裏窓 ★★★
(Rear Window)

1954 US
監督:アルフレッド・ヒチコック
出演:ジェームズ・スチュワート、グレース・ケリー、セルマ・リッター、ウェンデル・コーリー

☆☆☆ 画像はクリックすると拡大します ☆☆☆


<一口プロット解説>
片足を骨折したカメラマンのジェフリーズは、裏窓から他のアパートの住人を観察しているうちに、向いのセールスマンの奥さんが急にいなくなったことに気が付く。
<入間洋のコメント>
 「裏窓」は、恐らく映画ファンで知らない人はいないであろうと言い切れる程有名な作品でありオールタイムベスト100などの品評会で名前が挙がる常連映画の1つですが、しかしながらこの映画ほど特異な作品にはそう滅多にお目にかかれるものではないという点が指摘されることはあまり多くはないように思われます。ではこの作品の何が特異なのでしょうか。そうです、基本的に覗きという一種の病的な行為が題材とされていることは別としても(何せ、ジェームズ・スチュワート演ずる主人公は双眼鏡でアパートの住人を覗こうとして、グレース・ケリー演ずる恋人に病気(disease)であるとピシャリと言われてしまう程です)、この作品は主人公が骨折して全く動けないという前提がある為に、ほぼ全てのシーンは主人公の住むアパートの一室に限定され、また向い側のアパートの各部屋や裏庭(中庭?)で発生する出来事は全て裏窓を通した視線により主人公により目撃されるというような構成が取られています。従って、カメラの向かう方向は、純粋な室内ショットか室内から室外へと限られています。但し、室外方向から窓越しに室内にいる主人公が捉えられるケースもありますが、これは戸外の場景が全く介在しないので室内ショットの一種と考えても良いでしょう。例外としては、殺人犯に襲われて主人公ジェフリーズが窓の外へ転落してしまうラストシーンと、ジェフリーズとセルマ・リッター演ずる看護婦が窓から覗いている様子を窓の外側上方のアングルから捉えたシーンが2ショット程あるのみです。従って、確かに双眼鏡ビューを除けば決定的にそれが主観ビューであると判別できるシーンはほとんどありませんが、たとえそれが主観ビューではなかったとしてもこの作品に提示されているシーンのほとんどは主人公に視点が据えられた特権的まなざしによって捉えられたものと見なすことができます。そのことは、たとえ主人公自身が客体としてカメラに収められているシーンであっても同様であり、たとえば主人公が窓から外を眺めている様子を肩越しに捉えたシーンがあったとしても、それは彼のまなざしによって捉えられたビューと正確にイコールではなかったとしても少なくともパラレルであると見なせ、従って実質的には主観ビューとニアイコールであると考えても差し支えないものと考えられます。

