第2部 天国霊・地獄霊からの通信の記録

第6章 強情な霊
(1)ラポムレー――光による懲罰を受ける男性
パリ霊実在主義協会の集いで、死後によく生ずる混乱について議論していた時、ある霊が自発的に降りてきて、次のようなメッセージを伝えてきた。この霊については、誰も話題にのぼらせなかったし、招霊しようとも考えていなかった。このメッセージには署名はなされなかったが、それを送ってきた霊が、丁度死刑に処せられたばかりの大犯罪人であることは、誰の目にも明らかであった。

「死後の混乱についてだって? バカバカしい。あんたらは、おめでたい空想家だよ! 死後にどうなるかなんて、あんたらには、ちっとも分かってやしない。
いいかい、よく聞きなよ。死後の混乱なんて、ありはしない。あるとしたら、あんたらの頭の中にだけだ。俺は本当にきっぱりと死んだ。そして、今、自分の心も、周りも、何だって、はっきり見える。

人生なんて、陰気な喜劇にすぎないのさ。幕が下りる前に舞台から追い出されるヤツは、要するに、下手クソな役者なんだ! 死なんて、それを恐れる奴にとっては恐怖だし、それに歯向かおうとする奴にとっては処罰だし、それを乞い願う奴にとっては快楽だ。そして、誰にとっても愚弄なのさ――。

うう、光が眩しい。鋭い矢のように、俺の希薄な体に光が突き刺さる――。

生きている時には、俺は牢獄の闇によって罰を受けた。死んだら、今度は、墓の闇によって、俺が罰を受けるだろうと、奴らは思っていたに違いない。そうでなけりゃあ、カトリックの迷信にある地獄の闇によってな!

ふん、あんたらは立派だよ。俺ときたら、社会の除け者だった。ところが、今じゃあ、俺は、あんたらの上を飛んでいるんだ――。

ああ、ここにずっといたい! 周りから、色々、『ああしろ、こうしろ』と、五月蝿く言ってくるが、そんなものは無視してやる。何でもはっきり見えるぞ。

殺人か。殺人なんて、ただの言葉じゃねえか。殺人なんて、どこにでもある。集団で殺しゃあ、褒められて、一人で殺しゃあ、けなされる。大したもんだぜ! 滅茶苦茶じゃねえか。

ふん、泣き言なんか言うもんか――。何にも欲しいものなんかありゃしねえ! 何でも手に入れられるからな。そして、このいやらしい光と戦ってやる! 」

このメッセージを分析した結果、「良識を逆なでしようとする言葉遣い、それ自体の中に、大きな教訓が含まれている」という見方が提示された。そして、この不幸な霊の置かれている状況は、罪人を待っている罰に関して、新たな展望を我々に開いてくれた。

ある者達は、闇の中に、或は絶対的な孤立状態の中に置かれる。ある者達は、死んだ時の苦しみを、その後、何年にもわたって感じ続ける。ある者達は、「まだ、この世にいる」と思い込んで過ごす。そして、この霊のように、光による懲罰を受ける者もいる。

この者の霊は、全く自由に振る舞っている。自分が死んでいることを完全に自覚しているし、何か不満があるわけでもない。何かして欲しいというわけでもない。だが、未だに、神の法と、地上の人間の法に、歯向かっているのである。

ということは、彼は罰を免れているのだろうか? いや、そうではない。つまり、神の正義は、本当に様々な形態をとって実現されるということである。ある者達にとっての喜びが、ある者達にとっては苦痛になるのである。この霊の場合、光が拷問となっているのだ。そして、光に対し、戦いを挑んでいる。傲慢な口調で、彼は次のように言っている。

「何でも手に入れられるからな。そして、このいやらしい光と戦ってやる! 」

また、次のようにも言っている。
「うう、光が眩しい。鋭い矢のように、俺の希薄な体に光が突き刺さる――」

「俺の希薄な体」という言葉が注意を引く。つまり、彼は、自分の体がエーテル状になっていることには気がついているのだ。この体を光が刺し貫き、そして、彼は、それから逃れることが出来ない。この光は、まるで鋭い矢のように、彼の体を貫き通すのである。

この霊は、強情な霊達の仲間に入れられている。というのも、この霊が、ほんの僅かでも悔悟の気持ちを表明するまでは、大変長い時間がかかったからである。「知的な進化に必ずしも精神的な進化が伴うわけではない」という真実の一つの例であろう。

