イヴの総て ★★★
(All About Eve)

1950 US
監督:ジョゼフ・L・マンキーウイッツ
出演:アン・バクスター、ベティ・デービス、ジョージ・サンダース、セレステ・ホルム


<一口プロット解説>
演劇界のスターになることを目指すイヴ(アン・バクスター)は、現在そのスターの地位にいるマーゴ(ベティ・デービス)にうまく取り入り、あらゆる手管を弄してその目標を実現しようとする。
<雷小僧のコメント>
最近私目が住んでいるマンションの隣に大きな映画館がオープンしたこともあって、再び頻繁に映画館で映画を見るようになったのですが、感ずることの1つに最近の映画は昔の映画と比べてみると鑑賞の仕方という点においては同じ映画という言葉で表されてはいても実際は全く異なったものと捉える方が正解なのではないかということがあります。これは別に今の映画の方が昔の映画よりも優れている或はその逆であるというようなことが言いたいわけでは全くなく、映画を見る側の見方そのものに関して昔と今とではかなり違ったものが要求されているのではないかという気が強くするのです。私目が初めて映画館で映画を見たのは1970年代前半なのですが、その頃と比較したとしても現在の映画は要求されているものが少しく違うなという印象があります。言わば1980年代を過渡期としてその前後で映画の鑑賞の仕方というものが変わってしまったのではないかということです。具体的に言うと、現在の映画は如何にすれば臨場効果がマキシマムになるかに第一の焦点があり、極端な言い方をすればその映画の場面場面に参加しているような印象を観客自身に与えることが最重要視されているのではないかと思われるのに対し、以前の映画においては外部的な立場からスクリーン上で描写されているシーンを見る或は聞くというような見方を越えることは技術的に言っても望むべくもなかったと言えるように思われます。これは、ある意味で映画鑑賞の仕方が観察型から体験型へ変化してきたことを意味しているように思いますが、観察型であらざるを得なかった70年代以前の映画の1つのチャンピオンとしてマンキーウイッツの映画をここで取り上げてみました。尚、「イヴの総て」を一応はタイトルとして挙げていますが、その他のマンキーウイッツの映画も例として挙げてみたいと思います。
「イヴの総て」に関してまず第一に言わなければならないのは、パフォーマンスの素晴らしさです。これに関しては恐らくこの映画に関するどんなレビューにも書かれていることなので詳細は述べませんが、名のある俳優さんの中で???がつく演技をしているのはモンローちゃんくらいでしょう(特にオスカーを受賞したジョージ・サンダースと一緒にいれば陰が薄くなるというか存在がほとんど消失してしまうのはいた仕方のないところかもしれません)。マンキーウイッツの映画には室内シーンが大部分を占めるものが多いのでどうしても演劇的な雰囲気が全体的に濃厚になるのですが(というよりもマンキーウイッツの映画の特質が演劇的であるので室内シーンが多いというべきでしょうね)、そうなってくると役者さんのパフォーマンスというのは映画の成否に関して死活問題になります。ある意味で演劇というのはまあ実験的な前衛演劇を除くとすれば、まさに観察型の娯楽の典型であるわけであり、そもそも参加型の前衛演劇が前衛であると見做されるのも、演劇のそういう観察的であるという特質がよく表われているのではないかと思います。そういう意味においても演劇的な要素の非常に強いマンキーウイッツの映画は、この頃の映画の最も典型的な型を表現していたのではないかと思われます。それから演劇的と言われる要因の一つとして、会話の比重が極めて大きいということがあります。マンキーウイッツの映画には、この会話という側面に関して非常に魅力的なものがあります。それは、会話の内容に関してというよりも(それも勿論ありますが)その流麗なテンポという側面においてです。ところでこの会話のテンポに関して論じるのは実は日本という土壌においては極めて難しいのですね。何故ならば、会話が主体となる映画や演劇やTVドラマに日本語程向かない言語はないのではないかと思われるからです。これには1つ言語学的というか発声学的根拠があります。