 これに関連してこの映画の序盤で浮かんでくる疑問の1つとして、屋外の光景が映し出された時、一体それは単なる場景描写なのか主人公の主観ビューが意図されているのかが分りにくいことが挙げられます。たとえば、タイトルクレジットを含めた冒頭のシーンを例に挙げてみましょう。クレジットがフォアグラウンドに表示されている間、バックグラウンドでは主人公ジェフリーズが住むアパートの一室の3分割された窓にかかったブラインドがゆっくりと巻き上げられていく様子が映し出されます。ここで一体誰がブラインドを巻き上げているのかは問わないようにしましょう(何故ならば、それはヒチコックさんが神の手で巻き上げているからです)。丁度全てのブラインドが巻き上げられた素敵なタイミングで、監督としてアルフレッド・ヒチコックの名前が最後にデカデカとクレジット表示されます。ここで、いかにも出たがりヒチコックらしい演出だなとニヤリと冷笑するオーディエンスもいるかもしれません。因みにこの作品でもしっかりと彼の肥満体をチラリと拝むことができますが、どこに出演しているか知らない人は目を皿のようにして探してみて下さい。体とともにエゴも肥大化したヒチコックの名前が画面から消えた後、カメラが前方にゆっくり移動しますが、この動きはあたかも誰かが窓から外を覗こうとしている主観ビューであるかのような印象をオーディエンスに与えます(画像左の状態からカメラが前方に移動します)。その後、猫が庭の階段を駆け上がるシーンから始まって、カメラをゆっくりとパンさせることによってアパートの裏庭の様子が捉えられます。ここまでのところは、カメラの動きから考えても単なる場景描写ではなく、たとえそれが主人公のものではなかったとしても誰か登場人物の視点から見た主観ビューではないかという印象を強烈に与えます。ところが、カメラの視点が戸外から室内へ戻ってくると、そこにジェームズ・スチュワート演ずる主人公のジェフリーズが一人で寝ている姿が映し出されます。ここに至ってそれまでのシーンは厳密な意味での主観ビューではなかったことが分ります(勿論最初にこの作品を見るオーディエンスにとっては、たとえば寝ている彼を殺そうとする殺し屋の目で見た主観ビューがそこには提示されているのではないかという可能性もまだ残されていますが、それは些細な点でありいずれにせよジェフリーズが一人で寝ていたことはすぐに明瞭になります)。しかしだからと云って、それまでのシーンが単なる場景描写であったと考えるのは早計であり、そうであったとしてもやはりそれまでのシーンにおけるカメラの動きには、寝ているはずのジェフリーズのまなざしが代理されているものと見なしても差し支えない程に、主観的な動きが擬態されていたことも間違いのないところです。ジェフリーズが寝ている様子が映し出された直後、カメラの視線は再び室外へ移動し、向いのアパートに住む暑さを持て余した住人達の様子が映し出されますが、その舐めるようなカメラの動きからみてこれも単なる場景描写であるというよりは主観的色合いが濃いように見受けられます。

