北北西に進路を取れ ★★★
(North by Northwest)

1959 US
監督:アルフレッド・ヒチコック
出演:ケーリー・グラント、エバ・マリー・セイント、ジェームズ・メイスン、マーチン・ランドー



<一口プロット解説>
ビジネスマンのロジャー(ケーリー・グラント)はキャプランという名前のシークレットエージェントと間違えられてジェームズ・メイソン演じる悪漢どもに誘拐されてしまう。更に辛うじて悪漢の手から逃れ、真相を究明しようとしたロジャーの目の前で殺人が発生し、殺人犯として指名手配されてしまう。
<雷小僧のコメント>
 嬉しいですね。この映画のDVDが手に入るとは!しかもメイキングまで入っていて実に素晴らしいです。昨今のDVDの値段は5000円近くしてあまりにも暴力的なのですが、この映画のDVDならそのくらいしても許せてしまいますね(実際は2000円台でしたが)。何故なら、これからも一生に渡って見続けるであろうことは間違いのないこの映画を、劣化をほぼ心配することのないDVDで見ることが出来るわけであり5000円であろうとそうは高くない気がするからです。この「北北西に進路を取れ」はヒチコックにしてはアクション色の濃い映画であり、まあ確かに今現在使用されている言葉の意味においてこの映画をアクション映画であるとはなかなか言えないかもしれませんが、いずれにしてもアクション色の強い映画で繰返し繰返し見たくなる映画などそうざらにはないことを考えると、如何にこの映画の有する見る者を魅惑するパワーが強いかがわかるかと思います。この映画を見ているといつも思うのですが、何故最近のアクション映画は(少なくとも私目には)繰返して見る気を起こさせないのでしょう。特に90年代以降のアクション映画で繰返し見ているのはただ1本「スピード」(1994)のみであり、あとはほぼ全滅状態です。まあ尤もそれが分かっているから余計に見なくなっているということもあるのかもしれません。思うにその理由の1つは、最近の特にアクション映画は、何回も見られることを意識して製作されていないからであるような気がするのですね。何回も見るにはその映画なりの独自さが必要になるのですが、そういう点よりも1回限りの瞬間的な刺激ばかりに焦点が当たっているとしか思えないものが大半のように私目にはどうしても思えてしまいます。そういうわけで映画間の違いがほとんどないような気がどうしても私目にはするのですね。あまりこういうことを言っていると自分が回顧趣味に走る年寄りのような気がしてくるのでこれ以上は止めておきますが、それを考えると1カ月も見ないでいるとどうしても見たくなるこの映画の魅力はどこにあるのかいつも考えてしまうのですがなかなか回答が見つからないのです。けれどもそれではレビューにならないので、少しこの「北北西に進路を取れ」の魅力について恐らく纏まりがなくなるかもしれませんが自分なりに述べてみたいと思います。
 まずよく言われるように、この映画はケーリー・グラントがジェームズ・メイスン等の悪漢どもから間違ってシークレットエージェントであると思われることからストーリーが開始されるように、間違えられたアイデンティティをその基調としたいわばミステリー/サスペンス映画であるとも言えます。従って、主人公のケーリー・グラントにとっては少なくとも始めの内は自分の全く知らないところで状況が推移するわけであり、たとえて言えばカフカの「審判」のKのような位置に置かれるわけです。また同時に見る側の我々も次はいったいどうなるかが全く予測出来ない不安定な印象を受ける立場に置かれるわけです(この点に関しては後でも述べるようにそういう不安定な印象を与え続けてサスペンス感を維持するのがこの映画の流儀では実はないのですが)。しかしこのようなミステリー/サスペンス要素というのは繰返して見るという観点から見れば諸刃の剣的な側面があるのです。何故ならば、単純に考えれば成行きや結果が分かってしまえば同時にミステリー/サスペンス要素も大幅に減退してしまうことになるからです。凡百の多くのミステリー/サスペンス系映画はまずこの点がクリア出来ないのです。というのは、これらの凡百の映画はミステリー/サスペンス=意外性として観客の裏を如何につくかにのみ主眼を置くからであり、結果が分かった時点で裏など全くなくなってしまうからです。ここでまず注意したいのは、ミステリーとサスペンスの違いです。ミステリーとはたとえばアガサ・クリスティーのミステリーと言うような言い方をするように、一種の謎解き的な要素を指すものと私目は捉えています。従ってミステリーがミステリーとして成立するのは、あくまでもある事象を謎を解くための対象として第三者的観点から見た時なのであり、この立場から見た時には一度謎が解けてしまえば謎(ミステリー)は最早謎(ミステリー)ではなくなってしまうわけです。従ってミステリー的要素というのは確かにその多くを意外性に依存していると言っても間違いではなく、それ故多くのミステリー小説というのはただ1回しか読まれないのが普通であるし、それがある意味でミステリー小説の長所でもあり短所でもあるわけです。それに対してサスペンス要素とは必ずしも意外性或は意外性に対する期待から発生するのではないのです。