![]()
第11回江戸歴史散歩交流会:青山・赤坂・六本木 −−お洒落な街と江戸の町−−
◇第一開催日:2003年8月 3日(日) 40名 ◇第二開催日:2003年8月10日(日) 30名 ◇散策コース 六本木交差点【出発地】 →三河台公園(ソメイヨシノ)→防衛庁跡地前→檜町公園→檜坂→乃木坂 →乃木神社【楷の木、枝垂桜】→カナダ大使館前→高橋是清記念公園(クマザザ、山茶花)→薬研坂 →末広稲荷→圓通寺(時鐘)→三分坂→TBS前→報土寺→勝海舟邸跡(大銀杏)→元氷川坂 →氷川神社(樹齢400年銀杏)→アメリカ大使館宿舎→南部坂→久国神社→アークヒルズ前 →スペイン大使館前→スウェーデン大使館前→アメリカ大使館前→霊南坂→Hオークラ→江戸見坂→虎ノ門金刀比羅神社 →地下鉄虎ノ門駅解散 ◇解散時間:17時 ◇希望者懇親会:月の宴虎ノ門駅前店
![]()
- 六本木の由来【門前町から発展】
- その昔、緑深い武蔵野の東南に年月を経た六本の松が聳えていました、その松はどこからでも見ることができ、いつしか人々は、この土地を六本木と呼ぶようになりました。寛永年間、徳川2代将軍秀忠夫人の荼毘地煙下を下賜され、仏寺五院が創立し、その門前に商家が集い、大名屋敷立ち並ぶようになりました。何度となく、道路が拡張され、六本木、三河台地区は高級住宅街として発展しました。《六本木交差点記念碑》
- 市三坂(いちみざか)
- 明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあつた三河台町との間で両頭文字をとった。
六本木3丁目〜4丁目の間- 松平三河守忠直
- 参議松平三河守忠直は、家康の次男越前宰相秀康の子であり家康の孫にあたる。2代将軍秀忠の三女勝姫の婿である。12歳から29歳まで越前67万石を領していた。
大阪夏の陣では、真田勢と正面から死闘を繰り返し、大坂夏の陣では真田幸村以下3千余りの首を斬り、大阪城に1番乗りした。しかし、家康からも秀忠からも恩賞の沙汰がないのを不服とし、次第に酒色におぼれ所業も荒々しくなって忠直御乱行の噂がたった。側室の一国御前とともに、血に塗られた殺人者として有名になり、勝姫は江戸に帰った。
元和9年(1623)、忠直29歳は越前北の庄より豊後萩原に配流され、剃髪し一泊と称した。忠直が配流生活を送った、豊後国萩原(大分市萩原)いまなお「一伯公」「一伯さん」と、号で呼ばれて親しまれ、菓子や民謡の題材ともなっています。大分では信仰生活をおくり、領民と交わるなど、「乱行」とは程遠い姿があった。- 六本木ヒルズ【忠臣蔵 乃木将軍】
- 江戸時代、六本木ヒルズがある場所は毛利家支藩長州府中藩の屋敷でした。元禄赤穂事件の時に、岡島八十右衛門以下10名赤穂浪士が切腹した場所です。また、乃木希典が嘉永2年(1849)藩邸で生まれ、現在の毛利庭園と呼ばれている池のほとりの井戸で産湯につかりました。
- 檜町公園【長州藩毛利氏下屋敷】
- 長州藩毛利氏の麻布龍土拝領下屋敷で敷地は3万坪余りで、今の赤坂9丁目1・2及び7番先の地域であった。高台(防衛庁庁舎)に御殿を構え、その庭は「清水園」と呼ばれ、庭園越しに江戸の街並みが一望できた名園の一つでした。また、邸内には檜が多かったことから「檜屋敷」と称され、檜町という地名の由来になった。元治元年(1864)の長州藩追討の時に幕府により破壊され、今は池に面影を偲ぶのみです。
- 乃木神社
- 旧乃木邸跡。乃木将軍御夫妻が自刃されてから、乃木邸内小社に、御夫妻の英霊を奉安し、大正12年鎮座祭を斎行した。戦災により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱意により、昭和37年復興した。
- 高橋是清記念公園【政治家】
- 高橋是清翁の本邸跡。近代日本の政治家。高橋是清は松方正義とともに戦前の「2大財政家」と呼ばれ、「ダルマ」の愛称で親しまれたが、昭和11岡田内閣の蔵相在職時、2・26事件において、陸軍青年将校により私邸で暗殺される。
- 円通寺