 かくして、この映画においては、それが双眼鏡ビューのようにモロに主観ビューであることが分るビューではなくとも、多かれ少なかれカメラの視線と主人公の視線は最低でも共謀関係にあるものと捉えることができるように思われます。この映画が一種の覗きの映画であるというのは単なる冗談ではなく、主人公ジェフリーズの視線が特権化されているというまさにその意味において、本質的に覗きの映画なのですね。そのような視線の特権化は、ジェフリーズが骨折して動けないという設定によって強化されており、ラストシーンに至るまでは見る者という特権的な立場から彼は一歩も踏み外すことがなく(というよりも踏み外しようがない)、このような特権的な地位からすべり落ちる可能性のある行動は全て、セルマ・リッター演ずる看護婦や、グレース・ケリー演ずる恋人が彼の手足となって実行します。グレース・ケリー演ずる恋人などは、哀れにも実際に殺人犯に捕まってしまいます。従ってその彼が殺人犯に追い詰められるラストシーンはスリリングであると同時に一種の大きなアイロニーでもあり、特権的な地位に甘んじ続けていた彼がそこから一挙にすべり落ちる瞬間でもあり、それを暗示するかの如く彼は文字通り窓から庭に落下してしまいます。このラストシーンの一連のシーケンスで面白いのは、ジェフリーズはストロボのフラッシュを炊いて目を眩ませ犯人を撃退しようとしている点です。ストロボ攻撃は目を一瞬眩ませ犯人の視線(line of sight)を一時的に切断することにより怯ませることはできても殺人犯の動きや意図そのものを阻止するのには何の役にも立たないことは明白であり、この窮鼠猫を噛むやけっぱちのストロボ攻撃は、身体性が抑圧され、特権化された視線に依存せざるを得ず、外部的な視点からのみ状況に関わらざるを得なかったジェフリーズの特殊な状況を見事に象徴していると考えることができます。因みに、このシーンは見ているオーディエンスまで目が眩まされるように撮られていてなかなか臨場感があり、また身体性の抑圧という点に関しては、彼が石膏のギブスの上から痒いところを必死で掻こうとするシーンに極めて象徴的に表現されています。
 そのようにつらつら考えてみると、ふとこの映画は実は映画についての映画でもあるのではないかということに気が付きます。すなわち、骨折して車椅子に釘付けになり動くことのできないジェフリーズの有する特権化された視線とは、まさに我々オーディエンスが椅子にじっと座って映画を見る時の視線と等価なのではないかという点と、これについてはこれから説明しますが、彼が裏窓を通して裏庭や向いのアパートで繰り広げられる他人の生活を覗き見るその視線の根底には、映画技法で言うところのモンタージュ技法のような編集能力が前提とされているのではないかという点に気が付くことができるのではないかということです。まずタイトルが「裏窓」であり、看板に偽りなく主人公のジェフリーズは窓枠という固定されたフレームを通して常に外の世界を眺めていることに注意しましょう。また、彼は骨折して全く動けない状態にあることはここまで何度も述べた通りです。つまり、「裏窓」の主人公ジェフリーズの置かれている状況は、椅子におとなしく座ったオーディエンスが、スクリーンという一種の窓枠の中で上映されている動画をじっと見つめる映画鑑賞の状況と瓜二つであるものと見なせます。実はヒチコックは、このように映画の中で映画鑑賞様式をメタフォリックに描くというような一種のメタ描写を「裏窓」の他に「めまい」(1958)でも行っています。詳細はそちらのレビューを参照して頂くものとして、簡単にその要点のみここでは記します。「めまい」のハイライトは、キム・ノバク演ずるジュディが、ジェームズ・スチュワート演ずるスコティによって着せ替え人形のように変容させられ最後にマデリンの姿として彼の目前に魔法のように出現するシーンにあります(「めまい」レビューの右端画像を参照して下さい)。主観ビューとして提示されるこのハイライトシーンは、実は映画のストーリーの中でスコティがジュディ=>マデリンを見つめる視線と、「めまい」という映画を見ている我々オーディエンスの視線が見事に一致するシーンでもあります。まさに「めまい」という作品は、このシーンを分水嶺として、それより前は主人公スコティの視線(及び欲望)とこの映画を見るオーディエンスの視線(及び欲望)が除々に同化される様子が、それより後はかくして同化された視線(及び欲望)が再び分離される様子が描かれているとも捉えることができます。この分水嶺となるハイライトシーンは終盤に位置することもあってか、分離ははっと目が覚めるように急激にやってきます。それは彼がジュディ=>マデリンの首にかかっているペンダントに気付くシーンです。このシーンでは、ストーリー中の主人公たるスコティはジュディ=>マデリンという表象に仕掛けられたトリックに気付くのに対して、見ている我々オーディエンスはヒチコックの仕掛けたナラティブトリックに気付くのです。従って、このペンダントシーンでスコティの視線=オーディエンスの視線という同一化が儚くも決定的に分離されることになるのですね。つまりハイライトシーンで、主人公の視線とオーディエンスの視線が究極の一体化を完成する「めまい」においては、映画を鑑賞するとはいかなることであるかが主人公の視線を通じてメタフォリックに示されていると見なすことが可能であり、その意味においてメタ映画的な側面を持っていると考えることができます。我ながらこれだけでは説明不足の感が否めませんが、「裏窓」のレビューで「めまい」に関する記述を延々と続けるわけにもいきませんので詳しくは「めまい」のレビューをご参照下さい。

 さて「めまい」と同様、「裏窓」にも映画に関するメタ描写的側面を持っており、しかもそれは「めまい」ではかなり暗示的に扱われていたとするならば「裏窓」の場合にはより明示的に扱われていると見なせます。「裏窓」のこのような側面を語るにあたってキータームとなるのが、「(主人公が動けないという意味での)不動性」と「窓」です。実はこの2つのキータームを映画メディアと関連させて展開した極めて興味深い映像論があり、以下の議論もかなりそれに依拠するところがあるのでそれをまず紹介しましょう。それは南カリフォルニア大学で映像論を教えるアン・フリードバーグという人によるものです。彼女は、線遠近法の元祖とも呼ばれるアルベルティ(因みに線遠近法の元祖はブラマンテであると云われる場合もあるようであり、また遠くをぼやけさせ近くをはっきりくっきりさせるという空気遠近法に関してはかのダ・ヴィンチ君が元祖だと云われているようですね)から現代のMicrosoft Windowsに至るまでの歴史の中で、フレームとしての窓=Windowが持つ象徴的な役割がどのように変遷したかについて論じた「The Virtual Window」(The MIT Press)という本の中で以下のように述べています。

