切絵図を見ると広大な大名屋敷が立ち並んでいた「大名小路」はビジネス街へ変わり、 霞ヶ関の大名屋敷は新政府に使用され官庁街を形成しました。文化政策の西洋化は、最 初の洋風日比谷公園を造り、帝国ホテルも出来ました。 何れも広大な大名屋敷の存在が無ければ、東京の近代化は不可能だったはずです。今 回の散策コースでは、江戸から明治の移り変わりを見てみたいと思います。 ◇開催日 第一開催日:2005年9月 4日(日) 第二開催日:2005年9月17日(土) 第三開催日:2005年9月18日(日) ◇集合場所:東京国際フォーラム 太田道灌公銅像前の広場 ◇出発時間:12時30分 ◇解散場所:地下鉄九段下駅 ◇解散時間:16時30分 ◇参加人数:第一開催日 43名+staff 第二開催日 45名+staff 第三開催日 43名+staff ◇参加費1名:1,500円(資料代、保険) ◇希望者懇親会:さくら水産 九段靖国通り店 ◇散策コース(概要) 東京国際フォーラム【出発地】 →大名小路 →帝国劇場前 →第一生命前 →日比谷見附跡 →日比谷公園【首かけの銀杏、ハナミズキの原木二世、チューリップ、アメリカディゴノキ、バラ園、マロニエ他】 →帝国ホテル前 →霞ヶ関坂 →法務省赤レンガ棟 →桜田門→柳の井跡(枝垂柳) →国会議事堂前公園(ナンジャモンジャ 、紫陽花) →桜の井跡→憲政記念館(ハナミズキ 休憩 トイレ) →三宅坂→平河天神(梅) →太田姫稲荷神社 →半蔵門 →千鳥ガ淵【サクラ】 →イギリス大使館前【サクラ並木】 →千鳥ガ淵戦没者墓苑(サンゴシトウ) →靖国神社(ソメイヨシノ、ショウブ) →田安門 →地下鉄九段下駅解散【ハナミズキ】 大正時代のはじめに東京市長がアメリカへサクラの苗木を贈った際に、その桜の返礼としてハナミズキ(白)の苗木 40本が東京市におくられました。その後ピンクの苗木も贈られてきた「日米親善の木」として有名だそうです。 日比谷公園には原木の二世がある。 千鳥ヶ淵(2007年サクラ)
チューリップ--------マロニエ(セイヨウトチノキ)-------バラ(シャルル・ドゴール)
法務省赤レンガ棟−−−−−−−−−−−−桜田門より日比谷堀−−−−−−−−−−−−日比谷見附跡
アキアカネ−−−−−−−−−−−−−−牛(平河天神)−−−−−−−−−−−−ランタナ(色が変化します)
- 法務省赤レンガ棟(明治時代)
- 明治の面影を残す当時の司法省、現在の法務省赤レンガ棟前を進む。
- 桜田門より日比谷堀(江戸時代)
- 桜田門外の変の現場。城壁は進入しようとする敵の側面を射撃しやすくするため、土塁を折り曲げるてある。
- 第一生命と日比谷堀(江戸、明治、昭和)
- 日比谷見付跡に立つと、帝国劇場と第一生命(元GHQ)の風景が入ります。日比谷入り江の跡、江戸初期のヤン・ヨーステン屋敷跡、桜田門外の変、明治時代、敗戦から占領と時代が移るのが分かります。
- 散歩の途中の動植物
- 視点を変えると普段見えなかったものが見えてきます。
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第27回交流会:日本橋から人形町あたり
−−江戸の町と下町の香−−人が町を作り、何代も住み続ける人には地域には誇りが生まれてきます。 私が町の生い立ちを知りたいときは、地元の人に話を聞きます。今回も人形町の喫茶 店で30分ぐらい話をさせて貰いました。昭和4年の創業時の白黒写真とステンドグラ スを見ながら、人形町は戦災を逃れて古い建物の多いことをお聞きしてました。 街を歩くと人形町は路地が多く、小さな稲荷から庄司甚右衛門の屋敷跡を発見し、こ こから初代市川団十郎、親爺橋、元吉原に結びが出来、江戸開府の時を思いました。 いつも参加戴き、心臓が"どきどき"しています。