生瀬村の誕生は、浄土宗の法然上人の高弟で西山派の開祖とされる善恵上人によって嘉禎4(1238)年に浄橋と呼ばれた橋が架けられたことに始まった。
浄橋寺には以下の創建伝承が伝わっている。『上人が有馬温泉に向う途上で平家の落武者らしき賊と遭遇した。上人は賊を諭し、急流の武庫川に橋を架け、その通行料で暮しを立てることを勧め、賊たちは橋守となった。』その真偽は別にしても浄橋寺が生瀬街道の通行に深く関わっていたことが窺われる。 |
生瀬宿は、丹波・播磨と摂津を結ぶ交通の要地であったので、江戸期早くから本宿場としてまた参勤交代のための宿駅として栄えた。当時の戸数107戸の内、103軒が何らかの形で宿駅に関わる仕事をしていたと伝えられている。
現在も江戸時代旅籠や茶店の名残りをとどめる家並みが見られる。庇が低く奥行きの深い白壁の家屋であり、妻入建築または宿造りと呼ばれる。
俳人許六の「早稲狩りになませの宿や民の家」という句が残されている。
|
江戸期に入り三田・丹波と西宮・摂津間の物資の輸送が増加するにつれ、金仙寺道は廃れ、丹波街道が中心になった。
また物資輸送の増加に伴い、宿駅間の荷物の争奪が激しくなった。青野道を巡る生瀬宿と名塩・道場河原との紛争もそのひとつである。
生瀬宿にとって荷物が対岸を素通りする青野道は目の上の瘤だった。青野道の代替路である猿首道は生瀬宿の生命線でもあった。上記画像は現在の猿首道(176号線)と猿首の姿である。
|