第3部 死後の世界の実態と、その法則
第1章 不信と狂信を超えて
第1節 人間を不幸にする「唯物主義」という教義
死んだあと、我々は、どこへ行き、また、どうなるのだろうか?
今より楽になるのだろうか、あるいは、苦しくなるのだろうか?
死んだ後も存在し続けるのだろうか、あるいは、いなくなってしまうのだろうか?
存在を続けるのか、存在をやめてしまうのか、そのいずれかである。
永遠か、虚無か、全か、無か?
永遠に生き続けるのか、消えてしまって二度と再び戻ってこないのか?
考えてみる価値のある問題であろう。
「死んだらすべてが消滅し、完全な虚無が待っているのみ」という考え以上に恐ろしい考えがあるだろうか? 健やかな愛も、知性も、向上も、苦労して身に付けた知識も、すべてが打ち砕かれ、すべてが消滅する!というのであるから。
もしそうなら、どうして、よりよい人間になるために努力をし、苦労して欲望を統御し、一生懸命、精神を豊かにする必要があるだろうか? 何の果実も得られないのだとしたら、どうして果樹を植えるのだろうか? 何を得たところで、明日には、それがまったく役に立たなくなるとしたら、あえて、それを得ようとするだろうか?
もし本当にそうなのだとしたら、人間の運命は、動物のそれよりも、はるかに哀れむべきものとなってしまう。なぜなら、少なくとも、動物は、未来への恐れなど持たずに、今を十分に生き、物質的欲望を満たして完全に満足しているからである。
だが、我々の心のどこかで、「そんなはずはない」とささやく声がする。
死後が虚無であるならば、結局は、「今さえ良ければよい」ということになる。論理的に考えても、待っているはずのない未来にかかずらうことは出来ないからである。
「今さえ良ければよい」と考え始めると、当然、その次は、「自分さえ良ければいい」と考えることになる。まさしくエゴイズムの極致である。そして、そうなったときには、これも当然のことながら、自己信頼は失われる。
そして、「生きている間だけが華だもの。やりたい放題をやって楽しまなければ損」ということになる。しかも、いつまで生きていられるかも分からないので、とにかく手っ取り早く楽しまなければならない。「とにかく楽しまなくちゃ。自分さえ良ければいいんだ」ということで、この世での幸福だけしか考えなくなる。
世間体を気にすることは、多少はあるだろうが、それ以外に、こういう人々を思いとどまらせる要素はあるだろうか?
法律は?
だが、「法律に引っ掛かるのは、間抜けな人間だけ」と彼等は考えるだろう。そうして、法の網をくぐり抜ける算段をするに違いない。
もし、反社会的な、極めて不健全な教義があるとすれば、それこそ、まさしく死後の虚無を中心にすえた「唯物主義」という教義だろう。なぜなら、そうした教義は、社会の基盤をなす連帯と友愛の絆を完全に断ち切ってしまうからである。
第2節 伝統的宗教は無力化する
さて、いま、何らかの緊急事態が起こり、一週間後に地球上のすべての人間が死に絶えることになったとしよう。しかも、「死んだら最後、一切が消えてしまう」ということになったとしよう。
そうすると、この一週間の間に人間は何をするだろうか?