とはいえ、徐々にではあるが、彼は自己改善に励み、やがて、理性と智慧に裏付けられ、かつ数多くの教訓に満ちたメッセージを送ってくれるようになった。現在では、悔い改めた霊達の仲間になっていると言えよう。

この霊に関して、指導霊達に評価を求めたところ、次のような通信を送ってくれた。大変意味深い内容のメッセージである。

ラムネーからのメッセージ:「迷っている状態の霊達は、当然、非活動的で、待機状態にあります。とはいえ、傲慢、強情、頑固等に邪魔されなければ、償いを果たし、徐々に境涯を上げることは可能なのです。

先程の霊の場合には、罪を犯して強情になっており、地上の法律に歯向かった後で、今度は神の法に楯突いています。報いとしての苦しみは、『彼の良心を目覚めさせ、その苦しみの深い意味を悟らせる』というふうには作用せず、むしろ、彼を反抗に追いやり、聖書の記述に従えば、彼を『歯ぎしりして悔しがらせる』結果となっています。

これは、報いとしての苦しみに打ちのめされながら、なお素直になれない者に、よく見られる行動です。苦しみのあまり絶望的となりつつも、なお反抗を止めることが出来ず、なぜ苦しむのかを知ろうとせず、報いの意味を考えようとしないのです。

このように、霊界では、大変な思い違いが、しばしば――いや、殆ど常にと言った方がよい――行われているのです。

強情を張り通し、神の前で威嚇的な態度をとる様子は、丁度、星を見て、それを『天井にあいた穴だ』と思う人間に似ています。霊の世界は無限なのです。それにもかかわらず、地上にいた時と同じつもりで、無限をつまらぬものと思いなし、無限に対して戦いを挑み、無限を前にして、バカバカしい空威張りを繰り返す。何とも哀れではありませんか。

そういう者は、盲目となり、他者を侮り、エゴイスティックに振る舞い、卑しさを丸出しにして、自ら向上を拒否するのです。そして、数々の厳しい試練を受けても、なお気づくことが出来ず、しかも、『絶対に死ぬことが出来ない』のです! 」

エラストからのメッセージ:「闇の中に置く、或は、光の奔流を浴びせる。結果は同じなのでしょうか?

闇の中では何も見えず、その暗さに比較的早く慣れることが出来ますが、強烈な光にさらされると、なかなか、それに慣れることは出来ません。そのことは、先程の霊の、『このいやらしい光と戦ってやる! 』という言葉にも窺われます。

実際、この光は、霊を完全に貫き、霊が最も隠しておきたい秘密の考えさえも照らし出し、誰にとっても見えるものにしてしまうのです。霊にとっては、これほど恐ろしく、身の毛もよだつ罰はないでしょう。これは、霊的な処罰のうちでも、最も厳しいものに属すると言えるでしょう。

彼は、いわば、ソクラテスが欲しがっていた『ガラス張りの家』に入れられているわけですが、賢者にとっては喜びであり慰めであったことでも、意地悪な人間、犯罪者、殺人者にとっては、とんでもない拷問になるのです。そこで本当の自分に直面させられるからです。

最も忌まわしい犯罪を何度も犯しながら、それを心の内に秘めて、知らん顔をしていたところが、今や、全ての秘密を暴かれて、人々の目に晒されるのです。この恐ろしさが、我が子達よ、あなた方には分かるでしょうか? 不感無覚の仮面が剥ぎ取られ、心に秘めた考えが、全て額に映し出されるのです!
もう、どこにも逃げられず、一時も休息はありません。どこかに隠れようとしても、『いやらしい』光が付きまとって、照らし出すのです。

彼は、『逃げよう』と思い、実際に逃げます。広大無辺な空間の中を、息を切らせて、絶望的になって、逃げ回るのです。しかし! どこに逃げても、あの光が追いかけてきて、照らし出され、全てが、さらけ出されます。そこで、また逃げ出します。物陰を求めて、夜を探して――。だが、物陰も夜も、どこにもありません。『いっそ死にたい』と思います。しかし、『絶対に死ねない』のです。そこで、また逃げ出します。永遠に逃げるしかありません。狂ったようになって逃げ回るのです。

