第3部 死後の世界の実態と、その法則
第4章 魂は平等なのに、なぜ天使と悪魔が存在するのか?
第1節 天使とは何者か?
天使が持っているとされる特質を全て備えている存在があることは、疑いのない事実であろう。霊界通信は、この点に関して、あらゆる民族が持っていた信仰を裏付けている。だが、それだけに留まらず、同時に、そうした存在の本性と始原についても教えてくれるのである。
魂、或は霊は、最初に創られた時は、単純で無知だった。つまり、何の知識もなく、善と悪の区別が出来なかったのである。しかし、自らに欠けているものは、全て獲得出来るようにも創られていた。
全ての魂にとって、完成が目標だった。それぞれが、自由意志に従い、努力に応じて、完成を目指していった。全ての魂が、同じだけの距離を踏破し、同じだけの仕事をする必要があった。
神は、全ての魂を全く公平に扱い、一切のえこひいきをしなかった。
というのも、魂達は、全て神の子供であったからである。
神は子供達に言った。
「さあ、この法に従って生きなさい。この法だけが、あなた方を目的地に導くことが出来る。この法に適うものは、全て善であり、この法に背くものは、全て悪である。この法に従うのも、背くのも、あなた方の自由であり、そのようにして、あなた方は自分自身の運命を形作るのだ」
故に、悪をつくり出したのは神ではない。神は善の為に法を創った。そして、その法に背いて悪をつくり出したのは神ではない。神は善の為に法を創った。そして、その法に背いて悪をつくり出したのは人間なのである。もし人間が忠実にその法を守ったならば、決して善の道から外れることはなかったのである。
しかし、その生存の初期において、魂は、幼児と同じく、経験を欠いていた。だからこそ、失敗し易かったのである。
神は、魂に、経験は与えなかったが、経験を得る能力は与えた。魂が悪の道へ歩を進めるごとに、それは霊的進化の遅れとなった。そして、魂は、その度ごとに報いを受け、避けねばならないことが何であるのかを学んだ。そのようにして、魂は、徐々に進化、発展し、霊的な階層を上っていったのである。そして、ついには、至純の霊、つまり、天使の段階にまで至ったわけである。
したがって、天使とは、人間が、もともと持っていた可能性を開花させて、ついに完成の域に達した姿、約束されていた至福の境地に至った姿なのである。
この最終的な境地に至るまでの間に、人間は、それぞれの進化の段階に応じた幸福を享受するのだが、この幸福は、何もせずに手に入れることは出来ない。この幸福は、神から与えられた役割を果たす中で、初めて味わうことが可能となるのである。というのも、そうした役割は、進化の為の手段であるからなのだ。
人間は、地上での生活だけに縛り付けられているわけではない。空間中に繰り広げられる無数の世界に属するのである。既に姿を消した世界に属していたこともあるし、これから現れる世界に属することもあるだろう。
神は、永遠の時間の中で創造してきたし、これからも創造し続けるであろう。
それ故、地球が存在する遥か以前から、地球以外の惑星でも、我々と同じく、数多くの霊が、肉体に宿って修行をしていたのである。そして、比較的新しく生まれた我々が現在辿っているのと同じ行程を踏破し、我々が神の手によって生まれるよりも遥か前に、既に目的に達していたのである。
それは、地球上の我々にしてみれば、永遠の昔から、至純の霊、つまり天使達が存在していたということになる。つまり、彼らが人間だった頃の時間は無限の彼方に退いているので、宇宙開闢の頃から天使として存在しているように、我々には思われるのである。
神が、かつて仕事をしないことはなかった。自らの命令を伝え、宇宙のあらゆる領域を方向づける為に、常に、信頼のおける、智慧に溢れた至純の霊人達を従えていたのである。彼らの補佐を受けて、惑星の運営から、最も些細なことに至るまで、実行してきたのである。
したがって、様々な職務を免除された、特権的な存在をつくる必要などなかった。全ての霊達が、古い者も新しい者も、努力に応じて各々の境涯を勝ち取ってきたのである。全員が、自ら上げた成果に応じて進化してきているわけである。
そのようにして、神の至高の正義が実現されてきたのだと言えよう。
第2節 悪魔とは何者か?