自らの向上のために、腰をすえて、じっくり勉強するだろうか? 辛い思いを我慢して、正しい努力を続けるだろうか? 法律を遵守し、善を目指し、隣人を愛するだろうか? 権威の言うことに耳を傾けるだろうか? 何らかの義務を果たそうとするだろうか? 答えは、間違いなく、「否」であろう。
だが、そうしたことが全体のレベルで起こらなくても、日々、虚無主義の教義は、同じように、一人一人を侵しているのである。
とはいっても、事態がそれほど酷くならないのは、「神を信じていない」と言う人々のほとんどが、心の底からそう思っているわけではないからである。神の不在を確信しているのではなく、神の存在を確信することが出来ないだけである。虚無を恐れてはいるが、それが本当にあってほしいと願っているわけではないのだ。
絶対的な無神論者は、ほんの一握りにすぎず、無神論は、唯物主義から力を得ているとはいえ、常に反対意見にさらされている。
しかしながら、絶対的な無神論が社会全体を覆ったとしたら、社会は確実に崩壊するであろう。そして、それこそが、虚無主義が狙うところであるのだ。
もし虚無主義が真理であるならば、それがどのような結果を招くとしても、信じざるを得ないだろう。それが真理である以上、それに反する、どのような考え方も、それが惹起(じゃっき)するであろう、どのような悪しき思想も、それを消滅させることは出来ないからである。
ところで、懐疑主義、猜疑心、無関心が、宗教の努力があるにもかかわらず、日々、地歩を固めていることは、無視するわけにはいかない。もし宗教が無神論に対して無力であるとすれば、それは、今日の宗教に何かが欠けているからであろう。そして、このままでいけば、宗教は、そのうち完全に無力になるに違いない。
信じる前に、まず理解することを人々が望む、この19世紀にあっては、宗教の教義が、明白な事実に基づいて説明される必要があるだろう。また、実証科学の知見と教義の内容が一致する必要もあるだろう。もし、宗教が「白」と言い、事実が「黒」と言うならば、盲信よりも事実を取るのが当然なのである。
さらには、あらゆる宗教は、死後に天国と地獄が存在することを認めているが、「どうすれば地獄に堕ち、どうすれば天国に行けるのか」という点、さらには、「地獄では、どのような苦しみを受け、天国では、どのような喜びを得るのか」という点に関しては、それぞれ異なった見解を持っている。
そこから、ある場合には、互いに矛盾するような見方も生じ、「神を讃えるには、どうすべきであるのか」という点に関して、様々な異なった考え方が生じているのである。
全ての宗教は、それが発生した時点では、人間の、精神的、知的進化の度合いを問題としていた。しかし、今なお、人間は、純粋に霊的な事柄の持つ意味を理解するには、あまりにも物質的でありすぎるために、宗教的な義務のほとんどを、心と関係のない物質的な事柄の成就に置きがちである。
だが、暫くの間は、そうした外面的な形式の問題で満足していても、やがては、そこに虚しさを感ずるようになってくる。そして、宗教がそうした虚しさを埋めることが出来ないと、彼らは、宗教を捨てて哲学へと向かうのである。
もし、宗教が、原則として、人間の限られた知性にふさわしいものであり、なおかつ、人間の精神の発達に対応し続けることが出来たとしたら、おそらく無神論者は存在しなかったであろう。というのも、信ずるということは、人間には本性として与えられており、知的な必要性と調和したかたちで、霊的な糧が与えられさえすれば、人間は、信仰を持つように、もともと出来ているからである。人間は、「どこから来て、どこへ行くのか」を知りたがる存在なのである。
第3節 「霊実在論」の登場と、その威力
まさしく、そうした時期に、霊実在論が登場し、猛威を振るう無神論の濁流に抗して、強固な堤防を築こうとしている。霊実在論は、目で見ることができ、手で触れることができる明白な証拠を示して、魂の実在と死後の世界の存在を証明した。
それゆえに、伝統的な宗教にも、通俗的な哲学にも満足できず、疑いの持つ苦しさに心をさいなまれていた人々が、あれほどの熱意を持って、霊実在論を信奉するようになったのである。
霊実在論は、事実の裏付けを持っており、論理的な推論に基づいている。ゆえに、それを論理的に打ち負かそうとしても不可能なのである。
人間は、死後の生命の存続を本能的に信じている。しかし、今日まで、それを証明する決定的な証拠を得ることが出来なかったために、様々な想像力を巡らせて、色々な考え方を発明してきたのである。
死後の生に関する霊実在主義の理論は、想像力によって勝手につくり出されたものではなく、物理的な事実の観察から導きだされたものである。そうした事実は、今日、いくらでも、我々の目を通して観察することができる。
様々に分かれていた意見は、事実の観察によって、やがて統一され、仮説に基づくものではない一つの確信にまでまとめ上げられることになるだろう。
魂の死後の運命に関する見解が統一されれば、様々な宗教間での抗争が徐々に姿を消し、宗教同士で寛容の精神が発揮されるようになり、やがて、最終的には、数多くの宗教が統合されることになるであろう。