何という恐るべき処罰、何という激しい苦悩。というのも、『自分』から逃げようとすると、『自分』に出会うからです。

かくのごときが、霊界を統べる法則です。罪を犯した者にとっては、『自分自身』が最も恐ろしい罰になるのです。

これは、いつまで続くのでしょうか? 彼の強情が打ち砕かれ、後悔の念が湧き始めるまでです。その時になって、ようやく、彼は、犠牲者の前で、正義の聖霊の前で、謙虚に頭を垂れることが出来るようになるのです」

ジャン・レイノーからのメッセージ:「人間がつくった法律は、刑罰の対象となる人間の個性を考慮に入れません。犯罪だけを見て判断するので、同じ犯罪を犯した人間達には、全く同じ罰を与えます。罰の内容は、性の違い、教育の違いに関わりなく決められるのです。しかし、神の正義は、それとは全く異なった形で適用されます。罰は、全て、それを受ける人間の心境に応じて与えられるのです。同じ罪を犯したからといって、同じ罰を受けるとは限らないのです。

例えば、ここに、同じ罪で告訴された二人の人間がいるとして、一人は、まだ明晰な精神を備えるに至っていないので、覚醒を促す為に、初歩的な試練の中に置かれます。

別の一人は、初歩的なレベルを既に超えており、ある程度の明晰さを備えているので、別の試練に晒されます。この人は暗闇の中に置かれるのではなくて、鋭い光に晒されるという試練を受けるのです。この光は、地上で身に付けた過てる知性を刺し貫き、心の曇りを際立たせることによって、おのずと苦悩を与えることになるのです。

境涯がそれほど高くない犯罪者が死んで霊になると、彼らは、自分の罪を物理的に再現して見せつけられ、雷に打たれたようなショックを受けます。そして、感覚的に苦しむのです。

脱物質化がかなり進んでいる霊の場合には、死後、生々しい犯罪の事実からは離れ、犯罪の原因を、因果律に従って知的に分析するように導かれます。苦悩も、物理的なものではなく、高度に精神的なものになるのです。こういう霊の場合、犯罪を犯しはしたものの、そのことによって、かえって内面を進化させることが可能となります。

動物的な欲望に突き動かされて犯罪を犯したようなタイプでは、霊になって鋭くなった感覚で事実を見て苦しむことにより、低級霊界を覆う分厚い大気を突き抜けて、上方に出るように促されます。

一方、冷静さが欠如し、精神的な発達と知的な発達のバランスが取れていない人々は、唯物主義が横行している時代、或は、霊性が充分に開花していない時代に生まれると、しばしば異常な行動に駆り立てられるものなのです。

ある程度、境涯が高くなっている霊を罰する光は、霊的な光であり、その光の威力によって、心の奥に秘められた傲慢さが照らし出され、断片化した心のありようの無惨さが、白日の下に晒されるのです。そのことによって、霊的な苦悩を感じることになり、知的な面と精神的な面のバランスが取れていないことを思い知らされるのです。

このバランスが統合されると、人霊として、完成された存在に近づいていきます」

以上の霊示は、同じ日に得られたものであるが、互いに補完し合って、死後の罰の様子を、高度に哲学的、また理性的な、新たな光の下に照らし出してみせてくれる。

「まず例を見せて、次に、それを理論的に解析する」という目的で、まず最初に、罪を犯した霊の自発的なコンタクトを許可したものであろう。

(2)アンジェル――まったく意味のない人生を送った女性
一八六二年、ボルドーにて。

アンジェルと名乗る霊が、自発的に、次のようなメッセージを送ってきた。

「わたしはアンジェルと申します」

――自分の過ちを後悔していますか?
「していません」

――それなら、どうして、ここに来たのですか?
「ここに来れば、何とかなるかもしれないと思ったからです」

――ということは、あなたは幸せではないのですね。
「はい、そのとおりです」

――苦しんでいるのですか?
「いいえ」

――何があなたには欠けているのですか?
「心の安らぎです」

――霊になっているのに、どうして心の安らぎが得られないのですか?
「過去が悔やまれてならないからです」

――ということは、悔い改めの最中だということですか?
「いいえ。これからのことが怖いのです」

――何を恐れているのですか?
「どうなるか分からない為に怖いのです」

――地上にいた時に、どんなことをしたのか、教えて頂けますか? そうすれば、色々なことが、はっきりしてくると思います。

「私は、地上では何もしませんでした」

――社会的には、どの辺りにいたのですか?
「中くらいのところです」

――結婚は?
「結婚しており、子供もいました」

――では、妻として、母として、一生懸命、日々の義務を果たしたのですね?