私は専門家ではありませんが、歴史 の現場に行き、石一つ、木一本でも痕跡を見つけることが好きです。そこから、文献で の表面的な歴史の流れではなく、そこに暮らした人々の息づかいを、自分の感性で読み 取りたいからです。 今回も、一生懸命にご案内をしたいと思います。宜しくお願いいたします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ◇開催日(開催内容は同一です) 第一開催日:2005年10月23日(日) 第二開催日:2005年10月29日(土) 第三開催日:2005年10月30日(日) ◇◇集合場所:日本橋 元標の広場(三越寄り) ◇出発時間:12時30分 ◇解散場所:地下鉄水天宮 ◇解散時間:16時30分 ◇人数:第一開催日 40名+staff 第二開催日 40名+staff 第三開催日 40名+staff ◇参加費1名:1,500円(資料代、保険) ◇散策コース(概要) 日本橋元標の広場【出発地】 →花の広場→西河岸地蔵寺→竹久夢二の碑→呉服橋御門跡(トイレ)→一石橋 →常磐橋御門跡【ランタナ】→日銀本館前(ヒマラヤシーダ)→貨幣博物館(休憩 トイレ)→三井越後屋呉服店 →福徳稲荷→十軒店跡→石町時の鐘撞堂跡→寶田恵比寿神社→椙森神社→掘留跡(小花公園 トイレ) →出世稲荷→さるや前→親慈橋跡→小網神社(枇杷の木)→芸者新道→大観音寺→大門通り→末廣神社→甘酒横丁 →玄冶店跡→水天宮前解散 ============================================== ◇日本橋・道路元標 日本橋が架けられたのは慶長8年(1603)江戸開幕の年である。翌年、五街道の起点と定 められた。今日でも主要な国道は、ここを起点として測定され、路面中央には日本国道路元標が 埋め込まれている。 ◇常磐橋(常盤橋 新常盤橋 ※ 皿と石) 数寄屋橋、鍛冶橋、呉服橋と続く外堀の枡形門跡です。いずれも寛永6年(1629)の普請で築かれ ました。古くは浅草口、追手口といって江戸五口の一つであった。 ◇一石橋(いちこくはし) 御金改役= 後藤家 幕府御用呉服所=後藤家 ◇親慈橋(おやじばし)跡 吉原を開いた後北条氏浪人庄司甚右衛門によってかけられた橋という。 ◇大観音寺 総高170cmの鉄造菩薩頭を本尊 ◇甘酒横丁あたり 人形町らしく古風な町並みがあります。 ◇金座跡 幕府直轄の金貨鋳造・鑑定・発行所
日本橋ライトアップ−−−−−−−−−−−−柳屋鯛焼き(甘酒横丁)−−−−−−−−−−−−玉ひで親子丼
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日本橋−−−−−−−−−−−−−−−−−−椙森神社−−−−−−−−−−−−−−−−−−常磐御門跡
芸者新道(人形町)−−−−−−−−−−−−越後屋呉服店(消滅)−−−−−−−−−−−−玄冶店濱田家![]()
第28回江戸歴史散歩交流会
神田川あたり、商家と職人の町
◆開催日(開催内容は同一です) 第一開催日:2005年11月27日(日) 第二開催日:2005年12月 3日(土) 第三開催日:2005年12月 4日(日)
◆◆集合場所:JRお茶の水駅◆◆ ◆出発時間:12時30分 ◆解散場所:JR浅草橋駅前 ◆解散時間:16時30分 ◆参加人数:第一開催日 43名+staff 第二開催日 43名+staff 第三開催日 37名+staff ◆参加費1名:1,500円(資料代、保険) ◆希望者懇親会:さくら水産 ◆親、子機のトランシーバを使い、解説をいたします。 ◆参加費1名:1,500円(資料代、保険) ◆散策コース お茶の水駅【出発地】 →太田姫稲荷神社元宮跡(椋) →ニコライ堂前B →幽霊坂 →甲賀坂 →太田姫稲荷神社C →小栗上野介邸跡 →大久保彦左衛門邸跡 →御茶の水の碑C(ツツジ) →皀莢坂C(サイカチ、センダン、スイカズラ) →マロニエ通りC(セイヨウトチノキ、ベニバナトチノキ並木) →神田川C【風致地区、ツツジ】 →聖橋C →昌平坂 →湯島聖堂B(楷の木) →神田明神A(トイレ 休憩 再集合) →昌平橋 →八ツ広路 →神田藪そば前 →万世橋C →柳原土手(枝垂柳) →柳森神社C →和泉橋 →美倉橋 →左衛門橋(イチゴノキ) →郡代屋敷跡 →両国広小路跡 →薬研堀跡 →大木唐からし店 →柳橋(枝垂柳) →石塚稲荷神社C →JR浅草橋駅解散 『江戸名所花暦』柳原土手の枝垂柳◎皀莢坂の皀莢(サイカチ) 幹から鋭いトゲが出ている、危険であまり見ることが出来ない木です。皀莢坂の皀莢も、定期的に下の方はトゲを取っているようです。 【楷の木】 孔子の墓所にある、中国原産の珍木。江戸時代まで「楷の木」は日本には存在していませんでした。 大正4年(1915年)、白沢保美博士が中国を訪れ、孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、育苗した。 書体の「楷書」の語源されます。 ![]()
ニコライ堂−−−−−−−−−−−−−−−−−−柳森神社−−−−−−−−−−−−−−−−−−柳原通りニコライ堂
ベニバナトチノキ--------スイカズラ
皀莢(幹のトゲ)-------楷の木----------イチゴノキ
◇御茶ノ水 御茶の水の由来は、将軍が鷹狩りの帰りに高林寺の庭の名水でお茶を飲んでから、将軍御用達 の御茶の水になったためです。江戸時代、「御」の字は、将軍や幕府に関連する総ての事柄に付 けられた。 また、駿河台は徳川家康の死後、江戸に帰った駿河詰の旗本を住まわせた事による。また、駿 河台は江戸城防衛上の理由で橋は架かっていなかった。 ◇小栗上野介(又一) 文政10年(1827)江戸駿河台(現在のYWCA付近)に生まれた。小栗家は,旗本(250 0石取)で、「又一」は小栗家の襲名であり,先祖の小栗忠政が,度々「一番槍」をしたことから、 又一番槍(またいちばんやり)と褒められ,家康より「又一」という名を賜ったという。 慶応4年(1868)正月,陸軍奉行であった小栗は徳川慶喜に対し官軍との徹底抗戦を主張した ために罷免された。 ◇神田川 駿河台を流れる神田川は、元和年間よりの工事で江戸市街を氾濫から守るために開削されたもの です。神田川は伊達堀と言い万治3年(1660)に伊達綱宗が拡張工事を行い牛込まで船が入れ るようになった。この普請により仙台藩の財政は逼迫し、伊達騒動の原因となった。今は風致地区 になっています。 ◇秋葉原 明治2年(1869)が神田相生町からの出火で一帯が広漠の空き地となり、明治3年、火災の 頻発を憂慮された英照皇太后(明治天皇御母)の思召しにより明治天皇より太政官に御下命になり、 皇居紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火除神社として、現今の秋葉神社を創建せられた。明治2 1年秋葉原駅設置のため、境内地を払い下げ、台東区松ヶ谷に遷宮となり、跡地に秋葉原駅が出来 きた。JR秋葉原駅の名は秋葉神社に由来する。 ◇柳原土手 柳原土手は面影はないが、太田道灌が勧請した柳森稲荷神社が江戸の面影を残しています。 福寿社は五代将軍綱吉の桂昌院の崇敬が厚く、神寿狸の信仰がある。 ◇薬研堀跡 七味の薬研堀は浅草で有名ですが、薬研堀は両国橋の下流にあった堀です。七味の薬研堀はここ で創業したのです。今は、薬研堀不動に名を残しています。 ◇柳橋 神田川が隅田川に合流する所、元禄11年(1698)に架設された。江戸時代、ここは吉原通 いの船宿で賑わい、猪牙舟で隅田川、日本堤を通った。享保より明治時代は花柳界が出来て柳橋芸 者が有名になった。今は何件かの料亭と、屋形船の船宿か並んでいます。![]()
2006年新年会(宿泊)
+浦賀、油壺、三崎散策