スリルのすべて ★☆☆
(The Thrill of It All)

1963 US
監督:ノーマン・ジュイソン
出演:ドリス・デイ、ジェームズ・ガーナー、エドワード・アンドリュース、アーレン・フランシス



<一口プロット解説>
どこにでもいる普通のハウスワイフ(ドリス・デイ)がひょんなことからTVコマーシャルの人気者になるが、それを快く思わない旦那(ジェームズ・ガーナー)との間ですったもんだが起きる。
<入間洋のコメント>
 小生は、歴史は繰り返すという考え方を信奉していて、たとえばかつて本職としていたIT産業に関連しても、コンピュータの歴史は、建築の歴史の凝縮された繰り返しであると考えている。この点についてここで詳述するつもりは毛頭ないが、コンピュータが人々に利用されるレベルとは、建築が人々に利用されるレベルにますます近付きつつあり、たとえばコンピュータ業界の昨今の大きな話題であるWEBサービスやユビキタスコンピューティングのような分散サービスの考え方は、そのような傾向が現実にも色濃く反映されつつあることを証明している。それと同様に、映画に関しても文学、音楽等の他の芸術分野の凝縮された繰り返しであるように考えていて、音楽に喩えれば1940年代以前の極めてフォーマルな印象の強い映画は古典派音楽、フォーマルな印象を脱してかなり自由な表現が前面に現れるようになった1950年代、1960年代の映画はロマン派音楽、無調的な響きが聞こえ始めた1970年代の映画は近代音楽、分裂した表現や不協和音的な表現(たとえばわざと不快な印象を与えるような表現)が目立つようになる1980年代以降の映画は現代音楽に喩えられると考えている。

 「イヴの総て」(1950)のレビューでも少し触れたが、そのような流れの中で映画におけるロマン派的傾向が徐々に開花し始めるのが1940年代後半である。それに関してエポックメイキングな位置を占める作品がジョセフ・L・マンキーウイッツのたとえば「幽霊と未亡人」(1947)や「三人の妻への手紙」(1949)であり、1950年代に入るとロマン派的傾向が主流を占めるようになる。それとともに進行するのが、映画スターの持つ性質の変化であり、それまでは雲上の存在であった映画スターがだんだんと地上に向かって引き降ろされ庶民的レベルに近付くようになる。さすがに1950年代はそれ以前の時代の名残もあり、たとえばデボラ・カーグレース・ケリーのようなすぐ傍に立っていたとしても気軽に「Hello! How are you?」などとは間違っても言えない雲上人的な女優も活躍しており、ある意味でマリリン・モンローなどもタイプは異なるとはいえども庶民的という言い方は到底当て嵌まらない。それでは、このような庶民化傾向を具現化した最初のビッグスターは誰であったかと言うと、それはドリス・デイであったと個人的には考えている。本来彼女は歌手出身であるという事情もあったかもしれないが、従来的な映画スターという観念にそれ程彼女自身固執してはいなかったように見受けられ、馴染み易さを全身に滲ませながら映画に出演し始めた最初のビッグスターが彼女であったと考えられる。一言で言えば、新しい時代が生み出した新しいタイプの最初のスターがドリス・デイであったと言うことである。

 そのドリス・デイが主演しているのが「スリルのすべて」であり、彼女の庶民派的パーソナリティが他の彼女のどの出演作よりも見事に体現されているのがこの作品である。この映画で彼女は、テレビコマーシャルに出演して突如有名人になるハウスワイフを演じているが、有名になる理由がふるっていて、生コマーシャルの途中で吃ってしまい、それが視聴者にとっていかにも素人的で新鮮に見えたからである。これはいかにもドリス・デイ自身を象徴しているように思われる。勿論それによって言いたいことは、彼女の演技が素人のようだということではなく、彼女のスターとしての存在そのものがオーディエンスに対する親近感に大きく依拠していたということがこのシーンによって見事に示唆されているということである。かくして、オーディエンスとの距離感を可能な限り小さくしようとしていたのがドリス・デイだったのである。他の例を挙げると、「スリルのすべて」と同年に製作され、同様にドリス・デイとジェームズ・ガーナーが主演したロマンティックコメディ「女房は生きていた」(1963)で、ドリス・デイはトマトがつまった樽にお尻からはまってしまったり、洗車場で泡まみれになりながら車と一緒に洗浄されてしまったりするが、そのようなシーンを平然と演ずることが出来たのは、雲上人的映画スターというイメージが彼女の頭の中には全くなかったからこそであろう。実はこの「女房は生きていた」は前年に帰らぬ人となってしまったマリリン・モンローが主演する予定であったそうだが、恐らく脚本はドリス・デイ用に書き換えられたのではなかろうか。何故ならば、モンローが泡だらけになるようなシーンはどうにも考えられないからである。