「いいえ。夫には飽き飽きしていましたし、子供には何の関心も持てませんでした」

――それでは、何をして過ごしたのですか?

「娘の時は、どうでもいいようなことをして、おもしろおかしく過ごし、結婚してからは、若い妻として退屈していたのです」

――何か職業には就いたのですか?
「いいえ」

――では、家のことは誰がやっていたのですか?
「女中がいました」

――そうして無意味に過ごした為に、後悔しており、また、行く末が心配なのですね?
「多分、そうだと思います」

――悔い改めるだけでは、おそらくダメでしょうね。その無意味な生存を償う意味で、周りにいて苦しんでいる霊達を助けてあげてはいかがでしょう。

「えっ、どうすればいいのですか?」

――助言を与え、祈ってあげて、彼らが向上するのを助けるのです。
「どうやってお祈りをすればいいのか分かりません」

――では、一緒に祈ってみましょう。そうすれば、やり方が分かるはずです。いいですか?

「いえ、結構です」

――どうしてですか?
「面倒くさいから――」

霊媒の指導霊モノーからのメッセージ:「地上で過ちを犯した為に償いをさせられている霊達の、様々な苦しみ、立場を見ることによって、色々と学んで頂きたいのです。

アンジェルは、自主性を持たなかった為に、自分自身に対しても、また、他者に対しても、意味のない人生を送った人間の例です。

どうでもよい快楽に心を奪われ、根気よく学ぶことをせず、家族に対する義務と社会に対する義務を、まったく果たしませんでした。義務を果たすことによって初めて、人間の心は、人生に魅力を見出すことが可能となるのにもかかわらず、です。義務というのは、どんな年齢でも見出すことが出来ます。

若い時、彼女は、意味のない気晴らしをして、いたずらに時を過ごしました。

結婚して、真面目に義務を果たさねばならなくなったのに、彼女の周りには空虚な世界が広がっていました。それは、彼女の心が空虚だったからなのです。特に重大な過失はありませんでしたが、これといって特に取り立てるべき点もなく、夫を不幸にし、子供達の未来を台無しにしました。

そして、投げやりと無気力の為に、子供達が快適に暮らす権利を損ないました。第一に、自分自身のダメな姿を見せることで、第二に、女中に彼らの世話を任せきりにすることで、子供達の判断力と心を狂わせたのです。しかも、自分自身で女中を選ぶことさえしませんでした。

彼女は、価値のあることをしないことによって罪を犯したのです。というのも、悪は、善を行わないことによっても発生するからです。悪を行わないだけでは十分ではないということを知ってください。それとは逆に、期待されている徳を実践して、積極的に善を行う必要もあるのです。

神が何を望んでおられるのかを、よく考えてください。悪の道への入り口で立ち止まることだけではなくて、そこから引き返し、積極的に善の道を進んで行くことを、神は望んでおられるのです。

悪と善とは対立するものです。ですから、悪を避けたいと思うなら、それとは反対の善の道に入り、しかも、その道を前進する必要があるのです。そうでなければ、人生は無意味なものとなります。その場合には、死んでいるのも同然です。

いいですか、私達の神は、死せる者の神ではなく、生ける者の神なのですよ」

――アンジェルの、直前の転生は、どのようなものだったのでしょうか? 今回の人生は、その帰結なのですか?

「修道院で、怠惰に、何もせずに過ごしました。そして、今回、家族を持つことを希望したのですが、怠惰とエゴイズムが骨の髄まで染みているせいか、殆ど改善が見られませんでした。『このままでは、まずい』と、内なる声が囁くのですが、彼女はそれを無視しました。上り坂は緩やかであったにもかかわらず、彼女は、入り口のところで諦めてしまい、努力を放棄したのです。

今でも、『こういうふうに、どっちつかずの生き方をしていてはいけない』ということは分かっているのですが、そこから出る為に努力する力が湧いてこないのです。

彼女の為に祈ってあげてください。彼女は目覚める必要があるのです。目を見開いて光を見るように、促してあげてください。これは、あなたにとっての義務です。しっかり、この義務を果たすように。

人間は活動するように創られています。霊的に活発であること、これが人間の本質であり、体を動かすことは、それに伴う義務です。しだかって、永遠の安らぎを運命づけられている霊として、あなた自身の存在の本質にかかわる条件を満たしなさい。