すなわち、日本語はあらゆる音素が母音と子音から構成されますが(但し「ん」は例外です)、こういう言語は聞くところによると日本語とポリネシアの一部の地域にしか存在しないそうです。全ての音素が母音と子音から構成されていると、話される言葉は抑揚の少ない非常に平板なものになります。よく外人が日本語を話すと妙な抑揚がついていたりするのですが、これは日本人が抑揚の強い言語をしゃべるのが苦手なのと同じ程度にあちらの人々も抑揚の少ない或は全くない日本語をしゃべるのが苦手であることを示しています。実をいえばあちらのドラマや映画を見ていて気がつくのが、この会話の抑揚を利用した独自なリズムの存在です。それに対して殊にあちらのそういう映画を見たあとで日本のテレビドラマをちょろっと眺めていると会話がいかにも滑稽で不自然なのにいやでも気が付かされるのです(尤もTVなどほとんど見ないのですが)。それは話されている内容という意味においてではなくて、そもそも日本語自体がドラマに全くフィットしていないということです。日本の伝統芸能の歌舞伎や能がああいう発声をするのも恐らくそのような日本語の特質(平板さ、抑揚のなさ)を生かすためのものなのではなかったのかという気さえしてきます。ところで、洋画は吹替えでもいいだの字幕でなければだめだとかいうような議論をよく見かけますが、私目のこれに関する見解を言わせて貰えれば、(勿論外国語をそのまま聞くのがベストなのは当然なのですが、それが無理ならば)この理由により殊に会話が主体になる映画に関してはやはり字幕で見るべきだと思います(ただアクション映画などはどちらでもよいような気もします)。たとえば、この「イヴの総て」などは絶対に吹替えで見てはいけない方の口に入ります。何故ならば、このタイプの映画を一般的にはドラマに全くフィットしない日本語で吹替えてしまうと大きなエッセンスが抜け落ちてしまうからです。具体的に言うと、このマンキーウイッツの映画はジョージ・サンダースのモノローグから始まるのですが、このモノローグが実に素晴らしく、私目などはこの冒頭の部分でコロリとこの映画の流れに乗せられてしまうのですね。何よりもジョージ・サンダースの声の質が素晴らしいのと、英語の持つ流麗なテンポがこの映画の波長に見る者をうまく乗せてしまうわけです。こういう点はマンキーウイッツは実に巧妙で、たとえば「三人の妻への手紙」(1948)ではポール・ダグラスというご面相には???が付いても声の質の実に素晴らしい舞台俳優を起用したり、又三人の妻へ手紙を送った一度も映画に顔を見せることのない女性(実は「イヴの総て」にも出演しているセレステ・ホルムが声だけ出演しています)の手紙を読むモノローグを挿入したりしています。そのようにして、人間の発声を通して映画のペースを作ってしまううまさという面ではマンキーウイッツは実にうまかったと言えます。
それからマンキーウイッツは特異な空間感覚と時間感覚を持っていたように思います。まず空間感覚に関してですが、マンキーウイッツの映画の室内シーンというのはいつも独特なレイアウトがなされています。一言で言うと、彼は室内をどちらかというとかなりパブリックな空間として扱っていることが多いのですね。まず、マンキーウイッツの映画においては応接間でのシーンが多いのですが、一般的な映画で扱われている応接間よりもかなり広目なのです。建築家のクリストファー・アレクサンダーに言わせると部屋の広さや天井の高さというのはその部屋の持つ公共性の高さに比例すべきであるということなのですが、まさにこの説はマンキーウイッツの室内空間の公共性の高さを示しているように思われます。また壁には必要以上に多量の絵や写真が飾られていることが多いのですが、それらの絵はたとえばご先祖様の絵であるとか家族の写真であるとかいうようなプライベートなものでは全くなく、風景画であるとかいかにも美術館に飾られてあるような絵ばかりなのです。すなわち、そういう絵というのは来訪者に見せる為の絵であって、それらの絵が飾られている部屋というのは決してプライベートルームではないということがあたかも示唆されているかのようです。