既に述べたように意外性というのは第三者的観点から見た時に始めて議論の対象となるものであり、一人称的立場に立った場合そこにあるのは、それ(意外な事象)が発生する迄は未来が予測出来ないことに対する不安や期待であり、またそれ(意外な事象)が発生した後ではそれによって受ける驚愕や失望や安堵や歓喜というような感情なのであり、それは第三者的な観察眼的見地からして始めて議論の対象と為り得るような意外性とは全く異なるものなのです。従って、登場人物の不安であるとか期待であるとかいうような内的な心理様態を容易に追体験出来るような呈示のされ方がなされている場合、その映画の一人称的なサスペンス感も増すと言えますし、それは結果が分かってしまったからと言って消失してしまうような種類のものではないのです。
 それではこの「北北西に進路を取れ」においてはどうなのでしょう。実はヒチコックはここで意外なことをするのです。すなわちケーリー・グラントを主演に据えます。何故ケーリー・グラントを主演に据えるのが意外であるかと言うと、ケーリー・グラントという俳優さんは、映画のストーリー展開に関する意外性をなくしてしまうようなタイプの俳優さんだからです。要するにケーリー・グラントが出演していれば、途中で何が発生しようが悲劇的な結末ではなくハッピーエンドで終るであろうということは初めから予想出来てしまうのです。従ってたとえばラシュモア山の麓でケーリー・グラントがエバ・マリー・セイントに空砲で撃たれる時も、確かに観客はそこに意外性を感ずるのかもしれませんが、これは何かのトリックであろうという可能性を心の片隅から完全に消去することは出来ないはずなのです。これが何を示しているかというと、ヒチコックはこの映画にサスペンス要素を加えているとは言え、それは意外性に基いたサスペンスとは違うということです。それどころか、逆説的にもこの映画のサスペンス要素というのは予想不可能性の発生に寄与するどころではなく、常に完全なる予想可能性に収斂されていくのです。というよりもこのように言い換えた方がいいかもしれません。すなわち、この映画はサスペンス的な要素をサスペンス的緊張感を維持する目的で取入れているのでは決してなく、如何にして主演のケーリー・グラントの存在がサスペンス的な状況を予想可能な状況に変えていくかという、そういう側面に対する1つの材料のようなものとして取入れているのです。この映画の最後のシーンなどまさに象徴的であると言ってもいいでしょう。このシーンでは、今まさにがけから落ちんとしているエバ・マリー・セイントを必死で引っ張りあげようとしているケーリー・グラントの姿が、何故か次の瞬間に列車の中でグラントがセイントをベッドに引っ張り上げる姿に変わっているのですが、まさにこれは(ケーリー・グラント的に)完璧に予測可能な世界への予測不能な状況の取込みが完了したことを意味していると言っても言い過ぎにはならないのではないでしょうか。またオークションのシーンでも、ケーリー・グラントが飛んで火に入る夏の虫のごとく、のこのこと悪漢のたむろするオークション会場に出掛けて行き、はて彼の運命やいかにとサスペンス的状況を盛り上げるのですが、その次に来る如何にもケーリー・グラント的な又悪漢演ずるジェームズ・メイスンの言葉を借りればカラフルな脱出シーンで、そのサスペンス感がケーリー・グラント的に軽妙洒脱に料理されていくのを目撃することが出来るわけです。
 ヒチコックのストーリーテリングのうまさというのはまさにこういうところにあって、勿論彼にはたとえば「見知らぬ乗客」(1951)や「サイコ」(1960)のように予測不能性から来るサスペンス感をそのまま維持利用するケースもあるのですが、逆にそういう予想不能なサスペンス感が常に予想可能性へと取込まれていき、そこから発生する一種の緊張解放的な弛緩性をうまく利用しているケースもかなりあり、この「北北西に進路を取れ」は後者の代表的な映画であるように私目には思われます。要するにこの映画を見ている観客は、主人公のケーリー・グラントの内的な世界観(ちょっとこれはオーバーな言い方なのですが)或は生き方に同化することにより自身でも予測不能性が予測可能性へと転換されていくプロセスを追体験することが出来、そこから一種の弛緩性を汲み取ることが出来るわけであり、それは一度でもこの映画を見たならば失われてしまうというような性質のものではないのです。ところで、ヒチコックは前者のようなケースにおいては、たとえば「見知らぬ乗客」のロバート・ウォーカーや「サイコ」のアンソニー・パーキンスのように如何にも何をしでかすかが分からないような風情を有する俳優さんを配置するのに対し、後者のようなケースではこの映画のケーリー・グラントのように結果がどうなるかが最初から予想出来てしまうような俳優さんを起用するのです。余談的に述べればその意味において「鳥」(1963)でロッド・テイラーを主役に持ってきたのは失敗であったのではないかと私目は思っています。何故ならば「鳥」という映画は前者のタイプに属する映画であるにもかかわらず、ケーリー・グラント的なタイプの役者さんであるロッド・テイラーが起用されているからです。ところで、「北北西に進路を取れ」のDVDバージョンの中に収録されているメイキングの中で、シナリオライターのアーネスト・レーマンはヒチコックは子供の頃に感じていた恐怖であるとか不安であるとかを映像化するのが実にうまかったというような主旨のことを述べていますが、それはどちらかといえばたとえば「見知らぬ乗客」や「サイコ」のような映画にあて嵌まることであり、この映画ではむしろそういう恐怖感や不安感がうまく料理され囲い込まれていく様子が巧みに映像化されていると言った方がいいように思われます。