肉体は、霊に奉仕する為にあるのであって、あなたの知性に使われる道具でしかないのですよ。学び、そして、知性を高めなさい。そうすることによって、知性は、救済の為の道具として肉体を使いこなし、自らの使命を果たすことが可能となるのです。肉体を上手に使いこなすのです。『あなたが憧れている心の安らぎは、肉体による労働の後にしか訪れない』ということを知りなさい。したがって、仕事を怠ければ、その間中、不安になりながら待ち続けることになるのです。

働きなさい。絶えず仕事をしなさい。義務をことごとく遂行するのです。熱意を持って、粘り強く、根気よく、義務を果たすのです。信仰があなたを支えてくれるでしょう。

誰もが避けるような、社会の中で卑しいとされている、そうした義務を、朗らかな気持ちで行いなさい。神の目から見て、そうした人は、他人に義務を押し付けて自分は楽をしている人間に比べて、百倍も千倍も優れているのです。

全てが、天に向かって上る為の階段になっているのです。どうか、その大切な階段をないがしろにしないでください。

そして、天使達が、いつも、あなたに手を差し伸べているということを、忘れないでくださいね。天使達は、神の為に命を使おうとしている人達を、決して放っておきません。必ず、そういう人達を支援します」

(3)女王ドゥード――フランスで死亡したインド人
インド人であるが、一八五八年、フランスで死亡。

――地上を去るときには、どんな感じがしましたか?
「どう言っていいのか分かりません。まだ混乱しているからです」

――いま、幸福ですか?

「自分の生き方を後悔しています――。なぜか、よく分からないのですが――、鋭い苦痛を感じます。『死ねば自由になれる』と思っていたのですが――。ああ、体が墓から抜け出せるとよいのに」

――インドに埋葬されなかったこと、つまり、キリスト教徒たちのあいだに埋められたことを悔やんでいますか?

「はい。インドの地であれば、こんなに体が重い感じはしなかったでしょう」

――あなたの亡骸(なきがら)に対して行われた儀式については、どう感じていますか?

「ほとんど意味がありません。わたくしは女王であったというのにわたくしの墓の前で、みながひざまずいたわけではありませんでしたから――。

ああ、どうか放っておいていただけませんか――。わたくしは、話すように強制されていますが、本当は、わたくしが、いまどんな状態であるか、知られたくないのです――。わたくしは女王であったのですよ。どうか、察してください」

――私たちは、あなたに対して敬意を持っています。私たちの大切な教訓にしたいと思いますので、どうか質問にお答えいただきたいのです。

あなたの息子さんは、将来、国を復興させると思いですか?

「もちろんです。わたくしの血を引き継いでいますから、あの子には、充分、その資格があるはずです」

――いまでも、生前と同じく、息子さんの名誉が回復されることをお望みですか?

「わたくしの血が大衆の中に混じることはありえません」

――死亡証明書に、あなたの出生地を書くことができませんでした。いま教えていただけますか?

「わたくしは、インドでも最も高貴な家柄に生まれました。デリーで生まれたはずです」

――あなたは、あれほどの豪奢(ごうしゃ)に囲まれ、栄光に包まれて生涯を過ごされました。そのことを、いま、どのように感じておられますか?

「あれは当然のことです」

――地上では、たいへん高い身分であられたわけですが、霊界に還られたいまも、同じように高い身分をお持ちなのですか?

「わたくしは常に女王です!
ああ、誰か、誰かおらぬか? 早く奴隷を連れてきなさい! 身のまわりの世話をする者がいないではないか! いったい何をしているのか! 早く! ――。ああ、どうしたのだろう? ここでは、誰もわたくしのことを気にかけてくれないようだ――。
でも、わたくしは常に女王――」

――あなたはイスラム教徒だったのですか? それとも、ヒンドゥー教徒だったのですか?

「イスラム教徒でした。でも、わたくしは神よりも偉大であったので、神にかかわる必要はなかったのです」

――イスラム教もキリスト教も、人間を幸福にするための宗教ですが、両者には、どのような違いがあるとお考えですか?

「キリスト教は、ばかげた宗教です。だって『人類全員が兄弟だ』などと言うのですから」

――マホメットについては、どうお考えですか?
「あの男は王家の者ではありませんでした」

――マホメットには神聖な使命があったのでしょうか?
「そんなことは、わたくしには関係ありません」

――キリストについては、どうお考えですか?
「大工の息子のことなど、考えたことはありません! 」

――イスラム教圏では、女性たちは男性の視線から守られていますが、これについては、どうお考えですか?

「わたくしは、女とは支配する存在だと思っております。そして、わたくしは女でした」

――ヨーロッパの女性たちが謳歌(おうか)している自由をうらやましいと思ったことはありませんか?

「ありません。彼女たちの自由にどんな意味があるというのかしら? 奴隷を持つ自由すらないのに」

――今回の転生以前に、どのような転生をされていたか、思い出すことはできますか?

「わたくしは、いつだって女王として転生しているはずです! 」

――お呼びしたとき、どうして、あんなにすばやく来られたのですか?

「わたくしは、いやだったのですが、そのように強制されたのです――。わたくしが喜んで質問に答えているとでも思っているのですか? あなたは、自分をいったい誰だと思っているの?」

――誰に強制されたのですか?

「知らない者です――。でも、おかしい――。わたくしに命令できる者などいないはずなのに」

――いま、どのような姿をしていますか?

「常に女王です! ――。もしや、わたくしが女王ではなくなったなどと――。無礼者! 下がりなさい! それが女王に対する口のきき方ですか! 」

――もし、われわれが、あなたのお姿を見ることができるとしたら、豪華な衣装を身につけた、宝石で飾られたお姿を見ることになるのでしょうか?

「当たり前です! 」

――地上から去られたというのに、まだ衣装や宝石を身につけておられるのですか?

「もちろんです! ――。そのままです。わたくしは、相変わらず、地上にいたときのように美しいのです――。いったい、わたくしがどんな姿になっていると思っているの? 見えもしないくせに! 」

――ここにいらして、どのような印象をお持ちですか?

「できることなら来たくありませんでした。あなたがたの態度がぶしつけだからです。あなたがたは、いったい、わたくしが女王であることを知っているのですか?」

聖ルイからのメッセージ:「そろそろ帰してあげましょう。かわいそうに、完全に迷っています。本当に気の毒な方です。さあ、これをよき教訓としなさい。高すぎるプライドのせいで、どれくらい彼女が苦しんでいるか、あなたがたには分かりますか?」

いまは墓の中にいる、この身分の高い女性を招霊することにより、インドの女性が受ける情操教育の面に関して、これほど意味深長な返答が得られるとは思ってもみなかった。

われわれは、むしろ、哲学とまでは言えないにしても、地上での栄華や身分の虚しさに対する健全な評価が引き出されるものと思っていた。ところが、まったくそうではなかった。この霊は、地上時代の考えをそっくりそのまま持ち続けていたのである。

特に、プライドという幻想は完全に保たれており、そのために、自分の弱さを認められない。そして、そのことで非常に苦しんでいるのである。

この章全体に関して言えば、強情な霊たちが、すべて、意地悪、かつ邪悪であるわけではない。「悪をなそう」と思っているわけではなくても、傲慢(ごうまん)、無関心、あるいは無気力から、強情となり、停滞している霊の数は、そうとう多いのである。

だが彼らの不幸が、より耐えやすいわけではない。というのも、この世的な気晴らしがないだけに、「何もすることがない」という状態は、大変な苦しみとなるからだ。「苦しみが、いつ終わるか分らない」ということは、実に耐えがたいことである。

しかし、彼らには、それを変える気がないのである。彼らは、地上にいるときに、自分自身に対しても、他人に対しても、役に立つことは何もせず、いわば無用の存在であった。そして、そのうちの、かなりの数の者たちが、人生に嫌気がさして、特に理由もなく自殺するのである。

こうした霊たちよりも、はっきりとした悪霊たちの方が、かえって救いやすい。悪霊たちは、少なくともエネルギーにあふれており、いったん目を覚ませば、悪に邁進(まいしん)していたのと同じくらい熱心に、善の道を突き進むことになるからだ。

無気力な霊たちがはっきり感じられるほど進歩するためには、数多くの転生を経験する必要があるだろう。ほんの少しずつだが、退屈に邪魔されながらも、何らかの職業に就いて、そこに楽しみを見出す、そして、やがては、その職業が必要と感じられるようになるまで頑張る。こうして、ゆっくりと向上していけばよいであろう。