◎19世紀の終盤より、当時開発され提示されつつあった映画に代表される動くイメージの投影は、観客の不動性及び固定されたフレーム(枠)により仕切られた開口部に依存するようになった。この新しく生み出された動的で仮想的な視覚様式の混合様態は、フレームの内部に限定された動きを目撃する不動の観客に対して仮想的な動作性をもたらした。
(Starting at the end of the nineteenth century, the projection of moving images - the cinema as it was developed and exhibited - relied on the immobility of its spectators and the aperture of a fixed frame. This newly wrought combination of mobile and virtual visualities provided a virtual mobility for immobile spectators, who witnessed movement confined to a frame.


観客の不動性とは文字通り観客が椅子に固定され拘束された様態を指しますが、仮想的な動作性とはどういうことかについては説明が必要でしょう。同書によれば仮想的(virtual)とは「an immaterial proxy for the material(実体(物質)の代わりをなす非実体(非物質)的な代理物)」という意味であり、従って仮想的な動作性(a virtual mobility)とは実体的な動作の代理となる非実体的な動作性の謂いであることになります。フリードバーグの前著「Window Shopping」(University of California Press、本年「ウィンドウ・ショッピング」として松柏社から刊行予定のようです)においても同様な議論が展開されていたのではないかとうろ覚えに覚えていますが、窓のような一定の範囲を区切るフレームは単に視線をそのまま透過させるのではなく、社会的歴史的に条件付けられた一種の象徴交換回路(或いはマーシャル・マクルーハン流に云えば地として無意識下で機能する形態形成的なモーメンタムとでも呼べばよいのか)としても機能するように捉えられており、このような象徴交換回路を通して実体的すなわち肉体物質的とは異なるけれどもその代理となるような仮想的な動作性が得られるということではないかと考えられます。「裏窓」からはややはずれるかもしれませんが、そのように考えてみると、上記引用文は座席に釘付けになった不動であるはずの観客が映画を見る体験を通してなぜ動作性を喚起することができるのかという映画論でよく問われる問い(この問については「円卓の騎士」(1954)のレビューを参照して下さい)に対して1つの重要なヒントを与えてくれるようにも思われます。すなわち映画というメディアの基底には、フレームで区切られた窓であるスクリーンによって作用する象徴交換機能が介在しており、その働きによって仮想的な動作性という代理形態ではあれ動作性が得られるのではないかということです。もう少しフリードバーグの「The Virtual Window」から引用してみましょう。

◎ひとたび投影装置が配置され、フレームに囲まれた平らな表面、すなわち明かりが消された(ウインドウのない)ホールに吊るされたスクリーン、店頭、ボードビル劇場に、動くイメージが投影されるようになると、映画鑑賞アーキテクチャーに関するパラダイムには、見る者の固定された身体姿勢がますます含意されるようになり、仮想的なイメージとのかかわりという新しい習性への余地が開かれるようになった。
(Once projection devices were deployed to cast moving images onto framed flat surfaces, onto screens hung in darkened (windowless) halls, storefronts, or vaudeville theaters, the architectural paradigm for cinema spectatorship implied an increasingly fixed bodily position for the viewer to allow for new habits of engagement with the virtual image.)


◎建築の鑑賞者にとっては、建築の有する物質性が鑑賞者の動きに応じる。映画鑑賞者にとっては、映画経験の非物質性が、鑑賞者の不動性に応じる。それ故、遍歴し逍遥する鑑賞者という肉体的、触覚的、現象学的知覚は、ひとたび遍歴性がフレームによって枠どられるや、全く異なったビジュアルシステムすなわち境界と限界を有する視覚的な「仮想パス」として作用する。
(For the architectural spectator, the materiality of architecture meets the mobility of its viewer; for the film spectator, the immateriality of the film experience meets the immobility of its viewer. Hence, the bodily, haptic, phenomenological perception of an itinerant and peripatetic viewer operates as an entirely different visual system once the itinerary becomes framed, an optical "imaginary path" with boundary and limit.)