霊実在論によれば、天使も悪魔も別々の存在ではない。知的生命体は、全て同じ創られ方をしたのである。それらの生命体は肉体に宿り、人間として、地球や他の惑星に住むのである。肉体から分離した後は、霊となって、霊界に還って生活する。
神は彼らを向上し得る存在として創造した。完成と、その完成に必然性に伴う幸福が、彼らの目標であり、神は彼らを完全なものとしては創らなかった。それぞれの努力を通じて完成を目指すべきだとしたのである。それが各人の手柄となるからである。
創造された瞬間から、彼らは、地上での生活を通じて、或は、霊界での生活を通じて、向上を目指している。進化の極致に至ると、彼らは、至純の霊、つまり、天使となる。
したがって、知的な意味における『胎児』の状態から天使に至るまで、途切れることのない存在の連鎖があり、各々の鎖の環は、進化の階梯の一つ一つの段階をなしている。だから、高い段階、低い段階、また、中くらいの段階など、道徳的、知的な発達に応じた、あらゆるレベルの霊が存在することになる。ということは、あらゆる段階の、よき者達、悪しき者達、知的な者達、無知な者達が存在するということになるだろう。
低い段階にいる者達の中には、悪への傾向性が著しく強くて、悪をなすことに喜びを感じる者達もいる。実は、彼らこそが、いわゆる悪魔と呼び慣わされている存在なのである。実際、彼らは、悪魔が備えている、あらゆる悪しき性質を備えている。
霊実在論が彼らを悪魔と呼ばないのは、悪魔と呼んでしまうと、それは、人間から完全に切り離された、本質的に邪悪な、永遠に悪に運命づけられた、善に向かうことの全く出来ない存在と見なされる危険性があるからである。
教会の教義によれば、「悪魔は、もと、よき存在として創られたのだが、不服従によって、悪しき存在となった」とされる。つまり、悪魔とは墜天使のことである。彼らは、神によって、存在の階梯の上部に置かれたのだが、そこから下の方へと降りていったのである。そして、「一旦悪魔となった者は、二度と再びそこから抜け出すことが出来ない」とされる。
霊実在論によれば、悪魔とは、不完全な霊であって、向上の余地を残している。彼らは階梯の下部にいるが、そこから上っていくことは可能なのである。
無頓着、怠慢、頑固、傲慢、そして、悪しき意志ゆえに、霊界の下部にいる者達は、そのことによって苦しみを得ている。だが、悪をなす習慣がある為に、そこから出ることは難しい。
しかし、やがて、そうした苦痛に満ちた生き方が嫌になる時が、いつか来る。その時になって、彼らは、自らの生き方を善霊の生き方と比較し、「本当は、自分も、よい生き方をしたかったのだ」と悟る。
そして、向上の道へと入るのだが、それも、自らの意志によってそうするのであって、誰かに強制されてそうするのではない。彼らは、もともと進化すべく創られている為に進化を目指すのであって、自らの意志に反し、強制されて進化するのではない。
神は、常に進化の手段を彼らに提供しているが、それを使うかどうかは彼らの自由に任せている。もし進化が押し付けられたものだとしたら、何の手柄にもならない。神は、彼らが彼ら自身の努力によって手柄を立てることを望んでいるのである。
神は、ある者達だけを特別に選んで最上階に置くことはしない。その境涯は、誰に対しても開かれているのである。
ただし、努力なしに、そこに到達することは出来ない。最上階にいる天使達といえども、他の者達と共通の道を通って、徐々に上層へと上っていったのである。
第3節 全員が同じスタートラインから
霊が、あるレベルに達すると、そのレベルに見合った使命を授けられる。階層によって、それぞれ異なる使命を達成すべく働くのである。
神は、永劫の昔より、創造行為を繰り返しており、また、永劫の昔より、宇宙の統治に必要な、あらゆる手段を提供している。
知的生命体は、それが進歩の法則にかなったものでありさえすれば、一種類のみで、宇宙のあらゆる必要性を満たすことが出来るはずである。彼らは、全員が同じスタートラインから出発し、同じ道筋を通って、自分自身の立てた手柄に応じて、それぞれ進化していくのである。
こう考えた方が、「異なった能力を備えた生命体が何種類も創られ、それぞれに特権が与えられている」と考えるよりも、神の正義に合致するのではないか。
天使、悪魔、そして人間の魂に関する従来の考え方には、進化という観点が入り込む余地はなく、そこにおいては、「三者は、最初から、それぞれ異なった、特別な存在として創られた」とされる。つまり、「神は、えこひいきをする父親であり、自分の子供のうち、ある者達には、全てを与える一方で、ある者達には、むごい仕打ちをする」ということになる。
人間達が、随分長い間、そのような考え方を不自然と思わなかったのは、実に驚くべきことではあるまいか?
