赤い影 ★★☆
(Don't Look Now)

1973 UK/FR/IT
監督:ニコラス・ローグ
出演:ジュリー・クリスティ、ドナルド・サザーランド、ヒラリー・メイソン、マッシモ・セラート

左:ドナルド・サザーランド、右:ジュリー・クリスティ

ダフネ・デュ・モーリアが原作のオカルトスリラーですが、ダフネ・デュ・モーリア原作と言えばあのヒチコックの「」(1963)が思い出されます。但し、一種の猟奇的な連続殺人がマテリアルとして扱われているという点で言えば、同じヒチコックで言えば「鳥」よりもむしろ「サイコ」(1960)に近いような印象もあり、殊にラストシーンのおどろおどろしさでは似たような印象を残します。しかしながら「鳥」や「サイコ」が語り(ナラティブ)のマスターであったヒチコックの作品であるのに対して、「赤い影」は視覚表象イメージに重きを置くニコラス・ローグの作品であり、その点では根本的に大きな相違があります。勿論、どんな監督であれ多かれ少なかれ語りが重視される作品もあれば視覚表象イメージが重視される作品もあり、たとえば語りのマスターヒチコックといえども、50年代以降の作品で言えば「めまい」(1958)などの決定的に視覚表象的なイメージが重視されている作品もあります。とはいえ、ヒチコックの作品は一般的には視覚表象イメージよりも語りに重点が置かれている場合が多く、私めの大好きな「ダイヤルMを廻せ!」(1954)や「北北西に進路を取れ」(1959)などは決定的に語りが重視された作品ですし、視覚表象イメージの比重が大きい「めまい」の場合にしても、最後には全てが語りを通して解決され(すなわち種明かしがされるわけです)、言ってみれば視覚表象イメージが語りの素材の1つとして扱われていることには違いがありません。その点で言えば、何故鳥が人間を襲うのかという語りの面における最も重要なポイントが最後まで解決されず、決して最後まで全てが語り尽くされることのない「鳥」の方が語りの持つ比重はより小さいと言えるかもしれません。とはいえども、鳥という生物の持つ実体性をフルに活用してドラマティックな効果が狙われている「鳥」の場合、たとえばスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968)が持つような徹底的に観念化抽象化された視覚表象イメージが前面に押し出される新しいタイプの作品とは明らかに区別されねばならないと言わねばなりません。一言で言えば、やはりヒチコックは語りとしてのドラマティックな効果を重視する、より古いタイプの監督さんに属するということです。その意味で言えば、同じダフネ・デュ・モーリアが原作であっても新しい世代に属するニコラス・ローグが監督した「赤い影」は、決定的に語りよりも視覚表象イメージが重視されており、この作品は語りという点ではラストシーンを迎えても何も解決はされないのです。勿論そもそも「赤い影」にはオカルト的な要素が含まれているという理由もありますが、そもそもそのような題材が選択された時点で視覚表象イメージ重視という意図が色濃く反映されていたとも言えるわけです。「赤い影」でまず注目すべきは、この作品では監督を務めているニコラス・ローグが撮影を担当していた「華氏451」(1966)の画像を思わせるような無機質的で硬質な映像です。そもそもこの映画の舞台はベニスなのですね。ベニスと言えば、たとえばニコラス・ローグと同様イギリス出身の大監督であるデビッド・リーンが監督をした「旅情」(1955)を見ても分かるように、陽光に溢れ活気に満ち溢れた様子が描かれるのが普通であるのに対して、「赤い影」のベニスは常に曇っていて、ほとんど人が通ることのない空っぽの空間として描かれており、そのイメージは管理社会に支配される暗い未来を描いた「華氏451」の背景となる未来都市のイメージと似ているとさえも言えます。つまりここには南欧の明るい都市=ベニスというほとんどクリーシェ化された従来的イメージとは懸け離れた視覚イメージが提供されており、明らかに従来的な語りのパターンからの逸脱が意図されています。その意味では、この作品の舞台は南欧のベニスよりもたとえば鄙びたスコットランドの田舎町の方が舞台として相応しいようにも思えますが、それではまたぞろ従来的なイメージ、従来的な語りのパターンへ執着することにもなり、まさにベニスが舞台であるからこそ一種の異化効果が生まれるのだとも言えます。また前述したように、「赤い影」では最後まで何も説明されることがありません。たとえば、ドナルド・サザーランド演ずる主人公は何故死んだ赤いケープを着た自分の娘の姿をベニスの街中で見かけるのか(彼は幻影を見ているということなのか、それともほとんど有り得ないことではあれ本当にたまたま連続殺人犯は自分の娘と同じような背丈で同じような服装をしていたということなのか)、或いは何故彼は自分の葬式に参列する人々の姿を未来予知のように見るのか(彼はこの作品に登場する盲目の女性と同じくサイキックなのか)等であり、そもそも「サイコ」とは違って彼を殺害する連続殺人犯は逮捕されることもなければ、その動機が問われることもありません。