それから、彼の映画の室内シーンでは必ずといっていい程2階に通じる階段(それもゆったりした広目の階段であり且つやや螺旋的でもあります)がレイアウトされているのですが、これも公的空間から私的空間への境界域を示唆する為にわざわざ配置されているのではないかとすら思われます。簡潔に言えば、その階段の手前にある空間はパブリックな空間ですよということが暗に示唆されているように思われるということです。前出のアレクサンダーによれば、こういうパブリックな領域からプライベートな領域への境界的な移行空間は我々が生活する上で非常に重要なものなのであり、通常はたとえば庭などがそれに当たりますがマンキーウイッツの場合は室内にそれがあるのです。かくして、マンキーウイッツの室内空間というのは我々が通常考えているようなプライベートな空間としてではなく、実は相当にパブリックな空間として扱われていることが分かるように思います。従って彼のドラマというのは個人的でプライベートな且つ私小説的なドラマではないということが同時に分かります。「イヴの総て」は、以前レビューした「探偵スルース」(1972)同様、個人的なエゴや虚栄心、虚偽ひいては社会性の欠如にそのテーマがありますが、実は逆説的なことを言えば社会性(パブリックであること)という見地から見た場合にその欠如がどういうものであるか或はその結果が社会的にどういうことであるかが問題になっているのであり、ポジティブなものであれネガティブなものであれ単に私小説的な個人の成長やその阻害にのみその焦点があるわけではないのです。
さて次は時間感覚に関してですが、マンキーウイッツは発生する諸々のイベントを時間的に奇妙な配置をすることがよくあります。この「イヴの総て」に関して言えば、単にフラッシュバックが使用されているだけなのですが、それだけでも時間的な構成に関してはフラットではないということが分かります。それから前出した「三人の妻への手紙」ではもう少し複雑なフラッシュバック、フラッシュフォワードが使用されています。この映画は三組の夫婦がメイン登場人物なのですが、その三組のそれぞれの妻が回想を行うシーンが3回フラッシュバックされます。更にマンキーウイッツは、それぞれの妻の回想シーンに関してフォアグラウンドにその妻と旦那をバックグラウンドに他の2組の夫婦を配置するという複雑な構成を取ります。従って図式的には3組の夫婦それぞれがフォアグラウンドで1回バックグラウンドで2回(尤も必ずしも全ての夫婦が全ての回想シーンに登場しているわけではありませんが)登場することになるわけです。それからこれは長いこと見ていないのでうろ覚えなのすが、「裸足の伯爵夫人」(1954)では、全く同じシーンについて、あるイベントに関してはAという人物がフォアグラウンドで登場しBという人物がバックグラウンドで登場するのですが、その後展開するそれとは別のイベント(その後というのは映画経過時間中でのその後という意味で、実際には時間的に溯って別のイベントが開始されるのです)の描写においてはこの関係が逆になるような複雑な時間構成が施されていたように覚えています。また前段でも述べたモノローグの使用というのも、これはある意味においてフラットな時間構成を破って別の視点をその映画に持ち込むことを意味するものと考えてもよいように思います。それでは何故そういうことをするのでしょうか。その回答の1つは、非常に複雑且つ輻湊的なマクロ視点を導入することにその意図があるのではないかと思われます。分かり易い例を挙げてみましょう。近作「タイタニック」(1997)では、タイタニック号遭難で生き残ったケイト・ウインスレットが回想するシーンから映画が始まります。要するに映画全体がケイト・ウインスレットの視点から見たフラッシュバックという構成を取っています。何故わざわざそういう構成を取るのでしょうか。ただタイタニックが沈没するシーンだけでも十分なのではないでしょうか。そういう構成を取った1つの意図は、恐らくタイタニックの沈没というイベントに直接参与しない視点をもう1つクリエート(もう1つとはタイタニック沈没に直接参与するデュカプリ君や当時のウインスレットの視点以外にということです)することによって、このイベントに違った視点を与えようとしたのではないかということです。もしこの視点がなかった場合には、この映画自体がタイタニック号遭難という歴史的イベントのリクリエート及びその体験のリクリエートというだけに留まってしまうことになります。