 さて勿論、冒頭でも述べたようにこの映画にはその他にも危機一発的なアクション性もあり、たとえばケーリー・グラントがだだっ広い平原で農薬散布用の飛行機から銃撃されるシーンであるとか、ラシュモア山で彼とエバ・マリー・セイントがジェームズ・メイスンやマーチン・ランドーに追われ岩に刻まれた大統領の彫像を伝って逃げるシーンなどがそうです。但しこの映画の場合、こういうアクションシーンを見せて大向こうを唸らせるのが目的ではなく、またケーリー・グラントはヒーローではないので、常に危機一発的なシーンは、たとえばブルース・ウイリスやスティーブン・セガール主演の映画のように主人公のヒロイックなアクションで解決されるわけでは決してなく、たとえば銃撃している飛行機の方が勝手にタンクローリーに突っ込んだり、後から駆けつけてきた警官隊の銃撃によって悪漢が倒されたりして解決されるわけです。私目が子供の頃にテレビで初めてこの映画を見た時、最後のシーンで崖にくらいついているケーリー・グラントをマーチン・ランドーが蹴落とそうとするその瞬間にランドーが警官隊に銃撃されるのは随分と都合がいいことであるなと思ったものでしたが、この映画はそういう(すなわちアクションヒーロー的な)映画ではないのですね。確かに「北北西に進路を取れ」はヒチコック映画にしてはアクション色が強いのですが、今日のアクション映画がそうであるようなアクションヒーロー映画では全くないのです。アクションヒーロー映画とはどういうことであるかと言うと、ヒーローがアクションを誇示するアクションによるアクションの為の映画であり、実はこのタイプの映画は70年代を過ぎてから出現し始めたと言ってもいいのではないでしょうか(ブルース・リー映画がその走りでしょうか)。さらに又、ケーリー・グラント+エバ・マリー・セイントのロマンスという側面もあり、いわばエンターテインメント性が非常に高い映画であると言えるように思います。冒頭でも述べたように何故この映画は少なくとも私目をして何度も何度も繰返し見たい気にさせるのかを正確に述べることは今のところ不可能なのですが、1つにはこうした色々な要素(サスペンス要素、アクション要素、ロマンス要素、またコメディ要素すらあります)がうまくバランスよく統合されていて、しかもヒチコックの他の「サイコ」のような作品とは違って予測不可能性から予測可能性へ常に収斂していくその展開が実に心地よく、要するに恐怖感や不安感そのものではなくそれらの除去或は囲い込みが主眼となっているが故に比較的馴染み易いという点が挙げられるのではないかと思います。
 それから映画の内容とは全く関係ないのですが、この作品は是非ともDVDで見ることをお薦めします。というのは、以前テレビやビデオでこの映画を見ていた頃は、たとえば有名な最後のラシュモア山のシーンなどでも一般に評されている程の迫力はないなと思っていたのですが、この映画をリバイバルで映画館で見た時、その印象は全く間違っていたことに初めて気が付きました。すなわち、この映画は小さな画面でしかも不鮮明な画像で見るとその良さが大きく失われてしまうような類の映画なのですね。勿論DVDで見たからと言って画面が大きくなるわけではありませんが、少なくとも鮮明なDVDの画像で見た時、映画館で見た時の迫力はかなり残っているような印象があります。またDVDに収録されているメイキングが実に素晴らしい。この映画の主演の一人で今尚時々映画に顔を見せるエバ・マリー・セイントのガイドとまたシナリオ担当のアーネスト・レーマンのインタビューなどで撮影時の状況が実にビビッドに伝わってくる優れものです。しかしそれにしても、エバ・マリー・セイントという人は、昔の面影を残したままエレガントに年を取ったものだなと思わず感心してしまいました。どちらかというと若い頃(と言ってもこの人の映画デビューは30才で女優さんとしてはかなり遅いのですが)の彼女よりも40才過ぎ当たりの彼女の方が私目は好きなのですが、それは何故かというとこの人の持つエレガントさというのはある程度年を取ってからの方が引き立つタイプのものであるように私目には思われるからであり、勿論顔はもう皺だらけのお婆ちゃんなのですが、未だにまだその気品と面影を残しているのには一種の感動的なものすらありますね。それからこの映画には、あってはならないミスがあるということを確かどこかで聞いていてそれが何であるか分からないでいたのですが、このDVDのメイキングを見てこれかなというものが分かりました。それは是非ともこのDVDを買う又はレンタルして確かめてみて下さい。

2001/04/28 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp