ダイヤルMを廻せ! ★★★
(Dial M for Murder)

1954 US
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:レイ・ミランド、グレース・ケリー、ロバート・カミングス、ジョン・ウイリアムス



<一口プロット解説>
レイ・ミランド演ずる主人公は、グレース・ケリー演ずる奥方を殺そうとして殺し屋(アンソニー・ドーソン)を雇うが、逆に殺し屋の方が殺され、奥方に殺人の容疑がかかって旦那にとっては渡りに舟の展開になる。
<入間洋のコメント>
 未だにこのタイトルの意味がよく分からないのです。ダイヤルMとは何でしょう。レイ・ミランド演ずる主人公が電話をするシーンで、電話機のダイヤル部分に数字以外にMとかNとか表示されているのは一体何の為でしょうか。昔の電話機には、数字と並んでアルファベット記号が併記されていたのでしょうか。そう言えば、マイケル・ダグラスが主演したリメイク版の邦題はまさに「ダイヤルM」(1998)でしたが、実は原題は「A Perfect Murder」だったので、さすがにあちらでは携帯電話の時代にダイヤルMはなかろうと考えられたということでしょうか。疑問形が連続したように、小生には、これがこの映画の最大のミステリーなのです。
 ということで、本題に入りますが、「ダイヤルMを廻せ!」は、言うまでもなくあのアルフレッド・ヒチコックのミステリー作品であるにもかかわらず、一般的に言われているようにプロット構成的には少し弱い部分があります。1つには、グレース・ケリー演ずるヒロインが正当防衛で殺人を犯す主人公夫妻の部屋の2つの鍵を巡って、あまりにも細かい描写が、あまりにも執拗に繰返されることが挙げられます。子供の頃テレビでこの作品を最初に見た時には、意味が全く分からず、頭に数限りない?マークがニョキニョキと生えてきたことを今でも覚えています。少し油断して会話を聞き漏らすと(或いは字幕を見損なうと)、何が何だかわけが分からなくなります。自分のオツムがポンツクだったということかもしれませんが、同じように最初見た時は展開がよく分からなかった人はかなりいるのではないでしょうか。このような側面も勿論そうですが、「ダイヤルMを廻せ!」のプロット展開に関するより大きな問題点は、偶然の出来事にあまりにも依拠しすぎている点にあります。この作品には、3つの大きな偶然が、それもストーリー展開のかなめの部分に存在しているのです。勿論、1つ目の偶然は論理的に考えれば許容できます。なぜならば、その偶然がまさにストーリーを生み出したと考えればよいからです。けれども、それが3つともなると、殊にミステリー系統の映画では致命的な欠陥であると見なされるのが普通ではないかと思われます。但し、「ダイヤルMを廻せ!」は完全なミステリーと見なすべきではないことも付け加えておくべきでしょう。なぜならば、「刑事コロンボ」のように、ネタは最初から割れており、オーディエンスが頭の中で謎解きに参加することに主眼が置かれているわけではないからです。
 さてそれでは、見たことのある人は気が付いていることと思いますが、「ダイヤルMを廻せ!」の3つの偶然とは何であるかを説明しましょう。1つ目は、かよわいはずのグレース・ケリー演ずる奥方が、大の男を殺すことができたという点です。余計なチャチャを入れさせて頂ければ、首を締められてあのように捩れた体勢で、殺し屋の背中をはさみで突き刺しても、たとえ彼女が男であっても、相手に致命傷を負わせることは不可能なのではないでしょうか。拳銃を小道具として使えばもっと説得的であったかもしれませんが、いずれにせよ、かよわいはずの女性がいかつい顔の殺し屋に不意をつかれたにもかかわらず、襲ってきた殺し屋を返り討ちにできたとは、普通の状況では極めて考えにくく、要するに一般的には偶然の出来事であると見なすべきでしょう。次に、第二点です。それは、殺された殺し屋が、自分が殺されるまさにその部屋の鍵と瓜二つの鍵を持っていたことです。勿論、これについては、鍵など皆似たような形状をしているので、あのような状況で主人公が勘違いをしても、それほど不思議はなかろうと思われるかもしれません。ただ、それは鍵を単品でバラにして裸のままポケットに突っ込んでいた場合に限ってそのように言えるのであり(実際殺し屋はそうしていた)、世間一般ではキーホルダーに束にするとか、何の鍵かすぐ分かるように何らかのしるしをつけるとか工夫するのが普通ではないでしょうか。勿論、小生のように家の鍵を裸でポケットに突っ込んで平気の平左でいる無精者もいるので、あり得ないとまで主張するつもりは毛頭ありませんが、主人公の勘違いが「ダイヤルMを廻せ!」では非常に重要なポイントとなる点を考慮すると、それにしては偶然的な要素が強すぎるのが正直な印象です。最後に、3つ目の偶然ですが、これは事件が解決するラストシーンに関するものです。いわばミステリー映画としてのクライマックスとなるシーンです。このシーンにより、主人公が実は殺し屋を雇って奥方を殺そうとしたことが実証されますが、その実証の成否は、主人公が自分の思い違いに、すなわち自分が雇った殺し屋が持っていた鍵は自分の部屋の鍵ではなく殺し屋自身の部屋の鍵であり、殺し屋は部屋に入る前に自分が渡した鍵を元の隠し場所に戻したのが真相であることに、短時間の内に気付くか否かという点に大きく依存しているのです。