勿論前述したようにオカルト的要素が含まれているから当然であると言えるかもしれませんが、しかしながら通常オカルト映画にはオカルト映画のロジックがあるのであり、いくらそこで超常現象が扱われているとはいえそこでは語りとしての一貫性は保たれるのが普通ですが、「赤い影」の場合は全てが唐突に推移しそこでは必然性が大きく欠落している印象が強くあります。たとえば、連続殺人犯がたまたま自分の死んだ娘と同様の背丈で同様に赤いケープを着ている可能性はまずないはずですが、それならばドナルド・サザーランド演ずる主人公は自分の娘を亡くした悲嘆から狂気の淵に立っていて幻影を見ているのかというと彼は正気でありそうでもないのです。またそもそも、誰にも何もうらみを買っているわけではない主人公が、最後に連続殺人犯に何の理由もなく殺されるのはどう考えても不思議であり、ホラー映画的にかつて虐待した娘の霊が蘇って復讐を果たしたというわけでもなく、それどころかくだんの盲目のサイキックによれば死んだ娘はハッピーにあの世で暮らしているはずなのですね。「エクソシスト」(1973)でリンダ・ブレアの首がくるーりんと一回転するのは彼女に乗り憑った悪霊のパワーの故であり、「オーメン」(1976)でグレゴリー・ペックとリー・レミック夫妻の周囲で奇怪な現象が起こるのは悪魔の子ダミアンの念力の故であり、それがいかに日常では有り得ないことではあっても、語りとしての説明は明確に背後に存在するのに対して、「赤い影」の場合はそのような語りの説明すら存在しないのです。更に指摘するならば、「赤い影」では語りの進行の補助となるような音楽がほとんど全く付加されていません(但しどうでも良いようなシーンで音楽が流れることはたまにあります)。このように言うと、同じくダフネ・デュ・モーリアが原作で語りのマスターであるヒチコックが監督した「鳥」にも音楽は全く存在しないぞと思われるかもしれませんが、確かにヒチコックの最後の傑作である「鳥」はやや他の彼の作品とは異なる面があるとはいえ、「鳥」と「赤い影」では音楽が存在しないことの意味合いが全く逆であるように思われます。すなわち、前者ではまさしく劇的な効果を得る為に通常は劇的な効果を醸し出すと見なされている音楽が排除されているのに対し(いわばメタ効果が狙われているのであり、実は音楽を付加しないことにより結局究極のドラマティックな音楽が付与されたのと同じ効果がそこでは狙われているということです)、後者では語りの連続性を強化するような音楽が意図的に除外されているのです。つまり、「赤い影」という作品は時間の中で展開される語りによりは、場面場面で提供される視覚表象的イメージにより大きな比重が置かれているのであり、来るべき場面の予兆となるような音楽が付加されることはそもそもそのような意図に全く反することになるが故にそれが極力排除されているように思われるということです。ここで1つ余談ながら付け加えておくと、ここで言う「語り」とは何も実際に人間が話す言葉に限定されるわけではなく、物語的な時間連鎖という要素がその基底に存在すればそれはやはり「語り」の範疇に入るのです。従って、音声の伴なわなかった無声映画の時代には、「語り」よりも視覚表象イメージが重視されていたのかというと全くそうではなく、もの言わぬ画面の背後にも「語り」はきちんと存在していたのであり、セリフが字幕表示されていたことは別としてもだからこそ必須要素として物語的な時間契機を喚起表象するようなピアノ伴奏が傍らで行なわれていたりしたわけです。「語り」よりも視覚表象的イメージが本当に重要視されるようになるには、「語り」を十全に表現することができるような環境が整いそれが全盛を迎えた後までむしろ待たなければならなかったという方がより事実に近いように思われ、ニコラス・ローグはスタンリー・キューブリックなどとともにそのような流れのパイオニア的存在であったと見なすことができるのであり、「赤い影」は「華氏451」や「美しき冒険旅行」(1971)などとともに彼のそのような傾向を最も良く見て取ることができる作品だと言えるのではないでしょうか。イギリス、フランス、イタリア合作ということになっているようですが、主演のドナルド・サーザーランドを除くと(そもそもコミックな印象が強くとてもフォトジェニックとは言えない彼がこの作品の事実上の主演であるのはいささか奇妙ですが、彼は役者としてはロンドンでデビューしていることは念頭に置くべきでしょう)スタッフ/俳優ともどもヨーロッパ出身者をメインとしており、極めてヨーロピアンな雰囲気の色濃い作品であると言えるでしょう。


2007/06/30 by Hiroshi Iruma
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