これに対して(我々観客も生き且つ生活している)現在からのフラッシュバックというディメンジョンを追加することにより、単なる過ぎ去った過去の遭難の物語としてだけではなく一種のノスタルジックなマクロ的な次元を付け加えることにより現在の我々にとってもこの事件はまだ過去の彼方に死んでしまった単なる歴史的記述なのではないということが示されているように思われます。英語の文法でたとえて言うならば、タイタニック号沈没という事件を単なる過去型としてではなくて現在完了型として語ろうとしているのではないかということです。或はベルグソン的な言い方を借りると、タイタニック遭難というイベントがこの映画を見た観客にとっても現在の生きられた経験として感じられるような配慮がなされているのではないかということです(実際まだこの事件の生存者の何名かは生きておられるようですし)。というわけでこの「タイタニック」の例は1つの例であって「イヴの総て」のフラッシュバックもそれと同じことが意図されているというつもりは毛頭ありませんが、フラッシュバックという手法及びジョージ・サンダースのモノローグを導入することにより、当のイベントとは一歩離れた視点を映画自体に持込み単なるフラットな語りを越えた効果を齎そうとする点においては意図的には同様であるように思います。補足的に付け加えておきますと、丁度これとは逆のことをしながら効果的には似たような結果が逆説的にも得られている例があります。それは、たとえば「真昼の決闘」(1952)などで見られる完全リアルタイムの劇の進行という手法です。これを導入すると、その映画を見る観客の視点と映画自身が持つ視点の擬似的な一致が齎され妙に無時間的というか無歴史的な印象が際立たされるような効果が得られるのですね。いずれにしても、マンキーウイッツの映画においてはそのようなマクロ的な効果を得ようという意図が分かるものがかなりあります。
というわけで長くなってきましたが、マンキーウイッツの映画というのは私目には非常に興味がありますので、このレビューでも挙げた「三人の妻への手紙」、「イヴの総て」、「探偵スルース」等は繰り返し繰り返しよく見ています。またロマンティックコメディとしてちょっと風変わりに面白い「幽霊と未亡人」(1947)やそれとは逆にかなり陰惨なのですがパワーハウスパフォーマンスが実に素晴らしい「去年の夏突然に」(1959)等面白いものが色々あります。けれども、彼の映画というのは現在の体験的な映画を見慣れた人にとっては他の古い映画と比べた場合でもあまり面白くないように思われる可能性があるのではないかと思われます。というのも今まで述べてきたような多様な要素(捜せばまだまだいくらでもあるのではないかと思います)が統合されて初めて彼の映画の良さが出てくるように思われるからであり、体験的な効果というものが直接且つ即時的且つ直感的に得られるような昨今の映画とはかなり趣きが異なっているからです。こう述べたからと言って昨今の映画がマンキーウイッツのそれと比較して良くないと言っているわけでは全くなく、体験様式が大きく異なる昔の映画と今の映画を比較することが既にどだい不可能なのです。ここで私目が述べたいのは、一方の見方だけで他方の存在を無視するのは余りにも勿体無いわけであり、マンキーウイッツの映画のような素晴らしい作品が、たとえば迫力が全然ないじゃんなどと切り捨てられてしまうのは、どえらい損失になるでしょうということが言いたいわけです。それから最後に付け加えておきますと、アン・バクスターの悪女は、どちらかというと可愛らしい顔付きをした彼女になかなかピタリとマッチしています。この人は有名な建築家フランク・ロイド・ライトの孫娘なのですがゾクゾクしますね。殊にセレステ・ホルム(私目はこの人もなかなか好きなのですが)とのシーンで最初は泣き落としをしながら途中で目付きをガラリと変えて脅迫(英語では何故かブラックメイルといいますね)に転じる当たりはおもわず背筋がゾクゾクゾクゾクとしてきました。

2000/12/24 by 雷小僧
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