そして、その考え方を自分の子供達にも適用して、長子相続権の公使と、生まれによる特権を認めてきたのである。彼らは、「そうすることで、自分達が神より酷い仕打ちをしている」と考え得たのであろうか?
だが、今日では、考え方が大きく変わってきた。我々は、物事をもっとはっきり見るようになっている。正義に関しても、ずっとはっきりした概念を抱くようになり、そうした正義を切望している。そして、「地上に、そのような正義を見出せないとしても、少なくとも天上界には、完璧な形の正義があるに違いない」と考えるのである。
したがって、神の正義が最も純粋な形で示されていない教義は、我々の理性によって退けられるのである。
第4節 霊現象は、すべて悪魔によるわけではない
現代の霊現象は、過去のあらゆる時代に起こった類似の現象への関心を高めた。その為に、ここしばらくは、歴史の検証が、かつてない程熱心に行われた。そこで確かめられたのは、「結果としての現象が類似している以上、原因も同一のはずだ」ということである。
理性では説明がつかない、あらゆる異様な現象と同様、人々は、そうした霊現象を、超自然的な原因によるものであると考え、そこに、さらに迷信的な要素を付け加えて大げさなものとしていった。そこから数多くの伝説が生まれたわけだが、それらは、少量の真実と、多量の虚偽からなるものであった。
悪魔に関する教義は、実に長い間、他の教義を圧してきたが、悪魔の力を過大視し過ぎた為に、いわば、神そのものを忘れさせる結果となった。その為、「人間の力を超える現象は、全て悪魔によるものだ」と考えられるようになったのである。
あらゆる事柄が、サタンの仕業だと考えられた。あらゆるよきこと、有益な発見、さらに、人間を無知から解放し、狭い思考の枠組みから救い出した発見までもが、邪悪な存在の仕業と見なされてきたのである。
霊的な現象は、今日では数多く見られるが、科学的な知見に基づき、理性の光のもとに、しっかりと観察された結果、それらが、目に見えない知性の介入によって引き起こされていることが明らかになった。そして、それらは、あくまで自然法則の限界の範囲内で起こりつつも、新たな力、今日まで知られることのなかった未知の法則を示すものであった。
そこで、問題は、「そうした現象を引き起こす知性体が、一体いかなる次元に属しているのか」ということになる。
霊界について、曖昧で型通りの考え方しか出来なかったとすれば、誤解も生じたであろう。しかし、今日では、厳密な観察と、実験に基づいた研究によって、霊の本性に光が投げかけられて、その起源と行く末、宇宙の中における役割と行動様式が明らかにされ、問題が、事実そのものによって解決された。
すなわち、不可視の知性体とは、地上を去った人々の魂であることが明らかになったのである。
また、数多くの善霊・悪霊が存在するが、それらは、当初から違う種類のものとして創造されたのではなく、元々同一に創られたものが、それぞれ、様々な進化のレベルにあるに過ぎないということが分かった。
霊が占める階層により、また、その霊の、知的、道徳的な発達の程度に応じて、霊現象は、色々な様相を示し、時には正反対と思われるものもあるが、どの霊も――粗野な霊も、洗練された霊も、残忍な霊も、優美な霊も――全て、人類という家族の一員であることは間違いない。
この点に関しても、他の場合と同じく、教会は、悪魔の仕業とする古い考えにしがみついている。つまり、「我々は、キリスト以来、変化していない原理に基づいている」というわけである。
その後、人々の考え方も大きく変化しているのに、そのことを考慮に入れず、また、「神は、あまり智慧がないので、人間の知性の発達に応じて啓示のレベルを変えることなど、到底有り得ない」と考えているかのようである。「原始的な人々にも、文明人にも、全く同じ言葉遣いで語りかける」というわけである。
人類が進化しているにもかかわらず、霊的な面に関しても、科学的な面に関しても、伝統的な宗教が、古いやり方にしがみついているとすれば、やがて、いつか、この地上は神を信じない人間ばかりになるであろう。