 次にこの映画のもう一人の主演であるジェームズ・ガーナーに触れないわけにはいかない。何故ならば、これを書いている現在でも現役の彼は男優版ドリス・デイとでも言えるような俳優であり、1950年代以前のスターが持っていたオーラとはおよそ無縁なスターだからである。1950年代以前のスターがオーラで輝くとすれば、ジェームズ・ガーナーは自らがブラックホールになることによって廻りを引き立たせるようなタイプの俳優である。大袈裟に言えばコンテンポラリーな映画に出演していても「ジェームズ・ガーナー?そう言えば考えてみればそんな俳優がいたね」、そのように言われるのが彼の存在の本質であるように思われる。しかしながら、ドリス・デイの場合と同様誤解してならないことは、だから彼が素人的であったということでは全くなく、逆に素人は絶対に彼のような存在にはなれない。何故ならば、「庶民的」且つスターであることは、ある意味で自らの持つオーラで輝くこと以上に難しいことだからである。「スリルのすべて」においてにしろ「女房は生きていた」においてにしろ、ジェームズ・ガーナーはドリス・デイのバックグラウンド的な存在であり彼女の引き立て役に徹しているが、その点がドリス・デイのもう一人のパートナーであったロック・ハドソンと彼が決定的に違うところである。ロック・ハドソンは、ジェームズ・ガーナーとは異なり、昔のスーパースターのオーラとカリスマ性を残していた俳優の一人であり、ドリス・デイとの共演作でも常に男性至上主義的な主導権を彼の方が一方的に握っていた。すなわち彼は「俺がロック・ハドソンだ!」という自らのオーラで映画の向かうべき方向を導くタイプの俳優であったということである。このようなロック・ハドソンと全く対照的なジェームズ・ガーナーの特徴が見事に凝縮されているシーンが「スリルのすべて」にはある。それは、彼が演ずる産婦人科医が、自分よりもドリス・デイ演ずる奥さんの方が稼ぎが良いということを知った時に取る奇妙な行動であり、そこで彼は何と、浮気をしているフリをする。しかもご丁寧なことに、浮気をしていることを奥さんにわざと気付かせるようにした上で、彼女が気付いていることに自分が気付いていないような素振りをしながら浮気をしているように見せかける。最初にこのシーンを見た時、何が起こっているのか良く分からなかった程摩訶不思議なシーンだが、要するに一家の経済を支えるあるじとしての自分の男性的な価値が危殆に瀕したために、男性的であると世間一般で考えられている別な価値(浮気は男の甲斐性であるというような男性至上主義的価値)によって自分の奥さんに対抗する為にそのような恐ろしく回りくどいことをしているのである。裏を返せば、わざわざそのような行動を取らなければならないということは、もともと彼自身が演じているパーソナリティが男性至上主義的な価値とは無縁であったことが示されていることにもなる。従って、ロック・ハドソンが主演していれば、このようなシーンは論理的に存在不能であったはずである。何故ならば、彼が主演していれば、浮気はストレートに実行すれば良いだけであり、フリをする必要などどこにもないからである。このようなシーンを見ていても、ジェームズ・ガーナーが実は一種の鏡としてネガティブな仕方で機能していることが分かる。すなわち、彼が演ずるキャラクターは、ドリス・デイ演ずるキャラクターのリアクションとして存在しており、自らのポジティブなパワーによってストーリーを牽引しているのではないということであり、その点において彼は全く新しいタイプの俳優であったということである。彼のそのようなスタンスは「スリルのすべて」の40年後に製作された最新の出演作「きみに読む物語」(2004)でも全く変わっておらず最早脱帽するしかないだろう。

 ここまでは主演俳優について専ら述べてきたが、新しさという点に関しては監督にも言及しておく必要があろう。何故ならば、この映画の監督であるノーマン・ジュイソンはジェームズ・ガーナー同様21世紀になっても現役であるが、1960年代の前半においては全く新しい監督であったからである。すなわち映画を製作するにあたって過去の映画や映画スターに関するイメージを彼はそれ程大きく引きずってはいなかったのではないかと考えられる。そのことは、ジュイソンがコメディ以外始めて監督した「シンシナティ・キッド」(1965)というドラマ映画があるが、このタイトルのDVDに収録されている音声解説での彼自身の言葉によっても見事に裏付けられている。「シンシナティ・キッド」はスティーブ・マックイーン演ずる主人公がエドワード・G・ロビンソン演ずる賭博師にポーカーの勝負で破れ、のみならず彼にいつも道端でチャレンジしては破れていた少年にも始めて負かされ最後に残った硬貨まで失ってしまった後、以前のシーンで喧嘩別れしたはずのチューズデイ・ウエルド演ずる娘が彼を迎え慰めるシーンで終わる。しかし、彼は音声解説の中でこのウエルドがマックイーンを慰めるラストシーン(因みにこのシーンはVHSバージョンではカットされているようである)は彼の意思とは無関係にスタジオ側の要求で付け加えられたものであり、自分では全くこの映画にはふさわしくないと考えていたことを明かしており、そのような無駄なシーンが付け加えられていることに対して申し訳ないとすら述べている。すなわち、スタジオ側は明らかに当時既にビッグスターとしてその名を確立していたマックイーンが全てを失うなどとは彼が演ずる役の中においてであるにしろ全く妥当なことではないと考えていたのに対して、ジュイソンの方ではそのような既成の概念とは全く無縁であったことが彼のそのような言によって明瞭になる。また、彼が「スリルのすべて」の翌年に撮った映画に、ロック・ハドソンとドリス・デイのコンビによるロマンティックコメディ「花は贈らないで」(1964)があるが、このコンビによる映画の中ではロック・ハドソンが一番ジェームズ・ガーナー的な位置に近付く映画である。ロック・ハドソン演ずる主人公は、いつも自分の健康状態を気にしていて、医師の診断を誤解し自分はもうすぐ死ぬと思い込んでしまう。すなわち、自分が状況を作るような役どころではなく、状況が常に自分を支配するような役どころを演じている。しかもこの映画では、独身貴族を演ずることが多かった当時のロック・ハドソンとしては非常に珍しいことに、子供を引き連れているといことはさすがにないとしても、マイホームパパ的な役割を演じているのが実に驚きである。ロック・ハドソンのような俳優ですら徐々にそのような役を演ずる必要が生じてきたということであり、そのような時代の到来によって、オーディエンスから見れば雲上人のような存在であったかつてのスターはそれ程必要ではなくなってきたということにもなる。時代や文化は常に変化していることがこのような点からも透けて見えるところが実に興味深い。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2003/09/06 by 雷小僧
(2008/10/16 revised by Hiroshi Iruma)
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