源の意識には、他の階層で発現している小さな意識がいくつもあります。

【Q2】 それぞれに独立しているのでしょうか?

いえ、独立はしていません。あなたを含めた小さな意識は、一個の大きな霊的実在の部分的表現です。全体を構成する部分的意識であり、それらが(さまざまな階層で)質的に異なる媒体で自我を表現しています。

ときおり、それらが合体することはあります。ですから、小我同士は必ずしも見ず知らずというわけではありませんが(注)、互いの存在を意識するのは、何らかの媒体を通して自己表現をし始めてからのことです。そして、最終的には合流点にたどり着いて、すべての小我が大我と一体となります。

訳注―熱心なシルバーバーチの愛読者なら気づかれたかもしれないが、十数年前に潮文社から出した『シルバーバーチの霊訓』第四巻にこれと同じQ&Aがあり、今、それを念のために目を通してみると、明らかな誤訳の箇所が見つかった。「必ずしも見ず知らずというわけではない」のところを「気づかないこともある」と訳している。翻訳者にありがちな思い込み違いによる誤訳である。「訳者あとがき」参照。

【Q3】 二つの部分的意識(ダイヤモンドの一側面・分霊)が、地上で会っていながら、そうと気づかないことがあるでしょうか?

大きな意識を一つの大きな円であると想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。ときおり、分霊同士が会ってお互いが同じ円のなかにいることを認識しあいます。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再びもとの円が完成されます。

【Q4】 分霊同士で連絡しあうことができますか?

必要があれば、できます。

【Q5】 二つの分霊が、同時に、地上に誕生することがありますか?

ありません(注)。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる階層での体験を積むということが、本来の目的です。同じ階層へもう一度戻ってくることはありますが、それは成就すべきことが残っている場合に限られます。

訳注―これは「原則として」という文言を入れるべきであろう。前章のQ9の回答の最後の一節では「affinity」という用語を用いて、二つのアフィニティが出会うことがあると述べている。ただし「まれにですが」と断っている。その直前の回答の最後で「それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです」と述べているが、これが原則であって、アフィニティ同士が出会うのは例外的であると理解すべきである。

【Q6】 体験による教訓は仲間から得られても、進化のための因果律は自分で解消していかねばならないと考えてよいでしょうか?

そのとおりです。個々の分霊は一個の大きな意識の構成分子であり、それらがさまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて自我の本体を意識していくわけです。

【Q7】 そうやって、進化のある一点において、全てが一体となるわけですね?

そういうことです。無限の時をへてのことですが‥‥。

【Q8】 個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか?

それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。

【Q9】 一つの意識の個々の部分、というのはどういうものでしょうか?

これは説明の難しい問題です。あなた方地上の人間には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方の言う生命は、実は最も下等な形態で顕現しているのです。生命の実体―思いつくかぎりのものすべてを超越した意識をもって生きる、高次元での生命の実情は、とても想像つかないでしょう。

宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションにふれたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。鈍重なる物質によって表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう?

私の苦労を察してください。たとえるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれがありません。あなた方には、せいぜい光と影、日向と日陰の比較くらいしかできません。虹の色はたしかに美しいでしょう。ですが、地上の言語で説明できないほど美しい霊界の色彩を虹にたとえてみても、美しいという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。

【Q10】 分霊の一つ一つを本霊の徳性の表現と見てよろしいでしょうか?

それはまったく違います。こうした問いにお答えするのは、生まれつき目の不自由な方に、晴天の日の、あの澄みきった青空の美しさを説明するようなもので、たとえるものがないのですから困ります。

【Q11】 フレデリック・マイヤースのいう「類魂」(注)と同じものと考えてよいでしょうか?

まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する小意識の集団で、その全体の進化のために体験を求めて降誕してくるのです。

訳注―「類魂説」は俗に「マイヤースの通信」と呼ばれている『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』のうち、前編でその基本原理が述べられ、後篇でそれを敷衍・発展させたもので、スピリチュアリズムに画期的な発展をもたらした。参考までに、前編の第六章「類魂」の章をかいつまんで紹介しておく。

「類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つにまとめているのである。脳のなかに幾つかの中枢があるように、霊的生活においても一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊からもらうのである。(中略)

一個の統括霊のなかに含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところのカルマは確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。

同様に私も、自分で送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。(中略)

我々は、この死後の世界へ来て向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げて類魂のなかに没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。結局のところ人間の存在には二つの面があると理解していただきたいのである。即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である」

【Q12】 その本霊に戻ったときに、分霊は個性を失ってしまうのではないかと思われるのですが。

川の水が大海へ注ぎ込んだとき、その水は存在が消えてしまうのでしょうか? オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか?

【Q13】 再生の決定的な証拠を、なぜそちら側から提供してくれないのでしょうか?

霊言という手段によっても説明のしようのない問題に証拠などあり得るでしょうか? 意識に受け入れ態勢が整い、再生が法則であることに理解がいってはじめて、事実として認識されるのです。再生はないと説く者が私の世界にもいるのはそのためです。まだ、その事実を悟れる段階に達していないから、そう言うに過ぎません。
宗教家が、その神秘的体験をビジネスマンに語っても仕方ないでしょう。芸術家が、インスピレーションの体験話を芸術的センスのない者に聞かせてどうなるでしょう。理解できるわけがないでしょう。意識の次元が違うのです。

【Q14】 そろそろ再生するということが、自分でわかるのでしょうか?

魂そのものは本能的に自覚します。しかし、精神を通して(知覚的に)意識するとは限りません。大霊の一部である魂は、永遠の時の流れのなかで一歩一歩、少しずつ自我を表現していきます。しかし、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されていない部分が大半を占めています。

【Q15】 では、無意識の状態で再生するのでしょうか?

それも霊的進化の程度によって違います。再生する霊のなかには、自分が以前に地上生活を送ったことがあることを知っている者もいれば、まったく知らない者もいます。魂が自覚している、つまり霊的意識では自覚していても、それが精神によって知覚されていないことがあるのです。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、あなた方の言語で説明するのはとても困難です。

【Q16】 生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれかわりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか?

愛は必ず成就されます。なぜなら、愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は、必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことはできません。

【Q17】 でも、再生を繰り返せば、互いに別れの連続ということになりませんか? これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが‥‥。

一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と、私の天上の幸せの観念のほうでしょう。宇宙とその法則は大霊がこしらえたものであって、その子どもであるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は、新しい事実を前にすると、自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしても、しょせんは徒労に終わることを知っているからです。

【Q18】 これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもよいと思うのですが‥‥。

物質界にあっても聖人は聖人ですし、最低の人間はいつまでも最低のままです。体験を積めば、必ずそれだけ成長するというものではありません。要は魂の進化の問題です。

【Q19】 これからも無限に苦難が続くのでしょうか?

そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練をへてはじめて、神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられてはじめて、その輝きを見せるように、神性も苦難の試練にさらされてはじめて、強くたくましい輝きを見せるのです。

【Q20】 そうなると、死後に天国があるという概念の意味がなくなるのではないでしょうか?

今のあなたには天国に思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは、今より少しでも高いものをめざして努力するところにあるからです。

【Q21】 再生するときは前世と同じ国に生まれるのでしょうか? たとえば、インディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人にという具合に。

そうとは限りません。めざしている目的のために最も適当と思われる国や民族を選びます。

【Q22】 男性か女性かの選択も同じですか?

同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。

【Q23】 死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当でしょうか? 神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか?

償うとか罰するとかの問題ではなく、要は進化の問題です。つまり、学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれかわるということは、必ずしも罪の償いのためとは限りません。ギャップ、つまり、欠けているものを補う目的で再生する場合がよくあります。もちろん、償いをする場合もあり、前世で学ぶべきだった教訓を改めて学びにくるという場合もあります。償いのためとは限りません。

ましてや、二度も罰せられることはあり得ないことです。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して不十分ということがないのです。完璧なのです。大霊そのものが完璧だからです。

【Q24】 自分は、地上生活を何回経験しているということを明確に認識している霊がいますか?

います。それがわかる段階まで成長すれば、自然にわかるようになります。必然的にそうなるのです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできません。名前をいくつかあげても結構ですが、それでは“証拠”にはならないでしょう。何度もいってきましたように、再生の事実はこうして“説く”だけで十分なはずです。

私は、大霊の摂理について、自分がこれまでに理解したことを述べているのです。知ったとおりを述べているだけです。私の言うことに納得がいかない人がいても、それは一向にかまいません。受け入れてもらえなくてもよいのです。私と同じだけの年数の霊界生活を送れば、考えが変わるでしょう。

【Q25】 再生問題は異論が多いからそれは避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるほうがいいという考えはいかがでしょう?

闇のなかにいるよりは、光のなかにいるほうがよろしい。無知のままでいるよりは、摂理を少しでも多く知ったほうがよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励むほうがよろしい。向上をめざして奮闘するのがよいに決まっています。

死後存続の事実を知ることが真理探究の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それゆえに“死の関門”を、何の苦労もなく、何の変化もなく通過できるという事実を知ったら、それですべてがおしまいになるのではありません。そこから、本当の意味での“生きる”ということが始まるのです。