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【大坂街道】摂津・大坂と丹波・三田を結ぶ大坂(丹波)街道が山口の北部を縫っていた。名塩道を経て赤坂、平尻、道場平田から三田に抜ける街道である。現在の国道176号線の赤坂交差点の北側附近から西に向って、かっての大坂街道の名残りとおぼしき畦道(画像@以下同じ)が残っている。更に東に抜け中国道の高架下を潜り抜けると生コン工場がある。この北側にかっての生野道と平尻街道の分岐点Aがあり、船坂川に架かる鍋倉橋がにある。平尻方向に旧道が北六甲台の北側に残っている。途中、北に入る小道の先に農作業小屋があるB。平尻街道と山口を結ぶ街道の分岐点だった所でこの小屋はかって茶店があった。庭先には義太夫の太夫の墓碑などが現存している。山口町郷土資料館に保存されている西国巡礼供養塔は銭塚地蔵横の墓地にあったもので「右ハ大坂 左ハ山道 寛政三亥歳四月十八日 同行九人」と刻まれている。元々はこの分岐点に建てられていたのではないかと思われる。
【生野道】生野道は、平尻街道の分岐点Aを北に向って船坂川の西岸を抜ける街道だった。現在、街道入口附近は閉鎖され、その跡を辿ることは困難な状況になっている。
【平尻街道】平尻街道は平尻から有馬川東側の丘陵を抜けて道場平田と結ぶ街道である。現在も北六甲台北側の中国道沿いの旧道から西に向う畦道がそれらしき名残りをとどめているが、畦道は途中で小山の林で遮断されている。過日、中国道側道沿いの阪神大震災名来犠牲者名来納骨所横の小道から分け入ったところ、名来方面からの進入路との分岐点付近に旧街道に沿ってお地蔵さん型の道標Cがあった。道標には「右 清水道」と刻まれ、この街道がかっての西国三十三所巡礼道であったことを物語っていた。この街道は山を越えて道場平田に繋がる畦道Dに続いている。
【有馬(三田)街道】三田方面と有馬温泉を南北に結ぶ有馬(三田)街道が山口の大動脈だった。北から名来、下山口、上山口、中野の各村を縦貫していた。中屋敷公園手前の道を西に行くとすぐに二つ並んだ「土祖神」があり、明治橋と結ぶ三叉路地点に「山口村道路元標」があるG。また金仙寺道分岐点の十王堂橋西側には道標Jが現在も残されている。明治に入り、明治橋Hが架設され、大坂街道は平尻から下山口を通過し三田に向うルートが本道となった。
【宮前通り】有馬街道の下山口の中心部から西に真っ直ぐに宮前通りEがある。正面突当りには公智神社があり、風情のある参道風景がひろがっている。街道沿い参道入口には「孝徳天皇行在所址」と刻まれた石碑が建つ公智神社ゆかりの御旅所がある。
【播磨街道】大坂街道の平尻から分岐して山口中心部を抜け播磨に向う播磨街道があった。平尻からかつてはお天上山と呼ばれた北六甲台の中心部を抜ける山道が銭塚地蔵前の道を通り、有馬川を越えて宮前通りに通じる。公智神社と光明寺の間の坂道が、今も残るかつての播磨街道跡Fであり、流通センター北側から有野川を渡る道が今も残る。
【金仙寺道】上山口の有馬川に架かる十王堂橋から東に金仙寺湖方向に向う坂道Kがある。金仙寺道の名残りである。この街道は、船坂から船坂川沿いを北上し金仙寺前を通過し上山口で有馬街道とつながっている。青野道、名塩道が開かれるまでは、この金仙寺ルートが大坂方面からの生瀬、太多田川沿いの有馬街道を通過して三田方面に向う幹線であった。現在はほぼ同じルートの県道が走っている。また金仙寺は戦火で焼失し、現在は金仙寺湖畔Lに金仙寺観音が残されている。
【丸山】 金仙寺湖の北側に山口のランドマークともいえる丸山Mがある。丸山は、宝塚から生瀬、東久保を経て有馬温泉を結ぶ湯山街道と、三田方面へ向う丹波街道の分岐点という要衝の地に位置する。山頂には、室町時代末期の武将・山口五郎左衛門時角の居城があったが、今は稲荷神社が鎮座している。