- 日蓮聖人御みずから魂を入れた木像三体を安置している江戸三祖師のひとつ、圓通寺は江戸時代から「願い事がかなう寺」として信仰を集め、また「時の鐘」を託された7ヵ寺の一つです。
- TBSの敷地【2・26事件 近衛歩兵第三連隊】
- 広島藩42万6千石松平安芸守の中屋敷跡、明治になり跡地は陸軍裁判所と監獄でした。その後、近衛歩兵第三連隊兵舎になり、昭和11年2月26日の未明、前夜からの雪の中で陸軍の一部決起将校が近衛師団の近衛歩兵第三連隊(TBS)、第一師団の歩兵第一連隊(旧防衛庁)、歩兵第三連隊(東大生産技術研究所)の1,483名の将兵を使いク−デタ−を起こします。総理官邸、赤坂の高橋是清蔵相私邸、四谷の斎藤実内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、静岡県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠します。その後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれます。事件後軍法会議が特設され、首謀者17名は死刑、69名が有罪となっています。
近衛歩兵第三連隊兵舎跡は現在TBSになっており、近衛歩兵第三連隊記念碑がありまが、昔の面影はありません。- 報土寺
- 報土寺は、慶長19年(1614)赤坂一ツ木に創建、安永9年(1780)三分坂下の現在地に移転してきました。江戸時代後期の力士雷電為右衛門の墓があり、坂に面した築地塀は200年前に作られたものです。
- 種徳寺(小田原北条の菩提寺)
- 早雲寺は秀吉により焼かれ灰燼に帰しましたが、末寺院は早い時期に、再興されました。文禄2年(1593)早雲寺第11世希叟は家康の帰依を受け、江戸神田に10,000坪の土地を拝領し広徳寺を再興し、その後神田に移転し、「びっくり下谷の広徳寺」と言われる大寺院になりました。文禄3、早雲寺9世準叟は小笠原播磨守室種徳殿の後援により、北条氏康の弟為昌の菩提寺本光寺を江戸麹町に移転して、寺名を種徳寺に改めました。
- 氷川神社【忠臣蔵 吉宗公】
- 天暦5年(951)、赤坂一ツ木に創建、紀州藩の産土神の所以により、享保15年(1730)、吉宗公が老中水野和泉守に命じて、現社殿を造営する。
赤坂2丁目の南部坂から、信濃松代藩下屋敷跡のアメリカ大使館官舎沿いにしばらく行くと、都心とは思えない、静寂な鎮守の森があります。ここも、江戸の風景が残るところです。- 勝海舟邸跡【赤坂6−10−39】
- 勝海舟が36歳の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ場所です。ここに住み始めた翌年、咸臨丸船長としてアメリカに渡航し、日本の船として初めて太平洋横断を成功させました。また、文久2年(1862)、坂本龍馬らが海舟を刺殺しようとして訪れたのもこの場所です。
- 南部坂【忠臣蔵】
- 浅野内匠頭切腹の後に夫人瑶泉院は、生家である備後三次藩浅野土佐守下屋敷(現在の赤坂氷川神社)引き取られました。討ち入りの前日に、大石内蔵助は瑶泉院に暇乞いにおもむきましたが、吉良方に計画の漏れることを恐れ、討ち入りのことを告げずに去ります。瑶泉院が見送った南部坂が講談や歌舞伎で有名な坂で、”嘆く瑶泉院、苦しむ内蔵助”で、「南部坂 雪の別れ」の場面です。
- 江戸見坂
- 江戸の中心街の大半を展望することが出来たために名づけられた坂である。
- 霊南坂
- 慶長年間に高輪の東禅寺が嶺南庵として此処にあった。嶺南和尚は家康の軍学師範でもあった、寛永13年(1636)に幕府の用地になり高輪に移り、東禅寺と改称した。いつしか嶺が霊とり霊南坂と名づけられてという。霊南坂教会で山口百恵が挙式を挙げたことでも有名になりました。
- 虎ノ門金刀比羅神社【丸亀藩屋敷神】
- 創祀は万治3年(1660)丸亀藩主京極高和が讃岐金刀比羅大神を邸内に勧請した。以来、毎月10日市民に邸内を開き、参拝を許しています。御神徳は海上安全、商売繁盛。また御祭神は運を開く神様とも言われ元日から初こんぴらの1月10日までに限り開運の御守を授与している。
