ホーム 概要 塩田・新道場 有馬口・有馬 モニュメント 中野橋脚   橋脚2 ビデオ版 鉄道異聞 廃線跡

■国鉄有馬線を語る上で道場町(現・神戸市北区)出身の事業家であり農業指導者でもある山脇延吉の存在を抜きにはできない。
 山脇は有馬線敷設の事業主体となった「有馬軽便鉄道会社」の社長である。国有鉄道となった有馬線を手放した後、神戸電鉄の前身・神有鉄道の社長となり、昭和3年に湊川〜有馬間の営業開始にこぎつけた。
■神戸電鉄「道場駅」の東側には「山脇延吉翁の碑」が建てられている。
 「神鉄道場駅」西側の城山橋のたもとには「有馬軽便鉄道」のプレートと以下の記述の案内板がある。
『この橋下に線路敷が残っている。大正4年に三田〜有馬間の営業が開始され、1日7便、13km弱を28分かけてのんびり走っていたが、太平洋戦争中、戦争に無縁な閑線と判断されて、昭和18年営業休止となり、線路等の施設は、軍事物資輸送をはかるために、篠山線に利用された。以後復活されないまま廃線となった。』
 「山口村誌」には有馬線について以下の記述がある。
 『大正2年11月、有馬軽便鉄道(三田〜有馬間)敷設が発起され、同4年4月16日、工事竣工と同時に政府が借り上げて営業を開始した。その後大正8年3月31日、同社に属する軽便鉄道が買収されて国有鉄道(有馬線)となった。この沿線は、三輪・三田・道場・有野・山口・有馬の各町村で、延長7里6分、停車場数5、本村には下山口字吉田に、有馬口停車場が設けられ、物資の輸送や、旅客の利用など多大の恩恵を受けていた。しかし昭和18年6月30日国策線として、軍需物資輸送を目的とする篠山線が新設されることになったので有馬線は廃線となった。』
 有馬線の終着駅「有馬駅」前には「乙倉橋」架けられていた。今も残る橋の左右の欄干には旧有馬駅や有馬線の開通記念式典をモチーフにした以下のプレートが嵌め込まれている。
 『明治に入り、全国に次々と鉄道ができました。有馬の人々も鉄道を待ち望んでいましたが、なかなか実現に至りませんでした。
 三田からの有馬鉄道が完成したのは大正4年4月16日のことです。当初は民間鉄道として計画されましたが、完成と同時に鉄道院が借り受け、4年後買収され、国鉄有馬線として運行されました。
 路線延長は12.2Kmで、途中「塩田」「新道場」「有馬口」の各駅がありました。上り下り各7本、約2時間に1本というのんびりしたものでした。戦時中の昭和18年に廃線となり、資材は篠山線建設のため転用されました。今も十八丁川に残る橋脚など、所々に面影を見ることができます。』
 『「有馬駅」は有馬の人々の大きな期待を担ったもので、時計塔や広い駅前広場を持つ豪華なものでした。
 また、開通に先立ち、有馬川に長さ八間八分、幅二間の木橋「乙倉橋」が架けられました。乙倉橋はその後、昭和3年に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられました。この橋は昭和13年の大水害にも堪えましたが、平成7年の阪神・淡路大震災により大きな被害を受け、このたびの大改修となりました。
 駅ができた頃は、田圃の中にわずかの農家があるだけでしたが、鉄道開通により、旅館の待合所や出店もでき、また、住宅も建ち始め発展を遂げました。小区「桃源洞町」が北の町から分離独立したのは、鉄道開通3年後、大正7年のことです。桃源洞町の名は、以前の地名峠堂にちなんだものです。』
 下記の左端画像は、ネット検索で得た「有馬温泉・中の坊瑞苑」のサイト掲載の有馬駅の開通当時のものと思われる写真である。右3枚の画像は乙倉橋欄干に今も飾られているプレート画像である。