この作品のように主人公が聡明で、気が付くことも当然あり得るのは確かですが、一般的には気が付かない場合の方が多いのではないでしょうか。殊に自分が殺そうとした奥方の処刑の期日が迫っているような状況であれば、部屋の鍵が合わないことなどどうでもよいと考える方のが普通であるように思われます。小生が主人公の立場に置かれれば、絶対に気が付かないという妙な自信があります。この点に関しては、リメイクの方では比較的うまく処理されていたようです。というのも、グレース・ケリーの役を演じているグヴィネス・パルトローが、レイ・ミランドの役を演じているマイケル・ダグラスに「まだ鍵が見つからない」と示唆して、罠にかけるように意図的なかまをかけているからです。勿論それでも、ダグラスが勘違いに気が付くのは偶然的であるには違いませんが、こちらの方が状況的には、より説得力があるように見えます。
 ということで、「ダイヤルMを廻せ!」にはプロット構成上相当な弱点があることが理解できたことでしょう。けれども、それにも関わらず個人的には「ダイヤルMを廻せ!」をよく見ます。恐らくヒッチコック作品の中では、「北北西に進路を取れ」(1959)に次いでよく見ているはずです。わざわざ、映画館にもリバイバルを見に行きました。よく見る理由は何かというと、恐らくレイ・ミランドの瀟洒な悪役ぶりが気に入っているからかもしれません。ヒッチコック映画のタイプには2つあって、「見知らぬ乗客」(1951)や「サイコ」(1960)のように純粋にスリラー/ミステリー的要素を際立たせた作品がある一方で、「裏窓」(1954)や「北北西に進路を取れ」(1959)のようにスリラー/ミステリー的要素にコメディ的要素を加味した作品があります。前者では、たとえばロバート・ウォーカーやアンソニー・パーキンスのように実生活でもすこしやばそうな俳優さん達が起用されているのに対し、後者では、ジェームズ・スチュワートやケーリー・グラントのようなソフィスティケートされたイメージを持つ俳優さん達が起用されています。その点で、やや中途半端だったのが「」(1963)です。なぜならば「鳥」は作品としては明らかに前者のタイプに属すのに対して、主演として後者のタイプのロッド・テーラーが起用されているからです。勿論「鳥」の主役は無数の鳥たちであるという言い方もできますが、ロッド・テーラーが主人公であると、どうにも安心感が先に立ってしまうのです。「彼がいればまあ大丈夫だろう」とオーディエンスに思わせる雰囲気がロッド・テーラーにはあるのです。それでは、「ダイヤルMを廻せ!」はどうかと云うと、どちらかと言えばこの作品は後者に属し、レイ・ミランドという俳優さんもジミー・スチュワートやケーリー・グラントのように瀟洒な印象を与える人です。しかも、「ダイヤルMを廻せ!」では悪役をそのようなレイ・ミランドが演じているわけであり、一味も二味も違うひねりがそのようなキャスティングによって作品に加えられているように思われます。また、脇を固めるロバート・カミングスや事件の捜査官を演ずるジョン・ウイリアムス(「スター・ウォーズ」(1977)などで有名な作曲家のジョン・ウイリアムスとは別人です)も、瀟洒な雰囲気を持つ俳優さん達で、このようなキャストを見てもヒッチコックの意図がシリアスなミステリースリラー映画を撮ろうとしたわけではないことが分かります。いずれにしても、「ダイヤルMを廻せ!」のようにプロットを無闇に複雑にしてしまうと、映画全体にインテンシティが必要とされる純粋なミステリースリラーにはなりにくいのは確かであり、それよりももう少し遊び心のある映画が意図されていたのでしょう。リメイクしか見ていない人は、この点注意が必要かもしれません。というのは、リメイクの方では、オリジナルの方にあった瀟洒さが完全に払拭されているからです。
最後に女優さんのページをメインとする立場上、グレース・ケリーに触れないわけにはいかないでしょう。ただ、個人的にはグレース・ケリーにはよく分からないところがあります。確かに非常に均整の取れたビューティフルな女優さんであることは否定のしようはないとはいえ、このように述べるとファンに張り倒されそうですが、どうもそれ以上でも以下でもないようなところがあります。50年代に活躍した他の有名女優さんたち、たとえばデボラ・カー、両ヘップバーン、エリザベス・テーラーラナ・ターナースーザン・ヘイワードなどと比べても今一つ特徴がはっきりと見えてこないのです。「ダイヤルMを廻せ!」でも、レイ・ミランド、ロバート・カミングス、ジョン・ウイリアムス或いは殺し屋役のアンソニー・ドーソンすら自身の持つ特徴をうまく活かしているように見えるのに対し、グレース・ケリーは、今一つ目立たないのです。この点は、彼女をお気に入りだったと伝えられるヒッチコックの他の作品でいえば、たとえば「裏窓」ではセルマ・リッターが、「泥棒成金」(1955)では、名前がよく分からないフランス人女優さんとグレース・ケリーの母親役を演じていたジェシー・ロイス・ランディスの方が、彼女よりも強い印象を残していることにも同様に見て取れます。

2000/09/23 by 雷小僧
(2008/10/13 revised by Hiroshi Iruma)
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