- 大使館
- 赤坂、六本木、青山には大使館が多く、大規模な敷地の多くは武家地に由来して今す。アメリカ大使館官舎は松代藩真田家跡から三井本家屋敷になり財閥解体により接収されたものです。アメリカ大使館は牛久藩跡、カナダ大使館、スペイン大使館、スウェーデン大使館は高級旗本屋敷跡です。
- 今井古城跡【港区赤坂5】
- 今井古城は、今井四郎兼平(1152〜84)の城跡、江戸時代は広島藩浅野の中屋敷に使われ、明治になって近衛第三連隊が置かれた場所としてある。現在のTBSの場所です。
- 西久保古城跡【港区虎ノ門4】
- ホテルオークラ・スエーデン大使館付近にあったらしい、熊谷直実の城跡があったという。「城山ヒルズ」など城山を付けているものが多くあります。
- 三河台
- 天和(1681〜84)頃、松平三河守の屋敷があった。
![]()
第12回江戸歴史散歩交流会:佃島、明石町、築地居留地跡 −−江戸の名残と外人居留地−−
◇第一開催日:2003年10月05日(日) 45名 ◇第二開催日:2003年10月19日(日) 23名 ◇集合時間:13時00分 ◇集合場所:地下鉄月島駅地上(佃交番前) ◇散策コース 月島駅地上(佃交番前)【出発地】 →浪除於咲稲荷→天台地蔵尊(大銀杏)→佃島舟溜→住吉神社(藤棚、枝垂桜)→[佃煮]【天安】 →石川島燈台跡→佃島渡船跡→佃大橋渡る→築地カトリック教会→慶応大学発祥地→浅野家上屋敷跡 →米国公使館跡→聖路加ガーデン展望室→築地資料館→勝どき橋→波除稲荷神社→浴恩園跡(中央卸売市場) →築地本願寺解散 ◇希望者懇親会:さかな道楽築地会館店藤棚(住吉神社)
![]()
第13回江戸歴史散歩交流会:内藤新宿と江戸郊外の社寺→花めぐり10
−−内藤新宿の成立と四谷寺町−−
◇第一開催日:2003年12月07日(日) 36名 ◇臨時開催日:2003年12月13日(土) 27名 ◇第二開催日:2003年12月14日(日) 15名 ◇集合時間:12時30分 ◇集合場所:JR千駄ヶ谷駅 改札前 ◇解散場所:天竜寺境内 ◇解散時間:16時30分 希望者懇親会:月の宴靖国通り店 ◇散策コース 千駄ヶ谷駅【出発地】 →新宿御苑【一葉、関山、普賢像など八重桜、プラタナス並木】→大木戸門(高遠コヒガンザクラ) →四谷大木戸跡→多武峯内藤神社(樫の木)→お岩稲荷→荒木町(高須藩上屋敷跡、元花街) →全勝寺→西迎寺(阿弥陀如来坐像)→たんきり地蔵→笹寺→田安・鎮護稲荷神社→内藤新宿 →太宗寺(内藤家墓所、江戸六地蔵)→新宿二丁目→正受寺(奪衣婆)→成覚寺(ソメイヨシノ、遊女供養塔) →末広亭→花園神社(枝垂桜、大山桜)→新宿ゴールデン街→追分→[追分だんご] →天竜寺解散
梅林(新宿御苑)----------------寒桜(新宿御苑)
合埋碑(成覚寺)
- 大名屋敷跡
◇新宿御苑は信州高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所、日本式庭園の玉藻池付近が下屋敷時代のものを継承しています。
◇荒木町は美濃高須藩の上屋敷跡で、明治には荒木町三業組合を中心に花柳界となった。津の守坂は松平摂津守が由来です。- 内藤家
◇徳川幕府が成立した頃、功臣の内藤清成は常陸・下総・上総・相模の4国内に領地を与えられ、秀忠公の守役を命ぜられていたこともあった。内藤氏は藤原氏秀郷の流を称し、義清の時に松平信忠・清康に仕えた。清成は竹田宗仲の子で、内藤忠政の養子となり、家康関東入部の後、本多正信・青山忠成とともに関東総奉行を勤め、1590年,徳川家康の鷹狩に同行した内藤清成は,現在の新宿御苑の地213,000坪(約70万u)を家康より拝領した。後に減少するものの,代々内藤家の下屋敷として使用された。1601年、2万1000石を与えられて大名となった。1691年,幕府から摂津富田の城主,内藤清枚(内藤家初代高遠藩主)に信州高遠城主として移封することが命ぜられた。
- 江戸の町割り
◇平坦地が続き江戸城防御のために旗本屋敷や組屋敷が配置され左門町、須賀町の細長い路地は江戸時代の町割りを伝えています。
- 江戸四宿の新宿
◇江戸時代の新宿は今の新宿御苑前にあたり、甲州街道の第一番目の宿場が高井戸宿で遠いために、元禄11年(1698)旅人の難儀を解消するため、信州高遠藩内藤大和守の屋敷地に新しい宿場を造りました。正徳2年(1712)には地蔵坊正元が10年がかりで江戸中からの浄財よって、旅人と江戸市民の安全を祈願して各街道口に建立した。新宿では銅造地蔵菩薩座像、六地蔵が太宗寺境内に座しています。
- 四谷大木戸と玉川上水
◇四谷大木戸は甲州街道からの江戸の入り口だった。玉川上水は多摩川の羽村から取水され開渠のままここまできて、ここから先は木製又は石造りの樋により、各地に配水された。水番所がおかれていた。
- 正春寺
◇徳川幕府が成立した頃、功臣に土井利勝がいました。その弟である土井昌勝の妻は、2代将軍徳川秀忠の乳母となり、「初台の局」と呼ばれ、初台の局の娘が家光の乳母となり、正春院と名乗ったのが、寺の名につながる。
- 十二社熊野神社
◇室町時代の応永年間に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州熊野三山より十二所権現をうつし祀ったものと伝えられ熊野十二所権現と呼ばれていました。墓は成願寺にある。
- 徳川家光
◇淀橋は青梅街道の神田川に架かる橋ですが、家光公が鷹狩りの途中、京都の淀川に似ていたために命名したものです。
- 象と徳川吉宗
◇宝仙寺には戦前まで象の頭骨や牙などが保存されていました。これは享保13年(1728)に渡来した象のもので、当時は生きた象を見た者はなく非常に珍しがられました。京都で従四位下の位をいただいて中御門天皇の拝謁も受け、後に江戸の将軍吉宗のもとで飼育されていました。
- 中野宿
◇中野は武蔵野の中央から名付けられた。神田川が郡境であり、中野村は多摩郡でした。また、中野宿は青梅街道の中継点として栄え、江戸に石灰や普請の物資を運搬するために整備され、淀橋辺りの下宿から、宝仙寺辺りの中宿、慈眼寺辺りが上宿を形成していました。
![]()
第14回江戸歴史散歩交流会:日暮の里から谷中寺町→花めぐり6
−−谷中寺町と日暮の里−− ◇主旨 日暮里は日暮(ひぐらし)の里と月見寺、雪見寺など、文人が集う風光明媚なとこ ろでした。谷中は東京で指折りの寺町であり、お正月の谷中七福神参りなどが有名で す。谷中霊園には徳川慶喜家、阿部家、伊達家などの大名家を始め著名人の墓があり ます。江戸の風景を思いながら、三時間半程度で散策したいと思います
谷中七福神色紙----------------------------富士見坂より富士山(2008/1/2)源為朝公(諏方神社)-------------------------ソメイヨシノ(天王寺前)
カピタン藤(経王寺)
◇第一開催日:2004年1月25日(日) 44名 ◇第二開催日:2004年2月 1日(日) 44名 ◇集合時間:12時30分 ◇集合場所:JR田端駅北口出る ふれあい橋駅 ◇解散場所:日暮里駅 ◇解散時間:16時30分予定 ◇希望者懇親会:日暮里駅前居酒屋 ◇コース要約 田端駅【出発地】 →田端文士村記念館→東覚寺→与楽寺→道灌山(ソメイヨシノ)→向陵稲荷→青雲寺(花見寺) →修性寺→富士見坂→諏方神社(トイレ)→経王寺→本行寺→御殿坂→夕焼けだんだん →谷中銀座→岡倉天心記念公園(トイレ)→大円寺→全生庵→西光寺→瑞輪寺 →観音寺築地塀→長安寺→五重塔跡(トイレ)→伊達家墓塋→徳川慶喜家墓塋 →福山藩阿部家墓塋→田安、一橋徳川家墓塋→徳川将軍家正室墓塋→天王寺 →JR日暮里駅解散
- 田端文士村記念館
- 大正から昭和の初めにかけて、田端は「文士村」となりました。田端で活躍した文士や芸術家の功績を次代に継承することを目的として設立されました。
- 東覚寺