分りにくい表現なので簡単に説明すると、要するに映画鑑賞者の不動性と枠どられたスクリーンの内部で展開される動画の持つ非物質性とが相呼応することによって、仮想的なビジュアル領域が新たに切り開かれたということであり、このビジュアル領域では前述した仮想的な動作性が得られるということです。いつものように脱線が脱線を呼ぶ展開になってきましたが、但しこのように述べているにもかかわらずフリードバーグ自身は、仮想的な動作性の中から身体性を全く除外しようと考えているフシがあります。その証拠に、彼女は、1990年代に刊行され図像や映像などのイメージに関するランドマーク的著作と言われ、「円卓の騎士」のレビューでも取り上げたジョナサン・クレーリーの考え方の後半部分すなわち視覚経験における身体性の関与について述べられた部分に対して何度も批判を加えています。しかしながら、個人的な印象としては、実体としての身体性が全く捨象された仮想的な動作性とはそれならば一体何なのかが明確に示されない以上議論のポイント自体が抜け落ちてしまうようにも思われ、また敢えて身体性という概念を捨象しなければならない強い理由があるようにも思えず、恐らくWindowという主題からはずれる余分な要素は不純物として除外したかったということではないかと考えられます。因みに彼女は、視覚経験において身体性が関与するようになるとされる19世紀後半に関するジョナサン・クレーリーの論述に関して証拠不足でありあまりにも性急すぎるという論評を下していますが、素人の私めにはそれが必要にして十分であるのか否かは判断が困難であるとはいえ、セザンヌやスーラなどの絵画によって少なくとも量的には十分な例証が挙げられていたように覚えています。

