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 山口と有馬を結ぶ県道から阪神高速の西宮山口南インターに向う道路に入ってすぐの所に、地元では城ノ垣内(しろのかいち)稲荷神社と呼ばれる小さな社がある。
 神戸女子大学文学部史学科発行の「西宮市山口町上山口・下山口の民俗」には以下の内容が記されている。
 『城ノ垣内と呼ばれ、元は丸山にあった城の出城の跡に建てられたと言われ、上山口の守りとされている。言い伝えによると、戦国時代に情報提供をする集団がここにいて、表の仕事として神社の経営をしていたと言われている。十王堂橋という橋が近くにあるので、以前からお堂があったと思われ、永蓮寺のお堂とも言われている。秀吉大明神の額が掲げられているが、秀吉とどのような関係があったか分らない』
 十王堂橋は稲荷神社の北西200mの金仙寺口バス停横にあり、その袂には有馬・船坂方向を示す道標が建っている。
 また有馬郡誌には山口の伝説のひとつにこの地に中野城があったと以下の内容を伝えている。
 『上山口と中野との境、有馬川の湾曲せる所、自然の要害をなせる南岸の平地城址にて、今一株の松樹残れり。交通路の十字路に衝りたり。天正の頃、有馬中務の築きしものといえり。有馬氏は、後、豊公に属し、播州淡河の城に居り、後、有馬郡三田に封ぜられしなり』
 「上山口区誌U」 という郷土誌がある。西宮市立北部図書館で借りたものだ。上山口にあった「夫婦松」について以下の記述があり、在りし頃の夫婦松の写真が掲載されていた。
 『山口村誌に「一本の松が地上1mぐらいのところから2本(男松、女松に分れ、抱擁するような姿で立っている。この松は天正年間、豊太閤、中国征伐の途、自ら植えし名木なりと伝えられている。」と記されているように、夫婦松は上山口の名木として、山口住民が長年親しんできた松である。ところが昭和54年9月2日強風によって女松が倒れ、昭和55年8月には男松の葉が黄色に枯れはじめ、松喰虫に侵された兆候を示し始めた。(中略)12月16日上山口自治会役員会で善後策を検討した結果、やむをえず伐採することに決定、107万円で売却した。昭和56年1月8日、公智神社長谷川宮司のお祓いを受け、自治会役員立会いのもとに伐採され、上山口の名木は姿を消した。』 
 区誌には、伐採直後の男松の年輪が300本以上を数えたこと、名木の姿を末永く留めたいという区民の希望に沿って男松、女松それぞれの株が火鉢に加工されて、上山口公会堂に保管されたことが記述されている。
 2007年8月の過日、管理人さんの許可を得て上山口公会堂に保管されている火鉢の画像を撮影した。
 尚、かって国鉄有馬線がすぐ前を走っていた夫婦松の跡地は、現在は「高田上谷病院」の南角にあたり、そのすぐ南の有馬川沿いにある「山口夫婦松公園」の名が夫婦松を偲ばせている。
 山口盆地の北東部に位置していた向山を切り開いて開発された住宅街が北六甲台である。向山は通称お天上山とも呼ばれ、大化の改新当時の孝徳天皇の有馬温泉行幸の際の行宮造営の材木をきりだした功地山といわれている。
 現在、北六甲台の天上公園内には、「公智神社旧鎮座跡之碑」がある。碑文には「当地は往古より功地山とよばれ、公智神社の旧鎮座跡なりしが、西暦約千年頃、現鎮座地に移遷す」と記されている。
 向山公園にも「高塚古墳伝承地之跡の碑」がある。碑文には「土地の人びとはこの地を高塚と呼び山口郷を開発した先覚者の古墳と伝えられている。その規模は径約十五米、高さ約二米の円墳であった。昭和六十二年十二月吉日建之」と刻まれている。
 下山口の村中を南北に抜ける旧街道がある。この街道の御旅所前のひとつ南の筋を西に入ると2体の「土祖神」が建っている。以前は画像真中の土祖神は100m余り南の辻に建っていたが、今は二体が一緒になっている。いずれの土祖神も向って右側面に「大正九年八月建立」と彫られている。
 ちなみに一般に路傍に建っているのは「道祖神」といわれる「土着信仰の路傍の神」であが、こちらは、「山口開発」の文字が刻まれたた土祖神である。「山口村を開発した九人の人たちを祀った石碑」といわれている。