- 赤紙を石仏仁王像の自分の患部と同じところに張り、病気身代わりと心身安息。
- 与楽寺
- 六阿弥陀参詣の第4番札所です。 賊除地蔵:盗賊が与楽寺に押し入ろうとした時、どこからともなく多数の僧侶が出てきて盗賊の侵入を防ぎ、遂に、これを追い返してしまいました。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に、泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。
- 道灌山
- 「虫聴き」の名所としても、涼を求めて人々が集まったところでもある。歌川広重の『名所江戸百景』で錦絵を描いています。
- 青雲禅寺
- 「花見寺」と呼ばれた寺。
- 諏方神社
- 元久2年(1205)の創立で、豊島左衛門尉経泰が勧請。文安年間に太田道灌神領を寄進し、徳川時代神領を賜わり、寛永12年(1635)社殿を現在の地に遷座し、日暮里・谷中の総鎮守。
- 本行寺
- 月見寺 太田道灌の孫の太田大和守資高の開基である。道灌は相模三浦で討死しており、その13回忌に菩提を弔うため初め平河口に創建され、神田、谷中を経て宝永6年(1709年)現在の地に移っている。敷内には史跡が多くあり、太田道灌が斥候台を築いた道灌物見塚跡(道灌丘碑)や小林一茶の句碑がある。
- 天王寺
- 谷中で最も古い寺 鎌倉時代(1274年)に開山された感応寺が、元禄12年(1699年)に天台宗に改宗され、 江戸時代は富くじで有名で、湯島天神、目黒不動尊と「江戸三富」と言われ、毎月18日の富突きの日には、おおいに賑わった。
- 瑞輪寺
- 境内には神田上水の創始者大久保忠行の墓がある。家康が江戸に入府した頃は、菓子屋を営んでいた。その後、井の頭の池から江戸市中に水を引く計画をたて、神田上水を完成させ、その功で家康から主水の名を与えられた。「水は濁りを嫌う故,『もんど』ではなく『もんと』と澄んで発音する」以来,大久保家は代々幕府御用達菓子司を勤めた。
煉り羊羹の起源は、江戸後期の寛政(1789〜1801年)初年に、幕府御用の菓子司、大久保主水(もんど)の職人だった喜太郎によって江戸・日本橋ではじめて売り出されたといわれています。これは煉りあげた羊羹を木箱に流した「流し箱羊羹」でした。
山内家、黒田家、大岡家、敦賀酒井家等の正室、息女の墓が在る。ウコンサクラ(谷中サクラ通り)
![]()
第15回江戸歴史散歩交流会:護国寺から小石川植物園あたり→花めぐり4
−−小石川植物園と桂昌院の権勢−−
直線の音羽道りから見る護国寺は綱吉公の生母桂昌院の発願によるもので、 今でも幕府権勢をしのぶ事が出来ます。墓域には大名茶人・松平不昧公、早稲 田大学創立者・大隈重信、明治の元勲・山縣有朋、三条実美等の墓があります 松平播磨守が由来の播磨坂は今では桜の名所で、この期間桜祭りが行われて います。綱吉公の館林時代の御殿は、小石川養生所となり明治まで続き、今は 東京大学の植物園です。四時間程度で歴史の舞台を歩きたいと思います。 ◇臨時開催日:2004年3月27日(土) ◇第一開催日:2004年3月28日(日) ◇第二開催日:2004年4月 4日(日) ◇出発時間:12時30分 ◇集合場所:地下鉄有楽町線 護国寺駅地上 山門交番前 ◇解散場所:地下鉄三田線 白山駅前 ◇解散時間:16時30分 ◇参加人数:臨時開催日 22名 第一開催日 37名 第二開催日 24名 ◇参加費:1,500円(資料代、保険、植物園入園料) ◇散策コース 護国寺交番前【出発地】 →護国寺【ツツジ3000本 桂昌院発願寺】→吹上稲荷神社→大塚先儒墓所(室鳩巣など) →教育の森公園・占春園(陸奥守山藩跡)→石川啄木終焉の地→播磨坂【ソメイヨシノの名所】→吹上坂 →極楽水→宗慶寺(家康側室:茶阿の局)→小石川植物園【ソメイヨシノ、ハンカチノキ、精子発見の銀杏】 →白山神社(3,000株の紫陽花) →地下鉄白山駅解散旧東京医学校本館(小石川植物園)---------------------------太白サクラ(小石川植物園)
護国寺不老門とツツジ--------------------------ハンカチの木(小石川植物園)
- 護国寺開山
- 真言宗豊山派の大本山。5代将軍徳川綱吉公が、生母桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷郡八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢(りょうけん)僧正を招き開山、幕府高田薬園の地に、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊(家光公の守りご本尊)とし、天和2年堂宇(1682)が完成しました。
- 護国寺と護持院
- 享保2年(1717)正月、神田橋護持院は火災を受け、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も堂宇は一宇残らず焼失しました。その後、幕命により護持院を護国寺に合併し、『観音堂の方を神齢山悉地院護国寺』に、『本坊の方を元禄山護持院』とし、護持院の住職が護国寺を兼ねることとなりました。以後、両寺領併せて二千七百石、幕府の祈願所を勤めましたが、明治となり、護持院は廃寺となりました。護国寺開山の亮賢僧正の法脈を保持し続けています。その後も、火災で堂宇の多くを失い、かつての観音堂を移築して本堂としています。
- 仁王門
- 八脚門、切妻造りで丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺として伽藍の中で、重要な表門である。建立は、元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられ、正面に金剛力士像、、背面に二天像(右側増長天・左側広目天)の仏像が安置されている。
- 不老門
- 昭和13年建立、京都の鞍馬寺の門を基本に設計され、仁王門と本堂の中間に建立された。額面「不老」の二字は徳川家達公の筆による。
- 観音堂
- 元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、同年8月落慶供養の式典が営まれました。これが現在の観音堂(本堂、昭和25年国指定重文)であり、元禄時代の建築工芸の粋を結集し、欅の柱は紀伊国屋文左衛門による。
- 月光殿
- 大津市の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に現在の場所に移築。桃山時代の建造で書院様式を伝える建物で国指定重要文化財です。
- 惣門
- 本坊に通ずる所にあり、形式は社寺系のものでなく、大名屋敷の表門の形式で柱や冠木なども太く全体にどっしりした構えである。
- 播磨坂
- 松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」と言われ水田で小石川が流れていた。
- 守山藩
- 水戸連枝藩は頼房の長男頼重が讃岐高松、三男の光圀は宗家を相続し、四男頼元が陸奥守山(郡山)、五男頼隆が常陸府中(茨城県石岡市)、七男頼雄が常陸宍戸藩(茨城県西茨城郡)の4家が水戸松平連枝藩である。水戸徳川初代頼房の四男松平頼元は宗家水戸徳川家から常陸額田に2万石を分知されていた。次の頼貞の時、新たに幕府より陸奥・常陸に2万石を与えられ、常陸額田を水戸宗家に返上し、陸奥守山(現郡山市)に陣屋を構えて、水戸連枝藩としての陸奥守山藩が成立する。大学頭を任じられることが多かった。
- 宗慶寺、極楽水
- 応永22年(1415)伝通院の了誉上人がこの地で庵を開いた。その後、徳川家康の生母お大の方が現在の伝通院に葬られ、了誉上人の開いた庵を移し「伝通院」とした。元和7年(1621)松平忠輝の母(茶阿の局)の墓所となり、法名にちなみ吉水山朝覚院宗慶寺と称するようになった。一帯を極楽水は言われたのは、本堂の前にある井によって言われました。
一葉サクラ(小石川植物園)
![]()
![]()