 しかしながら、身体性うんぬんに関するいずれにしても問題のある議論についてはここではとりあえず脇に置いておいて、ここで確認しておきたいことは映画鑑賞とは、スクリーンという一種の窓枠によって仕切られた固定限定領域に展開される動画イメージを、椅子に固定され動きを限定された観客が見る行為を指すということであり、まさにこのような様態であるからこそ、映画の持つ固有のマジック(水野晴郎氏をして「いやぁ、映画って本当にいいもんですね!」と言わしめるマジック)が十全に発揮されるということです。まさに「裏窓」におけるジェームズ・スチュワート演ずる主人公ジェフリーズが置かれた立場がこのような映画鑑賞の様態に相似することは一目瞭然でしょう。このように考えてみると、面白いことに気が付きます。すなわち、彼が裏窓を通して裏庭や他のアパートの住人を眺める様式は、まさにモンタージュによって編集された映画を見るかのようでもあるということです。たとえば、レイモンド・バー演ずる向いのアパートの住人が、殺人犯であると彼が推測するようになるのは、直接殺人シーンを目撃したからではなく、状況証拠を繋ぎ合わせて判断することによってです。すなわち、それだけでは意味のない個々の要素、たとえば奥さんの姿が寝室に見かけられなくなったり、この怪しげな向いの住人が大きなスーツケースを持って夜中に雨の中を出掛けていく姿を3度も見かけたりというような個別的な要素をあたかもモンタージュであるかの如くに繋げることによって「殺人」という全体的な意味を構成していくのです。いわば彼は探偵小説や探偵映画の名探偵であるかの如く個々の要素を取捨選択し編集し、最終的に1つの統合的なナラティブに繋げ過去に起こったであろうシーンを再現していくのですね。また、この映画の中ではアパートに住む住人達の様子が仕切りに映し出されますが、いかにも都会らしく基本的に彼らの間に深いつながりは全くありません。ところが、そのようなアトム的な個々の住人の生活をたとえば「都会の住人達」のような1つの意味の下に統合していくのは主人公ジェフリーズの目を通すことによってです。この意味においても、彼の職業がカメラマンであることには大きな意味があるのですね。要するにジェフリーズの目から放たれる視線は、個々の住民のバラバラな生活をカメラアイのように捉え、尚且つそれを1つの統合化された意味を持つナラティブとして立ち現れるようモンタージュ編集を行っているということであり、またそのようにして編集されたナラティブを今度は我々オーディエンスが見ているということです。従って、「裏窓」という映画のモンタージュの一部は、同時に主人公ジェフリーズの目を通して編集されるモンタージュと重なることになり、このことからもこの作品が「映画鑑賞に関して言及する映画」というメタ映画的側面を有していることが分ります。そしてまた、ジェフリーズのこのような視線は、カメラのレンズと同様裏窓というフレームによって枠付けられているのです。この固定的に枠付けられた裏窓というフレームがなかったならば、恐らく主人公は殺人事件に気がつくこともなかったであろうし、ミス・ロンリーハートの哀れな哀れなドラマにも気が付かなかったこと必定でしょう。さすがに仮想的なイメージとまで言い切ればそれはやや言い過ぎでしょうが、窓というフレームの持つ構成力がここでは大きな作用を及ぼして、主人公のジェフリーズにそのような人生ドラマや殺人事件を見せしめている言っても過言ではないでしょう。これはまた同時に、「裏窓」という映画をスクリーンという枠を通して見ている我々オーディエンスとパラレルであるとも見なせます。いずれにせよ、個々の生のデータの中には含まれないドラマが構成されるのは、映画であろうが実世界であろうが、1つ高次の段階においてすなわち象徴の世界においてなのであり、それを仮想(virtual)と呼ぶか否かは別として、実を言えばそのような様式が高度化し徹底化されるのは、公的な領域(public)と私的な領域(private)な領域が分離する近世に入ってからであり、ベネディクト・アンダーソンらの唱える想像の共同体としてのナショナリズムは勿論のこと、映画という基本的には娯楽メディアですらその延長線上に位置付けられるとも考えられるでしょう。その意味で言えば、主人公ジェフリーズが徹底的にプライベートな領域に引き篭らざるを得ないのにつれて、それとは逆に仮想的なパブリックな世界が一種の現実として構築され拡がっていくあたりは、そのような実際の歴史の流れとパラレルであると言い切ってしまうと、それはさすがに言い過ぎになるのでしょうか。因みに、このあたりの公的領域、私的領域、仮想領域というような考え方に関しては最近研究が進んでいるようで、現在丁度半分程読んだマ イケル・マッケオンという人の書いた「The Secret History of Domesticity」(The Johns Hopkins University Press)という本もまさにその点がテーマになっているようです(なななんと!本文だけでも700ページ以上ある代物で私めの枕はおろかセンベイ布団よりもブ厚いですね、この本は)。

 かくしてこのレビューにおいては、「裏窓」にはメタ映画的な側面があることを主として述べましたが、勿論それは1つの見方に過ぎず、ミステリースリラーとして普通に見ても面白い作品であることは敢えて指摘するまでもないでしょう。しかも、ユーモアの加減が程よく加えられている点でも、彼の50年代の作品の中では「北北西に進路を取れ」(1959)とともに双璧をなすと云えるでしょう。面白いことに、主人公のジェフリーズは、結婚をするにはまだ準備ができていないなどと言いながら、地に足をつけようとしないキャラクターとして描かれており、最後のシーンで彼が両足とも骨折してしまった様子が映し出されるのは滑稽であると同時に、それような彼のキャラクターに対する神様のいやヒチコック様の究極の罰則であるようにも見えます。ジェームズ・スチュワートは当時既に50才近かったはずですが、確かに主人公の年齢を演ずる俳優の実の年齢とイコールであると見なす必要はないとしても、ロマンスグレーの髪をした彼が「まだ結婚の準備ができていない」などとのたまうのは、かなり滑稽にも見えます。「泥棒成金」(1955)のレビューでも書いたように、個人的には「裏窓」よりは同年製作の「ダイアルMを廻せ!」(1954)の方をよく見ますが、これは私めが会話の密度が高い作品をより好むという聴覚派であるという理由があるからであり、一般的には「裏窓」はヒチコック作品の中でも最高峰の作品であると見なされていると考えても差し支えはないでしょう。

2008/04/17 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp